弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

日米ポスドク比較

2008-07-30 22:42:48 | 歴史・社会
先日読んでここでも報告した生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)、著者の福岡伸一先生は、日米の大学研究の違いについても言及しています。

「米国で研究を始めた私の研究室内でのポジションはポスドクと呼ばれるものだった。ポスト・ドクトラル・フェロー。博士研究員と訳されるこの職は、教育課程を終えた研究者にとってひとり立ちへのトレーニング期間である。」

日本では、研究者になろうとして博士課程を修了して博士号を取得した後、幸運ならば大学助手のポジションにありつけますが、好きな研究を自由にできるわけではありません。
「講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外は全てが使用人だ。助手-講師-助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。」
福島先生は、博士号を取った後米国で職を探すことにします。
「米国のシステムは日本の大学を呪縛する講座制とはかなり異なる。教授、助教授、講師などの職階はある。しかし職階間に、支配-被支配関係はない。それぞれが独立した研究者であり、肩書きは純粋に研究キャリアの差である。独立した研究者とは、自らの研究費(グラント)を自分で稼げる研究者と言うことだ。研究者の生命線はまさにこのグラントである。それゆえに彼らの最優先事項は、国の研究予算あるいは民間の財団や寄付などを確保することであり、それに狂奔する。グラントがすべての力の源泉であり、研究資金のみならず自分のサラリーもここから得る。」
「ポスドクは、独立研究者がグラントで雇い入れる傭兵だ。米国の研究室は基本的にこの単位、ボスとポスドク、で成り立っている。ポスドクは即戦力の人員として、研究戦争の最前線に立つ。鵜匠と鵜の関係といっても良い。ボスとの関係は、純粋に期限付きの雇用契約だけである。
 それでもポスドクが日々ボスのために研究に邁進できるのは、次に自分がボスになる日を夢見てのことである。ポスドクの数年間に重要な仕事をなして自らの力量を示すことができれば、それはそのまま独立した研究者へのプロモーションの材料となる。」


私が「ポスドク」という言葉を知った最初は次の本です。「理工教育を問う―テクノ立国が危うい (新潮文庫)」産経新聞社会部編です。初出は平成7年、文庫本は平成10年発行です。
「(米国の)ポスドクは博士が就職するまでの研修期間であり、あるいは企業の研究機関にいた人がキャリアアップを目指してポスドクになるケースも多い。一人前の研究者になるための重要な期間として位置づけられている。」年俸も2万ドル程度とあり、福島先生の著書と一致しています。

それ以前、日本の大学では「オーバードクター」という言われ方がしていました。博士号を取得したものの就職口がない研究者のことをいいます。上記「理工教育を問う」を読んで、日本にも米国のようなポスドクができればいいのでは、と思ったものです。


その後、「日本にもポスドク制度が生まれた」という話を聞きました。
ところが、聞こえてくるのは、「ポスドクは任期が短期間で決まっているので、それが終了すると結局は失業する」ということで、何の解決にも役立っていないような議論です。一体どうなっているのでしょうか。

そもそも、日本のポスドクは「ポストドクター」の簡略形であって、アメリカのポストドクトラルフェローと異なるらしいのです。ウィキペディアなどを読むと、「旧文部省の旗振りで始まった大学院重点化計画によって大学院の定員が増え、その結果博士号取得者が増加した。そして増加した博士号取得者の職を補う形として、科学技術基本計画の一部であるポストドクター等一万人支援計画(ポスドク一万人計画)が実施されポスドクの人数は増加した。しかしながら、ポスドクを経験した博士号取得者の行き先として考えられる大学・研究所の定員は増えていない。このことはポスドク問題と呼ばれる。同時に、海外の日本人ポスドクが日本で就職できる機会が限られてきていることも深刻であり、結果として頭脳流出が起きている。」と解説されています。

また、「高齢ポスドク」という記事では、日本ではポスドクから35歳までに助手の職を得ないと、それ以降は大学研究者への途が事実上閉ざされる現実があるといいます。

結局、大学・研究所の研究者の位置づけを何ら改善することなく、博士課程の卒業者人数を増加してオーバードクターの数を増大させ、一時的な逃げの手段としてポストドクターなる政策を採用したと言うことでしょうか。アメリカでは研究者のキャリアアップの過程としてポジティブに評価されているポスドクが、日本ではネガティブな評価しかされていないということです。

最先端基礎研究でアメリカと肩を並べるレベルに到達するため、ぜひとも日本の大学の組織を根本から見直して欲しいものです。
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親指シフトキーボードRboardをVistaで使えるか?

2008-07-27 11:23:03 | サイエンス・パソコン
私が使っているキーボード配列は「親指シフト」タイプであり、キーボードはRboard Pro for PCというやつです。リュウド社製で、既に製造が中止されています。
私はWindows2000パソコンに接続しており、WinXPには対応していますが、Vistaには対応しておらず、対応の予定もありません。
Windowsの寿命で書いたように、WindowsXP Proの寿命が尽きたら、あるいは業務の都合でVistaを使わざるを得ない状況に陥ったら、Rboard Pro for PCの寿命も尽きるのでしょうか。

キーボードメーカーのリュウド社がソフトの仕様を公開し、奇特な方がVistaのためのソフトを開発してくれないだろうか、と一縷の望みを抱いている状況でした。

最近、知らぬいさんからトラックバックをいただきました。
Rboard Pro for PCをVistaマシンで使うことができるというのです。

「親指ひゅんQ」というフリーソフトがあります。普通の106/109日本語キーボードを、ソフト的に親指シフトキーボードに変身してしまうものです。私も、Rboard Pro for PCを購入するまでの数年間、このソフトのお世話になって親指シフト入力を行っていました。そしてこのソフトは、Vistaに対応しています。

