弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

安保関連法と最高裁の違憲立法審査権

2015-11-20 20:24:20 | 歴史・社会
タックス・オブザーバー――当局は税法を理解しているのか (NP新書)
志賀櫻
エヌピー通信社
志賀櫻氏が、税制に関する新しい書籍を出しました。購入して読ませていただきました。「税制のあるべき姿-特に格差問題への対応」が主題ですが、やはり税制は私の専門外でもあり、理解には至りません。

《租税法と違憲訴訟》
同志社大学教授(当時)の大島正氏は、給与所得者が事業所得者のように必要経費控除が認められないのは、憲法14条1項の定める平等原則に違背していて憲法違反であると主張しました。これに対する昭和60年3月27日最高裁判所大法廷判決(「大島判決」と通称される)は、以下のように判示しました。
「租税は、国家が、その課税権に基づき、特別の給付に対する反対給付としてでなく、その経費に充てるための資金を調達する目的をもって、一定の要件に該当するすべての者に対する金銭給付であるが、およそ民主主義国家にあっては、国家の維持及び活動に必要な経費は、主権者たる国民が共同の費用として代表者を通じて定めるところにより自ら負担すべてものであり、我が国の憲法も、かかる見地の下に、国民がその総意を反映する租税立法に基づいて納税の義務を負うことを定め(30条)、新たに租税を課し又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要としている(84条)。
 それゆえ、課税要件及び租税の賦課徴収の手続は、法律で明確に定めることが必要であるが、憲法自体は、その内容について特に定めることをせず、これを法律の定めるところに委ねているのである。思うに、租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実体についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである。そうであるとすれば、租税法の分野における所得の性質の違い等を理由とする取扱いの区別は、その立法目的が正当なものであり、かつ、当該立法において具体的に採用された区別の態様が右目的との関連で著しく不合理であることが明らかでない限り、その合理性を否定することができず、これを憲法14条1項の規定に違反するものということはできないものと解するのが相当である。」(志賀著 p46)

さらに志賀著では、
「戸松秀典『憲法訴訟(第2版)』(2008年、有斐閣)は、最高裁が、『憲法訴訟において圧倒的な司法消極主義の姿勢を示している』とする。そして、かかる不介入の政策の累計として、①憲法9条関係訴訟、②生存権訴訟、③租税法関連訴訟--を挙げる。」(志賀著p 51)
としています。

《安全保障法と違憲訴訟》
私はこの7月に「安全保障関連法案」において、以下のように書きました。
『日本は憲法9条を持っている国です。もし、政策とその政策を実現するための法律が憲法に違反するのだとしたら、その政策は実現することができません。私は、今回の安保関連法案と憲法との関係について立ち入って勉強していないので、自分の意見を言うことはできません。しかし、ネットでの評論を読む限り、普通の法学者であれば、今回の安保関連法案が合憲であるとのロジックはほとんどできなさそうな雰囲気があります。そうだとしたら、たとえ今国会で法律が成立したとしても、いずれ最高裁によって「違憲」との決定がなされてしまう蓋然性が極めて高いのではないでしょうか。それでは、世界平和を維持する上でも法的安定性がきわめて脆弱になる、と言わざるを得ません。

法学者がこぞって「違憲」というような法案が、なぜ上程されてしまったのでしょうか。やはり、2年前、内閣法制局長官を安倍総理が任命したあの人事に端を発しているように思います。憲法の番人としての内閣法制局を安倍総理がもっと尊重していれば、最高裁や法学者をも説得できる法案に仕上げることも可能だったのでは、と悔やまれます。』

法学者がこぞって「違憲」というような今回の安保関連法案は、いずれ最高裁によって「違憲」との決定がなされてしまう蓋然性が極めて高いと思われました。
しかし、上記大島判決が示唆するところは、最高裁は、たとえ安保関連法が憲法9条に違反する可能性が高いとしても、その圧倒的な司法消極主義により、違憲判決を出さないのではないか、というものです。

大島判決を安保関連法に置き換えたら以下のようになるでしょうか。(太字部が置き換え部です)
安保関連法は、法律で明確に定めることが必要であるが、憲法自体は、その内容について9条で規定するのみであり具体的には法律の定めるところに委ねているのである。思うに、国の安全保障は、外交・防衛・財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、安全保障要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、安全保障法の定立については、世界情勢の動向・同盟国の動向・日本周辺国の動向等の実体についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである。そうであるとすれば、安全保障法の分野における憲法9条の文言との違い等を理由とする違憲判断は、その立法目的が正当なものであり、かつ、当該立法において具体的に採用された安全保障の態様が右目的との関連で著しく不合理であることが明らかでない限り、その合理性を否定することができず、これを憲法14条1項の規定に違反するものということはできないものと解するのが相当である。』

