至って古新聞ですが、新聞のスクラップを3件、上げておきます。
福原伸次氏(元通産次官)・私の履歴書3回・2020年12月3日日経新聞
「1932年3月8日に・・・生まれた。・・・父は鉄道省に勤め、・・・」
「小学3年生の夏休みをはさんで、中国に2ヶ月くらい旅行する機会があった。父はその頃、北京の華北交通株式会社に出向していた。・・・37年に日中戦争が始まり、・・・日本人は特別扱いされ、北京駅についても出入り口が中国人と違っていた。」
『当時はまだ街で時折、纏足(てんそく)の女性を見かけた。歩行が困難で路面電車の乗り降りにも時間がかかる。そうすると日本の兵隊が怒鳴ったり蹴ったりする。子ども心に「これはひどいことをする」と衝撃を受けた。』
『私は北京でのこの記憶は中国人には決して口にしなかった。2005年の「愛・地球博」(愛知万博)の際に来日した中国の友人に思い余って明かし、「誠に申し訳ない気持ちでいる」と伝えた。彼は「よく話してくれた。そういうことを言ってくれる日本人は初めてだ。」とほほ笑んだ。
日本は歴史を謙虚に反省して、近隣の国と向き合っていかねばならない。何か中国のお役に立ちたいという思いを今も持っている。』
太平洋戦争前、日本が中国を支配していた頃の現実を実際に見聞している人はもうごく僅かでしょう。日本国は、このような記憶と反省を継承していくべきです。
小野寺正氏(KDDI相談役)・私の履歴書27回・2020年10月28日日経新聞
『年々、日本の産業競争力の後退が指摘され、失われた20年、30年という言葉が使われた時期もある。なぜそうなったのか、私なりの考えを書いてみたい。20世紀に「わが世の春」を謳歌した日本企業は、21世紀に入ると目に見えて失速した。その大きな原因は、ソフトウェアの軽視にあるのではないか。
日本の経営者は機械工学や素材技術などの「モノ作り」が大好きだが、反面、ソフトウェアやアルゴリズムに対する理解は弱い。』
『私を含むKDDIの技術者の多くも無線や交換といった伝統的な技術領域を基盤としており、IP系やソフトウェアは得意科目ではなかった。だが、KDDIの社長になって以降、さまざまな新機軸や新サービスがソフトの力で生み出されるのを目の当たりにして、「組織全体のスキル転換を進めないと会社は発展しない」と危機感を覚えるようになった。そこで発足させたのが社員力強化本部だ。
技術部門の本来の業務は95%の要員でこなし、残り5%は日々の仕事から離れてソフトウェア力を磨くための研修に取り組む。そのプログラムを作るのが同本部だ。研修を受ける人には、米シスコシステムズの主催するインターネット関連の資格試験への合格などを目標にしたので、みんな本気でやったと思う。』
『情報システムの過度のカスタマイズも日本企業の悪弊だ。』
『仕事の手順や組織の在り方を温存したまま、それにシステムを合わせようとするとコストばかりかかってデジタル化の効果が享受できない。とりわけ営業部門や経理部門など発注側がずぶの素人の場合は、ITベンダーにムリな注文をして、ムダの塊のようなシステムを作ってしまいがちだ。
今、デジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉がバズワードになっているが、標準システムに合わせて、仕事の流れを見直すくらいの覚悟で取り組まないと、大きな飛躍にはつながらないだろう。』
現在、DXとうたわれ、デジタル庁を作って、官公庁も各国から後れを取ったDX化を進めようとしています。ここで問題になるのが、ソフトウェア技術者の不足であり、仕事の流れを変えていくことの困難さです。特許庁のシステム開発が挫折した経緯については、このブログでも「特許庁システム開発で何が起こったのか 2013-01-08」で記事にしました。
KDDIは小野寺氏が社長を務めていた頃、このような変革を遂げていたのですね。その他の企業・官庁は、今から時間をかけてソフトウェア技術者を育成していかねばなりません。やるしかないですね。
折原一氏(推理作家)・こころの玉手箱・2020年7月16日・日経新聞
『私は現在ワープロで原稿を書いている数少ない作家の一人である。』
『そもそもワープロが広く使われるようになったのは、一般の人間でも買えるほど値段が下がった1980年代半ば以降。・・・私のような悪筆の人間にとって、文房具としてのワープロの登場はありがたく、これがなければ作家になるのはきびしかったかもしれない。そして、たまたま最初に買ったのが「親指シフト」のワープロだったのである。
親指シフトの説明は長くなるので省略するが、要は頭の回転スピード並みの速さで打鍵できるという利点がある。』
『やがてパソコンが登場し、ワープロが製造中止になると、多くの作家がパソコンに乗り換えていく。それなのに、私は今もワープロ、しかも親指シフトのボードを頑なに使う。』
『95年製造のデスクトップ型は自宅と仕事場にそれぞれ1台ずつあり、使い始めてから25年になる。この機械が壊れるまで私は使いつづけるつもりだが、少なくともあと10年は大丈夫だと思う。』
また一人、親指シフトを使い続ける職業人の方の記事を目にしました。
私も、1985年にオアシス(ワープロ専用機)を購入して以来、親指シフトです。ただし今では、ワープロ専用機ではなく、ウィンドウズパソコンで動かしています。ウィンドウズのバージョンが変わるたびに、親指シフトをその上で動かすための苦労がありますが、何とかついて行けています。
私は72歳になりましたが、パソコン入力を続ける限り、親指シフトが使える環境を維持したいと祈念しています。