Rboard Pro for PCは、搭載しているフラッシュROMのイメージを書き換えることにより、さまざまな性質を発揮する機能を有しています。
知らぬいさんが着目したのは、「Rboad ProのフラッシュROMイメージには、親指ひゅんQ用が用意されている」ということです。どういうことかというと、このイメージを使用したとき、Rboard Pro for PCが、「普通の106/109日本語キーボードで、親指ひゅんQが期待するように親指入力した」ような信号を出力すると言うことです。
従って、Vistaマシンに親指ひゅんQをインストールし、Rboard Pro for PCを「親指ひゅんQ用」にセットして接続することにより、Vistaマシンでこのキーボードを使うことができる、というのです。

これは朗報です。Rboard Pro for PCの優れているところは、キータッチがふにゃふにゃで、親指シフト入力に最適であるということです。将来、Vistaを使わざるを得ない状況に立ち至ったときでも、慌てふためかなくて良い、ということになりました。

一つ心配事はあります。Rboard Pro for PCの特徴の一つに、キーボードの右上に配列されたR1~R8キーがあります。これらのキーには、「3連続操作」を配置することができるのです。
私の場合、R1にはAlt+Escが登録されています。Windowsのアプリが複数立ち上がっているとき、R1を押すとワンアクションでアプリを切り替えることができます。
また、R2にはControl+F6が登録されています。例えばワード文書が2画面立ち上がっているとき、R2を押すと別のワード画面にワンアクションで切り替えることができます。
この機能は、私にとって手放すことができません。とても便利です。
この機能が、Vista+親指ひゅんQのマシンでも従来と同じように使えるのか、その辺はこれからの要確認事項ですね。
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飯柴智亮さんに一体何が?!

2008-07-24 21:37:58 | 歴史・社会
このブログには、平日だと1日300~400人の方が訪れていただいています。検索キーワードで訪問された場合、何というキーワードで何人いらっしゃったかがわかります。
最近コンスタントに使われるキーワードとして、「高橋洋一 財務相」「東電OL殺人事件 グロテスク」などについては、毎日何人かがいらっしゃいます。

突然、特定のキーワードで大勢の方がいらっしゃることがあります。昨日と一昨日、「飯柴智亮」のキーワードで何十人もの方が訪問されました。一体何ごとでしょう。

このブログでは、今年の2月7日に飯柴智亮「第82空挺師団の日本人少尉」という記事を書きました。
飯柴さんは、1973年生まれ、東京で普通の日本人として育ち、少年時代に映画「ランボー」を観てからアメリカと米軍にあこがれ、その夢をとうとう実現させてしまったという人物です。この本が書かれた2005年現在、米国陸軍の現役少尉に任官しています。
今回ウィキペディアで調べたら、大尉にまで昇進されていました。
その飯柴さんに一体何があったというのでしょうか。

さらに調べてみると、飯柴さんに大変なことが起きていることがわかりました。

米地検が日系大尉を訴追 日本に軍用品不正輸出
2008.7.22 11:25
「日本出身の米陸軍将校でアフガニスタンでの従軍記などを出している飯柴智亮大尉(34)が軍用品を日本に不正に輸出する行為に関与していたとして、米連邦地検が訴追していたことが21日、分かった。
 訴追状などによると、フォートルイス陸軍基地(米ワシントン州)の情報部門に所属していた飯柴大尉は2006年ごろから今年2月にかけて別の人物と共謀。イリノイ州の企業から暗視用の照準器や銃器部品の軍用品を買い、米政府の許可を受けずに日本に輸出したとされる。詳しい輸出先は明らかにされていない。
 陸軍基地や地元紙によると、飯柴大尉は1993年に日本から渡米。大学卒業後に米陸軍に入隊し、米国籍を取得した。2003年に第82空挺師団の一員としてアフガンでの作戦に参加。当時の経験を基にした著書のほか、兵器の解説書を出版している。(共同)」
日本人米陸軍大尉を起訴 光学式照準器の無許可輸出
(7/22 11:57)
「米陸軍の日本人大尉が、軍用ライフルなどに取りつける光学式の照準器を無許可で日本に輸出したとして起訴されました。
 起訴状などによると、米陸軍大尉・飯柴智亮被告(34)は、オプティクス・プラネット社製の光学式照準器60個を購入し、許可なく日本の共犯者に郵送しました。飯柴被告は日本の高校を中退してアメリカにわたり、日本国籍のまま陸軍に入隊、アフガニスタンで作戦に参加した後、ワシントン州のフォート・ルイス基地で日本の自衛隊との連絡担当をしていました。ANNの取材に対し、「許可がいることを知らなかった。故意ではなく、報酬も一切受け取っていない」と話しています。」


これは。飯柴さんの検索ワードで大勢の方が訪れるはずです。
今回の訴追で、どのような結論になるのかはわかりませんが、それにしても飯柴さんの軍歴に傷が付いたことは明らかです。

もし飯柴さんにやましいところがないのであれば、この事件にめげず、これからも頑張ってほしいです。
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自衛隊のアフガン本土活動断念

