弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ベルギー・フランスのチョコレート巡り

2014-07-27 17:17:01 | Weblog
6月21日~28日のベルギー・フランス個人旅行については、旅行期間中のワールドカップベルギーで見た第一次・第二次大戦の記憶について記事にしてきました。今回は、ベルギー・フランスのチョコレートについて記します。

ベルギーと言えばチョコレート、らしいです。ガイドブックによると、ベルギーの人は年間ひとりあたり8.4kg、一家で約4万円のチョコレートを食するといいます。
今回のベルギー・フランス旅行でも、ブリュッセルやブルージュの観光地を歩き回ると、チョコレート屋さんがたくさんあります。動物や人形をかたどって作られた製品が主です。われわれもいくつかおみやげとして購入しました。

《ゴディバ アウトレット》
ベルギーのチョコレートと言えば、日本人にとってはゴディバでしょう。
そのゴディバのアウトレットがブリュッセルにあるとの情報をガイドブックで見つけました。6月21日から24日まで滞在したブリュッセルの最後は、そのゴディバ・アウトレットです。

24日の朝、ブリュッセルの東にあるサンカントネール公園を訪れ、軍事歴史博物館で航空機の展示を見た後、ゴディバ・アウトレットに向かいました。メトロはメロード駅で乗車します。メトロ1・5号に乗ると、3つめで2・6号に乗り換えて終点のシモンズで降ります。乗換駅で降り、行き先「シモンズ」を目当てに次のメトロに乗り込みました。ところが、止まる駅が地図と違います。おかしいなと地図を見ていたら、そばのおじさんが教えてくれました。2号線は環状線で、どちらも終点がシモンズなのでした。間違えて反対回りに乗ってしまったのです。しかし、環状線といっても山手線とは異なり、一周はたいした距離ではありません。ほどなくシモンズに到着しました。

予めネットで調べたとおり、地上に出たら公園を探し、公園の右方向斜めに進むと、ゴディバはすぐに見つかりましたた。
  
ゴディバの看板を掲げた小さな店が2つ並んでいます。奥の方は「ファクトリー・アウトレット」とあり(右上写真)、ドアには鍵がかかっていました。手前の店(左上写真)に入りました。店員に「ここがゴディバ・アウトレットか?」と聞くとそうだといいます。「隣のファクトリー・アウトレットはなんですか」と聞いたら、従業員専用の店だそうです。
小さな店舗ですが、土産用と自家用のチョコレートを大量に買い込みました。
店から南側方向を望んだ景色が下の写真です。
 

《リンツ》
リンツはスイス製のチョコレートだそうですが、我が家でも好物にしています。今回のパリ滞在中、オペラ座の裏手当たりのスクリーブ通りを歩いていたら、リンツのお店を見つけました。

6月27日、パリから帰国の途につく前の最後に、このリンツのお店を訪問しました。
  
玄関(左上写真)から中に入ると、イケメンの兄ちゃんが笑顔で出迎えてリンドールを一つ手渡してくれます(右上写真)。
そして中央には、リンドールが種類ごとに山と積まれた売り場です(下写真)。用意されている袋か箱に、好きなだけリンドールを詰めて買うことができます。重さ売りです。我々も12センチ角くらいの紙箱にいっぱい、リンドールを購入しました。

 
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旧東京天文台訪問

2014-07-21 20:13:18 | サイエンス・パソコン
7月20日、孫たちや一族でそろって、三鷹市星と森と絵本の家を訪れました。この施設は、国立天文台三鷹キャンパスの中にあります。
昔、この場所が東京天文台と呼ばれていた頃、天文台に勤務する高等官の官舎であった、と説明があります。その建物をそのままの形で用いた施設です。

孫たちがこの“星と森と絵本の家”で遊んでいる間に、有志で旧東京天文台の施設を見学することにしました。短い時間で駆け足の見学です。

正門を入ったところの受付で見学の申し込み(無料)を済ませたら、まずは正門の写真を撮っておきました。

天文台の正門

《第一赤道儀室》
正門から入って左へ進むと、まずは「第一赤道儀室」です。
 
外観は、どう見ても「遺跡」です。中に入ると木造のドームの中に屈折望遠鏡が設置されています。ウィキペディアの説明では、「1921年にカール・ツァイス社により作成された。口径20cm、焦点距離359cm。・・・1939年から60年間、太陽の黒点観測に利用された。」とあります。1999年、つまり今から15年前まで、実際の研究で使われていたのですね。

《大赤道儀室》
次は大赤道儀室です。うっかり、外観写真を撮り忘れたので、ウィキペディアから拝借しました。
"Observatory History Museum NAOJ 2010" by Wiiii - 投稿者自身による作品. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.

