弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

iPadのタッチパネルで親指シフト入力

2013-11-28 19:49:04 | サイエンス・パソコン
私がパソコンのキー入力として、ローマ字入力でもJISかな入力でもない、親指シフト入力を使っていることについては、このブログでも再三報告しています。例えば、親指シフトキーボード「年収10倍アップ勉強法」など。親指シフト入力を実現するため、専用のキーボードを使用しています。Reudo社のRboard Pro for PCというキーボードで、発売中止になって久しいですが、私はしぶとく使い続けています。

私は、初代iPadを所有しています。もともとは、母親の90歳の誕生日プレゼントで購入したのですが(90歳でiPadを使えるか)、母親も93歳になって自分ではiPad操作ができなくなり、私の手元に置いている状況です。

iPadで文字入力が必要になったら、当然ながらタッチパネルでローマ字入力や五十音入力を利用していました。
そのiPadに、親指シフト入力を可能にするアプリが登場したというニュースが飛び込んできました。Facebookの「親指シフト」グループで、アプリ開発者の岸川克己さんという方が、iOS版の親指シフトエディターを開発しているというニュースは、10月から目にしていました。最近になってフェイスブックの発言を紐解いてみたら、発言の数が500を超えるほどの濃密な議論がされており、そしてソフトの方は、岸川さんと親指シフトユーザーの対話を元にして改良を加え、すでにApp Storeへの登録も完了していたのです。岸川さんのご努力に感謝します。
早速、App Storeにアクセスして、たった600円でiPad用親指シフト入力ソフト(N+Note)を入手しました。
たぶんiOSの構造によるのでしょう、iPad全体を親指シフトにすることはできず、N+Noteというエディーターの中でのみ親指シフトが可能となります。下の画面です。

エディーター入力が終了したら、完成したテキストをDrop Boxに送り込むことができます。下の写真です。私もドロップボックスを使っていますから、これでiPad入力結果をパソコンと共有することが簡単にできます。

さっそく使ってみました。
しかし、タッチパネルでのタッチタイプ、極めて難しいです。
タッチタイプでの基本は「ホームポジション」です。左右8本の指をホームポジションに保持することが、タッチタイプの前提となります。どのように保持しているかというと、常に8本の指をホームポジションのキーの表面に接触させているのです。右手の人差し指で「U」を押しに行くときも、中指から小指まではホームのキー表面に接触したまま、手のひらを移動して人差し指の先をUに到達させます。
ところが当然ながら、タッチタイプでは待機する指をキーの表面に接触させることができません。即ち、通常のキーボード入力とは全く異なる動作が要求されることになるのです。そして、待機する指が宙に浮いた結果として、指の位置は指標を失います。ブラインドタッチは困難であり、キーを見ながらの入力となりますが、小指や薬指のポジションは見えません。

現時点では、タッチパネルでの親指シフト入力が実用の域に達するのか否か、全く不明です。
一方、フェイスブックでのユーザーの発言を読むと、非常にスムーズに習得し、使いこなしている人が多いのでびっくりします。私だけが落ちこぼれなのかもしれません。

一つ、キー配列で気になっていることがあります。
中段と上段のキー配列のずれを見ると、左右キー間隔の半分だけ、キー配列がずれています。これは通常のキーボードと比較してずれが大きいです。通常のキーボードにおける中段と上段のキー配列ずれは、せいぜい左右キー間隔の1/4です。そのためと思いますが、例えば左手小指で「Q」、薬指で「W」を打とうとすると、たいてい外してしまいます。
ここも不思議なのですが、フェイスブックでこの点をユーザーから指摘する声が全く上がっていません。私だけが異常なのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川口マーン惠美「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」(2)

2013-11-24 10:23:17 | 歴史・社会
先日、川口マーン惠美「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」を記事にしました。そこでは、ポーランドで2009年9月にドイツのメルケル首相が行ったスピーチのみを紹介しました。

ここでは、同じ川口マーン惠美著「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」について、その他の印象に残ったトピックスを挙げておくことにします。

