弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

飯柴智亮著「2020年日本から米軍はいなくなる」

2014-08-31 21:23:54 | 歴史・社会
飯柴智亮さんについては、2008年にこのブログで3回ほど話題にしました。
飯柴智亮「第82空挺師団の日本人少尉」2008-02-07
飯柴智亮さんに一体何が?!2008-07-24
米国陸軍飯柴大尉のその後2008-08-10
フォートルイス陸軍基地(ワシントン州)の情報部門に所属していた飯柴大尉は2006年から今年2月にかけ、別の人物と共謀。イリノイ州の企業から購入した銃器に付ける照準器60個などを、米政府の許可なしに日本に輸出したとして、2008年8月に訴追されました。
①銃器の照準器など、輸出するには米政府の許可が必要なのに、許可を受けずに日本に輸出した。(飯芝氏は「許可が必要と知らなかった」といっている。)
②輸出に際し、輸出関係書類に「銃器部品」と記載しなかった。
飯柴大尉は司法取引に同意、11月7日に量刑が言い渡される。

その後の飯芝氏の動静がわからなかったのですが、最近になって本を出していることを知りました。
2020年日本から米軍はいなくなる (講談社+α新書)
飯柴智亮
講談社

飯芝氏の略歴について本の扉には『1973年、東京都生まれ。元アメリカ陸軍大尉、軍事コンサルタント。米軍に入隊するために19歳で渡米。1999年に永住権を得て米陸軍入隊。03年、米国市民権を得て04年に少尉に任官。08年大尉に昇進。S2情報担当昇降として活躍。09年除隊。現在、アラバマ州トロイ大学大学院で国際問題を研究し、国際政治学のPhD(博士号)取得を目指す。』とあります。
08年11月に判決を受けた後、09年に除隊したのですね。その後も米国で勉強しながら軍事コンサルタントを務めているということで、ひとまずは安心しました。

《はじめに》
『今回、飯芝氏の元米陸軍情報将校としての能力と、ミリタリー・アドバイザーのコネクションを駆使し、在日米軍が撤退する可能性とその時期について、米国内において、政府・軍関係者、および軍産複合体関係者に広く取材を敢行した。』

さて、本の中身をかいつまんで記すと、以下のような内容です。
-------------------------------
米軍は、敵の先制攻撃圏には軍を置かない。制空権を敵に握られた地域の地上兵力はヤバいことが、湾岸戦争でわかった。現在すでに、海兵隊は沖縄からグアム、オーストラリアに下がり、分散配置されている。

米軍が撤退したら、自衛隊の武装方法も変わる。
海上自衛隊のP-3Cやイージス艦は、米軍の空母を守るためにある。航空自衛隊のF-15は、日本の制空権確保のためにいる。空自のF-15が制空し、三沢の米空軍のF-16が爆撃する。だから、在日米軍がいなくなったとき、日本が単独で防衛できる兵器システムになっていない。

台湾が中国のものになると、ドミノ倒しのように均衡が崩れていく。そのとき、米軍との戦力バランスは完璧に中国に傾く。習主席の中国は2020年頃に台湾を手に入れるだろう。
習主席は、台湾を取り戻して自国のものとして、さらに、かつて中国を侵略した日本に復讐し、アジア全域を支配下に置くという国家指針を持っている。

中国に空母が3隻揃うと、台湾に軍事侵攻を開始する。
2024年から2025年頃に、現在の練習空母遼寧に加えて、プラス2隻で、空母3隻体制が整う。
ただし、中国が最新空母を造るには、経験と技術を有するロシアの軍事協力が不可欠である。中ロ関係が崩れれば空母はできない。

台湾が中国に獲られなくても、沖縄・嘉手納基地の航空優勢が崩れるケースがある。中国空軍が保有するスホーイ系戦闘機が2000機を超えれば、極東の兵力が米軍1に対して中国軍3となり、沖縄米軍は後方に撤退するだろう。スホーイ系戦闘機、ロシアから輸入したSu-27の中国版J-11Bは、長射程の空対空、空対艦ミサイルを搭載可能で、航続距離4000キロを超える。
中国の経済成長率が落ち続けているので予測が非常に困難だが、2020年には2000機になるだろうとアメリカは予測している。

従って、沖縄の米軍は順次後方に下がる。
辺野古に移設予定の海兵隊ヘリコプター部隊はフィリピンに移動する。沖縄のグリーンベレーもフィリピンに行く。

横須賀の米第7艦隊は絶対に必要。
現在、中国は800~900のミサイル発射台を持ち、そのうちの100~150が在日米軍向けと予測される。第7艦隊の攻撃型原潜にはトマホークが200発搭載されている。ターゲットリストには中国の司令部とミサイル発射台100~150の情報すべてが入っている。だから、ミサイルは潰せる。横須賀の第7艦隊はまだ大丈夫。
中国海軍が潜水艦発射型弾道ミサイルJL-2のような長距離高性能ミサイルを200発、実戦配備するまでだが。横須賀を攻撃できるようになるのは2035年頃だろう。そのときは、フィリピンのスービック基地に横須賀と同様の施設を造って、フィリピンと横須賀に第7艦隊を分散させる。

米議会は、金のかかる空母の数を減らそうとしている。結果、横須賀から第7艦隊が撤退する。そのとき、日本に空母用のF-35Bを買わせて、軽空母を持って良いよ、となる。

2007年、中国は衛星撃墜実験をして成功させている。2013年に打ち上げた衛星はロボットアーム付きで、別の衛星に接近してそれをつかむ実験をしている。
米軍のすべての兵器・通信機器は、宇宙の衛星がないと動かないものばかりだ。米国の軍事衛星を中国に攻撃されたら、米軍は全く機能しなくなる。中国はまさにそれを狙っている。それをやられたら、在日米軍はその前にハワイまで下がる。

2014年1月に中国が実験したマッハ10の速度をもつ超高速飛翔体WU-14のような新兵器が登場したときもハワイまで下がる。
米国大統領に、「在日米軍の撤退」を掲げている共和党のロン・ポール元連邦下院議員のような人物が当選した場合も、大統領命令で即撤退する。

