弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

福川伸次氏・小野寺正氏・折原一氏

2021-02-28 15:51:29 | Weblog
至って古新聞ですが、新聞のスクラップを3件、上げておきます。

福原伸次氏(元通産次官)・私の履歴書3回・2020年12月3日日経新聞
「1932年3月8日に・・・生まれた。・・・父は鉄道省に勤め、・・・」
「小学3年生の夏休みをはさんで、中国に2ヶ月くらい旅行する機会があった。父はその頃、北京の華北交通株式会社に出向していた。・・・37年に日中戦争が始まり、・・・日本人は特別扱いされ、北京駅についても出入り口が中国人と違っていた。」
『当時はまだ街で時折、纏足(てんそく)の女性を見かけた。歩行が困難で路面電車の乗り降りにも時間がかかる。そうすると日本の兵隊が怒鳴ったり蹴ったりする。子ども心に「これはひどいことをする」と衝撃を受けた。』
『私は北京でのこの記憶は中国人には決して口にしなかった。2005年の「愛・地球博」(愛知万博)の際に来日した中国の友人に思い余って明かし、「誠に申し訳ない気持ちでいる」と伝えた。彼は「よく話してくれた。そういうことを言ってくれる日本人は初めてだ。」とほほ笑んだ。
日本は歴史を謙虚に反省して、近隣の国と向き合っていかねばならない。何か中国のお役に立ちたいという思いを今も持っている。』

太平洋戦争前、日本が中国を支配していた頃の現実を実際に見聞している人はもうごく僅かでしょう。日本国は、このような記憶と反省を継承していくべきです。

小野寺正氏(KDDI相談役)・私の履歴書27回・2020年10月28日日経新聞
『年々、日本の産業競争力の後退が指摘され、失われた20年、30年という言葉が使われた時期もある。なぜそうなったのか、私なりの考えを書いてみたい。20世紀に「わが世の春」を謳歌した日本企業は、21世紀に入ると目に見えて失速した。その大きな原因は、ソフトウェアの軽視にあるのではないか。
日本の経営者は機械工学や素材技術などの「モノ作り」が大好きだが、反面、ソフトウェアやアルゴリズムに対する理解は弱い。』
『私を含むKDDIの技術者の多くも無線や交換といった伝統的な技術領域を基盤としており、IP系やソフトウェアは得意科目ではなかった。だが、KDDIの社長になって以降、さまざまな新機軸や新サービスがソフトの力で生み出されるのを目の当たりにして、「組織全体のスキル転換を進めないと会社は発展しない」と危機感を覚えるようになった。そこで発足させたのが社員力強化本部だ。
技術部門の本来の業務は95%の要員でこなし、残り5%は日々の仕事から離れてソフトウェア力を磨くための研修に取り組む。そのプログラムを作るのが同本部だ。研修を受ける人には、米シスコシステムズの主催するインターネット関連の資格試験への合格などを目標にしたので、みんな本気でやったと思う。』
『情報システムの過度のカスタマイズも日本企業の悪弊だ。』
『仕事の手順や組織の在り方を温存したまま、それにシステムを合わせようとするとコストばかりかかってデジタル化の効果が享受できない。とりわけ営業部門や経理部門など発注側がずぶの素人の場合は、ITベンダーにムリな注文をして、ムダの塊のようなシステムを作ってしまいがちだ。
今、デジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉がバズワードになっているが、標準システムに合わせて、仕事の流れを見直すくらいの覚悟で取り組まないと、大きな飛躍にはつながらないだろう。』

現在、DXとうたわれ、デジタル庁を作って、官公庁も各国から後れを取ったDX化を進めようとしています。ここで問題になるのが、ソフトウェア技術者の不足であり、仕事の流れを変えていくことの困難さです。特許庁のシステム開発が挫折した経緯については、このブログでも「特許庁システム開発で何が起こったのか 2013-01-08」で記事にしました。
KDDIは小野寺氏が社長を務めていた頃、このような変革を遂げていたのですね。その他の企業・官庁は、今から時間をかけてソフトウェア技術者を育成していかねばなりません。やるしかないですね。

折原一氏(推理作家)・こころの玉手箱・2020年7月16日・日経新聞
『私は現在ワープロで原稿を書いている数少ない作家の一人である。』
『そもそもワープロが広く使われるようになったのは、一般の人間でも買えるほど値段が下がった1980年代半ば以降。・・・私のような悪筆の人間にとって、文房具としてのワープロの登場はありがたく、これがなければ作家になるのはきびしかったかもしれない。そして、たまたま最初に買ったのが「親指シフト」のワープロだったのである。
親指シフトの説明は長くなるので省略するが、要は頭の回転スピード並みの速さで打鍵できるという利点がある。』
『やがてパソコンが登場し、ワープロが製造中止になると、多くの作家がパソコンに乗り換えていく。それなのに、私は今もワープロ、しかも親指シフトのボードを頑なに使う。』
『95年製造のデスクトップ型は自宅と仕事場にそれぞれ1台ずつあり、使い始めてから25年になる。この機械が壊れるまで私は使いつづけるつもりだが、少なくともあと10年は大丈夫だと思う。』

また一人、親指シフトを使い続ける職業人の方の記事を目にしました。
私も、1985年にオアシス(ワープロ専用機)を購入して以来、親指シフトです。ただし今では、ワープロ専用機ではなく、ウィンドウズパソコンで動かしています。ウィンドウズのバージョンが変わるたびに、親指シフトをその上で動かすための苦労がありますが、何とかついて行けています。
私は72歳になりましたが、パソコン入力を続ける限り、親指シフトが使える環境を維持したいと祈念しています。
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ホリプロ創業者堀辰雄さん・昭和ヒトケタ生まれ

