弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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ポケモンGOスペシャルリサーチその他

2018-09-24 21:04:37 | 趣味・読書
ポケモンGOで、スペシャルリサーチの第2弾が始まっています。始まったのは8月21日だったでしょうか。
最終目標であるセレビィをゲットしたのは9月9日でした。その記録をアップしようと思いつつ、なかなか時間が取れなくて今に至りました。
(1/8)から(8/8)までの8タスクで、それぞれ3つのタスクが用意されています。以下のとおりです。実際には、(7/8)タスクを完了すると、(8/8)タスクでセレビィをゲットできます。

(1/8)のタスク
A.ポケモンを5回強化する
B.ジムバトルを2回する
C.レイドバトルを1回する

(2/8)のタスク
A.3人とフレンドになる
B.進化しているくさタイプのポケモンを進化させる
C.ポケモンを3日間連続で捕まえる

(3/8)のタスク
A.トレーナーレベルを25にする
B.たいようのいしを使ってクサイハナかヒマナッツを進化させる
C.タマゴを9個かえす

(4/8)のタスク
A.イーブイを相棒にして10km歩く
B.イーブイを昼間エーフィに進化させる
C.ギフトを20個贈る

(5/8)のタスク
A.イーブイを相棒にして10km歩く
B.イーブイを夜ブラッキーに進化させる
C.ポケモンを交換する

(6/8)のタスク
A.ポケストップを7日連続で回す
B.ポケモンを捕まえるときにパイルのみを25個使う
C.道具を使ってポケモンを2匹進化させる

(7/8)のタスク
A.くさタイプかエスパータイプのポケモンを40匹捕まえる
B.カーブボールのエクセレントスローを1回投げる
C.ジョウトメダルをゴールドにする

全タスク達成報酬
ぎんのパイルのみ 10個
わざマシンスペシャル 1個
ポケモンと遭遇(セレビィ) 1匹

(8/8)の報酬
- 4500XP
- 4500XP
- 4500XP

各タスクを、その性格別に分類して以下に私の経過を記しておきます。

[1]事前に達成していたタスク
(3/8)A.トレーナーレベルを25にする
(7/8)C.ジョウトメダルをゴールドにする
いずれも、私は事前に達成していたので、フリーパスでした。

[2]ひたすら日数の経過を待つタスク
(2/8)C.ポケモンを3日間連続で捕まえる
(6/8)A.ポケストップを7日連続で回す

[3]ひたすら歩き続けるタスク
(4/8)A.イーブイを相棒にして10km歩く
(5/8)A.イーブイを相棒にして10km歩く
私はだいたい1日で5km歩いているので、(4/8)と(5/8)それぞれを2日間でクリアしたことになります。

[4]フレンド・ギフト関連のタスク
(2/8)A.3人とフレンドになる
私がフレンドになるような仲間(孫とその家族)はすでにフレンドになっています。今からフレンドになる仲間はおりません。まず最初に考えたのは、レイドバトルに参加したとき、近くのみ知らぬ人に「フレンドになってください」と頼むことです。一人の方とフレンドになってもらいました。
そのうち、ネットでフレンド募集掲示板があることに気づき、それを利用してフレンドの数を増やしました。
(4/8)C.ギフトを20個贈る
短期間でギフトを20個も贈るとなると、フレンドの数が必要です。合計で10人に増やし、2日間で20個を贈呈しました。
(5/8)C.ポケモンを交換する
ちょうど孫一家が来訪する日の直前に、(4/8)タスクに到達していました。さっそく、孫とポケモン交換をしました。初めての経験です。

[5]ひたすらポケモンを捕獲し続け、あめをゲットし続けるタスク
(2/8)B.進化しているくさタイプのポケモンを進化させる
私は、あめが集まると進化マラソンで使ってしまうので、いつもはあめを蓄えていません。くさタイプを1段進化し、さらに2段進化させようとすると、そのタイプのあめを125個は集めておく必要があります。その当時、一番頻繁に出現しているくさタイプははねっこでした。そこで、はねっこが出現するたびに、パイルのみを用いつつはねっこを捕獲し続けました。これで、2日かからずにはねっこのあめを125個蓄積し、タスクを終了しました。
(7/8)A.くさタイプかエスパータイプのポケモンを40匹捕まえる
このタスクも、おもにはねっこをゲットし続け、40匹を完了しました。

[6]こちらのスキルが必要とされるタスク
(7/8)B.カーブボールのエクセレントスローを1回投げる
スペシャルリサーチの第1弾でもありました。私はカーブボールが下手なので、一番手こずるだろうと覚悟していたタスクです。前回の経験では、カーブボールを投げてもポケモンにヒットしないのです。
(7/8)に至る前の段階で、カーブボールをだいぶ練習しました。その結果として、カーブボールがポケモンにヒットする確率がだいぶ上がり、その段階で(7/8)を迎えました。その成果でしょうか、さほど苦労せず、モンスターボールをその段階で有料で購入するまでもなく、カーブボールのエクセレントスローを1回投げることができました。

こうしてすべてのタスクを完了し、9月9日にセレビィをゲットした次第です。

現在は、7kmタマゴイベント中であり、フレンド(現在9人)から毎日ギフトを頂き、それを7kmタマゴに変換し、孵化装置で孵化し続けている状況です。狙いはバリヤードとケンタロスです。現時点で、バリヤードを4匹、ケンタロスを2匹ゲットできました。

レイドバトルでのミュウツーも狙っているのですが、現時点ではまだ未完成です。

なお、つい先日、私のトレーナーレベルが最高の40に到達しました。
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槇有恒著「山行」

2018-08-26 15:24:43 | 趣味・読書
6月にスイスアルプスを訪問して以来、スイスアルプスにはまっています。今回は、対象から昭和にかけて活躍した日本の登山家、槇有恒(まきゆうこう)氏について述べます。
まずは、今年のわれわれのスイス旅行と槇有恒氏の関係についてです。われわれは、クライネシャイデックのホテルに2泊し、3日間にわたってアイガーのそばにいました。
このブログのスイスの旅(3)アイガー~ユングフラウに記載したように、槇有恒氏は1921年(大正10年)、グリンデルヴァルトの登山ガイド3名と共にアイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀しました。ホテルの廊下には、そのときに撮られたのであろう写真が飾ってありました。Yuko Maki 10 Sept. 1921”と署名されています。

