弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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知的財産権弁理士歴史・社会趣味・読書サイエンス・パソコンサッカー
杉並世田谷散歩徒然

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小机城訪問

2024-05-08 09:03:12 | 趣味・読書
5月5日、小机城を訪問しました。
都内から東急東横線で菊名へ、そこで横浜線に乗り換えて各停で2駅、小机駅で降ります。
まずはスタンプです。小机駅の南口側にある、横浜市城郷小机地区センターです。事前に電話して、1階でスタンプが押せることを確認していました。
スタンプ押印の後、近くで昼食を取る計画でしたが、近くにはお店がありません。諦めてまずは城址を見学し、昼食はそのあととしました。
下の地図、右下に「↓小机辻」とあります。その小机辻の十字路を曲がり、地図の下から上へと歩きました。城址の入り口がわかりません。ちょっとうろちょろしましたが、ご近所の方に教えていただき、下の地図の右下の十字路を左に折れれば良いことがわかりました。

小机城概略図

城址の領域に入り、本丸広場を目指します。下の写真にあるような竹林の中を進みます。


城址は、下の写真のような空堀が縦横に配置され、二つの高台広場があります。一方が本丸広場、もう一方が二ノ丸広場と呼ばれています。

空堀

下の写真は、本丸広場に到着したところです。広場への入り口に、下写真のような冠木門が配置されていました。

本丸への入り口

下の写真は本丸広場、左隅にわれわれが通った冠木門が見えます。

本丸広場

本丸広場で一休みし、二ノ丸広場へ向かいます。道は、空堀の中に設けられています。下写真のように、本丸広場から下って二ノ丸方向へ向かう途中、右へ行くと井楼跡、との標識がありました。

空堀を行く

空堀から急斜面を登り詰めると、二ノ丸広場です。

二ノ丸広場

二ノ丸広場横に一段高い場所があります。櫓台とのことです。

二ノ丸広場と櫓台

櫓台の頂きの地面に、下写真のような礎石が埋まっています。礎石には円形の穴が開いています。この礎石が小机城の一部だったのかどうかは不明です。この礎石に柱を立てて櫓を構築し、物見として使われたのでしょうか。

櫓台

ネットで調べたところ、市教委が「小机城」を初めて発掘、二の丸広場近くで“柱の痕跡”、空堀には土器(2021年12月07日)との記事が見つかりました。しかし、上の写真の櫓台頂上の礎石の話ではないようです。櫓台近くの南曲輪(二ノ丸広場?)を掘削したところ、礎石のない穴が見つかり、掘立柱の穴らしい、との推定が書かれていました。

二ノ丸広場からちょっと下ったところに、下写真のような標識があります。

井楼跡(せいろうあと)
「井楼」とは、柱を井桁状に組んだ高い構築物で、物見の役割を果たしていたようです。

こうして、小机城訪問を終了しました。
下にも記すように、小机城が城として機能していたのは、12世紀ごろから1600年頃までであり、江戸時代にはすでに廃城となっていました。廃城から400年以上が経過しましたが、よくぞこれだけの城址として維持されたものです。

小机城の来歴
現地の案内板に以下のように説明されています。
『築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。そのころは、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、・・。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山に退陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40年間廃城となっていました。
大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、小笠原越前守信為を城代として再興しました。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な枠割りを果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅び、4代目城主の弥次平衡重政が徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。』

下の写真は、北方上空から小机城址を撮影したものです。小机城が、独立の山に設けられた平山城であることが分かります。城址の西端が第三京浜で分断されています。
 Hovering Cat

城址から小机駅に向かう道で、正面にスタジアムが見えました。小机駅は、横浜Fマリノスのホームの最寄り駅だったのですね。

日産スタジアム
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忍城訪問

2024-05-07 15:27:23 | 趣味・読書
5月3日、埼玉県の行田にある忍城を訪問しました。
東京から忍城を訪問するのにはいくつかのルートがあります。
新幹線か高崎線で熊谷まで行き、秩父鉄道で押田または行田市まで行って徒歩で忍城に向かう。
高崎線で吹上または行田まで行き、そこからバスで忍城近くまで行く。
秩父鉄道もバスも本数が少ないので、東京からの出発時刻次第で、お勧めのルートが変化するようです。
ゴールデンウィーク中で新幹線指定席が取れなかったので、高崎線(または湘南新宿ライン)で熊谷に出て、そこから秩父鉄道を利用するルートとしました。秩父鉄道は行田市駅で下車しました。

忍城に到着です。

御三階櫓と木橋

下の地図と照合すると、現在の内堀は城の東側に残っており、その堀にかかった木橋を渡って東門から城内に入場することになります。

現在の忍城(上が南東)


