弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

大型展開アンテナ衛星

2006-10-31 22:34:56 | サイエンス・パソコン
テニスコートよりも大きいパラボラアンテナを2つも備えた人工衛星が、日本によって打ち上げられようとしています。技術試験衛星ETS-VIII(きく8号)で、12月16日にH-ⅡAロケットで打ち上げ予定です。
アンテナについては、打ち上げ時には小さく畳んでおき、宇宙空間で展開して大きく広げます。

私の大学時代の同級生がこのプロジェクトの心臓部である展開アンテナに深く関わっていることを知り、注目することとなりました。

ETS-VIIIプロジェクトについてはこちら(宇宙航空研究開発機構(JAXA)/宇宙利用推進本部)です。下記2つの画像もJAXAへのリンクで表示しています。

   提供JAXA

展開アンテナについては次のように紹介されています。
「ETS-VIIIに搭載されているアンテナは19メートル×17メートルという実に大きなもの。大きなアンテナを作る技術は、日本のETS-VIIIを含めて世界に3例しかありませんが、その中でもETS-VIIIのアンテナは、現時点で世界最大級です。
テニスコートがすっぽり収まってしまうほどのこのアンテナは、打上げ時には折り畳み傘のようにたたまれて、直径1メートル、長さ4メートルほどのコンパクトな状態で収納されます。そして打上げ後に宇宙空間で切り離され、まるで花が咲くように美しい大きなアンテナを展開するのです。」

   提供JAXA

実はこの展開アンテナが宇宙空間でうまく開くかどうか、つい最近展開アンテナの小型部分モデルを搭載したロケットが打ち上げられ、宇宙空間での予行演習が行われたのです。そして無事大型アンテナは宇宙空間で展開しました。そのときの様子はこちらです。
このページのアンテナ鏡面展開(20倍速)[WMV9.22MB] をクリックすると、宇宙空間での展開の様子を動画で見ることができます。こんな複雑な機構が、よくもうまく作動して大型パラボラアンテナに仕上がるものです。
この試験に成功したことを受けて、12月16日の本番打ち上げが決定されたようです。

通信衛星を経由して無線通信を行う場合、静止衛星であれば1個の衛星で事足ります。ただし静止軌道に乗せる、つまり衛星の自転周期を24時間とするためには、遙か上空に衛星を配置しなければならず、携帯電話程度では遠すぎて静止衛星と通信することができません。携帯電話と人工衛星とで通信するイリジウム計画がありましたが、これは低空を飛ぶ非静止衛星をたくさん飛ばすというものでした。
しかし衛星のアンテナさえ大きくすれば、静止衛星でも携帯電話と通信することが可能になるのだそうです。今回の大型展開アンテナは、そのためのアンテナだということです。

H-ⅡAロケットの打ち上げ成功と、きく8号の大型展開アンテナの展開成功とを祈っています。
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特許法30条適用の簡素化

2006-10-29 21:43:48 | 知的財産権
日本の特許法では、特許出願前にその発明が公表された場合には、たとえ公表したのがその発明の発明者であったとしても、原則として特許を受けることができません。
一方例外規定として、特許法30条には、発明者や出願人がその発明を刊行物に発表し、学会発表し、博覧会で展示した場合であっても、その公表の日から6ヶ月以内に特許出願し、特許出願時にその旨を申告し、出願から30日以内に所定の証明書面を提出すれば、それら公知にした事実がなかったものとして特許を受ける旨規定されています。

ところが、その所定の証明書面なるものが面倒だったようですね。
今回、特許庁は運用を改定し、特許法30条の例外適用を受けるために必要な所定の証明書面について大幅に簡素化したようです。

特許庁ホームページの発明の新規性喪失の例外規定(特許法第30条)の適用を受けるための手続についてで紹介されています。
今回の簡素化については以下のようにされたようです。

