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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

笠間城訪問

2024-11-30 22:07:53 | 趣味・読書
11月30日に茨城県笠間市の笠間城を訪問しました。
笠間城は、常磐線の友部駅、あるいは水戸線の笠間駅が最寄りです。友部駅からかさま観光周遊バスが運行され、往きはこれを利用するのが便利です。常磐線の品川発の特急が1時間に1本運行され、下り特急の到着時刻に合わせて周遊バスが出発します。
今回は、10時14分品川発の特急ときわ57号に乗り、友部11時37分着です。周遊バスが11時50分に発車し、笠間城最寄りの⑪日動美術館バス停着が12時7分です。

笠間城模型

笠間城は城跡としてはほとんど何も残っていません。上の模型、下の地図で、①天守曲輪、②本丸、③二曲輪、④三曲輪、⑤大手門、⑥的場丸(通称千人溜)などが配置されていました。

笠間城地図

笠間城跡サイトにも地図が掲載されています。

周遊バスで⑪日動美術館バス停に到着すると、まずはスタンプが置いてある「井筒屋」を探します。バス停から緩く下った先のT字路を左折したところの三階建ての建物と教えられました。地図で⑫井筒屋です。

⑫かさま歴史交流館井筒屋
井筒屋は不思議な建物で、1階には小さなお土産屋さんなど、2階は展示施設になっていました。建物の前と奥では菊が飾られていました(下写真)。

井筒屋での菊まつり
笠間城は、⑫井筒屋から⑪日動美術館前に戻り、さらに先に進んだところの右方向のようです。駐車場の手前を右折すると山に登っていく道が見えます。ここを進んでみました。
道の脇はちょうど紅葉時でした(下写真)。

紅葉
ちょっと歩くと広場に出ます。⑭下屋敷跡のようです。

⑭下屋敷跡
下屋敷跡の奥に、下写真の時鐘楼が建っています。笠間藩が鐘楼を設けたのは1662年、その後、鐘楼を下屋敷の一角に移し、時鐘を撞かせました。現在の時鐘は三代目とのことです。鐘楼は1970年に現正福寺に移され、2001年に現在地に新築移転した、とのことです。

時鐘楼
下屋敷の曲輪の先から、山道の階段道が始まります。

階段道
階段道の途中に石垣の痕跡も見られました(下写真)。

石垣


城跡


階段道
道は、②本丸を経由して続いているはずですが、どこが②本丸かわからないうちに、①天守曲輪の最後の登りとなります。

天守曲輪の石垣
この天守曲輪の石垣が、笠間城の最大のモニュメントらしいのですが、東日本大震災で損傷したらしく、現在は上の写真のように一部がビニールシートで覆われていました。そして、最後の階段部分(下写真)は通行止めとなっていました。

天守曲輪への階段(通行止め)
このあと、元来た道を戻りました。

ところで、昼食はお城訪問の前にいただいていました。
⑫井筒屋の前のT字路が観光客で賑やかでした。そこは笠間稲荷神社の門前通りのようです。⑬にそば・うどん店があったので入りました。メニューの中のけんちんうどんそばが郷土料理っぽかったので注文してみました。「うどんとそばのどちらがお勧めですか?」と聞いたところ、「栃木の人はうどんが多い」との答です。とりあえずうどんを頼みましたが、ここは茨城なのになんで栃木?が良く分かりませんでした。下写真です。

けんちんうどん
帰ってから「けんちん 茨城」で検索したところ、以下のような情報が見つかりました。
つけけんちん 茨城県
『茨城県は、朝晩の寒暖差が大きく、水捌けの良い傾斜地が多いことから、江戸時代からそば栽培が盛んであった。』
『根菜類がよくとれる茨城県では「けんちん汁」もよくつくられたため、「けんちん汁」にそばをつけて食べるのが風習になった。』
『里芋、大根、ごぼう、こんにゃく、ねぎ、人参などを炒め、味噌と醤油、みりんで味付けをした温かい「けんちん汁」に、ざるそばを別にそえていただく。太めのそばを使うのが特徴である。なお、「けんちん汁」にそばを入れて食べる場合は、「けんちんそば」と呼ばれる。』
どうも、うどんではなくそばのようです。それも、ざるそばを別にそえていただくとのことです。

