弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

パソコンの変遷とエヌビディア

2024-02-28 17:16:55 | サイエンス・パソコン
日経平均「バブル最高値超え」で4万5000円突破の現実味
2/24
日経平均株価がバブル最高値を超えました。
日本株価上昇の原動力は、アメリカの株価上昇だといいます。
そしてアメリカの株価上昇の原動力は、たった一つの会社の業績向上とそれに基づくその会社の株価上昇、時価総額の上昇だといいます。
そのたった一つの会社とは、半導体メーカーであるnVIDIA(エヌビディア)です。

エヌビディアは、AIに特化した半導体の独占的なメーカーであり、最近のAIの進歩に伴って業績が急速に伸びているといいます。

私は、エヌビディアの存在については、2007年頃から知っていました。
以前、パソコンのOSがWindows95に代わった以降、パソコンの拡張ボードにグラフィックボード(ビデオボード)が接続されているのが常でした。ウインドウズの高解像度の画面を制御するには、それ専用の半導体が必要とされ、グラフィックボードによってその機能を満たしていたのです。

1998年以降の私のパソコンについて、グラフィックボードの変遷をたどってみました。以下に、M/Bと書いたのはマザーボード、 CPUと書いたのはいわゆるCPU、そしてGPUと書いたのがグラフィックボードを意味します。GPUは「グラフィックスプロセッサーユニット」の略です。

1998年から2007年にかけては、グラフィックボードのメーカーとしては、Creative Labs、Diamond、Matrox、Canopus、NVIDIA、ASUSなどが入り乱れています。
2008~2013の時代、NVIDIAの一人勝ちになりました。
2013年以降は、CPUの性能が向上したのでしょう。グラフィックボードは搭載されないようになりました。

以上のように、2008~2013に私が所有していたパソコンにおいて、グラフィックボードはエヌビディアの一人勝ちである、というのが私の印象でした。よっぽど傑出した技術を保持していたのでしょう。

数年前、またエヌビディアの名前を聞きました。クルマの自動運転のニュースです。クルマの自動運転の開発において、エヌビディアのGPUに関する技術が役立っている、というニュースでした。パソコンのグラフィックスの技術を持っているのだから、それが理由だろうと納得していました。

それがこの1,2年、エヌビディアの技術がAIで役立っているというニュースに取って代わりました。
たった1社の業績によって、世界の株価が多大な影響を受けている、という事実には驚くばかりです。

以下に、私が所有していたパソコンの構成をリストアップします。
1998
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Graphics Blaster Exxtreme (Creative Labs)

1998
CPU AMD K6 232MHz
GPU Diamond Stealth 3D 2000Pro

1999
CPU Pentium(MMX) 200MHz
GPU Matrox Millennium G200 SD PCI

2007
M/B P3B-F
CPU Pentium III 1000MHz
GPU Canopus SPECTRA5400 Premium Edition

2007
M/B P4B533-V
CPU Pentium4 2542MHz
GPU MSI MS-StarForce GeForce4 MX 440/MX 440SE (NVIDIA GeForce4 MX 440/MX 440SE)
2007
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Pentium4 2542MHz
GPU ASUS RADEON A9200SE Secondary

2007
M/B P4V800D-X
CPU Dual Pentium4 2600MHz
GPU Canopus SPECTRA Light G64

2007
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7300 GS

2007
M/B P5B
CPU Core2 Duo E6420
GPU GeForce 7300GS 256MB

2008
M/B P5B
CPU Dual Pentium III 2137MHz
GPU NVIDIA GeForce 7600 GS

2009
M/B P5Q PRO
CPU Core 2 Quad
GPU NVIDIA GeForce GTS 250

2011
M/B P8P67
CPU nVIDIA GeForce GTX 550 Ti
GPU

2013
M/B Inspiron 17R Turbo(7720)BTX
CPU Core i7-3630QM
GPU NVIDIA GeForce GT 650M GDDR 2GM

2013
M/B P8Z77-V
CPU Core i7-3770
GPU なし

2019
M/B ASRocK B360M
CPU Core i5-8400
GPU なし

2023
CPU Core i5-10500
GPU なし
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品川台場訪問

2024-02-24 20:36:07 | 趣味・読書
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つきを購入し、小田原城と川越城を訪問した記録を以前アップしました。
さらに、続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つきという書籍が出ており、こちらも購入しました。
続日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本100名城に引き続き、101~200番までの名城が紹介されています。

2月24日、124番「品川台場」を、訪問しました。
書籍では以下のように紹介されています。
『1853年のペリー艦隊来航を受けて、伊豆韮山代官江川英龍による品川台場の造営工事が開始された。約12基の台場が計画されたが、完成は6基のみで、一度も砲門が火を吹かぬまま明治を迎えた。
品川台場は純粋な軍事上の拠点であり、個々の台場内には砲台、玉置き場、玉薬置き場、兵舎など必要最低限の施設が設けられた。・・砲台には佐賀藩などで鋳造した洋式大砲が配備されていた。』
われわれが訪問するのは第三台場です。

ゆりかもめをお台場海浜公園駅で降り、海岸をぐるっと半周して第三台場に到着します。

第三台場遠景

途中、満開の花をつけた木々があります。川津桜のようでした。




海岸から、直接第三台場に接続しています。

第三台場近景

土手を上がると、第三台場の内部全体が見渡せます。第三台場は、四周が土塁で取り囲まれ、内部が凹地になっていました。

第三台場内部の全景


火薬庫跡?