《在日米軍撤退後に日本自衛隊が具備すべき軍備》
今、中国の戦闘機ははJ-11B(中国版Su-27)で、能力はF-15を超えているかもしれない。さらにSu-35になると完璧にF-15を凌駕する。これに自衛隊が対抗するには迎撃能力を高めるしかない。衛星、グローバルホーク、AEW早期警戒機、レーダー、次に優秀なAWACS早期空中警戒管制機の運用。必要なのが長距離・高速で敵機を撃破できるミサイル。中国機2000機に対して、我が方は700機必要。
米国の専門家は、日本はF-15SEが最適だろうといっている。ミサイルが機内に内蔵され、正面からのレーダー反射面積はF-22と同じ。F-35を待つ間、F-15SEで,繋ぎを買うべきだとの意見。
イージス艦をミサイル迎撃に使うのではなく、本来の戦闘機撃墜用に使う。基地防衛にパトリオットを投入する。

海自は、いずも型(26000トン)、ひゅうが型(19000トン)のヘリコプター搭載護衛艦に、F-35Bを搭載して4個軽空母機動部隊を造る。搭載機数は合計で40機。対潜哨戒機も増強する。
中国空母が日本近海に現れたら、F-2戦闘機に対艦ミサイルを搭載して出撃する。
海自の軽空母は何隻かやられるが、中国空母を最低1隻撃沈し、艦載機のほとんどを撃墜すればよい。そのあとに米軍が出てくる。

対中国は統合空海戦闘だから、陸上兵力の出番はない。もし陸上兵力が必要な状況に陥ればその時点でもう、100%勝負はついている。

Jマリーン水陸両用団は、1500名でよい。
陸自で本当に使えそうなのは、宇都宮の中央即応連隊、九州の水陸両用団の基幹連隊になる西部方面普通科連隊、習志野第1空挺団、松本の山岳レンジャーであり、あとは要らない。
日本に戦車は1台も要らない。
ストライカー(機甲車両)旅団がアメリカに3個あるので、その1個旅団分の装備を買い取るのだ。日本の国産車両より安くて性能は上だ。しかもC-130輸送機で空輸できる。
日本の陸自に必要なのは機動力と展開力だ。米軍の第160特殊作戦航空連隊ナイトストーカーズのような航空部隊が必要。さらにMV-22オスプレイ。
旅団には、CAS(近接航空支援)能力と、JTAC(統合末端攻撃統制官)が必要。1個小隊に2名ほしい。
各方面隊に沖縄を含めて6個旅団必要。オスプレイは各旅団に10機、補用2機の計12機。1個旅団で兵員が600名。
第1空挺団などを含め、全体で7200人。陸自はこれで十分。これに戦闘支援、後方支援を含めると、総兵力は5万人。

これにより、日本は中国にとって攻めがたい国になる。中国は勝てると判断するまでこない。絶えず日本が準備して、中国が勝てない国になっていれば、来ない。
-----------以上--------
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NHKスペシャル・加藤陽子先生と瀬谷ルミ子氏

2014-08-26 20:50:29 | 歴史・社会
NHKスペシャル《シリーズ日本新生 戦後69年 いま"ニッポンの平和"を考える
2014年8月15日(金)午後7時30分~8時43分
日本紛争予防センター理事長の瀬谷ルミ子さんが出演するとご自身のブログで述べておられたことから、視聴に至りました。討論には、東大教授の加藤陽子先生も加わっておられました。
主に、「集団的自衛権」についての議論です。議論がどうしても抽象的になる中、瀬谷ルミ子さんの発言は、紛争地で活動するNGOが直面する具体的な問題に立脚して発言されている点が印象的でした。
瀬谷さんと加藤先生の発言はともに示唆に富むものだったとの印象を受けました。しかし、以前の記事にも書いたように、視聴から一夜明けるともう記憶の彼方です。「時間があったら発言の文字起こしをしておきたいものです。」とつぶやいていましたが、今回文字起こしに敢行しました。
時間がなかったので、加藤先生と瀬谷さんの発言のみをピックアップしてボイスレコーダに記録し、再生速度を2/3程度としてタイプしました。

-----------------------------------------------------
加藤:私は集団的自衛権の今回のやり方での容認には反対。どうしてかというと、抑止というようなことをいうけど、どうも抑止のイメージが20世紀における軍事力重視の抑止に見える。離島に例えば中国の軍艦の方たちが漁民を装ってやってきたときにどうしようという、そういうイメージは、中国が海洋国家でこれからやってくるんだぞという自分たちのイメージにうまく呼応しすぎているんじゃないか。本来の今の例えば危険というのはアメリカの偵察衛星、軍事システムなどはあそこの9割は何か経済情報を拾っているという。だから、攻撃の第一波というのはどうもたとえば他国の経済の大きな部分を揺るがしにかかるんじゃないか、というなことを感じる。歴史でいうと、戦争前に1934年頃には今度の戦争は艦隊同士の決戦だということで大艦巨砲主義でいく。でも太平洋戦争は空母と飛行機という明らかにフェーズが変わった戦争だった。抑止力だ、危険だというときに、イメージを限定して反応しているんじゃないか。
急速にその時代時代に変わることを想定しながら、危険だというようにいっていかないと危ないのではないか。

司会:瀬谷ルミ子さんは紛争地に平和をもたらしたりする活動をされているのですが、その立場でいうと集団的自衛権容認はどのように作用するのか。

瀬谷:平和を維持するために最低限の軍事力は必要だ。そういう意味では国連PKOを積極的に推進して、同時に派遣するからにはその地域に向けた  が求められている。期待を満たす形で守ることができる体制が整備されていくというのは歓迎すべきことと思っている。ただ同時に、今回の議論で日本周辺の有事、日本周辺の抑止力は多分に議論が行われているが、それ以外の地域で今回他の地域で抑止力になるかは議論されていない。
たとえば日本周辺で日米同盟深化なり集団的自衛権の行使容認で、中国や北朝鮮からの脅威から日本を守ることができると政府が説明しているが、世界の各地でアメリカが戦争に関わっているわけで、そういう地域で逆にアメリカと一体化することで日本に脅威が高まると思っている。そういう地域では逆に、日本独自に果たせる役割、逆に日本単独の方が中立性を保ち、仲介とか調停活動をできる地域もあるので、そういう意味で一律行使容認を歓迎していないが、他地域で生じるリスクを軽減するための法整備をあわせて行わないと、逆に世界各地で日本人が被る被害が拡大する地域があると思う。結果として、たとえば今のソマリア、アフガニスタン、イラクで日本が行うことが本国に対する攻撃に置き換えられる、そこはきちんと扱っていかなければいけない。


