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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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知的財産権弁理士歴史・社会趣味・読書サイエンス・パソコンサッカー
杉並世田谷散歩徒然

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岡山城訪問

2025-04-24 12:03:45 | 趣味・読書
前々報前報に引き続き、岡山城訪問記をアップします。


天守閣(南から)

4月19日は三原駅の近くに宿泊し、20日に新幹線で三原から岡山に移動しました。まずは岡山駅の観光案内所に立ち寄り、お城の情報を入手しました。駅から岡山城までは路面電車で移動します。いただいたパンフレットに、岡山城入場料を400円から320円に割り引く割引券が付いていました。ラッキーです。

案内図


復元ジオラマ 上が北

路面電車を城下で降車し、東に向かって歩きます。下写真のように、左を①旭川が流れ、②月見橋がかかっています。川の左側は③後楽園ですが、今回はパスしました。

①旭川にかかる②月見橋 左は③後楽園


④天守閣(北西から)
上の案内図で「現在地」と書かれている辺りから④天守閣が見えます(上写真)。その先の⑤廊下門(下写真)から城内に入ります。

⑤廊下門
案内図で、⑤廊下門の右側(東側)が「本段」、左側(西側)が「中の段」と呼ばれています。⑤廊下門は、中の段の表書院と本段御殿を結ぶ渡り廊下となっており、門扉もついて櫓門です。
⑤廊下門の西には⑥月見櫓が建っています。

⑥月見櫓(南東から)
現存する岡山城の建物は月見櫓と西丸西手櫓だけであり、月見櫓は第四代城主の池田忠雄の城普請のもので、1620年代に建てられたと判断されています。城郭防御の隅櫓として、城外側には戦闘装置を設けていますが、2階の城内側の東面と西面は、雨戸立てで開け広げた造作であり、日常の生活仕様となっています。

⑦不明門(あかずのもん)(下写真)は、 中の段から本段に上る正門です。明治時代に廃城令によって取り壊されましたが、1966年に天守とともに再建されました。

⑦不明門

⑦不明門の横を南に下ると、「下の段」です。下の段から中の段⑨南面の石垣を見たのが下の写真です。

⑨南面の石垣 右端は⑧鉄門跡
鉄門(くろがねもん)くろがねは鉄のことで、木の部分を鉄板でおおったいかめしい門だったためこの名になったといいます。下の段の南側から中の段の表書院(藩政の場)へ通じる櫓門でした。

⑦不明門


左:⑧鉄門跡 右:⑦不明門

⑦不明門から本段に入ると、④天守閣がそびえています(下写真)。空襲で焼失した天守は、1966年に鉄筋コンクリート造りで再建されました。望楼型の天守に塩蔵と呼ばれる櫓が付属しています。宇喜多秀家が建てた天守は外壁の下見板張りが黒漆塗りだったことから烏城(うじょう)と称され、また金箔瓦を用いていたので金烏城とも呼ばれました。

④天守閣(南から)

天守閣に入場し、まずは100名城スタンプをゲットします。最上階の展望台に上り、四周を見渡しました(下写真)。

④天守閣から③後楽園方向

元来た⑤廊下門から出て、④天守閣を再度見上げます(下写真)。

④天守閣(北西から)

中の段の北側の石垣に沿って西に向かうと、⑥月見櫓が見えます(下写真)。

⑥月見櫓(北東から)

こうして岡山城訪問が終わりました。路面電車の城下停留所までの途中でカフェに入り、昼食をとりました。

《岡山城来歴》
宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれました。岡山城の近くの石山城に、宇喜多秀家の父親の直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸(岡山城)を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となります。これに相応した城とするため1590年 - 1597年の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えました。
関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となりました。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城しました。秀秋は2年後の1602年に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶しました。
備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられ、忠継の死後、弟・忠雄が淡路より31万5千石で入封しました。忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされます。
1632年忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入封しました。以後幕末まで、岡山城は光政系池田氏の居城となりました。
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新高山城・三原城訪問

2025-04-23 14:40:18 | 趣味・読書
前報に引き続き、新高山城と三原城の訪問記です。

三原城天守台(西北西から)

山陽新幹線において、福山駅から西へ2つ先が三原駅です。三原駅に接して三原城跡があります。そして三原駅から在来の山陽本線で西へ1つ先が本郷駅です。新高山城の最寄り駅が本郷駅です。

《小早川隆景》
新高山城と三原城についてはいずれも、小早川隆景が主要登場人物となります。
小早川隆景は、毛利元就の三男で、父・元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に与えた「三矢の訓」の逸話で有名です。
竹原小早川家の当主が病死し、跡継ぎがなかったため、隆景が竹原小早川家の養子となり、12歳で竹原小早川家の当主となりました。さらに、小早川氏の本家・沼田小早川家を乗っ取る形で家督を継ぎ、沼田・竹原の両小早川家を統合しました。
1515年、隆景は沼田小早川家の高山城に入り、さらに1552年、沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城しました。
1582年、本能寺の変と秀吉の中国大返しのあと、隆景は居城を新高山城から瀬戸内海に面した三原城に移しました。
1594年、秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(後の秀秋)を小早川家の養子に迎えました。1595年、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、譜代の家臣団だけを率いて備後三原に移ります。1597年、三原城にて65歳で急死しました。
小早川秀秋については、関ヶ原の戦いで西軍側として参戦し、戦の途中で寝返って東軍に勝利をもたらしたことで有名です。

《新高山城(にいたかやまじょう)》
4月19日、福山城の訪問を終えた後、福山駅から在来の山陽本線で西へ向かい、糸崎駅で乗り継ぎ、本郷駅で下車します。
続100名城のスタンプは、新高山城の周辺ではなく、本郷駅の近くの本郷生涯学習センターに置いてあります。近くといっても炎天下をけっこう歩きました。今回はお城から遠いところでスタンプを入手し、お城も山城であることから、新高山城そのものの訪問はしないこととしました。

新高山城
本郷生涯学習センターから西へ向かうと、沼田川に至ります。本郷橋から新高山城の写真を撮ることが目的です。本郷橋は、山陽道が通る自動車道と、自動車道に並んだ歩道に別れています。歩道の中央から北方を見て、沼田川の左側の山が新高山城(上写真、下写真の左)、沼田川の右側の山が高山城(下写真の右)です。

左:新高山城 右:高山城

安芸沼田荘の地頭であった小早川氏が鎌倉時代に高山城を築いたとされます。
上の小早川隆景の説明でも述べたように、上写真右の高山城は沼田小早川家の居城であり、ここに隆景が1515年に入りました。1552年、隆景が、高山城の副塁として築かれた城を修築したのが、上写真左の新高山城です。隆景はその後、三原城を築城して1582年に本拠を移し、新高山城は廃城となりました。

新高山城は、ウィキによると、
『標高197.6mの山頂部を中心に築かれた山城で、その規模は東西400mに及ぶ。北と東は沼田川で守られ、瀬戸内海にも近く、城下には水軍の基地も建設された。
本丸、中の丸、西の丸、北の丸、釣井の段、鐘の段などの曲輪が残存し、シンゾウス郭やライゲンガ丸等、独特の曲輪名が残っている。本丸には枡形の土塁遺構や建物の礎石が残っている。』
とあります。

さて、予定通り新高山城を遠方から眺める写真を撮りおわったので、元来た道をたどり、本郷駅に至ります。JR在来の山陽本線で一駅東に、三原城が位置する三原駅があります。
《三原城》
三原駅に到着し、まずは観光案内所で情報を入手します。その後、本日の宿であるホテルルートイン三原駅前に行き、チェックインを済ませて荷物を預けます。

