弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

2023秋 大田黒公園

2023-12-06 18:29:53 | 杉並世田谷散歩
先日11月30日、昼前に荻窪の職場に出かける用事があったので、そのあと、近所の大田黒公園アクセス)に出かけました。

エントランス


銀杏並木


以下、園内の紅葉










コロナ前の2015~2017年秋には、大田黒公園の紅葉をずいぶん写真に収め、このブログでも紹介してきました。
2017秋 大田黒公園 2018-01-06
大田黒公園2016秋 2016-12-04
秋の太田黒公園(1)2015-12-05
秋の太田黒公園(2)2015-12-10
2015~2017年の紅葉に比べると、今年の紅葉はちょっと寂しく感じました。葉っぱが縮れたようであり、また色も鮮やかさが不足しているように感じます。やはり今年の夏の猛暑が、紅葉にはマイナスだったのでしょうか。

荻窪駅まで帰り着くと、ちょうどお昼時です。コロナ前の出勤勤務時のお昼によく利用していたお店のそばを通ったので、ここでお昼を食しました。
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千川上水1

2022-05-29 09:24:43 | 杉並世田谷散歩
玉川上水は、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで続きます。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)

私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。さらに残った明大前から四谷大木戸までを、昨年11月にやっと完了しました。

玉川上水の鷹の台-三鷹の区間は2010年4月3日に歩き、として記事にしました。

       鷹の台-三鷹(クリックすると大きな地図になります)

この区間にある境橋において、玉川上水から分水した千川上水が始まります。
境橋の北東方向に左下写真のように緑地帯が見えます。これが千川上水の始まりです。玉川上水事典の千川上水によると、
『(千川上水は)玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿への引水にあった。』とあります。
その後、何回も廃止・再開を繰り返したようです。最後は昭和41年(1966)まで使用していました。
『かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、王子村紙幣寮抄紙工場へ用水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は20ヵ村に波及し水田面積100㌶、取水制限の際には、「番水約定」のもと、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。
平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万㌧放流、水量の70㌫は善福寺川へ、30㌫は板橋に至り、流末は石神井川である。』
右下の写真で千川上水の始端に水が流れている様子が見られます。この水が、遠く板橋の先で石神井川まで流れ着いているのです。
 
千川上水

下の図は千川上水の全体図です。青抜き部は開渠、黄色部は暗渠を意味します。


玉川上水の境橋で千川上水の起点を眺めて以来、いつかは千川上水も踏破したいものと考えていました。そして今回、その計画が現実のものとなりました。

まずは5月25日、千川上水の起点である境橋から、環八との交差点までの約8kmを歩くことができました。以下がその記録です。



私は歳で体力が落ちているので、余計な徒歩区間を極力減らそうと考えています。わが家から境橋までについては、中央線の武蔵境駅からバスを利用して移動しました。

境橋の交差点で玉川上水の側から、千川上水の開渠の起点方向を見たのが下の写真です。前方の緑地がそうです。写真の手前から緑地までの間の地下部分に、昔は玉川上水からの分水の暗渠が走っていたのでしょう。




開渠のスタート地点(下写真)の近くに、上写真の石碑が建っています。上記平成元年の放流開始を祝った石碑でしょう。


千川上水起点(境橋)から関前5丁目交差点までの間には、蛍橋と樋口橋があります。


蛍橋に至るまでの水路が、上写真と下写真です。


関前5丁目交差点において、上水は暗渠として地下を流れています(下写真)。


関前5丁目交差点から武蔵野大学前交差点までの間には鎮守橋があります。下の3枚の写真は、鎮守橋の手前部分の水路です。






武蔵野大学前の交差点を過ぎてすぐのところに、下写真にあるような石橋供養塔と庚申塔があります。

説明書には「五日市街道と千川上水が交わるこの地に、古くから橋が架けられていまた。天保12年(1841)に、石橋に掛け替えられた。その完成を記念して、石橋供養塔が建てられた」とあります。五日市街道は、新高円寺付近から西進し、ここ武蔵野大学前の交差点に至っています。