○ 日本人は食べることが好きだが、ドイツ人はまず「住」次が「衣」、最後に「食」という順番になる。ドイツ人はのちのちまで残るものには贅沢にお金を使う。
○ ドイツの夕食は、伝統的に火を使わない。チーズやハムをパンに載せて、ちょっこっと食べておしまい。(20ページ)
○ ドイツ人の家では、ステンレス製のシンクも蛇口も鏡のようにピカピカで、顔が映るほどだ。洗い物をした後、彼らは最後にシンクをふきんで拭いて、完全に水気を取ってしまう。洗面所の陶器のシンクも同様だ。
○ 逆に、公共の場所については、日本の方が圧倒的に清潔だ。(28ページ)

○ ドイツでは、家庭の一般ゴミは、所定の容器を自治体から借り受け、2週に1回回収する。容器の大きさによって費用が異なり、120リットルなら年間34000円。ゴミを減らすほど費用が安くなるシステムになっている。
○ ドイツでは、包装ゴミは、所定の黄色い袋に入れておくと3週間に1回、無料で回収してくれる。回収費用はメーカーが負担しており、自社製品の包装材の量に応じて負担する。各メーカーは包装を軽減することとなった。

○ ドイツ人は後に残るもの、減価償却期間の長いものには高価であってもお金を出すが、サービスや、すぐに消えてなくなるものには、たとえ安価であっても出し渋る傾向がある。

○ ドイツ人の持ってくるプレゼントは、お金があってもなくても、日本人から見ると極端に安価なものが多い。
日本では、子どもでもないかぎり、詩を書いた紙切れ1枚で誕生日のプレゼントとすることは許されない。(50ページ)

「あえて言うなら、ドイツ人は、サービスにだけは根っから向かない民族なのだ。彼らは、店員が客に対して、おかしくもないのにニコニコするのは、欺瞞だと信じている。それどころか、夫婦喧嘩の鬱憤や偏頭痛のイライラを客にぶつけるのは、それは人間なのだから当然許されるとも思っている。しかし、気分が悪いのにニコニコするのは正直な人間のするべきことではないとなると、サービス業は成り立たない。客は店員の顔色をうかがうために買い物に来たわけではないのだ。」(69ページ)

「ドイツから日本に帰ってくると、日本人は本当に穏やかだと思う。東京の雑踏のなかでも、満員電車の中でも、人々は殺気立たず、罵り合うこともなく、常にそれなりの秩序と平安が保たれる。」
「日本では、たとえ何かトラブルが起こっても、相手が一方的に正当性を主張し、こちらに非難を浴びせかけてくるなどと言うことはない。だから私の日頃の警戒感は、日本の地を踏んだとたん、見事に消える。
そこで、警戒感をなくした私の身に何が起こるかというと、安心しすぎて、うっかり電車を乗り越したり、あちこちで物を置き忘れたりする」
このことを知人に話したところ、外国帰りの人はいずれも、日本で暮らす日本人から見てもぼんやりしている傾向があるそうです。
「日本人は穏やかで、普段から、他人と喧嘩腰の物言いになることが少ない。こういう国が珍しいことは、ちょっと海外へ足を延ばせば、すぐにわかる。」
「それなのに、ドイツには、日本人は残虐な国民であると思っている人間がかなりいる。」
『ドイツで、日本に対するこういうイメージがしばしば強調される一番の理由は、アメリカと中国が戦後一貫して行ってきた「南京虐殺」のプロパガンダのせいだ。』
「日本のことなど何も知らない人々が、日本人は卑怯で残酷なことをした国民だと、何となく漠然と信じているというのが、今のドイツの現実だ。」(97ページ)

「まじめで優秀で勤勉というのは、世界に知られた日本人のキャラクターであった。ところが、その日本人にいつ頃からか、猥褻、淫乱などという、ありがたくないイメージが付着している。」
「日本にいる日本人は、自分たちがドイツ人からそんな風に眺められているなどとは露も知らないと思うが、これは本当の話なのだ。」(107ページ)
『日本人のイメージが急速に悪化した直接のきっかけは、十年ほど前の「援助交際」についての報道だった。』
-----------以上--------