また、クライネシャイデックとユングフラウヨッホをつなぐ登山電車の途中駅であるアイガーグレッチャーから降り、クライネシャイデックへ至るハイキング道の途中に、槇有恒氏ゆかりの山小屋が移設されて保存されています。

上の写真の右下に見える小屋です。

入口のガラスを通して中を見ると、この小屋が使われていた当時を再現しているようでした(左下写真)。右下写真は、槇有恒氏に違いないでしょう。
 
 小屋の内部                         槙有恒氏の写真
アイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀した記念として、3年後に槇有恒氏が1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作ったそうです。
ネット記事によると、「2001年 ミッテルレギ小屋2号が建てられた際小屋1号をアイガーグレッチャー駅の近くに移動。その後、2011年に現在の位置(ハイキングコース)に移動させました。」とあります。

帰国後、自宅の本棚を調べてみたら、槇有恒氏著の以下の図書が見つかりました。
山行 (1975年) (覆刻日本の山岳名著)
槇有恒
大修館書店
奥付には昭和48年10月30日発行とあります。読んだかどうか記憶がありません。奥付の著者名には「まきゆうこう」とふりがなが振ってあり、正式名が“まきありつね”ではなく“まきゆうこう”であることがわかります。
緒言などによると、この本は大正12(1923)年に発行され、昭和23(1948)年に復刻、さらに昭和48(1973)年に復刻されたものです。そのときどきの、槇有恒氏による緒言、序、まえがきが記されています。槇有恒氏は、1894年(明治27年)生まれ、1989年(平成元年)没(95歳)です。

「登高記」として、6件の登高記録が掲載されています。
1.ヴェッターホルン(1920)
2.メンヒよりアイガーへの縦走(1920)
3.フィンスターアールホルンよりグロッセシュレックホルンへ(1920)
4.マッターホルン(1921)
5.アイガー東山稜への初登攀(1921)
6.マウント・アルバータの登攀(1925)

1から5まではスイスアルプス、6がカナディアンロッキー(初登攀)です。スイスアルプスについては、今回私が実際に自分の目で見た山々であり、実に印象深く読むことができました。私の写真を掲載します。
1.ヴェッターホルン(1920)
          ヴェッターホルン                         アイガー山頂とアイガー北壁

[クライネシャイデックから]                    クライネシャイデックのホテル

2.メンヒよりアイガーへの縦走(1920)
             アイガー                            メンヒ

[クライネシャイデックから]

3.フィンスターアールホルンよりグロッセシュレックホルンへ(1920)
                       シュレックホルン              フィッシャーホルナー?

[アイスメーアから東方]             フィッシャー氷河
上の写真は、ユングフラウヨッホへの登山電車の途中駅(アイスメーア)から東方向を撮影したものです。フィッシャーホルナーの後方にフィンスターアールホルンが位置していると思われます。

4.マッターホルン(1921)
5:49
[ツェルマットから]

5.アイガー東山稜への初登攀(1921)
        東山稜(ミッテルレギ゛)   アイガー北壁とアイガー山頂

[グリンデルヴァルト近くから]

本の末尾に、安川茂雄氏による解説が掲載されています。それによると・・・
槇有恒は慶應義塾に進学し、教授の鹿子木員信の助言を得ながら慶応義塾山岳会を設立しました。アメリカに留学しますがすぐにヨーロッパに移動し、イギリスでは、日本アルプスの父とも言えるウォルター・ウェストン氏を訪問し、氏の助言でスイスのグリンデルヴァルトに居を移すこととしました。
グリンデルヴァルトに長期滞在しながら、槇有恒は、登山技術と知識の習得に努めました。そして、本書の登高記にあるように、ヴェッターホルン(1920)、メンヒよりアイガーへの縦走(1920)、フィンスターアールホルンよりグロッセシュレックホルンへ(1920)、マッターホルン(1921)を経験しました。
当時、アイガー山頂は1858年に初登頂されていましたが、東山稜(ミッテルレギ)経由ではだれにも登攀されていませんでした。この東山稜登攀に、槇有恒は、グリンデルヴァルトに住む3人のガイド(ブラヴァント、ストイリ、アマター)とともに挑み、初登攀に成功したのです。
登攀のスタートは、ユングフラウ登山鉄道の途中駅、アイスメーアからです。私が上の[アイスメーアから東方]の写真を撮影した場所です。絶壁の穴から下の氷海(アイスメーヤ)に下り、氷雪を進み、次いで東山稜の尾根を目指して登攀を開始します。尾根の南側に自然の穴を見つけ、そこを露営の場所と定めました。アマターは尾根の北側に山ランプを起きました。グリンデルヴァルトの村から見えるように。そのうち、村の牧場に強い光の燈火がつきました。ブラヴァントは許嫁のとぼした火だといいます。
翌朝は朝6時に出発、そして最後の急壁を登攀するのに、9時から午後の5時までかかりました。午後7時15分、ついに頂に立ちました。登頂後、日が沈んだアイガーの西壁を下ります。アイガーグレッチャーの停車場に着いたのは午前3時でした。

初登攀に成功したのは4人ですが、登攀技術に長けていたのはむしろ3人のガイドです。しかし、3人のガイドは槇有恒に雇われた身であり、主役は槇有恒、という扱いのようです。

そしてその3年後、槇有恒氏が1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作ったというのです。

グリンデルヴァルトに長期逗留したこと、ガイドを雇って困難な登攀を成し遂げたこと、小屋建設の寄付をしたことなど、その財源がどこから出たのか気になります。本書末尾の解説には『父は奥羽日日新聞の主筆で、のち実業界に身を投じた。』とあります。実業界で成功され、財を築いたのでしょうか。

このあと、1925年、槇有恒氏はカナディアンロッキーに遠征隊を率いて出かけ、マウント・アルバータの初登攀に成功しています。著書「山行」に登頂記が収められています。
私は中学時代から、「マウントアルバータ」という山を知っていました。中学の図書室に「山行」が置いてあって、その目次ぐらいは眺めていたのでしょう。

