弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

原発事故10月24日経産省報告書

2011-10-31 22:22:35 | サイエンス・パソコン
経産省は10月24日付けの報道発表で「衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員会への東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故原因の検証に必要な資料の提出について」という発表をしています。
『衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員長から別紙1のとおり、経済産業大臣に対して東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故原因の検証に必要な資料を衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員会(以下「委員会」という。)へ提出するよう、要求があり、本日(10月24日)、委員会に対し、別紙2の資料を提出しましたのでお知らせします。
別紙1:書類提出要求について
別紙2:東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故原因の検証に必要な資料の提出について』

別紙1によると、衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員長川内博史の名で、経済産業大臣臨時代理に対して、9月12日付け「書類提出要求について」という書類が出されています。
要約すると、
「衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員会(以下「委員会」)は、福島第一原発事故に伴う様々な事象について審議を進めている。とりわけ、地震発生から津波が到達するまでの間に、同原発で起きた事象を解明する必要から、特に、非常用復水器及び格納容器スプレーの挙動について不自然な点が指摘されていることもあり、経産省を通じて東電に対して資料提出を要求してきた。
しかるに、委員会に提出された資料は、ほとんどの文言が黒く塗りつぶされた判読不可能なもので、回答項目も不十分・不誠実なものであった。
経産大臣は、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律第67条及び電気事業法第106条に基づき、東電から以下の事項を含む報告を徴収し、本委員会に提出することを要請する。
1 福島第一原発の「事故時運転操作手順書」、シビアアクシデント発生時における手順書
2 同発電所1号機についてのGE社の非常用復水器の設計時における性能計算書及び操作マニュアル
3 直近改訂の事故時運転操作手順書の作業内容
4 過去40年間の事故時運転操作手順書とシビアアクシデント発生時手順書の改訂日及び改訂内容の履歴
5 シビアアクシデント発生時等に備えて実施していた訓練の実施日及び実施内容
6 今回の福島第一原発事故に関して
(1) 1のマニュアルに記載している対処方法と、地震発生後に現場の作業員が実際に行った操作内容とを時系列的に比較できる資料
(2) 地震発生後の対応について作業員にヒアリングを行ったのであれば、その発言録
7 非常用復水器が圧力調整装置であることを証明するもの」
というものです。

衆議院の「委員会」からの上記要求に対し、経産大臣は10月24日付け書類で、『「2」、「3」、「5」及び「7」につきましては、平成23年9月22日付け平成23・09・12原第9号「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故原因の検証に必要な資料について」をもって回答しましたが、今回、「1」、「4」及び「6」につきまして、別紙のとおり回答』するとしています。

別添3「1号機の事故時運転操作手順書の適用状況について
合計53ページの報告書で、今回の中では中心の資料になっているようです。
ただし、私にとって目新しい情報はさほど発見できませんでした。
1点注目する情報がありました。5ページ4行目に
「IC(非常用復水器)の水源については、交流電源を駆動源とするポンプが停止することから、IC容量(約6時間)を超える場合には、D/D-FP(ディーゼル駆動消火ポンプ)により補給する」とあります。
「D/D-FP」は、原発の設備に組み込まれたディーゼル消火ポンプであり、外部から接続する消防車とは別の設備です。
また、この資料の末尾に、「原子力用語集」が付いており、これは役に立ちます。

別添4「発電所関係者へのヒアリング結果
「(1)総論
①体制、②所内の情報伝達、③手順書・マニュアル、④劣悪な現場
(2)各論
①電源復旧、②消火系を用いた代替注水、③ベント、④1号機の非常用復水器(IC)の操作、⑤水素漏洩対策」
内容については、今まで公にされてきた情報の域を出ていないようです。
----------------------------
以下、今回の報告資料全体についての感想です。

今回の福島第一原発事故については、事故発生後の対応と事象の推移について詳細に調査することがもちろん非常に大切です。その調査が、どのようになされているのか詳しくは分かりませんが、その中で、今回の資料要求元である「衆議院科学技術・イノベーション推進特別委員会」がどのような役割を担っているのかがよくわかりません。

そして、原発事故の事象の中で「地震発生から津波が到達するまでの間に、同原発で起きた事象を解明する必要から、特に、非常用復水器及び格納容器スプレーの挙動について不自然な点が指摘されていることもあり、経産省を通じて東電に対して資料提出を要求してきた」とあるように、「特に、非常用復水器及び格納容器スプレーの挙動」のみになぜ異常な興味を示しているのか、不明です。

さらに、委員会からの質問と、それに対する回答との関係から気になった点を挙げます。
「5 シビアアクシデント発生時等に備えて実施していた訓練の実施日及び実施内容」
という質問から、私なら、
「シビアアクシデント発生時、事故の被害を最小限にするために、現場オペレータが最適な行動をとることができるようにする訓練」
をイメージします。しかし9月22日付け回答によると、実際に行った訓練の内容は、「事故後の政府への迅速な報告、消火訓練、負傷者の救護訓練、住民広報・避難訓練、交通規制」といったものでした。事故の被害を最小にするためのオペレータ訓練は行われていなかったのでしょうか。

「7 非常用復水器が圧力調整装置であることを証明するもの」
という質問は何を意図したのでしょうか。このような質問に対して私が回答するとしたら、
「非常用復水器によって(圧力容器の)圧力調整が可能であることを理屈で説明し、実際の実験データに基づいて圧力調整が行われることを実証する」でしょう。
ところが経産大臣の回答は、『福島第一原発原子炉施設保安規定に、第1号機の原子炉がスクラムした場合の操作基準として、「主蒸気隔離弁が閉の場合、主蒸気逃がし安全弁を開又は非常用復水器系を起動して、原子炉圧力を調整する。」との記述があります。(別紙1参照。)
また、福島第一原発原子炉設置(変更)許可申請書に、第1号機については、非常用復水器が、原子炉の圧力が高くなると自動的に作動し、これにより原子炉を冷却減圧するとの記述があります。(別紙2参照。)』というものでした。
私が回答を受ける側だったら「バカにするな!」と怒鳴りそうな回答ですね。

衆議院の「委員会」は経産大臣に対し、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律第67条及び電気事業法第106条に基づき、東電から以下の事項を含む報告を徴収し、本委員会に提出することを要請する」としています。
しかし、両法律の当該条文を読みましたが、「経産大臣が事業者に必要な報告をさせる」権限は記載されていますが、衆議院が有している権限については何も規定されていませんでした。今回衆議院「委員会」は、どのような法律的根拠で経産大臣に書類提出を要求したのでしょうか。