司会:武力行使新三要件が出てきている。これをどう考えるか。

瀬谷:私は先ほど申したとおり、国連PKOの現場で、政府が駆けつけ警護と呼んでいる、他国の軍を含めた攻撃されたときにこれを攻撃することができるというのは、他国の部隊も当然同じことができるので、それが容認されることは歓迎すべきだ。ただ、今回問題だと思ったのは、その説明のプロセスの中で、そもそもその説明の仕方の段階で、現場の実務を理解されないで話されたと思ったことが何箇所かあった。
国連のPKOは普通、特定の国がある国の特定の地域に派遣される。その地域外にNGOの日本人がいるからといってそこ(担当地域)を出てかけつけることは行われない。説明の仕方で誤解がある。
後同時に、(説明で)日本のNGOを使ったのも、危機管理の観点からふさわしくない。NGOは中立性の観点から国連軍であっても行動を一緒にしない、関係に気を遣っているNGOが欧米は多い。そんな中で政府から名指しで現地で軍から守られる存在ですとあれだけ公にされるというのは危機管理上マイナスになる。そういうことをPKOの現場で一番最初に教える。私もそういう講義をして最初に教えることだが、それを政府の中でわかっている人間がいなかったことの表れ。現場の観点からのリスク管理が今回のプロセスの中でかなり抜け落ちている部分がある。今回のプロセスの中でリスクヘッジの部分は必ず担保されなければならない。それがされないまま、行使容認がされたというプロセスには反対している。

司会:加藤さん新3要件の歯止め

加藤:岩田さんが今回の閣議決定のもの自体の限定はかなり限定されているという評価は正しい。私は容認に反対だが。基本的に新三要件の中の明白な危険は、国際司法裁判所が認定する際の集団的自衛権発動の三要件と同じ、それにもうちょっと限定をかけている。
VTRを見ていたときに、安倍総理大臣が切れ目のない限定としていたところが興味深い。切れ目がないというところはリスクが入ってくるかどうかの境目と思う。
たとえば集団的自衛権というものは、国際連合の集団的安全保障が機能するまでの、安保理で攻撃の発生が認定される、執るべき措置をこうするという安保理で決まるまでに集団的自衛権がとにかくがんばっていなさい。これは隣り合わせ。隣り合わせであるときに、集団的自衛権といったときに、攻撃の存在判断を集団的安全保障は安保理がやるが、こちらは結局、かかわる国がやるわけだ。攻撃があったかどうか。だからその、シームレスというが、切れ目のない安全保障といったときに、実はそのところで危ない、歯止めの線で危ないんじゃないか。このあたりを岡本さんに伺いたい。政府が最後に閣議決定に持って行く際に、集団的安全保障の言葉を入れようとした。集団的自衛権とは別の所で、何か閣議決定の中身を変えようとした動きもあった。その切れ目もないということで攻撃の認定を恣意的に集団的自衛権の場合はなるのではないか。

司会:重大なことになる良くない集団的自衛権は良くない。歴史的に見ていいと悪いの境目は。

加藤:そこは難しい。先程来日本はホルムス海峡を通る船の8割は日本の関係だということがあったが、あまり人と物は非常に動いているが、国境を接していないところは、危機感とか安全感というものは尚早に支持される部分がある。油が問題になるときに不安になるのは、ホルムズ海峡生命論じゃないが、やはり1931年以降の満州事変の時に、満蒙の危機、これ確かに危機だけど、どう満蒙で日本が虐げられていた権益上の不利は、中国大陸の本土での貿易で補完可能で、中国と正しい関係で経済的にうまくやっていけば良かった部分がある。満蒙の危機、満鉄線が包囲されるという象徴的なキーワードで危機があおられるときに付随してくる事件というのはやはり冷静な判断が国民もマスコミの側もできなるなる。

司会:瀬谷さんはそことは違うところでNPOの活動として紛争地で平和をもたらす活動をしていますが、どう聞いておられましたか

瀬谷:明白な危機はもちろんあるが、危機は逆に作られることもある。今回、日本の同盟国が攻撃されてそれに対して反撃することは自衛だから認めるべきとの議論があるが、そもそもその国が何で攻撃されたかをきちんと判断できる必要がある。今の議論で強化されなければいけないのはそこだ。日本が攻撃されているときは日本自身が情報を持っている。アメリカが攻撃された場合、攻撃される前のコンテクスト、アメリカがその前にとったアクションのせいなのかそうでないのか、判断できるだけの情報収集力が日本にあるのかというと現時点でそこはとても弱い。

瀬谷:私はシェラレオネとコートジボワールで国連PKO参加していてたが、私は国連PKOに積極的に参加すべき。代わりに多国籍軍に参加は控えるべき。
鳥越さんがいっていたことは開発手法の問題で、PKO赴任の主任務における不備ではない。開発手法ODAの現場でも日本で行っている支援が現地でどれだけ成果を上げているか、成果測定がされていない部分もあるのでその範疇で改善されるべき。

司会:日本はどのような国を目指すべき

加藤:自衛隊の活動に関わることでいうと、内閣府の世論調査では自衛隊は災害出動とPKOの活動をやるべきだということは国民の非常に幅広い支持がある。憲法9条と日米安保の自由主義経済を守るためのという、あの2つが、自衛隊と平和主義をあわせる、日本の東アジアにおける平和、他国に脅威を与えないというメッセージを出してきた長い歴史がある。積極的平和主義といったときにちょっとその言葉の出自に問題がある。自民党が2回、今まで憲法改正案を出していた。第2章「戦争の放棄」という大きな日本国憲法の第2章のタイトルが「安全保障」と名前にする。その次に「国防軍」という項にする。非常にこれは激変。それは困る。これはさすがに、積極的平和主義という言葉をまとった気がする。私は通常の穏健な平和主義で、国民が望む自衛隊も活動。それを周辺事態派遣法などの法律で丁寧に修正していくことで今は十分なのではないか。