2021-02-07 10:49:29 | 歴史・社会
「昭和一桁世代」について私は以下のような仮説を立てています。
昭和一桁生まれということは、ティーンエージャーのときに終戦を経験しています。
これより早く生まれた人は、終戦時にすでに20歳を超えており、それなりに分別もついて敗戦も理性的に受け入れることができたようです。またこれより遅く生まれた人は、終戦時に10歳未満で「お腹いっぱい食べたい」という記憶しかないようです。
それに対し「昭和一桁世代」は、多感な年頃に終戦を迎え、終戦までは「軍国少年・軍国少女」で信じていたものが、終戦とともに価値観が180°転換して心に混乱を抱えたことがその後の人生に影響を及ぼしているように見受けられます。

私はこのブログで、昭和一桁生まれの3人の方について述べてきました。
田崎清忠先生 2010-05-16
澤地久枝さん 2015-07-28
辻真先さん 2020-12-25
のお三方です。

田崎先生は1930(昭和5)年(昭和一桁)生まれで、終戦時は15歳ということになります。工業高校の航空機科に在学し、終戦直前は軍事工場に勤労動員していました。
田崎先生は、Personal Historyにあるように、戦時中、
『敵艦攻撃用特殊爆弾の製造。B29の爆撃により、工場内で働いていた女子挺身隊(女子大学生)が悲惨な死を遂げた状況を目撃。「戦争はダメ」と密かに気が付く。』
という経験をされていたのですね。空襲の爆撃で死亡した現場の惨状は、目を蔽うようであったはずです。この経験が15歳の田崎少年を大人に成長させていたかもしれません。

澤地久枝さんは終戦時、満州の吉林でご家族と暮らしていました。14歳の女学校生徒です。
澤地さんの著書「14歳〈フォーティーン〉」「はじめに」から
『わたしの話は、昭和の初期のこと。そして、どうして好戦的な少女になったのか、恥ずかしくて、これまでずっとかくしてきた。戦争が終わって70年になるけれど、おのれの無知を愧(は)じながら、わたしは生きてきた。
戦争が終わったと聞いた瞬間、「ああ、神風は吹かなかった」と真面目に思った。戦争は勝つものと、一点の疑いもないような14歳、軍国少女だった。』
終戦時に14歳で軍国少女だったことは、日本中の14歳が同じだったのですから、何ら恥ずべきことではありません。しかし、澤地さんの心に負った傷は大きかったようです。

そして作家・脚本家の辻真先さん(88)
今年(2020年)に88歳ということは昭和一桁生まれ、終戦時(1945年)に13歳でティーンエージャーですね。
『大人は信用できない。正義なんて、天気予報みたいなものだと、昭和20年8月15日でよく分かりました。(正午の玉音放送を挟んで)午前と午後で正義が変わる。』
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日経新聞の私の履歴書。2021年2月は、ホリプロ創業者の堀威夫さんです。
『生まれたのは1932年(昭和7年)。
3年生で滝之上にくると、ひましに戦時色が濃くなる。無邪気な海の子が軍国少年になってしまうのだから、教育はおそろしい。
天の配剤というべきか、横浜は最初に進駐軍がやってくる都市であった。・・・軍国少年が真っ先にアメリカ文化に染まる話をこの先することになる。滝之上は実に、価値観が真逆になる戦後日本の最前線になったのだ。私は昭和ヒトケタ世代の典型といえるかもしれない。』(第2回)

『忘れもしない1945年5月29日のことだ。白昼、横浜市街が大空襲にさらされた。住んでいた滝之上一帯は被害がなかったが、中心部は焼夷弾で焼き尽くされた。
焼け焦げた死体がごろごろしていて、足の踏み場もなかった。
あとで聞けば大学生くらいの大人は、戦争は負けだとわかっていたらしい。我々の年齢だと空襲の地獄を見ても、鬼畜米英に神国日本は必ず勝つと信じ切っていた。
進駐軍がくるから危険だというので、女と子供はまたも疎開する。
自分はおそらく、日本で初めて占領軍を間近にみた少年のひとりだった。・・マッカーサー元帥よりも早く、これまた忘れもしないアイケルバーガー中将が厚木の飛行場に降り立ち、我が家の近くにやってきた。アメリカの第8軍の司令官だ。
高官たちの家には歩哨が立つ。アメリカを鬼畜と信じた少年の私は、彼らと仲良しになる。』(第5回)

『とにかく腹が減って仕方がなかったのだ。近所に進駐軍がやってくると、高官の居館を守る歩哨たちがいろいろな食べ物をくれる。
レーションと呼ばれる夢のようなボックスがあった。・・・それをポンとくれる。食べてみたら、こんなにうまいものが世の中にあったのかと思うほど。
軍国少年は転じて、絵に描いたような戦後少年になっていた。
・・・ギターをやりたいと思いつめた。
近所の進駐軍の家でせっせと芝刈りのアルバイトをし、こづかいを貯めた。終戦から3年ほど経ち、鈴木バイオリン製造のギターを手にした私は音楽少年になった。・・ギターをもつ私を見て、近所の歩哨が声をかけてきた。
「そいつを貸してみろ」
GIはその場で弾きだした。教則本とはまるで違う。指でつまびくのではなく、三角のピックとかいうツメみたいなもので、かきならす。カントリーミュージックだったようだけれど、英語だから何を歌っていたかわからない。格好いいなあ。そう思った。』(第6回)
--以上-----------------

いやはや。私の昭和一桁(ヒトケタ)説にもう一人、事例が加わりました。
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