弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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私の履歴書 IIJ 鈴木幸一氏

2019-10-20 10:54:52 | サイエンス・パソコン
日本経済新聞の「私の履歴書」、現在はIIJ会長の鈴木幸一氏が登場しています。

IIJ(インターネット・イニシャティブ・ジャパン)という会社、私が1995年頃にインターネットサービスプロバイダを選択しようとしたとき、その選択肢の一つとしてすでに知っていました。日本のインターネット界で先頭を走っている、という印象は持っていました。

今回、鈴木幸一さんの私の履歴書を読んでいて、1990年から1995年頃にかけての日本のインターネット界がどのような状況にあったのか、それを知ることができ、非常に興味深く読んでいるところです。

私がインターネットにはじめて接したのは1990年です。その当時のことについて、すでに「インターネット初め」として2006年に記事にしています。

1990年頃、私はパソコン通信のNIFTY-Serveに参加し、NIFTY-Serve会員同士のメールやフォーラムでの議論を楽しんでいました。今と違い、メールのやり取りはNIFTY-Serve会員同士の間に限られていました。
職場の同僚が米国に留学し、BITNETなるネットでメールを始めたことを知りました。世の中には(主に米国ですが)BITNET(Because It's Time NET)の他に、CSNET(Computor Science NET)やJUNET(Japan University NET?)などが存在し、それらのネットが「インターネット」なるものでつながっているらしいこともわかってきました。
私が加入するNIFTY-Serveは、当時まだインターネットとつながっていませんでした。しかし、私が同時に参加していた米国のパソコン通信Compuserveはすでにインターネットとつながっていたのです。私は、xxxxx.xxxx.compuserve.comなるメールアドレスの持ち主でした。
そこで、Compuserveからのインターネットメール送信手順を調べ、米国の大学にいる同僚にメールを送ってみたところ(英語のみ)、見事に送ることができました。ただし、Compuserveのアクセスポイントは米国ですから、日本から米国までの通信回路を確保する必要があります。当時、私はTimeNetにも加入していたので、TimePassで米国につなぐことができましたが、1分70円の高額でした。Compuserveのチャージも1分20~30円だったと記憶しています。
いろいろ工夫して、日本語メールが送受信できる環境を私自身で構築しました。詳しいいきさつは「インターネット初め」をご覧ください。
東北大学にも留学している同僚がおり、JUNETでメール可能であると聞きました。そこで、70円/分かけて米国のCompuserve(20円/分)にアクセスし、ここからJUNET宛にメールを出しました。そこから先は無料で東北大学までメールが届きました。このときの「インターネットは通信費が無料」はどうしても不思議でした。

このとき、扱うのはもっぱら文字情報のメールばかりでしたが、インターネットの本質を私自身が垣間見たことになります。

以上のように、すでに1990年にはインターネットが機能しており、世界中とつながることが可能になっていました。そして、「インターネットの通信費用はただ(無料)」という環境は当時すでにできあがっていたのです。
ただし、インターネットが圧倒的な有用性を獲得するのは、その後のワールドワイドウェブとウェブブラウザの登場によってです。
CERNのバーナーズ=リーは、ハイパーテキストとインターネットを結合してワールドワイドウェブを創出しました。ワールドワイドウェブはクライアントサーバモデルに基づくシステムです。
マーク・アンドリーセンらは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ Mosaic を開発し、ネットスケープに至りました。

しかし私は、1993年に弁理士受験勉強を開始し、その後1995年に合格するまで、世間から隔離された生活を送ることになりました。結果として、インターネットの進歩を全く知らずに1995年に至ったのです。
1996年にWindows95パソコンを購入しました。そのパソコンには、ネット経由でネットスケープをダウンロードすることが可能であり、モデムでネットに接続したパソコンに約30分かけてネットスケープをダウンロードしました。
ネットの世界を覗いてみたら、そこは情報の宝庫となっていることが分かりました。ただし、英語情報限定です。
今でこそ、日本語であらゆる情報がネット検索できますが、当時の日本語ネット情報は極めて貧弱でした。

ということで、1992年から1995年にかけての日本でのインターネットの発展状況を、リアルタイムでは見ていませんでした。

そこで、私の履歴書IIJ会長の鈴木幸一さんです。

1992年、鈴木さんは東京・虎ノ門に借りた小さな個人事務所で、気楽な「よろず屋」稼業をしていました。そこに、慶応大の村井純さんとアスキーの深瀬弘恭さんが訪ねてきました。2人は「一緒に商用ネットの会社をつくろう」と持ちかけてきたのです。「じゃあ会社が立ち上がるまで応援しよう」となって、インターネットシニシャティブ(IIJ)が創設されたのです(私の履歴書第11回)。
しかし、日本の関係者の意識は低かったです。(確か)NECに、「インターネットの根幹となるルーターを開発しよう」と持ちかけましたが、全く興味を示しませんでした。その後、ルーターはアメリカのシスコシステムズに独占されることとなります(第12回)。

IIJは、ネット接続企業として「特別第2種電気通信事業者」の登録を受けようとしますが、郵政省が無理難題をふっかけてきました。「通信は公益事業で、倒産は許されない。当初の計画通り設備投資をし、一方で3年間1件も契約が取れないと仮定しても、会社が潰れないという財務基盤を示せ」というのです(第13回)。
郵政省との堂々巡りは94年まで続きます。その間、金策に尽きて、自己破産まで現実味を帯びました。94年になると郵政省が軟化し、住友銀行、富士銀行、三和銀行から計3億円の融資保証を得ることによって、94年2月に郵政省の登録がおりました。しかし、1年数カ月を浪費してしまいました(第14回)。