  
中に入ると、ドームは木造で、外観からは銅葺きであることがわかります。
ウィキペディアの説明では「口径65cmの屈折望遠鏡がある。これは第二代台長の平山信氏がカール・ツァイス社に注文し、1929年に製造されたものである。屈折式望遠鏡としては東洋最大。」とあります。
見学のしおりには、「建設当時、半球ドームを作る技術が建築業者にはなく、船底を作る技術を持った造船技師の力を借りて作られました。」とあります。85年もの長きにわたって、この木造銅葺きのドームは三鷹の地に立ち続けてきたのですね。
私にとって、「三鷹の天文台」といえばこの望遠鏡ですね。小学校の社会見学で三鷹の天文台を訪問した記憶があるので、この望遠鏡も見ているはずですが記憶は定かでありません。見学の唯一の記憶は、外から見た研究室内に「原子時計」なるものが鎮座しており、その説明を受けたことです。

《太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)》

ウィキペディアには「ドイツ連邦共和国のポツダムに存在した太陽望遠鏡の姉妹機。もともとの目的は、一般相対性理論から予見される重力効果を観測することだった。しかしながら、観測は出来なかった。」とあります。

このほか、レプソルド子午儀やゴーチェ子午環などの由緒ある観測機器が見学可能なのですが、今回は時間がなく(孫が腹を空かせていると連絡が入ったので)、パスすることとなりました。
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2014夏・ピアノ発表会2件

2014-07-14 20:31:20 | 趣味・読書
6月、7月と、立て続けにピアノ発表会に参加しました。
1回目は6月15日、場所は葛西のフィガロ音楽院、私が習っている大城先生の大人の生徒さん6人が出演します。
2回目は7月13日、場所は西荻窪のアトリエ・カノン1階カフェを貸し切りで使い、大城先生と声楽の中村春彦先生の生徒さんたち9人が合同で出演です。

私の演奏曲は2回とも同じで、次の2曲です。
○ シューマン 子どもの情景より 「トロイメライ」
○ ベートーベン ピアノソナタ「月光」第1楽章

トロイメライは練習し始めて2年弱、すでに発表会で3回弾いています。

月光は、練習を開始したのが去年の秋で、発表会での演奏は今回が初めてです。
私は、高校のころにベートーベンの三大ピアノソナタ集をレコードで持っていて繰り返し聞いていたので、ベートーベンのピアノソナタには特別愛着があります。4年前にピアノを習い始めた頃から、“いつかはベートーベン三大ピアノソナタを弾きたい”という願望がありました。しかし、私の腕前で弾ける可能性があるのは月光の第1楽章だけです。それ以外の曲、楽章については、私が背伸びしても弾くことのできない難曲ばかりです。

ということで、弾くとしたら月光第1楽章しかありません。
去年の秋、いよいよ先生からお許しが出て、練習を開始しました。
いくら可能性があるといっても、私の腕前では難しいことに変わりありません。楽譜を見ながらではとても満足に弾けないので、まずは暗譜が必要です。しかしこの曲、繰り返しがほとんどありません。楽譜で3ページですが、膨大な記憶が必要です。
1行1行、弾いては暗譜する生活です。そして今年の冬も終わる頃、とうとう最後まで暗譜できたのです。

家での練習、先生の所でのレッスンでは弾けても、発表会は別です。今まで何回も発表会でいろんな曲を弾きましたが、実力の50%ぐらいしか発揮できません。必ずどこかで引っかかってしまいます。

さて、6月15日の発表会です。
当日、まずは自宅で練習した上で会場に向かいます。開会の1時間半前に着いてしまいました。フィガロ音楽院の練習室のピアノが使えるので、そこで練習を始めたのですが、どうも調子がおかしいです。トロイメライの途中で引っかかってしまうのです。今日は調子のサイクルが落ちている日のようです。
練習時間をいっぱいに使ってさんざん弾き散らかした上で、本番を迎えました。
本番では、問題のトロイメライは何とか弾き終わったのですが、月光の途中でつっかえてしまいました。次に弾くべき内容を思い出せないのです。2度ほど前に戻って弾き直したのですが同じ所で詰まってしまい、ちょっと先の箇所から再開して何とか弾き終わりました。