さて、笠間城の来歴です。ウィキに詳細が載っています。
笠間城の創建は鎌倉時代とされ、笠間氏が約370年にわたって本拠としました。1598年、この地を得た蒲生秀行は重臣蒲生鄕成を城代に配置し、中世城郭から近世城郭に改修されました。
関ヶ原の戦い後には、松井松平家、小笠原氏、戸田松平家、そして永井氏が入りました。ついで、浅野氏が入り、山麓に⑭下屋敷を造営しました。その後、井上氏、本庄氏、再び井上氏、そして廃藩まで牧野氏が居城しました。山上の城は幕末まで存続しました。

笠間城から東京までの帰路は種々選べます。まず、かさま観光周遊バスは、反時計回りしかありません。帰りは、このバスに乗って笠間駅まで約17分、あるいは友部駅まで約40分です。今回は、バスで笠間駅に行き、そこから水戸線で小山、小山からは湘南新宿ラインで新宿へ、というルートを採用しました。
ところが、バスが遅れて到着しました。笠間駅での待ち時間が9分しかないところ、間に合うか微妙でした。何とか2分前に駅に到着し、無事予定の電車に乗ることができました。
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鎌刃城訪問

2024-11-23 10:38:19 | 趣味・読書
11月18日、米原の鎌刃城を訪問しました。
前日の八幡山城訪問の後、米原駅前のホテルに宿泊していました。
鎌刃城は、米原駅から南東方向、旧中山道沿いの山の中にあります。路線バスがあるのですが、朝方に1本、夕方に4本程度しか走っておらず、われわれには使い物になりません。現地までタクシーで向かうことにしました。
米原駅から東に向かう県道を走ると、旧中山道と交差します。下のルート図で⑧のところです。タクシーはここで右折し、中山道沿いに①まで走り、ここでタクシーを降りました。

⑤ 鎌刃城 四丁


鎌刃城までのルート図

中山道沿いの①に、Cafe&Gallery源右衛門があります(下写真)。といっても、このお店はいつも閉まっているようです。開いているとの情報は全くありません。

① Cafe&Gallery源右衛門
このお店の前に続100名城スタンプ(下写真)が置いてあるので、まずはスタンプゲットです。

続100名城スタンプ

すぐ近くに番場資料館がありますが、ここは土日のみ開いており、この日は月曜なので閉館です。

① 番場資料館

中山道をちょっと南に歩くと、「←鎌刃城」の小さな標識が見つかります。左には道とはいえないような民家と民家の間の抜け道があり、その先の川を下写真の橋で渡ります。この川が菜種川のようです。

② 菜種川を渡る

菜種川を渡ってすぐのところに名神高速道路が走っています。その下のガードをくぐります。ガードには下写真のような扉が設けられています。通行したらきちんと扉を閉めることが必要です。山からケモノが下りてくるのを防ぐためのようです。シカ、イノシシ対策のようですが、クマが出没するとの情報は今回聞きませんでした。

③ 名神高速道路下の通路(彦根43ガード)


④ 近くの池

道の右側に下写真の案内があります。写真に見える小さな祠があり、その中に入っている石がその腰掛石か?と思ったのですが、帰ってから調べると違うようです。こちらの写真のような石が近くにあったのでしょう。私は見落としました。

菅公の腰掛石
ところで、「菅公の腰掛石」は全国に存在するようですね。菅原道真が座った、ということですが、なぜ全国に存在しているのか、不思議です。

クマが出るとの情報は聞いていないのですが、ここは小谷城とは山続きです。絶対にクマがでないとも言い切れません。今回、クマ鈴を持参しています。そこで、クマ鈴を鳴らしながら山を上ることにしました。
標識に従って山道を歩きます。

鎌刃城大手口 鎌刃城主郭まで十三丁


鎌刃城 三丁


⑤ 鎌刃城 四丁

さて、鎌刃城主郭まで十三丁のうち、四丁まで到達しました(上写真)。「滑落事故地」とあります。右の斜面を滑落したのでしょうか。「事故地」とあり、大けがを負ったのでしょうね。
実は、連れが左膝と右足首に故障を抱えており、山道で無理ができません。そろそろ限界のようなので、四丁からUターンして山を下りることにしました。
今回、鎌刃城の城域まで到達しませんでしたが、以下の地図のような城跡があるようです。

鎌刃城地図

ここで鎌刃城について述べます。
戦国時代の近江国は、守護佐々木六角氏が湖南を支配し、京極氏や浅井氏が湖北を支配するという分国の状況でした。その両国の境目に位置するのが鎌刃城であり、その時々の勢力争いにより、城主・城代が入れ替わる「境目の城」でした