三原城案内図
上の図は、左が現在の状況、右が江戸時代の絵地図です。左の図にあるように、①三原駅の北に接して②天守台があります。②天守台の西・北・東が④内堀で囲まれています。
実は、明治維新までの三原城は、サイト「【続日本100名城・三原城(広島)】2度のピンチから逃れた巨大天主台のあるキセキの海城」で案内されている「紙本着色備後国三原城絵図」に見るような規模を有していました。上記三原城案内図の右の図面は、このサイトの絵地図の一部です。両者を対比してみると、往時の本丸は、②天守台の北側の一部を除いて破壊され、三原駅が建設されていることが明らかです。即ち、われわれが現在見ることのできる三原城跡は、天守台の一部のみであることがわかります。
JR線の①三原駅のガードを南から北に向かってくぐると、上の三原城案内図の「現在地」付近に出ました。ここからは、下写真のように、②天守台③西側の石垣と④内堀を見ることができます。後方の山は桜山で、三原城を守備する拠点の一つでした。

②天守台③西側の石垣と④内堀 後方の山は桜山


⑤小早川隆景像
④内堀の外側を、時計回りにぐるっと回りました。

三原城天守台(西北西から)


②天守台(北北西から)

ぐるっと一回りすると、②天守台の南東方向に②天守台への登り口がありました。下の写真は、②天守台から北東方向です。

②天守台から北東方向
ここ三原城は、1567年ころに小早川隆景が築いた水軍の要害が前身とされます。1577年には織田信長の中国攻めを受けて、毛利輝元が本陣を置きました。その後、隆景は筑前に移りましたが、1595年に養子秀秋に家督を譲ると、三原に戻り城と城下町を整備しました。
「紙本着色備後国三原城絵図」を見てもわかるように、本丸と二之丸を中心に、東側に三之丸、東西に出丸に相当する築出を配置。曲輪は海水を利用した水堀で囲み、船入を設置するなど、典型的な海城でした。

こうして、三原城訪問を終了しました。
駅の観光案内所でのご案内によると、三原はたこが名物のようです(三原のタコ)。
おいしいたこ料理が食べられるお店として、観光案内所で登喜将を紹介されました。宿に戻って電話を掛けると、無事に予約することができました。
登喜将では、たこ定食とたこの釜めしを注文しました。釜めしは1つを2人でシェアします。

たこ定食(たこのやわらか煮・たこ旨だし鍋・たこ天・ご飯・お吸い物・果物)


たこの釜めし

夕食の後、海岸沿いに以下のモニュメントを見つけました。

このプロペラは1977年に建造された約200mもの全長を持つ自動車運搬船「アメリカンハイウェイ号」に付けられていたもので、直径は6.3m、重さは約20トンもあります。三原城築城450年で今治造船所が寄贈しました。

こうして、4月19日の一日で、福山城、新高山城、三原城の3つの城を巡りました。以下次号
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福山城訪問

2025-04-22 14:07:34 | 趣味・読書
4月19日に福山城、新高山城、三原城を訪問し、20日に岡山城を訪問しました。まずは福山城です。

福山城天守閣(南から)

4月18日に大阪で所用を済ませて新幹線で福山まで移動し、その日はリッチモンドホテル福山駅前に宿泊しました。

福山城案内図

福山城は、上の福山城案内図にあるように、①福山駅に隣接して駅の北に位置しています。
①福山駅の北口を出ると、下写真のように、福山城②南面の石垣です。

福山城②南面の石垣

北の方角に天守閣が見えたので、北に向かって移動しました。

③月見櫓(東から)
左には③月見櫓(上写真、下写真)、さらに進むと④鏡櫓(下写真)が見えてきます。

左:③月見櫓  右:④鏡櫓

③月見櫓は、京都伏見城から移建されたと伝わります。明治初めに取り壊されましたが、1996年に天守とともに再現されました。

⑤天守閣(南東から)
石垣に沿って北に向かって歩くと、⑤天守閣が姿を現します(上写真、下写真)。

⑤天守閣(東から)

上の案内図の右下「現在地」から階段を上り、本丸に向います。正面に⑤天守閣がそびえています(下写真)。

⑤天守閣(南から)
福山城の天守閣は、1945年の大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート構造で復興されたものです。

⑤天守閣の中に入り、まずは100名城のスタンプをゲットします。
⑤天守閣の最上階は展望台になっています。東南東の方向に、旧日本鋼管福山製鉄所(現JFE瀬戸内製鉄所)を探しました。遠方はもやがかかってよく見えないのですが、下の写真の方向に製鉄所が見えている模様です。

⑤天守閣から福山製鉄所方向


⑤天守閣(西から)
天守閣見学を終えて天守閣から出ました。⑤天守閣の周りを西から北へと巡ります(上写真、下写真)。

⑤天守閣(北から)
⑤天守閣の東面、南面、西面は白壁ですが、北面のみ、黒壁です。
福山城の北面は、山並みが迫り防備上の弱点となっていました。そこで、砲撃への対策として、北側の壁には厚さ3mm程度の鉄板が壁面全体に張られていました。これは日本全国の天守にも類例がなく福山城天守で最大の特徴となっていました。天守閣の再建時には再現されていませんでしたが、2020年からの築城400年を記念した大改修で復元的整備が実施され、全国唯一とされる天守北側の黒い鉄板張りが復元されました。

福山城本丸の南西端には⑥伏見櫓が建っています(下3枚の写真)。
⑥伏見櫓は、京都伏見城松の丸にあったものを福山城に移建した痕跡が残る貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています。

⑥伏見櫓(南西から)
本丸の西の外側を南下すると、⑥伏見櫓が見えてきます(上写真)。⑥伏見櫓を南から回り込みます(下写真)。

⑥伏見櫓(南東から)

⑥伏見櫓に隣接して⑦筋鉄(すじがね)御門があり(下写真)、こちらが福山城の正門になります。柱の角に鉄と扉に数十本の筋鉄をうちつけているためにその名が生まれました。築城当時の姿を今に残す国の重要文化財です。

⑦筋鉄(すじがね)御門


⑥伏見櫓(北東から)
⑦筋鉄(すじがね)御門から本丸に入ると、左に⑥伏見櫓が見え(上写真)、そのとなりに⑧鐘櫓が建っています(下写真)。

⑧鐘櫓
こうして、福山城の本丸界隈を回ることができました。

《福山城来歴》
1619年、徳川家康のいとこである水野勝成が備後10万石の領主として福山の地に入封,福山城を築城しました。廃藩置県まで藩政の中心でした。
天守は,1945年の戦災で焼失し,1966年の市制施行50周年記念事業で再建されました。
伏見櫓と筋鉄御門は,1622年の福山城築城にあたり将軍徳川秀忠から拝領したもので,国重要文化財にもなっています。伏見櫓は,1954年の解体修理のとき,梁に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の陰刻が発見され,京都の伏見城から移建したことが明らかになりました。

《水野勝成》
下写真は、⑨水野勝成像です。

⑨水野勝成像
家康が生まれる前、三河国の刈谷に水野氏、岡崎に松平氏が城を構えていました。刈谷の水野氏から岡崎の松平氏に於大の方が輿入れし、生まれたのが家康です。その関係で、刈谷の水野氏を継いだ水野勝成が家康のいとこにあたることとなります。
勝成は、16歳のときに織田信長方で武功を立てますが、21歳のときに父の忠臣を斬り殺して父から勘当されます。36歳のとき、ようやく家康の仲立ちで戻りました。刈谷藩主を相続したあと、家康に従って総大将として活躍しました。
1619年に福山に入封します。それから3年かけて、福山城の築城と、海の埋め立て、町人町などの都市整備を行いました。川の水を引き入れて上水道を作ったり、全国に先駆けて「藩札」を作ったのも勝成です。

瀬戸内料理 八福。
18日夕方に福山の駅に着いたとき、観光案内所でおいしい店についてたずねました。そこで勧められたのが、駅南のさんすて二番街にある八福でした。福山に到着した夜、ホテルに到着したあと、電話で予約し、でかけました。
観光案内所では「福つまみ」を勧められました。その中にある「ちいちいいか」は、小ぶりでもちもちとした食感が特徴的で、天ぷらや酢みそあえの他、煮付けなどにしてもおいしい食材とのことです。そこで、ちいちいいかの酢みそあえを注文しました。そのほか、にぎり(8貫)、かきフライをそれぞれ一品ずつオーダーし、2人でシェアしました。