武蔵野大学前交差点から関前橋交差点までの間には、葭窪橋、千川橋があります。
下の2枚の写真は、武蔵野大学前から葭窪橋までの間の水路です。


この区間、下の写真のような構造が何カ所か作られています。何を模したものか不明ですが、分水の分岐点を模したものかもしれません。調べたけれどわかりませんでした。


千川上水は、関前橋交差点を経て電通研究所前交差点までは、大きな通りと並行して走っています。電通研究所前からは、大きな道路とは並行しない流路となります。電通研究所前交差点から更新橋交差点までの間には、三郡橋、西窪橋があります。
下の写真は、三郡橋と西窪橋の間の区間です。


トイレに行きたくなりました。どうも千川上水の流路には公衆トイレが設置されていません。更新橋の交差点で南に下り、トイレを探しました。交番で聞いたら、近くの体育館にトイレがあるとのことです。近くの運動場(武蔵野陸上競技場)ではどこかの学校の運動会が開かれていました。


すぐ近くに説明書きがありました(下写真)。説明によると、戦前・戦中はこのあたりに中島飛行機の武蔵製作所があり、当時の中島飛行機の運動場が、現在の陸上競技場になったとのことです。




更新橋交差点から吉祥寺橋までの間には、西北浦橋、北浦橋、桂橋、東北浦橋があります。下の写真は西北浦橋です。


吉祥寺橋付近で、千川上水は左に折れ曲がります。下の写真で、後方の緑地が折れ曲がった下流部分、近い方の緑地が折れ曲がる前の流路部分です。


この付近において、千川上水の北側は広い畑地となっています(上写真、下写真)。


吉祥寺橋から石神井西中交差点までの間には、上水のすぐ北岸が私有地であるような地域があります。そのような場所では、上水に私有の橋がかかっています(下写真)。


この付近の水路です(下写真)。


石神井中交差点から関町1丁目交差点までの間には、田中橋、久山橋、竹下橋があります。下の写真は久山橋と竹下橋の間です。


関町1丁目交差点で、千川上水は青梅街道と交差します。そして、この交差点の上流側は原則として開渠でしたが、この交差点から下流側はそのほとんどが暗渠となり、千川上水をたどることができなくなります。「千川上水緑道」としてたどれる場所は迷いません(下写真)。


そこから先は、道路名が「千川通り」とあることのみが頼りです。
左手に上石千川児童公園が現れました。

上の写真にあるように、この場所には昭和40年頃まで水車が回っており、区内でも一番最後まで、上水を利用し、粉が碾かれていたのです。公園内には水車の形をした遊具もあります(下写真)。


通りの南側に、水タンク塔とおぼしき建造物が見えてきました(下写真)。千川上水と関係があるのか不明ですが・・・・。


千川通りが西武新宿線の線路を横切る踏切において、忽然と千川通りが開渠として出現します。

上の写真は、下流側から上流側を見た写真です。夏草が生い茂って分かりづらいですが、この生い茂っている部分が開渠です。同じ場所から下流側をみたのが下の写真です。線路の下を開渠がくぐっています。


踏切をわたって線路の北側へ行くと、下の写真のように、「千川上水橋梁」の下をくぐり、その場で暗渠にもぐってしまいます。


ここから先、千川上水の開渠を見ることはできず、さらには「千川上水緑道」すら見ることができません。
下の写真は、井草4丁目交差点までの間、通りの北側の風景です。この先に「ちひろ美術館」があるようです。


今回は、井草4丁目交差点を過ぎ、千川通り沿いにさらに環八との交差点まで歩きました。起点からの全体距離は8km弱と思います。最寄りのバス停(八成橋)から荻窪駅までバスで移動し、そこからは電車で帰宅しました。
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2022年初詣

2022-01-02 13:45:08 | 杉並世田谷散歩
明けましておめでとうございます。

2022年の初詣は、1月2日に氏神様である和泉熊野神社に詣でました。
2日ということで初詣客の行列は全くありませんでした。一方で、破魔矢やおみくじの購入は可能であり、初詣の行事を無事に済ますことができました。

和泉熊野神社
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玉川上水踏破-再開

2021-11-12 20:53:27 | 杉並世田谷散歩
先日のブラタモリで、玉川上水を特集していましたね。

玉川上水は、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで続きます。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)