続く
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NHK「原爆投下 活かされなかった極秘情報」

2011-10-30 00:12:51 | 歴史・社会
10月29日に再放送しているのをたまたま観ました。
NHKスペシャル「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報
『広島・長崎あわせて20万を超える人々の命を奪った原子爆弾。これまで日本は、アメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、“想定外”の奇襲を受けたとしてきた。しかし実際は、原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。
番組では、広島・長崎への原爆投下を巡る日本側の動きを克明に追う。情報を掴みながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか…。原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道である。』

途中から観たのですが、番組では陸軍参謀本部?で情報を担当していた堀栄三氏のテープ肉声が流れました。堀栄三氏なら知っています。このブログでも『堀栄三「大本営参謀の情報戦記」』で2008年に記事にしました。堀栄三著「大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)」をテーマにしたものです。
以下、「大本営参謀の情報戦記」から原爆関連を拾います。

2008年のブログ記事では触れませんでしたが、1945年6月から8月にかけて、堀氏は大本営第六課米国班に勤務し、テニアンで活動する「正体不明の」B-29部隊を追いかけていたのでした。最終的にはこの部隊が原爆投下部隊であることがわかりました。
本によると、堀氏の属する米国班は、航空本部、陸軍中央特殊情報部(特情部)と緊密に連絡を取って、サイパン方面のB-29の情報把握に努めた、とあります。堀氏自身は特情部に属していたのではないのですね。

B-29が発する無線電信は暗号あり、日本は解読できていませんでした。しかし信号文の冒頭だけは平文のコールサインであり、識別できました。V400番台はサイパン、などと決まっていることが分かっていました。
1945年5月、今までなかったV600番台が初めて登場し、長文の電報をワシントンに向けて発信するという奇妙な行動を取りました。6月末ごろからテニアン近海を飛行しだし、7月中旬になると日本近海まで飛んではテニアンに帰投するという妙な行動が出始めました。しかも単機か、せいぜい2、3機の編隊でそれ以上の数ではありません。「この行動はある種の訓練と観る。何を企図しての訓練だろうか?」第六課、特情部、航空本部は、このV600部隊が何者なのかを探ろうとしましたが、不明のままです。

8月6日午前3時頃、このコールサインでごく短い電波がワシントンに飛びました。内容は分かりません。午前4時過ぎ、この飛行機は「われら目標に進行中」の無線電波を発信します。「特殊任務機前進中」と特情部は緊張しますが、それ以後は皆目電波を出しませんでした。
午前7時20分、豊後水道から広島上空に達したB-29の1機が簡単な電報を発しました。後続部隊があれば、この1機は後続部隊に対する気象の連絡であることが統計から分かっていましたが、奇妙なことに後続部隊がありません。豊後水道に気を取られているその瞬間、8時6分、2機のB-29が豊後水道とは反対の東の方から広島上空に向かって突入していました。
8時15分、広島市上空に一大閃光とともに原子爆弾が投下されました。

堀氏たちが追跡した正体不明機が原爆投下機であることを最後まで見抜けなかったことと、侵入経路で裏をかかれたことから、虚をつかれてしまったのです。

以上が、堀栄三氏の著作に記述された広島原爆に関する事項です。
つまり、広島原爆に関する秘話は、NHKスペシャルが今回初めて発掘したというより、堀氏の著作で以前から知られていたことなのです。

一方、堀氏の著作には長崎原爆に関する記述が全くありません。
それに対してNHKの放送では、長崎原爆に関して詳細な記録が放映されました。
実は、陸軍の諜報部隊は、8月9日の朝にV600の無線を傍受していたのです。まさにその無線を聞いた本人が存命で、番組に登場して証言しました。その時点で、陸軍の情報部隊は8月6日のV600機が投下した爆弾が原子爆弾であることを知っていましたから、この人は大きな不安を感じたといいます。
傍受情報はもちろん上に報告されました。
参謀総長付きの部下であった人の手記が残っています。そしてその手記の中に「長崎原爆投下の5時間前にV600」という趣旨の記録が残されているのです。つまり、少なくとも参謀総長にはV600傍受の情報が上がっていました。
番組ではもう一人、大村の航空隊で紫電改(戦闘機)のパイロットをしていた人が登場しました。この人は偶然、広島原爆投下時にすぐ近くを飛んで惨状を目撃していたのです。しかし大村の航空隊には、V600機を目標としての迎撃命令は下されませんでした。大村どころか、日本のどこにも、V600警戒警報は出されておらず、長崎市民に対しても空襲警報は出されませんでした。

番組によると、堀栄三氏が遺した記録の中に、長崎に関してはごく僅かの記述があるのみだそうです。
このとき陸軍上層部において、何があったのでしょうか。
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コンデジをキャノンS90からS95へ

2011-10-28 20:40:53 | 趣味・読書
ブログを始めて以来、デジカメが手放せません。
もちろんそれ以前から、わが家にはデジカメがありました。
最初のデジカメはリコーの多分RDC-7です。2000年以前に購入しました。
そのリコーのオートフォーカス機構が不調となり、次に買い換えたのがフジFinePix F410でした。このカメラは、CCD不調の無償修理などがありましたが、だいぶ長い間使いました。

2009年1月にキャノンIXYD920ISを購入しました。手ぶれ補正もつき、ヨーロッパ旅行で寺院の内部も手持ちで撮影できるようになりました。
同じ年の9月にオーロラ観察目的でアラスカに旅行しました。オーロラ撮影に使うカメラとしては、高感度であることと、手動絞り、手動シャッター速度、手動フォーカスの全手動機能が必要です。そのときは娘からコンデジのリコーGX200とフィルム一眼のBessaflexを借りて持参しました。
この年に買ったばかりのIXYD920ISは、購入直後にカメラを落とすトラブルがあり、一応ちゃんと撮せてはいますが、突然故障する不安を抱えていました。そのため、いいカメラがあれば買い換えようと考えていました。