2008-07-22 23:02:37 | 歴史・社会
7月18日の朝日新聞朝刊は、自衛隊のアフガン本土派遣を見送るとの記事が1面トップです。
20日の産経新聞記事がネットで閲覧できます。
政府、自衛隊のアフガン本土活動断念 治安悪化、公明反対
7月20日19時43分配信 産経新聞
「政府・与党は、アフガニスタン支援をめぐり、アフガン本土での自衛隊による追加支援を断念し、新テロ対策特別措置法の延長で対応する方針を固めた。公明党の反対姿勢が強い上にアフガン本土の治安悪化が深刻で、8月下旬にも始まる臨時国会での新たな法整備は困難と判断した。」

先日も報告したように、ペシャワール会の中村哲医師の「アフガニスタンで考える」を読み、中村医師の目を通してアフガニスタンを見て以来、アフガニスタンの様子が今までと違って見えます。

アフガニスタンに駐留する米軍が増派されることによって、かえって治安が悪化するという現実があるようです。
「それを私たちが肌で感じるのは、私たちの山奥の診療所が二つ閉鎖に追い込まれたことからです。これは、それまで平和な農村地帯であったところに米軍が進駐してしまったためにやむをえず閉鎖したのです。NGO活動を守るため、と言って米軍が入っていくところ、米軍からの“誤爆”だとか、地元の人々からの顰蹙だとかが絶えません。ですから、それまでは活動できていたことができなくなっていきます。また、米軍が来たために、さらに紛争が拡大するという悪循環が各地で起こり、治安は悪化しつつあるのです。これが現在の状況です。」
「私たちは日々、地元の作業員、農民たち、その地域の人々と触れあっておりますので、大方において、反米感情が、いまだ日に日に高まっていることがわかります。」(同上図書から)


アフガニスタンにおける米軍、NATO、ISAFらの活動は、「絶対的悪であるアルカイーダを支持するタリバーンは絶対的悪」というスタンスで行われていると思います。
しかし、タリバーン政権が行った悪政とは、アルカイーダを匿ったこと、女性差別政策を採ったこと、バーミヤン遺跡を破壊したこと、ぐらいは知っていますが、その程度です。アフガニスタンの勢力争いの中で政権を獲得したのは実力でしょうし、アフガニスタン国内での麻薬栽培を撲滅近くまで持っていった実績があります。アメリカの後押しで成立したカルザイ政権は、麻薬栽培の大々的復活を止めることができません。
アフガニスタンを観察するに際しては、タリバーン勢力ですら多くあるうちの一党派と相対的に考え、「アフガニスタンの人々にとって今何をなすべきか」というスタンスで方向を定めるべきでしょう。

「アメリカとの良好な同盟関係維持のために自衛隊をアフガニスタンに派遣したいが、アフガニスタン国内では治安が悪化しており安全確保が難しいから自衛隊派遣は困難だ」というのでは寂しすぎます。
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特許登録番号を最短で知るには

2008-07-20 18:03:24 | 知的財産権
めでたく特許査定が送達され、1-3年分の年金を納付すると、10日前後で特許が登録されます。そしてそれからしばらくして(登録から2週間ぐらいだったか)、特許証が郵送で送られてくるので、そこで登録番号を知ることができます。

登録のための年金を納付したばかりの案件について、出願人から「できるだけ早く登録番号を知りたいのでお願いします」との依頼が舞い込みました。さてどうしたらいいか。

通常、水曜に特許査定書が送達され、その日に登録料をオンラインで納付すると、翌週の金曜頃に登録がなされているようです。
そこで、登録がされたと思われる週の翌週月曜に、特許庁に電話で確認してみました。
出願番号を告げると、「その案件は先週金曜に登録されていますね。しかしまだ閲覧は可能になっていません。今週の水曜(明後日)には確実に閲覧できるはずですから、閲覧してください。」との回答でした。

そこで、水曜の朝に閲覧請求をかけました。「ファイル記載事項閲覧(縦覧)請求書」というやつです。600円かかります。
最近はすぐに(5分程度で)閲覧可能になります。ダウンロードしたファイルの中の一番最初の項目(出願関連情報)の中に、登録番号が記載されていました。左上から5行目にひっそりと。

結論からいうと、登録料納付から2週間、登録から5日後に、登録番号を知ることができる、ということでした。登録直後に休日が入らなければ、登録からの日数はもっと少ないかもしれません。
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福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

2008-07-17 23:47:06 | サイエンス・パソコン
購入する書籍は、原則として文庫本又は新書版としています。従って、新書版の本は結構買っているつもりです。
中央公論の3月号に「新書大賞ベスト30」という特集が載っていました。ところが驚いたことに、ベストテンはおろか、ベスト30にも私が読んだ本は皆無という結果でした。
それはさておき、この新書大賞で断トツの1位に輝いたのが以下の本です。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
福岡 伸一
講談社

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それでは、せめてこの本ぐらいは読んでおこうと買い置きしてあったのですが、先日読み終わりました。

本の題名が「生物と無生物のあいだ」ということで、てっきり「どこまでが無生物でどこからが生物か」といった話が展開するのかと思いました。確かに1ページほど、「ウィルスは生物か否か」といった話はありました。しかし内容の大部分は違います。ワトソンとクリックによるDNA構造の解明劇を中心として、最近の分子生物学の進歩と、それに携わった最先端の研究者たちの喜びと悲哀にスポットを当てた物語でした。

福岡先生、1959年生まれですか。
話は、ニューヨークのロックフェラー大学から始まります。福岡先生がポスドク(ポスト・ドクトラル・フェロー)としてこのロックフェラー大学で研究していたことがあるのです。