「① 公開の事実について、「手引き」に示した一定の書式に則った出願人による証明書及び客観的証拠資料等を「証明する書面」として提出できることとしました。これにより、出願人は、これまで必要であった研究集会や博覧会の開催者による証明書を提出する必要がなくなりました。

② 発明者、公開者及び出願人の関係について、「手引き」に示した一定の書式に則った出願人による証明書を「証明する書面」として提出できることとしました。これにより、出願人は、これまで「納得できる説明をした書面」として必要であった関係者全員による宣誓書を提出することや、譲渡人と譲受人との間で作成された特許を受ける権利についての権利譲渡書を提出する必要がなくなりました。

③ 刊行物への発表等によって公開した発明について、その発明内容全部が記載された書面を「証明する書面」として提出することを不要とし、これに伴って、当該刊行物が外国語で記載されている場合の翻訳が必要な範囲も大幅に少なくなりました。 」
---以上---

30条適用の証明書の類は、出願人の申告が妥当であるとの前提で審査を進め、疑義がある場合は特許化を望まない関係者が情報提供を行って是正していく、ということで十分ですから、今回の運用変更は妥当だと思います。

さらに、近い将来、例外適用が受けられる期間が、現在の「公表後6ヶ月以内」から、「公表後1年以内」に広げられる法改正がなされることでしょう。このときには、出願時の例外適用申請も、証明書の提出も一切不要となる可能性が高いでしょう。まだいつのことか分かりませんが。
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世田谷城と豪徳寺

2006-10-28 20:58:33 | 杉並世田谷散歩
現在、東京都世田谷区には世田谷城址公園があり、豪徳寺のすぐ近くです。
戦国時代、世田谷城が吉良氏の居城であった頃、城の中心は今の豪徳寺のあったところといいますから、現在まで残る世田谷城跡は城の南東端に位置する砦だったのでしょう。現在の豪徳寺と世田谷城跡とは分離していますが、戦国時代にはつながっていたはず、ということになります。

そこで、世田谷城と豪徳寺の関係について探索してみました。
世田谷城址公園と豪徳寺の近傍をグーグルマップの航空写真で見ると、世田谷城址公園の北側、豪徳寺のすぐ近くまで樹林地帯が伸びています。
世田谷城址公園の見取り図は以下のとおりです。

橙の△がこんもりとした土塁、水色の線が空堀です。①~③は写した写真の撮影方向です。北側の点線の境界はフェンスで囲われ、その先の樹林地帯には入れません。下の写真はフェンスに向かって写した③写真です。石段が見え、土塁が続いているようです。

下に、航空写真から観察される、豪徳寺と世田谷城跡の周辺図を示します。

緑色の部分は世田谷城跡を含む樹林地帯、太線部分が世田谷城址公園です。世田谷城址公園以外の樹林地帯については、四囲を住宅地が囲んでおり、中にはいることができません。
豪徳寺の山門近くに空き地があります。地図ではここにアパートがありますから、最近取り壊されて更地になったのでしょう。山門側からこの空き地を見ると、空き地の向こうに世田谷城跡から続く樹林地帯が見えます。

そしてこの空き地には、「豪徳寺駐車場」の看板があるのです。ということはこの空き地は豪徳寺の所有なのか。そうとすれば、豪徳寺の所有地が、世田谷城跡から続く樹林地帯に接することになります。

やはり、現代においても豪徳寺と世田谷城は続いているということでしょうか。

以下に世田谷城跡の写真を何枚か載せます。左が①、右が②です。

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米国Foreign Legal Consultant

2006-10-26 21:46:56 | 弁理士
Nikkei BIZPLUSビジネスコラム「知財戦略で勝つ」で以下の記事を見つけました。所長Hさんのブログ記事からです。

第86回「ようやく実現した弁理士の国際業務への参入」(2006/10/16)
 アメリカで日本の知財関係の法律相談を受けてビジネスをするには、アメリカの州の法律事務弁護士の資格を取得する必要がある。