今までいろいろの本で読んで知っていたドイツと一致するところもあります。
一方、何回かドイツを旅しましたが、ドイツ国内で『雑踏のなかや満員電車の中で、人々が殺気立ったり、罵り合っている』光景に遭遇したことがありません。もうちょっと長く滞在していれば遭遇するのでしょうか。

先日川口マーン惠美著「国際結婚ナイショ話」で紹介した著書「国際結婚ナイショ話」は、1997年出版、ドイツに渡って15年後、川口さん41歳のときです。一方、今回紹介した「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」は、2011年出版、ドイツに渡って約30年後、川口さん55歳のときです。「国際結婚ナイショ話」では、ご夫君との会話が多く登場していました。それに対して今回の「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」では、ご夫君との対話が一切登場しません。一体どうしたことでしょうか。娘さんたちとの会話は多く登場するのにです。川口さんが離婚したという情報は一切ないのですが、気になるところです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川口マーン惠美「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」

2013-11-20 20:34:10 | 歴史・社会
川口マーン惠美さんの著書「国際結婚ナイショ話」を読んで、先日川口マーン惠美著「国際結婚ナイショ話」を書いたところです。この本は、本の表題と相違して、格調高い日本語で書かれた日独の比較文化論というべきものでした。私の記事の最後で、“川口さんがこの本を出版したのが1997年、ドイツに渡って15年後、川口さん41歳のときです。それからさらに16年が経過しています。現在57歳の川口さんの考え方がどう変わったか変わっていないのか、その点にも興味がわきました。”と書きました。

そこで読んでみたのが以下の本です。
サービスできないドイツ人、主張できない日本人
川口マーン惠美
草思社
単行本でもあり、今回は図書館で借りて読みました。
2011年2月発行ですから、川口さんがドイツに渡って30年弱で出版されたものです。

この本でも、あまりセンスの良くない本の表題とは異なり、格調高い日独比較文化論が展開されています。
それはさておき、私が最も印象深く読んだのは、比較文化論ではなく、ドイツとポーランドとの微妙な関係についての記述でした。

第二次大戦において、ドイツはポーランドに攻め込んでポーランドとポーランド人に塗炭の苦しみを与えました。
2009年9月、グダニスク(ポーランド)でポーランド政府主催の第二次大戦開戦70周年記念式典が行われ、ドイツのメルケル首相が招かれてスピーチを行いました。
『メルケル首相のスピーチは、心のこもった追悼の辞だった。第二次世界大戦を、「ドイツが引き起こした戦争」と定義し、「ドイツの首相として、ドイツ占領軍の犯罪の下で言い尽くせない苦しみを味わったすべてのポーランド国民のことを忘れません。」と述べる。』
『ポーランド人の心の中では、常にドイツ人が加害者で、自分たちは被害者なのだ。
つまり、この両国の関係は、表面上は友好的で、外交上は抜かりはないが、だからといって、その友好が心からとは言い切れない冷ややかさもある。そのあたりは、たとえば、ドイツ側がちょっとでもポーランドを非難するようなことを口にすると、ポーランドがいきなり攻撃的になることでわかる。』
第二次大戦終結後、ドイツ東部の広大な土地がポーランドに割譲されました。不幸だったのは昔からここに住んでいた350万人のドイツ人で、かれらは資産を剥奪され、着の身着のままで故郷を追われ、ドイツへたどり着く前に多くの人が命を落としました(チェコ、ハンガリー、ソ連からの引き揚げ者を含むと、犠牲者は211万人にのぼると言われています)。しかし、ドイツがこの件について「追放」という言葉を使うことさえもポーランドには許せないらしいです。
『彼らの攻撃の仕方を見ていると、「ドイツ人にだけは言われたくない」という感情が、ありありと見える。』

ここまで書いたら皆さんもお気づきでしょう。「ドイツ」を「日本」に、「ポーランド」を「韓国」「中国」に置き換えたら、現在の東アジアで起きていることと全く同じ現象であることに気づきます。