「1953年、科学専門誌「ネイチャー」にわずか千語(1ページあまり)の論文が掲載された。そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた二本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。生命の神秘は二重ラセンをとっている。多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった。しかしさらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。論文の若き共同執筆者ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた。この対構造がただちに自己複製機構を示唆することに私たちは気が付いていないわけではない、と。」

ワトソンとクリックがDNAのこの構造を着想するに至ったヒントは、多くの研究者たちの成果によっていました。

生物の細胞内に、DNA(ディオキシリボ核酸)なる物質が存在することは知られていたようです。長い紐状の物質で、紐をつぶさに見ると真珠が連なったネックレス状の構造をしていること、その真珠はたったの4種類(A,C,G,T)から構成されていること、がわかっていました。細胞からは簡単にDNAを取り出すことができました。
たった4種類の構造単位でしか構成されていないことから、DNAが遺伝情報のすべてを包含しているなど、だれも想像していませんでした。

肺炎の病原体として肺炎双球菌が知られていました。強い病原性を持つS型と、病原性を持たないR型があります。生きているR型のみ、死んでいるS型のみを実験動物に注射しても肺炎は起こりません。しかし、死んでいるS型と生きているR型を混ぜて注射すると、なんと肺炎が起こるのです。
ロックフェラー大学で研究していたエイブリーは、この不思議な現象の原因を突き止めようと考えました。菌の性質を変える物質。それはとりもなおさず「遺伝子」のことであると、当時は既に考えられていたようです。
エイブリーはS型菌からさまざまな物質を取り出し、どれがR型菌をS型菌に変化させるかしらみつぶしに検討しました。その結果、残った候補は、S型菌体に含まれていた酸性の物質、核酸、すなわちDNAだったのです。

「遺伝子の本体はDNAである。」

1940年代初頭、エイブリーは既に60歳を超えていました。

DNAが、A,C,G,Tの配列を暗号要素として遺伝情報を保持しているのだとしたら、A,C,G,Tのそれぞれの含有量は種々様々になると想定されます。ところが、コロンビア大学・生化学研究室の研究者、アーウィン・シャフガルは不思議な現象を見つけ出します。
「動物、植物、微生物、どのような起源のDNAであっても、あるいはどのようなDNAの一部分であっても、その構成を分析してみると、4つの文字のうち、AとT、CとGの含有量は等しい。」

この不思議な現象が起こっている原因を追及した結果として、ワトソンとクリックは「対構造」に思い至ったのです。
その対構造は、AとT、CとGという対応ルールに従います。DNAは2本鎖のペアであり、一方の鎖のAと他方の鎖のTとが対応しているというわけです。

対になっているとしたら、その対がほどけ、一方の鎖に新たな鎖が合成されれば、新しい対構造が誕生します。つまり生命の“自己複製”システムです。
ワトソンとクリックは、最初の論文の最後に次の一文を挿入しました。
「この対構造がただちに自己複製機構を示唆することに私たちは気が付いていないわけではない」


ワトソンとクリックは、エイブリーの成果とシャフガルの成果のみから、想像力のみで二重ラセンのアイデアにたどり着いたのでしょうか。
ここに疑惑が存在します。

イギリスはロンドン大学キングスカレッジに、ロザリンド・フランクリンという女性研究者がおりました。1950年、彼女が30歳になったときです。
彼女は、DNAの構造をX線によって解明することに全力を傾けていました。X線を照射し、データとして十分な散乱パターンを得るためには、大型でしたも美しい結晶を作り出す必要があります。散乱パターンを解析する数学的な作業も並大抵のことではありません。
1952年、フランクリンは自分の研究データをまとめたレポートを年次報告書として英国医学研究機構に提出しました。フランクリンの論文には、DNA結晶の単位格子についての解析データが明記されていました。これを見ればDNAラセンの直径や一巻きの大きさが解読できたはずです。さらに報告書には「DNAの結晶構造はC2空間群である」という重要な記述がありました。C2空間群とは、二つの構成単位が互いに逆方向をとって点対称的に配置されたときに成立するのです。
研究論文誌には、投稿論文を査読するレフェリーがいます。最先端の論文を評価するのですから、当然同業の研究者が当たります。フランクリンの論文も査読され、そのレビューアーの中にマックス・ペルーツという人がいました。フランクリンの論文は、ペルーツを経てクリックの手に渡ったのです。


1962年、ジェームス・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンズの3人は、DNAラセン構造の解明に対してノーベル医学生理学賞が授与されました。同じとき、マックス・ペルーツも、タンパク質の構造解析への貢献を認められてノーベル賞を受賞します。しかし、そこにロザリンド・フランクリンの姿はありません。彼女は自分の研究がDNAの解明に重要な寄与をしたことを知らずに、1958年、ガンに侵されて37歳でこの世を去ったのです。


以上、この本の三分の一程度を占める、DNA物語でした。

その他、興味を持って読んだ話題を列記しておきます。

○ アメリカにおける研究者のキャリアパスとポスドクが果たす役割

○ 任意の遺伝子を、試験管の中で自由自在に複製することのできるPCRという画期的な装置、その装置のアイデアをドライブデート中に思いついたサーファーである研究者キャリー・マリスの話

○ 著者の福岡先生自身が、ポスドク時代に世界の最先端研究でライバルチームと熾烈な一番争いを演じた研究の内容とは
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最高裁判決:訂正請求の許否は請求項毎に判断すべき