私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。以下がそのときの記録です。
羽村取水口-拝島()(2008年11月23日)

       羽村取水口-拝島(クリックすると大きな地図になります)

拝島-鷹の台()(2010年2月20日)

       拝島-鷹の台(クリックすると大きな地図になります)

鷹の台-三鷹()(2010年4月3日)

       鷹の台-三鷹(クリックすると大きな地図になります)

三鷹-明大前(1011)(2011年1月8日)

       三鷹-明大前(クリックすると大きな地図になります)

そうです。明大前から四谷大木戸までの区間を残したまま、11年弱が経過してしまいました。
私は現在、特許事務所に勤務し、主に在宅で執務しています。齢73歳となり、業務量も減少傾向にあるので、時短勤務ですがそれでも時間に余裕ができてきました。最近は海外旅行に行かないので年休にも余裕があります。そこで、仕事が切れたときを見計らって、年休を取得してあれこれ歩き回ることにしました。
その第1弾として、玉川上水の未踏破部分の再踏破を試みることにしました。
すでに、明大前から幡ヶ谷まで、幡ヶ谷から四谷までと、2回に分けて踏破は終了しています。

ps 11/28
実際の記録として、玉川上水(12)玉川上水(13)として別の記事で記述しました。

明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)まで(図面をクリックすると大きな地図になります)

戻る                            続く
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暗渠巡り

2020-06-07 16:04:13 | 杉並世田谷散歩
暗渠巡り 街の魅力再発見
人混み避ける「通」の散歩術 川・用水…昔の姿思いはせ

2020年5月28日 日経新聞夕刊
『新型コロナウイルス対策の外出控えは、足腰の衰えを招きがちだ。シニア層には深刻な問題といえる。そろそろ外を出歩きたいが、人混みは避けたい。こうした向きにお勧めなのが、マニアックなテーマを決め近所を探索する新・散歩術だ。代表格が暗渠(あんきょ)巡りだろう。川や用水をふさいだ跡をたどればわが街の魅力を再発見でき、水害への備えにもなるという。達人らに極意を聞いた。
暗渠の愛好家は「ここ5年間で3倍ほどに膨らみました」。・・・暗渠巡りに足を踏み入れて11年たつ。』

私も、暗渠(隠れ川跡)を見つけてはわくわくしてその跡を辿り、すでに20年近くになります。このブログでは、「東京の街中に残る川の痕跡 2010-11-28」として記事にしています。
--以下、ブログ記事再掲------------------
何を隠そう、私も隠れ川跡フェチなのです。
杉並・世田谷の道々を散歩で回って、「ここは昔のどぶ川の跡ではないか」という怪しい路地が見つかるとわくわくし、その路地に分け入っていきます。
どのような場所が川跡かというと、
○ ものすごく狭い路地だが、くねくねとどこまでも続いている
○ 両側が段になって高くなっているところが多く、いかにもその路地が昔どぶ川だった風情である
○ 道路と交差する箇所に自転車止めの柵があり、「遊歩道」と書かれていることが多い
などの特徴を備えているところです。

杉並・世田谷は、戦前から終戦直後にかけては畑だったところが多く、畑の真ん中をくねくねと流れていた川が、その後の宅地化の時代にもそのまま川として残り、最後にどぶ川に蓋をされて暗渠化した、ということでしょう。暗渠になった後もそこは空間のままで残り、今では遊歩道と名前を変えて路地として残っているのです。

杉並の善福寺川北岸にある川跡を一つ紹介しましょう。
このグー地図を開いてみてください。
地図の真ん中あたりに、南北にくねくねと鎖線が走っています。この鎖線は、成田東一丁目と松ノ木一丁目との境界を示す線なのですが、同時に私が紹介しようとする川跡路地の位置をも示しています。この線に沿って歩くと、人がすれ違うのがやっとという狭くてじめじめした路地に入り込み、そしてその路地が延々とどこまでも続くのです。南の和田堀公園から北上した場合、五日市街道と交叉したあたりまで続き、そこで消滅しています。
ネットで検索したら、この川跡、善福寺川 リバーサイド Blog松ノ木支流という名称で紹介されていました。
--ブログ記事再掲以上------------------