規模(犠牲者の数など)では日本のしたことはドイツのしたことに比較して遠く及ばないでしょう。また、ドイツの場合は「悪いのはナチスで、すでに裁かれたし、今でも許されていない」と責任を着せる対象がいますが、日本の場合には日本国民が直接責任を負わなければならないので、ドイツに比較して謝罪しにくいところがあります。
しかしそれにしても、メルケル首相のスピーチは参考にすべきでしょう。日本人は、「いつまで謝罪すれば気が済むのか」などといわず、「日本のせいで言い尽くせない苦しみを味わったあなたたちのことを忘れません」と言い続けるべきではないかと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本代表・対オランダ戦

2013-11-16 23:48:45 | サッカー
いやあ、久々に血湧き肉躍る日本代表戦でした。

前半、日本が優位に攻めていたのに、カウンター・ミスが重なった2度のワンチャンスを2度とも決められ、“こりゃだめか”と消沈しかけたのですが、前半終了間際、吉田→長谷部と渡って最後大迫のゴールで生き返りました。
後半は、清武、長谷部に替わって香川と遠藤が入ると、日本はやはり変わりました。
細かいパスは通る、セカンドボールをマイボールにする、そして時間が経過してもオランダペースにはさせませんでした。
遠藤が中央から右サイドへ展開すると、内田→岡崎→本田→内田→大迫へ。その大迫のダイレクトバックパスを本田が左足ダイレクトでシュート。見事ゴール右隅に決まりました。こんな気持ちいい展開からのゴールは久方ぶりです。

結果は2-2の引き分けです。
前半は、“最後の決定力の差でオランダに歩あり”との印象でした。後半は、日本もオランダも決定的チャンスをいくつか外しました。これらチャンスに決められたら、決めた方のチームが勝利したことになったでしょう。

久方ぶりに、日本代表の小気味よいダイレクトパス回しと、それによって相手を抜き去りチャンスを作り出す場面を観ることができました。

私が「唯一の懸念事項は、遠藤ヤットの後釜が見つかっていないことです。」と唸ったのは、約3年前のアジアカップのときでした。それから3年、ワールドカップ本戦までとうとう7ヶ月に迫ってしまいました。このまま、日本代表は遠藤頼みでワールドカップ本戦を戦うのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レイテ島の日本国際緊急援助隊・医療チーム

2013-11-15 00:04:49 | 歴史・社会
<比台風>日本の援助隊 道路と治安の悪化で現地入りできず
毎日新聞 11月14日(木)11時31分配信
『日本からフィリピンへ出発した緊急援助チームは、現地の交通事情や治安の悪化などのため、活動予定地への移動を中断するなど、14日午前時点でも本格的な活動開始のメドは立っていない。
外務省によると、医師や看護師ら27人で構成する日本の国際緊急援助隊・医療チームの本隊(22人)は13日午前、フィリピン・レイテ島西岸のオルモックから、直線距離で約40キロ北東にある同島中心都市タクロバンに向け、車で移動を開始した。現地警察の警護を受け、同島中部の山間部を抜けるルートで現地を目指したが、道路状況の悪化に加え、「住民が暴徒化している」など治安悪化に関する不確定情報が錯綜(さくそう)しているため、14日午前、いったん移動を中断している。現地治安当局や、既に空路で現地入りしている先遣隊(3人)と連絡を取りながら、移動再開の機会をうかがっている。』

このニュースにある「国際緊急援助隊・医療チーム」については、国際協力機構(JICA)の国際緊急援助隊事務局に勤務していた野村留美子さんによるレポート「インドネシアジャワ島中部地震 国際緊急援助隊医療チームに参加して」を読めばよくわかります。

JICAによる医療チーム派遣はすでにパッケージ化しており、2006年5月に野村留美子さんが派遣されたインドネシア派遣と、今回のレイテ島派遣はほとんど同じスタイルと思われます。派遣チームの携行機材は、応急処置対応が主となります。

以下に、野村さんのレポートから抜粋します。
----抜粋開始-----
JDR医療チーム
今回派遣されたJDR医療チームは、4つある国際緊急援助隊のチームの一つである。他には救助(レスキュー)、専門家、自衛隊チームがあるが、医療チームの歴史が一番長く、派遣実績も44回(今回の派遣を含む)と最も多い。