槇有恒氏がヨーロッパから持ち帰った登山用具、登山技術は、日本の登山を刷新したようです。

槇有恒氏はその後、日本山岳会会長(2期)、日本山岳協会会長・名誉会員を歴任し、ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂を成功させました(1956年(昭和31年))。
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アイガー北壁

2018-07-24 21:35:36 | 趣味・読書
ヨーロッパアルプスの三大北壁として、アイガー北壁、マッターホルン北壁、グランド・ジョラス北壁が知られています。
今回のスイス旅行では、マッターホルンの北壁を斜め方向の遠くから遠望したとともに、アイガー北壁は2日間にわたって近くから眺める機会を得ました。グランド・ジョラス北壁は訪れていません。
ここでは、アイガー北壁について記します。

アイガー北壁は、見上げる方向によってその顔が異なります。
グリンデルヴァルト付近から見上げると、アイガー北壁の左側に、北東側の長い峰と壁が続いています(下写真)。

アイガー北壁

クライネシャイデックからですと、アイガー北壁を間近に見ることができます。
下の写真、手前に見える建物がホテルです。この写真の印象として、ホテルの裏山がアイガーで、標高差はせいぜい500m程度かな?と思ってしまいます。それが写真の恐ろしいところで、実はホテルが標高2061m、アイガー山頂が3970mですから、標高差が1900mもあるのですね。ヨーロッパアルプスは一般的に、とくかくスケールがでかいので、日本の山の感覚で推し量ると距離や高さを見誤ります。
                         アイガー北壁

                           クライネシャイデックのホテル
                          アイガー北壁


登山電車でアイガー・グレッチャー駅からクライネシャイデックへ下るハイキングコースの途中からは、西方向からの北壁を見ることができます。
             アイガー(北壁(左)と西壁(右))

                       ファルボーデンゼー
                   アイガー北壁


クライネシャイデックの登山電車駅のすぐ近く、丘の中腹には、新田次郎氏の碑がひそやかに設けられています。新田氏の死後、夫人である藤原ていさんによって建てられたそうです。新田氏は生前、この丘からアイガー北壁を眺めていたのだといいます。

新田次郎碑

下のTシャツは、私が購入したもので、アイガー北壁と代表的な登攀ルートが記されています。
 
上のTシャツの図には、4つのルートが記されています。出発時点で左から2番目であり、その後ジグザグに登り、途中最も左のコースを取って山頂に至るルートが、ノーマルルートです。頂上の下、"Spinne"と書かれた雪田は、日本語で「白い蜘蛛」と呼ばれている困難箇所です。

アイガー北壁の初登攀は1938年、オーストリアのハインリッヒ・ハラーによって成し遂げられました。
私の中学校の図書室には、ハラー著「白い蜘蛛―アイガーの北壁 (1960年)」が置いてあり、読んだ記憶があります。アマゾンの紹介には『1938年7月、「死の壁」と呼ばれたアイガー北壁の初登攀に成功したハインリッヒ・ハラーは、自らの詳細な登攀記録とともにアイガーの登攀史をまとめ、北壁の象徴である「白い蜘蛛」を表題とした1冊の本を上梓した。』とあります。

1965年8月、北壁で日本人の悲劇が起こりました。渡部恒明、高田光政両名による登攀の時です。渡部氏は、その直前にマッターホルン北壁登頂に日本人ではじめて成功していました。
新田次郎氏著書に「アイガー北壁・気象遭難 (新潮文庫)」があります。14編の短編が収められ、その中に「アイガー北壁」という短編が入っています。上記日本人によるアイガー北壁悲劇を、実名で小説化しているものです。以下、その小説から拾います。
渡部恒明氏(小説の中では渡辺恒明氏)は、芳野満彦氏と組んで、直前のマッターホルン北壁登頂に成功していたのでした。渡部氏と芳野氏がグリンデルヴァルトを訪れました。芳野氏は、高校時代の遭難が元で手足の指を凍傷で失っています。このときも、芳野氏の足の調子は悪く、続いてアイガー北壁に挑戦できる状況ではありません。そこで、もう一人の登山家、高田光政氏と出会います。
その年のアイガーは悪天候が続いていました。その中で、「午後になったら晴れる。そして天気は3日は続くだろう」との予報が出されました。渡部氏と高田氏はパーティーを組み、1965年8月12日、アイガー北壁登攀に出発しました。小説は、北壁の麓で見守る芳野氏の目で、二人を追います。
13日朝、二人は第一雪田を終わって、午後2時には“死のビバーク”(Tシャツの"Bugeleisen"近くに達し、そこで休憩の後、ランペ(階段)(Tシャツの"Rampe")にとりつきました。そのとき急に、北壁は雲でおおわれました。雲とともに雷鳴、雷光がとどろきます。
14日朝、芳野氏はクライネシャイデックのホテル・ベルヴュー(上の方の写真に見えるホテル)へ移動し、そこの望遠鏡の前に坐って霽(は)れるのを待ちました。
4日目、アイガー北壁だけに未練がましく霧がへばりついていましたが、そのうちに消えていきました。そして突然、2人の姿が頂上の下に見えました。渡部氏と高田氏は、白いクモ(白い蜘蛛)を通過しようとしているところでした。再度望遠鏡で確認すると、トップの渡部氏が荷物を背負っていました。トップはから身で氷壁に挑むものです。(なにかが起こったのだ)それっきり、また北壁は霧で視界が閉ざされました。
16日、高田氏が一人で下山してきました。下山した高田氏によると、・・・
14日、高田氏が滑落して肋骨を折りました。
15日午後、渡部氏が滑落して重傷を負ったのです。高田氏は渡部氏をザイルで岸壁に固定して、2日分の食料を置き、2日間頑張るように言い、救助を求めるために下山することにしました。彼は頂上めがけて登り、それから西壁の一般ルートを一晩中かかって下りてきて、16日の早朝に渡部氏の重傷を告げたのです。
『肋骨を折っている身体で、最後の300mの垂直の壁をよじ登り、真夜中、西壁をおりてくるなどということは神業だった。そして高田がやったその方法以外に、渡部を救出する道はなかったのだ。』(新田著)
しかしその翌朝、霧が晴れたとき、渡部氏はとりつき点上部で遺体で発見されたのです。
『「なぜザイルを外したのだ」
彼(芳野氏)は望遠鏡を見ながら怒鳴った。おそらく渡部は、傷ついた身体に鞭を打って頂上を目指して登攀を試みたに違いない。渡部ならばやりそうだった。』(以上、「アイガー北壁」より)