司会:瀬谷さんが紛争地で経験しておられることで日本はこれからどうしていくべきか。いろんな国の活動を見ておられると思うのですが。

瀬谷:祈る平和も大事だが行動する平和もとても大事。私はそのための活動を現場でしている。今回の積極的平和主義の議論でいう、行動が軍事的なものに集約されているので誤解や懸念を生んでいる。非軍事的にできる平和を作るための行動を日本も政府として強化をしなければ行けない。
アフガニスタンに外交官として派遣されていたときに、当然現地にいたときにNATOやアメリカから自衛隊を派遣してほしいとの要請が来ていた。そのとき、イラクへの自衛隊派遣は決まっていたので、アフガニスタンでも日本がアルカイダやタリバンの攻撃対象となるリスクは上がった。
現場にいてつくづく思ったのは、日本が外交として切れるカードが少ない。日本が国際平和への協力を求められるときにお金を出すか自衛隊を出すかの二択しかない。他の国は、たとえば内務省や現地の国防省や財務省にアドバイザーとか専門家チームを派遣し、専門家チームが現地の政策なり対策を立て体勢を立て直すことでインパクトがある。貢献している。日本も中立的に見られる国は中東やアフリカをはじめ多いので、そういうところに派遣できる専門家チームなり人材なり、単に日本のごり押しで派遣する人間ではなく本当に現場を変えることのできる人間を養成する。日本として貢献される役割を果たすために切れるカード,オプションを増やしていく。非軍事的、経済的を含めて。現地の復興にも役立つ。そういうところを強化すべき。

司会:これから戦後70年という時を迎えていく。今日の議論を聞かれて私たちに問われていることは。

加藤:行使容認ということは日米関係にとって非常に大きな画期だったことはわれわれ自覚しなければ行けない。結局、日本の憲法を作ったのはアメリカだから、そのアメリカにとって憲法の大きな柱を変えるような防衛関係、安全保障についての変更を日本がしたのかな、というところをちゃんと押さえていかなければいけない。今後われわれは、沖縄の基地、集団的自衛権行使と沖縄の軽減負担を、もう一回再考するきっかけとして使わなければいけない。
                     以上
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「吉田調書」問題の推移

2014-08-24 18:08:37 | サイエンス・パソコン
朝日新聞が、入手した「吉田調書」に基づいて1面記事を最初に出したのが5月20日朝刊、「所長命令に違反、原発撤退 福島第一、所員の9割」でした。
朝日新聞デジタル 5月20日(火)3時0分配信
『東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。』

私はこの記事に対し、5月26日のブログ記事『「吉田調書」と福島第2原発への退避』で意見を述べました。
角田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」と朝日記事を対比しつつ、以下のように述べました。
『「吉田調書」の記述は、「門田著書」の記述とずいぶん異なります。
「誰が残り誰が退避するか」という混乱についてはどちらも共通します。一方で、「どこへ退避するか」について両者で大きな隔たりがあります。
門田著書では、吉田所長の発言の中に避難先についての指示は出てきません。一方、伊沢氏をはじめとして残った人たちの発言では、退避先はいずれも2F(福島第2原発)です。
そもそも、第1原発構内で線量の低いエリアなど存在したのでしょうか。第1原発構内で最も線量が低かったのは免震重要棟の中だったはずです。吉田所長による退避命令は、「重要免震棟からの退避」です。そう考えると、免震重要棟からの退避先として福島第2原発が選ばれたことは理にかなっており、さほど非難されるべきとも思えません。

実際、午前9時前後から構内の線量が急上昇し、11930マイクロシーベルトの最高値を記録したわけですから、このとき、第1原発構内の免震重要棟以外の場所で600人が待機していたら、やばかったんじゃないでしょうか。』

その後、私のブログ記事に対して8月14日にxls-hashimotoさんからコメントをいただき、以来、xls-hashimotoさんと私との間でコメント議論を続けてきました。基本的に、「640人は福島第二に退避して正解だった」という内容です。

ちょうどそのときです。産経新聞が「吉田調書」を入手し、8月18日に記事にしたのは。
産経新聞 2014.8.18 11:02
吉田調書 元所員「誰が逃げるものか」菅元首相の絶叫に反発』(2)
『 ◆第1の環境悪化
 午前6時14分ごろ、2号機の方向から爆発のような音が聞こえ、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったという報告が入った。格納容器破壊の懸念が現実味を帯び、複数の元所員によると、吉田氏は「各班は最少人数を残して退避」と命じ、班長に残る人員を決めるように指示、約650人が第2原発へ退避した。
 調書によると、吉田氏は「本当は2Fに行けと言っていないんですよ。福島第1の近辺で、所内にかかわらず線量の低いような所に1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが」と命令の行き違いがあったことを示唆している。朝日新聞は、吉田氏のこの発言などから「命令違反」と報じたとみられる。
 しかし、調書で吉田氏は「考えてみればみんな全面マスクをしているわけです。(第1原発で)何時間も退避していたら死んでしまうよねとなって、2Fに行った方がはるかに正しいと思った」と、全面マスクを外して休息できる第2原発への退避が適切だったと認識を示している。』

吉田調書の内容について、上記産経新聞記事の記述から「前半」と「後半」に分けます。
朝日新聞の5月20日記事では、このうちの「前半」のみが掲載されています。私はてっきり、朝日新聞は「後半」の存在を知りながらそれを隠蔽し、結論をねじ曲げて捏造したのだと思っていました。