1994年3月から日本初の商用インターネット接続サービスを開始すると、注文に供給が追いつかない状況が出現したのです。それにしても、IIJが郵政省と不毛な折衝を続けている1年半足らずの間に、世界の現実はずっと先に進んでしまっていました。
ウェブブラウザを創出したアメリカのモザイク社は1994年に産声を上げましたが、実はその少し前に「モザイク社にIIJも出資して、日米で協力関係をつくらないか」という話が持ち込まれたというのです。当時は郵政省の承認が下りる前で食うや食わずであり、当然出資話もお断りしたと言うことです。
「IIJがこの大切な時期を傍観者として過ごさざるを得なかったのは、我が社にとっても日本全体にとっても大きな損失だったと思う。」(第15回)

私は、上述のように、弁理士受験生として1993~1995年を過ごしたので、その間はインターネット空白期間となりました。

一方、鈴木幸一さんがIIJで苦労した後をたどると、日本にとっても1992~1994年はインターネット空白期間だったのですね。
1995年に私がブラウザを道具に再びインターネットに触れたとき、日本語ネット情報はほとんど蓄積されておらず、英語ネット情報のみが充実していましたが、その理由がわかりました。

それにしても、ベンチャー企業であるIIJ以外に、1992年当時にインターネット接続サービスを開始しようとする大手企業が全く存在しなかった、という点については、日本企業の感覚の鈍さに驚くばかりです。
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讃岐うどんチェーン

2019-10-06 19:47:21 | 趣味・読書
前報、「丸亀製麺と麺通団団長」で、麺通団公式サイトの団長日記で発言された2019年9月14日(土)の記事を題材に記事にしました。その後、この記事に対応するコメントにて、以下の点に言及しました。

丸亀製麺の社長がテレビ番組で発言した内容によると、讃岐うどんブームの最初の頃、名もない小さな製麺所に県外からの客が行列を作ってうどんを食しているのを見ました。そこで、「手作り、できたて、しかも目の前でというのが大事かなと思って、そのコンセプトで作ったのが丸亀製麺」(社長談)として、「すべての店舗に製麺機を設置して、店員が店で粉から作るうどん店」を全国展開しているようです。

これに対する田尾団長のコメント
『あの「丸亀製麺は全ての店で粉から作る」というコンセプトについても、私も含めて私の周りの「誠実な讃岐人と讃岐うどん応援団」の多くは、かなりの違和感を持っている。違和感と言うより、一言で言えば「そんなことやっちゃダメだろう」という確固たる意見である。』
「職人が店で粉から作るうどん店」
 打ち手に十分な修業とセンスがない店は60点以下の麺を出すうどん店になる。
「ファストフード型大衆セルフチェーン店」(製麺は工場で行い、店舗で麺をゆでる)
 コンスタントに70点~80点の麺が出せる。

情報を総合すると、「ファストフード型大衆セルフチェーン店」の代表がはなまるであり、「職人が店で粉から作るうどん店」で売り出しているのが丸亀製麺のようです。

田尾団長たちの経験則によれば、
「はなまる」のやり方、すなわち製麺は工場で行い、店舗で麺をゆでる方法であれば、100点の味は無理にしても、コンスタントに70~80点は出せます。
一方、「丸亀製麺」のやり方、すなわち店ごとに製麺機を設置し、店ごとに職人が粉から作る方法を採用したのでは、店の職人の腕がダイレクトに味に影響し、優秀な職人がいれば100点の味も期待できる一方、打ち手に十分な修業とセンスがない店は60点以下の麺を出すうどん店になる、ということになります。

以上は、田尾団長たちの経験則です。この経験則が丸亀製麺にも妥当するのか否か。

それと、香川県内のうどんファンは80点以上、せめて70点の麺を期待していますが、県外で丸亀製麺を利用する客がそこまでを要求しているかどうか(多分していない)。われわれ県外人には採点基準すらちんぷんかんぷんです。

議論がこれ以上に進展するためには、何らかの検証作業が必要となるでしょう。

さて、私自身は、はなまる(ファストフード型大衆セルフチェーン店)、丸亀製麺(職人が店で粉から作るうどん店)が、それぞれ全国展開しているとは今まで知りませんでした。そこで、私のテリトリーである東京都杉並区において、両チェーンの店を探してみました。
丸亀製麺は杉並区内に開店していませんでした。
はなまるは結構開店しています。私の職場(荻窪)近くですと、吉祥寺に2店も存在します。そこである日の昼休み、吉祥寺まで出かけて昼食に讃岐うどんを食することにしました。
はなまるうどん 吉祥寺南口店です。
南口で駅を出て右に進むとすぐにあります。左下の写真のように、飲食店がひしめく一角です。競争が激しそうです。半地下にはなまるはありました(右下写真)。
 

入り口前にメニューが掲示されています(左下写真)。この中で、温玉ぶっかけを頼むことにしました。
右下写真は、店の外から店内を見たところです。入ってすぐのところでお盆をとります。進むと揚げ物が置いてありますが、私はとりませんでした。奥のカウンター前で「温玉ぶっかけ 冷や 中」と注文しました。本当は「ひや」ではなく「れい」と発言しましたが・・・。どんぶりを受け取ると、その左側で会計し、テーブルで食します。
 

