弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

観音寺城訪問

2024-07-18 12:22:01 | 趣味・読書

観音寺城 大石垣

7月14日、安土城に引き続き、観音寺城を訪問しました。

安土城のある安土山と、観音寺城がある繖山(きぬがさやま)は、連山になっています。二つの山の結び目になっている最も低い位置(峠)の直下が、JRのトンネルです。そして、安土山-繖山連山は、その四周360°が平地で囲まれており、琵琶湖東部の鈴鹿山脈や伊吹山地と切り離されています。観音寺城は原生林の中にありますが、クマ出没の危険性は少ないと判断しました。

まずは、信長の館近くの文芸の郷レストランで昼食です。私は“安土天下鶏雑炊膳”をいただきました。「安土特産の鶏と卵を使った雑炊と、鮎の佃煮、赤こんにゃく、えび豆など、地元名産品を一度にお楽しみいただけます。」とのことです。
昼食のあと、電話でタクシーを呼び、観音寺城へ向かいます。
われわれは高齢なので、歩く距離、歩いて登る標高差をできるだけ少なくすることが肝要です。観音寺城へ行くには、まずは近くの観音正寺に到達する必要があります。観音正寺に南から向かう表参道は、石段の標高差が半端ないです。さらに今回は、雨で林道が通行止めになり、普段よりさらに低い位置から石段を歩いて登る必要があったようです。一方、観音正寺に北から向かう裏参道(五個荘)は、ほぼ観音正寺の標高までタクシーで到達することができます。タクシーで裏参道を登ってもらいました。
ただし、タクシーは山頂駐車場までで、そこから観音正寺までの700mは徒歩を強いられました。標高差がなかったのが幸いですが。


観音寺城地図

上の案内板の地図にあるように、観音寺城の郭は、標高433mの繖山(きぬがさやま)観音寺山の山頂付近に構築されています。観音正寺裏参道の山頂駐車場は、上の地図の右端付近です。そこから、赤線の道をたどって観音正寺の「現在位置」まで到達します。

観音寺城地図(拡大図)


① 観音正寺
家内は安土城の往復で体力を使い果たしたので、ここから観音寺城へは私1人で向かうことにしました。
ここから先、観音正寺の境内から観音寺城へ行く道の入り口がよくわかりません。観音正寺北端のお堂(上写真)の裏手に回ると、下の方に登山道が見えます。そこに降りてみました。
道は、上の拡大図の紫の道が対応しています。この道をたどると、下写真の分岐に至ります。拡大図の紫の道と緑の道の分岐です。まずは右の道を本丸方向に向かいました。

② 本丸と平井丸の分岐
この上り坂に、下写真のような大石段が残っています。

③ 本丸への大石段
大石段を登り切ると、そこは本丸跡です。

④ 本丸


⑤ 本丸奥の石垣


石垣

大石段を下って、元来た道の分岐に至ります。平井丸方向の道は、岩だらけの完全な登山道の下りです。ただし、ちょっと降りると平坦な道になりました。しばらく歩くと平井丸です。

⑥ 平井丸
平井丸からさらに池田丸方向に進みます。池田丸に至りました。

⑦ 池田丸

せっかくここまで来たので、さらに進んで大石垣へ行くことにしました。
ここから先は岩だらけの急な登山道の下りとなります。
大石垣のてっぺんとおぼしき位置に到達しました。しかし、下は絶壁になっており、石垣は見えません。そこでさらに、この絶壁の右側の道を下ってみました。しばらく降って振り返ると、下写真の石垣が目に入りました。これが「大石垣」でしょうか。

⑧ 大石垣


⑧ 大石垣

これで、すべての目的を達したので、元来た道をたどり、観音正寺に帰り着きました。
驚くべきことに、観音正寺を出て観音寺城を探索する間、誰1人出会う人がいませんでした。日本百名城の一つに数えられているのですが、さすがに難所として敬遠されているのでしょうか。

観音寺城について、観音正寺の案内板には以下のように説明されています。
『宇多源氏の血統を曳く佐々木六角氏は、平安時代に近江へ土着したのち、鎌倉時代初期から戦国時代末期まで近江の守護をほとんど独占した名門です。この六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。
南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺の城郭」と「太平記」に記されたのが初見です。その後、観音寺城が当主の居住する城として石垣を多用した姿に整備されたのは、修築の記録が集中する1530~50年代のことと考えられます。
観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。昭和45年の発掘調査では茶器や中国産の陶磁器などが豊富に含まれていました。
永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎・義治親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。そして天正7年(1579)に安土城が完成したことによって、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。
平成26年より、豊かな杜づくり隊や地元企業が中心となり、地元有志の手で伝御屋形跡周辺と、そこから大石垣までの散策道(旧追手道)の整備を行いました。また、整備された散策道沿いを中心に、緑の募金を活用した植樹が行われており、将来は季節感のある遊歩道となる取り組みがされています。観音寺城跡のすばらしさを知っていただき、これを後世に伝えていくために、多くの方に、観音寺城を訪れていただきたいと願っています。』

上記説明書きでは、観音寺城を巡るための散策道が整備されているように書かれていますが、私が今回回った限りでは、とても整備されているとは言えず、歩きにくい山岳路のままです。草が伸び放題で、それは大石垣の上端、下端の草の伸び方からも明らかです。
以上のような状況にあることから、ちょっと回って観音寺城の全貌を窺い知ることは困難です。
日本城郭協会が百名城の一つに選んでいるくらいですから、重要なお城であるとの扱いと思います。そうであれば、より親しみやすく、歩き回りやすいように整備していただくとよろしいかと思います。
地図を詳細に観察すると、山の至る所に石垣が隠れているようです。その全体が見えるようになると、お城の価値は大きく上がるでしょう。