19日の午前に福山城を訪問した後、新高山城に向かいました。以下次号
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裁判官不足が続いている

2025-04-16 09:59:34 | 歴史・社会
法曹増でも裁判官不足の怪 見合わぬ待遇、弁護士に流出
2025年4月13日 日経新聞
『法曹界でトップエリートとされてきた裁判官のなり手不足が深刻だ。法曹人口は10年で3割弱増えたのに、判事補と呼ぶ若手裁判官は2割減った。企業法務需要が増えたことに伴い、大手法律事務所が最優秀層の学生らを好待遇で積極採用しているためだ。それでも採用方法を抜本的に見直す機運は乏しく、放置すれば司法システムが揺らぎかねない。』
『最高裁によると、24年度の判事補は673人と14年度の832人から159人(19.1%)減った。定員数を削っているにもかかわらず、定員の8割しか埋まらない状況が続く。』
裁判官の数は2800人弱で近年は横ばいが続きます。

五大事務所が、難関大の優秀な学生を司法試験の受験前から囲い込みます。試験の成績上位者は合格時点で就職の内定を得ていることが多いです。優秀な学生はこれまで裁判官になるケースが多かったですが、近年は人材獲得競争で劣勢に立たされています。
裁判官になっても度重なる地方転勤が重荷となって転身を図る若手も絶えません。
裁判官の採用については、司法試験の成績などを重視する傾向は変わらず、昔ながらのエリート主義が足かせになっています。

主要各国の制度の比較表が載っています。
        任用      転勤
米国(連邦)  法曹一元制   原則なし
英国     法曹一元制   原則なし
フランス   職業裁判官制  本人の同意が必要
ドイツ    職業裁判官制  応募制
韓国     法曹一元制   定期的に実施
日本     職業裁判官制  定期的に実施

米国、英国は一定の職務経験を積んだ弁護士などから裁判官を選任する「法曹一元制」を採用します。特定の裁判所の裁判官として任用されるため異動や昇進は原則ありません。
フランスやドイツは日本と同じく国家試験の合格者を裁判官として任用し、実務経験を積ませる「職業裁判官制」です。
ドイツの人口は日本の2/3ですが裁判官は2万人います。柔軟な働き方が可能で、異動も応募制で希望しない限り対象となりません。
上の表で、強制的な転勤を定期的に実施しているのは日本と韓国だけ、職業裁判官制に限ると日本だけです。欧米の主要国では、強制的な転勤がある国は存在しません。

私は「裁判官は定期的な転勤が存在するのが原則」と思い込んでいましたが、日本だけの特有の制度だったのですね。近い将来に、日本も主要諸外国並みの制度に変わっていくといいのですが。
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京王電鉄で落とし物捜し

2025-04-09 15:27:02 | Weblog
2023年11月、外出先でメガネを紛失したことがありました。京王井の頭線を明大前駅で降り、気がついたらメガネがありません。電車の中ではメガネを外して膝に置いており、降車するときにそのことを忘れて降りてしまい、メガネが車内に落ちたことが想定されます。
電車内に放置、あるいはどなたかが拾って駅に届けてくれることが期待できます。
京王電鉄の落とし物捜しについて検索したところ、LINEでやりとりできることがわかりました。
さっそくLINEのお友達登録を行い、必要な情報を入力しました。
「メガネの特徴を教えて欲しい」「メガネの写真を送って欲しい」と要求されますが、どちらも満足な回答はできません。唯一、「メガネのつるの部分は、金属1本ではなく、2,3本の構成になっている」との特徴を入力しました。
すると、「少々お待ちください」の返答の後、たった6分後に、「お客様のものと思われるお品物が確認されました!」との返答です。
保管場所は明大前駅近くの忘れ物取扱場所なので、私はすぐに行くことができました。出てきたメガネは、まさしく私が落としたメガネそのものでした。
このやりとりが下の画面1です。
 
画面1                    画面2
見つかったお礼を入力したら、上の画面2のように返答を受領しました。

今回の迅速な落とし物発見には感激してしまいました。

最近になって、以下のような新聞記事が出ていました。

落とし物の「返却率」が3倍に 京王電鉄で活躍する探し物名人は…
朝日新聞 2025年4月6日
『京王電鉄(東京都多摩市)で落とし物が持ち主に返ってくる「返却率」が、急速に上がっている。活躍しているのは、人工知能(AI)だ。』
『同社は2023年、外部企業との連携を推進する取り組み「KEIO OPEN INNOVATION PROGRAM」の採択企業であるfind(東京都中央区)が開発した「落とし物クラウドfind」を導入。24時間いつでも、メッセージアプリ「LINE」で落とし物の問い合わせの依頼ができるようにした。
利用者が落とし物の特徴や画像を送信すると、その情報を元にAIがデータベース内の落とし物情報と照合できるように。この絞り込みにより、迅速かつ効率的に落とし物を見つけることができるようになったという。
導入後、問い合わせがあった落とし物の返却率は3倍の3割に上昇。月1万6千件近くある落とし物のうち、6千件が持ち主のもとに返されるようになった。電話での問い合わせも3割近く減り、業務効率にもつながったという。』

私の落とし物の事例では、落とし物を見つける際においても、そして私からのお礼に対する返答にしても、あっという間に返ってきたので、ずいぶんすばしっこい人が対応しているのだな、と感心しました。実は人ではなく、AIが私と対話していたのかもしれません。
いずれにしても、便利な世の中になったものです。
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コードブレイカー(2)

2025-04-01 14:41:02 | 歴史・社会
第1報に続き、ジェイソン・ファゴン著「コードブレイカー――エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史」の第2報です。

この本の主役は、エリザベス・スミス・フリードマン(1892-1980)と、その夫のウィリアム・フリードマンです。

第1報では、エリザベスと沿岸警備隊における彼女のチームが、南米のナチのスパイ組織の通信暗号文を解読する活動までを記しました。また、ウィリアムと彼が率いる陸軍暗号解読班が日本の外交暗号パープルを解読し、パープル暗号複合機を制作するまでを記しました。

パープル制覇は、ウィリアムが本格的な暗号解読者としてなしとげた最後の偉業、最後の命がけの登攀となりました。この時点から晩年にかけて、ウィリアムは暗号機の発明と、インテリジェンス機関の設立という側面から国のために働くこととなります。

イギリスにはイギリス安全保障調整局(BSC)という組織がありました。1000人の組織員が、「アメリカの孤立主義を終わらせて戦争に参戦させる」ことを目的に邁進しています。イギリスはフーパーのFBIと協力しようとしますがフーバーは拒否しました。イギリスはフーバー以外の協力を獲得すべく運動し、ルーズベルト大統領は情報調整局(COI)を創設しました。CIAの前身です。このときから、イギリス人がエリザベス・フリードマンに親しげに近づいてくるようになりました。イギリスはすでに無線傍受技術を持っていましたが、イギリスからは信号を入手できない地域がありました。イギリスは、アメリカにおける無線インテリジェンスや暗号解読に強いのは沿岸警備隊であると知りました。
イギリスのBSCがヨーロッパ全域に設置した無線局と、アメリカ沿岸警備隊の傍受通信が互いを補うこととなります。

フーバーのFBIは、数種類の未知の暗号システムについて沿岸警備隊に手助けを求めてきました。エリザベスは、スパイの一部が書籍サイファを用いていることを見抜き、また回転グリルを用いる暗号については、暗号文から得られる手がかりだけをもとに推論し、5回か6回のひらめきを経てルールを見破りました。