東門

御三階櫓の中に、当時の忍城のジオラマが飾られています(下写真)。

戦国時代の忍城(上が西)


戦国時代の忍城(上が北)

戦国時代の忍城の絵図としては、こちらの絵図がわかりやすいです。この絵図からも、当時の御三階櫓は、本丸の敷地ではなく、本丸からはるか南、三之丸よりもさらに南の領域に建っていたことが明らかです。しかし現在、城跡公園として使えるのは本丸領域のみですから、やむを得ず、御三階櫓を再建するに当たって本丸に設置したのでしょう。

御三階櫓


御三階櫓

本丸領域の北端角に鐘楼が建っています。

鐘楼


鐘楼

    赤城山                             白根山

遠望


伝進修館表門

忍城の来歴(ウィキ
『室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている[2]。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。』
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。』
『湿地帯を利用した平城であった。元々沼地だったところに島が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。』

行田は足袋が名産であると知られ、私も小学生の時代から知っていました。現在、足袋は廃れましたが、足袋の産地としての記憶が街の中に残っています。街中に足袋に起因する蔵が点在しているようです。
ぎょうだ足袋蔵ネットワーク
たまたま、そのうちの一つである、「旧小川忠次郎商店店舗及び主屋」を通りました。
『足袋の原料を商っていた小川忠次郎商店の店舗及び主屋として昭和4年頃に完成した、行田の足袋産業隆盛期を象徴する近代化遺産。内部1階は店舗南側を土間のミセとし、北側に帳場、主屋部分のナカノマ、オクヘと縦1列に並べる間取りで、2階に格式高い座敷を設けている構造で、こうした構造は明治・大正期の行田の店舗型町屋に共通する。
足袋原料を扱った小川忠次郎商店が大正14年(1925)に棟上した土蔵造りの店舗併用住宅。現在はNPO運営の蕎麦店となっている。』
そこで、この店でそばをいただくこととしました。

蕎麦 忠次郎蔵


蕎麦 忠次郎蔵


ざるそばと天ぷら

こうして、忍城訪問の一日が終了しました。
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朝日新聞「ラピダス秘録」

2024-05-06 09:29:32 | 歴史・社会
朝日新聞朝刊に、半導体製造の「ラピダス」に関する3回連載の特集記事が載りました。
(けいざい+)ラピダス秘録:上 なぜ日本?IBMは突然に
2024年4月30日 朝日新聞
『経済産業省の平井裕秀は2020年7月、商務情報政策局長に昇進した。ハイテク産業を所管する同省の枢要ポストである。着任してまもなく、入省年次で九つ上の先輩が就任祝いのあいさつにやってきた。先輩は平工奉文。製造産業局長を最後に退官し、このときは日本IBMの特別顧問を務めていた。』
このときから、IBMと経産省の密談が始まりました。
『IBM側は「2ナノ技術の導入について日本政府は関心はありますか」と投げかけてきた。』
米国IBMは、半導体の自社開発をあきらめず、オールバニで開発を進めていました。
経産省の平井は、IBM側の申し出を日本のどの企業に伝えるか頭を悩ませました。候補に挙がったのは、ルネサスエレクトロニクス、ソニー、東芝系のキオクシア、それにNTTでした。
IBMが、日本側のリーダー格の候補として唐突に持ち出したのが、半導体製造装置メーカー、東京エレクトロンのトップを長く務めた東哲郎でした。東の頭の中に、日立半導体部門出身の小池淳義の名が思い浮かびました。
『その年の暮れ、小池を中心にして2ナノを日本に導入できるか検証するチームが、ひそかに立ち上がった(マウントフジプロジェクト)。』
『最先端の2ナノの半導体製造に挑む国策会社ラピダスが誕生し、北海道千歳市に急ピッチで工場建設が進む。先端半導体の開発競争からとっくに脱落していた日本が、なぜ復権を目指すのか。その舞台裏を探った。』