うーん。これでは、最高裁判所の適正な判断を待つ、という態度は取れないかもしれません。

取りあえず、志賀著に紹介されていた「憲法訴訟」の本を図書館から借りてみました。
憲法訴訟 第2版
戸松秀典
有斐閣
以下の記述がありました。

『第Ⅳ編第15章 司法の政策形成機能 
第2節 政策形成機能の展開
1 不介入の政策
 最高裁判所は、憲法裁判において圧倒的な司法消極主義の姿勢を示していることを前章でみた。それは、別言すれば、最高裁判所が問題の解決を政治部門に委ねて、政策決定に不介入の道を選ぶことを表しているといえる。そこで、最高裁判所が不介入の政策を採った例をとりあげげて、その実情を観察してみる。
(1)憲法9条関係訴訟
 一連の憲法9条関係訴訟に対する最高裁判所の審査姿勢は、不介入の政策をとった代表例だということができる。ここでいう憲法9条関係訴訟とは、日米安保条約や自衛隊法等について、あるいは、それら条約や法律に基づいて行った国の行為について、憲法9条に違反するとして争う訴訟のことを指すが、すでに触れたように、最高裁判所は、憲法判断回避の手法を用いて、その争点について、自らの積極的憲法判断を示すことを控えている。もっとも、日米安保条約については、政治問題の法理を採用しつつも実体判断に立ち入っている所があるのに対して、自衛隊については、全く憲法判断を示していないという違いが見られるのである。しかし、いずれの場合も、最高裁判所は、政治部門の行った政策決定に対して、合憲性の統制を加えようとせず、その結果、憲法9条にかかわる憲法秩序は、政治過程の議論に委ね、最終的には国民の判断に委ねた状態においている点で共通している。』

9条関係訴訟に対してこのような不介入の政策を採ることにより、最高裁判所が政治の場面で、9条問題の展開に翻弄されずに、いわゆる司法権の独立を維持するという利益を得ているというのです。

これは残念なことです。
今回の安保関連法について、もしこのとおりの展開となったら、「日本の立憲主義は死んだのか」と指弾されることになってしまいます。
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鹿島アントラーズ試合観戦

2015-11-14 22:06:33 | サッカー
去る11月7日、カシマサッカースタジアムで行われたJリーグの鹿島アントラーズ vs 横浜F・マリノスの試合を観戦してきました。
知人の株主優待で当選してチケット2枚が当たり、その知人と私とで観戦に出かけたものです。
Jリーグ2ndステージは、この試合を含めてあと2試合を残すのみ、2ndステージの成績は、サンフレッチェ広島がトップで、勝ち点3の差でアントラーズが2位です。すでに自力優勝は消えたものの、本日の試合も絶対に負けられない試合です。アントラーズ隠れサポーターの私も、プレッシャーを感じつつの観戦となりました。

知人とはスタジアムで合流することとし、私は東京駅から直通バスを利用しました。
  
 自由席バス                      指定席バス

東京駅八重洲口の長距離バス1番乗り場に行くと、すごい行列ができています(左上写真)。聞いてみたらそこは自由席専用バスの乗り場で、私は指定席券を持っています。指定席バスは別の乗り場(7~9番)で乗るとのことで、そちらへ移動しました(右上写真)。自由席乗り場でのスピーカー案内では、「今から列に並んでも、試合開始に間に合いません」とのことでした。

スタジアムに到着しました。鉄道の跨線橋上から、スタジアムの全景が眺められます〔左下写真)。知人とは、ジーコ像(右下写真)のところで合流しました。
  
カシマサッカースタジアム               ジーコ像

試合前にミュージアムを訪問し、昼飯をゲットする予定にしています。バスが遅れ、到着は1時でした。試合開始(2時5分)まであまり時間はありません。チケットを見せて場内に入ろうとしたところ、ペットボトルのキャップを回収されてしまいました。理由はわかりません。多分みんな知っていて、入場時にペットボトルを持参しないようです。しょうがないので、まずは自分の席まで行って蓋のないペットボトルを置き、それからミュージアムに向かいました。

《ミュージアム》
  
各年代、一人ずつが代表して写真になっています。1991はジーコ、1993はアルシンドです。1999~2003は知った顔が続きます。といっても、名前が出てくるのは、秋田、中田浩二、小笠原ですね。
歴代監督の写真も挙げておきます(下写真)。石井正忠氏は、現監督と、チーム発足時の選手の2枚の写真が写っていました。
 
歴代監督

スタジアムの模型が2つ、並んでいました。初期はこんなスタジアム(左下写真)だったのですね。
  

さて、時間は押しています。食べ物店の行列もほとんどなくなっていたので、私は焼きそばを購入し、席に戻りました。
ゴール裏のサポーター応援合戦は始まっています。
 

我々の席は、アントラーズサポーター側に近い、メインスタンドの1階席でした(左下写真)。スタメンが掲示されています(右下写真)。アントラーズについては、背番号と名前を照合するため、トップチームの顔写真一覧を印刷して持参しました。
  
チケット                先発メンバー発表

 

試合が開始しました。
前半、我々の目の前は、マリノス攻撃の左サイド側です。
アントラーズ優位に試合は進展します。アントラーズ左サイドの7番カイオを含めた動きが活発ですが、我々からは一番遠いサイドになります。そのカイオが前半10分、先制点をたたき込みました。電光掲示のプレイバックを見ると、右ポストに当たってゴールしていました。
アントラーズ40番小笠原も存在感を発揮していました。36歳とのことですが、アントラーズの中心となっているようです。

そして後半の64分、カイオが中央からドリブルで持ち上がりました。観戦する我々の目の前です。まだペナルティエリアまで至っていませんが、相手ディフェンスは寄っていません。私が「打てー!」と叫ぶのと、カイオが右足を振り抜くのがほぼ同時でした。ボールはゴール右隅へと吸い込まれていきました。