さて、上記日経新聞の記事には、以下の書籍が紹介されていました。
はじめての暗渠散歩 ──水のない水辺をあるく (ちくま文庫)


書籍の中で、以下のスマホアプリが紹介されていました。さっそく両方購入し、iPhoneとiPadにインストールしました。
東京時層地図(iPhone) | 日本地図センター
東京時層地図 for iPad | 日本地図センター
どちらも、地図7種類(文明開化期、明治のおわり、関東地震直前、昭和戦前期、高度成長前夜、バブル期、現代)と、航空写真、それに土地の高低を陰影と明るさで表示した図(高低地形図)が内蔵されています。

iPhoneの方は、好みの地図を選択すると、GPSで現在地の地図が表示されます。今歩いている土地が、明治の頃にどのような地形だったのかがわかります。さっそく、日々のウォーキングで、明治の地図とGPSをたよりに歩いています。私の居住エリアである杉並区と世田谷区は、区画整理がほとんど行われておらず、明治時代の道路がほとんどそのまま残っているので、明治時代の地図で道を辿ることができるのです。
昭和の初め頃の地図を表示させれば、水路が青線になっています。そのような水路は現在は暗渠化されている場合が多いので、この地図を見ながら暗渠の存在場所を見つけることができます。

iPadの方は、左右2画面になり、それぞれに好みの地図を表示させます。どちらかの図をスクロール・拡大縮小するともう一つの図も同時に動きます。左の図で表示する場所を指定し、右の図で昔の様子を確認することができます。
たとえば左に現代の地図、右に高低地形図を表示させ、その土地の高低を右の図で確認できます。さっそく、山手線の内側、文京区のあたりの谷筋の位置を確認しました。私は1歳から18歳くらいまでこの地域が生活圏だったので、谷や坂の位置を明確に記憶しているのです。

さて、私のウォーキングの武器が一つ増えました。
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神代植物公園2019年5月

2019-07-07 14:52:28 | 杉並世田谷散歩
5月12日、神代植物公園を訪問しました。古新聞になってしまいましたが、とりあえず記事をアップします。

調布駅からバスに乗り、神代植物公園前で降りると、もうお昼時です。降りてすぐのところに、Green Front Cafeを見つけました。


店内には、興味あるアンティークが飾ってあります。そのうちの一棚は、アンティーク航空計器でした。店員さんに聞いてみたら、オーナーさんの趣味だそうです。


そのうちの一つに、「旧日本海軍 九九式艦上爆撃機計器類」との表示のものがありました(下写真)。九九艦爆といえば、真珠湾攻撃に参加した急降下爆撃機です。真珠湾に停泊していた米海軍戦艦は、その装甲が急降下爆撃機の爆弾では貫通できないので、日本側の主な攻撃は、九七式艦上攻撃機(九七艦攻)による魚雷攻撃と水平爆撃でしたが・・・。
 

九九艦爆計器類の標識の左にあった計器(左下写真)には、「羅針盤二號二型」との記述があります。こちらの記事によると、『日本陸軍の主力軽爆撃機「九九式双発軽爆撃機Ⅱ型」に搭載された爆撃機用羅針盤(二号二型)』ということです。標識の左下に刻印された○に☆印は、「五芒星」といって陸軍の標識だそうです。

右上の写真には、「WWⅡスピットファイアー ガンサイト」との説明があります。

前回神代植物公園を訪れたのは、2018年1月でした(こちら)。そのときは冬景色でしたが、今回は5月です。植物公園を歩くと、ちょうどバラの真っ盛りでした。






さらに歩くと、深大寺門の周辺はこんもりとした林の中です。




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2018 初詣

2018-01-07 20:21:23 | 杉並世田谷散歩
本年の元日初詣は、わが家の氏神である和泉熊野神社に詣でました。昼過ぎだったのですが、鳥居から本殿までは参拝客で長蛇の列ができていました。