医療チームは、通常21名から構成され(今回は最終的に25名)、団長を筆頭に副団長、医師、薬剤師、看護師、医療調整員、そして業務調整員から成る。活動期間は2週間だ。
今回私が派遣されたのは業務調整員というポストである。今回は4名派遣された。
医療チームの活動期間は原則2週間と決まっているが、その間、医療チームのメンバーがスムーズに活動できるような「場」を整えることが私たちの役割である。こうしたロジスティックスは活動の成否に関わるほど重要であると緊急援助の世界で言われている。
たとえば、適切な診療サイトが確保できるか否かで、その後の診療者数も、隊員のセキュリティも、日本・現地メディアへの露出も大きく左右されてしまう。

一団を乗せた飛行機は一路ジャカルタへ。そこからすぐに、最大の被災地であり先遣隊が診療サイトを確保したバントゥール市にバスで向かう。
1時間ほどしてバントゥール市内の目抜き通りに到着。そこには1日早く着いた先遣隊が立てた簡易テントが数戸立ち上がっており、既に診療を開始していた。テントの前には既に診療を待つ患者の列が出来ていた。

到着後すぐに、診療サイトのすぐ側にあるムハマディア病院を見学しに行った。
診療サイトを選定する際、州政府からこの病院の近くで活動してほしいという要望があったのだが、この病院とはその後2週間にわたって協力関係を保ち続けた。たとえば、私たちJDR医療チームは携行機材が限られており、応急処置が主となるため、手術を必要とするような重度の患者には対応することができない。そのような患者が診療サイトに来たときは、ムハマディア病院は後方支援病院として機能し、患者を受け入れてくれた。

私たち本隊が到着したその日のうちに、十字型の白い大型テントを全員で立ち上げ、医薬品や医療器具などを運び込んだ。翌日から本格的に診療開始。

私たちが宿泊したのはジョグジャカルタ市内のホテル・ガルーダ。そこから約30~45分かけて診療サイトがあるバントゥール市にバスで行き、夕方には同じ道を戻るという毎日が始まった。成田出発時はテントでの野営も覚悟していたので、ちょっとホッとした。昨年10月のパキスタン地震の際に派遣された医療チームは、周囲に宿泊施設がなく完全な野営で、昼夜の激しい寒暖の中体調を崩した隊員が多かったと聞いていたからだ。

治安と、生活環境。この二つが良好だったおかげで、今回のミッションは非常に順調な滑り出しを見せた。もっとも先遣隊は、「最初3日間の合計睡眠時間が8時間で、死ぬかと思った」というくらいハードなスケジュールだったようだし、診療テントの中も連日32度を超え、脱水症状を起こしかけた隊員もいた。自分も活動開始数日後、脱水症状の前触れかボーッとなり、「これはやばいかな」と思ったことがあった。日本とは異なる気候風土の中での緊急援助活動には、体力と、自分自身のコントロールが不可欠だと痛感した。
-----抜粋終わり------

以上の報告を読むと、現地の状況によって活動が大きく左右されることがわかります。
チームの医療行為は、持ち込んだ十字型の大型テント(こちらのpdf表紙に写真があります。)で行います。手術を必要としない応急処置が中心です。
(1)設営場所は診療サイトとして適切か
(2)隊員のセキュリティーを確保できるか
(3)隊員はホテル住まいできるか、それとも野営か
(4)手術を必要とする重症患者を後送できる病院が確保できるか
(5)夜間、医療機器類を診療テントに置いておいて盗難に遭わないか

今回のレイテ島は、上記5点とも、極めて劣悪な条件であるようです。
本隊は、レイテ島西部のオルモックから島に上陸し、島を南北に走る山地を越えて東部のタクロバンに向かうようです。グーグル地図で見ると、オルモックから海岸沿いに南下してバイバイから山越えに入るか、それとも北部のリモン峠越えしかないようです。日米のレイテ戦当時と変わりません。この時点ですでに困難に遭遇しています。たとえタクロバンに到着できても、隊員のセキュリティーを確保できる医療体制は結局確立できないかもしれません。
つい数時間前、11月13日(水)18時34分配信のニュースでは、
「タクロバン地区では、給水車による島民への給水作業が始まり、十分とはいえないものの、少しずつ物資が行き渡り始めた。
さらに、日本の国際緊急援助隊の本隊の22人も到着するなど、各国の支援も始まっているが」
とあり、いよいよ現地に到着したようですね。

国際緊急援助隊・医療チームの健闘を祈ります。

ps JICAのサイトで国際緊急援助の紹介ページを見つけました。JDR、こだわりの10アイテムという記事もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『イプシロンロケット』打ち上げ成功~日本!弾道ミサイル保有に大きく前進??