オーロラ旅行の直後に、キャノンからPower Shot S90が発売されました。ポケットに入る小ささでありながら、撮像素子に1/1.7というちょっと大きい素子を使っており、画質が良好で暗所に強いという評判でした。さらにフォーカスを含めて全手動操作が可能ということであり、オーロラ旅行直後でもあってこの機能に惹かれました。なお、一般のコンデジは撮像素子に1/2.4という1/1.7より小さい素子が使われています。素子が大きいほど、画素の大きさが大きくなって画質向上と高感度性能を期待することができます。
同時発売のパワーショットにはG12もありますが、外形がS90よりも大きくなります。海外旅行で使う場合、胸ポケットに収納できるというのは必須条件です。

2009年11月、このS90を購入しました。その後、今年の5月に至るまで、私が撮影した写真は基本的にS90によるものです。

IXYD920ISとS90を比較すると、より高感度になったこととあいまって、暗所撮影での手ぶれがさらに減りました。真っ暗闇に近いところでもストロボなし・手持ちで写真を撮ることができます。S90は非常に多くの機能を備えているのですが、結局使いこなすことができず、ほとんどの写真は「オート」で撮影しているという体たらくです。

ところが今年2011年5月、海外旅行からの帰りの飛行機の中で、S90を破損してしまったのです。カメラをショルダーに入れて足下に置いていたのですが、シートをリクライニングさせるときに前のシートとの間に挟まれてしまいました。帰宅してオンにしたところ、液晶が割れていることに気づいたのです(下写真)。

気に入って使っていたのにとても残念なことをしました。修理に出しても2万円以上取られるでしょうし、修理は諦めました。

今年春に、家内のためにリコーCX5を購入していました。5月以降現在に至るまでの写真はこのCX5で撮っています。

キャノンのパワーショットS90は、今から1年前にS95にバージョンアップしています。今年の機種変更が気になっており、それがためにS95の購入を見合わせてきました。そして今年の9月、海外でパワーショットS100が発表されました。主な相違点は以下の通りです。
    撮像素子             焦点距離 明るさ  映像エンジン
S95  1/1.7" CCD 1000万画素 28-105mm F2.0-4.9 DIGIC4
S100 1/1.7" CMOS 1200万画素 24-120mm F2.0-5.9 DIGIC5
ずいぶんと大きな変化がありました。撮像素子がCCDからCMOSに変わったところは、画質が維持されるかどうか心配です。広角端が換算28mmから24mmに広がったところは魅力です。ただし、小さいボディに大きな撮像素子を抱えているところに、ズーム範囲が広がって光学的に無理をしていないのか、気になります。映像エンジンの進化は期待できるところです。外形、電池の仕様がS90、95と異なったので、私が所持しているS90用のケースと電池2個が使えなくなります。

以上のような(海外での)新製品S100情報が出ている中、私は態度を決めかねました。CMOSで本当に大丈夫か。発売当初は値段が高いのではないか、などなど。ネットでも「CCD最後の製品であって価格がこなれているS95を購入する価値はある」との声があがっています。アマゾンではS95が在庫切れになったり在庫が入ってきたり変動しており、品切れが心配です。
あるとき、たまたまアマゾンに在庫が入っていたので、私は衝動でS95を購入してしまいました。3万円ちょうど程度でした。

2011年10月S95購入

下の写真は、新しいS95と故障したS90を並べ、CX5で撮影したものです。

      S95                              S90

まだS95の出番はありません。
私の使い方では、S90とS95の差異は多分わからない程度でしょう。
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小選挙区制誕生の経緯

2011-10-25 21:26:27 | 歴史・社会
10月8日付け朝日新聞朝刊の「オピニオン」には、細川護煕氏と河野洋平氏が登場し、「94年政治改革の悔い」という記事になっています。
93年8月に細川政権が発足して自民党は下野しました。その後の自民党総裁が河野洋平氏です。
記事によると、政府と自民党はそれぞれ(小選挙区比例代表)並立制や政党助成制度導入などの政治改革法案を提出。両者の妥協案が生まれません。
そして94年1月、細川首相と河野自民党総裁とが政治改革法案の合意書に署名し、衆議院議員選挙がそれまでの中選挙区制から今の小選挙区比例代表並立制に代わったのです。

河野「あの時は世論の政治不信が放置できないほど高まっていました。腐敗防止法をくつる話などもあったけれど、第8次選挙制度審議会の答申などもあり、「まず選挙制度の改革を」となった。自民党内には逡巡がありましたが、流れはどんどんそちらに行き、小選挙区制に踏み切りました。でも今日の状況を見ると、それが正しかったか、忸怩(じくじ)たるものがある。政治劣化の一因もそこにあるのではないか。政党の堕落、政治家の資質の劣化が制度によって起きたのでは、と。」
河野「小選挙区制では一つの党の候補者が1人に絞られているから有権者には選択肢があまりなく、政党を選ぶことはできても個人は選べない。しかも候補者は党が決めるから執行部にこびる。苦労のない何とかチルドレンみたいな人がたくさん当選する。」

私も94年当時、心の中で「選挙制度一つ変えられないのでは何も改革が進まないではないか」と思っており、中選挙区から小選挙区比例代表並立制への変更に賛成していました。今から思えば不明の至りで、忸怩たるものがあります。

石原慎太郎著「国家なる幻影〈下〉―わが政治なる反回想 (文春文庫)(単行本1999年1月)」には、当時のいきさつが詳細に語られています。

『これ(選挙制度改革)を主唱することをこそ自分達の脱党と新党造りの正当性のよすがとする小沢(一郎)氏たちは、選挙制度の変革こそが政治改革の唯一絶対必要条件であり、これに反対する者は歴史的必然性をもった変革を理解できぬ、時代錯誤の頑強極まりない「守旧派」でしかないと唱えて回っていた。』
当時「守旧」という言葉は石原氏にとってもほとんど初めて耳にするものでした。そうですか。今でこそ「守旧派」とは変革反対派を非難する決まり言葉になっていますが、このときに初めて登場したのですね。
『これは結果として大成功だったと思う。
社会的な受けとり方、というよりあくまでもただの印象として、「保守」の全くの同義語でしかない「守旧」という言葉は、あの政治状況の中で、「保守」をはるかに超えて何とも保守的な、つまり保守よりも退嬰的な、要するに頑強極まりない姿勢という印象を実に効果的に国民大衆に抱かせてしまったと思う。
その言語による洗脳にもっとも敏感、というより、浅はかにも強く反応したのはジャーナリズムであって、単純というよりもむしろ大方白痴的な日本のメディアは、実に短絡的に「守旧」すなわち悪、それならざるものすなわち善、という規定でこの問題についての報道を行って顧みなかった。』