そもそも、ふもとからの登城ルートがよくわかりません。
下の地図で、伝御屋形跡から大石垣にいたる青色の道(旧追手道)が記載されています。
こちらのページによると、普通は「追手道」と「大手道」は同じであるところ、観音寺城に限ってはそうではなさそうです。
下の地図で、「本谷(見付谷)道」が、旧大手道だった可能性があります。しかしこの道は、現在は全く消滅しているのでしょうか。そして、大手道とは異なる追手道について、最近登山ルートが整備され、上り下りできるようになったようです。

大石垣は、追手道を経由して攻め上る敵からの防御のために造られたのでしょうか。それにしても大石垣は高さが10mに近く、大規模です。険しい山中に、このような大規模な石垣を築くのは大変でしょう。
安土城郭資料館で受け取った観音寺城 佐々木六角解体新書(100円)によると、繖山(きぬがさやま)は山自体が石の産地でした。本丸や池田丸など、広い平地を造るために山を削る際に排出する石を利用することで、大石垣を築くことができた、とされています。


観音正寺には、上写真のような石積みがあります。観音寺城 佐々木六角解体新書によると、「天然石群」ということで、やはり繖山(きぬがさやま)から石が豊富に採取できることに由来しているのでしょうか。

観音寺城 佐々木六角解体新書には、佐々木六角氏の由来についても記載されています。
宇多天皇の血をひく佐佐木信綱が死んだ後、4人の息子の間に相続争いがありました。三男・泰綱は近江守護と六角東洞院を相続して「六角氏」となり、長男・重綱は坂田郡大原庄を相続して「大原氏」となり、次男・高信は高島郡田中郷を相続して「高島氏」となり、四男・氏信が北近江と京都京極高辻の館を得て「京極氏」となりました。このような経緯で佐々木氏から四つの名家が誕生しました。
鎌倉幕府滅亡で六角氏は一時没落しましたが、泰綱から三代下の六角氏頼が南北朝の戦いで活躍。
氏頼の四代下の高頼は応仁の乱で西軍側につき、戦国大名として領国支配を固めました。高頼の息子の定頼は、将軍・足利義晴を支援して中央政治に積極的に介入。摂津国まで遠征し三好長慶と戦ったり、北近江の浅井氏を従属させるなど、六角氏の全盛期を築きます。家臣団を本拠である観音寺城に集結させるなど、内政面でも辣腕を振るいました。
定頼の息子・六角義賢(承禎)は、信長の近江侵攻に対し表向き白旗を挙げるも、甲賀に潜伏し、たびたび反撃するなどしぶとく、晩年は天下人・豊臣秀吉の御伽衆になりました。

観音寺城 佐々木六角解体新書には、六角氏をめぐる人間関係も記されています。
日本史では、蒲生氏郷が出てきます。蒲生氏は六角氏の家臣でした。
浅井長政の母は六角氏の人質だったので、長政は観音寺城で生まれました。
朝倉義景は、六角氏綱の次男だったとの説が近年生まれているようです。

六角氏と観音寺城、今までは何の知識もありませんでしたが、実は日本史の重要な一部を構成していることが理解できました。
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安土城訪問

2024-07-17 14:53:41 | 趣味・読書
7月13~15日の三連休、安土城、観音寺城、彦根城の3つのお城を訪問しました。
13日(土)に大阪で用事を済ませ、13,14日の2日間、京都のホテルに宿泊しました。14日はJRで安土駅まで移動し、その日のうちに安土城と観音寺城を訪問しました。15日はJRで彦根駅まで移動、彦根城を訪問し、そのあと東京まで帰ってきました。
まずは、安土城訪問記を記します。

《安土城郭資料館》
JR琵琶湖線を安土駅で下車します。
駅の南側に、安土城郭資料館があります。今回の安土城と観音寺城の百名城スタンプは、両方ともそこでゲットすることができます。まずはスタンプをゲットしました。

この資料館で、下の写真を撮影すると共に、資料を入手しました。

安土城断面


安土城断面


織田信長の南蛮甲冑

《安土城》
資料館から安土城まで、タクシーで移動します。資料館の方が、電話でタクシーを呼んでくださいました。

われわれの目標は、天主跡の往復です。下の地図によると、ふもとから天主跡まで、延々と石段を登っていくことになります。

安土城地図
上の図は、受付付近の表示板を撮った写真です。その拡大図を下に示します。

安土城地図(拡大図)
上の拡大図に丸文字を追記しました。下の文章の丸文字と対応します。


① 安土城大手道
大手道の石段は、直線状に延々と続きます。直線の石段が終わると、さらにジグザグの石段です。


石段の石仏
石段を構成する石として、石仏を利用したもの(上の写真)が何カ所か存在します。


② 天主へ向かう石段です。


天主跡周辺地図
やっとのことで本丸までたどりつきました。本丸の先が天主です。


③ 本丸跡


本丸跡から天主台


④ 天主台
天主台には、礎石が残っています。


⑤ 天主台から遠望

こうして、天主まで到達し、来た道を戻りました。

安土城は、織田信長が築いた有名な城ですが、現在は、石段と石垣が残るのみです。今回、自分の足で天主まで登り切り、自分の身体で安土城を実感しました。
安土山は標高が199m、ふもとからの標高差は110m程度とのことです。今回、標高差110mを登って降ったわけですが、大変な重労働でした。
この安土城、天主閣が壮大でかつ斬新であることで有名です。そのような特徴を具備しているのですから、信長も、標高差110mの山の上になぞ構築しなくても良かったのではないでしょうか。信長と家臣団、お濃の方とお付きの者達が、毎日この山を上り下りしていたとしたら、大変ご苦労なことでした。