カイオは本来左サイドであり、後半は観戦する我々の目の前で激戦を見られると期待していました。ところが、2点目をゲットしたカイオは、中央に張り付いたままで左サイドには戻ってきません。明らかにハットトリック狙いです。ベンチも指示したのでしょうか。終了間際に決定的チャンスでカイオのシュートがありましたが、残念ながらわずかに枠を外れました。

こうして、アントラーズは我々の目の前で勝利をゲットしました。
しかし、帰りのバスの中でニュースを確認したら、サンフレッチェも勝利していました。最終節で良くても勝ち点同率、得失点差でサンフレッチェが圧倒的有利なので、2ndステージ優勝は望み薄のようです。

本日2得点すべてをたたき出したカイオ、2ndステージで石井監督に交代してから、先発は少ないようです。本日は中村がケガで出られないための先発復帰でした。そこでの大爆発です。やってくれました。

アントラーズ、本年のJリーグ1stステージでは中位に甘んじていましたが、監督が現石井監督に交代したとたん、勝ち続けるようになりました。交代前のトニーニョ・セレーゾ監督はアントラーズで監督2回目であり、1回目のときは00年にリーグ三冠を達成していますから、悪い監督ではないはずです。このブログの田中滋著「常勝ファミリー・鹿島の流儀」(2)では、
『監督は、ジーコ推薦のトニーニョ・セレーゾでした。「いいオッサンでさ。一生懸命なんだよ。腹黒さがないんだよね。だから選手にバーッと言って衝突もするけど、ま、セレーゾだからな、みたいな感じで、あんまりあとに引かなかった」』
と紹介しています。
今回、セレーゾ監督のときにアントラーズは大幅な選手の若返りを図ったといいますから、若手選手でのチーム作りの初期、成績がふるわなかったのでしょう。石井監督に交代した時点が、新生アントラーズ成長のときだったのかもしれません。

アントラーズは、常勝とまではいきませんが、今年2ndステージのように強い力を発揮することが多々あります。何がそうさせているのでしょうか。
チーム創生期にジーコによってアントラーズ魂が形作られたのは間違いありません。2006年に「ジーコのこと」として記事にしました。
普通のチームであれば、ジーコが去ればその魂もそのうち消えていくものです。ところがアントラーズでは連綿と生き続けています。2009年に「アントラーズの強さの源泉は」として記事にしました。09年12月11日の日経新聞に三浦知良氏が載せた新聞記事。
『イタリアの名選手、R・バッジョはACミランに加入してクラブハウスに来るや「ここが世界一である理由が分かった」と語ったという。練習場やクラブがまとう空気が、そこが名門かどうかを物語る。11月に練習試合で鹿島に出向いたとき、僕もそんなことを感じた。スタメンから外れた選手による試合でも、鹿島の面々の「試合に出たい」というハングリーさは、同じ練習試合をした浦和とは違っていた。
リラックスゲームでも遊びでもじゃんけんでも、「勝負がかかれば何であれ負けるな」というジーコの精神が見て取れる。偉大な選手が何かをもたらしても、本人が去れば一緒になくなることは多いもの。鹿島だけは継承し、ぶれず、ブラジルのスタイルを貫いている。いま日本で名門と呼べるのは鹿島だけだろう。』

アントラーズが強いチームで在り続ける一つの源泉が、強化部長の鈴木満氏にもあるようです。ここでは2010年、田中滋著「常勝ファミリー・鹿島の流儀」()として記事にしました。
その鈴木強化部長、現在もその職で頑張っておられるようです。
【鹿島アントラーズ】 どうして鹿島は強いのか―。他にはないクラブ理念と取り組みという武器 【Jリーグ】に詳しく記述されていました。

さて現在のアントラーズです。
アントラーズにレンタル移籍している金崎は、私が観戦した試合では無得点でしたが、直後のW杯アジア2次予選に5年ぶりに招集、いきなり先発、いきなり先制ゴールの快挙を成し遂げてくれました。
カイオは、常時先発ではないながら、今回は2ゴールをたたき込む大爆発です。弱冠21歳でこれからの選手です。日本国籍取得の希望も持っているとのこと、日本代表での活躍も期待できそうです。
今回は代表招集されなかった柴崎も代表組です。
その他の選手も、代表クラスに育つ人材が多いとのことでした。

これからまた、アントラーズは黄金期を迎えるのでしょうか。
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相馬黒光と佐々城信子

2015-11-05 21:16:33 | 趣味・読書
黙移 相馬黒光自伝 (平凡社ライブラリー)
相馬黒光
平凡社

「欺かざるの記抄」の解説に、独歩と信子の関係を題材とした書籍が記載されています。その中に、相馬黒光の「黙移」が入っていました。
前回「国木田独歩と佐々城信子」に引き続き、独歩と佐々城信子の顛末について、相馬黒光が見た様子を上記書籍から拾っていきます。