それでも自民党の中でも事への賛否は真っ二つに分かれて議論が続き、結果として眺めてみれば、最後に成立した新しい法律は手間暇かけただけより悪いものになっていきました。
参議院議員選挙はその昔、地方区と全国区に別れていました。田中角栄内閣の時代、その全国区が比例区に変わりました。石原氏は田中首相がどのようなくだらない理由(汚職事件の隠蔽)で選挙制度を犠牲にしたのかをここで語るとともに、参議院での比例代表制採用がどのような弊害をもたらしたかを語ります。そして・・・
『衆議院自民党の対処はいたずらな世論に引きずられ、加えて今は脱党していった小沢氏の恫喝に屈してさらなる改悪でしかない(衆議院土井たか子)議長の裁定案を鵜呑みにしてしまい、これなら受けとるまいという案をわざわざ指し示したのに、自民党はなんであんなものを飲んでしまったのかしらと議長本人を慨嘆させるような結末とあいなった。』
そして、冒頭の細川首相と河野自民党総裁による政治改革法案の合意書署名があり、衆議院での採決となりました。
『たぶん当人もきわめて不本意だったろう土井議長が法律案の概要を読み上げ、賛成者の起立を促し、私の周囲の全員が起立していたが、私一人は座ったままでいた。・・・私が眺めた限り、はるか彼方にいる共産党の全員と私以外の全員が起立していた。』
二度目の採決時、日頃親しい山中貞則氏が心配して「石原君、立てよ、おい慎太郎、立てよ」と声をかけてきたので石原氏は「山中さん、あなたこんなのもに本気で賛成しているんですか」と敢えて言葉を返したら、山中氏が思わず笑い出して「ほんとはお前のいう通りなんだよな」いったら周りが爆笑してしまい、そのせいか、党内の造反分子への懲罰云々はその後話題になりませんでした。
後で聞いたところでは、同じ自民党の中でもう一人だけ、反対を唱えて座ったきりだったそうです。
『最近またある折に橋本首相が、小選挙区制のせいで選び出されてくる政治家はオールマイティを要求され、スペシャリストが育ちにくくなったと所見を述べていたが、オールマイティといえば聞こえはいいが、総花的という域を出ず、特技専門を持たぬ政治家などしょせん官僚の走り使いを出るものではありはしまいに。』

94年当時、党議に反してまで小選挙区制反対を貫いたその一事をもって、私は石原慎太郎氏を尊敬しています。そして願うのは晩節を汚さぬことです。
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ピアノ発表会

2011-10-23 10:21:05 | 趣味・読書
家内と私は、去年の夏からピアノを習っています。
わが家でピアノを購入したことについては、2007年10月にピアノがやってきたに書きました。
それからしばらく、バイエルで独習しました。1日30分のノルマです。しばらくは順調に課題が進んだのですが、バイエルの後半まで行くとパタッと進歩が止まりました。小学校時代に練習した部分については進歩が早いのですが、それより先の部分についてはとたんに習得が遅くなるようです。
結局、それ以降はピアノの練習も縁遠くなってしまいました。

去年の夏、家内が先生について練習を始めるというので、私も一緒に始めることにしました。知り合いから紹介してもらった先生の自宅が比較的わが家に近かったので、先生の自宅でレッスンを受けています。月に2、3回でしょうか。
教材については先生から紹介を受け、トンプソン現代ピアノ教本(2)に決めました。この1年間、この教本の中から選んだ曲を順番に練習しています。

私が教わっている大城先生は、主にフィガロ音楽院でピアノを教えておられます。そのフィガロ音楽院で学ぶ生徒さんたちの発表会が毎年秋に4日ほどかけて開かれるようです。
今年は10月9日に大城先生の生徒さんの発表会があります。今年6月、大城先生から、この発表会に出場するお誘いをいただきました。そして出ることにしたのです。

先生と一緒に選んだ曲は、パッヘルベル作曲「カノン」でした。石川芳さんによる「オルゴール・アレンジ」という編曲です。楽譜は「ピアノ・ソロ いろいろなアレンジを楽しむ パッヘルベルのカノン」に収録されていました。
私の実力からすると背伸びした曲です。
それから3ヶ月以上、この曲だけを練習する毎日です。最後の1ヶ月は練習時間も一日30分から1時間に増えました。

そして10月9日当日を迎えました。
会場は、都営新宿線船堀駅近くのタワーホール船堀5階小ホールです。建物の外観は船の形をしているということでしたが、大きすぎて外観全体をとらえることはできませんでした(左下写真)。
  
タワーホール船堀    演奏会の案内表示板       受付と待機ホール

 
上の2枚は、小ホールの内部と舞台上のピアノの写真です。舞台の照明が点灯する前に撮ったので、ちょっと暗いですね。

演奏はというと。無我夢中で自分の演奏の中味をよく覚えていません。途中で引っかかり、ちょっと戻って二度弾いた部分が若干あります。取り敢えず最後まで演奏を完了することができました。いずれにしろ、普段の練習での実力はとても出し切れません。舞台での演奏中は自分じゃないようです。

演奏は子供たちが多いのですが、小さな子供たちが皆、難しい曲を間違いなく演奏しきっているのには感心しました。練習では弾けても、本番でよくあがらないものだと。先生によると、大人よりも子どもの方が本番であがらないのだそうです。

秋の最大イベント第1弾が終了しました。
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須藤彰著「自衛隊救援活動日誌」(2)

2011-10-21 18:48:14 | 歴史・社会
前回に引き続き、「自衛隊救援活動日誌  東北地方太平洋地震の現場から」です。

日々の日記の中には、じんとくるエピソードが満載です。
『途中、「おれ、自衛隊に入るから。」という小学生もいました。それは頼もしい。理由を聞いてみると、お父さんが帰って来ないかずっと海を見つめていたところ、若い自衛官に声をかけられたそうです。理由を話すと、その自衛官は何も話さずに肩に手を置いて、しばらく一緒に海を見てくれたそうです。』(4月4日)

南相馬市の桜井市長に面会(4月5日)。
『一度テレビに出るとマスコミには続けて取り上げられるようになります。半面、役人は来なくなるので、市長は寂しくて困っていたようです。』
そうだったのですか。