1941年1月、ウィリアム・フリードマンは、ウォルター・リード総合病院の神経精神科に自分から診療を受けに来ました。エリザベスに知らせずにです。数日前に倒れたのだが多分神経がやられたのだろう、とウィリアムは話しました。
ウィリアムはそれから2ヶ月半、この病院の精神科病棟で過ごしました。外出は許されませんでした。
1941年3月、病気の診断が確定し、ウィリアムは陸軍の任務に戻ってよし、となりました。ウィリアムは陸軍の職場に復帰しましたが、以前とは全くちがう人間となり、この先も元に戻るてことはありませんでした。退院から三週間後、ウィリアムは陸軍から「健康上不適格という理由で」名誉除隊となったとの通知を受けました。ウィリアムは徹底的に抗議しましたが、除隊となり、民間人の立場で任務を続けるほかなくなりました。
エリザベスは、抑うつ状態にあるウィリアムの面倒を見ながら、仕事も続けなくてはなりませんでした。

ヨハスネ・ジークフリート・ベッカーは、ナチの親衛隊の士官でかつ南米で活動したスパイでした。7カ国でスパイを使い、ナチ支持者とともに政治的陰謀や軍事クーデターを組織し、地下無線局を設置しました。
沿岸警備隊のエリザベスのチームは、南米発信の暗号文を解読していきます。解読文は、フーパーのFBIにも提供されました。FBIはこの解読文をあたかもFBI発であるように偽装しました。そのため、エリザベスが記録から抹消され、後年J・エドガー・フーバーがエリザベスの業績を横取りしていきました。
2000年に国立公文書館に保管された極秘資料が機密解除され、FBIではなく沿岸警備隊が、無線通信回路を解明したことを証明しているのでした。

1941年12月、『真珠湾攻撃のニュースがフリードマン家に入ると、ウィリアムはせかせかと歩き回って小声でつかえながら、理解できないとつぶやいた。エリザベスの耳に、「でも、彼らは分かっていたじゃないか。分かっていた、わかっていたはずだ」という声が何度も聞こえてきた。』
ウィリアムら暗号解読者たちには、少なくとも数日前から、日本軍の攻撃態勢が整っていることはマジックから一目瞭然でした。ただひとつなぞだったのは、攻撃目標地点でした。それなのになぜ、ハワイの米軍は何の供えもなく不意打ちされてしまったのか?
それから長年にわたり、何が間違っていたのだろうという疑問がウィリアムの頭から離れませんでした。軍部が真珠湾の司令官に専用のパープル暗号機を提供しなかったせいで、真珠湾では直接マジックを読むことができませんでした。

日本の外交暗号パープルがアメリカで解読されており、真珠湾攻撃前に米大統領に手渡すはずだった最後通牒は、事前に解読されて米政府内で読まれていました。日本が米国に開戦することは明らかでした。それなのになぜ、真珠湾の米海軍・陸軍は無防備でやられてしまったのか。これは、アメリカの暗号関係者にとって最大の謎でした。このブログでも何回も取り上げています。たとえば
ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたか 2008-10-04(ブログ記事)
『日本政府は、アメリカに対する最後通牒を真珠湾攻撃開始の30分前に米国政府に手交する段取りとしていました。そしてその通告文(第1部から第14部まで)が、外交暗号に組まれて在米日本大使館に送信されます。
まず第13部までが送信されます。米国は直ちにこれを解読し、アメリカ東部時間で12月6日の夜遅くにはルーズベルト大統領に届けます。これを読んだ大統領は「これは戦争だ」とつぶやいたことが知られています。
アメリカ東部時間で7日の午前9時には、最後の第14部も到着し米国に解読されます。「これ以上、外交交渉により合意に到達することは不可能と認む」「全14部の通告を貴地時間7日午後1時にハルに手交せよ」とあります。東部時間午後1時は、ハワイ時間午前7時半です。

もちろん、米海軍作戦部長のスタークもこの情報を知らされます。部下から「いますぐキンメル大将(ハワイ太平洋艦隊司令長官)に警告されてはいかがでしょうか」と進言され、スタークは受話器を取り上げます。午前10時45分です。スタークはキンメルに電話をせず、代わりにホワイトハウスを呼び出しましたが、大統領は話し中でした。スタークはそのまま受話器を置き、あとは何もしませんでした。
米陸軍については、マーシャル参謀総長がつかまりません。自宅から乗馬に出かけたことになっています。やっと家に戻ったのは11時25分でした。マーシャルはスタークと電話連絡し、スタークはハワイへの連絡に海軍の電信網を使ってはどうかと提案しますが、マーシャルはそれを利用しません。そしてその緊急命令は、なぜか商業通信RCAによって打電され、実際にハワイのショート陸軍司令官に届いたのは真珠湾攻撃が終わった後でした。

結局、米国政府首脳は、「日本が東部時間午後1時の直後に、どこかの地点で米国に攻撃を仕掛けてくる」ということを知っていながら、ハワイにはその情報を伝えていなかったのです。』
--以上、ブログ記事-------------------

日本から米国への最後通牒の暗号解読に直接携わっていたウィリアムには、その解読情報が生かされず、ハワイが無防備で攻撃されたことに納得がいかなかったのでしょう。

開戦後、さまざまな暗号任務にフリードマン夫人の手を借りたいとの声があがりました。ウィリアム・ドノヴァンは、情報調整局、後のCIAを設立する業務を行っていました。エリザベスが名指しされ、CIAの原型の原型となる初の恒久的暗号部門の立ち上げに尽力しました。

沿岸警備隊に戻ったエリザベスは、南米からの傍受通信の解読を再開しました。

1942年3月、FBIと南米の警察は、ナチのスパイ網の一斉検挙を試みました。しかし、一斉検挙は不首尾に終わり、さらにはスパイ網が用いる暗号システムがすっかり変更されました。
それ以来、アメリカとイギリスの諜報網は、有益な情報はFBIにもらさない、との行動を取るようになりました。
エリザベスらがスパイ網の暗号を解読すると、スパイ網は暗号を変更します。この繰り返しでした。1942年冬には、やっとのことでスパイ網の秘密の通信回線をふたたび掌握できるようになりました。
ただひとつ、解読できない回路3-Nがありました。通信文がエニグマ機のどれかで暗号化されていると推測しました。

当時、ナチスドイツと敵対していない国はアルゼンチンのみでした。1943年1月、ナチススパイのジークフリート・ベッカー、別名「サルゴ」がブエノスアイレスに現れました。エニグマ暗号機をもってきました。無線技士のウッツィンガーは、強力な無線局を一つ造り、ベルリンには3つの無線局があると思い込ませることにしました。赤はベッカーと親衛隊の協力者を結ぶ回線、緑はハンス・ハルニッシュとウプヴェーアを結ぶ回線、青は「大使館の連中」用です。

エリザベスのチームとイギリスのチームが、それぞれ単独で3-Nの解読に成功しました。エニグマにはいくつもの種類がありますが、今回のエニグマは中程度のセキュリティでした。
南米のベッカーたちナチスパイは、南米各国の政府転覆計画を推進していました。その状況は、暗号を解読しているエリザベスらに筒抜けでした。
連合国当局は、これら暗号解読情報をも参照して、アルゼンチン政府に脅しをかけました。その結果、アルゼンチン政府は、ドイツおよび日本とのあらゆる関係を断絶するに至りました。

さらに、南米ナチの赤用の新しい3台目のエニグマについても、エリザベスたちは解読に成功します。イギリスに報告したところ、「自分たちも解読に成功したところだ」との回答がありました。

南米のナチ諜報網はとうとう、壊滅されることとなりました。実際に捜査し逮捕したのは南米の警察とアメリカのFBIでしたが、必要な情報の大部分を提供したのはエリザベスが率いる沿岸警備隊チームでした。エリザベスらの貢献のおかげで、南米諸国は枢軸国側に奪い取られずに済んだのです。しかしそのことは、当時は明かされることがありませんでした。