それから1ヶ月、7月13日の発表会の日を迎えました。

  
大きなケヤキの木のふもとに         アトリエ・カノンはあります。

室内の様子

小さな室内ですが、ヤマハのグランドピアノが1台置いてあり、演奏を聴きながら、食事や飲み物を注文することができます。1時から5時までの貸し切りで、3時まではリハーサル、3時から開演です。

私は、6月と同じ、トロイメライと月光を弾いたのですが、なぜか今回は調子が良かったです。2曲弾いたのに大きなつまずきは1カ所もありませんでした。あとから再生してみたら、小さなつまずきは何カ所もありましたが・・・。今までの発表会では、これだけつまずきの少ない演奏ははじめてです。
取りあえず、動画を上げておきます。
動画 トロイメライ  iPad
動画 月光  iPad

こうして、夏のピアノイベントが2件、完了しました。
10月には毎年恒例の発表会が大きな会場で開かれ、私は今回と同じトロイメライと月光をまた弾くことになります。今回のようにうまくはいかないでしょうが。
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ベルギーで見た第一次・第二次大戦の記憶

2014-07-08 21:50:17 | Weblog
今回のベルギー・フランス旅行から、ベルギーで見た第一次大戦と第二次大戦の記憶についてまとめておきます。

《第一次大戦「フランダースの野で」と太平洋戦争沖縄戦》
ベルギーの首都、ブリュッセルから西方向に電車で1時間ほどいったところに、ブルージュという街があります。ブリュッセル滞在中、6月22日に日帰りでブルージュを訪問しました。

街の中心はマルクト広場です。

マルクト広場


マルクト広場の鐘楼

おみやげを買い求めるため、マルクト広場近くのお店に入りました。そのうちの1店で、おもしろいTシャツを見つけました(下写真)。
  
"FLANDERS FIELDS 2014-2018 The Great War Century"と書かれたTシャツです。描かれている兵士のイメージに見覚えがあります。
私の実家には、私が小学校の頃から、ロバート・シャーロッド著「記録写真 太平洋戦争史〈下〉」があり、小さい頃から繰り返し眺めていました。この写真集の中に、上のTシャツの写真が掲載されていたのです。現在のアマゾンには「記録写真 太平洋戦争〈下〉 (カッパ・ブックス―名著復刻シリーズ)」しか載っていませんが。

現在我が家に保管しているシャーロッド著「記録写真 太平洋戦争史〈下〉」の8ページに掲載された写真が以下の写真です。Tシャツと全く同じであることがわかります。
  
しかし、どうしたことか、この本にはこの写真の出典が全く記載されていません。全巻を通じてこの写真のみですが。
そこで、ネットで検索してみました。なかなか見つかりません。私はこの写真を「あの有名な写真」と記憶していたのですが、世の中では全く無名の写真であるようです。さんざん探した結果、「米従軍記者の沖縄戦日記」というサイトを見つけることができました。
シャーロッド著「硫黄島 (1951年)」に掲載されているというのです。
何ということでしょう。この本を私は所有しているのです。10年以上前、この本を古本で購入して読み始めたのですが、硫黄島の海岸に上陸して傷つき死んでいく米軍兵士の描写があまりにも凄惨だったため、辛くて読み進めることができず、そのままになっていたのです。今回紐解いてみるとその写真はありました。
  
写真は、「沖縄の戦い」の一連の中にありました。「日本軍の十字砲火を冒して『死の谷』を飛び越えて突撃する海兵。」(いずれもアメリカ海兵隊戦闘写真班撮影)とあります。沖縄戦で撮影した写真であるようです。

ところで、Tシャツにある"FLANDERS FIELDS"とは、第一次大戦に軍医として従軍したカナダ人の医師ジョン・マクレーが、ベルギーのフランドル地方イーペルにおいて、戦死したアレクシス・ヘルマー中尉を埋葬するときにしたためた一編の詩であるそうです。詳しくはこちら。ガイドブックによると、ベルギーの西部にあるイーペルには、イン・フランダース・フィールズ博物館というのがあります。「イーペルの町が第一次大戦中徹底的に破壊された様子を写した写真などが展示されている」とあります。ブルージュからイーペルまでは直線距離で60キロくらいのところにあります。
In Flanders Fields(フランダースの野に)と真っ赤なケシの花が関係することはわかりました。Tシャツが3枚並んだ写真の左側のシャツに描かれた花が、ケシの花なのでしょう。しかし、中央のTシャツに描かれた疾走する兵士は第二次大戦の沖縄戦における米兵を写した写真からとっているのです。

