タックス・オブザーバー――当局は税法を理解しているのか (NP新書) | |
志賀櫻 | |
エヌピー通信社 |
《租税法と違憲訴訟》
同志社大学教授(当時)の大島正氏は、給与所得者が事業所得者のように必要経費控除が認められないのは、憲法14条1項の定める平等原則に違背していて憲法違反であると主張しました。これに対する昭和60年3月27日最高裁判所大法廷判決(「大島判決」と通称される)は、以下のように判示しました。
「租税は、国家が、その課税権に基づき、特別の給付に対する反対給付としてでなく、その経費に充てるための資金を調達する目的をもって、一定の要件に該当するすべての者に対する金銭給付であるが、およそ民主主義国家にあっては、国家の維持及び活動に必要な経費は、主権者たる国民が共同の費用として代表者を通じて定めるところにより自ら負担すべてものであり、我が国の憲法も、かかる見地の下に、国民がその総意を反映する租税立法に基づいて納税の義務を負うことを定め(30条)、新たに租税を課し又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要としている(84条)。
それゆえ、課税要件及び租税の賦課徴収の手続は、法律で明確に定めることが必要であるが、憲法自体は、その内容について特に定めることをせず、これを法律の定めるところに委ねているのである。思うに、租税は、今日では、国家の財政需要を充足するという本来の機能に加え、所得の再分配、資源の適正配分、景気の調整等の諸機能をも有しており、国民の租税負担を定めるについて、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、課税要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、租税法の定立については、国家財政、社会経済、国民所得、国民生活等の実体についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである。そうであるとすれば、租税法の分野における所得の性質の違い等を理由とする取扱いの区別は、その立法目的が正当なものであり、かつ、当該立法において具体的に採用された区別の態様が右目的との関連で著しく不合理であることが明らかでない限り、その合理性を否定することができず、これを憲法14条1項の規定に違反するものということはできないものと解するのが相当である。」(志賀著 p46)
さらに志賀著では、
「戸松秀典『憲法訴訟(第2版)』(2008年、有斐閣)は、最高裁が、『憲法訴訟において圧倒的な司法消極主義の姿勢を示している』とする。そして、かかる不介入の政策の累計として、①憲法9条関係訴訟、②生存権訴訟、③租税法関連訴訟--を挙げる。」(志賀著p 51)
としています。
《安全保障法と違憲訴訟》
私はこの7月に「安全保障関連法案」において、以下のように書きました。
『日本は憲法9条を持っている国です。もし、政策とその政策を実現するための法律が憲法に違反するのだとしたら、その政策は実現することができません。私は、今回の安保関連法案と憲法との関係について立ち入って勉強していないので、自分の意見を言うことはできません。しかし、ネットでの評論を読む限り、普通の法学者であれば、今回の安保関連法案が合憲であるとのロジックはほとんどできなさそうな雰囲気があります。そうだとしたら、たとえ今国会で法律が成立したとしても、いずれ最高裁によって「違憲」との決定がなされてしまう蓋然性が極めて高いのではないでしょうか。それでは、世界平和を維持する上でも法的安定性がきわめて脆弱になる、と言わざるを得ません。
法学者がこぞって「違憲」というような法案が、なぜ上程されてしまったのでしょうか。やはり、2年前、内閣法制局長官を安倍総理が任命したあの人事に端を発しているように思います。憲法の番人としての内閣法制局を安倍総理がもっと尊重していれば、最高裁や法学者をも説得できる法案に仕上げることも可能だったのでは、と悔やまれます。』
法学者がこぞって「違憲」というような今回の安保関連法案は、いずれ最高裁によって「違憲」との決定がなされてしまう蓋然性が極めて高いと思われました。
しかし、上記大島判決が示唆するところは、最高裁は、たとえ安保関連法が憲法9条に違反する可能性が高いとしても、その圧倒的な司法消極主義により、違憲判決を出さないのではないか、というものです。
大島判決を安保関連法に置き換えたら以下のようになるでしょうか。(太字部が置き換え部です)
『安保関連法は、法律で明確に定めることが必要であるが、憲法自体は、その内容について9条で規定するのみであり、具体的には法律の定めるところに委ねているのである。思うに、国の安全保障は、外交・防衛・財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断を必要とするばかりでなく、安全保障要件等を定めるについて、極めて専門技術的な判断を必要とすることも明らかである。したがって、安全保障法の定立については、世界情勢の動向・同盟国の動向・日本周辺国の動向等の実体についての正確な資料を基礎とする立法府の政策的、技術的な判断にゆだねるほかはなく、裁判所は、基本的にはその裁量的判断を尊重せざるを得ないものというべきである。そうであるとすれば、安全保障法の分野における憲法9条の文言との違い等を理由とする違憲判断は、その立法目的が正当なものであり、かつ、当該立法において具体的に採用された安全保障の態様が右目的との関連で著しく不合理であることが明らかでない限り、その合理性を否定することができず、これを憲法14条1項の規定に違反するものということはできないものと解するのが相当である。』
うーん。これでは、最高裁判所の適正な判断を待つ、という態度は取れないかもしれません。
取りあえず、志賀著に紹介されていた「憲法訴訟」の本を図書館から借りてみました。
憲法訴訟 第2版 | |
戸松秀典 | |
有斐閣 |
『第Ⅳ編第15章 司法の政策形成機能
第2節 政策形成機能の展開
1 不介入の政策
最高裁判所は、憲法裁判において圧倒的な司法消極主義の姿勢を示していることを前章でみた。それは、別言すれば、最高裁判所が問題の解決を政治部門に委ねて、政策決定に不介入の道を選ぶことを表しているといえる。そこで、最高裁判所が不介入の政策を採った例をとりあげげて、その実情を観察してみる。
(1)憲法9条関係訴訟
一連の憲法9条関係訴訟に対する最高裁判所の審査姿勢は、不介入の政策をとった代表例だということができる。ここでいう憲法9条関係訴訟とは、日米安保条約や自衛隊法等について、あるいは、それら条約や法律に基づいて行った国の行為について、憲法9条に違反するとして争う訴訟のことを指すが、すでに触れたように、最高裁判所は、憲法判断回避の手法を用いて、その争点について、自らの積極的憲法判断を示すことを控えている。もっとも、日米安保条約については、政治問題の法理を採用しつつも実体判断に立ち入っている所があるのに対して、自衛隊については、全く憲法判断を示していないという違いが見られるのである。しかし、いずれの場合も、最高裁判所は、政治部門の行った政策決定に対して、合憲性の統制を加えようとせず、その結果、憲法9条にかかわる憲法秩序は、政治過程の議論に委ね、最終的には国民の判断に委ねた状態においている点で共通している。』
9条関係訴訟に対してこのような不介入の政策を採ることにより、最高裁判所が政治の場面で、9条問題の展開に翻弄されずに、いわゆる司法権の独立を維持するという利益を得ているというのです。
これは残念なことです。
今回の安保関連法について、もしこのとおりの展開となったら、「日本の立憲主義は死んだのか」と指弾されることになってしまいます。