欧州での戦争が終了すると、ウィリアムはナチの諜報関係資料を収集するためのチームに配属となり、ドイツに向かいました。
ウィリアムはドイツからイギリスに向かい、イギリスのアラン・チューリングと会いました。チューリングは、ドイツのエニグマを解読する上での中心人物と目される天才数学者です。イギリスは1952年、アラン・チューリングが同性愛者であるという理由で、機密情報の取り扱い資格を剥奪しました。のちにチューリングは、明らかに自殺と思われる状態で死んでいるのを発見されました。
イギリスでウィリアムは、ナチの諜報活動について調べました。会ったドイツ人捕虜のなかには、ナチの一流の暗号家であるヴィルヘルム・フリッケ博士とエーリッヒ・ヒュッテンハインがいました。捕虜の尋問や調べた文書から、ドイツはエニグマ機の安全性をつゆほども疑っていなかったと判断しました。一方、ウィリアム自身がフランク・ローレットと共同開発したシガバを破ることができないでいたと知り、誇りに思いました。

日本との戦争が終結し、ウィリアムはアメリカに帰国しました。
ウィリアムは、戦後のアメリカ諜報機関をどのように設計するかの議論に参画し、1952年、国家安全保障庁(NSA)が誕生することとなります。また、自身の開発した暗号機の技術解説をまとめ、商品化を目指して特許を出願するつもりになっています。

ウィリアムの鬱症状は1947年に再発しました。
エリザベスとウィリアムは、自分たちが関係した暗号関係の書類を自宅図書館で保管していました。そしてこれら書類を、ジョージ・C・マーシャル財団に寄贈することに決めました。
1969年、ウィリアムが心臓発作によって亡くなりました。
葬儀が終わると、エリザベスはウィリアムの残した書類について目録の作成に取りかかりました。そしてエリザベス関連の書類を含め、レキシントンのジョージ・C・マーシャル財団図書館に運び込みました。
1980年、エリザベスは88歳で亡くなりました。

それから何年ものあいだ、何も起こりませんでした。
暗号解読に従事する女性たちが、エリザベスに注目するようになりました。

そして2014年、この本の著者のジェイソン・ファゴンが、財団図書館に眠るエリザベスの書類にたどり着きます。主任記録保管人は、「エリザベスの資料はすばらしいですよ」と伝えました。
ただし財団図書館の所蔵書類は、所蔵当時に機密指定になっていないものに限られます。そこで、財団図書館の書類調査だけでは、ぽっかりと穴が開いている状況でした。著者はその部分を、最近になって機密が解除された公文書によって埋めていきました。

以上が、エリザベス・フリードマンとウィリアム・フリードマンの歴史です。
この2人が、夫婦で暗号解読の仕事を行うことで暗号学を深め、次いでそれぞれが単独で政府、軍、沿岸警備隊での暗号解読に邁進することで、アメリカの暗号解読の能力は秀逸なものになっていきました。
日本の外交暗号パープルは、ウィリアムが率いるチームによって解読されました。
ドイツの暗号エニグマは、主にイギリスの努力によって解読されたようですが、アメリカのエリザベスのチームも、ほど同じタイミングで各種のエニグマの解読に成功しています。
一方、米軍が主に用いた暗号システムは、ウィリアムが率いるチームによって造り出され、日本もドイツもその暗号を破ることはできませんでした。
このように見ていくと、第二次大戦での暗号の世界において、米英が日独に優位に立っていた理由の相当の部分が、エリザベス・フリードマンとウィリアム・フリードマンという2人の功績によるのではないか、という気がしてきます。
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コードブレイカー(1)

2025-03-27 17:33:09 | 歴史・社会
ジェイソン・ファゴン著「コードブレイカー――エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史」

この本の主役は、エリザベス・スミス・フリードマン(1892-1980)と、その夫のウィリアム・フリードマンです。
第2次大戦の開始当時から、アメリカは、交戦国であるドイツの外交暗号(エニグマ)を解読し、日本の外交暗号(パープル)を解読していました。一方、ドイツも日本も、アメリカの暗号を解読できておらず、また自分たちの暗号がアメリカに解読されていることに気づきませんでした。
アメリカにおける、エニグマの解読とパープルの解読に最も貢献したのが、2人の個人、エルザベス・スミス・フリードマンとウィリアム・フリードマンであった、というのです。その詳細が今回の書籍に克明に記されています。

このカップルは、夫と妻の二人一組で、言うなれば家族経営の暗号解読局として機能するようになっていきました。コンピュータが存在しない時代、二人は鉛筆と紙、そして自分の頭を頼りにしていました。
エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破しました。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作製の手法を一変させました。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいます。
夫の方のウィリアム・フリードマンは、インテリジェンス史研究家から尊敬を集めるようになりました。国家安全保障庁(NSA)の父としても広く知られています。
一方、妻のエリザベスの知名度は、優れた才能を持ち多大な貢献をしたにもかかわらず格段に低いです。エリザベスが行った仕事が暗号解読に関するものであり、守秘義務を負って公表することができなかったこと、そしてFBIのJ・エドガー・フーバーが、エリザベスの貢献を横取りしてFBIの成果に見せかけてしまったためです。

1976年、エリザベスはNSAから派遣されたインタビュアー、ヴァージニア・ヴァラキのインタビューを受けました。エリザベスが84歳のときです。これが、エリザベスの業績が公に広く知られるきっかけになったようです。

エリザベスの保守的な父親は、エリザベスの大学進学に反対していました。エリザベスは学費は自分で払うと宣言して大学に進学しました。
1915年当時の教育を受けたアメリカ人女性ができる仕事といえば、せいぜい高校や小中学校で教えるくらいのものでした。女は、教師をして、子どもを産み、退職して、人生を終えるものでした。しかしエリザベスは、リスクを伴うものに情熱がかき立てられます。
一度は郡立高校の校長代理として赴任しますが退職し、両親の家にも長居できず、荷物をまとめてシカゴ行きの列車に乗り込みました。頭を使うことが必要な仕事を求めましたが、シカゴの職業紹介所職員からはそのような仕事の口はありませんとの答が返ってきました。
シカゴのニューベリー図書館に所蔵された、シェイクスピアのファースト・フォリオという稀覯本に彼女は関心を抱いていました。この図書館に出かけたことが、フェイビアンに出会うきっかけでした。
フェイビアンは大金持ちの事業家で、リバーバンクに研究所を開設していました。その研究所では、多くのテーマの研究が行われており、ミセス・ギャラップが、シェイクスピアの戯曲の作者はじつは哲学者のフランシス・ベーコンであり、その証拠のメッセージが戯曲の中に埋め込まれている、という仮説で研究を進めていました。ミセス・ギャラップは若いエネルギーと鋭い目をもった助手を求めていました。23歳のエリザベス・スミスはその助手の仕事に就きました。
ギャラップ夫人によると、ニューベリー図書館が所蔵するシェイクスピアのファースト・フォリオの文字の形の中に、秘められたメッセージが埋め込まれており、ギャラップ夫人はその秘密をすでに解き明かしているといいます。エリザベスの仕事は、ギャラップ夫人の手法を用いて既存の研究結果を再現することです。

ウィリアム・フリードマンは若い遺伝学者であり、リバーバンクのフリードマンの研究所に住み着いて研究をしていました。ギャラップ夫人の仕事も手伝っていました。
ギャラップ夫人の仕事、すなわちシェイクスピアの戯曲のなかにベーコンが仕組んだメッセージを解き明かそうとする仕事は、暗号解読と同様のスキルを必要とします。そのため、エリザベスとウィリアムは、この仕事を通じて暗号解読に必要なスキルを自然と身につけていきました。