肝心の味の方ですが、私は味オンチなのでもちろん点数などつけられるはずもありません。

さて、はなまるのコンセプトはこちらです。
丸亀製麺のコンセプトはこちらです。今後、両社はどのように切磋琢磨して安定した味を極めていくのか。これからの両社に期待しましょう。
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丸亀製麺と麺通団団長

2019-09-22 12:45:15 | 趣味・読書
丸亀製麺が話題になっていますね。例えば、
香川県民からも怒り!「丸亀製麺」が“文化の盗用”と大炎上した根本原因
『讃岐うどんブームの仕掛け人集団「麺通団」の団長が「讃岐うどん巡りブームの歴史のウソを全国ネットで広められるのは非常に不本意だ」と、うどんチェーンの「丸亀製麺」に苦言を呈したブログがツイッター上で拡散し、トレンド入りするなど大きな話題となった。』

私も、ずいぶん前ですがさぬきうどんブームに興味を持ち、麺通団の田尾団長の書籍を中心に調べてこのブログにも記事をアップした経緯があります。
讃岐うどん 2008-11-24
麺通団「恐るべきさぬきうどん」 2008-12-25
「恐るべきさぬきうどん」その後 2008-12-31
田尾和俊「団長の事件簿」 2009-01-07

そのようないきさつもあり、「丸亀製麺」という社名を最初に目にしたときにさっそく調べてみて、この会社が香川県丸亀市とは関係がなさそうなことは確認していました。「何と紛らわしい」とは思いましたが、そのままにしていました。
その後、丸亀製麺は全国チェーンを急速に拡大してきたようです。

私が直接見聞した讃岐うどんに関する知識は、私が2008年に高松を最初に訪れたときの以下の記事(讃岐うどん)とおりです。
--208年記事------------------------
『(2008年)11月はじめの連休で高松を訪問しました。高松といえば讃岐うどんです。
高松市内の某所を訪問したときに、窓口の女性に讃岐うどんのおいしい店を紹介してもらいました。「高松市内にはいい店がない」という答えでしたが、2店を紹介してくれました。こんぴらや兵庫店竹清(ちくせい)です。
しかし竹清は土日(祝日除く)定休で営業時間は11:00~14:30、こんぴらやは日曜定休で営業時間は19時までです。ときは土曜の18時過ぎ。今からだったら急いでこんぴらやへ行くしかありません。
こんぴらやは、高松市街中心のアーケードにありました。
 
こんぴらや               さぬき麺業

こんぴらやを外から覗くと、何だかセルフサービスの小さな店です。その隣にさぬき麺業という店がありました。ちゃんとした椅子席です。今回はそちらに入ることにしました。

翌日、別の訪問先に行ったら、「さぬきうどんの作り方」という本が置いてありました。開いてみると、昨日のさぬき麺業も編集に加わっています。釜あげうどんの由来が書いてありました。
本場さぬきうどんの作り方
香川県生麺事業協同組合
旭屋出版

このアイテムの詳細を見る

この本には、讃岐うどんに特有の「セルフ」についての説明があるとともに、竹清が1ページをかけて紹介されていました。
「セルフ型うどん店」では、かけうどんが一玉150円前後と激安です。そのうどんを、客が自分で湯の中に漬けて温めるのです。また山積みされている天ぷらの中から欲しいものを選び、代金を支払い、最後に自分でどんぶりの中につゆ(讃岐うどんでは「だし」という。)をかけてできあがりです。
こうなったのは、香川県のうどん店の多くが製麺所から生まれたという独特の理由によります。うどん玉を卸す製麺所が工場のそばでお客の注文に応じてセルフスタイルで売り始めたため、普通の飲食店よりはるかに安い売値がつけられました。

旅行から帰ってしばらくして、朝のテレビ番組を見ていたら、かばちゃんと女子アナが讃岐うどんを食べる、という番組を放送していました。3軒のうどんやを廻りましたが、いずれも山の中や田畑のど真ん中にある店でした。あばら屋のような建物で営業しています。われわれが不動産屋で讃岐うどんの店を紹介してもらったとき、「高松市内にはあまりない」ということでしたが、このテレビ番組で紹介されたような店が、地元の人にとって「おいしい店」なのでしょう。』
--208年記事終わり------------------------

香川県内の各地には多くの小さなうどん屋が散在し(全部で700軒ほどだとか(2008年現在))、その土地の人たちが日常に利用しているようです。そしてその中には、香川のうどん好きの人たちがうなるようなおいしいうどん屋が存在し、それがまた近くを通ってもうどん屋だとわからないようなへんてこな店が多いといいます。

実は、高松に住む麺通団の田尾団長ですら、香川県内の田舎でひっそりと営業し、絶品のさぬきうどんを提供する「怪しいうどんや」の存在を知りませんでした。タウン誌の編集長をしていたときに知り、びっくり仰天し、その後の田尾団長の活動により、「怪しいうどんや」が全国にブームを巻き起こしたのです。

私が実際に高松で見聞した知識、および田尾団長の話を総合すると、香川県内のうどんやのすべてが絶品のうどんを提供するわけではなく、ごくわずかなディープな店が、絶品のうどんを提供しているようです。

さて、丸亀製麺です。そこに今回の騒動です。久しぶりに、麺通団公式ウェブサイト団長日記をチェックしてみました。2019年9月14日(土)の記事ですね。
丸亀製麺が、普通のさぬきうどん提供を謳っている限りであれば、会社名が丸亀製麺であって、会社所在地や社長の出身が香川でなくても、田尾団長は問題にしなかったでしょう。
問題は、丸亀製麺の社長が、大手テレビ会社の番組で、「自分たちが提供するさぬきうどんは、ディープなさぬきうどんの文化を継承してつくられたものである」趣旨の内容を語ったことにあるようです。

今回の騒動後、「丸亀製麺を擁護する発言も多い」とされています。「他店では質の悪いうどんが提供されて問題となっており、それと比較すれば丸亀製麺は良心的」「丸亀市のPRになっているのでありがたい」などなど。たぶんいずれも、そのとおりでしょう。
麺通団団長が声を上げたのは、丸亀製麺社長が「自分たちはディープなさぬきうどんの文化を継承している」趣旨をマスコミで発言し、その内容が「本当のディープなさぬきうどん」から乖離している、と見たからでしょう。

そもそも「さぬきうどん」について、香川の田尾団長のようなディープなファンが「うまい」というさぬきうどんと、県外の一般人が「讃岐うどんを食べた」と感じるうどんとの間には隔たりがあります。
書籍「恐るべきさぬきうどん」のどこかで読んだのですが、田尾団長が県外(本州)の客をうどん屋でもてなしたとき、出てきたうどんが柔らかめで団長は内心「なんじゃこりゃ」と焦ったのですが、客人は「さすがに讃岐うどんは硬めでおいしいですね」と感想を述べたそうです。
丸亀製麺も、香川県外の人たち向けに一般受けする「讃岐うどん」を(能書きをのたまわずに)提供している限り、何も問題はなかったでしょう。
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J-PlatPatダウンロード公報の上付き下付き文字の表示

2019-09-17 20:51:55 | 知的財産権
最近、特許情報プラットフォーム|J-PlatPatから公報をpdfでダウンロードして印刷したときの、上付き文字、下付き文字の表示にびっくりしました。私が見たのは、明細書中で半角で記述された文字の上付き、下付きだったのですが、印刷した結果として、文字が潰れてしまって読み取れないのです。
たまたま、判例研究で入手していた公報があったので、その中の一部を取り出して以下に示します(公開公報)。


同じ特許の特許公報については、上記公開公報に比較するとややましです。
pdfの印刷物では下付き文字が何を表示しているのかほとんど読み取れません。そこで、公報をテキストでダウンロードしてみると、「少なくともSiO2 、CaO、及びNa2 Oを含有する、」であって、「2」が半角の下付きになっていました。
これが全角の下付きだったらどのように表示されるのか、そこまではまだ調べていません。

これでは、公報の印刷物として不適切です。
そこで、J-PlatPatのヘルプデスクに電話して聞いてみました。
一度電話を切り、しばらくしたら電話での回答がありました。
5月のJ-PlatPatのリニューアル以来、このような表示になっているとのことです。現時点では、何ら問題にされていないようです。「今回、改善要望があったことを伝えた。(改善されるまでは)拡大してみるか、テキストで確認してほしい。」との回答でした。

これは由々しき事態です。5月からすでに4ヶ月経過しています。誰も、この問題に気づかなかったのでしょうか。
ヘルプデスクの回答の様子では、「迅速に改善する」とも「すでに改善に着手しており、遠からず修正される」とも聞き取れませんでした。

そこで、問題を皆様と広く共有すべく、このブログに顛末をアップする次第です。
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韓国をホワイト国に戻す基準

2019-09-08 12:44:09 | 歴史・社会
韓国の首相が「輸出規制(ホワイト国除外)撤回とGSOMIA離脱回避をセットで」と言ったとか言わないとか。それに対しての安倍首相のコメントが「徴用工問題の解決が先」だとか。

そもそも「輸出規制と徴用工問題は全く関係がない」というのが日本の基本スタンスのはずです。だとしたら、上記安倍首相のコメントは矛盾しています。
そして、「輸出規制とGSOMIAは全く別」が日本の基本スタンスのはずですから、上記韓国の首相のコメントに対しては、「徴用工問題の解決が先」ではなく、「輸出規制とGSOMIAは全く別」でなければなりません。

私は、世界の中で日本の主張に納得してもらうためには、
「徴用工問題、輸出規制、GSOMIA撤退問題は、それぞれ全く別」
との基本スタンスに立ち、実際に全く別に対応すべきと考えます。

日本が主導権を握っているのは輸出規制のみです。
輸出規制において、日本政府は、「韓国がグループA(ホワイト国)からグループBに変更になった理由は具体的には○○である。韓国の輸出管理体制が□□になったら、グループAに戻すことにやぶさかではない」と明示すべきと考えます。
そして、実際に韓国の輸出管理体制が□□になったことが確認できたら、たとえ徴用工問題が未解決で、GSOMIA脱退が撤回されていなくても、韓国をグループAに戻してしまうのです。

このようなスマートな対応がとれるか否か、興味深いところです。
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ドイツ国民は、ポーランド国民が味わった苦しみを忘れない

2019-09-03 22:02:38 | 歴史・社会
ナチスのポーランド侵攻から80年 ドイツ大統領が謝罪
2019年9月2日 15時24分
『第2次世界大戦のきっかけとなったナチス・ドイツによるポーランド侵攻から、9月1日で80年を迎えました。ポーランドで行われた式典では、ドイツのシュタインマイヤー大統領が謝罪し、両国の首脳が鐘を鳴らして平和への誓いを新たにしました。
・・・
ポーランドは80年前の1939年9月1日、ナチス・ドイツに侵攻され、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まりました。
式典ではドイツのシュタインマイヤー大統領がポーランド語で「過去の罪の許しを請う。われわれドイツ人がポーランドに与えた傷は忘れない」と述べて謝罪しました。
これに対しポーランドのドゥダ大統領は「最も大切なことは大統領がここに参列していることだ」と応え、鐘を鳴らして平和への誓いを新たにしました。
一方、ポーランドは第2次世界大戦で旧ソビエトにも侵攻されましたが、ドゥダ大統領はロシアのプーチン大統領を式典に招待せず、「帝国主義がいまだヨーロッパに残っている」として、ロシアによるクリミア併合を批判して警戒感を示しました。』

この記事を読んで、6年前に私が読んだ本と、その読後感をブログアップした記事(川口マーン惠美「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」 2013-11-20)を思い出しました。
本の発行は2011年2月、本の内容で印象に残った下記事象(ドイツとポーランドとの微妙な関係)は2009年9月ですからちょうど10年前です。
--2013-11-20記事引用開始-----------------
第二次大戦において、ドイツはポーランドに攻め込んでポーランドとポーランド人に塗炭の苦しみを与えました。
2009年9月、グダニスク(ポーランド)でポーランド政府主催の第二次大戦開戦70周年記念式典が行われ、ドイツのメルケル首相が招かれてスピーチを行いました。
『メルケル首相のスピーチは、心のこもった追悼の辞だった。第二次世界大戦を、「ドイツが引き起こした戦争」と定義し、「ドイツの首相として、ドイツ占領軍の犯罪の下で言い尽くせない苦しみを味わったすべてのポーランド国民のことを忘れません。」と述べる。』
『ポーランド人の心の中では、常にドイツ人が加害者で、自分たちは被害者なのだ。
つまり、この両国の関係は、表面上は友好的で、外交上は抜かりはないが、だからといって、その友好が心からとは言い切れない冷ややかさもある。そのあたりは、たとえば、ドイツ側がちょっとでもポーランドを非難するようなことを口にすると、ポーランドがいきなり攻撃的になることでわかる。』
第二次大戦終結後、ドイツ東部の広大な土地がポーランドに割譲されました。不幸だったのは昔からここに住んでいた350万人のドイツ人で、かれらは資産を剥奪され、着の身着のままで故郷を追われ、ドイツへたどり着く前に多くの人が命を落としました(チェコ、ハンガリー、ソ連からの引き揚げ者を含むと、犠牲者は211万人にのぼると言われています)。しかし、ドイツがこの件について「追放」という言葉を使うことさえもポーランドには許せないらしいです。
『彼らの攻撃の仕方を見ていると、「ドイツ人にだけは言われたくない」という感情が、ありありと見える。』

ここまで書いたら皆さんもお気づきでしょう。「ドイツ」を「日本」に、「ポーランド」を「韓国」「中国」に置き換えたら、現在の東アジアで起きていることと全く同じ現象であることに気づきます。

規模(犠牲者の数など)では日本のしたことはドイツのしたことに比較して遠く及ばないでしょう。また、ドイツの場合は「悪いのはナチスで、すでに裁かれたし、今でも許されていない」と責任を着せる対象がいますが、日本の場合には日本国民が直接責任を負わなければならないので、ドイツに比較して謝罪しにくいところがあります。
しかしそれにしても、メルケル首相のスピーチは参考にすべきでしょう。日本人は、「いつまで謝罪すれば気が済むのか」などといわず、「日本のせいで言い尽くせない苦しみを味わったあなたたちのことを忘れません」と言い続けるべきではないかと思いました。
---引用終了---------------------

10年前、開戦70周年ではメルケル首相が心のこもったスピーチを行い、本年、開戦80周年ではシュタインマイヤー大統領が同じく謝罪のスピーチを行ったのですね。
日本と韓国との関係を考察するにあたっては、ポーランド国民に対するドイツの態度は参考にする必要があります。
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米海軍がタッチスクリーン式操作盤を廃止

2019-09-01 15:02:48 | 歴史・社会
米海軍がミサイル駆逐艦のタッチスクリーンを廃止、その理由とは?
2019年08月13日 11時15分
『10人の死者を出したミサイル駆逐艦の衝突事故に関して、(PDFファイル)事故報告書で船が採用していた「タッチスクリーンのシステム」が事故原因の1つであると指摘されました。これを受けて、アメリカ海軍では複雑なタッチスクリーンのシステムを廃止し、機械的な操作に戻すことが発表されました。
2017年8月21日、シンガポール沖でミサイル駆逐艦「ジョン・S・マケイン」とタンカーが衝突して損傷し、乗組員10人が死亡、48人が負傷しました。
この事故の原因として船員の疲労や訓練が不十分だったことが挙げられていますが、同時に、船の操作盤にも問題があったと指摘されています。ジョン・S・マケインの艦橋では、ヘルムとリーヘルムという2つのステーションの操作盤で複雑なタッチスクリーンシステムを採用していました。調査の結果、当時のジョン・S・マケインでは「バックアップマニュアルモード」という、コンピューター補助をオフにするモードが使用されていました。これはつまりステーションの異なる船員が操舵を引き継げることを意味し、2つのステーションで操舵が移り変わり混乱を招いたことで、事故が起こったとみられています。
・・・
ガリニス提督はシステムを切り替える計画が進行中であることを発表しており、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦は2020年夏から物理的なスロットルを持つとのこと。
なお、ジョン・S・マケインの原因はタッチスクリーンだけではなく、14人の乗組員の平均睡眠時間が4.9時間だったこと、それぞれの役割に不慣れだったことも指摘されており、これらのレポートでは問題を改善する必要性も示されました。』

米海軍のイージス駆逐艦であるジョン・S・マケインが起こした衝突事故も、同じイージス駆逐艦フィッツジェラルドの衝突事故と同様、操船の拙劣によって発生したものでした。

ジョン・S・マケインの衝突事故については、事故発生の半年後に、同じ米海軍フィッツジェラルドの衝突事故とともに私がブログ記事にしています。
米第7艦隊衝突事故2件 2017-11-05
当時、米海軍作戦部(Department of the Navy / Office of the Naval Operations)が公表した2つの事故に関する報告書(Memorandom for Distribution)(pdf)に基づくものです。
----以下2017-11-05ブログ記事---------------------
《ジョンSマケイン(以下「M艦」)とアルニック(以下「A船」)との衝突事故》


M艦とA船の航跡

航跡図によると、M艦とA船は並行して走り、M艦はA船の右舷を通り過ぎるはずでした。ところが0521 突然M艦は左に進路を変え、A船の進路の前を遮る航路を取ったのです。M艦は自分からA船と衝突するコースに進んだことが明らかです。

----部分訳---------
(46~47ページ)
0519時、艦長は以下のことに気づいた。即ち、舵手(見張り員が舵を取っていた)が、スピードコントロールのためのスロットルも操作しているため、コースを維持するのが難しい状況であることに気づいた。
そこで、艦長は当直チームに対して、以下のことを命じた。即ち、操舵とスロットルの作業を分離し、舵手が進路コントロールを維持し、一方でスピードコントロールについては他の見張り員が「リーヘルムステーション」と呼ばれる装置を操作するよう命じた。「他の見張り員」は、舵手のすぐ隣の操作盤の前に座っていた。
この計画されないシフトは、当直チームの混乱を招いた。意識せず、操舵のコントロールはリーヘルムステーションに移行したが、当直チームはそのことに気づかなかった。艦長は、スピードコントロールのシフトのみを指示した。艦長は、操舵がリーヘルムに移行したことを知らなかった。舵手は、操舵できないことに気づいた。
操舵が物理的にできなくなったのではない。操舵が別の操作盤に移っただけだが、見張り員はこのことに気づかなかった。操舵コントロールがリーヘルムに移行したことにより、舵は中立の位置となった。操舵コントロール移行前、舵手が、船を直進させるために舵を1-4度右に切っていたのであるから、舵が中立になった結果、船は左へ曲がっていった。

加えて、舵手が操舵不能を報告したとき、艦長は船側を10ノット、さらに5ノットに減速することを命じた。しかし、リーヘルム捜査員の操作は、(2つの)スロットルを一緒に操作しなかったため、ポート側(左舷側)のスピードのみ減速した。スターボード側(右舷側)は68秒にわたって20ノットを維持した。舵の間違った方向と、2つのシャフト回転不一致の問題があいまって、密集した交通エリアにおいて、左側(ポート側)への命令されない回頭が起こった。
M艦がA船との衝突コースに入ったにもかかわらず、艦長および艦橋にいた人たちは、状況を理解していなかった。
操舵コントロールを失ったとの報告の3分後、状況に気づいたが、時すでに遅かった。そして0524 M艦はA船の船首とクロスし、衝突した。
----部分訳終わり---------

ここには掲載しませんが、報告書の図5(pdf)に、M艦の艦橋の図があります。操作卓は、中央に蛇輪(Manual Steering Wheel)があり、左側が通常の舵手の操作盤、そして右側が上記「リーヘルム」と呼ばれる操作盤です。
舵手も、そして艦長から命令されてリーヘルムを操作した見張り員も、装置の操作方法を知らなかったとしか思えません。このような人たちに、操船が任されていたのです。衝突事故は起こるべくして起こりました。
----引用終わり---------

トラブル前、操舵とスロットルの両方とも、操作卓左側(ヘルム)の操舵員が操作していました。ヘルムの右隣(リーヘルム)操作卓には、別の乗組員がついていました
艦長が、「スロットルのみをリーヘルムに移行するように」と指示したところ、誤って、操舵とスロットルの両方ともリーヘルムに移行してしまい、その点にだれも気づかなかったことが第1の失敗です。
艦長が「減速」と指示したところ、リーヘルム操作員が、誤って、左舷のプロペラのみ減速して右舷は減速せず、その点にだれも気づかなかったことが第2の失敗です。
以上の原因の第1として、乗組員の「訓練が不十分だったこと」は明らかです。