震災以後「動きが悪い」「自衛隊に丸投げ」「丸投げなのに協力的でない」という自治体があり、そこへ行って来ました。
避難所を整理統合しないと、物資の配送に手間取り、学校は新学期を迎えられません。そこで防災部局、福祉部局、教育部局のそれぞれから話を聞くと、いずれも「自分の部局の担当ではない」として動こうとしません。こういう場合は首長のリーダーシップが必要となりますが、「個別の案件は担当部局に任せている」の一点張りです。
瓦礫整理に必須の重機は、自治体が用意して自衛隊が使用する被災地が多いのですが、この自治体は重機を十分に確保してくれません。「財政的な先行きが見えない」を理由としています。ほかの自治体は「金は後からついてくるだろう」見切り発車で手配しているのに。
この自治体は、いくつかの町が合併してできた自治体でした。それが動きが悪い原因だったのですね(4月9日)。

石巻市の大川小学校の一斉捜索に立ち会いました(4月10日)。
大川小学校の惨事は本当に心が痛みます。全校生徒108人中64人の死亡が確認され、このときまだ10人が行方不明のままでした。自衛隊がこの行方不明者を捜していたのです。
『学校の中では自衛隊が作業していますが、学校の外では家族が子供を探しています。親御さんたちには悔やみ切れない思いがあります。大川小学校でのわずかな生存者のほとんどは、地震の直後に親が迎えに来ています。「あのとき、なぜ子供を迎えに行ってあげられなかったのか」。
津波が来て学校周辺は水没しましたが、避難所に指定されている学校の方がむしろ安全だろうと考え、子供を迎えに行かず、家で一晩を過ごした方もいるそうです。「声すらかけることができずに子供を溺死させてしまった」。強い自責の念に駆り立てられているためか、親御さんたちは必死で砂と泥をかき分けています。お母さんの中には涙が止まらない人もいます。』
『親御さんの気持ちの中では、本当に時間がずっと止まってしまっているのかもしれません。中隊長に話を聞くと、親御さんが不憫で仕方ない。中隊一同、「何かを見つけてあげたい」の一心で作業をしていますとのことでした。』

『最近、自治体へよく顔を出しているためか「良い自治体」の「におい」のようなものが分かります。ポイントは、「幹部をすぐに見つけることができるか」にあります。』(4月12日)
岩沼市役所では、入り口にいた気さくな感じの人に声をかけたところ、その人が副市長でした。市役所を出ると、作業現場で市の建設部長に会いました。
名取市では、市の対策本部の入口に防災課長が陣取っていました。ここでは、各部局が「縦割り行政」をしたら「市長にクビにされる」そうです。

被災地で自衛隊員の食事のメインは「缶飯」だそうです。「とり飯」「五目飯」「しいたけ飯」などのバリエーションはあるが味付けがすべて同じで、これを食べ続けると元気がなくなってくるそうです。
この本の著者も、どこへ行ってもまずは挨拶代わりの食事ネタで盛り上がるのだそうです。「ラーメンが食べたい」が日記の至る所に登場します。自衛隊員による被災地救援活動の日々の苦労が伝わってきました。

4月24日が日記の最終日です。
被災地の避難所で、両親を失った子どもの様子が描かれており、また泣かされました。
『今回の震災では、この子の両親のように子供のことが心配になって避難所から出たところを、津波に襲われてしまった親が多数います。その逆に、親を心配した子供がさらわれてしまった場合もあります。
残された方は、われわれには想像もできないような思いを抱えています。残念ながら、私には何もしてあげることができません。しかし、残された人たちは、亡くなった家族の強い思いを受け止めています。亡くなった親や子供のためにも、彼らがいつかは立ち直ってくれることを願ってやみません。』(終わり)

この本に書かれている内容は、防衛省の背広組である須藤氏が現地で直接見聞した事柄のみです。従って、10万人自衛隊員による救援活動のほんの一部しか描かれていないでしょう。それでもこれだけの迫力で現地の様子が迫ってきました。救援活動の全体を見渡せば、きっと数々のドラマを見ることができるはずです。
それとこの本は、文学部出身の自衛官が記述したところにも価値があるでしょう。須藤氏でなければこのような本は生まれなかった可能性があります。
太平洋戦争中の日本海軍の兵隊を描いた本として、高橋孟著「海軍めしたき物語 (新潮文庫)」というすばらしい書物があります。それに匹敵するとの印象を受けました。
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須藤彰著「自衛隊救援活動日誌」

2011-10-19 20:40:54 | 歴史・社会
自衛隊救援活動日誌  東北地方太平洋地震の現場から
クリエーター情報なし
扶桑社
この本がおもしろいという評判を聞き、アマゾンへ見に行きました。すると、私が注文した9月20日頃にはなぜか新刊書で購入することができなかったのです。今年7月10日に発行されたばかりなのに。やむを得ず古書で購入しました。
10月2日頃はアマゾンで新刊購入可・ただし在庫なし、そして10月19日現在は新刊が購入可能・在庫ありになっていました。

著者の須藤氏は1974年生まれ。東大文学部を卒業して当時の防衛庁に入庁したという経歴の持ち主です。
国家公務員Ⅰ種試験に合格して防衛省(防衛庁)に入った事務官は、以前は部隊で勤務することがなかったそうです。平成18年、「政策補佐官」というポストが新設されました。全国5箇所の陸上自衛隊方面総監部のそれぞれに置かれています。事務官が部隊で勤務する形態が生まれました。
著者の須藤氏は、平成22年10月に東北方面総監部(仙台)の政策補佐官に着任しました。そして3月11日の震災に遭遇したのです。
最初の3日間は本省との連絡に寝る間もなく忙殺されましたが、15、16日にはじめて現地視察に出かけました。この2日間、現地を見た絶望感の気持ちを整理するため、日記を書き始めました。
しばらくして、防衛大臣秘書官から、須藤氏が見た現場の実情を教えてもらえないかと依頼を受け、この日記を提供しました。その日記が省内で評価され、出版を勧められるに至りました。大臣までも強く勧めていると聞き、日記を出版するに至ったと言うことです。
3月16日から4月24日までの期間、ほぼ毎日の日記が綴られた書籍です。