第一次大戦の直前、通信手段として無線が用いられるようになりました。無線だと敵味方関係なく受信できるので、通信文の暗号化が必須になります。ところがアメリカには暗号解読家が数人しかおらず、そのうちの二人がエリザベスとウィリアムでした。
戦争省(現在の国防総省)は、モーボーン大佐をリバーバンクに派遣しました。モーボーンは暗号解読の実務経験がありました。モーボーンは、エリザベスとウィリアムのなかに才能の輝きを見て取りました。実際に敵国の暗号文の解読を依頼したところ、見事に解読に成功しました。その後、第一次大戦アメリカ参戦後の八カ月間、ウィリアムとエリザベスをはじめとするリバーバンクのチームが、アメリカ政府のあらゆる機関の暗号解読を行いました。暗号解読は、紙と鉛筆と二人の頭脳と、そして二人の連係プレイによってなし遂げられました。
エリザベスとウィリアムは、ストレート・アルファベット、ダイレクト・アルファベット、逆アルファベット、多アルファベット、混合アルファベットなど、数種類の換字式サイファを識別し、解読できるようになりました。書籍サイファを、その本自体が手許になくても解読できる一般的なテクニックを開発しました。二人は「柔軟な思考」「直感力」と表現しました。二人にとって直感とは、努力の末に獲得した体内コンパスのようなものでした。
その過程で得られた暗号解読に関する新たな知見は、リバーバンクから出版され、今日これらは現代暗号学の礎石と評価されています。
戦時中のある日、イギリス陸軍が開発した小型の手動式暗号機で暗号化された通信文の解読を試みました。イギリスは、この装置は解読不可能と結論づけていましたが、アメリカ側が念のために二人に解読を依頼してみたのです。二人は、絶妙の連係プレイでこの暗号を解読してしまいました。

ウィリアムはユダヤ人であり、ユダヤ教徒以外との結婚は家族全員が反対します。エリザベスはクエーカー教徒の一家でした。その障害を乗り越え、1917年、二人は結婚しました。フェイビアンの研究所にある風車が、二人の新居でした。

ウィリアムは陸軍への入隊を希望し、フェイビアンはなかなか許可しませんでしたが、戦争が終わったら戻ってくるという条件で陸軍入隊許可を与えました。そしてエリザベスを残して、フランスの戦地に赴任しました。
戦争が終結しました。
二人はリバーバンクから決別しようとしますが、フェイビアンの妨害でうまくいきません。やっとのことで逃げだし、ワシントンに向かいました。

第一次大戦後、各国の暗号の世界では、暗号文を作成する機械の必要に迫られていました。高速で、使いやすく、格段に高い安全性が確保されているという機械です。フリードマン夫妻は、ワシントンに到着するやこうした事態に放り込まれ、1921年、二人は政府機関での勤務を開始しました。

アメリカの政府部内で暗号解読を行う部局は3つ、職員は合計で50名以下でした。規模が最大なのは元陸軍中尉のハーバート・ヤードレーが率いる暗号局、その他は海軍と陸軍所属でした。その陸軍の暗号部門でフリードマン夫妻は勤務を始めました。
ウィリアムは、2機の暗号作成機械で生成した暗号の解読に成功しました。この時点では、紙と鉛筆とひらめきだけで機械を破ることがまだ可能でした。ただし、徹底した注意力と集中力を働かせる必要がありました。
ウィリアムは、当時市場で販売されていたエニグマ(ドイツ製の暗号機)の解析にも取り組んだことがありました。このときは本気で解読しようとはしていませんでした。

エリザベスは海軍の要請で勤務を始めましたが、5ヶ月勤務後に妊娠のために職を離れました。
1925年、エリザベスは沿岸警備隊の訪問を受けました。禁酒法の時代、沿岸警備隊のチャールズ・ルートは、海岸を経由して酒を密輸する船を捕まえる任を負っていました。エリザベスは、期間限定で在宅勤務なら、ということで受けます。
沿岸警備隊は財務省所管でした。財務省は法執行機関を沿岸警備隊を含めて六つ、抱えており、財務省捜査官はTメンと呼ばれていました。アル・カポネの逮捕、リンドバーグの愛児誘拐事件の犯人逮捕は、いずれもTメンによるものでした。

エリザベスは、沿岸警備隊が傍受した犯罪組織間の暗号通信文を次々に解読していきました。エリザベスは暗号通信文の解読のみならず、広範で包括的なシステムの構築に取りかかりました。エリザベスは、財務省でただひとりの上級暗号解析管、すなわち暗号解読法を知っている唯一の人間だったため、財務省内の各法執行機関に所属するTメンたちを結びつける役割を果たし始めました。
沿岸警備隊では、エリザベス一人が暗号解読を担い、3年間で酒密輸にかかわる通信文を12000通解読しました。限界を覚えたエリザベスは、暗号解読班の設置を提案しました。提案が認められ、下級暗号解読者3名と速記者2名、それにオフィスが与えられました。アメリカ史上唯一の女性が率いる暗号解読班となりました。3人の新人が暗号解読のスキルを身につけました。1932年にF・D・ルーズベルトが大統領に就任したときには、エリザベス率いるチームは、アメリカにおける掛け値なしに最高の無線インテリジェンス組織に成長していました。ここで獲得したスキルに基づき、エリザベスはのちに、ナチ・スパイの極秘ネットワークを打ち破る立役者となります。
ニューオーリンズでの刑事裁判でエリザベスが証人として公開の裁判所で証言することとなり、エリザベスは一躍時の人となりました。

このころウィリアムは、その後10年にわたって、陸軍で日本の外交暗号の解読に携わることになりました。1930年にウィリアムは陸軍の新たな暗号解読班を立ち上げ、これがのちに国家安全保障庁の中核をなすことになります。
ウィリアムはこの組織で、日本の外交暗号解読を目指すとともに、自分たちでも暗号作成機を創り出しました。
1930年ころから日本が使い始めた機械は、Angooki Taipu Aと呼ばれ、アメリカでは「レッド」のニックネームで呼ばれていました。1938年、日本はレッドを大幅に改良した高度な暗号機 Angooki Taipu Bに置き換えました。アメリカでは「パープル」と名付けました。
またウィリアムのチームは、M-134、さらに改良したSIGABAと呼ばれる暗号機を創出しました。アメリカ陸軍と海軍は第二次世界大戦中、1万台以上のシガバをあらゆる戦域に設置しました。ドイツ、イタリア、日本のいずれも、最後まで解読できませんでした。
ウィリアムの仕事は極秘であり、家に帰っても同業者である妻にすら話すことができません。ウィリアムは夜に帰宅するとほとんど何もしゃべらない生活となりました。ウィリアムの神経が病んでいきます。

ナチスドイツがボーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発しました。
大西洋を隔てたアメリカは安全なように思われましたが、もしナチが南米を支配したら、アメリカも安全ではなくなります。
ヒトラーは、南米に工作員を送り込みました。携帯式無線機をもった新人工作員が、Uボートで海岸にたどり着いたり、飛行機から落下傘で降下したりして目的地に潜り込みました。
エリザベス・フリードマンが1940年から1945年にかけて行っていたことについては、厳重な機密指定がされ、エリザベスの死後にようやく封を解かれました。
エリザベスのチームは、財務省から依頼された暗号を解読するうちに、未登録の無線局から発信された謎めいた暗号文の存在に気づきました。暗号を解読すると、平文はドイツ語であり、位置測定からすると発信元はメキシコ、南米、アメリカにある未確認の無線局のようです。まもなく、これらの無線局はナチのスパイが設置したものだとわかりました。
エリザベスと彼女のチームは、紙と鉛筆を用いて直感と経験をもとに、この暗号を解読していくのです。著書では、その過程が詳細に示されています。
エリザベスの基本的な解読スタイルは、紙と鉛筆で試行錯誤を繰り返し、推論を立ててそれを試します。エリザベスはこれまでの25年間、何万通もの通信文を手掛ける中で、ありとあらゆる種類の暗号を解いてきたので、近道の見つけ方、つまりは文中でのパターンの見分け方を心得ていたからです。エリザベスは一種の人間コンピュータでした。