《ブリュッセル王立軍事歴史博物館》
ブリュッセルの中心であるグラン・ブラスから東へ3キロほどのところに、サンカトネール公園という大きな公園があり、その東の端に凱旋門が建っています。凱旋門の北側に王立軍事歴史博物館があります。ガイドブックには「中世から第2次大戦までの軍服、吹き、資料の展示がある。スピットファイヤー(1943年)、モスキート(1945年)などの軍用機のコレクションは見ごたえがある。」と記載されていました。今回時間があったので、その博物館を訪ねることにしました。

メトロをシューマン駅で降り、サンカトネール公園を突っ切ると、凱旋門に到達します。

凱旋門

凱旋門をくぐって左側に、軍事歴史博物館の入口があります。
  
軍事歴史博物館入口              入口を入ったところの展示

時間もあまりないので、お目当ての航空機ゾーンだけを見ることにしました。
  
航空機ゾーンの全体                    スカイカフェ

広い展示場ですが(左上写真)、ものすごく多数の航空機が所狭しと置いてあります。ジェット機では、F104, F84G, Gloster Meteor NF II, Gloster Meteor MK VII などが並んでいます。
そしてお目当てのスピットファイヤーとモスキートです。
  
Supermarine Spitfire MK XIV

  
DH Mosquito MK 30

私がモスキートに興味を持ったのは、第二次世界大戦時、連合国によるドイツ・ドレスデンの大空襲において、英空軍のモスキートが登場したからです。「ドレスデン逍遙」~ドレスデン大空襲で記事にしました。川口マーン惠美著「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」についてです。
ドレスデン爆撃は1945年2月13日です。
空襲の日、イギリス空軍からは陽動作戦を含めて合計1180機の航空機が投入されました。このちう772機の四発ランカスター爆撃機と9機の木造機モスキートがドレスデン攻撃に充てられました。
まず先導のランカスター機が照明弾を投下して街を照らし出し、2分後に昭明部隊のモスキート8機が到着します。この昭明部隊が地表に赤い標示弾を落として正確な投弾の位置を知らせるのです。攻撃目標には、オペラ座、ツヴィンガー宮殿、ドレスデン城、ブリュールのテラス、聖母教会、市役所、十字架教会などといった壮麗なバロック建築と旧市街がすっぽりと収まっていました。
午後10時30分、第1陣の243機のランカスター爆撃機が到着して爆撃を開始します。
爆撃の方法として、まず、高性能爆弾を投下し、建物の屋根を破壊して蓋を開けた状態にしておき、そこへ焼夷弾を落とします。すると火の手はあっという間に広がり、火の塊ができ、それが急激に上昇していきます。そのため地表ではすごい真空状態が発生して周囲の空気を吸い込み始め、ここに火焔嵐(ファイアストーム)が起きるのです。
3時間後に第2波として529機のランカスターが到着します。しかしドレスデンは予想以上の火勢で燃えていたので、爆撃隊は作戦を変更して爆撃地域を拡大しました。

この2度の空襲で、ドレスデンには1477トンの爆弾と1081トンの焼夷弾が投下されました。死者の数は未だに不明ですが、3万5千人が妥当だろう、と川口さんは述べます。

この著書の中で、「木造機モスキート」と紹介されています。多分、木造機ならレーダーに察知されにくいでしょうから、それで使われたのだろうと推察しました。現代でいうステルス機です。第二次大戦で実用に耐える木造機とはどんな飛行機だろう、と興味を引かれたのです。

しかし、今回見たモスキート(上の写真)は、とても木造機には見えませんでした。おかしいなと思って帰国後に以下の写真ページ(ウィキペディア)で調べました。
 Charles E. Brown、De Havilland Mosquito B、No. 571 Squadron RAF
モスキートは木造に間違いないようです。展示品はMK 30とあり、ウィキペディアの記述からすると爆撃機ではなく戦闘機のようです。
しかし、当時の最新鋭戦闘機は超々ジュラルミンで作られていましたから、それと互角に戦える戦闘機や爆撃機として、木造の飛行機が使えるとはとても信じられません。信じられないことが実際に起きていたのでしょう。

《ブリュッセル最高裁判所前のプラール広場にあるモニュメント》
ブリュッセル市街の南にある高台に、最高裁判所が建っています。外から見ても立派な建物です(左下写真)。正面から中に入ると、中も立派な吹き抜けホールです(右下写真)
  