現地を視察すると、自衛隊員に対して皆が親しみを現してくれます。自衛隊員の主力は東北地方出身者であり、隊員が心優しく被災者に接しているからではないか、と解析しています。(3月19日)
避難所を視察して被災者の話を直接聞いたときの様子も、被災者の置かれた状況をよく活写していました。(3月20日)
某県の救援物資の配給については、県が配給計画について細かく精度を上げようとするあまり、配給が滞っている状況があるようでした。県が効率的に荷を捌くことができないのであれば、民間業者にすべてを委ねてしまう方がベターですが、県にはそれができないのです。(3月21日)

自衛隊が瓦礫を動かすについて、現行法の範囲内では、道路上や民家の瓦礫を脇によけることは可能ですが、別の場所に移動する権限はありません。それに対し3月15日に指針が出され、自治体の承認を得て自衛隊が瓦礫を除去することが可能となりました。

現地での災害復旧作業について、自治体毎にずいぶんと対応が異なるようです。ある市では、所有者の権利に配慮をするあまり、道路を塞ぐ鉄くずもせいぜい道ばたに寄せるだけとなり、なかなか道路が広がりません。それに対し、自治体が前向きに企画し、それに自衛隊が協力するという形になると、目に見えて住民の生活が良くなり、住民の意欲も上がってくるといいます(3月25日)。

大臣の現地視察があり、牡鹿半島の避難所を視察しました。現地の部隊が大臣から激励されたということで、部隊長は大感激でした。
現地避難所で自衛隊が被災者の世話をしていると、被災者から多くの苦情が寄せられますが、自衛隊員は少しでも希望を叶えてあげようと努力しています。そのような彼らにとって一番応えるのは、上官などからの不信の目だといいます。その牡鹿の部隊長に大臣から激励の言葉をもらったことは本当に良かったとしています(3月28日)。

大槌町では役場職員の1/4に当たる30人ほどが死亡・行方不明となっています。そこに10人ほどのボランティアがいます。彼らは「学校の成績表の特記事項に書いて欲しいので来ました」程度の動機できていますが、役場の人に話を聞くと本当に役立っているそうです。被災者を直接支援する仕事ではなく、裏方で地味な役割を担っていますが、誰かがやらなければならない作業です。
陸前高田市も大槌町も職員の1/4を失い、報道では「機能不全に陥っている」と言われていますが、実態はちがいます。若手中心に前例にとらわれず、のびのびと仕事を進めています。
これが平時であれば、役所内の各セクションが縦割りの弊害を発揮し、複数の部署にまたがる仕事についてはどの部署が主管になるかで揉め、なかなか着手できないそうです。それに対し今回は、むしろ平時よりも迅速に物事が決まっていくようです(3月30日)。

続く
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震災前に東電が行った津波試算の経緯

2011-10-17 23:22:28 | 歴史・社会
東電が、福島第一原発で10mを超える津波を想定した試算を過去に行っていながら、あくまで「仮定の試算」であるとの理由で対策を講じてこなかったことがわかっています。
私も、「10mの津波来襲は『有り得ない』が、仮に来襲したとしてその際の被害状況を試算した」ということであれば、試算結果を対策として反映する必要はないだろう、と考えていました。
しかし、最近の報道によると、『有り得なくはない』仮定であったことがわかってきました。

1677年 M8の房総沖地震 13メートル津波 浸水想定
東京新聞 2011年10月4日 朝刊
『福島第一原発が想定を超える津波に襲われる可能性があると東京電力が予測していた問題で、房総沖地震(1677年)と同規模のマグニチュード(M)8クラスの地震が福島県沖で発生した場合にも、同原発が最大13メートルの津波で浸水するとの予測を東電がまとめていたことが3日、本紙の情報公開請求に対して経済産業省原子力安全・保安院が開示した資料で分かった。
原発への津波予測を再検討している土木学会は昨年12月、福島第一原発への津波は、この地震などをもとに想定する方針を固めていたが、東電は予測結果を公表せず、対策を先送りしていた。
開示されたのは、東電が福島第一原発直前の3月7日に保安院に提出し、「取扱注意 お打ち合わせ用」と題された三枚の資料。
それによると、東電は2002年に国の地震調査研究推進本部がまとめた「東北から房総にかけての日本海溝沿いなら、どこでもM8級の地震が起きる」という報告を基に、福島第一、第二両原発への津波の高さを試算した。
その結果、福島県沖で房総沖津波が発生したと仮定した場合、福島第一原発は最大13.6メートル、福島第二は14.0メートルの津波に襲われると試算。いずれも想定波高の倍以上で、敷地の一部が浸水すると予測していた。
同じくM8クラスの明治三陸地震(1896年)と同等の地震が起きた場合は最大15.7メートルの津波で浸水し、貞観地震(869年)の場合は、最大9.2メートルで浸水しないと結論付けていた。
東電の松本純一原子力・立地本部長代理は「房総沖津波の試算は土木学会の方針に基づいて行ったが、まだ研究段階で、対策を取るには議論が不十分だった」と話している。』

2002年に国の地震調査研究推進本部が「東北から房総にかけての日本海溝沿いなら、どこでもM8級の地震が起きる」と報告しており、この報告をもとに試算したら、福島県沖で房総沖津波(1677年)と同じものが発生したと仮定した場合、福島第一原発は最大13.6メートル、福島第二は14.0メートルの津波に襲われるとの結果が得られたわけです。

この経緯をたどれば、国の地震調査研究推進本部が「起こりえる」と報告した地震とそれに起因する津波の高さが13.6mと算出されたのですから、決して「有り得ない」仮定ではありません。「あり得る」仮定です。
朝日新聞10月13日の記事によると、東電が上記試算を行ったのは08年とあります。この時点から公開の議論を重ね、必要な対策を講じていれば、今回の津波までに最低限の対策が間に合っていた可能性があります。02年の地震調査研究推進本部報告直後から試算と対策を行っていれば、もっと完璧に対策が完了していたでしょう。

なぜ試算の実施が遅れ、試算結果は隠されていたのか。
東電はお役所以上にお役所体質であり、先輩の仕事にケチをつけるような発言は御法度だと聞いたことがあります。「先輩が策定した地震対策が不十分だったとの結論を出したら、先輩の仕事にケチをつけることになるから許されない」という理由で試算結果が闇に葬られていたのだとしたら、返す返すも残念なことです。
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放射能除染費用は誰が負担するのか