2013-11-14 00:28:40 | 歴史・社会
書店の雑誌売り場で、以下のタイトルにつられて「軍事研究」11月号を購入してしまいました。

「『イプシロンロケット』打ち上げ成功~日本!弾道ミサイル保有に大きく前進」

軍事研究 2013年 11月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
ジャパンミリタリーレビュー

「『イプシロンロケット』打ち上げ成功~日本!弾道ミサイル保有に大きく前進」
この雑誌の冒頭の特集記事で、著者は航空評論家 浜田一穂氏です。

イプシロンの打ち上げについては、8月27日の第1回打ち上げ日、9月14日の大2回打ち上げ日のいずれも、ネットの実況中継をライブでみていました。
1回目、カウントダウンがゼロになったのに機体がぴくりとも動かなかったあの瞬間、不思議な光景でしたね。
2回目は無事成功して慶賀の至りです。

雑誌記事著者の浜田氏は、第1回、第2回打ち上げの両方とも、現地で取材しています。

北朝鮮がロケットで人工衛星打ち上げにトライした際には、日本のマスコミは「人工衛星打ち上げと称する事実上の長距離弾道ミサイル発射」とし、日本政府も「人工衛星と称するミサイル発射」と述べていました。今回のイプシロンについて当然ながら、日本政府もマスコミもそのような言い方はしていません。
一方、今回のイプシロンの打ち上げに際し、韓国や中国などのメディアは鬼の首でも取ったように、日本の弾道ミサイル開発の隠れた意図を憶測する記事を載せているといいます。
「北朝鮮が公開した簡素な打ち上げ管制所がネットでは笑いの種となったが、イプシロンの発射管制所はもっとこじんまりしている。」(浜田氏)

そもそも英語では、ロケットの使用目的に応じてMissileとLaunch Vehicleを使い分けているそうです。Launch Vehicle(LV)は「打ち上げ機」であって、弾道弾を運ぶためのミサイルと目的が相違します。日本語では、「打ち上げ機」という用語を普及させなかったため、ミサイルを含めた推進手段の名称である「ロケット」を使わざるを得ず、混乱を招く原因となっているようです。
JAXAでのイプシロンの正式名称は、日本語では「イプシロンロケット」ですが、英語では"Epsilon Launch Vehicle"だそうです。

さて、主題である「イプシロンロケットは弾道ミサイルになり得るか?」の問題です。
弾道ミサイルとして仮想敵に有効な効力(抑止力)を発揮するためには、敵の先制攻撃で破壊されずに発射が可能となるような迅速性と秘匿性を要求されます。
日本のHシリーズロケットは液体水素を燃料とするロケットであり、発射台に立てた後も蒸発のため補充し続けなければならず、打ち上げ準備に1ヶ月以上かかるのですから、弾道ミサイルに使えるはずがありません。
液体燃料を用いる点では北朝鮮の長距離ロケットも同じであり、ミサイル発射の意図明白に発射準備を始めたら、アメリカ軍の先制攻撃で破壊されてしまうことが明らかですから、とても有効な弾道ミサイルにはなり得ません。

これに対してイプシロンは、固体燃料であり、もともと打ち上げに手間がかからないのを売り物にし、打ち上げ管制はパソコン2台でOKとしています。
さらに今回の1号機は、オプションとしてPBS(Post Boost Stage)と称する第四段を乗せていました。固体ロケットの欠点である軌道投入の精度の低さを補うためのものです。実はこのPBSの構成は、長距離弾道ミサイルのPBV(Post Boost Vehicle)にそっくりだといいます。
そして実はイプシロンは、アメリカ空軍のICBM(大陸間弾道弾)LGM-118ピースキーパー(すでに退役)と酷似した諸元を持っています。