ところが、調べてみると、朝日新聞は紙面には書いていないものの、デジタル版(登録者のみ見られる)にはアップしていたようなのです。6月7日JCASTニュース「吉田所長の命令に違反して福島第二原発へ「撤退」 朝日新聞記事を、ジャーナリスト門田隆将氏が批判」には以下のように記述されています。
『朝日新聞は2014年5月20日に特集企画「吉田調書 福島第一原発事故、吉田昌郎所長の語ったもの」を新聞本紙のほか、デジタル版でも配信している。朝日新聞は、非公開になっている政府事故調の吉田氏へのヒヤリング記録、いわゆる「吉田調書」を入手、それをもとに記事を掲載した。
問題になっているのは、記事の中の以下の部分だ。
「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと。2Fに着いた後、連絡をして、まずGMクラスは帰って来てくれという話をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」(前半)
これに門田氏が2014年5月31日付けの自身の公式ブログなどで異を唱えている。生前の吉田氏に「ジャーナリストとして唯一、直接、長時間」のインタビューをした人物だ。調書の記述を読んでも「『自分の命令に違反』して『撤退した』とは、吉田氏は発言していない」と指摘する。
デジタル版には、3月15日に2号機が危機に陥り、約650人が退避したときのことを振り返る吉田氏の発言が掲載されている。
「いま、2号機があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」(後半)』

このデジタル版を見れば、650人が福島第二に退避したことは何ら命令違反ではありませんし、最善の選択でした。
前半と後半を通して読めば、吉田所長は「(福島第二ではなく)福島第一とその周辺に退避せよ」とは言っていないし、事後的に「福島第二に行ったことは正しい」と述べているわけです。
朝日がいう「第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。」などという結論には間違っても到達しません。
後半部分を隠蔽してはじめてなし得る捏造結論です。ところが実は、朝日新聞は紙面では隠していたものの、デジタル版ではこの後半部分をちゃんと公開していたというのです。私はそのことに気づきませんでした。しかし、言論界はもちろん、デジタル版のこの記載に気づいていなければなりません。

ところが、デジタル版のこの公開を根拠にしてその点について反論したのは、この記事にも紹介した角田隆将氏のみのようです。「お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事2014.05.31」

朝日新聞の5月20日記事は、海外でもニュースになったようです。
産経新聞吉田調書 「逃げ出す作業員」「恥ずべき物語」朝日の記事、各国で引用
2014.8.18 11:09によると、
『外国の有力メディアは、「吉田調書」に関する朝日新聞の記事を引用し、相次いで報道した。韓国のセウォル号事故と同一視する報道もあり、「有事に逃げ出した作業員」という印象が植え付けられている。
米紙ニューヨーク・タイムズ(いずれも電子版)は5月20日、「パニックになった作業員が福島第1原発から逃げ出した」と報じた。「朝日新聞によると」という形で、記事では第1原発所員の第2原発への退避を「命令違反」だと報じている。
英紙ガーディアンは5月21日付で「『フクシマ・フィフティーズ(福島の50人)』と呼ばれたわずかな“戦闘員”が原発に残り、ヒーローとしてたたえられた。しかし、朝日新聞が明らかにしたように650人が別の原発に逃げたのだ」と記した。
オーストラリアの有力紙オーストラリアンも「福島のヒーローは、実は怖くて逃げた」と見出しにした上で、「事故に対して自らを犠牲にし果敢に闘った『フクシマ・フィフティーズ』として有名になったが、全く異なる恥ずべき物語が明らかになった」と報じた。
韓国紙・国民日報は「現場責任者の命令を破って脱出したという主張が提起されて、日本版の“セウォル号事件”として注目されている」と報道。韓国で4月に起きた旅客船沈没事故で、船長が真っ先に逃げたことと同一視している。』

朝日新聞の捏造記事は、日本の誇りと国益をどれだけ損なったことでしょう。

「吉田調書」が来週にも公開されるようですね。
原発事故の「吉田調書」、来週にも公開へ
日本テレビ系(NNN) 8月23日(土)1時1分配信

角田隆将さんの最新ブログ
日本人にとって「朝日新聞」とは 2014.08.20」によると、吉田調書には以下のような記述もあるようです。
『吉田調書には、吉田さんが「関係ない人間(門田注=その時、1Fに残っていた現場以外の多くの職員たち)は退避させますからということを言っただけです」「2Fまで退避させようとバスを手配したんです」「バスで退避させました。2Fの方に」とくり返し述べている場面が出てくる。
そして、「本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」と、危機的な状況で現場に向かっていく職員たちを吉田氏が何度も褒めたたえる場面が出てくる。そこには、「自分の命令に違反して、部下たちは2Fに撤退した」などという証言は出てこない。』

「吉田調書」を非公開としていたことから、朝日新聞が調書のつまみ食いで捏造記事を公表する残念な事態となりました。朝日の捏造記事を受けて、海外の新聞では「原発所員が命令違反で逃げ出した」と紹介されたそうです。
こんなことになるのなら、調書を早く公開すべきだったでしょうね。
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NHKスペシャル2本(ペリリュー、日本の平和)

2014-08-17 12:40:04 | 歴史・社会
お盆休みには、孫2人を含めて我が家に全員集合して賑やかな数日を過ごしました。
その期間中のテレビ番組2本を録画し、孫たちが帰った後に見終わりました。

NHKスペシャル《狂気の戦場 ペリリュー~"忘れられた島"の記録~
2014年8月13日(水)午後10時00分~10時49分
『今年、アメリカで日米の熾烈な戦いを記録した113本のフィルムの存在が明らかになった。撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島・ペリリュー。・・・70年前、日米両軍はここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。
・・・
ペリリュー島は、太平洋戦争の中でも特異な戦場だった。日本軍はアッツ島以降続けてきた組織的な“玉砕”を初めて禁じ、持久戦を命令。米軍が当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は2カ月半に及んだ。今回発掘したフィルムには、日米双方が日増しに追い詰められていく様が克明に記録されている。NHKはフィルムを撮影した元米海兵隊のカメラマン(91歳)や、生き残っている日米元兵士の証言を記録。・・・』
米軍は1944年(昭和19年)9月15日、ペリリュー島への上陸作戦を開始します。島内の日本軍守備隊は持久戦に持ち込むために堅固な洞窟陣地を構築しており、米軍は甚大な損害を被ることになりました。結局、1944年11月25日に終了するまでの戦闘で、米軍は硫黄島の上陸作戦に匹敵する大損害を出すことになりました。
この上陸作戦において米海兵隊の撮影班が撮影した16ミリフィルムが、今回発見されたというのです。番組では、発見された16mmフィルムを放映するとともに、ご存命の日米兵士が戦闘の状況を語ります。