日本の弁理士としては米国で初のForeign Legal Consultant登録

 このほど、日本の弁理士がアメリカ・カリフォルニア州弁護士会の資格審査を受けて見事パスし、米国で初めてForeign Legal Consultant (FLC)として登録、日本の知財法律に基づいたビジネスをカリフォルニアでできることになった。これで日本の弁理士もようやく、実質的に国際業務に参入したことになる。

 ところで日本企業が多数進出し、知財案件も出ているカリフォルニア州だが、カリフォルニア弁護士会にFLCとして登録されている日本の弁護士も、たった一人なのだという。法律事務の国際活動で、日本は相当に遅れていると指摘されているのも、こうした事情と無関係ではなさそうだ。

 登録を受けたのは、創英国際特許法律事務所(所長・長谷川芳樹弁理士)の米国オフィス(SOEI USA, Inc.: 800 West El Camino Real, Suite 180 Mountain View, CA 94040 U.S.A.)に勤務する阿部豊隆弁理士(写真)だ。
---引用終わり----

阿部豊隆弁理士は、私と同期合格(平成7年)弁理士です。
同期の弁理士がこうして世界を舞台にして活躍している知らせを聞くと、私自身にも力が湧いてきます。
コメント (1)
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エプソンのインクカートリッジ事件

2006-10-24 21:43:29 | 知的財産権
再生カートリッジ訴訟,エコリカが勝訴の報道からすでに1週間経ちました。
--以下引用--
セイコーエプソンがインク・カートリッジの再生品における特許権侵害でエコリカを提訴していた裁判で,東京地方裁判所はセイコーエプソンの請求を棄却し,エコリカ勝訴の判決を下した(Tech-On!関連記事)(日経エレクトロニクス関連記事)。

 エコリカは「この判決により,エコリカのリサイクル製品の製造・販売が今後も認められることとなり,地球規模で環境保護の緊急性・必要性が叫ばれる社会情勢とも合致した極めて妥当な判断であるといえる」とのコメントを発表した(ニュース・リリース)。

 セイコーエプソンは,今回の判決を不服として控訴する方針だ。「今回の判決は,特許庁が訴えの根拠となった特許(特許番号:第3257597号)を2006年5月22日に無効と判断した影響を受けているようだ。特許の有効性に関しては,2006年9月29日に知的財産高等裁判所が無効審決を取り消して特許庁が再審議中であり,有効と判断されると考えている」(セイコーエプソン)とした。
----引用終わり----

キャノン製インクカートリッジを再生する行為が、キャノンの特許の侵害に該当するという知財高裁大合議判決が話題になったのは今年の1月です。このブログでも記事にしました()。

セイコーエプソンによる今回の事件は、地裁の判決として非侵害となりました。「特許無効」がその理由です。
今回の特許(特許3246516)は、別の出願(特願平4-32226)を原出願とする分割出願(特願2000-80144)です。
分割出願とは、原出願に記載された発明の一部を分割し、新たな特許出願とするものです。本来なら、分割出願の出願日は原出願の出願日にされたものとして扱われます(出願日の遡及)。ところが本件について裁判所は、成立した特許発明が原出願の明細書に記載されていないものであるとし、「分割出願要件違反」として、出願日の遡及を認めませんでした。
そして、同じセイコーエプソン出願の公開公報である特開平4-257452に記載の発明と同一であるとして、新規性がなく無効であるとしたのです。

この特許は、今年5月22日に特許庁で無効審決が出されていますが、同じく分割出願違反で出願日の遡及が認められず、こちらは原出願の公開公報(特開平5-229133)又は特開平4-257452の内容と同一であるとして無効にされました。