1940年、ドイツのエニグマ機で作成された暗号文に始めて遭遇したとき、エリザベスはたいして怖じ気づきはしませんでした。
エニグマ機で暗号を作成するに際し、マシンのロータの開始位置を頻繁に変更することが必要です。しかしある無線局では、送信者がまちがって同じ開始位置を使ってすべての通信文を送っていました。そのため、数多くの暗号文を縦に重ねることで、暗号を解く鍵を見つけたのです。そしてチームは、暗号の特徴がエニグマ機に似ていることに気づきました。保有していた古いエニグマの商用機で解析を始めました。そして、見たこともないエニグマ機にある3枚のロータすべての配線をなんとか解明して見せました。

ウィリアムが率いる陸軍暗号解読班では、日本の外交暗号機パープルが生成する暗号文の解読に努めていました。
『1940年9月のある日、ウィリアム・フリードマン率いる陸軍暗号解読班がいる窓のない丸天井の部屋で、所属する2人の女性暗号解読者のうちの1人、ジュネビーブ・グローチャンが自分のデスクの前に立ち、なにかを発見したかも知れません、と男たちに話しかけた。
・・・
このときグローチャンは、これまで誰も見つけられなかった2つのパターンが見えてきた、と感じていた。』
男たちはデスクのまわりに集まってきます。
『「これだ!」とローレットが叫ぶ。「これだよ! 探していたものをジーンが見つけてくれた!」』
男たちはこの発見に興奮して笑いながら飛び跳ねていましたが、ウィリアム1人はほとんど悲しげに見えました。このときすでに、ウィリアムは精神的に病んでいたのです。

グローチャンの発見から5日後、1通の通信文が始めて完全に解読されました。
『今日、暗号史の研究者は、苦難の末に成功をものにしたという点では、パープルの突破は、アラン・チューリングのひらめきによりドイツの暗号エニグマを打ち破った功績と同等の価値があるととらえている。』
ウィリアムたちは、日本の通信文を読み解くためのパープル模造機の作製に取りかかり、完成させました。
パープル暗号を解読した解読文のうちで最高機密扱いされるものをマジックと呼ぶようになりました。日本が真珠湾攻撃を敢行したとき、在米日本大使が米大統領に手渡すべき最後通牒を、その前の日の晩にルーズベルト大統領がマジックとして入手し読んでいたことは有名です。日本は戦争終結に至るまで、パープル暗号が敵方に解読されていることに全く気づきませんでした。

以下次号
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姫路城の瓦屋根の漆喰

2025-03-16 10:33:44 | 趣味・読書
姫路城訪問 2025-03-14で紹介したように、姫路城を訪問してきました。
姫路城は白鷺城と呼ばれ、白壁だけではなく、瓦屋根も白い漆喰で塗り固められています。下写真がそれです。

屋根瓦の白漆喰塗り

屋根の色が変わっていく? 世界遺産 姫路城の屋根修理のヒミツによると、
姫路城の屋根は、いぶし瓦を使い、筒状の丸瓦と平たい平瓦を組み合わせる本瓦葺きという工法で葺かれています。姫路城の場合は、さらに瓦と瓦の継ぎ目である目地に漆喰を施し耐久性を高めています。これは池田輝政が築城したときと同じ手法です。
漆喰は施工後、経年により汚れやカビで黒く変色していきます。竣工後から5年ほどで以前のようなグレーの屋根になるといわれています。

平成の大修理の前、「白鷺城」と呼ばれていた姫路城の屋根はグレーでした。それが、大修理のあと、瓦に施した漆喰が真っ白なので、姫路城の屋根は白く輝いており、大修理前とは違う、「白過ぎ城」だ、との声が上がったそうです。上のサイトの写真、屋根も真っ白ですね。
しかし今回われわれが訪問した姫路城の屋根は、全体のイメージとしては白ではなくグレーでした。

⑰西の丸から見た⑬天守閣
上の写真、それから冒頭の屋根瓦部分の写真でわかるように、屋根のうちで雨が当たる部分はグレー、雨が直接当たらない部分は白、ということでツートーンになっています。結果として全体としては「白過ぎない城」に戻ったようです。経年変化は早かったですね。
NHKの新プロジェクトXで、姫路城平成の大修理における屋根瓦の白漆喰塗りの物語が放映されました。
番組の記憶をたどると・・・
平成の大修理で、屋根の漆喰塗りの工事はX社が受注しました。ところが、X社は姫路城の屋根の漆喰塗りに特有の技術を保有していなかったのです。
普段から姫路城の修理を行っており、屋根の漆喰塗り技術を保有している会社がありました。Y社です。Y社のBさんがその技術を保有していました。
X社のAさんは、左官の高度の技術を有する職人でした。X社が工事を受注したので、Aさんが中心になって施工することになったのですが、左官のプロとはいえ、姫路城の屋根独特の技術はわかりません。
窮地に立ったX社のAさんは、技術を保有しているY社のBさんに教えを請いに行きます。本来であれば、受注をのがしたY社が、競争相手のX社に技術を開示する義理はありません。それはAさんも分かっています。しかしAさんは腰を低くしてBさんに接触しました。
そこでY社のBさんは、X社のAさんに技術を開示することを決断するのです。
一番上の屋根の写真でわかるように、瓦に塗った漆喰の縁の部分が5mmほど盛り上がっています。この盛り上がりを造ることが、一番大切なコツであり、左官のプロであっても一朝一夕ではこの技術が習得できません。AさんをはじめとするX社の職人たちは、Bさんに教わりながらコツを習得しました。
こうして、姫路城の屋根瓦の漆喰塗りは、無事に完成できたのです。

この話、美談ではありますが、そもそも、なぜ技術を保有しているY社が受注しなかったのか、という点が問題です。
ここからは想像ですが、一般競争入札でX社はY社よりも安値で応札し、結果として機械的にX社に発注してしまったのではないか。
発注元が、
 姫路城の屋根瓦の漆喰塗りには特別な技術が必要
 特別な技術を保有しているのはY社
という点を把握していれば、見積額の高低ではなく全体の必要性からY社に発注すべきだったのです。この想像が正しいのであれば、今回のトラブルは発注元の凡ミスです。もしX社のAさんが高い技術を有しながら腰を低くしてBさんに教えを請う勇気を持っていなかったら、もしBさんが意気に感じて競争相手に技術を開示することをしなかったら、姫路城の屋根の漆喰塗りは失敗していたことでしょう。
技術移転にX社からY社に費用が支払われたかどうかは番組ではわかりませんでした。もし技術移転料が支払われており、結果としてX社は赤字で工事を完了したとしたら、X社の営業の凡ミスです。工事には高度な技術が必要なことを理解せず、安値で応札してしまったのが原因だからです。

ところで、姫路城の屋根瓦にはなぜ漆喰を塗り込めているのでしょうか。
ネットで以下の記事を見つけました。
瓦職人の目線で検証: 姫路城の漆喰~その①
瓦職人の目線で検証 その② 姫路城の屋根しっくい
『姫路城のシックイ工法は、首里城(沖縄県)と熊本城以外の日本の他の地域の城郭や仏閣では例がない。
水はけの悪いシックイは、”本瓦葺き”の特徴と 本平瓦と丸瓦の優位性を抹殺している。
時を同じくして世界文化遺産となった木造建築の”法隆寺”を想い合わせると、その差は歴然。』
この記事の意見からすると、「姫路城屋根瓦の漆喰塗りはやめた方が良い」ということのようです。
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姫路城訪問

2025-03-14 19:20:16 | 趣味・読書
3月9日、姫路城を訪問しました。
前日に姫路市内のホテルに入り、9日朝から姫路城に向かいました。往きは体力の温存のため、姫路駅前からバスでお城に向かいました。


⑬天守閣 ③菱の門から


全体案内図

拡大案内図

城内に入るには、南端の内堀にかかる①桜門橋を渡り、大手門から入ります。

①桜門橋と大手門 ⑬天守閣を遠望


①桜門橋と水堀


①桜門橋と大手門

大手門から先は広い②三の丸広場が広がります。②三の丸広場の先の丘の上に、⑬天守閣が聳えています。上の全体案内図(明治時代初期)によると、③三の丸広場には多くの建物が密集しています。今はそのすべての建物がなくなり、広場になっています。