2011-10-16 18:06:52 | 歴史・社会
東京電力・福島第1原発事故による放射能汚染をめぐって、環境省が国の責任で除染する対象を「年間被曝線量が1ミリシーベルト以上の地域」とする方針を決めました。当初は「年間5ミリシーベルト以上の地域」としていましたが、汚染した地元の反発を受けて、基準を大幅に見直したということです。
除染にかかる費用は、年間5ミリシーベルト以上であれば1兆円ですが、年間1ミリシーベルト以上となると8兆円に跳ね上がるということです。環境省は簡単に基準変更を認めましたが、この費用を誰が負担するのでしょうか。
環境省の見解は、「東京電力に求償する」つまり最終的には東電が支払うということです。東電にはそのような支払い能力があるのでしょうか。

この点について長谷川幸洋氏は『原子力損害賠償支援機構法に仕掛けられた東電への「資金の抜け道」 増税の裏で東電を税金で支援するのか 国会で議論をし尽くせ』において、以下のように述べています(10月14日)。
『原子力損害賠償支援機構法によれば、重大事故を起こした東電は新設された支援機構から資金援助を受ける。機構は国が交付した国債を必要に応じて現金化して東電に払う。一方、東電は特別負担金を機構に払って、国債を現金化した分だけ、後から分割返済する。これが基本である。
ところが、支援機構法の第68条はこう定めているのだ。
「政府は著しく大規模な原子力損害の発生その他の事情に照らし、機構の業務を適正かつ確実に実施するために十分な負担金の額を定めるとしたならば、電気の安定供給その他の事業の円滑な運営に支障をきたし、または利用者に著しい負担を及ぼす過大な額の負担金を定めることとなり、国民生活および国民経済に重大な支障を生ずる恐れがあると認められる場合に限り、機構に対し必要な資金を交付することができる」(一部略)
要約しても理解しにくい文章だが、ようするに大事故が起きて東電の賠償負担が大きくなり、結果として電気料金値上げがあまりに大きくなるようなら、政府が機構に別途、カネを出しますよという話である。
この資金を受け取った東電は返済しなくていいのだろうか。ここがポイントである。
他の条文によれば、東電が特別負担金で返済するのは「国債を現金化した分まで」と読める。つまり機構が直接、政府から現金でもらって現金で東電に払った分は別勘定であり、東電が返済する必要はない。先の関係者はそう指摘している。
簡単にいえば、東電はタダでもらえる「抜け道の資金ルート」があるのだ。
  ・・・・・
しかも第68条だけでなく、国会の修正審議では当初案になかった条項も付け加えられた。それは、機構が東電に資金援助する場合、国債の現金化だけで不足する場合は別途、資金交付できるという第51条だ。
第68条が国債現金化で援助した後の資金交付であるのに対して、第51条は事前の資金交付を想定している。あらかじめ、それほど手厚い支援を考えているのである。』

ちょっと待ってください。この「おカネあげます」の話、ずいぶん前に聞いた覚えがあります。探したらありました。
古賀茂明(経産省キャリア)×長谷川幸洋(ジャーナリスト)「民主党から旗をかかげる人よ、出てこい」 退職勧奨を受けた改革派官僚を直撃VOL.3の1ページ目。
2011年07月25日(月)
『古賀:実は、ほとんど知られていませんが、賠償機構法案には最後の切り札があって、「タダで東電にお金をあげます」という意の条案が入っているんです。条案の中の交付国債に関する部分に、但し書きで「ものすごく大変な時にはただでお金あげます」という条文が入っている。』

上記で古賀氏発言は「条案の中の交付国債に関する部分に、但し書きで」とあるのに対し、長谷川氏がいう68条は「雑則」の中に入っているので、その点で相違しますが、意味するところはまったく同じように思われます。
私は、7月の古賀発言から、「条案の中の交付国債に関する部分に、但し書きで」を手がかりにして法案を読んだのですが、それらしい条文を見つけることができませんでした。それっきり気になっていたのです。

原子力損害賠償支援機構法の審議過程で、古賀茂明氏はすでに気づいていたわけで、同じように気づいていた人は皆無ではなかったでしょう。国会審議でなぜこの点は追求されなかったのでしょうか。

68条を適用するか否かの判断は誰がするのでしょうか。主管官庁か、国会か、司法か。この条文を適用するのであれば、少なくともその前に、株主責任を負ってもらって100%減資をしてからにしてほしいです。

また、最終的に国民が負担するのですから、「本当に8兆円もかけて、年間1ミリシーベルト以上の全地域の除染を行うのか否か」という点については厳しい審議が交わされるべきです。環境省が、人の金だと思って簡単に承諾する話ではないはずです。
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自衛隊施設部隊が南スーダンPKO派遣

2011-10-15 21:21:31 | 歴史・社会
10月15日朝日新聞朝刊の一面トップは「陸自の施設部隊派遣へ 南スーダンPKO」でした。
南スーダンに陸自の施設部隊派遣へ PKO
アサヒコム 2011年10月15日3時0分
『野田政権は、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に陸上自衛隊の施設部隊を派遣する方針を固めた。第1次の現地調査団が、首都ジュバは治安上の問題はないと結論づけており、ジュバでの活動を念頭に派遣が可能と判断した。今後、国連と協議したうえで早ければ11月下旬に部隊派遣を閣議決定し、年明けにも活動を始める予定だ。
第1次調査団は内閣府と外務、防衛両省で構成し、ジュバや北部のマラカルで南スーダン政府高官や国連幹部から聴取。関係者の話を総合すると、ジュバは「早期の部隊派遣や活動開始が可能」として、「ジュバを拠点として施設活動を行うことで検討を深めることが適当と判断した」と結論づけた。
政権は現在、南スーダンまでの補給路などを確認するため、ケニアなど周辺国に第2次調査団を派遣。今月下旬の帰国後に部隊派遣を正式決定し、具体的な派遣規模や日程を固める。』
さらに紙面によると、国連南スーダン派遣団(UNMISS)幹部が「当面はジュバでの活動を期待する」と表明し、派遣時期は来年5月ごろの雨期入り前を要請。国連が期待する活動内容は国際協力機構(JICA)が計画しているナイル川沿いのジュバ港や架橋工事関連の道路整備などで、将来的にはジュパの北方約150キロにあるボアなどに活動範囲を拡げる可能性もあるとしました。