安土城は、本能寺の変で信長が倒れた直後、炎上してすべてが失われました。原因は不明で、織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀軍による放火、という説などがあるそうです。

このあと、観音寺城に移動する前に昼食の予定です。安土駅の資料館でうかがったところでは、近くの信長の館のそばにあるレストランしか利用できないようです。安土城から歩いてレストランまで移動しました。

安土城訪問の後、観音寺城への行き帰りもタクシー移動を予定しています。資料館の方に、情報をうかがいました。観音寺城の近くに位置する観音正寺が目標となります。レストランでタクシーを予約すると、ほどなくしてタクシーが到着しました。

以下次号
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掛川城訪問

2024-06-30 14:29:12 | 趣味・読書
6月29日(土)、掛川城を訪問しました。
東京-掛川間を新幹線こだまで往復する日帰りコースです。

12時過ぎ、掛川駅に到着しました。まず観光案内所(ビジターセンター「旅のスイッチ」)を訪問します。掛川でのおいしい食事についてきいてみると、やはりうなぎとのことです。当初は、掛川城訪問の後に食事をするつもりだったのですが、うなぎ店は1時半ごろにはお昼の部を終了するとのことです。そこで、まずは昼食をとり、そのあとでお城を訪問することにしました。
掛川城までの順路沿いで、甚八うな専が隣り合ってあります。まず甚八に到着すると、待ち行列が並んでいる上に、すでにお昼の部は終了していました。その隣のうな専は、並ぶことなく席に着くことができました。
琵琶湖の長浜では、うな重のボリュームがわれわれには大きすぎたので、ここでは一番下の値段のうな重を注文しました。

うな専
上の写真のように、うなぎが1枚半でした。長浜は3枚でしたが、われわれには1枚半がちょうど良かったようです。

掛川駅前の北口ロータリーからまっすぐ北上すると、掛川城の券売所に至ります。それに対してわれわれは、一つ東の道を北上したようです。大手門に至りました(下写真)。掛川駅からまっすぐ北上していたら、大手門は見逃しているところでした。

大手門
大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。


大手門番所
大手門をくぐるとすぐ、大手門番所があります。江戸時代末期に建てられたこの番所は、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所でした。この番所は、掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられました。現在残されている建物は、嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊後、安政6年(1859年)に再現されたものです。


逆川(さかがわ)

下の2枚の地図で、白黒は現在、色鉛筆は当時を意味しています。

掛川城地図


掛川城地図


掛川城ジオラマ


掛川城鳥瞰図

券売所でチケットを購入して城内に入ると、まず四足門をくぐります。

四足門
調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。門の内側には、入場者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした。


内堀

主な見どころは天守閣と御殿です。ちょうど団体客が天守閣を訪れていたので、われわれはまず御殿を訪問することにしました。
御殿は、城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。現存する御殿は、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所しかない、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。

御殿


御殿


御殿

天守閣は、嘉永7年に起こった安政の大地震により損壊し、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年に廃城となりました。
掛川市民の掛川城天守再建への熱意と努力は平成6年に実を結び、天守は140年ぶりに木造で再建されました。

天守閣


天守閣

   四足門              太鼓櫓             本丸広場

天守閣から南方向

       大日本報徳社大講堂
二の丸美術館                      掛川城御殿

天守閣から東方向


天守閣内部の階段


太鼓櫓と天守閣を望む

掛川城由来
掛川城は戦国大名今川氏の重臣朝比奈氏の居城でした。今川氏の滅亡後、徳川家康の家臣が入城しました。家康が関東に移ると、天正18年(1590)に豊臣秀吉配下の山内一豊が入封しました。一豊はこの城を三重の天守をもつ近世城郭へと大々的に改修しました。
関ヶ原の戦いの後、山内家は掛川2万石から土佐20万石にと大出世し、その後、掛川城には多くの譜代大名が入りました。

天守閣に、山内一豊騎馬像があったので写真に収めました。

山内一豊騎馬像
天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻(千代)が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談があります。千代の嫁入り道具の鏡の柄の中に金が仕込まれており、これを取り出して馬を買ったというものです。この馬の働きで敵将を討ち取り、敵将が所持していた銘槍を奪って一豊が自分のものにした、という話が「功名が辻」に出てきました。
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五稜郭・志苔館訪問

2024-06-26 16:43:48 | 趣味・読書
北海道に出かける用事があり、6月21日(金)、函館の五稜郭と志苔館を訪問しました。
諸般の事情により、6月21日の朝に千歳のホテルを出発し、日帰りで五稜郭と志苔館を訪問し、その日のうちに新さっぽろのホテルに帰着するという行程です。函館への往復にはJRを利用しました。今回は私の単独行動です。

五稜郭は函館駅から北の方角に位置します。志苔館は、函館駅の東方、函館空港の近くに位置しています。
函館駅に到着すると、まずは駅の観光案内所を訪れました。志苔館往復のルートを検討するためです。
ヤフーの路線で検索すると、函館駅から路面電車で終点の湯の川まで行き、そこから徒歩40分で志苔館にいたる、というルートしか出てきません。観光案内所では、91系列のバスが運行していることを知らされ、時刻表をいただきました。ただし、1時間~2時間に一本しか運転されていません。
駅ビルの2階で昼食のラーメンを食しながら時刻表を確認したら、今から10分程度でバスが出発することが分かりました。そこで、訪問の順番として、まずは志苔館に向かうことにしました。