核弾頭の開発を別とすれば、日本のICBM開発の最大の技術的ネックは再突入体の開発といいます。

記事の最後を浜田氏は以下のように結んでいます。
「もちろん森田PMはじめイプシロンの開発陣はミサイル化など考えてもいないと言うだろうし、実際ICBM化など今の段階では妄想でしかない。ただ諸外国はそのような目で見るであろうし、過大評価で恐れられるというのもまた一つの安全保障ではないのか。」

なるほど。
表向き、「日本は平和愛好国であり、宇宙開発のために種々の打ち上げ機を開発するが、それを軍事に用いる意志は一切ない」と言葉と態度で表しつつ、一方で「故なく他国から脅威を受けたら対応する能力はあるのだ」との実力をしっかり見せておくということですね。

なお、このブログでイプシロンロケット(又はその開発計画)について記事にするのは、2009年9月の「新型固体燃料ロケット開発」以来となりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風がフィリピンのレイテ島を直撃

2013-11-10 12:27:46 | 歴史・社会
1200人以上が死亡か…台風直撃のフィリピン
読売新聞 11月9日(土)21時49分配信
『猛烈な台風30号が8日、フィリピン中部を直撃した。
ロイター通信は9日、比赤十字関係者の話として、中部レイテ島タクロバンなどで1200人以上が死亡したとみられると伝えた。
比赤十字は、被災地に入った職員の情報から、タクロバンで1000人以上、隣接するサマル島で約200人が死亡したと推計している。』

被害に遭われたフィリピン・レイテ島、サマール島の皆様にお見舞い申し上げます。

レイテ島タクロバンと聞くと、私の頭のなかにはレイテ島の地図がすぐに浮かんできます。
先の太平洋戦争中、レイテ島は日米の激戦の場となりました。
レイテ島を巡る戦いは、大きく二つに分けられます。レイテ島における陸上戦と、レイテ湾突入を目指した日本連合艦隊と米艦隊とが激突したレイテ沖海戦です。

《レイテ島の戦い》
Invasion of Leyte, 20 October 1944
レイテ島の陸上戦については、大岡昇平著「レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)、(中巻)、(下巻)に詳しいです。私はこの本を読んだ結果として、レイテ島の地理が頭の中に入ってしまいました。
1944年10月20日、米軍はレイテ島とサマール島に囲まれたレイテ湾に米軍と輸送部隊を集結し、タクロバン付近から上陸を開始しました。今回の台風がまさに上陸したのと同じ場所です。私が台風のニュースで反応したのがタクロバンという地名でした。
島内には日本守備隊が展開していたのですが、タクロバンから島北部のカリガラまではあっという間に米軍に制圧されました。ところがそのあとは、日米間の激烈な戦闘が展開されることになります。
レイテ島の中央部には南北に延びる山地があり、その山地の東側は米軍が制圧、西側は日本軍が支配する形でした。山地の北端付近にリモン峠という峠があり、そこが激戦の場所となりました。先に峠に布陣したのが日本軍であったため、米軍はこの峠を攻め落とすのに苦渋し、米兵からは「首折れ峠」と呼ばれたそうです。
当時、制空権についてはレイテ島の全域で米軍が制圧していましたが、制海権については、レイテ島の西側はまだ日本海軍のものでした(米潜水艦は跋扈していましたが)。日本軍は、島西岸のオルモックを拠点とし、ここに増派部隊を輸送しようと試みます。ところが、制空権は米軍に握られているので、大部分の部隊はオルモック到着前に米機や潜水艦に撃沈されることとなりました。
結局、米軍は山地の南側から島の西岸に達し、オルモックの日本軍も米軍の急襲を受けて別の西岸付近の山地に撤退することとなり、最後はこの山地内で撃滅されました。
この間の日本軍の壮絶な戦いぶりについては、大岡昇平氏の著書に詳細に記されています。本を読みながら、著者の大岡氏は、この島で戦死した多くの日本兵の声に突き動かされて、この本を執筆したに違いないと感じました。