相馬黒光(女性)、結婚前の姓は星、名は良といいました。結婚して相馬良、黒光はペンネームです。
仙台の旧士族である星家に生まれました。
星良が少女の頃、父親が亡くなって家は貧乏であり、姉が精神病を病んでいる状況でした。裁縫学校に通っていたのですが、「あんなに勉強したがるものを遊ばせておいては可哀想だ」といわれ、地元のキリスト教系の宮城女学校に通うようになります。
宮城女学校は米国系で、学校では米国流を押しつけます。学校内の優秀な生徒たち5人が改善を要求しますが受け入れられず、逆にその5人は退学処分となりました。5人と連絡していた星良は、退学処分にはなりませんでしたが、次の年に自主退学しました。
星良の周囲の人たちの尽力で横浜のフェリス女学校に入り、さらに本人の希望で明治女学校に転校しました。
佐々城信子が国木田独歩と恋愛し結婚し破局した当時、星良は明治女学校(東京)の寄宿生徒でした。

星良の母親は星家の娘であるみのじです。父親は星家に婿養子で入りました。
星家の叔母に豊寿がいます。豊寿が佐々城本支と結婚し、その長女が佐々城信子です。東京で寄宿生活を送る星良は、しばしば同じ東京の佐々城家を訪れていました。

《佐々城信子の人となり》
『佐々城信子は、この佐々城本支、佐々城豊寿の間に、はじめての子として生まれ、母の才気を受け継ぎ、一人の弟と二人の妹の上に立って、一番輝いて見えるような位置にいました。私が上京しました時分、たしか十六であったかと思いますが、その賢しいこと器用なことでは田舎者の私など足下にも及ばず、殊に母のもとへ多勢の客のある時など、そのたくみなもてなし振りと豊富な話題、無邪気でいて誇らかな、そして洗練された姿態、ほんとうに信子が出ると、一座の視線がみなその顔一つに集まるという風でした。(黙移 p117)』

《恋愛の実相》
独歩によると、
『嬢は吾に許すに全身全心の愛を以てすと云えり。』
『嬢は乙女の恋の香に醒ひ殆ど小児の如くになりぬ。吾に其の優しき顔を重たげにもたせかけ、吾れ何を語るも只だ然り然りと答ふるのみ。』
とあります。
一方、信子が黒光に語った所では、
『一体私は国木田を好きであったことは本当でした。けれども結婚しようと言われると急に怖くなったり、いやになってしまう。あの人は話し上手でしたから、とても面白かったけれど、女をわが物顔したり女房扱いをされると私は侮辱を感ずるのです。』(黙移 p150)

《結婚騒動》
国木田独歩と佐々城信子が結婚する前後、ずいぶんと騒動がありました。
国木田独歩は以下のように述べています。
『10月28日
佐々城信子は父母の虐待を受けて三浦氏に投じたり。三浦氏より数回の談判を佐々城氏に試みたれども事成らず。信子尚ほ三浦氏にあり。
(遠藤よき 信子の女学校時代の友人で、信子より2、3歳年長。)
(三浦逸平 遠藤よきの姉の夫。兜町に住む。)
信子嬢断然わが家に来たり投ずるの外、策なし。
11月3日
31日、信子嬢来宅、滞在。この夜、よき嬢来宅。
11日
午後7時信子嬢と結婚す。』(欺かざるの記)
以上によると、信子が自分の意思で三浦氏(信子の友人である遠藤ゆきの姉の家)に逃げ込んだかのようです。
三浦氏の家に滞在していたことは確かですが、信子は国光に以下のように述べています。(父さんに国木田から来た手紙(「未来の妻よ」と書いてあった)を見つかり、父母から叱られてわあわあ泣いてしまった騒動があったとき)
『この騒ぎの最中にあの○○さんが来たのです。「ともかく私に今夜は任せてください」と両親をうまく宥めて、私をあの人の姉さんが嫁に行っている家に伴れて行きました。私がそこで驚いたことは、その直ぐ翌日に早速国木田がそこへ私を訪ねて来たことです。
そのうち○○さんは佐々城の家の様子を見て来るからと言って、四国町に行ってくれたと思うと帰ってきて「まだまだあなたは家へは帰れない。お父さんもお母さんもちっとも怒りが解けていない」と言って、・・・一方独歩は毎日来ては結婚を迫るのです。』(黙移 p150)
○○さんとは遠藤ゆきを指すのでしょう。
このときのことを、信子の母親である豊寿は
『あの時信子をあの婦人に任せたことでありました。「もう家につれて帰ってくれると待っているのに、あの婦人は自分ひとりで来て、「信さんはまだまだ独歩を思い詰めていて、無理にもここへ伴れ戻すとなると、どんなことになるとも限らない、まあも少し落ち着いてから」というのだった。私は軽率にもそれを信じていて、とうとう信子をあの時帰れなくしてしまった』(黙移 p152)と黒光に述べています。

結婚が決まったときの騒動は、遠藤ゆきが暗躍した上で、独歩が無理矢理に結婚を迫ったかのようでした。

《結婚生活》
独歩が勝手に自分の理想とする結婚生活を実践しました。
『12月8日
先月19日の幽居以来すでに半月を経過したり、吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済なり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜なし。時々魚肉を用うれでも二銭若しくは一銭七りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ。粗食というをやめよ。
明治29年2月12日
信子は満腹の愛と信をわれにささげつつあり。』(欺かざるの記)