志苔館は、函館空港の南側、海岸の近くに位置しています。観光案内所では、志海苔の停留所で降車するように言われています。
さて、志海苔の停留所でバスを降ります。ここからが大変でした。志苔館の入り口に向かうルートが分からないのです。停留所は海岸近くにあり、その北側が海岸段丘で、海岸段丘を上がったところに志苔館の土塁があることは見て分かります。北へ向かって登る最寄りの路地(坂)をいくつかトライしましたが、途中で行き止まりになります。結局、バス停から西に少し戻ったところの川に沿って歩くと、やっとのことで志苔館の入り口を見つけることができました。

《志苔館跡》

志苔館平面図
入り口の案内に以下のように記載されています。
『志苔館跡は、函館市の中心部から約9km離れた標高25mほどの海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ、その外側には壕が巡らされている。
郭内は、東西70~80m、南北50~65mで、約4100平方mの広さがある。
また、館跡の正面にあたる西側には、二重に堀が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
この記述によれば、康正2年(1458)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。
戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討ち死にしたといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。』


志苔館断面図

志苔館入り口の手前に、木戸と柵が巡らされ、その先に石碑が建っています(下写真)。

木戸横の説明書きに以下のように説明されていました。
『志苔館和人殉難御霊      慰霊碑
   阿伊努(あいぬ)悵魂御霊
由緒
下北半島、津軽方面において南北朝の戦いに敗れし南朝方武士達、蝦夷地にのがれ移り住み、道南の処々に館を築きてありしが、康正2年(1458)志苔館付近にて阿伊努(あいぬ)の蜂起あり。
志苔館を始め道南の処々の館は次々と落とされ、わずか上磯の茂別館と上ノ国の花沢館が残るに至った。
ここにコシャマインの戦いに於いて亡くなりし館の主、和人殉難御霊、阿伊努(あいぬ)悵魂御霊双方を同一座にお祀りしたものであります。』

さて、志苔館の土塁の内側を歩き回りました。草ぼうぼうの原っぱで、周囲が土塁で囲まれているだけです。

土塁と右側は館の内部


館の内部から外側の土塁を望む

土塁の内側にはスタンプ設置場所はありません。土塁の外の四阿に、やっとスタンプを見つけました。

土塁外の四阿


四阿のスタンプボックス

以上の説明からもわかるように、志苔館は、南北朝時代に設けられた、周囲を土塁で囲んだだけの館跡です。1512年のすぐ後には廃城になっています。それから500年、よくぞ保存されていたものだと感心します。

志苔館訪問は以上の通りです。
これから、五稜郭に向かわなければなりません。
坂を下りてバス停留所に至りました。次のバスは1時間以上後です。タクシーを呼ぶことにしました。電話で予約したのですが、タクシーはなかなか来ませんでした。炎天下をずいぶん待たされ、やっとタクシーが到着しました。タクシーで五稜郭に向かいます。

《五稜郭》
五稜郭に到着しました。私は2度目の訪問です。時間に余裕がないので、とにかくスタンプに直行し、そのルートの写真撮影のみに限定しました。

外堀


二の橋


表門


箱館奉行所庁舎

100名城のスタンプは、五稜郭中心部にあるお休み処に設けられていました。


外堀


内堀

帰りの特急電車の出発時刻の関係で、今回は五稜郭タワーには登りませんでした。これでは、五稜郭の全体が全くわかりません。そこで、14年前に私が五稜郭を訪問した際の、五稜郭タワーから撮った写真を以下に掲載しておきます。私の別ブログ「9月20日・函館 2010-11-03」で記事にしたものです。





北海道には、200名城のうちの5箇所があります。そのうちの2箇所について、今回スタンプをゲットすることができました。
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野尻抱影著「宇宙のなぞ」

2024-06-15 13:23:26 | 趣味・読書
私(1948年生まれ)は小学生の頃、「宇宙のなぞ」という本を愛読書にしていました。著者名は忘れましたが。

この6月、日経新聞の「私の履歴書」はノーベル賞授賞学者である本庶佑氏(ウィキ)(1942年生まれ)の物語です。
6月3日の記事「私の履歴書(3)生意気な小学生」で、以下の内容が紹介されていました。
『6年生の夏休み、野外学習の場に理科の先生が天体望遠鏡を持ってきた。のぞき込むと澄み切った夜空に浮かぶ土星のきれいなリングが幾重にも見えた。さすがにこれには仰天した。
思えばこれが自然科学に魅了された最初の出来事だった。「あの向こうはどうなっているのか。宇宙の果ては一体どこにあるのか」
野尻抱影が子ども向けに書いた「宇宙のなぞ」を読みふけった。岩波書店が出していた絵刷りの雑誌「科学の学校」も愛読書だった。
本を読んだり図鑑を眺めたりして、太陽フレアや地動説、火星の運河の有無などについて独学した。小学校の卒業文集には、将来、天文学者になりたいと記した。』

「宇宙のなぞ」・・・私が小学生時代に愛読していた本と同じ題名です。同じ本かどうか、確かめたくなりました。
ネット検索すると、古書店で3000円で販売している記事を見つけました。さっそく入手しました。