今回、陸自施設部隊を南スーダンに派遣するに至る経緯を追ってみました。スーダン南部が分離独立して南スーダンが成立したのが、今年7月9日です。
南スーダンでのPKO 国連が日本に自衛隊派遣を要請
アサヒコム 2011年7月14日5時1分
『南スーダンへの国連平和維持活動(PKO)部隊派遣について、国連PKO局が12日にニューヨークで開いた関係諸国との会議で、日本政府に対して自衛隊の派遣を要請していたことがわかった。外務省には前向きに検討すべきだとの意見がある一方、防衛省には慎重論が根強く、菅政権の方針は未定だ。
 ・・・・・
具体的な活動内容は現地のニーズを踏まえて国連が検討するが、道路などのインフラ整備が主要任務の一つになりそうだ。』
首相、国連総長に南スーダンPKO派遣表明へ
アサヒコム 2011年9月22日3時4分
『国連総会出席のため米ニューヨークを訪問中の野田佳彦首相は21日午後(日本時間22日未明)、国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長と会談する。首相は今年7月に独立した南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に少人数の司令部要員を派遣すると伝えるほか、陸上自衛隊の施設部隊の派遣が可能かどうかを見極めるため、現地の治安情勢などを調べる調査団を出すことも表明する。
 ・・・・・
南スーダンPKOについては、潘氏が8月上旬に来日した際、菅直人前首相に対し、道路整備などに当たる300人規模の陸自の施設部隊派遣を要請。菅氏は「しっかりと対応したい」と応えていた。』
などの記事によれば、独立直後の7月12日に国連PKO局が日本政府に対して自衛隊の派遣を要請し、8月上旬に来日した国連の潘基文事務総長が当時の管総理に要請し、それに対して野田総理が9月21日に潘事務総長と会談して陸自施設部隊派遣の可能性を表明し、今回に至っているようです。

先日、J-Wave瀬谷ルミ子さんにおいて、南スーダンPKOに対する瀬谷ルミ子さんの意見を紹介しました。瀬谷さんが事務局長を務める日本紛争予防センター(JCCP)は南スーダンに現地事務所を開設し日本人代表(日野愛子さん)が活動しています。
瀬谷さんが防衛省の人たちと接した印象では、日本も防衛省も、日本がどういう目的・スタンスで陸自施設部隊をPKO派遣するか、まだはっきりしていないといいます。

陸自PKO派遣でまず問題となるのが武器使用基準です。今回も武器使用基準は緩和しないとのことです。そうすると、安全な場所でしか活動できません。南スーダンの首都ジュバは治安が安定しているから、そこで活動するようです。そうとしたら、なぜ自衛隊でなければならないのか、わからなくなります。JCCPが現地事務所を開設し日本人女性が代表を務めていられるような安全な場所なのに、なぜ自衛隊なのでしょうか。
結局、武器使用基準があるから危険な場所には出て行けず、自衛隊でなくても活動可能な場所で活動する。その目的は、自衛隊としてPKOの実績を積んで今後の役に立てたいから、ということになるのでしょうか。

なお、南スーダンでの日本の援助については、瀬谷さんのJCCPのみならず、JICAが大々的に活動を行っているのですね。これも先日、テレビ東京の番組(「地球VOCE」10月7日・14日放送分)で見ることができました。職業訓練所を開設し、日本人指導員が大勢で活動していました。活動内容はJICA 南スーダンで見ることができます。

今回の陸自施設部隊派遣については、「JICAでもできる活動を今回は陸自のOJTも兼ねてPKOで行う」ということになりそうです。
しかしそうとしたら、国連は最初からJICAでの活動を要請してくるはずであり、国連PKO局が陸自施設部隊の派遣を要請するはずがありません。国連が要請した最初の趣旨は、やはり「軍隊でなければ活動できない場所でのインフラ整備」を目的に陸自施設部隊派遣を要請したと考えるべきでしょう。それに対して、日本は武器使用基準の緩和を行わない範囲での活動に限定し、安全が確認された首都ジュバに限っての活動を受諾したのでしょう。
国連としても「それなら来なくて結構」とも言えないのでしょうね。

10月13日の朝日新聞オピニオン「耕論 自衛隊はどこへ」で、伊勢崎賢治氏が発言しています。
まず南スーダンへの派遣問題に対して「日本は判断が遅すぎる。国連から要請を受け、外務省・防衛省などで調査団を送って、帰ってきて、検討して、それから派遣でしょう? 時間をかけすぎです。部隊を出すならもっと早く出さないといけません。」としています。「現地は急を要するからです。準備に時間をかける余裕がないからこそ、単独で行動できる軍事組織を送る意味があるわけですから。」
また、米政府の海外援助部門の幹部の話として「米国は人道援助が必要な地域にまず軍を送り、軍はなるべく早く政府や民間の援助組織にバトンタッチし、本来の任務に戻る。軍は人道援助組織ではないから。だが日本は一番最後に自衛隊を送り、ずるずるといる。これは逆じゃないか。」と紹介しています。

そして伊勢崎氏は、日本にふさわしい業務として停戦監視を挙げています。
南スーダンに行くのなら、緊張関係にあるスーダンとの国境地帯で、これ以上紛争を起こさないように監視する。監視要員は少佐、陸自でいえば3等陸佐以上が条件であり、非武装で駐在して停戦を維持します。危険度は高いですが存在感は高い。
丸腰ですから武器使用基準をごちゃごちゃ言う必要がありません。日本にもっとも適した業務だと伊勢崎氏はいいます。

伊勢崎氏が主導したアフガニスタンDDRでも、軍事監視団の問題がありました。私がアフガン復興で日本がやってきたこと(2)で書いたように、DDR推進に際し、中立の軍事監視団が存在しませんでした。通常の国連活動であれば、非武装の軍事監視団が現場に駐在し、極めて権威ある活動を行います。
このような非武装の軍事監視団に日本の自衛官が参加できれば、これほど日本の自衛隊にふさわしい活動はありません。伊勢崎氏は当時、日本政府に要請しましたが、まったく反応がありませんでした。結局、お金は日本が出し、国連アフガニスタン支援団の軍事顧問チームを監視員として借り受け、伊勢崎氏が団長になって監視団を組織しました。伊勢崎氏の任期は1年でした。軍事監視団はNGO(日本地雷処理を支援する会)の園部宏明氏に引き継がれました。
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