鎌刃城の来歴については、わからないことが多いようです。
まず、鎌刃城の創建が明らかではありません。
1284年に鎌刃城主の土肥元頼についての記録があるそうです。
1472年に堀氏の立てこもる鎌刃城を今井氏が攻めています。
1538年に六角方の手に落ち、六角氏の城になります。
1559年には浅井氏に属した堀氏が入城し、浅井方の城になりました。
1570年、浅井長政が織田信長に叛旗をひるがえしますが、鎌刃城主堀秀村は木下藤吉郎の説得によって織田方に付きます。
1574年、堀氏は突然改易され、鎌刃城も廃されました。

結局、1500年を境とする戦国時代の100年間、近江国の戦国大名が覇を競った城、という点では意味があるものの、あくまで近江国ローカルの話です。日本史の中で重要な地位を占める、というほどではなさそうです。
佐和山城や長浜城をさしおいて、ここ鎌刃城が続100名城の一つにカウントされた理由はなんだったのでしょうか。
続100名城のスタンプをもらうことは重要です。源右衛門でスタンプだけ押印し、そこまで利用したタクシーでそのままUターンする、という人も多いようです。

旧中山道まで戻りました。西番場公民館にトイレがあるとのことなので、そこまで歩くことにしました。
下写真の北野神社に隣接して公民館がありました。上の案内図の⑥位置です。

⑥ 北野神社

電車でここ米原に到着する前に気になっていたのですが、民家の瓦屋根の色が、白と黒のまだら模様となっている家がけっこう見受けられます。ここ中山道を歩いていても見つけたので、写真に残しました(下写真)。なんで白黒まだら模様になっているのか、結局原因不明でした。

民家の屋根

ここでタクシーを電話で呼ぼうとしたのですが、近江タクシーは「出払っていて1時間ぐらいかかる」ということです。もうひとつの会社は留守電に回されてしまいました。ここは、米原駅まで歩くことを選択しました。

中山道を歩いていると、年配の男女のお二人とすれ違いました。「お城ですか?」と聞いたところ、中山道を歩いている、ということでした。

上の案内図の⑦の位置に蓮華寺があります。せっかくなのでそちらに立ち寄ることにしました。

お寺でもらった蓮華寺の縁起によると、
この寺は1400年前に聖徳太子が創建し、法隆寺と称していましたが、1276年に落雷により焼失しました。
1284年に一向上人が諸国行脚の錫を留めます。時の領長(鎌刃城主)土肥三郎元頼公は深く一向上人に帰依して堂宇を再建しました。ここで、上で述べた鎌刃城主としての土肥元頼が登場しました。
後に浄土宗に帰属して現在は浄土宗本山です。

⑦ 蓮華寺 勅使門
勅使門と称するからには勅使以外は通れないのでしょうか。


⑦ 蓮華寺 本堂


⑦ 蓮華寺本堂の寺号額(後水尾天皇ご宸筆・元禄11年)

⑧の県道と中山道の四つ辻には、以下の碑と銅像が見られます。

⑧   中山道番場宿                   番場の忠太郎像
「瞼の母」という戯曲の名前、「番場の忠太郎」という人物名については、過去に聞いたことがあります。忠太郎の出身地がここ番場だったのですね。
戯曲の筋を追うと、〔序幕〕では武蔵国南葛飾郡が舞台、〔大詰〕では柳橋の料理茶屋「水熊」と夜明けの荒川堤が舞台です。ここ近江国の番場は舞台になっていません。ただ、忠太郎が生まれたのが番場だった、ということのようです。江戸時代には、中山道の番場宿というのはそれなりに知られていた地名だったのでしょうか。
ここ番場では、銅像があるように、番場の忠太郎は地元の重要な登場人物になっているようです。

さて、四つ辻からさらに歩いて米原駅へ向かいますが、遠いです。タクシーの空車は来ないかな、と願望していたら、本当にタクシーの空車が通りかかりました。こんなラッキーなことがあるのですね。この県道、クルマもわずかしか通らないのに。
タクシーで米原駅まで移動し、ひかりの自由席で東京に帰り着きました。
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八幡山城訪問

2024-11-20 20:41:11 | 趣味・読書
11月17日に近江の八幡山城を訪問、翌18日に米原の鎌刃城を訪問しました。いずれも続100名城の対象です。
11月16日の夜は大阪に宿泊し、17日朝に大阪から近江八幡駅まで在来線で移動、八幡山城を訪問しました。在来線で米原に移動して米原駅前のホテルに宿泊、18日に鎌刃城を訪問、その日のうちに新幹線ひかりで東京に帰り着きました。

まずは八幡山城について説明します。


② 山門

八幡山城は、八幡山の頂上付近に配置されています。

案内図

下の推定図の本丸は、現在は上の案内図の寺院(④村雲御所瑞龍寺門跡)に変わっています。二の丸、⑧北の丸、⑥西の丸、⑦出丸については、現在も城跡の遺跡としてそのまま残っています。


八幡山城推定図

17日朝に近江八幡駅に降り立ち、まずは駅の観光案内所に立ち寄って八幡山城の情報、および近江八幡の街中の食事処情報を入手しました。
駅前からは路線バスを利用し、八幡山ロープウェー口のバス停で下車します。


日牟禮八幡宮鳥居

鳥居をくぐって進むと、ロープウェー山麓駅に到着します。
発車は15分おき、になっていますが、この日は5分おきにフル稼働していました。待ち行列はありませんでした。

八幡山ロープウェー

山頂駅に降り立ち、順路に沿って歩きます。城跡の石垣が続いています。

① 山頂駅付近石垣


① 山頂駅付近石垣

旧本丸の領域は寺院エリアです。まずは山門をくぐります。木々が少しだけ色づいていました。

③ 山門


④ 村雲御所瑞龍寺門跡

お寺は素通りして⑥西の丸に向かいます。

⑤ 西の丸手前石垣


⑥ 西の丸

さらに⑧北の丸に至りました。

伊吹山   西の湖             観音寺城跡

⑧ 北の丸からの遠景

水茎岡山城跡          琵琶湖    比良連峰

⑧ 北の丸からの遠景

もう一度西の丸に戻り、さらに⑦出丸に向かいます。

下は出丸から見た二の丸方向の山です。

⑦ 出丸からの遠景


⑦ 出丸からの遠景


⑥ 西の丸付近の石垣

こうして城跡を一巡し、ロープウェーで麓まで移動しました。
ところで、麓から八幡山を見上げると、山頂近くの左側に石垣が見えます。残念ながら写真に撮る機会はありませんでした。帰ってから調べて見ると、出丸の石垣のようでした。見る位置によっては西の丸の石垣も見えるようです。たとえば、
こちらの写真が、麓から見た出丸と西の丸の石垣です。
記事によると、以前は石垣の手前に木が生い茂って麓からは石垣が見えなかったようです。ほんのつい最近、石垣手前の木々を伐採したのでしょうか。はじめて麓から見えるようになったようです。自分の写真に残せなかったのは残念でした。

ロープウェーの山麓駅から近江八幡の街中に戻ります。

日牟禮八幡宮


八幡堀

お昼時です。駅の観光案内所で、近江牛のお店を聞いてきました。2軒が並んでいるのですが、そのうちの久ぼ多屋さんに入りました。

近江牛 久ぼ多屋

しばらく待って、順番が来ました。われわれは下写真の料理を頼みました。

近江牛あみ焼き御膳(特選)

こうして、近江八幡を訪れた目的の一つである、近江牛を賞味することができます。

観光案内によると、この近くの新町通りが、近江商人の町並みであり、重要文化財である近江商人屋敷などが立ち並んでいるとのことです。そこで、新町通りへ向かいました。

新町通り


新町通り


旧伴庄右衛門邸
旧伴庄右衛門邸は、説明によると、江戸時代初期の豪商「伴庄右衛門」が本家として建てた商家です。明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・女学校と変遷しました。現在は旧伴家住宅として公開されています。


旧伴庄左衛門邸内部

旧伴邸の一室に、変わった山車が展示されています。調べて見ると、近江八幡左義長まつりで使われる左義長ダシとのことです。

左義長ダシ
毎年、各奉納町ごとにダシが造られます(13基)。その年の干支がシンボルです。上の写真は、来年の干支のヘビがモチーフです。「ダシ」はその全てが小豆や大豆などの穀類、スルメや昆布などの乾物といった食材を使って作り上げられています。
祭の1日目にダシは城下町を練り歩きます。そして2日目にダシを燃やしてしまうのです。説明の方は、1基100万円だと言っていました。

旧伴邸の一室に、下の置物が飾られていました。

朝鮮通信使
江戸時代、朝鮮通信使は、大阪付近で本州に上陸した以降、中山道や東海道という宿場の整備されたいわゆる江戸時代の主要街道を通るのですが、滋賀県内の小篠原から鳥居本だけは外れてしまいます(こちらの地図)。その外れたルートに、ここ近江八幡が含まれていたのですね。

八幡山城の来歴
1585年の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は、近江八幡43万石を与えられ、八幡山城を築くことになりました。豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館を造営しました。
豊臣秀次は18歳で入城しましたが1590年に尾張国清洲城へ移封。1595年秀次事件で羽柴秀次が切腹すると築城から10年で八幡山城は廃城となりました。
城跡は、山頂部の山城と、谷筋の空間に居館の2つから成り立っています。このように防衛空間としての山城部分と、居住空間の居館を分離する構造は、戦国期ならいざ知らず、近世城郭では珍しい構造です。これは築城時が小牧・長久手の戦いの翌年で、東国に対して臨戦態勢の緊張下にあり、防衛線として八幡山城が機能したことに起因する、とされています。
八幡山山頂ガイドによると、豊臣秀次について、「八幡城を築いて近江八幡を商都として繁栄させるのに大きく貢献しました。」として、地元の人たちは豊臣秀次に強い愛着を持たれているようです。

以下次号
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年収103万円の壁

2024-11-16 09:27:13 | 歴史・社会
「年収103万円の壁」が議論されています。
共働き夫婦の一方の年収が103万円を超えると、その夫婦が合計で支払う税金が突然高くなるので、年収が103万円を超えない範囲でしか働かない、という問題と理解しています。
この問題は解決すべきでしょう。
ところが、この対策を行うと、国・地方合計で年間7兆6000億円の減収が生じる、と政府が試算しているようです。
しかし、対応策は以下のようにあるべきと思います。
「夫婦の一方の年収を、従来は103万円に抑えていた。103万円の壁が取り払われたので勤務時間を増加し、年収150万円になった。税額の増加代は、年収が103万円から150万円に増加した分に見合った穏やかな増額である。夫婦の他方の人の納税額は変化しない。また、この対象となった家族以外では、税金の増減はない。」
以上のような変化が生じたとして、税金は増える方向です。
なぜ年間7兆6000億円もの減収が生じるのか、もっと良い方策はないのか、モヤモヤしていました。

衆院選後の石破政権の課題(下) 政策実行 避けられぬ財源論
森信茂樹・東京財団政策研究所研究主幹 2024/11/15付日本経済新聞
上記記事の中にざっと意見が述べられていました。
『国民民主党は所得税の基礎控除と給与所得控除の合計を103万円から178万円に引き上げることを主張し、若者の支持を得た。・・・
一方で国民民主党の問題意識は、多く働くと税や社会保険料負担が生じて手取りが減ることへの対応だ。それなら7兆~8兆円の減収が生じ、高所得者ほど恩恵の多い所得控除の引き上げではなく、対象を中低所得者に限定し、所得に応じて税・社会保険料負担を軽減する「給付付税額控除」が有効だ。国民民主党の公約にも書かれている。』
『財源は将来世代へ負担を押しつける国債発行ではなく、資産所得を含めた高所得者への負担増、時代遅れとなった退職金税制の見直しなどが考えられる。税制は究極の構造改革なので腰を据えた議論が必要だ。』

上記だけではとても内容を理解するには至りません。しかし、年間7兆6000億円もの減収が生じるのは、ある特定の対応を取ったときの話であって、別の対応を行うことで、所期の目的を達成しつつ減収を抑えることは可能らしい、ということは理解できました。
ぜひ、このような議論を進めてほしいものです。
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浜松城訪問

2024-11-09 20:08:16 | 趣味・読書
11月9日、浜松城を訪問しました。
東京から浜松に向かう新幹線を調べたところ、ひかりが1時間に1本、こだまが1時間に2本、運行しています。所要時間はひかりだと1時間半、こだまだと2時間、といったところです。ジパング倶楽部でひかり自由席を予約したのですが、東京駅への到着時刻と新幹線の発車時刻との関係から、往きはこだまを利用しました。

天守閣と天守門

浜松駅に到着すると、まず観光案内所に立ち寄り、浜松城までの交通手段と、おいしい食事処の情報を聞き出しました。
やはり浜松といえばうなぎです。教えてもらった駅近のうなぎやさんのなかで、南口ロータリーの正面に位置する八百徳を選びました。長い待ち行列を覚悟していたのですが、待たずに席に着くことができました。値段がお手頃よりは高い、ということが理由かも知れません。
メニューからお櫃うなぎ茶漬を選び、いただきました(下写真)。

お櫃うなぎ茶漬

浜松駅前から路線バスを利用し、市役所南バス停で降りると、その北に浜松城が見えます。
下の案内図で、下端の「現在地」のあたりです。

案内図

まず最初に目に入るのが鎧掛松です。説明によると、家康が三方ヶ原合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだときに鎧を脱いでその松に掛けた、と伝承されているようです。今の松は三代目です。

鎧掛松

下の写真で、画面いっぱいに広がっている石垣の高台が「天守曲輪」です。天守曲輪の中心に天守台が残り、そこに復元天守閣が建っています。天守曲輪の右端の建物が、再建された天守門です。

天守閣と天守門

現在の浜松城は、城跡らしい遺跡としてはこの天守曲輪がそのほとんどであり、本丸、二の丸、三の丸などは、痕跡を留めていません。明治以降の市街化開発で失われてしまったようです。


若き日の徳川家康像

天守閣は堀尾氏が治めた16世紀末に創建されたとみられていますが、江戸時代初期には失われ、以降再建されませんでした。野面積みによる天守創建時の天守台が残されています。その天守台に、1958年に鉄筋コンクリート製の復興天守が建てられました。天守台に対し2/3程度の大きさで建てられたため、史実の天守よりも小さな建物となっています。


天守閣

天守門は天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で、天守曲輪の東側に位置します。改修・改築が行われながらも、廃城時まで存続しました。2014年に復元されました。

天守門
天守門の櫓の入口で続百名城のスタンプをゲットしました。

天守門


天守門(天守閣から)


天守閣と天守門

天守閣の最上階が見晴台になっています。
作左曲輪跡  井伊谷     三方ヶ原古戦場                   北

北西方向
作左曲輪は、城郭の西北の備えとして作左山にあり、本多作左衛門重次の普請とされています。1579年、重次は屋敷地に城柵を巡らして城の搦手を守る曲輪としました。
井伊谷は、井伊直政の出生地だそうです。

                      富士山

富士山の方向

浜松城というと、家康の居城としての印象が強いです。
家康は、岡崎城に生まれ、桶狭間で今川義元が倒れて以降は岡崎城城主となりました。家康は1570年に本拠地を岡崎城から曳馬城(その後の浜松城)に移しました。そして1586年、家康は浜松から駿府に本拠を移すことになりました。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になります。
そして浜松城を本拠地としていた時期に、武田信玄との間に三方ヶ原の戦いがあり、手痛い敗戦を喫しました。
家康の本拠地時代の浜松城の姿が、下の案内図に示されています。

家康の浜松城
家康在城時の浜松城は、石垣や瓦葺きの建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと考えられているようです。

三方ヶ原合戦の際、家康は命からがら浜松城に逃げ帰りましたが、この程度の城で、よくまあ城ごと粉砕されずに生き延びたものだ、と感心します。

現在の浜松城跡は、天守曲輪を構築する石垣と、天守台の石垣が主要な遺構です。そしてこれらは、家康在城時には一切存在せず、江戸時代以降に形成されたものである、ということになります。

帰りは、市役所南バス停から路線バスを利用して浜松駅に戻り、ちょうどひかりが到着したのでそれを利用して東京まで戻りました。
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箕輪城訪問

2024-11-04 20:36:58 | 趣味・読書
11月3日、群馬県高崎市にある箕輪城を訪問しました。

④郭馬出西虎口

箕輪城は、上越線高崎駅から路線バスで北に向かったところにあります。
往きは、上越新幹線を利用して高崎駅に向かいました。高崎駅からは、群馬バスの伊香保温泉行きを利用します。バスは1時間に1本の間隔です。
箕輪城の百名城スタンプは、お城の近くにあるのではなく、お城から南に位置する箕郷支所に置いてあります。まずは、路線バスを四ツ谷バス停で降り、箕郷支所に向かいます。無事スタンプをゲットしましたが、次のバスまでは1時間近く待たなければなりません。そこで、箕郷支所からお城まで歩いて向かうことにしました。
やっとお城に近づきました。前方に城山が見えてきます(下写真)。

南からの遠望

われわれが到着した最寄りの登城口として、下写真の案内図下端左にある①大手尾根口から登ることにしました。

案内図

②大手尾根口からの登りは、下写真のように林の中を結構な急坂です。

②大手尾根口からの登り


③郭馬出西側の曲輪

⑤郭馬出に西側から向かう口は④郭馬出西虎口です。④郭馬出西虎口には、櫓門が再建されています。平成28年に復元工事が完成、とあります。
⑧大堀切           ⑥大堀切土橋            ④郭馬出西虎口櫓門