1969年、加藤滝男氏を隊長とし、今井通子氏を含め、総勢6人が、世界ではじめて「アイガー直登」を成し遂げました。Tシャツの右から2番目の直線コースです。
彼らは最初に、「赤い壁」と呼ばれる大岸壁を直登しました。この壁は、全体がオーバーハングしています。Tシャツでいうと、"2.Eisfeld"(第1氷田)の右の方です。
アイガー北壁で最も手強いのは落石であり、オーバーハング岸壁であれば、落石の直撃を受けないので安全と考えたようです。
7月14日から赤い壁のルート設営を開始し、赤い壁のルートが9割方できあがった7月30日、全員でベースキャンプを出発しました。無事登頂に成功したのは8月15日です。
私の北壁〈続〉 (1982年)
今井通子
朝日新聞社

赤い壁を登攀中の8月2日、今井氏は背中に落石の直撃を受けました。その翌日、今井氏は落石のケガを押して登攀を継続します。オーバーハングした赤い壁のフィックスド・ロープを登っているときです。
『上から声がかかった。「シャモー。そこで止まれ。待てよ」
私を確保しているメインザイルを固定した加藤隊長がカメラをかまえる。
「上を向けー。足をケルンダー」
私は顔を上げ、右足を思い切る後ろにそらせ空中バレリーナとなった。この時のポーズの写真は今(1972年)もグリンデルワルトの駅の売店に絵はがきになって売られている。』(続・私の氷壁)
私も絵はがきを探していたのですが、クライネ・シャイデックの売店で見つけることができました。下の写真です。
 
"Foto Takio Kato"とあります。加藤氏が、自分の股の間からカメラを構えて撮ったのでしょう。加藤氏の足も映っています。なお、“シャモ”とは今井通子氏に付けられたニックネームです。シャモのようにどう猛だったのでしょう。
ウィキによると、『加藤滝男が山頂直下でザイル無しで墜落したが、運良く固定ザイルに引っかかって九死に一生を得た。』とあります。今井氏の落石にしろ、加藤氏の墜落にしろ、一歩間違っていたら最悪の事態となる事象でした。運が良かったのでしょう。

私が宿泊したホテルの廊下にも、加藤隊の写真が飾られていました(左下写真)。
中央が今井通子氏、その左は隊長の加藤滝男氏でしょうか。今井氏の右は、背が高いので、加藤保男氏(滝男氏の実弟)と思われます。
 
加藤隊長は、登攀前にクライネシャイデックのフォン・アルメン氏に面会し、助言を受けています。
『フォン・アルメン氏とは、アイガーの真下にあるクライネシャイデックのホテルの主人で、長年アイガー北壁をながめ続けてきた人である。』(続・私の北壁)
私が宿泊したときホテルのフロントで、お姉さんに「フォン・アルメン氏をご存じか」と聞いてみました。お姉さんは廊下の写真を示し、「この人がフォン・アルメンだ」と教えてくれました。右上の写真です。

なお、今井通子氏は、1967年に女性2人パーティーでマッターホルン北壁登頂に成功しています。女性のみでは世界初です。また、1971年にはグランド・ジョラス北壁の登頂に成功、頂上でパーティー隊長の高橋和之氏と結婚式を挙げました。女性として世界初のヨーロッパ三大北壁登頂です。

新田次郎の小説に登場する芳野満彦氏について、私のブログで記事にしています。
芳野満彦さんご逝去
芳野満彦「山靴の音」

新田次郎氏の夫人である藤原てい氏について、私のブログで記事にしています。
藤原正彦「祖国とは国語」
藤原てい「旅路」(2)
藤原てい「旅路」
藤原てい「流れる星は生きている」(3)
藤原てい「流れる星は生きている」(2)
藤原てい「流れる星は生きている」
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スイスの旅(3)アイガー~ユングフラウ

2018-07-22 16:42:57 | 知的財産権
ヨーロッパアルプスの著名な山々は、スイス・フランス・イタリアの各地に散らばっています。今回はそのうちの2箇所を巡っています。1箇所目は、前回紹介したツェルマット周辺とマッターホルン、そしてモンテローザ山群でした。
次の目的地はクライネシャイデック、アイガーとユングフラウを主な峰としています。

6月19日に、ツェルマットからクライネシャイデックに移動しました。
[特急]ツェルマット10:13-11:22フィスプ11:28-11:53シュピーツ
[トゥーン湖の船旅]シュピーツ12:28-13:49インターラーケン・ヴェスト(西)
[登山電車]インターラーケン・オスト14:35-クリンデルヴァルト-15:19クライネシャイデック(山岳ホテル泊)

下の写真は、グリンデルヴァルトに到着する直前に車窓から撮ったアイガーです。写真の右半分がアイガー北壁、左半分は、北壁とのつながりがよくわからないのですが、北壁に連なる山稜です。

アイガー北壁

6月20日、クライネシャイデックの山岳ホテル1泊目が明けました。朝5時過ぎに目覚ましをかけています。窓から外を見ると、一点の雲もない晴天です。身支度をして、一人でホテルを出ました。

もう日の出が近いというのに、付近には人っ子一人いません。マッターホルンのモルゲンロートとはえらい違いです。
ホテル前の丘に登ります。360°の景色が広がっています。眼前にアイガー北壁、右に目を転じればメンヒ、さらに右にユングフラウ、その右の真っ白い三角はシルバーホルンです。
朝のこの景色を、私一人が独占しているのです。
アイガー山頂とメンヒ山頂直下の壁に朝日が射しました(下写真)。いずれも、北壁に対して東から日が当たっているので、昨日のマッターホルンのようなダイナミックさはありません。カメラが記録した時刻(現地時間)を写真の横に記しました。
        アイガー                       メンヒ

5:32

5:32
アイガー北壁

ユングフラウ山頂とシルバーホルン山頂にも陽光がが届きました(下写真)。
          ユングフラウ                             シルバーホルン