福原伸次氏(元通産次官)・私の履歴書3回・2020年12月3日日経新聞
「1932年3月8日に・・・生まれた。・・・父は鉄道省に勤め、・・・」
「小学3年生の夏休みをはさんで、中国に2ヶ月くらい旅行する機会があった。父はその頃、北京の華北交通株式会社に出向していた。・・・37年に日中戦争が始まり、・・・日本人は特別扱いされ、北京駅についても出入り口が中国人と違っていた。」
『当時はまだ街で時折、纏足(てんそく)の女性を見かけた。歩行が困難で路面電車の乗り降りにも時間がかかる。そうすると日本の兵隊が怒鳴ったり蹴ったりする。子ども心に「これはひどいことをする」と衝撃を受けた。』
『私は北京でのこの記憶は中国人には決して口にしなかった。2005年の「愛・地球博」(愛知万博)の際に来日した中国の友人に思い余って明かし、「誠に申し訳ない気持ちでいる」と伝えた。彼は「よく話してくれた。そういうことを言ってくれる日本人は初めてだ。」とほほ笑んだ。
日本は歴史を謙虚に反省して、近隣の国と向き合っていかねばならない。何か中国のお役に立ちたいという思いを今も持っている。』
太平洋戦争前、日本が中国を支配していた頃の現実を実際に見聞している人はもうごく僅かでしょう。日本国は、このような記憶と反省を継承していくべきです。
小野寺正氏(KDDI相談役)・私の履歴書27回・2020年10月28日日経新聞
『年々、日本の産業競争力の後退が指摘され、失われた20年、30年という言葉が使われた時期もある。なぜそうなったのか、私なりの考えを書いてみたい。20世紀に「わが世の春」を謳歌した日本企業は、21世紀に入ると目に見えて失速した。その大きな原因は、ソフトウェアの軽視にあるのではないか。
日本の経営者は機械工学や素材技術などの「モノ作り」が大好きだが、反面、ソフトウェアやアルゴリズムに対する理解は弱い。』
『私を含むKDDIの技術者の多くも無線や交換といった伝統的な技術領域を基盤としており、IP系やソフトウェアは得意科目ではなかった。だが、KDDIの社長になって以降、さまざまな新機軸や新サービスがソフトの力で生み出されるのを目の当たりにして、「組織全体のスキル転換を進めないと会社は発展しない」と危機感を覚えるようになった。そこで発足させたのが社員力強化本部だ。
技術部門の本来の業務は95%の要員でこなし、残り5%は日々の仕事から離れてソフトウェア力を磨くための研修に取り組む。そのプログラムを作るのが同本部だ。研修を受ける人には、米シスコシステムズの主催するインターネット関連の資格試験への合格などを目標にしたので、みんな本気でやったと思う。』
『情報システムの過度のカスタマイズも日本企業の悪弊だ。』
『仕事の手順や組織の在り方を温存したまま、それにシステムを合わせようとするとコストばかりかかってデジタル化の効果が享受できない。とりわけ営業部門や経理部門など発注側がずぶの素人の場合は、ITベンダーにムリな注文をして、ムダの塊のようなシステムを作ってしまいがちだ。
今、デジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉がバズワードになっているが、標準システムに合わせて、仕事の流れを見直すくらいの覚悟で取り組まないと、大きな飛躍にはつながらないだろう。』
現在、DXとうたわれ、デジタル庁を作って、官公庁も各国から後れを取ったDX化を進めようとしています。ここで問題になるのが、ソフトウェア技術者の不足であり、仕事の流れを変えていくことの困難さです。特許庁のシステム開発が挫折した経緯については、このブログでも「特許庁システム開発で何が起こったのか 2013-01-08」で記事にしました。
KDDIは小野寺氏が社長を務めていた頃、このような変革を遂げていたのですね。その他の企業・官庁は、今から時間をかけてソフトウェア技術者を育成していかねばなりません。やるしかないですね。
折原一氏(推理作家)・こころの玉手箱・2020年7月16日・日経新聞
『私は現在ワープロで原稿を書いている数少ない作家の一人である。』
『そもそもワープロが広く使われるようになったのは、一般の人間でも買えるほど値段が下がった1980年代半ば以降。・・・私のような悪筆の人間にとって、文房具としてのワープロの登場はありがたく、これがなければ作家になるのはきびしかったかもしれない。そして、たまたま最初に買ったのが「親指シフト」のワープロだったのである。
親指シフトの説明は長くなるので省略するが、要は頭の回転スピード並みの速さで打鍵できるという利点がある。』
『やがてパソコンが登場し、ワープロが製造中止になると、多くの作家がパソコンに乗り換えていく。それなのに、私は今もワープロ、しかも親指シフトのボードを頑なに使う。』
『95年製造のデスクトップ型は自宅と仕事場にそれぞれ1台ずつあり、使い始めてから25年になる。この機械が壊れるまで私は使いつづけるつもりだが、少なくともあと10年は大丈夫だと思う。』
また一人、親指シフトを使い続ける職業人の方の記事を目にしました。
私も、1985年にオアシス(ワープロ専用機)を購入して以来、親指シフトです。ただし今では、ワープロ専用機ではなく、ウィンドウズパソコンで動かしています。ウィンドウズのバージョンが変わるたびに、親指シフトをその上で動かすための苦労がありますが、何とかついて行けています。
私は72歳になりましたが、パソコン入力を続ける限り、親指シフトが使える環境を維持したいと祈念しています。