《レイテ沖海戦》

レイテ湾に集結した米艦隊と輸送船部隊を急襲すべく、日本連合艦隊はレイテ湾突入作戦(捷一号作戦)を計画しました。そのときの戦いがレイテ沖海戦です。
レイテ沖海戦についていろいろな本を読みましたが、最も印象に残る著書は、半藤一利氏の「レイテ沖海戦 (PHP文庫)」でした。
また最近では、百田尚樹著「永遠の0 (講談社文庫)」でも記憶を新たにしました。また、実際にレイテ沖海戦で戦った零戦パイロットの体験記として、岩井 勉氏の「空母零戦隊 (文春文庫)」を最近読み直しました。

結局、西村艦隊がスリガオ海峡を抜けて島の南側に進出しようとして米キンケイド艦隊に撃滅され、小沢囮艦隊は計画通り囮となってハルゼイ空母部隊を引きつけましたが、主力の栗田艦隊はレイテ湾を直前にして謎の反転を行ってレイテ湾突入の主目的は達しませんでした。

フィリピンを襲った台風のニュースに接し、遠くレイテを巡る戦いを想起する日となったのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボスポラス海峡トンネルと大成建設女性エンジニア

2013-11-01 01:26:34 | 趣味・読書
ボスポラス海峡トンネル開通=「150年来の夢」、欧州・アジア結ぶ―トルコ
時事通信 10月30日(水)8時47分配信
『オスマン帝国のスルタン(君主)が構想した欧州とアジアをつなぐボスポラス海峡の海底トンネルが150年越しに実現した。トルコのエルドアン首相や安倍晋三首相らが出席し、開通式典が29日、同国最大都市イスタンブールで開かれた。』
ボスポラス海峡の海底トンネルは、オスマン帝国のスルタン、アブデュルメジト1世が1860年に構想したのが始まりとされるそうです。それから150年、そのトンネルが開通しました。
トンネルは長さ約13.6キロ。地上で作ったパーツを海底に沈める工法のトンネルとしては、世界で最も深い水深約60メートルに位置するそうで、工事は日本の大成建設が手掛けました。

このトンネル、なぜかとても身近に感じます。海底を掘り進むトンネルの工事現場に、私は何回も何回も工事用エレベータで降り立った記憶があります。
そう、テレビのコマーシャルアニメの印象が強く残っているのです。

大成建設 CM アニメ 「ボスポラス海峡トンネル」篇

「ボスポラス海峡トンネル」篇 (高画質版)

『あのころ、飛べなっかた1メートル65センチを、今、海底60メートルで思い出す。トルコ150年の夢、アジアとヨーロッパをつなぐ海峡トンネル。どんな時間もどんな彼方も、私は今度こそ、絶対に超えるんだ。大成建設。』

少女の顔立ちといい、描き込まれた背景といい、“これはジブリ作品ではないか?”と引き込こまれます。近頃では最も印象に残るコマーシャルでした。

そこで描かれていた海峡トンネルが、とうとう完成したのですね。

コマーシャルアニメの成り立ちについては、「大成建設 | ライブラリー - テレビCM」でわかります。
『トルコの海峡鉄道トンネルの現場で、自分の限界を越えようとひたむきに努力する女性技術者の姿をアニメーションで描きました。監督は、アニメーション作家として世界的にも評価の高い新海誠さん。主人公の声を演じているのは、女優としてご活躍中の黒川芽以さん。音楽は、人気シンガーソングライターの熊木杏里さん。アニメーションは(株)コミックス・ウェーブ・フィルムが制作しました。』
詳しくは「制作者プロフィール」に明らかです。

コマーシャルのナレーションは書き起こせたのですが、BGMで流れている歌の歌詞が聞き取れませんでした。歌い出しは「思い出が今、答えに変わる・・・・」のようですが、全体としてどんな歌なのか、気になります。

ps BGMの歌詞がわかりました。熊木杏里さんの「ファイト」という曲なのですね。歌詞がこちらにあります。音源もこちらで見つかりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする