弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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杉並世田谷散歩徒然

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鉢形城訪問

2024-07-22 09:18:07 | 趣味・読書

鉢形城の復原四脚門 
7月20日、埼玉県寄居にある鉢形城を訪問しました。

鉢形城案内図

鉢形城跡は、上の地図で分かるとおり、荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘の上の天然の要害の平山城です。鉢形城は1476年(文明8年)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。
小田原における後北条氏の北条氏康の四男氏邦は、寄居付近の豪族である藤田泰邦に入り婿しました。この氏邦が、1560年ころに鉢形城主となり、鉢形城を整備拡充し、現在の規模となりました。以後、北条氏による北関東支配の拠点として重要な役割を担いました。稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐えました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、氏邦は3千の兵とともに籠城。5月13日、前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開しましたが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、氏邦は6月14日、城兵の助命を条件に開城し、城は廃城となりました。
一方、小田原城包囲の戦いは天正18年(1590)4月3日から始まり、結局、7月5日、氏直は開城して降伏しました。

私たちは、JRと秩父鉄道で寄居に到着し、タクシーを利用して鉢形城歴史館に至りました。

鉢形城歴史館入口
この歴史館で百名城のスタンプを押印し、お城に向かいます。

復原四脚門


三の曲輪の復原石積土塁と復原四脚門


三の曲輪から復原四阿と伝秩父曲輪

鉢山城の西側は荒川が流れ、河岸段丘の絶壁が鉢山城を守っています。荒川の対岸から鉢山城を見るとその様子が分かったはずですが、今回は城の側から荒川を見るのみでした(下の写真)。

伝秩父曲輪から荒川


三の曲輪と二の曲輪の間の堀(馬出?)


三の曲輪と二の曲輪の間の堀と土塁(馬出?)


三の曲輪と二の曲輪の間の堀


三の曲輪と二の曲輪の間の堀と土塁


稲荷神社

二の曲輪の東端で深沢川を渡ります(下写真)この深沢川による段丘が、鉢山城の東側の守りとなっています。

深沢川

深沢川を渡った東側が外曲輪になっています。下の写真は、外曲輪とその外側を隔てる土塁です。写真の右が城内の外曲輪、左が城外です。

外曲輪の土塁

歴史館に戻ってきました。その展示を見て回ります。
木の城門をくぐろうとすると、上から兵士に射すくめられました(下写真)。

鉢形城歴史館

以下、鉢形城のジオラマです。

鉢形城ジオラマ 南から

荒川              本曲輪         伝御殿下曲輪
 現稲荷神社     二の曲輪                      深沢川外曲輪

鉢形城ジオラマ 南から


鉢形城ジオラマ 西から

                   二の曲輪       三の曲輪
外曲輪  深沢川  伝御殿下曲輪               本曲輪     荒川

鉢形城ジオラマ 北から

下の地図を見ると、戦国時代末期、関東平野の大部分が北条氏の勢力下にあったことが分かります。また、この地図に記された城で日本二百名城に選定されている城も多くあります。

関東の城

鉢形城歴史館受付の横に飾られていた人形です。

北条氏邦公と大福御前(おふくごぜん)
大福御前は北条氏邦の正室です。
現在の寄居町の辺りに、鎌倉時代からの名家である藤田家がありました。小田原の北条氏康の四男である氏邦は、この藤田家に養子として入り、藤田氏邦を名乗りました。そして、藤田家の娘(氏邦の義兄妹)が大福御前で、2人は結婚したのです。
その氏邦、藤田家の天神城から鉢形城へと移り、名も藤田氏邦から北条氏邦に戻りました。さらに、氏邦は藤田家の弟の1人を殺害し、もう1人の弟とは敵対しました。
その後の秀吉による小田原攻め。鉢形城の氏邦は先に大福御前らを逃がしてから、開城を決断しました。ところがその逃げた大福御前、このあとの彼女の足取りが不明となっています。諸説があります。脱出する際に身投げしたとする説。無事に鉢形城から脱出して、正龍寺で剃髪して尼となったとする説。もう1つ。鉢形城を無事に脱出した大福御前は、落武者を狙う山賊に襲われてしまうのです。大福御前は身ぐるみ奪われ、奥州の久乃村へ売りとばされてしまったといいます。
月日が経ったある日のこと。偶然にも、奥州へ馬の仕入れに来ていた秩父の商人たち。かつての城主の奥方の面影がある女性を見つけました。旧臣らは自ら奥州へと出向き、大福御前を救出したのです。
歴史館に飾られた人形から、このような物語が引き出されるとは思いもしませんでした。

鉢形城の訪問がすべて終了し、電話でタクシーを呼んで寄居駅まで戻りました。

これで、200名城中の20名城をゲットしました。
100名城中では12名城です。
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彦根城訪問

2024-07-21 11:45:49 | 趣味・読書

7月14日の安土城観音寺城に引き続き、15日には彦根城を訪問しました。
朝、京都のホテルを出て、JRで彦根に行きます。彦根駅前の観光案内所に寄りました。お昼ご飯に予定している近江牛のお店の情報を得ました。ちょうど11時発の循環バスが出るところでした。バスは、彦根城二の丸で僕らを下ろします。近くの開国記念館に百名城のスタンプが用意されています。

城内へ向かいました。

大堀切
上写真の橋は、天秤櫓に向かう廊下橋です。廊下橋の上から天秤櫓と琵琶湖を望んだのが下写真です。

天秤櫓と琵琶湖
天秤櫓と太鼓丸を経て太鼓門をくぐると、本丸であり、天守閣がそびえています。

天守

現在、天守閣は耐震工事中で内部は見られません。西の丸を経て、西の丸三重櫓に向かいました。

西の丸三重櫓内部

下写真は西の丸側から見た天守閣です。

天守

本丸から太鼓門を経て太鼓丸に出ます。

太鼓門

太鼓丸には下写真の時報鐘があります。この鐘は、12台藩主井伊直亮が1844年に鋳造したもの、とあります。現在は午前6時、9時、正午、3時、6時についているということで、われわれも正午の鐘の音を聞くことができました。

時報鐘

天秤櫓の内部を見学しました。
彦根城の近くに佐和山城があるはずなのですが、どの山がそれなのかがわかりません。天秤櫓内にて、案内がありました。下写真の中央の山が佐和山城跡のようです。

天秤櫓から佐和山城跡

さて、天秤櫓から出て大堀切に帰ってきました。ここから、元来た表御門に戻るのではなく、大手御門に向かいます。大堀切から大手御門に向かう道は、下写真のような階段になっています。

大手門へ向かう階段

内堀を渡る大手門橋の下を、ちょうど船が通過するところでした。

大手門橋

大手門橋で内堀を渡り、さらに、京橋で中堀を渡ります。

京橋から見た中堀

京橋の先は、夢京橋キャッスルロードです。そこに、われわれが向かう近江肉せんなり亭伽羅があります。


玄関を入ると、井伊の赤備えの甲冑が出迎えてくれます(下写真)。


ちょうどお昼時で混雑を心配したのですが、われわれの前には一組だけで、すぐに番が回ってきました。2階席に案内され、そこは椅子席だったので私には好都合でした。
近江牛 和風ヒレステーキ重(数量限定)が1人分のみ用意できるとのことで、それと近江牛 和風ロースステーキ重を一人前ずつ頼み、家内とシェアすることとしました。
こうして、今回旅行の目的の一つである近江牛を味わうことができました。

彦根駅までの途中、いと重菓舗たねや彦根美濠の舎に立ち寄りました。東京にもたねやはあるのですが扱っているのは和菓子のみであり、たねやの洋菓子はここ彦根でないと購入できないのだそうです。
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観音寺城訪問

2024-07-18 12:22:01 | 趣味・読書

観音寺城 大石垣

7月14日、安土城に引き続き、観音寺城を訪問しました。

安土城のある安土山と、観音寺城がある繖山(きぬがさやま)は、連山になっています。二つの山の結び目になっている最も低い位置(峠)の直下が、JRのトンネルです。そして、安土山-繖山連山は、その四周360°が平地で囲まれており、琵琶湖東部の鈴鹿山脈や伊吹山地と切り離されています。観音寺城は原生林の中にありますが、クマ出没の危険性は少ないと判断しました。

まずは、信長の館近くの文芸の郷レストランで昼食です。私は“安土天下鶏雑炊膳”をいただきました。「安土特産の鶏と卵を使った雑炊と、鮎の佃煮、赤こんにゃく、えび豆など、地元名産品を一度にお楽しみいただけます。」とのことです。
昼食のあと、電話でタクシーを呼び、観音寺城へ向かいます。
われわれは高齢なので、歩く距離、歩いて登る標高差をできるだけ少なくすることが肝要です。観音寺城へ行くには、まずは近くの観音正寺に到達する必要があります。観音正寺に南から向かう表参道は、石段の標高差が半端ないです。さらに今回は、雨で林道が通行止めになり、普段よりさらに低い位置から石段を歩いて登る必要があったようです。一方、観音正寺に北から向かう裏参道(五個荘)は、ほぼ観音正寺の標高までタクシーで到達することができます。タクシーで裏参道を登ってもらいました。
ただし、タクシーは山頂駐車場までで、そこから観音正寺までの700mは徒歩を強いられました。標高差がなかったのが幸いですが。


観音寺城地図

上の案内板の地図にあるように、観音寺城の郭は、標高433mの繖山(きぬがさやま)観音寺山の山頂付近に構築されています。観音正寺裏参道の山頂駐車場は、上の地図の右端付近です。そこから、赤線の道をたどって観音正寺の「現在位置」まで到達します。

観音寺城地図(拡大図)


① 観音正寺
家内は安土城の往復で体力を使い果たしたので、ここから観音寺城へは私1人で向かうことにしました。
ここから先、観音正寺の境内から観音寺城へ行く道の入り口がよくわかりません。観音正寺北端のお堂(上写真)の裏手に回ると、下の方に登山道が見えます。そこに降りてみました。
道は、上の拡大図の紫の道が対応しています。この道をたどると、下写真の分岐に至ります。拡大図の紫の道と緑の道の分岐です。まずは右の道を本丸方向に向かいました。

② 本丸と平井丸の分岐
この上り坂に、下写真のような大石段が残っています。

③ 本丸への大石段
大石段を登り切ると、そこは本丸跡です。

④ 本丸


⑤ 本丸奥の石垣


石垣

大石段を下って、元来た道の分岐に至ります。平井丸方向の道は、岩だらけの完全な登山道の下りです。ただし、ちょっと降りると平坦な道になりました。しばらく歩くと平井丸です。

⑥ 平井丸
平井丸からさらに池田丸方向に進みます。池田丸に至りました。

⑦ 池田丸

せっかくここまで来たので、さらに進んで大石垣へ行くことにしました。
ここから先は岩だらけの急な登山道の下りとなります。
大石垣のてっぺんとおぼしき位置に到達しました。しかし、下は絶壁になっており、石垣は見えません。そこでさらに、この絶壁の右側の道を下ってみました。しばらく降って振り返ると、下写真の石垣が目に入りました。これが「大石垣」でしょうか。

⑧ 大石垣


⑧ 大石垣

これで、すべての目的を達したので、元来た道をたどり、観音正寺に帰り着きました。
驚くべきことに、観音正寺を出て観音寺城を探索する間、誰1人出会う人がいませんでした。日本百名城の一つに数えられているのですが、さすがに難所として敬遠されているのでしょうか。

観音寺城について、観音正寺の案内板には以下のように説明されています。
『宇多源氏の血統を曳く佐々木六角氏は、平安時代に近江へ土着したのち、鎌倉時代初期から戦国時代末期まで近江の守護をほとんど独占した名門です。この六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。
南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺の城郭」と「太平記」に記されたのが初見です。その後、観音寺城が当主の居住する城として石垣を多用した姿に整備されたのは、修築の記録が集中する1530~50年代のことと考えられます。
観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。昭和45年の発掘調査では茶器や中国産の陶磁器などが豊富に含まれていました。
永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎・義治親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。そして天正7年(1579)に安土城が完成したことによって、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。
平成26年より、豊かな杜づくり隊や地元企業が中心となり、地元有志の手で伝御屋形跡周辺と、そこから大石垣までの散策道(旧追手道)の整備を行いました。また、整備された散策道沿いを中心に、緑の募金を活用した植樹が行われており、将来は季節感のある遊歩道となる取り組みがされています。観音寺城跡のすばらしさを知っていただき、これを後世に伝えていくために、多くの方に、観音寺城を訪れていただきたいと願っています。』

上記説明書きでは、観音寺城を巡るための散策道が整備されているように書かれていますが、私が今回回った限りでは、とても整備されているとは言えず、歩きにくい山岳路のままです。草が伸び放題で、それは大石垣の上端、下端の草の伸び方からも明らかです。
以上のような状況にあることから、ちょっと回って観音寺城の全貌を窺い知ることは困難です。
日本城郭協会が百名城の一つに選んでいるくらいですから、重要なお城であるとの扱いと思います。そうであれば、より親しみやすく、歩き回りやすいように整備していただくとよろしいかと思います。
地図を詳細に観察すると、山の至る所に石垣が隠れているようです。その全体が見えるようになると、お城の価値は大きく上がるでしょう。

そもそも、ふもとからの登城ルートがよくわかりません。
下の地図で、伝御屋形跡から大石垣にいたる青色の道(旧追手道)が記載されています。
こちらのページによると、普通は「追手道」と「大手道」は同じであるところ、観音寺城に限ってはそうではなさそうです。
下の地図で、「本谷(見付谷)道」が、旧大手道だった可能性があります。しかしこの道は、現在は全く消滅しているのでしょうか。そして、大手道とは異なる追手道について、最近登山ルートが整備され、上り下りできるようになったようです。

大石垣は、追手道を経由して攻め上る敵からの防御のために造られたのでしょうか。それにしても大石垣は高さが10mに近く、大規模です。険しい山中に、このような大規模な石垣を築くのは大変でしょう。
安土城郭資料館で受け取った観音寺城 佐々木六角解体新書(100円)によると、繖山(きぬがさやま)は山自体が石の産地でした。本丸や池田丸など、広い平地を造るために山を削る際に排出する石を利用することで、大石垣を築くことができた、とされています。


観音正寺には、上写真のような石積みがあります。観音寺城 佐々木六角解体新書によると、「天然石群」ということで、やはり繖山(きぬがさやま)から石が豊富に採取できることに由来しているのでしょうか。

観音寺城 佐々木六角解体新書には、佐々木六角氏の由来についても記載されています。
宇多天皇の血をひく佐佐木信綱が死んだ後、4人の息子の間に相続争いがありました。三男・泰綱は近江守護と六角東洞院を相続して「六角氏」となり、長男・重綱は坂田郡大原庄を相続して「大原氏」となり、次男・高信は高島郡田中郷を相続して「高島氏」となり、四男・氏信が北近江と京都京極高辻の館を得て「京極氏」となりました。このような経緯で佐々木氏から四つの名家が誕生しました。
鎌倉幕府滅亡で六角氏は一時没落しましたが、泰綱から三代下の六角氏頼が南北朝の戦いで活躍。
氏頼の四代下の高頼は応仁の乱で西軍側につき、戦国大名として領国支配を固めました。高頼の息子の定頼は、将軍・足利義晴を支援して中央政治に積極的に介入。摂津国まで遠征し三好長慶と戦ったり、北近江の浅井氏を従属させるなど、六角氏の全盛期を築きます。家臣団を本拠である観音寺城に集結させるなど、内政面でも辣腕を振るいました。
定頼の息子・六角義賢(承禎)は、信長の近江侵攻に対し表向き白旗を挙げるも、甲賀に潜伏し、たびたび反撃するなどしぶとく、晩年は天下人・豊臣秀吉の御伽衆になりました。

観音寺城 佐々木六角解体新書には、六角氏をめぐる人間関係も記されています。
日本史では、蒲生氏郷が出てきます。蒲生氏は六角氏の家臣でした。
浅井長政の母は六角氏の人質だったので、長政は観音寺城で生まれました。
朝倉義景は、六角氏綱の次男だったとの説が近年生まれているようです。

六角氏と観音寺城、今までは何の知識もありませんでしたが、実は日本史の重要な一部を構成していることが理解できました。
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安土城訪問

2024-07-17 14:53:41 | 趣味・読書
7月13~15日の三連休、安土城、観音寺城、彦根城の3つのお城を訪問しました。
13日(土)に大阪で用事を済ませ、13,14日の2日間、京都のホテルに宿泊しました。14日はJRで安土駅まで移動し、その日のうちに安土城と観音寺城を訪問しました。15日はJRで彦根駅まで移動、彦根城を訪問し、そのあと東京まで帰ってきました。
まずは、安土城訪問記を記します。

《安土城郭資料館》
JR琵琶湖線を安土駅で下車します。
駅の南側に、安土城郭資料館があります。今回の安土城と観音寺城の百名城スタンプは、両方ともそこでゲットすることができます。まずはスタンプをゲットしました。

この資料館で、下の写真を撮影すると共に、資料を入手しました。

安土城断面


安土城断面


織田信長の南蛮甲冑

《安土城》
資料館から安土城まで、タクシーで移動します。資料館の方が、電話でタクシーを呼んでくださいました。

われわれの目標は、天主跡の往復です。下の地図によると、ふもとから天主跡まで、延々と石段を登っていくことになります。

安土城地図
上の図は、受付付近の表示板を撮った写真です。その拡大図を下に示します。

安土城地図(拡大図)
上の拡大図に丸文字を追記しました。下の文章の丸文字と対応します。


① 安土城大手道
大手道の石段は、直線状に延々と続きます。直線の石段が終わると、さらにジグザグの石段です。


石段の石仏
石段を構成する石として、石仏を利用したもの(上の写真)が何カ所か存在します。


② 天主へ向かう石段です。


天主跡周辺地図
やっとのことで本丸までたどりつきました。本丸の先が天主です。


③ 本丸跡


本丸跡から天主台


④ 天主台
天主台には、礎石が残っています。


⑤ 天主台から遠望

こうして、天主まで到達し、来た道を戻りました。

安土城は、織田信長が築いた有名な城ですが、現在は、石段と石垣が残るのみです。今回、自分の足で天主まで登り切り、自分の身体で安土城を実感しました。
安土山は標高が199m、ふもとからの標高差は110m程度とのことです。今回、標高差110mを登って降ったわけですが、大変な重労働でした。
この安土城、天主閣が壮大でかつ斬新であることで有名です。そのような特徴を具備しているのですから、信長も、標高差110mの山の上になぞ構築しなくても良かったのではないでしょうか。信長と家臣団、お濃の方とお付きの者達が、毎日この山を上り下りしていたとしたら、大変ご苦労なことでした。

安土城は、本能寺の変で信長が倒れた直後、炎上してすべてが失われました。原因は不明で、織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀軍による放火、という説などがあるそうです。

このあと、観音寺城に移動する前に昼食の予定です。安土駅の資料館でうかがったところでは、近くの信長の館のそばにあるレストランしか利用できないようです。安土城から歩いてレストランまで移動しました。

安土城訪問の後、観音寺城への行き帰りもタクシー移動を予定しています。資料館の方に、情報をうかがいました。観音寺城の近くに位置する観音正寺が目標となります。レストランでタクシーを予約すると、ほどなくしてタクシーが到着しました。

以下次号
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久しぶりにアサリ購入

2024-07-07 11:45:42 | Weblog
外国産(韓国産)のアサリを、国産(熊本県産)アサリとして産地偽装している問題が発覚したのが1年半前です。その際、おそらく最後の産地偽装アサリを購入し、そのラベルを示してこのブログの記事にしたのが、「アサリの産地偽装 2022-02-03」でした。

その後ずっと、最寄りのスーパーにおいて、アサリが店頭から消滅しました。
私は、韓国産で良いから、アサリを購入したかったです。それまで、熊本県産と偽装された韓国産を、騙されてはいたもののおいしいと思って購入していたわけです。これからは正々堂々と韓国産として売ってもらえれば、それを購入するつもりでした。もちろん、国産のアサリが店頭に並べばそちらを購入したでしょうが。
しかし、熊本県産以外の国産も、韓国産も、いずれも最寄りのスーパーの店頭に並びません。わが家では、1年以上にわたってアサリを用いた料理が作れませんでした。

先週になってやっと、近所のスーパーでアサリを見かけました。韓国産です。さっそく購入して、私の数少ないレシピの一つである、スパゲッティ・ボンゴレ・ビアンコを作りました。おいしくいただきました。
記念として、下にラベルの写真を載せます。左が1年半前の偽装熊本県産、右が今回の韓国産です。100g当たり単価が全く同じであるのにはびっくりしました。同じ店ではありません。
  
1年半前の偽装熊本県産        今回の韓国産
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掛川城訪問

2024-06-30 14:29:12 | 趣味・読書
6月29日(土)、掛川城を訪問しました。
東京-掛川間を新幹線こだまで往復する日帰りコースです。

12時過ぎ、掛川駅に到着しました。まず観光案内所(ビジターセンター「旅のスイッチ」)を訪問します。掛川でのおいしい食事についてきいてみると、やはりうなぎとのことです。当初は、掛川城訪問の後に食事をするつもりだったのですが、うなぎ店は1時半ごろにはお昼の部を終了するとのことです。そこで、まずは昼食をとり、そのあとでお城を訪問することにしました。
掛川城までの順路沿いで、甚八うな専が隣り合ってあります。まず甚八に到着すると、待ち行列が並んでいる上に、すでにお昼の部は終了していました。その隣のうな専は、並ぶことなく席に着くことができました。
琵琶湖の長浜では、うな重のボリュームがわれわれには大きすぎたので、ここでは一番下の値段のうな重を注文しました。

うな専
上の写真のように、うなぎが1枚半でした。長浜は3枚でしたが、われわれには1枚半がちょうど良かったようです。

掛川駅前の北口ロータリーからまっすぐ北上すると、掛川城の券売所に至ります。それに対してわれわれは、一つ東の道を北上したようです。大手門に至りました(下写真)。掛川駅からまっすぐ北上していたら、大手門は見逃しているところでした。

大手門
大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。


大手門番所
大手門をくぐるとすぐ、大手門番所があります。江戸時代末期に建てられたこの番所は、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所でした。この番所は、掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられました。現在残されている建物は、嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊後、安政6年(1859年)に再現されたものです。


逆川(さかがわ)

下の2枚の地図で、白黒は現在、色鉛筆は当時を意味しています。

掛川城地図


掛川城地図


掛川城ジオラマ


掛川城鳥瞰図

券売所でチケットを購入して城内に入ると、まず四足門をくぐります。

四足門
調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。門の内側には、入場者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした。


内堀

主な見どころは天守閣と御殿です。ちょうど団体客が天守閣を訪れていたので、われわれはまず御殿を訪問することにしました。
御殿は、城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。現存する御殿は、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所しかない、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。

御殿


御殿


御殿

天守閣は、嘉永7年に起こった安政の大地震により損壊し、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年に廃城となりました。
掛川市民の掛川城天守再建への熱意と努力は平成6年に実を結び、天守は140年ぶりに木造で再建されました。

天守閣


天守閣

   四足門              太鼓櫓             本丸広場

天守閣から南方向

       大日本報徳社大講堂
二の丸美術館                      掛川城御殿

天守閣から東方向


天守閣内部の階段


太鼓櫓と天守閣を望む

掛川城由来
掛川城は戦国大名今川氏の重臣朝比奈氏の居城でした。今川氏の滅亡後、徳川家康の家臣が入城しました。家康が関東に移ると、天正18年(1590)に豊臣秀吉配下の山内一豊が入封しました。一豊はこの城を三重の天守をもつ近世城郭へと大々的に改修しました。
関ヶ原の戦いの後、山内家は掛川2万石から土佐20万石にと大出世し、その後、掛川城には多くの譜代大名が入りました。

天守閣に、山内一豊騎馬像があったので写真に収めました。

山内一豊騎馬像
天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻(千代)が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談があります。千代の嫁入り道具の鏡の柄の中に金が仕込まれており、これを取り出して馬を買ったというものです。この馬の働きで敵将を討ち取り、敵将が所持していた銘槍を奪って一豊が自分のものにした、という話が「功名が辻」に出てきました。
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オプジーボ特許紛争~本庶佑氏側から

2024-06-28 14:27:30 | 知的財産権
がん治療薬「オプジーボ」については、ノーベル賞授賞学者本庶佑氏と小野薬品との間で特許紛争があったことを承知しています。
このブログでは先日、「オプジーボ特許紛争~小野薬品側から 2024-06-27」として記事をアップしました。
この6月、日経新聞の「私の履歴書」は一方の当事者である本庶佑氏です。ここでは、私の履歴書の記事から、オプジーボ特許紛争の内容についてピックアップします。

本庶佑 私の履歴書(19)がん免疫療法
2024年6月20日 日経新聞
『「PD-1」は免疫が亢進(こうしん)するのをコントロールするブレーキ役を果たしている。ならば、がんや感染症、関節リウマチなどの自己免疫疾患、移植された臓器の拒絶反応といった、免疫制御の欠陥を特徴とする様々な病気の治療へと道が開けるのではないか。
1998年春ごろだった。研究室メンバー数人で将来の臨床応用への可能性を探る研究が始まった。(PD-1の)がんに対する免疫効果をいち早く見つけたのが当時、大学院生だった岩井佳子くん(現在、日本医科大学教授)だ。』
動物実験の結果、がん治療薬としての効果が発現してきました。成果が論文として公表される前に特許を押さえておかなければなりません。
01年、京大内の「発明委員会」で、大学としてきちんと特許を持つため、弁理士を雇って申請してほしい、と力説しました。しかし大学本部の知的財産を扱う部署は実態は「もどき」の組織で人も資金も足りません。
『「(特許の)申請や維持に相当のお金がかかる。大学では無理です。先生、どこか企業に頼んでください。」と、担当者の回答はそっけなかった。
PD-1の一連の研究には全く関与していなかったが、付き合いのある小野薬品工業に依頼せざるを得なかった。』

本庶佑 私の履歴書(20)オプジーボ
2024年6月21日 日経新聞
『「PD-1」に関する特許は、いくつかの別のテーマで共同研究していた小野薬品工業に援助をお願いし、特許出願することになった。
特許は普通、申請後1年半ほどで公開される。2002年の論文発表後、直ちに抗がん剤の開発に着手してほしいと小野薬品に依頼した。
しかし、小野薬品は関西を基盤とする中堅の製薬会社で、当時、がんに関する医薬品を扱っていなかった。臨床試験(治験)まで含めると数百億円かかるかもしれないハイリスクな開発に尻込みした。』
本庶氏は小野薬品の担当者にがん治療薬開発を迫りました。小野薬品は単独では無理なので共同開発のパートナーを探しました。1年かけましたが、どこからも開発協力が得られません。
その後一転して、小野薬品が「うちで開発をやる」と言ってきました。後からわかるのですが、04年頃、メダレックスという米ベンチャーが小野薬品に共同開発を持ちかけてきたのです。そして09年、巨大製薬会社である米プリストルマイヤーズスクイブ(BMS)がメダレックスを買収しました。治験は一気に加速します。
PD-1抗体(製品名オプジーボ)は14年、メラノーマを対象にがん免疫薬として承認されました。
『進捗状況について小野薬品からは知らされなかった。オプジーボ誕生のよろこびとは裏腹に、私の中に同社への不信感が芽生えていった。』

本庶佑 私の履歴書(23)特許係争
2024年6月24日 日経新聞
『重い決断を下さざるを得なかった。2020年6月、長年の共同研究先でがん免疫治療薬「オプジーボ」を製造・販売する小野薬品工業に対し、約262億円の支払いを求めて訴訟を起こした。
PD-1分子を使ったがん免疫治療には大きく分けて3つの特許がある。物質そのものに対する特許、免疫の仕組みに関する特許、そして薬につながる用途特許だ。いずれも私と小野薬品とが特許権者になっている。
小野薬品は米メダレックスと共同開発するにあたり、特許権の独占的使用を認めるよう私に求めてきた。』
本庶氏は当時、研究に多忙であり、小野薬品との交渉は京都大学にいた大手製薬会社出身の知財担当者にすべてを任せていました。この判断が失敗であったと本庶氏は言います。
本庶氏は、特許契約での自分の取り分が少なすぎると感じるようになりました。契約条件について再交渉が始まりました。
条件の見直しがまとまりかけていた頃、今度は小野薬品とメダレックスを買収した米BMSとが、オプジーボと似た薬を発売したメルクを特許権侵害で訴えました。本庶氏はこの訴訟への協力要請を受けたので、同時に提示された条件を前提にこれに応じることにしました。米国での特許訴訟は、ディスクロージャーであらゆる証拠の提出を求められ、本庶氏は科学者としては想像を絶する壮絶な争いに巻き込まれてしまいました。17年1月、小野薬品・BMSとメルクとの係争は和解が成立しました。
『製薬会社同士の紛争がようやく解決してよかったと思った。その後、私と小野薬品との紛争が続いたことは広く知られているとおりである。
21年11月、訴訟協力や発明の対価に対する私と小野薬品との係争は、裁判所からの勧告もあって大阪地裁で和解した。』

以上が、「私の履歴書」における本庶氏の主張です。
前報にも記載したように、産経新聞 オプジーボ訴訟詳報2021/9/2 によると、本庶氏が請求していたのは、オプジーボに似た薬を販売する米製薬大手メルクから小野薬品が得る特許使用料の一部についてとのことでした。小野薬品などはメルクを特許侵害で訴え、2017年1月、メルクが約710億円などを支払う内容で和解しました。
オプジーボに関する特許を共同で持つ小野薬品と本庶氏は以前から特許使用料の配分をめぐり対立していました。本庶氏は、メルク訴訟に協力すれば小野薬品に支払われる和解金の40%を配分するという提案を相良社長から受けたのに、実際は1%にとどまったと主張しています。これに対し小野薬品側は、40%の提案をしたことは認めていますが、本庶氏自身が「はした金だ」と一蹴したために金額交渉自体が決裂したとの見解です。「第三者から特許使用料を得た場合、1%の対価を支払う」としたメルク訴訟前の平成18年の契約に基づき、それまでに数億円を配分したと反論していました。