今回のニュースで、この原因に加えて、複雑な「タッチスクリーンのシステム」が事故原因の1つであることも明らかになったようです。事故当時、操作モードが通常モードではなく、「バックアップマニュアルモード」が使われていたというのも異常です。通常モードが、よっぽど使いづらいモードだったのでしょう。また、「バックアップマニュアルモード」使用時には通常モードとは異なった動作(操舵まで、ヘルムからリーヘルムに操作権が移行してしまう)がなされるのに、その点をだれも知らなかったのです。

タッチスクリーンがそもそも不適切、ということはないはずです。タッチスクリーンシステムを設計する上で、操作のしやすさが考慮されずに、設計されてしまったのだと推測されます。従って、適切に設計しさえすれば、タッチスクリーンでも使いやすく誤動作が起きにくい操作系を作ることは可能だったでしょう。
しかし今回、タッチスクリーンそのものを廃止してしまい、従来からのマンマシンインターフェースに戻してしまうようです。

タッチスクリーンの使いづらさ以外にも、「14人の乗組員の平均睡眠時間が4.9時間だったこと」という事故原因も含まれていたようです。
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運輸安全委員会が米海軍フィッツジェラルド衝突事故報告

2019-08-30 18:32:21 | 知的財産権
国土交通省の運輸安全委員会ホームページにおいて、「8月29日事故等調査報告書を公表しました」とのアナウンスがされていました。その中に、
・コンテナ船ACX CRYSTALミサイル駆逐艦USS FITZGERALD衝突事故(静岡県南伊豆町石廊埼南東方沖 、平成29年6月17日発生)
発生年月日:2017年06月17日
事故等種類:衝突
事故等名 :コンテナ船ACX CRYSTALミサイル駆逐艦USS FITZGERALD衝突
報告書(PDF):公表説明資料
が掲載されています。
米海軍軍艦と外国船籍の船との衝突事故ですが、日本近海ということで、運輸安全委員会の検討対象になるのですね。

本件については、事故発生の半年後に、私がブログ記事にしています。
米第7艦隊衝突事故2件
2017-11-05

運輸安全委員会報告と私のブログ記事を読み比べてみましたが、新たな発見はほとんど見当たりませんでした。
----以下2017-11-05ブログ記事---------------------
今年、アメリカ第7艦隊(横須賀を母港とする)は、深刻な衝突事故を2件起こしています。最近、米海軍作戦部(Department of the Navy / Office of the Naval Operations)は、この2つの事故に関する報告書(Memorandom for Distribution)を公表しました(pdf)。

現在、読みかけているところです。合計71ページの報告書です。内容は、2件の衝突事故について、「衝突まで」、「衝突後」の状況が説明されています。私は取りあえず、「何が原因で衝突したか」を知りたいので、「衝突まで」に興味があるのですが、報告書は残念ながら、ページ数としては「衝突後」に大きく取られています。両事故とも、多くのセイラーが殉職しているので、どうしても救助活動の方に関心が向くのでしょう。

「衝突まで」についてざっと読んで驚くことは、決して状況が克明に再現されているわけではなく、極めてざっとした状況説明のみにもかかわらず、海軍の当事者の責任について極めて厳しくかつ断定的に断じている点です。

登場人物は以下のような人たちです。
英語 日本語(意訳)
Commanding Officer 指揮官(艦長)
Executive Officer 副司令官(副艦長)
Officer on the Deck 甲板士官(当直士官)
Junior Officer on the Deck 副甲板士官(副直士官)
Watchstander 立哨(見張り)
Bosun Mate on the Watch 当直甲板長、掌帆(兵曹)長

以下、第1の事故について、報告書を見ていきます。

《フィッツジェラルド(以下「F艦」)とクリスタル(以下「C船」)の衝突事故》


F艦とC船の航跡

上の図面で、数字は時刻(日本時間)です。
F艦は、0105から衝突直前(0129)まで、同じ進路(190度)、同じ速度(20ノット)で前進しています。
C船は、0105には東南東に進んでいましたが、0115に進路を変更し、東北東に向きを変えています。恐らく、南から北東に進んでいた別の船(Marsk Evora)との衝突を避けるため、進路を変えたのでしょう。進路変更前にはF艦と衝突するコースではありませんでしたが、0115の進路変更の結果として、C船はF艦との衝突コースに入ってしまったように見えます。
C船の進路変更前も後も、F艦から見てC船はスターボード側ですから、F艦に衝突回避義務があります。
従って、F艦の艦橋については、「0115のC船の進路変更に適時に気づき、衝突コースに入っていることを認識し、適時に衝突回避動作を行うことができたのか否か」が問題となります。
----部分訳---------
(6~7ページ)
2300日本時間、艦長と副艦長は艦橋を離れた。
0100 F艦は3隻の商船がF艦のスターボード(右舷側)からやってくる領域に到着した。
F艦はいくつかの船と交差する状況だった。海事国際ルールによれば、このような状況では、F艦には他の3船との関係で(明確になるように)操船し、可能ならば交差を避ける義務があった。F艦がこの義務を遂行しない場合、他の船は、自分の独立な操船を行う上で、早く適切なアクションをとる義務があった。衝突まで30分の間、衝突の1分前まで、F艦もC船も、衝突リスクを低減するための上記のようなアクションをとらなかった。
衝突数分前、当直士官(この船の安全航海の責任を有する)と副直士官(補助者)は、これら船(C船を含む)との関係、これらの船を避けるためのアクションの要否について打ち合わせた。最初、当直士官は、C船を他の船と混同していた。ついに、当直士官は、F艦がC船との衝突コースに入っていることに気づいた。しかしこの気づきは遅すぎた。C船も、手遅れになるまで衝突回避動作を行わなかった。