しかし、黒光の観察は全く異なります。
『二人のいるところは、柳家という農家の一室でした。障子の彼方には百姓家の一家がいる。わずかに一室の何枚かの畳の上で、著述もし、物も煮るというような生活でした。あのお侠(きゃん)な江戸っ子らしい派手好きな、そして気位の高い信子には、果たしてうれしいものであったでしょうか。』(黙移 p127)

『初めのうちどこか二人が相似るように見えたのは、その現れた才気のみであって、根本的にはどうしても相容れぬものがありました。そして独歩にはもう人間として充分に成長した底深いものがあり、一方はまだ解ったつもりでも解っていない子供でした。独歩には信念があり、理想があり、信子には遊びがあり夢がありました。そして独歩は自分の愛の強さをあまりにも自信するため、独歩が恋の当事者でいながら、指導者のような優越感に立ち、独断的に働き過ぎたと思います。』(黙移 p151)

《信子の失踪と離婚》
結婚した翌年の4月以降、独歩と信子は、独歩の実家で独歩の父母と共同生活に入っていました。黒光の観察によると、信子は常に独歩か彼の母親の監視下に置かれていたようです。信子は自由が奪われていました。独歩自身、信子が逃亡することを予知していたかもしれません。
信子の失踪は、「やっとのことで逃げ出した」というのが実態であるようです。

《離婚後の信子とその一家》
離婚時、信子は身籠もっていました。独歩はそのことを知りません。
離婚後に生まれた子は浦子と名付けられました。信子の将来を思って、浦子は佐々城本支の娘として入籍され、里子に出されました。

信子が両親の反対を押し切って独歩と結婚したこと、そしてその半年後に離婚したことから、信子の母親の豊寿は「世間に顔向けできないことになった」として役職から身を引きました。
明治34年(1901)、佐々城本支が死に、その一ヶ月後に豊寿も死去しました。
『叔母はまだ49歳でしたから、あたりまえならようやく人生の体験も積まれて、いよいよ本格的の働きに入ろうとする年頃で、まだ決して病身などではなかったのですのに、信子の一件で世間の批判を浴びて引退すると急に力弱り、まるでその責を負うようにして遂に倒れたのであります。・・・罪九族に及ぶ。佐々城家の没落にはまことに罪九族に及ぶの感があり、近親の一人として悼みに堪えぬものがありますが、一歩離れてこれを思えばやはり封建時代より現代への過渡期に於ける犠牲者、そして悲劇中最も大いなる悲劇は、佐々城豊寿の死であると思われます。』(黙移 p138)

信子の両親が死んだあと、親類や周囲は、信子を落ち着かせようと、アメリカにいる森広と結婚させるために信子を船で送り出しました。しかしそんなことで信子が納得するはずもなく、船の事務長(妻帯者)と恋仲となり、そのまま同じ船で日本に帰ってきてしまいました。
さらに悪いことに、信子のアメリカ往復と不倫の顛末が、報知新聞に暴露されたのです。信子の子供である浦子までもがその記事に登場しました。
『その浦子のところを読まされた時、私は天より罰を下されたと思い、嘗てしらぬ戦慄を覚えたのでありました。』(黙移 p143)
その後の信子について、有島武郎は「或る女」の主人公として描き、また当の国木田独歩は「鎌倉夫人」として描きました。
信子だけでなく、信子と独歩の娘である浦子をも苦しめることになりました。

黒光は以下のように述べています。
『そして彼(独歩)自身の悲劇に終わりました。自分ばかりでなく、その恋人を倒し、恋人の一族を破滅に陥れました。独歩自身は勿論それを望んだのではないのですが、あまりにも才筆に走り過ぎ、その筆は又あまりに力強かったため、言々人を動かし、その異常な迫力が間接的に相手を刺し、とうとう願うところの反対の結果を起こしたのであります。』(黙移 p151)
『国木田独歩の妻になり、そして独歩を捨てた故に、あらゆる人から憎悪の眼をもって視られ、遂に世間から葬り去られた佐々城信子』

今回、独歩の「欺かざるの記抄」を読み、さらに相馬黒光の「黙移」を読むことによって、まずは佐々城信子、次いで相馬黒光という、二人の明治の女性に深い関心を寄せることとなりました。さらには、信子の母親である佐々城豊寿もいます。
遙か130年の昔にあったできごとですが、いくつかの書物を読み比べることによってあたかもつい最近生きた人たちのように知ることができました。

このあと、相馬黒光その人についてもまとめていきたいと思っています。
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国木田独歩と佐々城信子