私の履歴書の記述によると、本庶氏はメルクとの訴訟への協力要請を受けたので、同時に提示された条件を前提にこれに応じることにしたつもりでいましたが、「同時に提示された条件(多分40%)」は本庶氏が蹴飛ばしていたことのようです。
メルク訴訟への協力要請をうけたときの協議に、本庶氏は法律・交渉事の専門家を同席させるべきだったですね。

それと、時々刻々、小野薬品から本庶氏への情報共有が不足していたようです。それが、本庶氏の小野薬品に対する不信感を増幅させたのでしょう。

小野薬品側は、契約を盾にとってごり押しするのではなく、妥当な条件での和解に応じました。これにより、両者の紛争は一件落着することができたようです。
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オプジーボ特許紛争~小野薬品側から

2024-06-27 11:42:23 | 知的財産権
がん治療薬「オプジーボ」については、ノーベル賞授賞学者本庶佑氏と小野薬品との間で特許紛争があったことを承知しています。

産経新聞 オプジーボ訴訟詳報2021/9/2 によると、
本庶氏が請求しているのは、オプジーボに似た薬を販売する米製薬大手メルクから小野薬品が得る特許使用料の一部についてです。小野薬品などはメルクを特許侵害で訴え、2017年1月、メルクが約710億円などを支払う内容で和解しました。
オプジーボに関する特許を共同で持つ小野薬品と本庶氏は以前から特許使用料の配分をめぐり対立していました。本庶氏は、メルク訴訟に協力すれば小野薬品に支払われる和解金の40%を配分するという提案を相良社長から受けたのに、実際は1%にとどまったと主張しています。これに対し小野薬品側は、40%の提案をしたことは認めていますが、本庶氏自身が「はした金だ」と一蹴したために金額交渉自体が決裂したとの見解です。「第三者から特許使用料を得た場合、1%の対価を支払う」としたメルク訴訟前の平成18年の契約に基づき、これまでに数億円を配分したと反論しています。

この6月、日経新聞の「私の履歴書」は一方の当事者である本庶佑氏です。
また、朝日新聞の6月14日15日の記事として、他方の当事者である小野薬品の前社長現会長の相良暁氏が発言しています。
そこでまず、小野薬品側の発言として、この記事の内容を取り上げます。本庶佑氏の発言については、回を改めて紹介することとします。

(けいざい+)オプジーボの先へ:上 変なもん、効き目ほんまもん
2024年6月14日 朝日
『「うちって変なもんやってますからね。そのひとつみたいな」
多くのがんの治療に使える画期的な仕組みを持つ薬「オプジーボ」を2014年、世界で初めて発売した小野薬品工業(大阪市)。社長を15年以上務め、この春会長になった相良暁(さがらぎょう)(65)は、第一印象をそう振り返る。兆円単位の売り上げを持つ世界のメガファーマが研究開発に毎年数千億円を投じるなか、中堅クラスの小野薬品が先んじた「快挙」だった。
・・・
オプジーボは、1980年代から交流が深かった京都大学特別教授の本庶佑との共同研究から開発に繋がった。がん治療に使うとして02年に特許を出願。
開発はなかなか進まなかった。
当時はオプジーボが人体の持つ免疫が働くようにしてがんをたたく仕組みは広く理解されてはいなかった。
担当者が医師に臨床試験を頼むと「こんなメカニズムで効くと思うてるような素人と一緒に仕事したない」「もし効いたら頭丸めたるわ」
12年、世界的権威の医学雑誌で高く評価され、14年にはメラノーマの薬として認められ、販売を始める。その後、肺がんや胃がんなどでも認められた。』

(けいざい+)オプジーボの先へ:下 「特許の壁」乗り越え、挑む海外展開
2024年6月15日 朝日
『小野薬品工業の売上高は、2014年にがん治療薬「オプジーボ」を発売してから、23年度までで3.7倍に伸びた。一方でその間、オプジーボによる二つの壁に直面した。
ひとつは、価格が高いとの批判だ。いまは、さまざまながんの治療薬として認められているが、日本では当初、患者が少ない皮膚がんの一種(メラノーマ)の治療薬として売り出した。投じた研究開発費なども考慮して採算が取れるよう、国が決めた薬価は100mg約73万円だった。』
一方、翌15年に肺がんに使えるようになり、薬価は半年おきに改定され、今は当初の1/5です。
『もうひとつは、共同研究をしていた京都大学特別教授の本庶佑との訴訟だ。本庶は18年、オプジーボに繋がる研究でノーベル生理学・医学賞を受賞。その後の20年6月、契約通りの特許使用料を得られなかったなどとして、約262億円を払うよう小野薬品を訴えた。
「対応を間違ったら、小野薬品のレピュテーション(評判)が悪くなってしまう。」相良はリスクを感じ、21年に和解に応じた。本庶に解決金などで50億円を支払い、若手の研究者を支援するための基金として230億円を京大に寄付することにした。だが、本庶と結んだ特許料の契約の内容を変えることには応じなかった。
製薬会社に限らず、企業は大学などと組み、さまざまな研究や開発に取り組んでいる。成功すれば目立つが、失敗することも多い。企業はそのリスクを負って資金を出している。
「研究が大きな成功に繋がったら、もともとの契約を変更して上乗せしてしまうと、産学連携に禍根を残すのではないか。」この裁判は自分たちだけの問題ではないと考えていた。』