(けいざい+)ラピダス秘録:中 台湾に生産集中のリスク、日米重ねた議論
2024年5月1日 朝日新聞
『経済産業相の萩生田光一は2022年1月、初めて「最先端の次世代半導体について検討していきたい」と聞かされた。報告したのは商務情報政策局長の野原諭。萩生田は「TSMCを決めたばかりなのに、もう次の案件を持ってきたのか」と驚いた。台湾のTSMC誘致に巨額補助金を支出できるよう、前年暮れに5G促進法を改正したばかりだった。』
極秘裏にできた「マウントフジ」チームが米国から帰り、野原はリーダーの小池から「IBMの2ナノの先端半導体を日本でも出来そうです」と聞かされていました。
自民党の甘利明氏は、元経産相で半導体戦略推進議連会長を務めます。議連の事務局長の関吉弘衆院議員は「40ナノしか作っていない日本に、2ナノはジャンプしすぎだ」と思いました。
2022年5月、萩生田氏は訪米し、日米会談を行いました。この頃から「米国がフルサポートするなら大丈夫」(甘利)と、自民党内の懐疑的な見方が少しずつ沈静化していきました。
経産省の野原氏は、2ナノ導入にはオランダのASML社が生産する極端紫外線(EUV)露光装置の調達が不可欠と思っていました。萩生田氏と訪米した野原氏は、その足でオランダに飛びました。1台200億円で、2年待ちと言われる装置を、「商用なら2台以上入れた方が良い」と言われました。

(けいざい+)ラピダス秘録:下 異形ベンチャー「やるなら一気に最先端」
2024年5月2日 朝日新聞
『小池淳義は2022年春、もはや自分たちで新しい会社をつくるしかないと腹を決めていた。』
東芝など国内メーカーが相次いでIBMの技術の導入に尻込みしたうえ、「マウントフジチーム」に参集したメンバーの約半分が「20年遅れの我が国には無理」と脱落しましたが、残った仲間は手ごたえを感じていました。
東は、「ラピダス」を22年8月に設立。東、小池とマウントフジチームの12人が個人出資した上、経済産業省幹部も同行してお願いに回り、トヨタ自動車やNECなど8社も出資。後に1兆円近い政府資金が投入されてゆきます。
--連載記事以上-----------------

私は、このブログの過去記事「湯之上隆著「半導体有事」 2023-06-04」、「新会社ラピダスが2nm半導体を目指す 2022-12-24」において、ラピダスについて意見を述べてきました。
流れてくる情報からでは、新興企業であるラピダスが2nmロジック半導体の量産に成功するような匂いを感じることができませんでした。
今回の朝日新聞の特集記事を読みましたが、私の危惧を払拭してくれるような内容は見られませんでした。「米国IBMの開発成果は、2nm半導体の量産を成功させるレベルにどれだけ近づいているのか」「ラピダスは、米国IBMの開発成果をさらに向上し、2nm半導体の量産を実現させるだけの技術力を具備できるのか」といった疑問に、朝日新聞の記事は何ら踏み込んでいません。
1年前の情報では、2nm半導体を量産できるのは台湾のTSMCのみであり、韓国のサムスンもアメリカのインテルも成功していませんでした。TSMCが量産に成功する裏では、膨大な数の試運転を繰り返して最適製造条件を探索してきた実績があります。インテルは7nmでつまずいていました。日本メーカーは、ルネサスが自社生産するのは40nmまでであり、それよりも微細の半導体はTSMCなどに生産委託していました。
日本でのロジック半導体メーカーの最大手はルネサスなのに、なぜルネサスがラピダスに関与していないのか、の裏事情について、今回の朝日記事を読むと、「早々に尻込みして退出した」ということかも知れません。
このような状況下で、半導体生産の経験が皆無であるラピダスが、どのようにして2nm半導体の量産に成功し得るのか、道筋が全く見えません。

朝日新聞の記事から匂うのは、経産省幹部の前のめりの姿勢であり、「経産省はまた以前の失敗を繰り返すのか」との心配しか見えてきません。
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諏訪・高島城訪問

2024-05-05 09:48:44 | 趣味・読書
前号で紹介したように、4月29日30日、松本に一泊し、1日目に松本城、2日目に諏訪の高島城を訪問しました。ここでは、2日目の高島城について紹介します。
朝、JR特急あずさで松本を発ち、上諏訪で下車しました。駅前の観光案内所に立ち寄って情報を仕入れ、徒歩で高島城に向かいました。

上諏訪駅から南に向かうと、高松城北側のお堀にかかる冠木橋に到達します。

冠木橋と天守

現在の高島城の地図(上が南)と、古地図の高島城(上が北)を対比します。この古地図は、こちらのブログで紹介されていました。
同じブログに掲載されている古地図の高島城周辺(上が北)と、現代の地図(上が北)を対比します。
現代の地図の上端付近にJR上諏訪駅、下端近くに高島城が位置しています。上諏訪駅の東側で線路を北から南へ渡り、並木通り沿いにお城に向かいます。並木通りは途中、右に直角に曲がりまた左に直角に曲がるクランク状となっています。そして、上記古地図にはまさに、高島城の北側に同じクランク状の道が形成されています。
高島城はその昔、「浮城」と呼ばれていました。古地図によると、高島城が諏訪湖の中に建っていたわけではないのですが、高島城の西に諏訪湖湖畔が迫っており、高島城はその四周を田んぼで囲まれていたようです。市街地は現在のJR上諏訪駅付近に存在し、その市街地から高島城までは、田んぼの中にクランク状の一本道が形成され、それが唯一のお城への道でした。田んぼに水が張られていたら、まさに四周を水に囲まれた「浮城」に見えたことでしょう。