最高裁判所正面                最高裁判所内部

最高裁判所の前の広場がプラール広場です。
広場の北西の端には高い塔が建っています(下写真)。遠くから写真を写しただけですが、台座には「1914 1918」「1940 1945」とあります。第一次大戦、第二次大戦の期間であり、両大戦のモニュメントであることは間違いありません。
 

もう一つ。下の写真です。台座には「1914 1918」とあり、こちらは第一次大戦のみを記念したもののようです
 
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W杯~欧州旅行

2014-07-05 19:08:12 | サッカー
ワールドカップ日本戦、第1戦(対コートジボワール)、第2戦(対ギリシャ)はライブで早朝観戦しました。
第3戦(対コロンビア)のときはちょうど家内とヨーロッパ旅行中でした。試合の時間帯は、現地フランスの夜10時からでぴったりだったのですが、何せホテルでのテレビライブ中継がありません。その時間帯は、コートジボワール対ギリシャ戦のみライブ放送していました。そこで、テレビでコートジボワール対ギリシャ戦を表示させつつ、ネットで「ライブテキスト情報」を確認しながらの観戦と相成りました。コートジボワール対ギリシャ戦のハーフタイムに岡崎のゴールシーンは放映していました。

日本が属したグループCのFIFAランクを見ると、コロンビアは8位、ギリシャは12位、コートジボワールは23位、日本は46位です。従って、グループCの順位はFIFAランクどおりであり、順当ということができます。
ところが日本での報道を見ると、日本はグループリーグを突破して当然であって、今回の結果はきわめて不本意である、という論調です。なぜでしょうか。

前回南ア大会では、前評判が悪かったのにグループリーグを突破し、もう一歩で8強に入りそうだった。今回大会では前評判がよいから、グループリーグを突破して当然だ、という論拠でしょうか。
そうとしたら、「日本がFIFAランク46位は不当であり、本当は15位よりも上位であるはず」といっているのと同様になります。

第1戦、第2戦を観戦した限りで、日本代表の戦い方が不本意であったことは確かです。香川にしろ本田にしろ、パスの精度が悪く、また全体平均して全然走れていない印象を受けました。
日本代表は、世界の強豪に比して個人の能力は落ちることから、組織サッカーに徹し、攻撃でも守備でも相手に対して数的優位を保つことによって勝利を勝ち取る、と聞いています。攻撃と守備の両方で数的優位を保つためには、相手よりも長い距離を俊足で走ることが必須です。それは精神力だけでは達成できず、体力の裏付けがなければなりません。
私は、今回の最終キャンプで、ブラジルで戦うためのスタミナ強化に失敗したのではないか、と想像しました。

前回南ア大会の総括を、私はサッカー日本代表~チームはこうして甦ったとして記事にしました。
南ア大会の会場は標高が高く、選手の高地順応に成功するか否かが重要なポイントでした。それに対して日本代表チームは、最終合宿前から選手の高地順応を科学的に行ってきたというのです。2010年5月10日にW杯メンバーを発表した後、酸素濃度を低くできる低酸素マスクセット(7万~8万円)を用意して全選手に配布し、一定時間のマスク着用を義務づけたそうです。標高1800メートルの高地スイス・ザースフェー合宿(5月26日~6月4日)が始まる前から高地トレーニングをはじめていたのですね。ベースキャンプ地ジョージは低地だったため、マスク使用は南アフリカ入り後も継続されました。
ワールドカップ本大会を観戦していても日本選手の足が止まっているようには見えませんでしたし、データでも走行距離で全チーム中2位ということです。
攻撃を任された3人、本田、大久保、松井は、湯浅健二氏が「ボールがないところでの無駄走りが少ない」といって常に批判していた3人です。ところが本番が始まってみたらどうでしょう。3人とも、今までになく走り続けたようです。

一方で今回ブラジル大会です。
選手の敵は高温多湿でした。しかし、高地順応は適切に行えば劇的な効果が得られますが、高温多湿順応などできません。せいぜいが高温多湿に慣れる程度です。
さらには、ブラジルでのキャンプ地が涼しいところだったといいます。「北海道をキャンプ地とし、試合のたびに試合会場の沖縄に移動するようなものだ」との論評がありました。“今回対策は酷暑慣熟対応を誤った”といえるかもしれません。
もしそうだとしたら、日本代表チームは、前回大会と反対に、スタミナ面で最初から勝てる状況になかったのかもしれません。