太平洋戦争中のペリリュー島での激戦について、私も10年前までは全く知りませんでした。偶然、戦争中に水戸2連隊に所属してご存命の方にお会いする機会があり、“ペリリュー島でどんな戦いがあったのか”興味を持ち、はじめて知ることとなりました。
10年前に私が読んだのは、船坂弘著「ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)」です。日本軍から見たペリリュー島戦記です。
米海兵隊が撮影した16ミリフィルム映像も衝撃的ですが、最も凄惨な場面は撮影されていません。その点では、書籍から得られる衝撃はフィルムに勝っているといえます。

その後、2010年にジェームス・H・ハラス著「ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖 (光人社NF文庫)」が出ました。米軍から見たペリリュー島戦記ですが、まだ読まずに本棚に眠っています。

NHKスペシャル《シリーズ日本新生 戦後69年 いま"ニッポンの平和"を考える
2014年8月15日(金)午後7時30分~8時43分
日本紛争予防センター理事長の瀬谷ルミ子さんが出演するとご自身のブログで述べておられたことから、視聴に至りました。討論には、東大教授の加藤陽子先生も加わっておられました。
主に、「集団的自衛権」についての議論です。議論がどうしても抽象的になる中、瀬谷ルミ子さんの発言は、紛争地で活動するNGOが直面する具体的な問題に立脚して発言されている点が印象的でした。
瀬谷さんと加藤先生の発言はともに示唆に富むものだったとの印象を受けましたが、視聴から一夜明けるともう記憶の彼方です。時間があったら発言の文字起こしをしておきたいものです。
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中沢弘基著「生命誕生」

2014-08-09 13:13:42 | サイエンス・パソコン
生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像 (講談社現代新書)
中沢弘基
講談社

この本を読み、さらに疑問が深まったので下の本も購入しました。

巽好幸著「なぜ地球だけに陸と海があるのか――地球進化の謎に迫る (岩波科学ライブラリー)」(読み終わりました)

丸山茂徳・磯崎行雄著「生命と地球の歴史 (岩波新書)」(ぱらぱらとめくったところです)

現時点で思うと、上記3冊を逆順で読んだ方がベターだったと思います。

さて、今回は上記のうち、中沢弘基著「生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像」です。
地球上に生息するすべての生命は、以下の3点で共通しています。
1.遺伝機能(アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4種類の塩基からなるDNA)
2.代謝機能(mRNAの遺伝情報を読み取ってタンパク質へと変換するリボゾームを有している)
3.細胞を形成している。
すべての生物にこれだけ共通項が存在するということは、地球上に生息するすべての生物が、一つの祖先から分化し進化したものであろうと推測できます。

そして従来、生命誕生のストーリーとして、「地球外から隕石によってアミノ酸やタンパク質が供給された」「アミノ酸に富む太古の海で生命が誕生した」などが語られています。

これに対して中沢著の本書は、全く異なった生命誕生の仮説を提供してくれます。

A.43億年前  海が生まれる
 まだ大陸地殻は形成されておらず、地球表面全体が同じ深さの海洋で覆われていた

B.40億~38億年前 激しい隕石爆撃(後期重爆撃・現在の1000倍も激しく隕石が降り注いだ)
(1)衝突した隕石と海との界面では、超高温と超高圧で海水はおろか隕石も海底の岩石も蒸発する。隕石中に多量に含まれる鉄(Fe)も蒸発する。
(2)蒸発した金属鉄と水が分解した酸素とが反応して酸化され、蒸気流は水素過剰の強い還元状態になる。
(3)アンモニアが大量に形成される。
(4)蒸気流の冷却過程で、メタン、エタンやメタノール、エタノール、さらにはカルボン酸、アミンまでもが形成される。
(5)隕石や海底岩石の一部は、粒子状の粘土鉱物として海水中に分散している。
(6)蒸気流が冷却して雨として海に降り注ぎ、生成した高分子も海に含まれる。
(6-1)メタン、エタンなどの揮発性の有機分子は、光化学反応で酸化分解する。
(6-2)疎水性および非水溶性の有機分子は水の中の“油”として凝集し水面に浮上し、太陽光のX線や紫外線によって分解する。
(6-3)親水性でかつ粘土鉱物に親和的な有機分子は、海水中に分散する粘土粒子に吸着する。
(7)有機分子が吸着した粘土粒子は、相互に凝集して大型の粒子となり、海底に沈殿する。

C.海底深く堆積した堆積物中で、有機分子が高分子化する。
 (地下を模した高温・高圧の検証実験では、グリシンの11量体が合成された)

D.さらに堆積物の粘土鉱物の小胞中で、高分子化した有機分子が“酵素やRNA/DNAの片鱗”まで進化する。

E.生命機能の発現の“最終段階”で、生命現象の最も特徴的な代謝機能や遺伝機能の発現に至った。

このメカニズムは、生命が有する不思議「生物有機分子はなぜ水溶性で粘土鉱物親和的か」という疑問にも答えてくれるものです。「たまたま水溶性で粘土鉱物親和的な有機分子が海底に沈殿してサバイバルし、生命誕生の糧となることができた」

さて、この本を読んだあとにいろいろネットで調べてみました。今から40億年ほど前に、海洋の誕生と隕石の後期重爆撃とがあったことは確かなようです。ただし、隕石後期重爆撃と、地球全体が海洋に覆われる時期のどちらが先か、については諸説あるようです。
中沢説のように、「海洋が形成されてから後期重爆撃があった」との前提に立てば、上記B、Cのメカニズムは十分にあり得たようです。

その後のD、Eについては、まだ闇の中です。
海底では、堆積物の粘土鉱物の小胞中で、高分子化した有機分子が“酵素やRNA/DNAの片鱗”まで進化した(D)としても、そのままでは成長も遺伝もせず、時間の経過とともに分解するのみでしょう。
一方、全地球的に、“小胞中における進化”はそこここで何兆回、何十兆回と起こっていたはずです。DNAによる遺伝機能発現と、RNAからタンパク質を合成するリボゾームの発現がそれぞれ別々の小胞で起こったとしても、それだけでは生命誕生に至らないはずです。
その中で、たった1カ所、DNAによる遺伝機能発現と、RNAからタンパク質を合成するリボゾームの発現が同じ小胞内で起こったとしたら、それこそ生命の誕生です。そのたった一つの生命体は、代謝と遺伝(複製の製造)をくりかえし、やがて全地球のすべての生物の祖先となった、ということになります。