2008-07-15 20:34:12 | 知的財産権
7月10日に、特許に関する最高裁判決が出されましたね。
特許異議申立事件(付与後異議)で特許取消決定がされ、特許権者が審決取消訴訟を起こしたが請求を棄却され、それに対して上告していたのに対し、最高裁は上告を一部容認し、特許権者の主張を認めたものです。
最高裁判決(pdf
知財高裁判決(pdf)(いずれも裁判所ホームページ)

特許異議申立制度は既に廃止されて存在しないので、ここでは一般論の議論を特許無効審判を例にとって説明します。

特許無効審判が請求されると、特許権者は、答弁書提出期間内などに、訂正の請求(特許請求の範囲の減縮などを目的とする)を行うことができます。
審判の審理において、訂正の適否を判断し(「訂正を認める」又は「訂正を認めない」)、特許が無効か否かを判断します。

無効審判請求は請求項毎に行うことができます。特許が無効か否かの判断についても、請求項毎に判断されます。例えば、特許が請求項1~4からなっているとき、無効審判を請求項1、2のみについて行うことができます。審判において、請求項1は無効理由があるが請求項2は無効理由がないと判断されたとき、審決において、「請求項1(のみ)を無効とする」との判断を下すことができます。

ところで、無効審判において行われる訂正請求はどうでしょうか。
特許が請求項1~4からなっており、無効審判が請求項1~4のすべてについて請求され、特許権者が訂正請求を行い、請求項1については訂正事項a、請求項2については訂正事項b、請求項3については訂正事項c、請求項4については訂正事項dである訂正請求をしました。審判で審理を行ったところ、訂正事項bが訂正要件を満たしていません。(訂正事項a、c、dは訂正要件を満たしているとしましょうか。)
審決では、「訂正a、c、dを認める。訂正bを認めない。請求項1~4はそれぞれ(有効)(無効)である。」と判断することができるのでしょうか。

従来、「訂正請求の判断は請求項毎に行うことができない(訂正請求全体で不可分の塊である)」と解釈されていました。特許法の条文において、訂正審判については「請求項毎」との規定がなされておらず、訂正請求についても同様だからです。異議申立事件における訂正請求も同様でした。特許法の条文の文言通りに運用されていたのです。

すると上記の事例ではどうなるでしょうか。訂正事項bが訂正要件違反だから、訂正事項a、b、c、d全部を認めない。すると、請求項1~4は訂正前の状態であるから、いずれも無効理由があり、無効である、との審決が出てしまいます。


今回の事件がまさにそれでした。ただし、無効審判事件ではなく、異議申立事件でしたが。請求項1~4のそれぞれに対する訂正事項a~dのうち、訂正事項bのみ「訂正要件違反」と認定した上で訂正全体を認めず、「請求項1~4に係る特許を取り消す」という取消決定をしました。

特許権者は知財高裁に取消決定取消訴訟を提起し、「異議申立事件においてした訂正請求については、請求項毎に訂正の許否を認定すべきだ」と主張しましたが、知財高裁はそれを認めず、特許庁の取消決定を取り消しませんでした。

特許権者はさらに最高裁に上告し、今回、最高裁の判決が出されました。
結論として、「特許異議申立事件の係属中に複数の請求項に係る訂正請求がされた場合,特許異議の申立てがされている請求項についての特許請求の範囲の減縮を目的とする訂正については,訂正の対象となっている請求項ごとに個別にその許否を判断すべきであり,一部の請求項に係る訂正事項が訂正の要件に適合しないことのみを理由として,他の請求項に係る訂正事項を含む訂正の全部を認めないとすることは許されないというべきである。」と判示しました。

--判決抜粋--
「特許法は,複数の請求項に係る特許ないし特許権の一体不可分の取扱いを貫徹することが不適当と考えられる一定の場合には,特に明文の規定をもって,請求項ごとに可分的な取扱いを認める旨の例外規定を置いており,特許法185条のみなし規定のほか,特許法旧113条柱書き後段が「二以上の請求項に係る特許については,請求項ごとに特許異議の申立てをすることができる。」と規定するのは,そのような例外規定の一つにほかならない(特許無効審判の請求について規定した特許法123条1項柱書き後段も同趣旨)。」
「訂正審判請求は一種の新規出願としての実質を有すること(特許法126条5項,128条参照)にも照らすと,複数の請求項について訂正を求める訂正審判請求は,複数の請求項に係る特許出願の手続と同様,その全体を一体不可分のものとして取り扱うことが予定されているといえる。」
「これに対し,特許法旧120条の4第2項の規定に基づく訂正の請求(以下「訂正請求」という。)は,特許異議申立事件における付随的手続であり,独立した審判手続である訂正審判の請求とは,特許法上の位置付けを異にするものである。」
「訂正請求は,請求項ごとに申立てをすることができる特許異議に対する防御手段としての実質を有するものであるから,このような訂正請求をする特許権者は,各請求項ごとに個別に訂正を求めるものと理解するのが相当であり,また,このような各請求項ごとの個別の訂正が認められないと,特許異議事件における攻撃防御の均衡を著しく欠くことになる。以上の諸点にかんがみると,特許異議の申立てについては,各請求項ごとに個別に特許異議の申立てをすることが許されており,各請求項ごとに特許取消しの当否が個別に判断されることに対応して,特許異議の申立てがされている請求項についての特許請求の範囲の減縮を目的とする訂正請求についても,各請求項ごとに個別に訂正請求をすることが許容され,その許否も各請求項ごとに個別に判断されるものと考えるのが合理的である。」
--以上--

今回の判決は異議申立における訂正請求が対象でした。無効審判における訂正請求が対象になるか否かが気になります。最高裁判決では、異議申立の根拠条文を述べるところで、「(無効審判も同趣旨)」としているので、おそらく無効審判でも同様に扱われるでしょう。
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審査状況伺書

2008-07-13 12:34:13 | 知的財産権
特許出願で拒絶理由通知に対して、審査官に承服して補正を行い、意見書と補正書を提出しました。特許査定がなされるはずです。
出願人からは、「大事な案件なのでできるだけはやく特許査定を得たい。いつごろ査定が出るか、審査官に聞いてくれないか。」と依頼されました。
そこで審査官に電話したところ、「その審査官は異動で別の部署に移りました。この出願案件に関し、現在のところ後任が決まっていません。」とのことです。こちらが急いでいる状況を説明すると、審査官の上司という人から「電話ではこれ以上回答できない。審査状況伺書を提出してください。」といわれました。

インターネットを用いて、自分が代理している案件について審査着手時期を入手することは知っていました。それとは別に、紙ベースで提出して回答を得る「審査状況伺書」というのがあるのですね。

特許庁のホームページでいうと、特許についての中の「審査に関すること」をプルダウンすると、下の方の「着手状況情報」というところに以下の2つが掲載されています。
上の「特許審査着手見通し時期照会について」が、従来から知っていたインターネットによる情報入手です。
下の「特許審査着手状況の問い合わせについて」が、今回の「審査状況伺書」についてです。

1枚ものの文書を作成します。文案は上記の欄に示されています。印鑑の押印も不要です。
さっそく文書を作成し、郵送で特許庁に送りました。

すると、12日ほどして特許庁から郵便物が届きました。「伺い回答書」という1枚の文書です。「上記出願の審査着手は、平成20年9月頃の予定です。」と記入されています。回答者は「特許審査第一部調整課審査業務管理班」というところでした。

「こりゃ審査(再)着手がずいぶん先になるな」と出願人共々がっかりしました。今から早期審査事情説明書を提出しても、既に審査には着手しているのですから、さらに迅速になるかどうかは不明です。特許庁出願支援課に電話で相談してもそう言われました。

ところが、それからほどなくして、当該出願について「特許査定」が届いたのです。
よくよく比べてみたら、「伺い回答書」の日付よりも、「特許査定」の起案日の方が前の日付なのです。
審査官の部署では、調整課に対して「9月に着手」と答えながら、一方ではただちに後任を決定していたということですね。そして後任の審査官が特急で特許査定をしてくれていたということです。


審査を迅速にお願いしたい状況があるときに、「審査状況伺書」を提出することが有効に機能するかもしれない、というお話しでした。
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中村哲「アフガニスタンで考える」

2008-07-10 21:31:55 | 知的財産権
最近のアフガニスタンの様子を教えてくれる本に遭遇しません。海上自衛隊によるインド洋での給油は再開しましたが、その後のアフガニスタンについて月刊誌でも記事にお目にかかりません。
そこで、比較的最近刊行された本ということで、以下の本を読んでみました。
カラー版 アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条 (岩波ブックレット)
中村 哲
岩波書店

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この本を読んだ第一印象は、外国から首都カブールを通して見えるアフガニスタンと、国土の大部分を占める山間部に直接暮らして見えるアフガニスタンとは、その姿が全く異なっている、ということでした。

中村さんはお医者さんで、ペシャワール会の代表です。ペシャワールとはパキスタン北西部の町で、アフガニスタンとの国境の町です。
1984年、ペシャワールにおけるハンセン病5カ年計画に参画したのが始まりです。当時、アフガン戦争のまっただ中で、600万人(国民の1/4)が難民となって国外に流出します。その半分がペシャワールを中心とするパキスタンに避難し、中村医師も難民問題に巻き込まれます。
細々と難民キャンプで治療を続けますが、ハンセン病の治療だけでは現地では成立しません。そこで、アフガニスタンの山間部におけるモデル的な医療体制の確立ということを掲げ、活動の準備を始めました。
パキスタンとアフガニスタンとの国境は、内戦のため閉鎖されているとはいえ、間道を伝っていくらでも往復できます。山から山へ、当時は1週間以上かけ、徒歩でアフガニスタンの現地の村に入りました。
現在、ペシャワール会は、医療事業と水源確保事業を二つの柱にしています。医療事業職員が約80名、水源事業に携わる職員が約150名、その他に常時2、300人前後のアフガン人の現地職員が働いています。
日本のペシャワール会がこの事業をサポートしており、年間予算の3億円前後は会費と募金によって賄われます。中村医師は、結局21年間、この事業に関わり続けていることになります。

「アフガニスタンは、国土のまんなかにヒンドゥークシュ山脈という巨大な山塊を抱えた、文字通り『山の国』です。国土の面積は日本のほぼ1.7倍ありますが、そのおおかたは山岳地帯です。しかも6千メートル、7千メートル級の山々が林立しているのです。したがって、谷も非常に深い。ですから、昔から交通の便が悪く、よくいえば割拠性が強く、地域の自主性のもとにそれぞれの地域をそれぞれの勢力が治めていました。」
「それぞれの共同体、部族共同体の中を律する要の役割を、イスラムが果たしているのです。」
「割拠・乱立する地域共同体が、共通の不文律でもってアフガニスタンという天下を形作っている、といえます。」
「(人口の)8割以上の人々が農民、1割が遊牧民そして林業に携わる人です。こんな乾燥したところで農業ができるのは、高い山々に降り積もる雪のおかげなのです。アフガニスタンには、『金はなくても食っていけるが、雪がなくては食っていけない』という諺があります。冬に降り積もった雪、それから何万年もかけてできた氷河が夏に溶け出し、その川の流域沿いに豊かな緑と実りを約束してくれます。」

1989年、ソ連軍は完全撤退しますが、アフガン難民の帰還は始まりませんでした。アフガン国内での内戦は激しくなる一方で、農村はその戦場となっていたからです。
そののち1992年、アフガニスタンの当時の共産政権が倒れ、爆発的な難民帰還が始まります。共産政権が倒れると共に、それまで各地域で割拠していた軍閥たちが、権力を目指して首都カブールへ攻め上り、内戦の舞台が農村から都市へと移ったためです。
ところがアフガニスタンというのは運が悪い国で、やっと難民が帰還できたそのとき、2000年に始まった世紀の大干ばつに襲われます。アフガニスタンでは100万人が餓死線上にあると報告されました。

2000年7月、中村さんたちは、残った村人を集め、それまであった井戸をさらに深くすることをはじめます。その活動は現在も続け、井戸の数は1400ヶ所に達しました。
また耕作のための灌漑事業にも着手し、カレーズと呼ばれる地下用水路の再生に力を入れ、38ヶ所で水を出すことができました。

2001年当時、こんなひどい状況を抱え、そのうち大規模な国際支援が行われるだろうと期待していたら、やってきたのは国際支援ではなく、アフガンをテロ支援国家と見なしての国連制裁でした。
これによって一般のアフガン人は決定的な外国不信に陥りました。

そして9・11同時多発テロの後のアフガン戦争で、空爆によって国際社会がいう悪の権化タリバンが倒されます。
しかし実際に開放されたのは、ケシ畑でした。タリバン政権時代にほぼ消滅に近いほど追い込まれていた麻薬栽培が、たちまち復活し、現在アフガニスタンは世界の約70%から80%以上の麻薬を供給するという不名誉な事態に至っています。


中村さんが活動を開始してアフガニスタンの山奥に徒歩で医療活動に向かった頃、山奥の村で「日本人だ」というと、半分外国人でないような丁寧な扱いをしてくれます。その後も、アフガニスタンにおいては、単に日本人であるがために命拾いをしたとか、単に日本人であるがために仕事がうまくいくようになった、とかいうことはそれこそ数知れずありました。
ひとつは、日露戦争で日本が勝ったという歴史的事実があります。そしてもう一つは、敗戦後の経済復興への賞賛です。ヒロシマ、ナガサキのことはみんな知っています。
長いあいだ、これは日本の安全保障上の大きな財産でした。
ところが1991年の湾岸戦争以降、決定的になったのは2001年のアフガン空爆からイラク戦争に至るまでの自衛隊の動きが現地に伝わるようになってから、徐々に変わり始めます。今や、地域によっては、単に日本人であるために攻撃を受けたり、単に日本人であるがために仕事の妨害をされる、といったことも起こりつつあります。


中村さんたちは、武器を持っていませんが、現地の人々から攻撃を受けたり襲われたことがありません。
一方、中村さんたちの用水路に平行してアメリカの資金で道路工事をしていたトルコの会社は、物々しく武装をしたセキュリティに守られて工事をしているのに、3回も誘拐事件に遭遇しました。


この本は2年前の出版です。この2年間で、アフガニスタンはさらにどのように変化したのでしょうか。
それにしても、普段のカブール発の報道で見知っているアフガニスタンと、中村さんの目に見えるアフガニスタンとの違いに驚かされます。これから日本が国としてアフガニスタンと交際するに際し、中村さんたちのような活動をサポートする方向で有効な支援を行っていきたいものです。
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行政と暴力

2008-07-08 21:28:31 | 歴史・社会
生活保護費不正受給:群馬まで100キロ、タクシーで通院 埼玉・深谷市が組員告発
「埼玉県深谷市内の暴力団組員の男(60)が生活保護費を市から不正に受給していた疑いがあり、市が生活保護法違反容疑で埼玉県警に告発していたことが分かった。群馬県北部の温泉地にある医療機関まで約100キロの道のりをタクシーで通院したとして料金を請求するなど、妻(44)と2人の受給額は約1800万円に上るとみられている。
 関係者によると、組員は07年10月、群馬県北部の医療機関で診察を受けたとして、自宅からの往復のタクシー代十数万円を生活保護費に含めて受け取っていたという。同月、県の監査で不正受給の疑いが発覚した。」

深谷の生活保護費不正受給:「暴力に屈した」市長謝罪 弁明を撤回 /埼玉
7月1日14時1分配信 毎日新聞
「 ◇“市は被害者”弁明を撤回
 深谷市の生活保護法違反(不正受給)事件で、新井家光市長は30日、定例会見で「担当者だけで穏便に済ませようとした事なかれ主義が暴力に屈した」と、市の不手際を認めて謝罪した。容疑者の逮捕当日の市幹部の会見では「市は被害者」と主張していた。」