次に選手の状況です。
《怪我あけの選手》
 長谷部、内田、吉田
《所属チームで調子を落としている選手》
 本田、香川
《年齢から90分間スタミナがもたない選手》
 遠藤
これらの選手を使い続けたことで、ザッケローニ監督が批判されています。
たしかに私もそう思います。
しかし、これら選手を抜いたら、いったいどのような11人がスタメンに名を連ねるのでしょうか。
そうなると、「4年間のザッケローニ体制での準備をことごとく捨て去る」ことに等しいでしょう。中村憲剛を招集しなかったのは納得していませんが・・・。
私は大会開始前から、「今回大会は、ザッケローニ体制での悪いサイクルにちょうど当たってしまった。こればかりはどうしようもない。」と思っていたものです。

さて、今回の私のヨーロッパ旅行、6月21日~28日の日程で、ベルギーとフランスを回ってきました。
現地時間6月22日にはベルギーのブリュッセルに滞在しており、ベルギー対ロシア戦をホテルで観戦しました。試合は0-0のまま膠着状態で、このまま引き分けかと思われていたのですが、後半43分、左サイド2人のワンツーから1人が抜け出してゴールライン際からマイナスのクロスを入れると、走り込んできたオリギが会心のゴールを上げ、ベルギーの勝利となりました。この勝利でベルギーはグループリーグ突破を勝ち取りました。
場所はブリュッセルです。街の中心にプラン・プラスという広場があり、ホテルはそのそばです。私はベルギーの得点直後、「街を見てくる」と部屋を飛び出しました。
フロントのロビーで試合中継を放映しています。試合終了のホイッスルが鳴ると同時に、私はホテルを出てブラン・プラスに向かいました。
広場は、大騒ぎ、というほどにはなりませんでした。広場に面する一角にサッカーカフェらしき店があり(下写真)、そこからベルギーの赤いユニホームを着たサポーターがぞろぞろ出てきて広場で騒ぎ出しましたが、たいした人数ではありません。
 
せっかくなので動画を撮りました。3分あまりの放映であまりたいしたことはありませんので、観ていただくには及びません。時刻は夜10時ですが、まだ外は明るく、夜になっていません。
私はほどなくホテルの部屋に帰りました。道を走るクルマのクラクション、サポーターが吹く鳴り物の音は夜中の12時を過ぎても鳴り止まず、ブリュッセルの人たちが喜びに浸っている様子は聞き取れました。
翌日の朝、ホテルのコンシェルジェやレストランのウェイトレスに「コングラチュレーション!」と声をかけると、皆さん喜んでくださいました。
日本代表の結果は残念でしたが、こうして私は、ベルギーの人たちと喜びを分かち合う機会を得ることができたのでした。

朝食レストランのウェイトレスは、私の「コングラチュレーション!」に笑顔とガッツポーズで応えてくれましたが、そのあと「火曜の試合がどうのこうの」と言っています。そのときはわからなかったのですが、彼女が別の客とイタリア語で話しているようだったので、「イタリアの人ですか?」と聞いたらそうだということです。調べたら、ベルギー時間火曜のイタリア対ウルグアイ戦が、イタリアのグループリーグ突破の大事な試合であることがわかりました。そこで次の機会にそのウェイトレスに「イタリアの幸運を祈っています」と話しかけました。
火曜の朝にわれわれはブリュッセルのホテルを引き上げましたが、その日の朝、朝食からの帰り、そのウェイトレスは我々を呼び止めて握手と投げキッスのサービスまでしてくれました。

26日、フランスはまだグループリーグ突破が決まっていません。しかし、この日の対エクアドル戦で6点以上の大差で負けない限り、フランス突破が決まります。
試合はフランス時間夜10時から始まりました。われわれは翌朝が早いので試合途中で寝てしまいました。翌朝調べると0-0の引き分け、結果としてフランスのグループリーグ突破は決まりましたがさほどのお祝い事ではなさそうです。フランスの人たちと喜びを分かち合うチャンスはありませんでした。

こうしてヨーロッパ旅行中のワールドカップ観戦は終わり、現在は主にニュース番組で試合結果を聞いている状況です。
グループリーグでは、スペイン、イングランド、イタリアなどが早々と姿を消し、南米勢、アフリカ勢が元気でした。アジア勢は未勝利全滅です。これはやはり、ブラジルの高温多湿が影響していたのでしょうか。

ブラジルのネイマールが骨折で次の試合から欠場ということで、観戦側としては寂しい限りです。
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