高島城に至る途中に、三之丸湯跡がありました。

三之丸湯跡


冠木橋と冠木門


冠木門(城外から)


冠木門(城内から)


石垣


諏訪護国神社


天守と藤棚

お城の南西隅に角櫓が再建されています。

角櫓


角櫓、冠木橋と天守


天守


天守

天守閣の中に、下の由布姫の人形が飾られていました。

由布姫
私は「諏訪御前」が記憶にあります。子供の頃、テレビの時代劇ドラマで見ました。諏訪氏のお姫様で、父親が武田信玄に滅ぼされ、その後に信玄の側室(勝頼の母親)になるという悲劇の主人公です。ネットで調べたら、「諏訪御前=諏訪御料人=由布姫」ということで、私の記憶と繋がりました。
風林火山 (1969年のテレビドラマ)(ウィキ)
『「風林火山」(ふうりんかざん)は、NETテレビ(現・テレビ朝日)の「ナショナルゴールデン劇場」枠で1969年1月30日から同年3月6日まで放映されたテレビドラマ(時代劇)。
キャスト
山本勘助:東野英治郎
武田信玄:緒形拳
由布姫:栗原小巻』
由布姫を演じた女優は栗原小巻で、その点も私の記憶通りでした。
ただし、以下の高島城の来歴からも明らかなように、現在の地に高島城ができたのは、由布姫の時代よりも後のことになります。

高島城の来歴(ウィキ
『中世、諏訪郡の領主であった諏訪氏は現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪氏の滅亡後、・・・高島城は武田氏による諏訪郡支配の拠点となった。
天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、・・・1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城した。

日根野は1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築いた。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。
1875年(明治8年)に天守閣など大部分の建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられた。
現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。』

JR上諏訪駅の観光案内所で、この近辺のおいしいお店を紹介してもらいました。紙の裏表におすすめの蕎麦店と鰻店が記された地図をいただきました。昔は諏訪湖でうなぎが獲れたのでうなぎ店が多い。ただし現在は諏訪湖では獲れない、とのことでした。
諏訪湖周辺のうなぎ屋のおすすめ人気ランキング4選には、
『信州諏訪湖の周辺は、うなぎ屋の激戦区です。浜松・三河一色と並ぶ天然うなぎの名産地で、昔から漁獲量・消費量とも多く、湖を囲む長野県諏訪市・岡谷市・下諏訪町には約30店舗が集中しています。』とあります。

当初は、高島城のすぐ西に位置する「ねばし」を目指しました。到着するとどうでしょう。定休日でした。ちらしによると定休日は月曜です。本日は火曜で営業中と考えていたのですが、よくよく見ると「祝日の場合は翌日」との記載がありました。
そこで、次の目標を「うな藤」に変更しました。まずは琵琶湖畔に向かいます。

諏訪湖
琵琶湖畔を北に進みます。途中、諏訪赤十字病院の側を通りました。

諏訪赤十字病院

そして、「うな藤」に到着しました。案の定、多くの客が順番待ち中でした。
やっと順番が到来しました。
メニューには、うなぎ2枚、3枚、蒲焼き3枚+白焼き1枚、などが並んでいます。最近東京でうな重を注文すると、うなぎ2枚では物足りなさが残ります。そこで蒲焼き3枚を注文しました。

うな重
びっくりしたのは、うなぎが肉厚であることでした。3枚完食したらおなかがパンパンになりました。
食事後、歩いてJR上諏訪駅に向かいました。特急あずさ指定席を予約しています。うなぎ屋さんでの順番待ちでずいぶん時間が消化したのですが、それでも十分な待ち時間が残っていました。
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松本城訪問

2024-05-04 15:55:09 | 趣味・読書
4月29日30日、松本に一泊し、1日目に松本城、2日目に諏訪の高島城を訪問しました。
まず、松本城訪問について記します。
松本城は、江戸時代からの天守閣が現存している貴重なお城として有名です。

天守


現在の松本城(上が北)


戦国時代の松本城(上が北)

内堀の南側に配置された橋を渡ると、門の先に券売所⑥があります。門に名前はついていないのですが、形式は高麗門のようです。

高麗門(城外側から)


高麗門(城内側から)