④郭馬出西虎口

③郭馬出西側の曲輪から④郭馬出西虎口へは土橋を経由し、④櫓門をくぐって向かいます。土橋の左側は⑧大堀切になっています(上写真)。
発掘調査の結果、郭馬出の西虎口で、門跡を確認しました。礎石の配置から二階建ての櫓門と推測され、関ヶ原の戦い以前では、確認されている中で関東地方最大規模の門跡になります。門の柱を据える礎石は全部で八石あり、屋根から落ちる雨水を受けるための排水用の溝も極めて良好に残っていました。平成28年に復元工事が完成しました(下写真)。

④郭馬出西虎口櫓門

④櫓門をくぐって⑤郭馬出に至ります。⑤郭馬出とその北の⑦二の丸の間には⑧大堀切が構築され、⑥大堀切土橋を通って⑦二の丸に向かいます。

⑤郭馬出から⑥大堀切土橋、⑦二の丸を見る

⑥大堀切土橋を経由して⑦二の丸に至りました。

⑦二の丸から⑥大堀切土橋、⑤郭馬出を見る

二の丸の東端からは、はるか赤城山を遠望することができます(下写真)。
   武尊山               赤城山

赤城山

⑦二の丸の北、本丸南虎口から⑩本丸に至ると、⑨箕輪城跡の石碑が建っています。

⑨箕輪城跡の石碑


⑩本丸


案内図

われわれは、本丸南虎口から⑩本丸の東側を経由して本丸北虎口に至りました。
今回、われわれは高崎駅の総合案内所と箕郷支所でお城のパンフレットをもらい、それに基づいてお城を歩きました。出発前にネットで調べたとき、木橋の写真を見た覚えがあります。しかしパンフレットには、木橋について一切記載がありません。おかしいなと思いながらも、木橋を見ないままにお城訪問を終えました。
帰宅してから調べたところ、やはり木橋は存在していました。⑪本丸西虎口に木橋が再建されていたのです。たとえばこちらの新聞記事「本丸・蔵屋敷間木橋が完成」、小渕優子議員のブログによると、2022年3月に、木橋が完成した記事が掲載されていました。上の案内図でも、⑪本丸西虎口に張り紙で「木橋」との修正がされていました。
われわれが渡されたパンフレットは、木橋ができる前に編集されたもので、木橋の記載がなされていないのでしょう。われわれにとっては残念なことでした。


⑫本丸北虎口の土塁

⑩本丸はその周囲を土塁と堀で囲まれています。上写真は⑫本丸北虎口の土塁です。下写真は、⑬本丸と、その北の⑭御前曲輪の間に造られた堀です。

⑬本丸と⑭御前曲輪の間の堀

⑭御前曲輪に至りました。この曲輪には、戦没者を祀る碑がいくつも建てられています。

⑭御前曲輪

⑭御前曲輪の⑮北側は、深い堀に囲まれています。われわれはその深い堀に降り立ちました。下の写真は、堀の底部から⑭御前曲輪の方向を見ています。写真中央に見える階段を上ると⑭御前曲輪に至ります。

⑭御前曲輪から⑮北側の堀に降りる


⑯新曲輪

城の北端の東は⑯新曲輪の広い敷地です(上写真)。南に下ると⑰搦手口に至ります(下写真)。


⑰搦手口

⑰搦手口から再度城域に入り、南に下ります。⑱椿名尾根を下る道は椿の路と呼ばれているようです。

⑱椿名尾根を⑲椿名口へ降りる

そして、われわれの終着である⑲椿名口に至りました。ここには、路線バスの城山入口バス停があります。1時間に1本のバスの到着を待ち、バスに乗って高崎駅に戻りました。
東京まで新幹線で移動しようとみどりの窓口に行ったのですが、すごい待ち行列になっています。そこで帰りは在来線の上越線を利用することにしました。
行ってみると、高崎駅始発の湘南新宿ラインが運行しており、乗り換えなしで新宿まで行けることが分かりました。せっかくなので、ホームでグリーン券を購入し、グリーン車で帰ることにしました。