ところで、上のセイコーエプソンの発表に「2006年9月29日に知的財産高等裁判所が無効審決を取り消して特許庁が再審議中であり」とあります。
調べると、特許庁で無効審決がされた後、セイコーエプソンは審決取消訴訟を提起し(6月22日)、それから90日以内の7月31日に訂正審判を請求しています。
無効審決に対する審決取消訴訟提起から90日以内に訂正審判が請求されると、訴訟においてはほぼ無条件に審決を取り消す取消決定(判決ではない)が出されます。訂正審判の内容について無効審判において審理させるためです。セイコーエプソンが発表した「9月29日に知財高裁が無効審決を取り消して」というのはこの取消決定を指すのでしょう。
決定であって判決ではないので、裁判所ホームページには掲載されません。

知財高裁が無効審決を取り消したからといって、再度の特許庁での審理で特許が有効と判断されるかどうかわかりません。知財高裁は取消決定に当たって訂正の有効性については何ら判断していないからです。
訂正審判で請求項を訂正するに際しては、分割出願の当初明細書に記載の範囲内で、さらに請求項を減縮し、かつ発明を実質的に拡張・変更しない範囲でのみ可能です。このような訂正要件を満足しつつ、原出願に記載された範囲内のものに訂正し、かつ侵害事件での被告製品が技術的範囲に入るように訂正しなければなりません。これは至難の業です。
無効とされた判断を覆すために権利範囲を狭めすぎたら、今度は侵害訴訟の被告製品が権利範囲から外れてしまいます。セイコーエプソンの思惑どおりに事が運ぶかどうかは結果を見るまでわかりません。
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プロイセンという国

2006-10-22 18:14:52 | 歴史・社会
「ドイツ史10講」からプロイセンについて拾ってみます。

日本が明治維新を迎えた時代、ドイツ=プロシャ(プロイセン)という印象があります。長い間、私はドイツとプロイセンとの関係がよく分かりませんでした。歴史地図を見ると、プロイセンの領域が現在のバルト3国のあたりに存在していたりするからです。

もともとプロイセンという名称は、現バルト三国付近の原住民であるプロイセン人から来ているようです。1200年頃、ドイツ騎士団がポーランド貴族に招請され、このプロイセン人をキリスト教化しつつ、ここにドイツ騎士団国家を建設します。この地域はその後プロイセン公国となります。
一方、12世紀以降、ヨーロッパは三圃式農法の普及で農業生産力が著しく高まり、ドイツ人はエルベ川を越えて東方に活発な植民活動を開始します。このとき、ブランデンブルク辺境伯やマイセン辺境伯などがエルベ川以東の支配権拡大に努めます。
17世紀にプロイセン公が断絶したとき、ブランデンブルク公であるホーエンツォルレン家がプロイセン公を兼ねるという形で両国が結びつきます。
以上のようないきさつから、エルベ川以東で現在のベルリンを中心とする領域が後のプロイセンの中心となったようです。

ドイツ地域は国として統合されるのが遅く、バイエルン、ザクセン、プロイセンなどの多くの領邦に分かれていました。各領邦においても、その中では多くの領主(地方貴族)が各地域を支配しています。
エルベ川以西のドイツ(旧西ドイツ)では、農地の大部分は農民保有地であり、領主による農民支配はゆるい支配関係でした。
それに対しエルベ川以東のドイツ(旧東ドイツ)では、領主の直営農場が支配の基軸になっており、領主がその地域で強大な権力を握っています。こういう農場を基盤とする地方貴族勢力(後に「ユンカー」と呼ばれる)は、国王に対してもある程度自立しており、国王の命令にも従わない傾向を有します。
1700年代にプロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世は、これら貴族の子弟をほとんど強制的に軍隊の将校として任用し、その代わり将校には国家第一の身分を与え、みずから軍服に身を包んで将校団と一体化します。そういったやり方で貴族を国家に結びつけ、この貴族将校団と、一種の徴兵制による農民兵士でもって強大な軍隊を築き上げます。
その結果生まれた軍事国家プロイセンは、ユンカー出身の青年将校である貴族が支えていたと言えるでしょう。