高麗門の先に、いわゆる黒門があります。形式は櫓門です。高麗門と黒門に囲まれた領域が、枡形を形成しています。

黒門(城外側から)


黒門(城内側から)

黒門をくぐると、そこは本丸の敷地内です。

天守
天守の拝観待ち時間は40分と表示されていました。ただし、立って待つのではなく、テントで雨よけされたベンチに腰掛けて待つことができました。

天守の内部

城から北西方向には、北アルプスの山々を見ることができました。

天守から埋橋(うずみばし)と北アルプスを望む
写真中央の右にそびえるのが常念岳、その右が横通岳と東天井岳です。中央左奥の雪が見えるのが大滝山です。


天守


天守

100名城のスタンプを押印し、、松本城訪問を終えることができました。

お昼は、おそばをいただきました。松本に到着してホテルにチェックインし、そのときにお勧めのお店を教えてもらいました。出かけてみると、やはりお勧め店は行列ができています。比較的行列が短かったので、たかぎで食べることとしました。

そば定食

それでは、松本城の来歴をウィキで確認します。
『戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが松本城の始まり。
甲斐の武田氏に攻略され、その後武田氏が滅亡し、徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
徳川家の関東移封と松本城主小笠原秀政の下総国古河への移動により、代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。
江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって、買い戻されて難を逃れる。
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより「松本天守閣天主保存会」が設立され広く修理費の寄付を募り、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。』
明治維新後の廃藩置県により、日本全国のお城のほとんどが破却される中、松本城の天守閣はよくぞ保存されたものです。明治期の有識者たちの活躍に感謝です。

この日は松本のホテルで一泊しました。翌日の諏訪高島城訪問については次号で紹介します。
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駿府城訪問

2024-04-21 12:31:57 | 趣味・読書
4月20日(土)、お城めぐりとして静岡の駿府城を訪問しました。
新幹線で静岡に移動し、静岡駅からまっすぐ駿府城を目指します。
この記事の末尾の地図で、右下が静岡駅、左上が駿府城です。

駿府城の水堀は、外堀、中堀、内堀の三重構造になっています。地図で、静岡県庁の南にある堀が外堀、北にある堀が中堀です。中堀はほぼ全周が現存、外堀は半分弱が現存でしょうか。内堀については、ほとんど消滅しています。地図で、静岡県庁の右上に「内堀」と記載されている部分が、わずかに残った内堀のようです。
後述の東御門内の展示物に、江戸時代の駿府城のジオラマが展示されています。下の写真です。このジオラマと上の現代の地図を見比べると対応が分かります。

江戸時代の駿府城
上のジオラマで、中堀の右下端の巽櫓と東御門、左下端の坤櫓が、再建されて現存する駿府城の建造物です。

われわれは、静岡駅から静岡県庁を目指して歩きました。左手に静岡市役所の建物が見えてきます。

静岡市役所

静岡市役所の先で右折し、外堀をわたって城内の静岡県庁に向かいます。

外堀


外堀

予定では、静岡県庁ビルの21階にある展望台から駿府城の全景を俯瞰する予定でした。しかし、県庁ビルに到着したものの、中に入るルートが見つかりません。出入り口に行って理由が分かりました。第3土曜とその翌日の日曜は休館であり、本日はまさに第3土曜に該当していたのです。
こんな不運に見舞われるとは思いもしませんでした。仕方がないので、駿府城観光に向かうことにしました。
まずは、県庁の北にある中堀沿いに東に進み、東御門を目指します。

中堀と巽櫓(辰巳(たつみ)(南東)にある櫓)

巽櫓の近くに弥次喜多の銅像がありました。『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念して建てられた銅像。十返舎一九は静岡市出身。』

巽櫓と弥次喜多


中堀、巽櫓と東御門

東御門橋を渡り、城内に入りました。

東御門(高麗門)と東御門橋

東御門は、東御門橋で中堀を渡り、城内側は枡形になっています。

東御門(高麗門)(枡形内から)

枡形内の右方向に、枡形から城内に入る門(櫓門)があります(下写真)。

東御門(櫓門)(枡形から城内へ)

「東御門・巽櫓」施設入場
入場料200円を支払い、「東御門・巽櫓」施設に入場しました。入場者はごくわずかで、場内は閑散としていました。

二ノ丸堀から発見された青銅製鯱(しゃちほこ)
鯱の説明「国内の青銅製鯱の中で最古の部類に入り、家康在城時から東御門に使用されていたと考えられます。
天守には、鉛瓦や銅瓦といった金属瓦が採用されました。当時の日本では珍しいものでしたが、ヨーロッパでは一般的に使用されていました。家康による外交と関係が深いとともに、家康は金属瓦を用いた織豊系城郭からの脱却を狙っていたのかもしれません。」