5:38

そして、私が立っている丘にも朝日が昇ってきました(下写真)。太陽の右横の絶壁の上の頂は、ヴェッターホルン(英語で言えばウェザーホーン(天気岳))、写真の右端はアイガーの頂です。

5:40

本日はユングフラウヨッホに出かけます。
ここクライネシャイデックは標高2000m、そして登山電車で行くユングフラウヨッホは標高3400mです。ヨッホはドイツ語で“肩”の意味で、ユングフラウとメンヒの山の間の峠の意味でしょう。下の写真は、登山電車の窓から撮ったユングフラウです。左1/4付近の肩の部分に建物が見えます。そこが今回の目的地です。
         ユングフラウヨッホ                    ユングフラウ


    シルバーホルン


登山電車の最初の停留所がアイガーグレッチャー、その先は、アイガーとメンヒの山腹をくり抜いたトンネルです。途中、アイスメーアで停車します。電車を降りて地下道を行くと、山腹をくり抜いた窓があります。そこからの景色(東方)が下の写真です。
←ヴェッターホルン
ミッテルホルン                  シュレックホルン              フィッシャーホルナー?

[東方]                フィッシャー氷河

登山電車終点のユングフラウヨッホに到着しました。
ここには展望箇所が2箇所あります。一番高い所にある展望台、スフィンクス・テラスと、ヨッホ(肩(峠))の雪原です。最初は峠の雪原に出ました。

下の写真、ふもとには小さくクライネシャイデックの駅とホテルが見えています。

[北方]

雪原を後にし、施設内に入ります。エレベーターで上がったところが、スフィンクス・テラスです。標高は3571mとあります。屋内からも展望できるし、屋外も360°の展望が楽しめます。本日は天候が良好なので、屋外からの展望です。
                      メンヒ

[東方]


[北方]
                                            メンヒ

[東方]
                ロッターホルン             ユングフラウ

[西方]
      フィーシャーガーベルホルン              ドライエックホルン    アレッチホルン

[南方]                  アレッチ氷河
                        セルバドン            ハイゼンホルン
                                エッジズホルン

                      アレッチ氷河

ここで、人間が写り込んでいる写真を2枚掲載します。いずれもスフィンクス・テラスから撮影しました。ユングフラウヨッホに豆粒のように見える人、アレッチ氷河のトレールをたどる小さな人と駐機しているヘリコプターの大きさに注目してください。ヨーロッパアルプスの山容があまりに大きいので、つい近くの風景と思い違いしてしまいます。
         ユングフラウ

                            ユングフラウヨッホ
          トルーグベルク           フィーシャーガーベルホルン

                        アレッチ氷河

ずっと眺めていたい景色ですが、帰りの登山電車の時間が決まっています。
乗車する登山電車の出発時刻です。
電車は元来たトンネル内を通過し、トンネルから出たところにある停留所、“アイガー・グレッチャー”で降車します。ここから、登山電車一駅分を歩いて下るのが、本日のハイキングコースです。
このハイキングコースから見上げるユングフラウとメンヒ、そしてそれらの山から下っている氷河の景色は、絶景でした。
                         メンヒ


                  ユングフラウ                      シルバーホルン


             ラウバーホルン                 チェッケン

                               ファルボーデンゼー
上の写真、手前に池(ファルボーデンゼー)、そのむこうにクライネシャイデックの登山電車駅とわれわれの宿泊しているホテルが見えます。
ここから見えるアイガーは、西壁が見えており、ここからでは北壁が見えません。
                    アイガー西壁


                                  メンヒ


《槇有恒氏とミッテルレギ小屋》
歩いていると、下の方に小さな建物が見えます(下写真)。小屋のある丘と、対岸の村との間は、大きくえぐれた谷が隔てています。氷河の浸食によるものでしょう。


小屋の前まで来ました。

この小屋は、日本の登山家である槇有恒(まきゆうこう)氏にゆかりの小屋だそうです。現在、小屋の中に入ることはできません。入口のガラスを通して中を見ると、この小屋が使われていた当時を再現しているようでした(左下写真)。右下写真は、槇有恒氏に違いないでしょう。
 
 小屋の内部                         槙有恒氏の写真

ウィキによると、槇有恒氏は1921年(大正10年)、グリンデルヴァルトの登山ガイド3名と共にアイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀しました。その記念として3年後に1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作ったそうです。
ネット記事によると、「2001年 ミッテルレギ小屋2号が建てられた際小屋1号をアイガーグレッチャー駅の近くに移動。その後、2011年に現在の位置(ハイキングコース)に移動させました。」とあります。

下の写真は、われわれが宿泊しているホテルの廊下に飾られている写真です。“Yuko Maki 10 Sept. 1921”と署名されています。


             アイガー(北壁(左)と西壁(右))

                       ファルボーデンゼー
ハイキングは、ファルボーデンゼーに到着した。ここまで来ると、アイガーは北壁を見せ始めます(上写真)。
北壁をアップで捉えようとしましたが、タイミングが遅すぎました。雲が出始めたのです(下写真)。
                   アイガー北壁


p.s.ユングフラウ、メンヒ、アイガーの3山全体の写真を撮り忘れていました。ウィキペディアに転載できる写真がないか調べたところ、下の写真に到達しました。すごい写真です。特に、高精細で見たときの細部がすごいです。撮影者に感謝します。
ヴェッターホルン              アイガー     メンヒ      ユングフラウ  シルバーホルン

グローセシャイデック                        クライネシャイデック      
Photographer: Armin Kübelbeck, CC-BY-SA, Wikimedia Commons

アイガー北壁については、別に記すこととします。

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スイスの旅(2)マッターホルン

2018-07-20 21:17:15 | 趣味・読書
今回のスイス旅行でツェルマットを訪問して認識したこと、それは、“ツェルマットと言えばマッターホルン”という事実です。
ツェルマットから登山電車でゴルナーグラートまで上がれば、モンテローザがあります。そのちかくにはさまざまな雪山が並んでいます。
一方でマッターホルンは、一峰だけ独立してそびえ立ち、ツェルマットの周辺どこからでもその雄姿を認めることができます。
“日本に富士山あり。ツェルマットにマッターホルンあり”といいたいところです。