ここまで書いてくると、銀河英雄伝説(田中芳樹によるSF小説)に登場する銀河帝国が、プロイセンの軍事体制とまさに二重写しになります。

それまで領邦国家の連合だったドイツは、普仏戦争の後、1871年に統一されてドイツ帝国が成立します。新ドイツ帝国は、プロイセン王国、バイエルン王国、ザクセン王国などからなる連邦国家ですが、プロイセンが圧倒的に優位であり、プロイセン帝国といっていいぐらいです。

フランスが長い間ドイツを脅威として見ていたのは、実はプロイセンを脅威としていたのでしょうね。第2次大戦後に東西ドイツに分割され、旧プロイセン地域は東ドイツ領域となりました。東ドイツでは、第2次大戦後にソ連主導により土地改革が徹底して行われ、ユンカー階級が一掃されました。
フランスにとって西ドイツは旧プロイセンと異なり友好の対象となったのでしょう。そしてフランスと西ドイツが主導してヨーロッパの統合が進められたと思われます。
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財務官って何だろう

2006-10-21 08:33:43 | 歴史・社会
ミスター円こと榊原英資氏は元・大蔵省財務官です。榊原さんが活躍していた当時、「財務官という職位があるのか」と思いつつ、どんな人がなってどんな仕事をする職位なのか、知らずにいました。
日経新聞・私の履歴書で、行天豊雄氏が10月18日、財務官について書いています。

「英語で『国際問題担当次官』と訳される財務官制度ができたのは68年6月。柏木雄介さんが初代だ。国際派である柏木さんを遇するために、財務官のポストが新設されたという方が正確かもしれない。」
「中国・大連に生まれ、ニューヨークで育ち、外交官試験にも合格した柏木さんは、掛け値なしの国際人だった。欧米人には『柏木は自分たちの仲間だ』『話の分かる人間だ』と思われていた。私が海外の金融界の人たちと会っても、話題に上る日本人は柏木さんだけだった。84年には世界の主要銀行のトップが集まる国際金融会議(IMC)でも日本人初の議長を務めた。」

「次官」と名が付くからには、大蔵次官と同格だったのでしょうか。そうだとしたら、ニクソンショックの折、鳩山威一郎大蔵次官が柏木財務官に遠慮しがちだったのもわかるような気がします。でもあのときは柏木氏は財務官をやめて顧問でしたね。しかし大蔵次官のその遠慮と、柏木元財務官の自信過剰が、ニクソンショックへの対応を誤る元だったように思います。

柏木さんのためにできたという財務官制度が、現在まで続いているわけです。意味があるから続いているのか、一度手にした既得権を保持するために続いているのか、行天さんの「私の履歴書」を今後とも注目することにしましょう。
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ドイツ史10講

2006-10-19 22:40:52 | 趣味・読書
坂井榮八郎著「ドイツ史10講」(岩波新書)を読みました。
ドイツ史10講 (岩波新書)
坂井 栄八郎
岩波書店

このアイテムの詳細を見る

カエサル著「ガリア戦記」で二千年前のフランス地域の状況を知り、タキトゥス著「ゲルマーニア」で二千年前のドイツ地域の状況を知ることができました。二千年前のフランス、ドイツの状況は、どのような変遷をたどって現代のフランス、ドイツに至っているのだろうか、という点がずっと気になっていました。
フランスについては、「フランス史10講」で二千年間の歴史を辿ることができました。そして本日は、「ドイツ史10講」でドイツについて辿ります。

今から二千年前、ライン川の東、ドナウ川の北側の地域はゲルマーニアと呼ばれ、ゲルマン人が諸部族に分かれて割拠していました。ローマ帝国の支配もゲルマンにまでは及ばず、ローマ帝国の防衛はもっぱらゲルマン人の侵攻を防ぐことにありました。