竹千代手習いの間(復原)
説明『この部屋は、家康公(幼名・竹千代)の勉強部屋です。
家康公は、天文18年(1549年)から12年間、今川義元の人質として駿府で生活していました。8歳から19歳の時です。
家康公は人質の間、この部屋で今川家軍師の臨済寺住職雪斎和尚から学問を学んだと伝えられています。現在、特別に臨済寺様より許可を得て、「手習いの間」を原寸で、ここに復原しています。』

施設の見学を終え、駿府城内の散策を開始しました。
下の写真は、現存する内堀の一部のようです。

内堀
『内堀は明治時代に陸軍歩兵第34連隊が駐屯中に埋められたが、部分的に発掘され保存されている。(ウィキ)』
『発掘調査に基づいて復原された内堀跡。復原されたの内堀一部分だけ。(出展)』


内堀と中堀を結ぶ水路
『内堀の水位を保つためにつくられた。幅4.5m、長さ95m、4回折れ曲がっている。石垣の一部は徳川家康が天下普請で駿府城を築いた当時のものと考えられている。(出展)』

天守台跡は発掘中であり、近づくことはできませんでした。
天守台跡の南側に、徳川家康の像が立っています。

徳川家康の像

坤櫓(ひつじさるやぐら)
『坤櫓とは、駿府城の二ノ丸の南西の方角に位置する櫓で、この坤(ひつじさる)という名は、築城当時には方位に干支が用いられていて、北を子(ね)として時計回りに割り当て、南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間であるため、坤(ひつじさる)と呼んだことに由来しています。』

坤櫓

疲労が溜まってきたので、坤櫓は城内側から眺めるだけとし、帰途につきます。
二ノ丸橋で中堀を渡り、外に出ました。

中堀(二ノ丸橋から西方向)


中堀(二ノ丸橋から東方向)

さらに外堀を渡り、静岡駅方向に移動しました。
昼食については、途中の大庄水産を利用し、「ぶっかけ寿司こぼれ盛り」(下写真)をシェアしていただきました。

お昼

さて、駿府城の歴史について、ウィキから拾います。
『14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
桶狭間の戦いで義元が戦死したあと、永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻にて、今川氏真の今川館は焼失。
今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。
天正13年(1585年)から徳川家康により、駿府城は近世城郭として築城し直された。・・翌天正14年(1586年)に家康が、自身が17年過ごした遠江国浜松城から駿府城に移った。その後天正18年(1590年)、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城。・・
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、・・駿府に隠居した。政治的影響力を持ち続けた家康は大御所と呼ばれた。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。』


駿府城周辺地図
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本佐倉城訪問

2024-04-15 15:26:59 | 趣味・読書
前号から続く。

本日は、前号に記載のようにまず佐倉城を訪問し、次いでタクシーで移動して本佐倉城を訪問しました。

本佐倉城は、大佐倉駅の東方に位置しています。

現代の本佐倉城跡は、四方を田んぼと林に囲まれた場所に位置しています。

タクシーは、本佐倉城跡の国史跡本佐倉城跡観光案内所に到着しました。まずは続100名城のスタンプです。
観光案内所は、小さな建物ですが、中は展示が充実しています。まずはビデオ鑑賞です。何枚ものパンフレットが用意されていて、係の人から説明も受けました。そして、われわれが実際に東山から城山を歩くのにもつきあっていただきました。
以下では、上の地図の赤数字で、1番付近から2番、4番、5番~9番と進む順で写真を上げています。
下の写真は、城の北側の田んぼ地帯から、東山を眺めています。中央の台地が東山です。その中央の切れ目が赤2番の東山虎口です。

北方の東光寺ビョウ付近から2番の東山虎口を見る


2番の東山虎口

東山虎口の途中から北方を見たのが下の写真です。

2番の東山虎口から北方の印旛沼方面
はるか北方の丘の上に建っているビルは、順天堂大学のさくらキャンパスのようです。江戸時代末期に佐倉城主の堀田正睦が順天堂を佐倉に招致した事情と、現代の順天堂大学さくらキャンパスが本佐倉城の北方に位置していることとの間には、何らかの関連があるのかないのか。

上の写真で遠方の順天堂大学よりも手前、左右に連なる土手が見えます。この土手が京成線の線路です。戦国時代は、印旛沼がこの線路の付近まで広がっていたそうです。そして印旛沼は太平洋まで繋がっており、印旛浦を形成していました。印旛浦は水運が盛んであり、また敵は印旛浦を経由して攻めてくることもできます。本佐倉城は、印旛浦からの攻撃に備え、北側の防御を固めていたそうです。