野尻抱影著「宇宙のなぞ」偕成社
昭和30年(1955)初版
昭和35年(1960)10版

さて、私が小学生の頃に愛読していた「宇宙のなぞ」と同じ本か否か。私は当時の本の中で一箇所だけ記憶している映像があります。「ノモンハン事件」の挿絵です。
探したらありました(143ページ)。

地球から星までの距離を「光年」で表すことの説明です。
「ヒコボシは16光年、タナバタは27光年、ミツボシは500光年、北極星となると1000光年、天の川の中のとおい星は7,8万光年という遠さです。」
そして、挿絵の説明として、
「今わたしたちのながめている星の光は、いつごろ輝いた光でしょうか?」として、
左から2つめの挿絵の説明として、
「ひこぼし 昭和14年(1939)ノモンハン事件がおこる」
としています。
これで、私が愛読していた「宇宙のなぞ」が、本庶佑さんが読みふけった本と同じであることが確認できました。

私が「ノモンハン事件」の存在を知ったのはこの本の挿絵からです。これがなければ、1960年当時の小学生がノモンハン事件の存在を知ることはなかったでしょう。
また、著者の野尻抱影氏が、1939年頃に起こった事象として、ノモンハン事件を取り上げたということは、当時の大人にとってノモンハン事件は強烈な印象で記憶されていたということでしょうか。
挿絵は、日本軍と思われる兵士が軍刀をかざして切り込み、ソ連軍と思われる戦車が燃えています。ノモンハン事件の中で、日本軍歩兵の火炎瓶攻撃でソ連軍のガソリン戦車を多数炎上させた事象を表しているのでしょう。このブログでは、ノモンハン事件での火炎瓶攻撃 2021-09-14で記事にしました。

ところで、ノモンハン事件が起こった1939年にひこぼしから発せられた光は、16年後の1955年に地球に達します。「宇宙のなぞ」の初版が発行された年です。私が今回購入した10版は1960年発行ですから、その光はとっくの昔(5年前)に地球に到着済みです。

最近の小学生が、著書「宇宙のなぞ」で得られるような知識をどのようにして得ているのか、今度孫(中学生)に会ったら聞いてみることにします。
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小谷城跡・長浜城訪問

2024-06-11 14:19:11 | 趣味・読書
6月9日(日)、滋賀県長浜市の小谷城(おだにじょう)(ウィキ)を訪問しました。
前日、大阪での所要を済ませた後に長浜駅近くのホテルに宿泊し、当日朝、JRで最寄り駅である河手駅に移動しました。
今回の小谷城跡訪問で最大の問題点はクマでした。クマとの遭遇を防ぐためには、小谷城跡の訪問を諦めるべきか否かという問題です。小谷城跡に登らない場合、近くの小谷城戦国歴史資料館で100名城のスタンプだけ押して退散することとなります。
ネットを調べても結論が出ません。現地の人たちの意見を聞いて決めることにしました。
まず、宿泊したホテルのフロントで訊きました。「大丈夫とまでは言い切れない」との回答です。
次に長浜駅の観光案内所で聞きました。やはり「ゼロとはいえない」というお答えです。
3番目は河手駅の観光案内所です。無人駅のようですが、観光案内所にはおじさんが詰めていました。聞いたところ、「心配することはない。しゃべったりクマ鈴を鳴らしながら行けば大丈夫」とのことでした。
最後は可手駅から乗車したタクシーの運転手さんです。やはり「心配ない」とのことでした。タクシーで番所跡まで到着すると、駐車スペースに何台かクルマが駐まっています。「何組かが登っているようなので、クマも近づかないのではないか」ということです。
私は、北海道で使用したクマ鈴を今回持参していました。リュックの背負いひもにくくりつけていたのですが、河手駅で調べたらなくなっていました。どこかで外れて紛失してしまったようです。これはがっかりです。クマ鈴が使えないので、話し声でこちらの存在をクマに伝えなければなりません。

下の絵図は、絵図の右端近く「現在地 番所」と記載されたところにあります。
100名山のスタンプは、絵図のやや右下の小谷城戦国歴史資料館に置いてあります。一方、小谷城跡を訪問する際、クルマで「現在地 番所」まで登ることができます。絵図の右端「大手道」と書かれている付近から小谷林道が山中に分け入り、終点が「番所」になっています。
河手駅で乗ったタクシーで、まず小谷城戦国歴史資料館に行ってもらい、一時下車してスタンプを押印し、そこから戻って小谷林道に入り、番所まで行ってもらいました。
そこから歩いて、絵図の中央やや上の「本丸」までが目標です。

小谷城跡絵図

小谷林道入り口で標高が100m、番所の標高が300mです。もしこのルートでタクシーを使わなかったら、番所までで標高差200mを登らなければなりません。高齢者のわれわれには負担です。本丸は標高350mです。番所までタクシーで移動したわれわれは、番所から本丸まで標高差50mを登るだけで到着できます。
本丸よりさらに上に行く場合、山王丸は標高398m、そこから六坊に下ると360m、さらに大嶽(小谷山)が495mです。

下の写真は、河手駅でわれわれを迎えてくれる浅井長政公とお市の方の銅像です。

浅井長政公・お市の方像

タクシーに乗車し、まずは小谷城戦国歴史資料館で途中下車して100名城スタンプを押印しました。下の写真を一枚撮影しただけで退散しました。

小谷城戦国歴史資料館

そして、戦国ガイドステーション付近で林道に入り、林道の終点である番所にてタクシーを降りました。上の絵図とともに、下写真のような看板がわれわれを脅かします。

クマに注意

番所から御茶屋跡、桜馬場、大広間、本丸までの途中、下のような鳥瞰図が置かれていました。

番所鳥瞰図
番所
小谷城の主要部への入り口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側は石垣上に一段高い平地がある。