今回の旅では、6月17日に氷河特急経由でツェルマット着、登山鉄道でゴルナーグラートに向かうときに、マッターホルンに初お目見えしました(下写真)。このとき、天気は全般に曇りがちでした。

マッターホルン

登山電車が終点のゴルナーグラートに到着、振り返れば西の方角にマッターホルンです(下写真)。曇りがちの空を背景に、このときはなんとかその全景を見せていました。


翌6月17日の早朝、5時過ぎに起きたときは一面の霧の中でしたが、次第に霧は下に降りていきました。ゴルナーグラート展望台からホテルの方向(西方向)を眺めると、手前が3100クルムホテル・ゴルナーグラート、その向こうにマッターホルンがそびえていました(下写真)。
                マッターホルン                  ダン・ブランシュ

[西方]

この日の予定では、ゴルナーグラートから登山電車で下り、最初の停車場であるローテンボーデンで降り、こから1駅分の下り道を歩くハイキングの計画でした。途中にはリッフェルゼーという湖があり、その水面に逆さマッターホルンが映し出されるというのです。しかし、現時点ではリッフェルゼーの湖面がまだ凍っており、逆さマッターホルンを見ることができません。ハイキングコースを変更することとし、取りあえず登山電車をローテンボーデンで途中下車しました。そこから見える景色が下の写真です。下方に見える湖が、予定していたリッフェルゼーです。たしかに湖面が氷結しています。マッターホルンの方向には雲がかかっていますが、なんとか頂上部は見えていました。
                            リッフェルゼー            マッターホルン

ローテンボーデンで次の電車に乗り込み、その日のうちにツェルマットに下りました。

ツェルマットの街中の路地を散策し、路地のむこうに教会の尖塔、そしてそのむこうにマッターホルンがそびえている場に遭遇しました(下写真)。

教会の尖塔とマッターホルン

翌6月18日の早朝、5時過ぎに目覚ましで目覚めます。窓から外を見ると、まだ暗い夜空に星が見えています。晴天だ!
今朝はまず、近くの川にかかる橋からマッターホルンのモルゲンロートを見る予定にしています。ちょっと早めに橋に着くと、すでに橋の上には大勢の人たちが来ています。
空はすっかり明るくなっているのに、マッターホルンにはなかなか日が差しません。ひょっとして太陽が出る東の方向は雲がかかっているのでは、と懸念し始めたとき、マッターホルンのてっぺんに赤みが差すのが見えました。
そしてそれからの様子は、下の写真に示すとおりです。写真右に、カメラが記録した現地時間を記しました。15分ほどのできごとだったことがわかります。

《マッターホルンのモルゲンロート》
5:32

5:33

5:35

5:37

5:41

5:49

このとき、同じアングルで撮影した写真をすべて使って、連続写真動画を作ってみました。表示間隔を0.5秒としています。計算すると、1分が1秒に短縮されているようです。
https://youtu.be/iC4DEUs0mn4
モルゲンロートがどんな現象か、知らずにいました。それにしても、こんな現象であろうとは想像できませんでした。どんな現象かというと、日に照らされた部分はあくまで赤く、そして日照部分と日陰部分との境界がぼやけずに鮮明であったということ。境界部が、山頂から山腹に降りてくるまでを20分も見続けることができたこと、など。

もう一つ驚くべきこと。
モルゲンロートを観察した橋には、観光客が鈴なりになっていました。観察すると、その全員が東洋人でした。白人は一人も見当たりません。
ガイドさんによると、この橋は以前は“日本人橋”と呼ばれていたそうです。現在は日本人は少数派であり、“中韓人橋”と呼ぶのがふさわしいでしょう。

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スイスの旅(1)

2018-07-18 21:21:35 | 趣味・読書
先般、以下のような日程で、妻と二人でスイス8日間の旅に行ってきました。旅の詳細は別のブログで記事にしていますが、こちらのブログでもエッセンスをいくつか紹介します。

6月16日(土)出発 成田10:10-LX161-15:35チューリッヒ チューリッヒ泊
6月17日(日)チューリッヒ-氷河特急-ツェルマット-ゴルナーグラート(泊)
6月18日(月)ゴルナーグラート-ツェルマット(泊)
6月19日(火)ツェルマット-(列車と船)-クライネシャイデック(泊)
6月20日(水)ユングフラウヨッホ-ハイキング クライネシャイデック(泊)
6月21日(木)クライネシャイデック-(列車)-ベルン-列車-チューリッヒ(泊)
6月22日(金)チューリッヒ13:00-LX160-(6月23日(土))7:50成田

今回の旅の大きな目的は、やはりスイスアルプスです。天候にも恵まれ、スイスアルプスの雄姿を写真に収めてきましたので、以下、順次紹介します。

6月17日、スイスの登山基地となる町の一つであるツェルマットに入りました。われわれはツェルマットから登山電車に乗り、登山電車の終点であるゴルナーグラートの山岳ホテルに一泊しました。

6月18日、3100クルムホテル・ゴルナーグラートで迎える朝、5時過ぎに目覚ましをかけています。日の出時刻は5時40分頃です。
部屋の窓から外を眺めると、霧の中です。こりゃモルゲンロートどころではありません。霧が晴れるのを祈って待つしかないです。

朝食の時間になると、霧がだんだんと降りて行き、峰々がその姿を現し始めました。ホテル食堂のテラス席から、山々を見ることができます。下の写真は左:ロッチャ・ネーラから右:ブライトホルンのあたりまでです。

[南方]

                                  リスカム


                 カストル       ポルックス          ロッチャ・ネーラ


         ロッチャ・ネーラ


               ブライトホルン              クラインマッターホルン


さらに霧と雲が晴れ、西方にはマッターホルンが姿を見せ始めました。
                          マッターホルン

[西方]

ホテル裏の高台にゴルナーグラート展望台があります。ここは標高3000mを超えています。ホテルの玄関から展望台まで、3~4フロアー分位の登りですが、心臓がバクバクです。
展望台まで登ると、南東方向にモンテローザが見えてきます。
             モンテローザ                      リスカム

[南方]

             リスカム       カストル  ポルックス      ロッチャ・ネーラ

[南西方向]

