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観音寺城 大石垣
7月14日、安土城に引き続き、観音寺城を訪問しました。
安土城のある安土山と、観音寺城がある繖山(きぬがさやま)は、連山になっています。二つの山の結び目になっている最も低い位置(峠)の直下が、JRのトンネルです。そして、安土山-繖山連山は、その四周360°が平地で囲まれており、琵琶湖東部の鈴鹿山脈や伊吹山地と切り離されています。観音寺城は原生林の中にありますが、クマ出没の危険性は少ないと判断しました。
まずは、信長の館近くの文芸の郷レストランで昼食です。私は“安土天下鶏雑炊膳”をいただきました。「安土特産の鶏と卵を使った雑炊と、鮎の佃煮、赤こんにゃく、えび豆など、地元名産品を一度にお楽しみいただけます。」とのことです。
昼食のあと、電話でタクシーを呼び、観音寺城へ向かいます。
われわれは高齢なので、歩く距離、歩いて登る標高差をできるだけ少なくすることが肝要です。観音寺城へ行くには、まずは近くの観音正寺に到達する必要があります。観音正寺に南から向かう表参道は、石段の標高差が半端ないです。さらに今回は、雨で林道が通行止めになり、普段よりさらに低い位置から石段を歩いて登る必要があったようです。一方、観音正寺に北から向かう裏参道(五個荘)は、ほぼ観音正寺の標高までタクシーで到達することができます。タクシーで裏参道を登ってもらいました。
ただし、タクシーは山頂駐車場までで、そこから観音正寺までの700mは徒歩を強いられました。標高差がなかったのが幸いですが。
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観音寺城地図
上の案内板の地図にあるように、観音寺城の郭は、標高433mの繖山(きぬがさやま)観音寺山の山頂付近に構築されています。観音正寺裏参道の山頂駐車場は、上の地図の右端付近です。そこから、赤線の道をたどって観音正寺の「現在位置」まで到達します。
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観音寺城地図(拡大図)
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① 観音正寺
家内は安土城の往復で体力を使い果たしたので、ここから観音寺城へは私1人で向かうことにしました。
ここから先、観音正寺の境内から観音寺城へ行く道の入り口がよくわかりません。観音正寺北端のお堂(上写真)の裏手に回ると、下の方に登山道が見えます。そこに降りてみました。
道は、上の拡大図の紫の道が対応しています。この道をたどると、下写真の分岐に至ります。拡大図の紫の道と緑の道の分岐です。まずは右の道を本丸方向に向かいました。
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② 本丸と平井丸の分岐
この上り坂に、下写真のような大石段が残っています。
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③ 本丸への大石段
大石段を登り切ると、そこは本丸跡です。
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④ 本丸
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⑤ 本丸奥の石垣
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石垣
大石段を下って、元来た道の分岐に至ります。平井丸方向の道は、岩だらけの完全な登山道の下りです。ただし、ちょっと降りると平坦な道になりました。しばらく歩くと平井丸です。
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⑥ 平井丸
平井丸からさらに池田丸方向に進みます。池田丸に至りました。
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⑦ 池田丸
せっかくここまで来たので、さらに進んで大石垣へ行くことにしました。
ここから先は岩だらけの急な登山道の下りとなります。
大石垣のてっぺんとおぼしき位置に到達しました。しかし、下は絶壁になっており、石垣は見えません。そこでさらに、この絶壁の右側の道を下ってみました。しばらく降って振り返ると、下写真の石垣が目に入りました。これが「大石垣」でしょうか。
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⑧ 大石垣
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⑧ 大石垣
これで、すべての目的を達したので、元来た道をたどり、観音正寺に帰り着きました。
驚くべきことに、観音正寺を出て観音寺城を探索する間、誰1人出会う人がいませんでした。日本百名城の一つに数えられているのですが、さすがに難所として敬遠されているのでしょうか。
観音寺城について、観音正寺の案内板には以下のように説明されています。
『宇多源氏の血統を曳く佐々木六角氏は、平安時代に近江へ土着したのち、鎌倉時代初期から戦国時代末期まで近江の守護をほとんど独占した名門です。この六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。