その後、紀元4世紀にいわゆるゲルマン民族の大移動があり、ゲルマンの一部族であるフランク族がフランス地域を支配、アングル族とサクソン族がイギリスの基を築くわけですが、今のドイツの地域はどうなったのでしょうか。
ゲルマン民族のうち、王族的部族国家にまとまった部族であるザクセン、テューリンゲン、バイエルン等の諸部族がドイツの地に定住しました。結局ゲルマン民族大移動の時代に、先住のゲルマン部族が移動してきたゲルマン民族に置き換わったと言うことでしょうか。

紀元800年頃、フランク王国のシャルルマーニュがドイツを含めた地域を支配、その後その地域は分割されて東フランクが形成され、これがドイツ国のはじまりだといわれています。ところで東フランクの地域とは、現代のドイツの地域と異なり、東はエルベ川までです。エルベ川から東、ついこの間までの東ドイツの地域は、まだ辺境でした。

12世紀以降、ヨーロッパは三圃式農法の普及で農業生産力が著しく高まり、ドイツ人はエルベ川を越えて東方に活発な植民活動を開始します。このとき、ブランデンブルク辺境伯やマイセン辺境伯などがエルベ川以東の支配権拡大に努めます。

ドイツが神聖ローマ帝国と呼ばれていた長い間、神聖ローマ帝国の領域(大ドイツともいえる)は多数の領邦が寄り集まった組織でした。その中でも大きな領邦は、ブランデンブルクのプロイセンや南部のバイエルンであり、またハプスブルク家が支配するオーストリアでした。ですから1866年に勃発した普墺戦争は大ドイツ域内戦争であったとも言えます。この戦争にプロイセンが勝利し、その後オーストリアを除いたドイツ地域(小ドイツ)で、プロイセンが主導するドイツ統一が進みます。そして1870年の普仏戦争の後、プロイセンのビスマルクが一気にドイツ統一を仕上げます。

私としては、この本を読むことにより、ドイツとプロイセンとの関係、二千年前のゲルマーニアと現在のドイツとの関係がやっと結びついてきたという印象です。

その後、第一次世界大戦、ヴェルサイユ条約、ワイマール共和国、ヒットラーの台頭、第二次世界大戦、と、ドイツ激動の時代が語られます。

坂井先生の「ドイツ史10講」は、新書という限られた紙面の中で、ドイツ史の本質を語り尽くそうとする先生の熱意が感じられます。
これからも「新書で読むヨーロッパ各国史」をしばらく続けようかと思っています。
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豪徳寺

2006-10-17 22:37:32 | 杉並世田谷散歩
東京都世田谷区豪徳寺2丁目に、豪徳寺はあります。
小田急線の豪徳寺駅というのがありますが、2両編成の路面電車である世田谷線の宮の坂駅の方が近いです。

日本大百科全書で豪徳寺を引くと、以下の主旨の記事があります。
「1480年吉良左京太夫忠政が、伯母の弘徳院の菩提のために建立し、臨済宗に属した。1584年門庵宗関が曹洞宗に改め、中興開山となった。井伊直孝(なおたか)が当地に住んでからはその菩提所となり、1659年直孝の法名によって豪徳寺と改称。寺内に直孝の墓碑がある。」

戦国時代、世田谷城は吉良氏の城であり、今の豪徳寺のあたりが城の中心であったとのことですから、豪徳寺の建立者が吉良氏であることはうなずけます。
また、江戸時代に世田谷のこの一帯は井伊家の所領であり、豪徳寺は井伊家の菩提寺になったようですね。
山門と本堂、それに新設らしい三重塔の写真を載せます。
 

百科事典には直孝の墓のことが記載されていますが、有名なのは桜田門外の変で殺害された井伊直弼の墓です。
下の写真に3基のお墓が見えますが、一番奥が井伊直弼の墓です。