さて、中沢説はまだ「仮説」の段階にあるようですが、今後研究はどのように進捗するのでしょうか。
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徳大寺有恒著「ぼくの日本自動車史」

2014-08-03 14:24:27 | 趣味・読書
徳大寺有恒さんの「間違いだらけのクルマ選び」が最初に発行されたのは1976年です。
今では想像もつかないでしょうが、そのころの国産乗用車の大部分は、「外見の見てくれを重視し、そのためには車内の居住性や前方・後方視界は二の次」「走る・曲がる・止まるの基本性能が十分に発達していない」という状況でした。自動車雑誌は存在し、新車の批評がそこに掲載されるのですが、そもそもそれらの雑誌は自動車会社からの広告収入で成り立っており、ライターもそられ雑誌との契約で生活していましたから、ズバッと本質を指摘する評論が存在しなかったのです。ユーザーも、自動車とはそんなものだと思いこまされていたのでしょう。
そこにこの本が登場し、当時の国産車をめった切りにしました。
本を読む限り、なるほどと納得させられることばかりです。その後、我が家でクルマを選ぶ必要が生じるたびに、その年の「間違いだらけ・・」を購入し、クルマ選びの指針にしていました(間違いだらけのクルマ選び間違いだらけのクルマ選び(2)日本にミニバンが誕生した頃)。

その徳大寺さんが、終戦直後から1976年まで(つまり最初の「間違いだらけ・・・」を出版するまで)の間、次々と登場した国産車のほとんどにご自身が乗りまくった経験に基づいて書かれた本があると知り、読んでみました。
文庫 ぼくの日本自動車史 (草思社文庫)
徳大寺有恒
草思社

徳大寺さんは昭和14(1936)年生まれです。戦前に徳大寺さんの父親は東京でGM系列のディーラーに勤めていました。戦時中、一家は水戸に疎開します。あるとき、親子三人で上野駅に着いたところで激しい空襲にぶつかってしまいました。上野の地下壕に飛び込むと、中には戦災で親を失った浮浪児たちがあふれかえっていました。「このときの印象は強烈だった。ぼくは中学生ごろまで、あのときの、親を失った子どもたちはどうしただろうかと、何かあるたびに思い出したものである。」

戦後、一家は水戸に落ち着きました。小学生の頃から徳大寺氏はクルマが大好きでした。戦後すぐはアメリカ車の時代です。水戸から東京に遊びに出ては、米国軍人に接収された家に並んだアメリカ車を見て回りました。

徳大寺氏が中学生になる頃、父親は水戸でタクシー会社をはじめていました。そしてそのころ、徳大寺氏は実際にクルマを運転し始めるのです。中学2、3年の頃には、町中で普通にクルマを運転していたというから驚きます。アニメ「イニシャルD」の藤原匠君が実在していたかのようです。
そして16歳になったとき、小型四輪自動車免許を取得しました。

クルマ好きの徳大寺氏は、以後ずっと、その時代に登場する車種に必ず搭乗し、そのクルマの性格を自分で確認してきました。父親のタクシー会社が所有するクルマはもちろん、あらゆるツテをたどって、全車種を経験しようとする執念です。そしてこの経験が、徳大寺氏のクルマ批評の根幹となっています。

水戸高校時代、クルマに夢中だった徳大寺氏は全然勉強しなかったようです。特に数学は全く勉強しなかった。入試で慶応は失敗、青学と立教は合格しました。そのとき成城大学を知り、実際に見に行って、徳大寺氏はすっかり気に入ってしまいました。一次試験は終わっていましたが、二次試験で若干名を募集すると言うことで、受けたら合格しました。成城では自動車部に入りました。

夏休みに水戸に帰ると、お盆の期間中は父親のタクシー会社で運転手として手伝っていました。「当時、一日走ると、親父の会社の運転手さんの中では、ぼくがいちばん稼ぎをあげた。なんとなれば、ぼくは他の運転手さんより三割方は速かったからである。砂利道ではすべてのコーナーで四輪ドリフトしてラリードライバー並みのスピードで走った。そのためどのお客さんも、降りるとヘナヘナとなってしまう。えらい神風タクシーぶりであった。」
めちゃくちゃですね。ここでも藤原匠です。
会社は電話でタクシー予約を受け付けます。ときどき電話番の女の子が、予約を黒板に書き忘れます。『忘れられたお客さんから、「クルマが来ない」と電話がかかってくると、女の子の顔色がみるみる青ざめるので事情はすぐわかる。』
こんなときは徳大寺氏の出番です。『6キロ地点のところにいる客を、あと10分で駅まで連れて行かなければならないといった場合、ぼくが行くと絶対に間に合ってしまう。ぼくは田舎の砂利道を120km/hぐらいで飛ばしたからだ。』
『後年、ぼくはトヨタのワークスドライバーになってグランプリにも出場したが、たいした成績をあげることはできなかった。そこでグランプリはやめてラリーに転向したところ、こいつは嘘のように勝ち続けた。そのときのテクニックは、この水戸のタクシー時代に学んだものである。実際、ぼくの生涯であれほど飛ばした時期はこのときをおいてほかにない。よくもまあ、人もあやめず、自分も死なず、ここまで来られたものだ。』

プリンス・スカイラインが登場したのは1957年です。
このころ、自動車の販売先としてタクシー・ハイヤーを無視することはできません。そして、当時の道路は無舗装の砂利道で、でこぼこだらけです。でこぼこ道をタクシーとして突っ走っても壊れない頑丈さがクルマに要求されていました。
登場したスカイラインは、リアサスペンションにドディオンアクスルという複雑なメカニズムを採用しました。乗り心地と操縦性の高いバランスを目指したためです。しかし、当然ながらタクシー業界には評価されず、足回りが弱いという評判が蔓延してしまいます。