                      モンテローザ


展望台からホテルの方向(西方向)を眺めます。手前が3100クルムホテル・ゴルナーグラート、その向こうにマッターホルンがそびえています(下写真)。
                マッターホルン                  ダン・ブランシュ

[西方]

本日はゴルナーグラートから登山電車でツェルマットに下ります。
ツェルマットに到着、ホテルの部屋で一休みし、街へ出ました。

ツェルマットの街並み

ホテルから歩いてすぐのところに、“古い穀物倉庫群”があります(下写真)。壁は丸太の校倉造り、土台と倉庫との間には、石のネズミ返しが配置されています。スレート屋根の材料は、山で採取される石の板がそのまま使われているらしいです。
 
石のネズミ返し                       石のスレート屋根

穀物倉庫群から西に向かう路地に入ると、路地のむこうに教会の尖塔、そしてそのむこうにマッターホルンがそびえていました(下写真)。

教会の尖塔とマッターホルン

こうして、ゴルナーグラートからツェルマットに至る一日が無事に終了しました。
モンテローザ山群をこれだけ鮮明に見ることができたことは、好天に感謝しなければならないでしょう。

続く
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ピアノ発表会2018年5月

2018-05-09 23:15:16 | 趣味・読書
私がピアノを習っている大城先生の教室(音楽教室ラルゴ)のピアノ発表会が、5月6日にありました。今回は、タワーホール船堀の小ホールが会場です。
12時から3時までがリハーサル、3時開演で、演奏の終了は6時でした。

タワーホール船堀は、都営新宿線の船堀駅前にあります。

タワーホール船堀の外観

左上の写真でわかるように、高い塔が建っています。展望台になっています。これが、タワーホールの名前の由来でしょう。

玄関から入ると、屋上までの高い吹き抜けが待っています。左下の写真は1階から見た吹き抜け、右下の写真は5階から見下ろした吹き抜けです。

タワーホール船堀の吹き抜け

5階に大ホールと小ホールがあります。今回会場の小ホールの前に、左下写真の案内が掲示されています。小ホールの様子は右下写真です。

ピアノ発表会の案内                  小ホールの内部

私のリハーサル割り当て時間は12時20分、本番の演奏は5時半過ぎです。リハーサルを終え、駅前で昼食にそばを食し、近くでレイドバトルがあったのでラティアスを倒し(ゲットできませんでしたが・・・)、展望台に上ったりして、開演を待ちました。

今回の私の演奏は、シューマンのトロイメライとパッヘルベルのカノンです。トロイメライは、何年間も練習し続けているわたしのレパートリーの一つです。カノンは、数年前に練習した曲で、最後は2016年秋の発表会で弾きました。今回、再度練習して発表曲としました。
普段の練習では何の問題もなく弾ける箇所についても、発表会だけは別物です。どこでつまずくかわかりません。しかし幸いなことに、今回は2曲とも途中でつまずくことなく、無事に弾き終わることができました。

今回は、動画をユーチューブに上げてみました。下の2つがそうです。どちらも、動画再生時間の半分までが演奏で、残り半分は、同じ動画が繰り返されています。なぜこのようなことになったのか、訳がわかりません。ちょうど半分のところで演奏が終わったら、お手数ですが手動にて再生を終了してください。

シューマン トロイメライ


パッヘルベル カノン


せっかくですから、展望台からの風景写真を挙げておきます。


北西方向 荒川と、そのむこうにスカイツリーが見えます。


南方向 正面の遠くに見えるのは東京ディズニーランドで間違いないでしょう。
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官僚と報道機関の関係

2018-04-29 15:32:48 | 歴史・社会
日本の報道・ジャーナリズムが「権力の監視」機能を発揮していない理由は、大きく次の2点に集約されると言います。
○ 記者クラブ制度
○ 特ダネ至上主義
ここでいう特ダネとは、
①その報道がなければ世の中に知られることがなかったような特ダネ
②明日公表されるニュースを今日独占して報道するような特ダネ
の2種類がありますが、数量的には②が多数を占めます。

日本のジャーナリズムのこのような問題点を記載した書籍として、このブログでは、過去に以下のような記事を書いてきました。

上杉隆「ジャーナリズム崩壊」2008-11-18

長谷川幸洋「日本国の正体」2010-01-05

牧野洋「官報複合体」2012-08-14

この中で、長谷川幸洋「日本国の正体」2010-01-05 について振り返ります。
日本国の正体 政治家・官僚・メディア――本当の権力者は誰か
長谷川 幸洋
講談社

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---ブログ記事抜粋--------------
大新聞をはじめとする日本のジャーナリズムは、「他紙よりも一刻も早く報道すること」を至上命題としています。そして、取材源を官僚に依存する記者は、官僚から特ダネ情報を他紙記者よりも早く受け取ることにより、特ダネをモノにします。実は情報を提供した官僚は、その報道によって自分の推し進める政策を後押しさせたいのであって、官僚自身の代弁者として好適な記者に特ダネ情報を漏らしているのです。このとき記者は役人から、政策を記したペーパー(紙)を併せて受け取ります。
官僚は、自分たちが推し進める政策を自分たちが思うとおりにうまく報道してくれる記者を選択し、情報を渡します。従って、官僚の政策を批判的に記事にする記者は情報が流れません。記者のうち、官僚から紙をもらえる記者は10人中1、2名しかいないということです。特ダネ記者になりたくて官僚に取り入っていくうちに、知らず知らず、記者は官僚の代弁者=ポチに成り下がっていきます。
記者は、「自分が官僚から信頼された結果として情報をもらえるのだ」と思い込んでいるそうで、「自分は官僚の代弁者に成り下がっている」とは気付かないのだそうです。

以上の議論において、「記者クラブ」は登場しません。つまり、記者クラブがあろうがなかろうが、日本の新聞記者は官僚の代弁者となってしまっているのです。この点については、今回の長谷川氏の著書で理解した事項でした。

なぜ日本の新聞報道はそんなことになってしまったのか。以下の3点が挙げられます。
(1) 日本の新聞は、「他紙よりも一刻も早く報道すること」を至上命令とする。
(2) 情報を持っているのは官僚であり、官僚と記者との間に圧倒的な情報格差が存在する。
(3) 記者は「官僚は、自分たち記者と同様に中立の立場」と思い込んでいるところがある。