東山虎口を抜けると、下の写真のような段々の地帯となります。「Ⅳ郭」と呼ばれています。説明書には「利用不明の郭」とあります。

Ⅳ郭方向
上の東山虎口は、厳重に守られていて侵入は難しくなっています。一方で、東山と城山の間の地帯、東山馬場からⅣ郭にかけては、何の防備も見当たりません。北方から侵入した敵は、東山虎口の固い守りを突破するのではなく、東山を時計回りに回って東山馬場からⅣ郭を突破することとすれば、苦もなく5番の大堀切まで到達できそうです。どうなっているのでしょうか。


5番の大堀切から6番の城山通路方向
5番の大堀切、6番の城山通路、7番の城山虎口、8番の城山門跡を経由して、城山まで到達します。

城山

下の写真は、城山から北方を見ています。左遠方が東山の東端で、中央、駐車場右の建物は国史跡本佐倉城跡案内所です。

城山から北方

さて、本佐倉城の来歴です。
本佐倉城跡は、今から約500年前(西暦1470年前後)に造られた中世戦国時代の城跡です。城の主は千葉氏一族、約100年間で9代の城主が本佐倉城を本拠地としました。治めていた国は下総国一国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で、関東でも有数の名族でした。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めの際、小田原の北条側についていた千葉氏は滅亡し、本佐倉城はここから長い眠りにつきます。
そして現代、ほぼ当時のままの姿で今、再び目覚めようとしているとのことです。

関東一円の戦国時代の城主で、北条側についていたために豊臣秀吉の小田原攻めの際に滅ぼされ、城も廃城となった、というお城を、私はもう一つ知っています。
世田谷区豪徳寺の南側に位置する世田谷城跡がそれです。世田谷城跡をご参照ください。

帰りは、城の北側の東山虎口を降り、徒歩で京成の大佐倉駅まで歩きました。京成本線を京成八幡で降り、そこから都営新宿線の本八幡駅まで歩き、都営新宿線で帰宅しました。
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佐倉城訪問

2024-04-14 17:35:26 | 趣味・読書
ブログ更新が滞っていました。3月は年度末で仕事が山積して繁忙期であったこと、健康上の理由、などが重なりました。

4月になって繁忙期も終了し、健康も回復しました。そこで4月13日火曜日、日本200名城めぐりを再開しました。
今回は、佐倉城(100名城)、本佐倉城(続100名城)を訪問しました。

まずは佐倉城です。東京から京成本線を利用し、京成佐倉駅で降ります。南口の駅近くに観光案内所があったので、そこに立ち寄りました。係の方がとても親切に説明してくださいました。
観光案内図で説明します。上部中央が京成佐倉駅、そこから西へ地図の緑色ルートを進みました。地図の左上に国立歴史民俗博物館、その南西に佐倉城址公園です。

の左上に国立歴史民俗博物館があります。まずはここのロビーで100名城のスタンプをゲットしました。
上の図で下(南)に下ると、馬出し空堀、そしてその南方に本丸跡を中心とした佐倉城址が広がっています。

佐倉城

下の写真は、馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物が見えます。馬出空堀の手前が、椎の木門跡のはずです。

馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物


椎の木門跡から本丸跡に向かう


佐倉城址出土の礎石


本丸跡

佐倉城は、現在の国立歴史民俗博物館を含む広い領域が外側を堀(水堀)で囲まれ、その内側については、随所に空堀が設けられて本丸地域を防御する構造になっているようです。

佐倉城は、江戸時代初期、家康の命で家康家臣の土井利勝が築城しました。
以来佐倉城は、江戸城を囲む関東東域の諸国や海上の動静を伺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。
江戸時代末期には堀田氏が封ぜられました。
堀田正睦は、幕末に老中としてハリスとの日米修好通商条約交渉に身命を賭し、鎖国から開国へと導きました。また、順天堂の開設に尽力し、順天堂は一時佐倉に位置していました。

タウンゼント・ハリス像           堀田正睦像


空堀


三の門跡付近の空堀

佐倉城址を一回りしたあと、われわれは東の方向に歩き、一番上の地図で朱色の経路を大手門までたどり、さらに東方に進んで、地図中央の麻賀多神社のそば、地図上9番のおそば屋さんに入りました。
房州屋本店です。京成佐倉駅前の観光案内所で、このおそば屋さんを紹介されたのです。小さな店ですが、入ってみると大勢の人が順番待ちしていました。結局、店に入ってから食事にありつけるまでに2時間ぐらい待ったでしょうか。皆さんじっと待っています。「長時間待ってでも食べたい」という強い意志を感じました。
われわれにも順番が回ってきました。下の写真の三味そばを注文しました。