さて、箕輪城の来歴です。
箕輪城は、榛名山の東南麓に広がる独立丘陵の中心部に位置します。城の西側は榛名白川に浸食された河岸段丘、南側は椿名沼と呼ばれる湿地帯になっています。
戦国時代中期の1500年ころ、箕輪城は当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれました。
2代あとの長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、名君と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至りました。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されましたが、これをよく退け安定した地位を保ちました。
長野氏は、武田氏の侵攻に対して、この箕輪城を本拠にして最後まで抵抗しました。しかし、長野業正死後、1565年頃には箕輪城は孤立していき、1566年武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し長野業盛(業正の子)は自刃して果てました。
その後は、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏といった戦国大名の拠点として、各大名の有力家臣が配属されました。特に最後の城主井伊直政は、徳川家康の家臣の中では最大石高の12万石で封じられています。1598年、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になりました。
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八王子城訪問

2024-11-01 17:48:06 | 趣味・読書
10月26日、八王子城を訪問しました。
電車の最寄り駅は高尾駅です。土日には、高尾駅から八王子城跡までのバスが1時間に1本、運行しています。われわれはこのバスを利用しました。

曳橋と虎口

バスを降りると①ガイダンス施設があります。ここで百名城のスタンプをゲットします。

案内板


模型
八王子城はおおまかに、城下町にあたる「根小屋地区」、城主北条氏照の館などがあった「居館地区」、戦闘時に要害となる「要害地区」に分けられます。
ガイダンス施設を出発し、まずは「居館地区」の御主殿跡を目指します。
城山川沿いを歩き、橋を渡ります(下写真)。

② 大手門址手前の橋
この橋を渡ると、大手門跡の広場です。さらに坂道(古道)をたどると、③曳橋に至ります。

③曳橋とその下を流れる城山川、対岸の高台は御主殿跡

この城の建造当時は、この位置に簡単な木橋をかけ、その橋を壊すことで敵の侵入を防ぎました。


③曳橋


③曳橋と④虎口

③曳橋を渡ったところは、石垣で囲まれた④虎口となっており、右折-左折-左折を繰り返して⑥御主殿の⑤入口に至ります。

④虎口


④虎口

⑤御主殿入り口の冠木門は、当時の門をイメージして建てられています。

⑤御主殿入り口の冠木門

⑥御主殿は、氏照の館などがあったとされます。発掘調査の結果、建物の礎石や水路跡、多数の異物が出土しました。

⑥御主殿跡

こうして御主殿跡を辿り、曳橋の下を城山川に沿って下りました。
管理棟まで下り、ここから要害地区の本丸に向けて、⑦本丸方向入口から山を上ります。

⑦本丸方向入口


石垣


石段


⑧金子丸標識

金子丸は、金子三郎左衛門家重が守っていたといわれている曲輪です。尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされています。

⑧金子丸?

山頂の本丸方向へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で、柵門跡と呼ばれています。名前の由来などは不明です。

⑨柵門跡


柵門跡近くの石段


⑩高丸


遠望

こうして、本丸直下の⑪八王子神社に到着しました。
北条氏照は、八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神としました。これが「八王子」の地名の起源とされます。八王子権現が祀られている神社が八王子神社です。

⑪八王子神社

ここ本丸は、横地監物吉信が守っていたといわれています。
八王子神社の横にある小さな社(⑫横地社)は、落城寸前に奥多摩へ落ち延びた横地監物が祀られています。もともと、東京都奥多摩町にありましたが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移しました。

⑫横地社

⑪八王子神社の横に、⑬本丸に向かう狭い石段が続いています。

⑬本丸へ向かう石段

石段を登り切ると、そこが⑬本丸跡です。城の中心で、最も重要な曲輪ですが、平地があまり広くないので天守閣などの大きな建物はなかったと考えられます。

⑬本丸跡

こうして、居館地区の御主殿跡に引き続き、要害地区の本丸跡にも到達しました。
ここからは元来た道を下ってゆきます。
八王子城跡のバス停では、ちょうど1時間に1本のバスが出発する直前でした。このバスに飛び乗って高尾駅まで帰り着きました。

八王子城の来歴です。
八王子城を築城した北条氏照は、もともとは八王子城の北東に位置する滝山城を守っていました。1569年に甲斐の武田信玄が上野から武蔵に侵入して滝山城を攻撃した際にも守り抜いたようです。
その後、氏照は甲斐を重視して八王子城の築城に取りかかり、その完成後、1587年までに滝山城から八王子城に拠点を移してきました。
豊臣秀吉の関東制圧の一環で、1590年6月23日、前田利家・上杉景勝軍に攻められた落城しました。この八王子城落城が決め手となって、本拠の小田原城は開城、氏照はこのとき小田原に籠城中で、兄の氏政とともに城下で切腹し、北条氏は落城しました。
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