上記(3) の認識はさすがに今では薄れていることでしょう。
しかし(2) は厳然として存在し、(1) のスタンスを取る限り、記者は官僚に取り入ることから逃れられません。
---ブログ記事抜粋終了--------------

さて、ここからは今日的問題についてです。
財務事務次官セクハラ事件に関して、当事者としては、事務次官本人、被害女性記者が登場します。被害女性記者の女性上司も登場してきます。
私は、最も重要で性悪な当事者として、「テレビ朝日という会社」を挙げなければならないと考えます。
上記長谷川幸洋著「日本国の正体」でも明らかなとおり、日本の報道機関は、主なニュースソースを官僚に頼っており、特ダネをものにするには、高級官僚から「特別に懇意な記者」として扱われることが最重要です。

今回の財務次官は、スケベオヤジであることが広く知られていました。テレ朝としては、そんな事務次官から「特別に懇意な記者」として扱われるような人材を、財務次官番記者として人選するであろうことは想像に難くありません。テレ朝は、「あなた好み」の記者を人選したものと思われます。この人選は、直属の女性上司によってではなく、財務事務次官と同じような根性を持っているもっと上の上司によってなされたものでしょう。

勤め人である女性記者は、上司の人選にノーということはできず、繰り返しセクハラ発言を受けた後も、呼び出されたら出て行かざるを得ませんでした。相談を受けた会社側は、直ちに女性記者を番記者から外すべきでしたが、それができませんでした。

この事件は、テレ朝という会社のスケベ根性が、すべての発端であったといっても過言ではありません。
夜中の12時からはじまったテレ朝記者会見を、私はライブで観ていました。会社は良い子ぶっていましたが、なぜ今まで(事務次官が辞任するまで)公表しなかったのか、という点は曖昧なままです。「官僚に逆らったら情報がもらえなくなるので、逆らうことはできない」とは言えないでしょう。
テレ朝以外の報道機関も、テレ朝と同類ですから、上記のような問題点に切り込むことは結局できないのですね。フリージャーナリストが問題に切り込むしかないのでしょう。
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八ヶ岳山麓 美しの森

2018-04-22 15:13:35 | 趣味・読書
4月14日の土曜の朝、休みなのでどこか出歩きたいが、ヒノキの花粉が最盛期で出歩けない、どうしよう、と家内と相談していました。家内が調べたところ、標高が1000m以上だと、ヒノキも杉も花粉が少なくなる、という情報が得られました。軽井沢までいけば1000mを超えます。わが家は甲州街道沿いなので、八ヶ岳の方が便利です。そこで、八ヶ岳ソサエティに電話してみたところ、本日は泊まれるということです。さっそく予約して、車で出かけることとしました。朝、10時過ぎのことです。

天気予報ではこれから天気が崩れるということです。出発時点で曇天でした。ほんの軽くウォーキングする程度、ということで、行き先は八ヶ岳山麓の天女山に決めました。

中央高速を長坂インターで降り、天女山をめざします。天女山入口の交差点に到達すると、何ということでしょう、天女山駐車場へ通じる道路が通行止めになっているのです。去年の11月に閉鎖した、と記されています。もう4月だというのに、いつまで閉鎖なのでしょうか。
しょうがないので、天女山入口交差点を右折し、美しの森山に向かうことにしました。途中、まきば公園の大駐車場も閉鎖されていました。この界隈は、まだ春夏の行楽シーズンに突入していないということでしょうか。

美しの森の駐車場に到着しました。ここは、昨年の10月23日に訪問しています。こちらに記載したとおりです。
車を降りると、結構肌寒いです。それでも、薄手のセーターと登山用レインコートを羽織れば十分です。美しの森山へ向かうのではなく、等高線に沿ってカラマツ林を縫う道を歩くことにしました。川俣川渓谷の音がかすかに聞こえるあたりまで歩きましたが、霧も出てきたこともあり、元来た道を引き返すこととしました。
道の途中から階段道路を上がり、美しの森山の展望台まで上がりました。
展望台から駐車場までは、階段状の木道を下ります。
途中、東野方角をみると、遠くに白いパラボラアンテナが見えました。下の写真です。


下は、上の写真の拡大写真です。


このパラボラアンテナ、野辺山の電波天文台(国立天文台野辺山)にある45m電波望遠鏡で間違いないでしょう。ここも、昨年訪問しました。下の写真は、そのときに撮影した45m電波望遠鏡です。


八ヶ岳横断道路を経由して、八ヶ岳ソサエティに到着しました。その日、宿の部屋で何をやっていたかというと、カーブボールでエクセレントスローを達成すべく、ひたすら赤ボールを投げ続けていました(ポケモンGOスペシャルリサーチ)。といっても、目の前にポケモンが出現しなければボールを投げられません。ポケモンが出現し、ボールで捕獲しても、「逃げろ、逃げろ」と祈ります。そのまま捕獲完了したら、もうボールを投げられないからです。できるだけボールから逃げやすくするため、黄色い実を与えました。
エクセレントスローを達成したのは、食堂で夕食が運ばれるのを待つ間でした。

本日の夜9時から、宿で天体観測の夕べが計画されていました。雨ですから観測はできませんが、私だけ出席することとしました。
時間になったので会場に出かけていったら、出席者は私一人でした。一人で講師の話を聞かせていただきました。野辺山電波天文台の話が出たので、「美しの森山から見えるパラボラは野辺山ですか?」と質問したところ、確かに美しの森の階段のところから野辺山の45mアンテナだけが見えるとのことでした。

ところで、標高1000m超での花粉飛散量ですが・・・
宿のフロントで聞いたところ、標高が高いとはいえ、花粉は飛んでくるということでした。本日、美しの森で散策する間、マスクは外していました。これでは、花粉から逃れるどころか、逆効果だったかもしれません。

宿のフロントに、日本蜜蜂の蜂蜜が置いてありました。われわれは日本蜜蜂の蜂蜜がおいしいことを知っていますので、高かったですけれども小瓶を3個、購入しました。瓶のラベルには「製造者名 平井剛」(北杜市)とあり、ネットで調べましたが見つかりませんでした。
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