南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺の城郭」と「太平記」に記されたのが初見です。その後、観音寺城が当主の居住する城として石垣を多用した姿に整備されたのは、修築の記録が集中する1530~50年代のことと考えられます。
観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。昭和45年の発掘調査では茶器や中国産の陶磁器などが豊富に含まれていました。
永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎・義治親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。そして天正7年(1579)に安土城が完成したことによって、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。
平成26年より、豊かな杜づくり隊や地元企業が中心となり、地元有志の手で伝御屋形跡周辺と、そこから大石垣までの散策道(旧追手道)の整備を行いました。また、整備された散策道沿いを中心に、緑の募金を活用した植樹が行われており、将来は季節感のある遊歩道となる取り組みがされています。観音寺城跡のすばらしさを知っていただき、これを後世に伝えていくために、多くの方に、観音寺城を訪れていただきたいと願っています。』
上記説明書きでは、観音寺城を巡るための散策道が整備されているように書かれていますが、私が今回回った限りでは、とても整備されているとは言えず、歩きにくい山岳路のままです。草が伸び放題で、それは大石垣の上端、下端の草の伸び方からも明らかです。
以上のような状況にあることから、ちょっと回って観音寺城の全貌を窺い知ることは困難です。
日本城郭協会が百名城の一つに選んでいるくらいですから、重要なお城であるとの扱いと思います。そうであれば、より親しみやすく、歩き回りやすいように整備していただくとよろしいかと思います。
地図を詳細に観察すると、山の至る所に石垣が隠れているようです。その全体が見えるようになると、お城の価値は大きく上がるでしょう。
そもそも、ふもとからの登城ルートがよくわかりません。
下の地図で、伝御屋形跡から大石垣にいたる青色の道(旧追手道)が記載されています。
こちらのページによると、普通は「追手道」と「大手道」は同じであるところ、観音寺城に限ってはそうではなさそうです。
下の地図で、「本谷(見付谷)道」が、旧大手道だった可能性があります。しかしこの道は、現在は全く消滅しているのでしょうか。そして、大手道とは異なる追手道について、最近登山ルートが整備され、上り下りできるようになったようです。
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大石垣は、追手道を経由して攻め上る敵からの防御のために造られたのでしょうか。それにしても大石垣は高さが10mに近く、大規模です。険しい山中に、このような大規模な石垣を築くのは大変でしょう。
安土城郭資料館で受け取った観音寺城 佐々木六角解体新書(100円)によると、繖山(きぬがさやま)は山自体が石の産地でした。本丸や池田丸など、広い平地を造るために山を削る際に排出する石を利用することで、大石垣を築くことができた、とされています。
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観音正寺には、上写真のような石積みがあります。観音寺城 佐々木六角解体新書によると、「天然石群」ということで、やはり繖山(きぬがさやま)から石が豊富に採取できることに由来しているのでしょうか。
観音寺城 佐々木六角解体新書には、佐々木六角氏の由来についても記載されています。
宇多天皇の血をひく佐佐木信綱が死んだ後、4人の息子の間に相続争いがありました。三男・泰綱は近江守護と六角東洞院を相続して「六角氏」となり、長男・重綱は坂田郡大原庄を相続して「大原氏」となり、次男・高信は高島郡田中郷を相続して「高島氏」となり、四男・氏信が北近江と京都京極高辻の館を得て「京極氏」となりました。このような経緯で佐々木氏から四つの名家が誕生しました。
鎌倉幕府滅亡で六角氏は一時没落しましたが、泰綱から三代下の六角氏頼が南北朝の戦いで活躍。
氏頼の四代下の高頼は応仁の乱で西軍側につき、戦国大名として領国支配を固めました。高頼の息子の定頼は、将軍・足利義晴を支援して中央政治に積極的に介入。摂津国まで遠征し三好長慶と戦ったり、北近江の浅井氏を従属させるなど、六角氏の全盛期を築きます。家臣団を本拠である観音寺城に集結させるなど、内政面でも辣腕を振るいました。
定頼の息子・六角義賢(承禎)は、信長の近江侵攻に対し表向き白旗を挙げるも、甲賀に潜伏し、たびたび反撃するなどしぶとく、晩年は天下人・豊臣秀吉の御伽衆になりました。
観音寺城 佐々木六角解体新書には、六角氏をめぐる人間関係も記されています。
日本史では、蒲生氏郷が出てきます。蒲生氏は六角氏の家臣でした。
浅井長政の母は六角氏の人質だったので、長政は観音寺城で生まれました。
朝倉義景は、六角氏綱の次男だったとの説が近年生まれているようです。
六角氏と観音寺城、今までは何の知識もありませんでしたが、実は日本史の重要な一部を構成していることが理解できました。