このような事件情報に接すると、「行政の窓口は原則として暴力に屈しやすい」という図式が見えてきます。

似たような事件に、<滝川タクシー詐欺>がありました。
「夫婦は06年10月~07年10月、収入があり生活保護受給資格がないにもかかわらず、市から介護タクシー代2億215万円と生活保護費389万円の計2億604万円をだまし取った。」
以下に詳しく書かれています。残念ながらニュースソースはもう見られません。
「生活保護世帯の元暴力団組員の夫と妻らが介護タクシー代金約2億4千万円を不正に受給していた事件で、北海道警は9日、夫婦らを詐欺の疑いで逮捕した。
(中略)
 逮捕されたのは、滝川市黄金町東3丁目、片倉勝彦(42)、妻ひとみ(37)両容疑者と札幌市北区の介護タクシー会社「飛鳥緑誠介(あすかりょくせいかい)」取締役の板倉信博(57)、社員の小向敏彦(40)両容疑者。片倉容疑者は介護タクシー代金2億65万円のほか、生活保護費約370万円を詐取した疑いが持たれている。(中略)

 始まりは06年3月だった。滝川市出身で、いったん札幌市に移っていた容疑者夫婦が滝川市に転入。「病気で働けない」などとして生活保護の認定を受けた。
(中略)
 しかし、市の幹部は以前から、重ねて忠告を受けていた。市の監査委員だった市議によると、06年秋の時点で高額の請求に気づき、懇談会の場で田村弘市長や副市長らに注意を促した。しかし、市長は「そんなことがあるのかい」などと答えるにとどまったという。
 その後、監査委員は07年春に検証報告を作成して「考えられない額で現実離れしている」「金が夫婦側に還流しているのではないか」と指摘した。市の顧問弁護士も同時期に「すぐに打ち切るべきだ」と進言。その後、市はようやく腰を上げて滝川署に相談したが、市として具体的な調査に入ることはなかった。正式に被害届を出した11月16日にも390万円を振り込んでおり、「弱腰」が目立つ。
(中略)
 市は、当初から元暴力団組員であることを把握しており、「見るからに『それ風』で威圧的だった」(市職員)。捜査した札幌地検や道警などには「トラブルが嫌で目を背け続けた疑いがある」「職員の刑事責任は追及できなかったが、納税者への背信行為であることは間違いない」という声がある。(以下略)


「行政が暴力に弱い」事例として、私が最初に接したのは「豊島産廃事件」です。

この事件で住民側代理人となった中坊公平氏の著書中坊公平・私の事件簿 (集英社新書)から拾ってみます。
「1975年12月、豊島(てしま)総合観光開発は香川県の豊島で有害産業廃棄物処理事業を行いたいと香川県知事に許可申請した。これに対し住民は建設差止請求訴訟を提起したので、豊島総合観光開発は「ミミズによる土壌改良剤化のための処理」のみを行うと申請内容を変更した。許可権者の香川県は、行政としては許可せざるを得ないとして、住民に対しこれを受け入れるよう強く要請し、住民も受け入れた。
豊島総合観光開発は78年4月から「ミミズ・・・」業務を開始したが83年には事実上廃業し、シュレッダーダストなどを搬入して野焼きを行うようになった。これについて香川県は同社を指導監督するどころか、逆に同社を廃棄物処理法違反で起訴した高松地検に対して、同社の主張を認める説明を行っていた。
90年11月、兵庫県警は豊島総合観光開発を廃棄物処理法違反の容疑で摘発。当初、シュレッダーダストは廃棄物ではないと説明していた香川県も廃棄物であることを認めるようになった。同社は、50万トンを超す大量の廃棄物を放置したまま実質上倒産した。
周辺から有害物質が検出されたが、香川県は周辺環境への重大な影響はないと発表した。
そこで住民は弁護士に公害調停の申請を依頼した。93年11月住民438名は、公害等調整委員会に対し、廃棄物の撤去と損害賠償を請求する調停を申請した。公害調停は6年半に及んだが、2000年6月6日、①県が行政責任を認め住民に謝罪する、②産廃を豊島の西約5キロの位置にある直島に運搬し処理する旨の調停が成立した。」

昔、雑誌で読んだと思うのですが、県庁の中で県の担当者が業者からネクタイを引きずり回される暴行を受け、それが県の弱腰につながった、という記事の記憶があります。

ネットで事実関係を調べようとしたのですがなかなか見つかりません。
環境を考える経済人の会21の中に、1997年度第3回朝食会1998年1月28日講師:中坊公平(住宅金融債権管理機構社長)という記事がありました。上記の調停が成立する前の発言ですね。
「行政部門が司法機能を果たす体制が我が国司法の大きな欠陥

(質)豊島の産業廃棄物処理の問題について、行政の対応との相剋はどうか。

( 答)廃棄物処理業者の責任はもちろんだが、むしろ監督し、規制していた香川県自体の責任が大きい。住民が20年も前に廃棄物処理場をつくるということに対して反対し、裁判、デモなどで訴えつづけているのに、県は対応しなかった。ミミズ養殖といいつつ産業廃棄物を捨てるなどの業者の嘘、違法行為を県が合法化し、いまだにその誤りを認めようとしない。廃棄物を撤去するのにさらに無駄な金が使われるようになった。

 こうした県の対応の背景にはやはり暴力が関係していた。排出業者が県庁で職員に暴力を振るった。闇の勢力との対決を恐れ便宜を図った。県は4万トンだから無害だという宣言を出したが、実際は50万トンだった。暴力によって行政がゆがむことの恐ろしさをこの事件が物語っている。 」


行政を掌る一人一人の役人はそれは弱い存在です。暴力をふるわれ、家族に危害が及ぶ可能性が出てきたときに、その役人一人の力で暴力に立ち向かうのは無理です。しかしだからといって、行政が暴力に屈してはいけません。
やはり、相手が暴力できたときにはそれに対抗できる仕掛けを行政の中に設けておく必要があるということでしょう。どのような仕掛けが適切かはわかりませんが。
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