翌2日のウォーキングの途上、昨日と同じ和泉熊野神社に行ってみると、もう参拝客の列は皆無です。境内には2、3人の参拝客が歩いているだけです。本日の目的は破魔矢の購入でした。巫女さんの売店テントはまだありましたが、破魔矢は扱っていませんでした。
《大宮八幡宮》
そこで、足を延ばして大宮八幡宮まで歩きました。参道は、方南通りと永福町商店街通りの交差点からスタートします。その参道の途中に材木屋さんがあり、お正月は店頭の材木に絵が描かれています(左下写真)。
鳥居をくぐって境内に入ると、多くの露天が開いていました(右下写真)。
 
大宮八幡宮参道の材木屋さん                   大宮八幡宮境内

今年の正月は寒い正月でしたが、6日土曜は、晴天を保ちながら寒さが緩みました。そこで、深大寺神代植物公園を訪問することとしました。
以前は、調布駅から徒歩、あるいは布田駅から徒歩で深大寺を訪問したのですが、今回は調布駅からバスを利用して深大寺入口まで行き、近くのそば屋さんで腹ごしらえをしてから行動開始です。まず深大寺を参拝し、そのあとに神代植物公園を訪れました。

《神代植物公園》
神代植物公園へは、深大寺門から入場しました。
深大寺門から西に進むと、道は雑木林の中に続いています(下写真)。

深大寺門近くの雑木林

雑木林を抜けると、そこには、中央に噴水、その向こうに大温室の建物が並んでいます(下写真)。

噴水 遠景は大温室

噴水の右側(北側)には藤棚が長く続いています(左下写真)。
 
藤棚                            芝生広場

大温室の中を一回りし、そこからつつじ園、築山を経て芝生広場に出ました(右上写真)。
芝生広場の一角で、ニュートンのリンゴの木を見つけました(左下写真)。ニュートンの自宅に生えていたリンゴの木を接ぎ木して繁殖させたものだそうです。小石川植物園を経て平成22年にこの地に植えられました。
 
ニュートン自宅のリンゴの木(接ぎ木)             タイムカプセル(平成23年)

右上写真は、開園50周年を記念して、平成23年に埋められたタイムカプセルということです。
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大田黒公園2016秋

2016-12-04 22:02:54 | 杉並世田谷散歩
荻窪、大田黒公園の紅葉の季節がやってきました。昨年の紅葉の様子については以下の記事にしました。
秋の太田黒公園(1)
秋の太田黒公園(2)

本年は、11月29日と12月2日の昼休みに訪問するとともに、今年はじめて、12月3日に夜のライトアップを見に行きました。ライトアップの期間は、11月25日(金)~12月4日(日)で、私が訪問したのは終了前日の土曜の夜でした。
紅葉の進み具合は、昨年の同時期とほぼ同じようです。

《11月29日 昼》




《12月2日 昼》






《12月3日 夜》
ライトアップ終了前日の土曜の夜ということで、入場している人の数は多かったです。園内の一部歩道では、人の渋滞も発生していました。しかし、以前経験した函館の夜景に比べればかわいいものです。ライトアップの写真撮影ではシャッター速度が遅くなるので、カメラぶれ対応が必要です。園内は三脚禁止ですので、手頃な樹木、置き石、手すりなどを利用してのカメラの固定に苦慮しました。












池の水面に、対岸の紅葉が映し出されています。




12月4日(日)の夜、家内と出かけて再度ライトアップを鑑賞しました。この日がライトアップの最後となるので、前日にも増した人出を予想していたのですが、案に相違して前日よりも少ない人出でした。

《明治天皇荻窪御小休所 11月29日》
大田黒公園からの帰り、明治天皇荻窪御小休所にも立ち寄りました。

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四面道と四面燈

2016-09-04 14:10:28 | 杉並世田谷散歩
荻窪駅の北西に青梅街道と環八の交差点があります。「四面道」と呼ばれています(下の写真)。
  

この「四面道」の由来について、どうも3つの説があるようです。例えばこちらこちら

(1)江戸時代、ここは青梅街道と地元農道の交差点でした。そして、天沼・下井草・上荻窪・下荻窪の4ケ村が接する地点でもあり、それが「四面道」の語源である、という説です。
(2)この場所には、秋葉神社という神社が祀られていました。そして周囲の4ケ村に向けて、四方を照らす高さ1間あまりの常夜燈があり、これが「四面燈(しめんとう)」と呼ばれていた、とされます。
(3)荻寺光明院のお堂が四方に面していたから四面堂になったという説です。