それでは、私の履歴書における本庶佑氏の主張については別の記事でまとめます。
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五稜郭・志苔館訪問

2024-06-26 16:43:48 | 趣味・読書
北海道に出かける用事があり、6月21日(金)、函館の五稜郭と志苔館を訪問しました。
諸般の事情により、6月21日の朝に千歳のホテルを出発し、日帰りで五稜郭と志苔館を訪問し、その日のうちに新さっぽろのホテルに帰着するという行程です。函館への往復にはJRを利用しました。今回は私の単独行動です。

五稜郭は函館駅から北の方角に位置します。志苔館は、函館駅の東方、函館空港の近くに位置しています。
函館駅に到着すると、まずは駅の観光案内所を訪れました。志苔館往復のルートを検討するためです。
ヤフーの路線で検索すると、函館駅から路面電車で終点の湯の川まで行き、そこから徒歩40分で志苔館にいたる、というルートしか出てきません。観光案内所では、91系列のバスが運行していることを知らされ、時刻表をいただきました。ただし、1時間~2時間に一本しか運転されていません。
駅ビルの2階で昼食のラーメンを食しながら時刻表を確認したら、今から10分程度でバスが出発することが分かりました。そこで、訪問の順番として、まずは志苔館に向かうことにしました。

志苔館は、函館空港の南側、海岸の近くに位置しています。観光案内所では、志海苔の停留所で降車するように言われています。
さて、志海苔の停留所でバスを降ります。ここからが大変でした。志苔館の入り口に向かうルートが分からないのです。停留所は海岸近くにあり、その北側が海岸段丘で、海岸段丘を上がったところに志苔館の土塁があることは見て分かります。北へ向かって登る最寄りの路地(坂)をいくつかトライしましたが、途中で行き止まりになります。結局、バス停から西に少し戻ったところの川に沿って歩くと、やっとのことで志苔館の入り口を見つけることができました。

《志苔館跡》

志苔館平面図
入り口の案内に以下のように記載されています。
『志苔館跡は、函館市の中心部から約9km離れた標高25mほどの海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ、その外側には壕が巡らされている。
郭内は、東西70~80m、南北50~65mで、約4100平方mの広さがある。
また、館跡の正面にあたる西側には、二重に堀が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
この記述によれば、康正2年(1458)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。
戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討ち死にしたといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。』


志苔館断面図

志苔館入り口の手前に、木戸と柵が巡らされ、その先に石碑が建っています(下写真)。

木戸横の説明書きに以下のように説明されていました。
『志苔館和人殉難御霊      慰霊碑
   阿伊努(あいぬ)悵魂御霊
由緒
下北半島、津軽方面において南北朝の戦いに敗れし南朝方武士達、蝦夷地にのがれ移り住み、道南の処々に館を築きてありしが、康正2年(1458)志苔館付近にて阿伊努(あいぬ)の蜂起あり。
志苔館を始め道南の処々の館は次々と落とされ、わずか上磯の茂別館と上ノ国の花沢館が残るに至った。
ここにコシャマインの戦いに於いて亡くなりし館の主、和人殉難御霊、阿伊努(あいぬ)悵魂御霊双方を同一座にお祀りしたものであります。』

さて、志苔館の土塁の内側を歩き回りました。草ぼうぼうの原っぱで、周囲が土塁で囲まれているだけです。

土塁と右側は館の内部


館の内部から外側の土塁を望む

土塁の内側にはスタンプ設置場所はありません。土塁の外の四阿に、やっとスタンプを見つけました。

土塁外の四阿


四阿のスタンプボックス

以上の説明からもわかるように、志苔館は、南北朝時代に設けられた、周囲を土塁で囲んだだけの館跡です。1512年のすぐ後には廃城になっています。それから500年、よくぞ保存されていたものだと感心します。

志苔館訪問は以上の通りです。
これから、五稜郭に向かわなければなりません。
坂を下りてバス停留所に至りました。次のバスは1時間以上後です。タクシーを呼ぶことにしました。電話で予約したのですが、タクシーはなかなか来ませんでした。炎天下をずいぶん待たされ、やっとタクシーが到着しました。タクシーで五稜郭に向かいます。

《五稜郭》
五稜郭に到着しました。私は2度目の訪問です。時間に余裕がないので、とにかくスタンプに直行し、そのルートの写真撮影のみに限定しました。

外堀


二の橋


表門


箱館奉行所庁舎

100名城のスタンプは、五稜郭中心部にあるお休み処に設けられていました。


外堀


内堀

帰りの特急電車の出発時刻の関係で、今回は五稜郭タワーには登りませんでした。これでは、五稜郭の全体が全くわかりません。そこで、14年前に私が五稜郭を訪問した際の、五稜郭タワーから撮った写真を以下に掲載しておきます。私の別ブログ「9月20日・函館 2010-11-03」で記事にしたものです。





北海道には、200名城のうちの5箇所があります。そのうちの2箇所について、今回スタンプをゲットすることができました。
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