当直士官は、この船の安全航海の責任を有するが、必要な操船を行わず、危険信号を送らず、C船のブリッジとの間で通信を試みず、即ち、海員として拙劣であった。

当直チームの他の艦橋メンバーは、この状況について知り得た事実を当直士官に伝達しなかった。戦闘情報センター(CIC)のチームも、当直士官に情報を提供できなかった。

事件のタイムテーブル(25ページ)
0120 当直士官と副直士官を支える見張り員は、C船を視認し、C船のコースがF艦の軌跡と交差すると報告した。当直士官は、C船がF艦の1500ヤードを過ぎると考え続けていた。
0122 副直士官はC船を再度視認し、艦速を遅くするよう助言した。当直士官は、減速はcontact picture を複雑化すると答えた。
0125 当直士官は、C船が急速に近づいていると気づき、240方向へのターンを考えた。
0127 当直士官は240方向へ転蛇(右転蛇)を命令したが、1分以内にこの命令を撤回した。その代わり、当直士官は、最高速度に増速し急速左旋回を命令した。これら命令は遂行されなかった。
0129 甲板長は、舵を取ってこの命令を実行した。
0130 C船の船首がF艦に衝突した。
----部分訳終わり---------

以上を読むと、以下のような状況が確認できます。
航跡図から明らかなように、C船は0115に進路変更を行い、F艦との衝突コースに入りました。C船の進路変更前の認識として、F艦の当直士官が「衝突しない」と認識していても間違いではないです。
0115のC船進路変更の後、0120にF艦の見張り員がC船について当直士官に報告しています。しかし当直士官は確認を怠り、C船の進路変更、衝突コース突入を確認するチャンスを失いました。0122の副直士官の「減速」助言も無視しました。
0125 当直士官はついに衝突危機に気づき、衝突回避を試みましたが、指示が錯綜し、甲板長が舵を取ったときは衝突1分前でした。

たしかに、このとき艦橋とCICで勤務していた人たちが、安全航行のための義務を果たしていなかったのは明らかなようです。
問題は、「多数の船が錯綜する海域で、なぜこのような拙劣な人たちが、第7艦隊のイージス駆逐艦の操船を行っていたのか」という点です。米国海軍の劣化が疑われても仕方ないでしょう。
-引用以上 第2の事故についてはブログ記事をご覧ください。---------

運輸安全委員会報告には、当事者についての記述があります。フィッツジェラルド(B船)側については、
④ 艦長B 男性 2015年11月にB船に副長として乗艦し、アメリカ合衆国にて数か月の訓練を受け、2017年5月13日艦長に就任した。
⑤ 当直士官B1(事故発生時の操船指揮者) 女性 2013年8月士官訓練センターを経てアメリカ合衆国海軍に入り、B船は2隻目の船舶であった。B船には2016年5月に乗艦し、2017年1月航海士官に就任した。
⑥ 当直士官B2 女性 2012年にアメリカ合衆国海軍に入り、B船は5年間で3隻目の船舶であった。
⑦ 当直士官B3 男性 2016年10月にアメリカ合衆国海軍に入り、海軍士官候補生学校を2017年1月に卒業し、B船に乗艦した。

B1がOfficer on the Deck(当直士官)、B2がJunior Officer on the Deck(副直士官)でしょうね。B3(男性)は海軍士官候補生学校卒業の経歴がありますが、B1、B2(ともに女性)にはありません。どのようなキャリアを経て、当直士官、副直士官に上り詰めたのでしょうか。

それにしても、事故の半年後には米国海軍作戦部からほぼ今回と等しい報告書が出ているのに、それから2年が経過して運輸安全委員会報告が出されるのはどういったいきさつがあるのでしょうか。
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渋野日向子プロがノーベルチョコをもらう

2019-08-29 19:53:36 | 趣味・読書
渋野日向子、試合出場明言…ノーベル賞・本庶佑教授からメダル型チョコもらう
8/29(木) 6:51配信
『プロアマ戦では、昨年12月にノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑(ほんじょ・たすく)京大特別教授(77)と回った。・・・スウェーデンのノーベル博物館で購入した「メダル型チョコレート」をプレゼントし「これを次(来年)の(海外)メジャーで勝負の場面でかじってくれ」と激励したことを明かした。』

本年6月、北欧三国を旅してきました。(2019年北欧三国旅行

その途中、6月11日にオスロからストックホルムに移動し、その夕方にノーベル博物館を訪れたのです。
 
ここでの目的は、お土産にノーベルチョコ(上写真)を購入することでした。純正のノーベルチョコはここでしか購入できないということです。
渋野プロが本庶教授からもらったチョコが、まさにこのチョコですね。
まだ我が家に残っています。誰か、勝負の場面でこれをかじって見ますか?

ところで、ノーベルチョコを見ると、私の頭の中では
「ノーベルノーベルノーベルノーベルノーベルチョコレート」
というフレーズが渦巻いてしまいます。60年近く前のマーブルチョコのテレビコマーシャル(動画)の影響ですね。
子役だった上原ゆかりちゃんは、今どうしているのでしょうか。
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