上記(2)説の常夜燈と秋葉神社は、昭和44年の道路拡張のため荻窪八幡神社境内に移された、ということです。そこで、荻窪八幡神社に「四面燈」を探しに行くことにしました。
荻窪八幡神社は、青梅街道沿い、荻窪警察署の対面に位置しています。私の職場は荻窪駅の近くにあり、職場の昼休みに荻窪八幡神社を訪問しようとしたら、徒歩では無理です。まずは、往復タクシーで訪問することにしました。過日、参拝したのですが、残念ながら「四面燈」らしきものを見つけることができませんでした。帰ってからネットを確認したところ、その四面燈は小さなもので、私が見落としていたことがわかりました。さらに、帰るために空車のタクシーを待っていたところ、路線バスがけっこう頻繁に走っていることがわかりました。
そこで次の機会、昼休みに路線バスを利用して再度訪問することにしました。
《荻窪八幡神社》
 
青梅街道沿いの鳥居(上写真)から入り、突き当たりを右に曲がると本堂(下写真)です。立派な神社でした。
《本堂》
 
さて、目的の四面塔です。上の写真の鳥居から入り、突き当たりを左に曲がったすぐ左側に、小さな神社が祀ってあり、そのさらに左にもっと小さな神社が祀ってあります。それが秋葉神社です。そして、秋葉神社のすぐ左に、その四面燈はありました。
《秋葉神社と四面燈》
 
《四面燈》
 
秋葉神社の由来                      四面塔の裏側
  
秋葉神社のすぐ右に小さな石碑があります(左上写真)。
「当秋葉神社は数百年の永きに沍って四面道に鎮座していたが今般の環状八号線拡張の為已むなく当八幡神社境内に遷座奉安したものである」昭和四十四年三月吉日
四面燈の裏面には、
「嘉永七年甲寅吉祥」とあります。1857年、明治維新の直前ですね。

「四面燈」、交差点で四方を照らしていたということから、さぞや立派な常夜灯かと想像していました。荻窪八幡宮の境内にある下写真の灯籠(四面塔ではない)のようなものを想像していたのですが、想像との落差にびっくりしてしまった次第です。
  

ところで、「四面道」由来説(3)についてです。
荻寺光明院は荻窪駅のすぐ西にあり、私も訪問し、この3月に記事にしています
その荻寺に掲示された説明書には、
『今も寺の周辺に残る「四面道」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。』
とあります。即ち、当の荻寺は、当然ながら(3)説を支持していると言うことですね。
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荻窪~荻寺

2016-03-21 14:10:20 | 杉並世田谷散歩
久しぶりの荻窪ネタです。

荻窪駅の北口から白山通りを線路沿いに西に向かうと、白山神社を通り越し、環八の上を横断します。そこにこの寺があります。

慈雲山荻寺光明院

荻窪の地名のルーツということで、荻窪巡りで外すことができません。

説明板によると、
慈雲山光明院は、通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
この寺の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)に行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
本尊の千手観音は南北朝時代の作であり、境内には本尊と同時代に作られたとみられる碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼるものと考えられます。
江戸時代は本尊は「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたと言われています。

明治21年(1888)甲武鉄道(現在の中央線快速)建設のため、本堂が現在地に移されました。

環八に向かう側に正門があります。

 
案内板                        正門横の鐘楼

この寺の所蔵物について、門のそばには3つの案内塔が設けられていました。いずれも杉並区指定有形文化財です。
「木造 千手観音菩薩座像」
「夜念仏結衆名供養板碑」
「天和二年銘手水鉢」

本堂

 
南側、中央線の線路の向こうに墓地が見えます(左上写真)。明治時代に今の中央線の線路が建設されたとき、本堂のある境内と墓地とが線路で分断されてしまったのですね。線路は、その後複々線化されましたから、境内の浸食はさらに進んだのでしょう。
本堂側から墓地に行くために、専用の地下通路が作られています(右上写真)。墓地側で公道に通じていますので、普通の道としても使えます。
 
西側から、墓地と線路を眺めたのが上の写真です。


西側の入口、裏門になるのでしょうか。
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