豪徳寺から南に下ると、世田谷1-29-18に代官屋敷があります。以前報告しましたが、そのときは写真がなかったので、下に代官屋敷の写真を載せます。江戸時代に井伊家の代官が住んだ家ということで、まさに豪徳寺と深い関係があります。
左が表門、右が母屋(約70坪)で、いずれも萱葺きです。江戸中期の建築とのことです。
 
表門に掲げられた説明書によると
「江戸時代の初め、大場氏は彦根井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲した」とあります。
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1971年ニクソンショックの舞台裏

2006-10-16 00:14:47 | 歴史・社会
現在、日経新聞の私の履歴書では、元大蔵省の行天豊雄氏の連載です。10月13日、14日の記事は、1971年のニクソンショック(ドルショック)が話題でした。

最近何かの記事で、あるできごとの後に行政が市場を閉鎖せず、それがために日本の国富が大幅に損なわれた、というのを読みました。高級官僚の大失態とのニュアンスです。多分、ニクソンショックの直後に東京外国為替市場を閉鎖しなかったことを指していたと思います。

1971年当時、行天氏は銀行局の課長補佐を務め、財務官室長を命じられました。
財務官は、柏木雄介氏が顧問に退き、細見宅氏が就いていました。

71年の8月15日、日本時間で16日朝、米国大使館のダイク財務担当官から「日本時間午前10時にニクソン大統領が重要なスピーチをする予定だ」と連絡が入ります。「金とドルの交換停止」という発表でした。

以下、行天氏の記事です。
「16日夜開いた省内の緊急幹部会議は、『東京外国為替市場は閉鎖せず』と決めた。柏木さんの鶴の一声だった。鳩山威一郎次官は『閉鎖して様子を見たらどうか』と首をかしげつつも、議論して勝てる自信はない。『そこまでいうなら』と折れたのだろう。同期だった鳩山さんと柏木さんの関係は微妙だった。
 柏木さんには『東京市場を閉めないことで、米国を助けている』という意識があったようだ。米国はドルを金から切り離すものの、ドルの価値を速やかに安定させ、固定し直すことを望んでいるのだろう。日本が1ドル=360円の平価でドルを買い支えれば、米国はありがたいと思っているはずだ---。
 米国は大幅なドル体制の変更を考えていない、との判断が柏木さんにはあったのではないか。結果としてみれば、ドル切り下げを狙ったニクソン政権の意図を読み違えていたことになる。
 事務方には日本の為替管理は鉄壁だという自信もあった。だが大蔵省の役人も所詮素人だ。考えの及ばなかった抜け道がたくさんあって、そこを通じて大量のドルが日本に流れ込み、ドル売りの嵐になった。
 1971年のニクソンショックの後、欧州は軒並み外国為替市場を閉鎖した。ひとり開け続けた東京市場ではドル売りが殺到した。
 日曜の8月22日、水田三喜男蔵相をはじめ大蔵省幹部が三田公邸に極秘に集まった。・・市場を開け続けるべきか。方針は定まらなかった。・・・8月28日、政府はついに1ドル=360円の固定相場でのドル買いをやめた。2週間近くでドル買い介入額は約40億ドルに達していた。」

12月のスミソニアン合意で、1ドル=308円へと切り下げられます。
さらに変動相場制に移行したのは、1973年2月14日のことです。

日本政府高官が米国政府の意向を読み違えたこと、同期であった次官と顧問との微妙な関係、など、生々しい舞台裏が伝わってきます。顧問であった柏木さんにどんな権限があったか分かりませんが(多分権限はなかったのでしょう)、「外国為替は自分が一番の専門家だ」という自負があったのでしょうね。実は実態を読み違えていたのですが。

ユリウス・カエサルの言葉
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(塩野七生著「ローマ人の物語」文庫本8巻前書き)
を思い出します。

あの当時も現在も、高級官僚の「自分は誰よりも一番よく知っている」という自信過剰を脱ぎ去ることにより、状況はずいぶん改善されると思います。
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