2015-11-04 20:31:28 | 趣味・読書
前回、国木田独歩「武蔵野」と玉川上水での逢瀬で、国木田独歩著「欺かざるの記抄―佐々城信子との恋愛 (講談社文芸文庫)」から、独歩と佐々城信子との玉川上水での逢瀬について抜粋しました。
佐々城信子  From Wikimedia Commons
ここではまず最初に、国木田独歩と佐々城信子の出会い、恋愛、結婚、破局に至る顛末を、主に「欺かざるの記抄」の「解説」を参考に概観します。
明治28年(1895)6月9日、日清戦争に従軍した新聞記者が、佐々城本支(もとえ)、豊寿(とよじゅ)夫妻の自邸に招かれ、もてなしを受けました。国木田独歩も従軍記者のひとりとして招かれていました。ここで独歩ははじめて、本支、豊寿夫妻の長女、信子に出会うのです。本支は西南戦争にも従軍した元軍医で、当時は日本橋区で病院を経営していました。豊寿は日本基督教矯風会の幹事でした。
独歩は、当時24歳、新聞記者といっても定職とはいえず、キリスト教を信奉し、北海道の開拓地に入植することを夢見る人でした。明治期の北海道開拓地ですから、極限生活を強いられることは明らかです。
佐々城信子は当時17歳、女子の新聞事業を興す野心を有し、アメリカへ行く計画が立てられていました。
その二人が突然、恋に落ちたのです。
信子の両親、特に母親の豊寿は二人の結婚に大反対です。
ところが、あれよあれよと言う間に、出会った年の11月11日、二人は結婚するに至りました。信子の父親は一応承諾を与えたとはいえ、両親の本心は反対です。結婚式にも参加しませんでした。
二人は逗子で生活を始めます。独歩は、北海道開拓の夢を取りあえずは諦めたのでしょうか。信子も、アメリカ行きを諦めています。
しかし、結婚生活は短期間で破局に至りました。翌年4月12日、突然信子が独歩の元から失踪するのです。独歩は半狂乱状態となりました。
信子が浦島病院に入院していることがわかりましたが、同時に、信子が離婚を望んでいることも知り、4月24日、独歩も受け入れて離婚に至ります。
その後も、別れた信子に独歩が恋い焦がれる様子は、「欺かざるの記」にこれでもかと記されます。

独歩と信子との間に、一体何があったのでしょうか。
それではまず、「欺かざるの記」の記述から、独歩が描く二人の出会いから別れまでをたどってみます。
欺かざるの記抄―佐々城信子との恋愛 (講談社文芸文庫)
国木田独歩
講談社

《出会いと恋愛》
明治28年(1895)6月10日
(佐々城豊寿夫妻の招待で、日清戦争の従軍記者が招待され、従軍記者であった国木田も佐々城家を訪れ、そこではじめて佐々城信子に会った。)
令嬢年のころ十六若しくは七、唱歌をよくし風姿素々可憐の少女なり。
7月29日
昨朝佐々城信子嬢来宅ありて一時間半計りを一秒時の如くに過ごしぬ。・・・秘密を以て立ち寄りたる也。吾等は遂に秘密の交情を通じるに至りぬ。
8月1日
われ等は恋愛のうちに陥りぬ。
昨日正午なり。信子嬢の来りしは。
ああわれは嬢を得ざれば止まらざる可し。母氏をして承諾せしめずんば止まらざる可し。11日
本日午前七時過ぎ、信嬢来る。
嬢と共に車を飛ばして三崎町なる飯田橋停車場に至る。直ちに「国分寺」までの切符を求めて乗車す。「国分寺」にて下車して、直ちに車を雇い、小金井に至る。・・流れに沿うて下る。
信嬢は吾が腕をかたく擁して歩めり。
遂に桜橋に至る。
橋畔に茶屋あり。老媼老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かいぬ。
12日
朝認む。
嬢は吾に許すに全身全心の愛を以てすと云えり。されど嬢は一種の野心を有す。曰く、女子の新聞事業。其のために嬢は合衆国に行くことになり居れり。
23日
一昨日は殆ど終日嬢の家に在りたり。午前9時より午後10時まで。別れに望んで、庭に送り、裏門の傍らに、キツス、口と口と!
26日
車を駆りて飯田橋停車場に至る。
此のたびは境停車場に下車したり。彼の林まで、停車場より五六丁に過ぎず。嬢と並びて路傍に腰掛け、・・接吻又た接吻
29日
今朝、早く嬢を訪ひ、公園に導き、大いに将来を談ず。第一、嬢は米国行きを止めよ。第二、二人北海道に立脚の地を作らん。第三、しばらく東京に勉学せよ。第四、勉学の方法は余に一任せよ。
嬢、悉く諾したり。吾等は楽しく別れぬ。
9月13日
昨日(12日)(上野駅発)
那須停車場より車にて塩原に向かいぬ。信嬢に遇う。
車を降り、信嬢と共に歩みぬ。
夜半語りて尽きず。前途を語り、人道を談じ、遂によき嬢、信嬢と三人、声を呑んで哭するに至りぬ。
(遠藤よき 信子の女学校時代の友人で、信子より2、3歳年長。)
佐々城氏突然来たり、

《結婚騒動》
10月28日
佐々城信子は父母の虐待を受けて三浦氏に投じたり。三浦氏より数回の談判を佐々城氏に試みたれども事成らず。信子尚ほ三浦氏にあり。
(三浦逸平 遠藤よきの姉の夫。兜町に住む。)
信子嬢断然わが家に来たり投ずるの外、策なし。
11月3日
31日、信子嬢来宅、滞在。この夜、よき嬢来宅。
11日
午後7時信子嬢と結婚す。
吾が恋愛は遂に勝ちたり。
われは遂に信子を得たり。

《結婚生活》
12月8日
先月19日の幽居以来すでに半月を経過したり、吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済なり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜なし。時々魚肉を用うれでも二銭若しくは一銭七りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ。粗食というをやめよ。
明治29年2月12日
信子は満腹の愛と信をわれにささげつつあり。
4月7日
東京隼町の父母の膝下に在り。逗子へは「さらば」を告げぬ。逗子にゆきたるは昨年11月19日にして、去りたるは本年3月28日なり。