お茶屋から桜馬場までの鳥瞰図


本丸・大広間鳥瞰図


御茶屋跡
番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。


カモシカ注意


馬洗池
馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったという。

鳥瞰図によると、馬洗池のすぐ近くに井戸があります。この井戸からくみ上げた水を馬洗池に満たしたのでしょうか。いずれにしろこの山城が水源を持っていたことが明らかです。
籠城戦においては、食料は備蓄するとして、水が得られることが最重要事項です。小谷城において、このような高地(麓から標高差200m以上)において井戸から水が得られたということが、防備堅固な山城の重要ポイントでしょう。


首据石
黒金門跡の手前にあり、天文二年(1533)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。


浅井家及家臣佛・・


大広間
別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m、幅約35mで全面に高さ約4mの石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。

大広間の一番奥に、石垣が確認できます。本丸跡の石垣です。


本丸跡の石垣
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。


本丸跡

本丸まで到着したわれわれは、ここでUターンして下山します。番所まで至り、電話でタクシーを呼びました。しばらくして到着したタクシーは、登りで乗車した運転手さんと同じ人でした。
タクシーで河手駅まで、そこからJRで米原駅、新幹線で東京へと帰途につきました。

小谷城跡を登っていくと、各所で周囲の展望が開けます。
まずは、伊吹山方面の展望です。
        伊吹山
               大依山                       横山


           伊吹山
                   大依山             横山

伊吹山は、標高1377m、岐阜県と滋賀県の県境に聳え、滋賀県の最高峰です。
大依山は、「姉川の合戦」を前に、浅井・朝倉軍が軍議を開いた山です。砦跡が随所に残ります。
横山は、小谷の支城、横山城があった山です。その手前に流れる姉川を挟んで、元亀元年(1570)6月、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦いました。
姉川の合戦で織田方が勝利した後、信長は横山城を築城し、木下秀吉を配置して前線基地としました。

次に琵琶湖方面です。
       長浜城・彦根城方面                 虎御前山


               比良山系       竹生島     山本山城跡
虎御前山                          丁野山城跡
                    山崎丸   中島城跡      福寿丸

姉川の合戦の後、浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進しました。
山本山城は浅井氏の支城で、重臣阿閉貞行(あつじさだゆき)が守備していましたが、後に織田方に寝返りました。
丁野山城、中島城は浅井氏の支城でした。
山崎丸は、朝倉氏の重臣山崎吉家が守っていました。
福寿丸は浅井福寿庵が守っていました。

阿閉貞行の寝返りにより山本山城が手に入ったことで、織田方は小谷城の包囲が可能になり、越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功しました。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣しました。

1573年(天正元年)、信長は自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功しました。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました(刀根坂の戦い)。信長は越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、虎御前山に帰陣しました。翌日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功しました。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害しました。さらに本丸も落ち、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡しました。
その後、小谷城は羽柴秀吉に与えられましたが、秀吉は1575年(天正3年)、北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。

今回、土曜に大阪で所用を済ませ、その日は長浜駅近くのホテルに宿泊し、日曜に小谷城を訪問しました。
長浜駅?と聞いて長浜城を思い浮かべました。そう、上記の通り、浅井氏が滅んだ後に羽柴秀吉の居城となった城です。
調べたら、立派な天守閣も再興されているではないですか。こんな有名な城で天守閣もあるのに、100名城、続100名城のいずれにも含まれていないのはなぜでしょうか。

土曜日、長浜駅を降り立ち、ホテルへの移動の途中で長浜城を訪問しました。

まずは、長浜城天守閣に向かって、ひょうたん状の切り抜きを有するモニュメントがあります。皆さん、切り抜きを通して天守閣が映り込むように写真を撮影しています。私も便乗しました。

ひょうたんの向こうに長浜城

天守閣に向かいます。
本日は時間が遅いので、天守閣と接続する長浜城歴史博物館は閉まっていました。

長浜城


長浜城

長浜城についてウィキで調べて見ました。上の小谷城との関係の深い人たちが出てきました。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)がこの地に長浜城を築城しました。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領しました。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加し、負けた阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑され、長浜城は羽柴氏の支配下に戻りました。
小谷城攻防で浅井側から織田方に寝返ったあの山本山城主の阿閉貞征ですね。
大坂の陣後の1615年(元和元年)、長浜城は廃城になりました。

日が暮れて、長浜駅近くに夕食に出かけました。長浜駅到着時、観光案内所で長浜名物として焼鯖そうめんのちらしをもらいました。ところが、現在19時半、お店はことごとく閉店しているのでした。
やむを得ず、魚民で夕食となりました。
夕食後、長浜駅周辺からホテルへ向かうと、長浜城がライトアップされているのが確認できました。到着時と同様、ひょうたんから長浜城を眺める写真を撮りました。

ひょうたんの向こうに長浜城
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杉山城訪問

2024-05-27 12:08:43 | 趣味・読書
5月25日(土)は、東武東上線の武蔵嵐山駅付近の2つのお城を訪問しました。菅谷館跡と杉山城です。
まずは菅谷館跡を訪問し、前報で報告しました。
ここでは、杉山城訪問記録を載せます。

付近の地図にあるように、杉山城は武蔵嵐山駅の北西方向に位置しています。
菅谷館跡を訪問し、ばんだい嵐山店でラーメンと餃子を食した後、電話でタクシーを呼んで、杉山城に向かいました。