大学を卒業した徳大寺氏は本流書店に勤務します。ここには、クルマ関係のいろんな人が客としてやってきました。『ところが、不勉強でノータリンのクルマ青年だったぼくはその人たちから相手にされなかった。だって、口を開けば、やれトライアンフだMGだとばかりいっていたのだもの。五十歳を過ぎたいまになってつくづく思うが、男は若いうちから勉強していないとダメだ。勉強とは大事なことなのだ。』

会社を1年で辞め、徳大寺氏はカー用品の会社を始めました。会社は急成長し、徳大寺氏の金回りも良くなりました。
このとき、1967年、日産はブルーバード510型を発売しました。徳大寺氏はすぐに、1600SSS4ドアセダンを購入しました。510は実によく走り、徳大寺氏はほんとにいいクルマだなあと思いました。(このクルマ、私の大学時代にも“ブルーバードSSS”の名で有名でした。友人の父親が所有しており、このクルマで長距離ドライブに出かけたこともあります。当時私は免許を持っておらず、リアシートに乗っているだけでしたが。)
しかしこのブルーバード510型は、トヨタのコロナに勝つことができなかったのです。サスペンションの形式を見ても、実際の走行性能を見ても、ブルーバードはコロナに比べて月とスッボンほども性能が違いました。しかし、徳大寺氏をはじめ、多くのユーザーはコロナのゴテゴテアクセサリーと、太いタイヤにだまされてしまったのです。
日産は510の販売で失敗し、その後のブルーバードは、コロナに見倣ったゴテゴテの装飾過剰路線に入り込むのです。

1965年に発売されたスバル1000は、FF車で、すばらしい名車でした。しかし売れず、5年後にレオーネへとモデルチェンジしました。

徳大寺氏はこうして、1976年に至るまでの(多分)ほとんどすべての国産車について、実際に運転したフィーリングに基づいて評価を行っていきます。この本を読むと、日本の戦後自動車史(76年まで)を理解することができます。

徳大寺さんが始めた会社は、連鎖倒産のような形でつぶれてしまいました。その心労がたたってか、徳大寺さんは糖尿病性の高血圧症状で倒れてしまいます。その病気での入院中、ヒマなので原稿を書きはじめました。それが、「間違いだらけのクルマ選び」のもととなった原稿でした。
糖尿病がおさまったあと、徳大寺さんはファッション雑誌の編集部へフリーランスの編集者として転職しました。そこで三輪幸雄さんという編集者に出会い、意気投合します。その三輪さんに書きためた原稿の出版について相談すると、三輪さんは草思社の社長、加瀬昌男さんを紹介してくれました。原稿を一読した加瀬さんは「書き直してくだされば出版しましょう」といいました。

原稿書き直しの直前、徳大寺さんはフォルクスワーゲンのゴルフを購入しました。
会社を潰した徳大寺さんは貧乏でした。そこに、ヤナセに勤めていた友人がゴルフを買わないかと訪ねてきたのです。ヤナセは、新しく登場したゴルフを2000台、日本に輸入したのですが、ぜんぜん売れなかったのです。徳大寺さんの経済状態はゴルフを買える状況ではありませんでしたが、奥さんの協力もあり、何とか購入しました。
『このゴルフはすごかった。ぼくは人生であんなにすごいクルマを経験したことはそれまでなかったし、おそらく、もう将来もないんじゃないかと思う。・・・ブレーキもよく効くし、ハンドリングも素晴らしい。そいつは当時の国産車など問題としていなかった。』
『このゴルフの体験をベースにぼくは最初の原稿をすべて書き直した。』
当時徳大寺氏は国産車メーカーの広報車に1年かけて全部乗りました。その結果、国産車もけっこういいんじゃないかと思うようになり、最初の原稿もその結論に沿って書かれていました。それが書き直した二度目の原稿は「ゴルフみたいなすごいクルマがあるじゃないか」という趣旨に大きく変わっていました。

「間違いだらけのクルマ選び」は1976年11月に刊行されました。年が明けて、本は爆発的に売れていきました。ある新聞記者が当時のトヨタ社長の豊田英二氏に「読みましたか」と質問したところ、英二氏は「読んでいる。社内にも読めといった」と答えたそうです。結局、正・続あわせて104万冊が売れました。

徳大寺さんは、それ以前から本名の杉江博愛で自動車雑誌に記事を書いていました。本名でAJAJ(自動車ジャーナリスト協会)にも加入しています。協会は徳大寺有恒が杉江さんであることを嗅ぎつけ、退会を勧告してきました。協会の査問会に呼び出されたとき、ある理事が「われわれはメーカーと仲良く、協調関係でいきたいのだ」とついホンネを漏らしたので、「じゃあ、AJAJという団体はメーカーが大事なのか、読者が大事なのか」と聞き返したところ、「もちろんメーカーだ」という答えでした。徳大寺さんはその場で、「本日限り、私から辞めさせていただく」と絶縁状を叩きつけました。
その後はじめて、徳大寺氏は出版社の社長と記者会見を行い、覆面を脱いだのです。

終章で、徳大寺氏は言います。
「いまの国産車は、走る、曲がる、止まるに関してはもはや世界的レベルにあると行っていい。」
「ところがである。それらの多種多様な現代の日本車には、なぜか魅力がない。ファンの胸をときめかせてくれる訴求力がないのだ。」

私の印象をいいます。
「間違いだらけの・・・」が出版される前、日本車は、徳大寺氏が批評したようにヘンテコなクルマが多かった一方、それぞれが個性的でした。当時のクルマは一目見て車種を言い当てられます。
それが「間違いだらけの・・・」以降、日本車は、基本性能を追求する一方で個性が消えていきました。最近のクルマは車種を言い当てることができません。
私は、これが「間違いだらけの・・・」本の功罪であると思っています。この本のおかげで、日本車からはヘンテコなクルマが一掃されました。しかし、基本性能を追求すればするほど、クルマの外観はみんな似てきてしまったのです。

それはさておき、私がずっとクルマ選びのバイブルとしてきた「間違いだらけの・・・」が生まれるまでのいきさつ、そして徳大寺氏が小さかった頃からのクルマとのつきあいの全貌をこの本で知ることができました。
楽しい本です。
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