《信子の失踪と離婚》
14日
一昨日信子の失踪以来、吾が苦闘痛心殆ど絶頂に達せり。
一作、12日は安息日なりき。
(教会堂に行く。信子は、「星良子嬢(後の相馬国光)に会い、彼女をわが家に連れ帰る」と言って独歩と別れる。)
(独歩が自宅に帰宅したが信子は帰っていない。独歩は気にかかり、明治女学院の寄宿舎(星良子が寄宿)に急いだところ、路に星良子に出会った。)
余驚き問うて曰く「信子今日御身を訪ひし筈なるが如何」と。良子嬢顔色を変じて曰く「不思議なる哉、今日先刻来訪ありしも直ちに帰り給いぬ。顔色甚だ悪かりき」と。
(信子より書状)要するに自分も勉強したく、余にも独身者の精力を以て勉強させたしといふに在り。
良子に逢ひて昨日来の事を語り・・問ふて曰く「御身は信子に金を貸しはせざりしか」。良子答えて曰く「1円かしたり」と。
20日
18日、豊寿夫人来る。のぶ子浦島病院に在ること明白となる。
信子より来状あり。曰く離婚(表面だけ)致し度し。
24日
余と信子とは今日限り夫婦の縁、全く絶えたり。昨日信子に遇ひぬ。信子の本意全く離婚にあることを確かめ得たり。
25日
嗚呼信子遂に吾を去りぬ。
両三日前、収二、徳富氏を訪ひし時、徳富氏潮田氏より聞きし処なりとて伝えて曰く、信子は逗子に在りし時にも両三度逃亡を企てつる由。
----以上--------------------------
現代風に考えると、以下のとおりです。

独歩は、「求道者の生活はかるあるべし」との考えを持っていました。北海道開拓生活などがそれです。
同時に、「求道者の妻の生活はかくあるべし」との考えも持っていたのです。独歩はその考えを、結婚した信子にも求めました。これはあんまりです。アメリカで勉強して女子の新聞事業を興そうとの志に燃える女子に、北海道開拓者の妻を要求するのですから。

信子にであってから結婚まで、そして信子が失踪してから離婚に至るまで、信子に対する独歩の恋い焦がれは、今で言ったらストーカーそのものです。「欺かざるの記」には、毎日毎日、信子に対する思慕の念が綴られています。
一方、11月11日に結婚してから翌年4月に突然信子が失踪するまで、「欺かざるの記」には、信子の記述がほとんど登場しなくなります。あまりの落差にびっくりします。独歩は安心しきったのでしょうね。そして、自分が思うとおりの生活を信子に強いています。
『12月8日
先月19日の幽居以来すでに半月を経過したり、吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済なり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜なし。時々魚肉を用うれでも二銭若しくは一銭七りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ。粗食というをやめよ。
明治29年2月12日
信子は満腹の愛と信をわれにささげつつあり。』(欺かざるの記)

実は信子が、その生活に耐えかねているということに、独歩は全く気づいていないのです。“男は無神経”と言ってしまえばそれまでですが、これは極端です。現代の感覚で考えたら、当然の如くとして破局に至ります。
後に文学者として名をなす国木田独歩が、身近な人に対してはここまで無神経だったとは。

以上は、一方の当事者である国木田独歩が語る一部始終です。
それでは、他方の当事者である信子の側から見たら、一体何が起こっていたのでしょうか。
信子の従姉妹に、相馬黒光(当時は星良)がいました。その相馬黒光の自伝(下記)中に、相馬黒光が見た一部始終が語られています。
黙移 相馬黒光自伝 (平凡社ライブラリー)
相馬黒光
平凡社

『国木田独歩の妻になり、そして独歩を捨てた故に、あらゆる人から憎悪の眼をもって視られ、遂に世間から葬り去られた佐々城信子は、この佐々城本支、佐々城豊寿の間に、はじめての子として生まれ、母の才気を受け継ぎ、一人の弟と二人の妹の上に立って、一番輝いて見えるような位置にいました。私が上京しました時分、たしか十六であったかと思いますが、その賢しいこと器用なことでは田舎者の私など足下にも及ばず、殊に母のもとへ多勢の客のある時など、そのたくみなもてなし振りと豊富な話題、無邪気でいて誇らかな、そして洗練された姿態、ほんとうに信子が出ると、一座の視線がみなその顔一つに集まるという風でした。(黙移 p117)』

長くなったので、以下は次号に回します。
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国木田独歩「武蔵野」と玉川上水での逢瀬

2015-11-03 14:25:54 | 趣味・読書

       玉川上水全体図

羽村取水場から四谷まで続く玉川上水のうち、鷹の台駅から三鷹駅までのコースを歩いてきました。2010年4月のことです。


境橋から、独歩橋、桜橋を経て三鷹駅までについて、玉川上水(8)に書きました。

独歩橋は、昭和44年に新設された橋で、この下流160mに「国木田独歩の石碑」があることにちなんで名付けられたようです。
 
独歩橋

桜橋は、玉川上水と武蔵境通りの交差点です。武蔵境通りを南下すると中央線の武蔵境駅に出ます。この桜橋の近くに、国木田独歩文学碑がひっそりと立っています。
石碑には、独歩の「武蔵野」六の冒頭部分が書かれています。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出で、三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある、」
武蔵野 (岩波文庫)から、この先をさらに引用します。
『それ(桜橋)を渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。自分は友と顔見合せて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑て、それも馬鹿にしたような笑いかたで、「桜は春咲くことを知ねえだね」と言った。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなに面白いかを婆さんの耳にも解るように話してみたが無駄であった。東京の人は呑気だという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜を喰い、』
『茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼりはじめた。』(後略)