杉山城の全体について、以下の絵図を掲載します。天然の小高い丘の全体を用いた山城であることがわかります。

杉山城

杉山城案内の1ページ目には、杉山城の復原鳥瞰図が記載されています。

駅でもらった「比企城館跡群ガイド」によると、杉山城は以下のように説明されています。
『杉山城跡は、戦国時代の山城跡です。
鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となっています。各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」と評価されてきました。』


杉山城説明図


杉山城跡航空写真(上の説明図の拡大)


杉山城跡縄張り図(上の説明図の右下部拡大)


杉山城の説明


大手口から本郭方向を望む

本郭へ向かうに際し、馬出郭から南3の郭、南2の郭と順に上り、本郭にいたる道を選びました。しかし経路は複雑に曲折し、人が歩く道は両側が土塁になっており、攻めるのは難しそうです。

馬出郭から本郭へ向かう


本郭


本郭から外郭とその左の切岸を望む


東2の郭から外郭とその左の切岸を望む


東2の郭

本郭から、東2の郭、東3の郭とたどるにつれて高度が下がります。そのまま東に抜ける道に通じていたのですが、向かう方向が違うかもしれないと不安になり、南方向に城の斜面を突っ切る強行突破になりました。
杉山城のスタンプを押さなければならないのですが、スタンプは嵐山町役場に用意されています。そこまでたどり着く必要があります。
玉ノ岡中学まで出て、紆余曲折、炎天下を延々と歩きました。最終的に町役場にたどり着き、続100名城のスタンプを押印するとともに、電話でタクシーを呼びました。
到着したタクシーの運転手さんは、さっき杉山城まで乗車したタクシーと同じ運転手さんでした。武蔵嵐山駅までタクシーで移動し、東武東上線で帰宅の途につきました。

杉山城についてウィキペディアで調べると
『市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。』

これだけ精巧に作られた城なのに、だれが造ったのか、どのような役割を担ったのか、全く不明であるというのは驚きです。
また、戦国期まで機能した城であり、江戸時代以降は使われていなかったにもかかわらず、各郭、土塁、切岸、空堀がほぼ完璧に保存されていたのも驚きです。石垣ではなく土塁ですから、自然に崩落しそうなものですが。
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菅谷館跡訪問

2024-05-26 15:33:50 | 趣味・読書
5月25日(土)は、東武東上線の武蔵嵐山駅付近の2つのお城を訪問しました。菅谷館跡と杉山城です。
まずは菅谷館跡を訪問しました。

武蔵嵐山駅付近の地図>でわかるように、武蔵嵐山駅の南に菅谷館跡があります。隣接する嵐山史跡の博物館で、まずは続100名城のスタンプを押印します。

嵐山史跡の博物館

菅谷館跡には、下の写真に示すような遺跡が残っています。

菅谷館跡全景


説明


石柱

館内の各郭の間は、空堀と土塁で守られています。

空堀と土塁


空堀と土塁

本郭に到着しました。

本郭

本郭の南には、本郭よりも高く盛られた地形が見られます(下写真)。反対側に回ってみたら、この地形は、本郭を守るための土塁であることが分かりました。

本郭から見た本郭南の土塁

本郭から二ノ郭に回りました。二ノ郭の奥に祠が建っています(下写真)。

二ノ郭の祠

下写真の説明がなされていました。明治から昭和にかけての戦役で、この町出身の戦没者を祀る祠であることがわかりました。説明によると、昭和40年、ラバウルの名将今村均元大将を招き、合祀慰霊祭が行われたとあります。今村均さんは私が尊敬する軍人なので、ここに挙げることとしました。

祠の説明


本郭と二ノ郭を隔てる空堀と土塁


畠山重忠像

ウィキペディアより
ここ菅谷館跡は、鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡です。畠山氏は、大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていましたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりです。
元久2年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明です。
その後、後北条氏によって戦国末期まで使われました。この館は、全周を覆う堀には多くの折りが使用され、虎口には全て横矢が掛かる仕様、威圧感も兼ねた櫓、馬出しの併用、相互援助が想定された曲輪間の作り、外郭を予想される広大な縄張り等の特徴を有しており、このような実戦的な城郭は後北条氏の典型的な特徴だとのことです。
この館は、平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備しています。土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができます。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、保存度もきわめて良好だとのことです。

昼食は、近くのばんだい嵐山店でラーメンと餃子を食しました。
昼食後、タクシーを呼び、杉山城に移動しました。
以下次号
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小机城訪問

2024-05-08 09:03:12 | 趣味・読書
5月5日、小机城を訪問しました。
都内から東急東横線で菊名へ、そこで横浜線に乗り換えて各停で2駅、小机駅で降ります。
まずはスタンプです。小机駅の南口側にある、横浜市城郷小机地区センターです。事前に電話して、1階でスタンプが押せることを確認していました。
スタンプ押印の後、近くで昼食を取る計画でしたが、近くにはお店がありません。諦めてまずは城址を見学し、昼食はそのあととしました。
下の地図、右下に「↓小机辻」とあります。その小机辻の十字路を曲がり、地図の下から上へと歩きました。城址の入り口がわかりません。ちょっとうろちょろしましたが、ご近所の方に教えていただき、下の地図の右下の十字路を左に折れれば良いことがわかりました。