②三の丸広場と⑬天守閣

望遠で⑬天守閣を眺めます(下写真)。②三の丸広場の先に、②三の丸広場より一段高い曲輪(⑮お菊井戸がある上山里曲輪)を支える石垣がそびえています。上山里曲輪は、周囲の石垣の上の全周が白い土塀で囲まれ、左端の櫓はリの一渡櫓です。
上山里曲輪の奥のさらに一段高い曲輪(⑭備前丸)を支える石垣がそびえ、そしてその奥に、石垣の上に⑬天守閣が聳えています。右が大天守、左手前が西小天守、左奥が乾小天守です。

②三の丸広場から⑬天守閣 

入城するための③菱の門に近づくと、左は小高い台地が石垣で囲まれた⑰西の丸です。⑰西の丸はその全周が土塀や多門櫓で囲まれています。下写真は、⑰西の丸の南東端にそびえる⑳カの櫓です。

⑳カの櫓


③菱の門(城外から)
③菱の門から城内に入ります。

③菱の門(城内から)
③菱の門の城内側には水をたたえた④三国堀です。④三国堀の先の石垣の上は二の丸です。二の丸の先のさらに高い石垣の上に、⑬天守閣を望むことができます。

④三国堀と⑬天守閣
こから見る⑬天守閣、左から乾小天守、西小天守、そして大天守です。

⑬天守閣 ③菱の門から

さて、ここからは⑬天守閣に至るルートをたどります。

⑤いの門(③菱の門側から)


⑤いの門(城内側から)


⑥ろの門


⑦はの門へ向かう


⑧にの門


⑨ほの門 天守曲輪への西側からの進入路に位置します。石垣を切り通して通路とした部分を仕切る現存する門で、埋門(うずみもん)の形式です。


⑩姥が石
羽柴秀吉が姫路城築城の際に石垣の石集めに苦労していた時、貧しい老婆がその話しを聞きつけ、せめてこれをと石臼を差出し秀吉を喜ばせたとの伝説があります。この噂が町中に広まり、多くの石が集まったそうです。今も上写真のように、乾小天守北側の石垣に残っています。


⑪水二門


⑫水の三門(天守閣側から)

数々の路地と門をたどり、⑬天守閣にたどりつきました

⑬天守閣内部


天守閣内の階段


天守閣内の武具掛け

こうして⑬天守閣内部訪問を終えました。
下2枚の写真は、⑬天守閣の南側、⑭備前丸から⑬天守閣を望んでいます。

⑬天守閣 左手前西小天守 左奥乾小天守 右大天守


⑭備前丸から⑬天守閣 左に西小天守 中央に大天守 右下に備前門入口
上の写真の右下の部分に備前門があります。この備前門を経由して、城を下ります。

下写真の穴の先には、腹切丸という狭い曲輪があるようです。いつの頃からか腹切丸と呼ばれていますが、切腹が行われていた場所ではないそうです。

腹切丸

上山里曲輪に至ります。
⑬天守閣から②三の丸広場方面を眺めたのが下写真です。写真の上半分が②三の丸広場、下半分が②三の丸広場よりも一段高い上山里曲輪で、⑮お菊井戸が見えます。上山里曲輪は石垣の上に土塀が築かれ、写真の右端にはりの一渡櫓が見えます。

奥が②三の丸広場 手前中央にお菊井戸 右にりの一渡櫓 

上山里曲輪にあるお菊井戸には、「播州皿屋敷」の標識があります。

⑮お菊井戸
私は、「番町皿屋敷」なら聞いたことがあります。全国に「皿屋敷」伝説があるらしく、「番町」も「播州」もその系統のようです。10枚そろいの大切な皿の1枚を、お菊という女性が割ったと濡れ衣を着せられ、井戸に投身して(投げ込まれて)死去し、以後井戸で夜な夜な「いちまーい、にまーい... 」と皿を数える情景が周知となっている怪談話の総称です。その点では両方とも同じストーリーのようです。ここ姫路城の「播州」の方は、室町時代、細川家のお家騒動を背景としているそうです。


⑯ぬの門(城内側から)
ぬノ門の扉、柱、冠木などはすべて鉄板で覆われています。また、櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっていますが、この形の櫓門はかつて金沢城、彦根城、津山城、伊予松山城にもありましたが、現存例では日本でここだけ、という貴重なものだそうです。

こうして、元来た③菱の門に戻ってきました。ここから、⑰西の丸に向かいます。下の2枚の写真は、⑬天守閣から⑰西の丸方向を見た写真です。
 奥が⑰西の丸 左に⑳カの櫓 右に⑱ワの櫓

⑬天守閣から 手前中央に③菱の門

奥が⑰西の丸 中央左にルの櫓 右奥にヌの櫓 右手前に⑲化粧櫓

⑬天守閣から 手前下方に⑤いの門、⑥ろの門
⑰西の丸は、②三の丸広場からは石垣が構築された一段高い曲輪になっています。そして⑰西の丸の周囲は、石垣の上に多くの櫓、櫓の間をつなぐ土塀や多門櫓で囲まれています。
下写真は③菱の門の横から⑰西の丸に登っていく坂道です。ここにはかつて西の丸への門がありました。下写真の中央には正方形の礎石が残っています。

⑰西の丸  南門跡


⑰西の丸から見た⑬天守閣

⑰西の丸の周囲の、⑱ワの櫓(下写真)から⑲化粧櫓までの間は、内部に通路を有する多門櫓となっており、百間廊下と呼ばれています。

⑱ワの櫓


百間廊下内部

百間廊下の西側は、はるか下に水堀があります。水堀の先は好古園でしょうか。水堀と好古園の間は途切れることなく土塀が健在です。

百間廊下から西方を見る

男山千姫天満宮は、姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。城内から遙拝できるよう、東向きに造営されています。
千姫天満宮の方向を撮ったのですが、どこにも社殿を見つけることができません。

千姫天満宮
千姫は、徳川家康の孫、秀忠とお江の方の娘で、7歳で豊臣秀頼に輿入れしました。大坂の陣では大阪城から脱出し、秀頼と淀君の助命を嘆願しましたが聞き入れられませんでした。その後秀頼と淀君は大阪城で自害してしまいます。大坂の陣の後、千姫は本多忠刻と再婚して桑名城に入り、本多家が播磨姫路に移封になった際に姫路城に移りました。
本多忠刻は、本多平八郎忠勝の孫で、忠刻も平八郎と呼ばれているので直系の嫡男なのですね。本多平八郎忠勝については、このブログの大多喜城訪問 2025-01-22でも話題にしました。

⑱ワの櫓に始まり、⑲化粧櫓に至るまでの百間廊下をたどり、外に出ます。

手前に⑲化粧櫓 ⑬天守閣を遠望
この⑲化粧櫓は、千姫が忠刻に嫁いできた時に与えられた10万石の化粧料、今でいう持参金の一部で 造ったもので、千姫が信心していた男山天満宮を拝むときの休息の場所、化粧の間であったと いわれているそうです。

こうして、姫路城の探索を終わりました。
ここまで見てきてわかるように、姫路城というのは、有名な天守閣のみならず、石垣の上に構築された多くの曲輪、曲輪のまわりの櫓や土塀、多門櫓が、数多く残っています。このようなお城訪問は初めての経験でした。

《姫路城の来歴》
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張されました。さらに関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へと拡張されました。
江戸時代には、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置され、大名が頻繁に交替して城主になっています。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や、親藩の松平氏が配属され、明治に至りました。
1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際に兵舎の増築のため本城と向屋敷、東屋敷等の撤去が行われました。また1882年(明治15年)には失火で備前丸が焼失しました。
太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れました。

姫路城は、白壁だけではなく、瓦屋根も白い漆喰で塗り固められています。下写真がそれです。

屋根瓦の白漆喰塗り
NHKの新プロジェクトXで、姫路城平成の大修理における屋根瓦の白漆喰塗りの物語が放映されました。
コメント
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