房州屋の三味そば
食べてみると、とてもおいしいおそばでした。天ぷらそば、とろろそば、なめこそばの3つの味を楽しむことができます。おそらく、この店は味がおいしいこと有名で、お客さんが集まってくるのでしょう。

たっぷりのおそばで満腹になりました。
ここから本佐倉城までの移動は、「京成佐倉駅まで徒歩-一駅先の大佐倉駅まで電車-本佐倉城まで徒歩」という経路をたどることもできますが、もう疲労困憊です。京成佐倉駅前の観光案内所では、タクシーの頼み方も教わっていました。そこで電話で配車を依頼しました。タクシーはすぐに来ました。

以下次号
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パソコンの変遷とエヌビディア

2024-02-28 17:16:55 | サイエンス・パソコン
日経平均「バブル最高値超え」で4万5000円突破の現実味
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日経平均株価がバブル最高値を超えました。
日本株価上昇の原動力は、アメリカの株価上昇だといいます。
そしてアメリカの株価上昇の原動力は、たった一つの会社の業績向上とそれに基づくその会社の株価上昇、時価総額の上昇だといいます。
そのたった一つの会社とは、半導体メーカーであるnVIDIA(エヌビディア)です。

エヌビディアは、AIに特化した半導体の独占的なメーカーであり、最近のAIの進歩に伴って業績が急速に伸びているといいます。

私は、エヌビディアの存在については、2007年頃から知っていました。
以前、パソコンのOSがWindows95に代わった以降、パソコンの拡張ボードにグラフィックボード(ビデオボード)が接続されているのが常でした。ウインドウズの高解像度の画面を制御するには、それ専用の半導体が必要とされ、グラフィックボードによってその機能を満たしていたのです。

1998年以降の私のパソコンについて、グラフィックボードの変遷をたどってみました。以下に、M/Bと書いたのはマザーボード、 CPUと書いたのはいわゆるCPU、そしてGPUと書いたのがグラフィックボードを意味します。GPUは「グラフィックスプロセッサーユニット」の略です。

1998年から2007年にかけては、グラフィックボードのメーカーとしては、Creative Labs、Diamond、Matrox、Canopus、NVIDIA、ASUSなどが入り乱れています。
2008~2013の時代、NVIDIAの一人勝ちになりました。
2013年以降は、CPUの性能が向上したのでしょう。グラフィックボードは搭載されないようになりました。

以上のように、2008~2013に私が所有していたパソコンにおいて、グラフィックボードはエヌビディアの一人勝ちである、というのが私の印象でした。よっぽど傑出した技術を保持していたのでしょう。

数年前、またエヌビディアの名前を聞きました。クルマの自動運転のニュースです。クルマの自動運転の開発において、エヌビディアのGPUに関する技術が役立っている、というニュースでした。パソコンのグラフィックスの技術を持っているのだから、それが理由だろうと納得していました。

それがこの1,2年、エヌビディアの技術がAIで役立っているというニュースに取って代わりました。
たった1社の業績によって、世界の株価が多大な影響を受けている、という事実には驚くばかりです。

以下に、私が所有していたパソコンの構成をリストアップします。
1998
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Graphics Blaster Exxtreme (Creative Labs)

1998
CPU AMD K6 232MHz
GPU Diamond Stealth 3D 2000Pro

1999
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Matrox Millennium G200 SD PCI

2007
M/B P3B-F
CPU Pentium III 1000MHz
GPU Canopus SPECTRA5400 Premium Edition

2007
M/B P4B533-V
CPU Pentium4 2542MHz
GPU MSI MS-StarForce GeForce4 MX 440/MX 440SE (NVIDIA GeForce4 MX 440/MX 440SE)
2007
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Pentium4 2542MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU Canopus SPECTRA Light G64

2007
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7300 GS

2007
M/B P5B
CPU Core2 Duo E6420
GPU GeForce 7300GS 256MB

2008
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7600 GS

2009
M/B P5Q PRO
CPU Core 2 Quad
GPU NVIDIA GeForce GTS 250

2011
M/B P8P67
CPU nVIDIA GeForce GTX 550 Ti
GPU

2013
M/B Inspiron 17R Turbo(7720)BTX
CPU Core i7-3630QM
GPU NVIDIA GeForce GT 650M GDDR 2GM

2013
M/B P8Z77-V
CPU Core i7-3770
GPU なし

2019
M/B ASRocK B360M
CPU Core i5-8400
GPU なし

2023
CPU Core i5-10500
GPU なし
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