ここで三崎町の停車場とは、甲武鉄道(現在のJR中央線)の始発駅であった飯田町停車場(現在の飯田橋付近)を意味します。当時、国鉄の中央線ではなく、それも東京駅始発ではなく現在の飯田橋付近を始発としていたのですね。
電車を今の武蔵境駅で降り、そこから現在の武蔵境通りを北上して玉川上水の桜橋に到達しています。

玉川上水今昔の桜橋によると
「『武蔵野』には書かれてないが、独歩の日記『欺かざるの記』によると、桜橋を共に訪ねた相手は後に結婚する佐々城信子で、桜橋付近の林で熱い思いを打ち明けたと記されている。
現在もその林は土地所有者の厚意で『武蔵野市境山野公園:通称独歩の森』として往時の面影を留め一般にも公開されている。」
とあります。そうだったのですか。

その『欺かざるの記』、購入してしばらくそのままにしていたのですが、最近になって読んでみました。
欺かざるの記抄―佐々城信子との恋愛 (講談社文芸文庫)
国木田独歩
講談社

明治28年(1895)6月10日から明治35年5月に至る、国木田独歩の日記をそのまま本にしたものです。
全編、佐々城信子に恋い焦がれる独歩の独白が満載の日記です。そのうちの、出会いから二度にわたる玉川上水での逢い引きまでの記述を抜粋します。
-------------------------
明治28年(1895)6月10日
(佐々城豊寿夫妻の招待で、日清戦争の従軍記者が招待され、従軍記者であった国木田も佐々城家を訪れ、そこではじめて佐々城信子に会った。)
令嬢年のころ十六若しくは七、唱歌をよくし風姿素々可憐の少女なり。
7月29日
昨朝佐々城信子嬢来宅ありて一時間半計りを一秒時の如くに過ごしぬ。・・・秘密を以て立ち寄りたる也。吾等は遂に秘密の交情を通じるに至りぬ。
8月1日
われ等は恋愛のうちに陥りぬ。
昨日正午なり。信子嬢の来りしは。
ああわれは嬢を得ざれば止まらざる可し。母氏をして承諾せしめずんば止まらざる可し。11日
本日午前七時過ぎ、信嬢来る。
嬢と共に車を飛ばして三崎町なる飯田橋停車場に至る。直ちに「国分寺」までの切符を求めて乗車す。「国分寺」にて下車して、直ちに車を雇い、小金井に至る。・・流れに沿うて下る。
信嬢は吾が腕をかたく擁して歩めり。
遂に桜橋に至る。
橋畔に茶屋あり。老媼老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かいぬ。
橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通ずる也。直ちに吾等この路に入る。
林を貫きて相擁して歩む。恋の夢路!
更にこみちに入りぬ。
更に林間に入り、新聞紙を布て坐し、腕をくみて語る、若き恋の夢!
嬢は乙女の恋の香に醒ひ殆ど小児の如くになりぬ。吾に其の優しき顔を重たげにもたせかけ、吾れ何を語るも只だ然り然りと答ふるのみ。
境停車場にて乗車す。

23日
一昨日は殆ど終日嬢の家に在りたり。午前9時より午後10時まで。別れに望んで、庭に送り、裏門の傍らに、キツス、口と口と!
26日
車を駆りて飯田橋停車場に至る。
此のたびは境停車場に下車したり。彼の林まで、停車場より五六丁に過ぎず。嬢と並びて路傍に腰掛け、・・接吻又た接吻

-------------------------
独歩の「武蔵野」は、後書きによると、明治31年1~2月に雑誌に掲載されています。その3年前の夏というと、ちょうど独歩と佐々城信子が訪れた日付(明治28年8月11日、26日)に合致します。

一方、「武蔵野」には、
「自分と一所に小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次の如くに書いて送って来た。」
との記載があります。記載の前後から、桜橋経由の記述を指していると理解できます。つまり、「佐々城信子と行ったのではない」ということです。
ひょっとして、佐々城信子と訪れるさらに1年前の夏に、今は判官になっている友人と同じ場所を訪れていたのでしょうか。

「欺かざるの記」には、桜橋訪問が二度出てきます。
1回目は8月11日、電車を下車したのは国分寺で、そこから小金井までは車、そして流れに沿って下り、桜橋の茶屋で休んで境停車場に向かっています。
2回目は8月26日、境で電車を下車し「彼の林」まで歩いています。
もしも「武蔵野」の記述が佐々城信子との逢い引きを指しているとしたら、1回目は歩く方向が逆である一方、桜橋の茶屋の話が「武蔵野」の記述と符合します。2回目は出発地が一致しています。

武蔵野、桜橋での逢瀬を重ねた国木田独歩と佐々城信子の二人、これから先、どのような運命をたどるのでしょうか。
あまりにも長くなったので、以下は次に回します
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