小机城概略図

城址の領域に入り、本丸広場を目指します。下の写真にあるような竹林の中を進みます。


城址は、下の写真のような空堀が縦横に配置され、二つの高台広場があります。一方が本丸広場、もう一方が二ノ丸広場と呼ばれています。

空堀

下の写真は、本丸広場に到着したところです。広場への入り口に、下写真のような冠木門が配置されていました。

本丸への入り口

下の写真は本丸広場、左隅にわれわれが通った冠木門が見えます。

本丸広場

本丸広場で一休みし、二ノ丸広場へ向かいます。道は、空堀の中に設けられています。下写真のように、本丸広場から下って二ノ丸方向へ向かう途中、右へ行くと井楼跡、との標識がありました。

空堀を行く

空堀から急斜面を登り詰めると、二ノ丸広場です。

二ノ丸広場

二ノ丸広場横に一段高い場所があります。櫓台とのことです。

二ノ丸広場と櫓台

櫓台の頂きの地面に、下写真のような礎石が埋まっています。礎石には円形の穴が開いています。この礎石が小机城の一部だったのかどうかは不明です。この礎石に柱を立てて櫓を構築し、物見として使われたのでしょうか。

櫓台

ネットで調べたところ、市教委が「小机城」を初めて発掘、二の丸広場近くで“柱の痕跡”、空堀には土器(2021年12月07日)との記事が見つかりました。しかし、上の写真の櫓台頂上の礎石の話ではないようです。櫓台近くの南曲輪(二ノ丸広場?)を掘削したところ、礎石のない穴が見つかり、掘立柱の穴らしい、との推定が書かれていました。

二ノ丸広場からちょっと下ったところに、下写真のような標識があります。

井楼跡(せいろうあと)
「井楼」とは、柱を井桁状に組んだ高い構築物で、物見の役割を果たしていたようです。

こうして、小机城訪問を終了しました。
下にも記すように、小机城が城として機能していたのは、12世紀ごろから1600年頃までであり、江戸時代にはすでに廃城となっていました。廃城から400年以上が経過しましたが、よくぞこれだけの城址として維持されたものです。

小机城の来歴
現地の案内板に以下のように説明されています。
『築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。そのころは、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、・・。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山に退陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40年間廃城となっていました。
大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、小笠原越前守信為を城代として再興しました。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な枠割りを果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅び、4代目城主の弥次平衡重政が徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。』

下の写真は、北方上空から小机城址を撮影したものです。小机城が、独立の山に設けられた平山城であることが分かります。城址の西端が第三京浜で分断されています。
 Hovering Cat

城址から小机駅に向かう道で、正面にスタジアムが見えました。小机駅は、横浜Fマリノスのホームの最寄り駅だったのですね。

日産スタジアム
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忍城訪問

2024-05-07 15:27:23 | 趣味・読書
5月3日、埼玉県の行田にある忍城を訪問しました。
東京から忍城を訪問するのにはいくつかのルートがあります。
新幹線か高崎線で熊谷まで行き、秩父鉄道で押田または行田市まで行って徒歩で忍城に向かう。
高崎線で吹上または行田まで行き、そこからバスで忍城近くまで行く。
秩父鉄道もバスも本数が少ないので、東京からの出発時刻次第で、お勧めのルートが変化するようです。
ゴールデンウィーク中で新幹線指定席が取れなかったので、高崎線(または湘南新宿ライン)で熊谷に出て、そこから秩父鉄道を利用するルートとしました。秩父鉄道は行田市駅で下車しました。

忍城に到着です。

御三階櫓と木橋

下の地図と照合すると、現在の内堀は城の東側に残っており、その堀にかかった木橋を渡って東門から城内に入場することになります。

現在の忍城(上が南東)


東門

御三階櫓の中に、当時の忍城のジオラマが飾られています(下写真)。

戦国時代の忍城(上が西)


戦国時代の忍城(上が北)

戦国時代の忍城の絵図としては、こちらの絵図がわかりやすいです。この絵図からも、当時の御三階櫓は、本丸の敷地ではなく、本丸からはるか南、三之丸よりもさらに南の領域に建っていたことが明らかです。しかし現在、城跡公園として使えるのは本丸領域のみですから、やむを得ず、御三階櫓を再建するに当たって本丸に設置したのでしょう。

御三階櫓


御三階櫓

本丸領域の北端角に鐘楼が建っています。

鐘楼


鐘楼

    赤城山                             白根山

遠望


伝進修館表門

忍城の来歴(ウィキ
『室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている[2]。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。』
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。』
『湿地帯を利用した平城であった。元々沼地だったところに島が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。』

行田は足袋が名産であると知られ、私も小学生の時代から知っていました。現在、足袋は廃れましたが、足袋の産地としての記憶が街の中に残っています。街中に足袋に起因する蔵が点在しているようです。
ぎょうだ足袋蔵ネットワーク
たまたま、そのうちの一つである、「旧小川忠次郎商店店舗及び主屋」を通りました。
『足袋の原料を商っていた小川忠次郎商店の店舗及び主屋として昭和4年頃に完成した、行田の足袋産業隆盛期を象徴する近代化遺産。内部1階は店舗南側を土間のミセとし、北側に帳場、主屋部分のナカノマ、オクヘと縦1列に並べる間取りで、2階に格式高い座敷を設けている構造で、こうした構造は明治・大正期の行田の店舗型町屋に共通する。
足袋原料を扱った小川忠次郎商店が大正14年(1925)に棟上した土蔵造りの店舗併用住宅。現在はNPO運営の蕎麦店となっている。』
そこで、この店でそばをいただくこととしました。

蕎麦 忠次郎蔵


蕎麦 忠次郎蔵


ざるそばと天ぷら

こうして、忍城訪問の一日が終了しました。
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