凹地内に整然と置かれた礎石。ここに、勤番者の住居地として建物が建造されていたようです。

陣屋跡

第三台場から、近くにある第六台場を見ることができます。陸地とは連続しておらず、一般の立ち入りは禁止されています。

第六台場

昭和3年の公園の開園に伴い設置された大谷石製の八角形のかまどとあります。

かまど跡

台場から東京湾を望む方角に、土塁上に砲台が配置されています。昭和8年に復元されたものです。

砲台

第六台場の全景については、隣接するレインボーブリッジから見るのがベストなようです。今回、ゆりかもめがレインボーブリッジを通過したのですが、残念ながら車窓からは橋の構造物が邪魔をして撮影できませんでした。ウィキペディアの写真を拝借します。
福原邦展

帰り道、砂浜の金属を金属探知機で探している外人さんがおられました。たまたま、小さい女の子がおじさんに代わって探知機を操作していました。


続100名城のスタンプは、お台場海浜公園マリンハウス受付で押すことができました。
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川越城訪問

2024-02-18 15:39:27 | 趣味・読書
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき」を購入し、お城めぐりとスタンプ集めを始めています。
先週は小田原城を訪問し、「小田原城訪問 2024-02-12」で記事にしました。

その1週間後、2月17日に川越城(ウィキ)を訪問しました。

下は、川越駅でもらったマップの一部です。

川越マップ

まず、タクシーで川越城本丸御殿に向かいました。
上記書籍では、川越城について以下のように説明しています。
『《主な遺構》本丸御殿、家老詰め所、富士見櫓跡、中ノ門堀跡、土塁
《見どころ》
川(河)越城は扇谷上杉氏の家宰太田道真・太田道灌父子が築城したことに始まる。江戸入府後、この城を重視した徳川家康は譜代の家臣を入城させた。
大改修が行われたのは松平信綱のときである。信綱は城域を拡大して近世城郭に変貌させるとともに、城下町を整備した。遺構は別記のように少ないが、城下町のたたずまいは今も残る。御殿近くの三芳野神社は童謡「とおりゃんせ」発祥の地と伝わる。』

下は、本丸御殿の中に展示してあった、川越城全図です。

川越城全図

現在、川越城の建物としては、本丸御殿のみが残存しています。上の川越城全図のうち、右隅あたりに位置しています。その本丸御殿も、江戸時代の全体のうち、下記「本丸御殿全図」の右下の一部(太線枠部分)のみが現存しています。

本丸御殿全図

現存しているその一部でも、正面から見ると、下写真のように立派な建物です。




本丸御殿玄関を入ったところに受付、そこに100名城のスタンプが置いてあったので、まずはスタンプです。




下の写真は、藩のご家老が、江戸湾警備についての相談をしている状況だそうです。

説明によると、江戸時代末期の川越藩は三浦半島に領地を持っていたため、相模の沿岸警備を命じられていました。ペリーが浦賀に来航すると、江戸湾周辺の警備が強化され、川越藩は新たに建造された品川台場に警備の変更を命じられた、と説明されています。

本丸御殿の直ぐ東に三芳野神社があります。

三芳野神社
説明によると、ここ三芳野神社は、わらべ唄「通りゃんせ」の舞台である、とあります。
三芳野神社は幕府直営で一般の参拝はできず、外宮が一般参拝可能でした。その外宮も城内(田曲輪)なので南大手門から城内に入り、怖い警護の侍が詰めている細道を外宮の門まで行かなければなりません。その様子を描いたのが「通りゃんせ」だ、ということです。
三芳野神社は菅原道真公をおまつりしているとあり、確かに天神さまです。
しかし、ネットで「通りゃんせ」を調べても、「川越の三芳野神社がルーツ」との説明はほとんどなされていません。少なくとも通説にはなっていないようです。

本丸御殿の北側には土塁と堀が築かれており、本丸と二の丸を隔てる北門が設けられていました。その土塁の一部が残っています(下写真)。

土塁

川越城の空堀の一部が、中ノ門堀跡として保存されています。

中ノ門堀跡


中ノ門堀跡

城内側の勾配は60°で、敵の行く手を阻んでいた、と説明されています。

中ノ門堀跡から西進して、川越市役所に至ると、太田道灌像が建っています。川越城の発祥が太田道真・太田道灌父子の時代であり、太田道灌は江戸城を作った人として有名です。

太田道灌像

川越の街の象徴といえば時の鐘です。

時の鐘
川越のパンフレットによると、
『江戸時代の寛永年間(1624~44)に、川越藩主、酒井忠勝によって建てられました。現存の鐘楼は、明治時代の川越大火の直後に再建されたもの。約390年もの間、時を刻み、今は1日4回(6時・正午・15時・18時)、由緒ある音をきくことができます。』とあります。

時の鐘

《蔵造りの町並み》
川越のパンフレットによると、
『川越の中心にあり、趣深い町並みが残ります。
江戸時代の初期の街割の上に、主として明治26年(1893)の大火後、耐火建築である「蔵造り」が採用され、今の町並みが出来上がりました。
現在も約20棟の蔵造りが軒を連ねます。』


大沢家住宅
『川越にある最古の蔵造り。寛政4年(1792)に豪商、近江屋半右衛門が呉服太物を商うための店舗として建てた商家です。』とあります。


川越まつり会館
川越まつりで曳かれる山車を展示しているとのことですが、今回は素通りしました。

蔵造りの家2軒の写真を下に掲載します。




蓮馨寺(れんけいじ)パス停でバスに乗り、川越駅-東武東上線の経路で帰途につきました。
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小田原城訪問

2024-02-12 13:37:28 | 趣味・読書
日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
上記書籍を購入しており、お城めぐりスタンプ集めを計画していました。2月11日、その初回として妻と小田原城を訪問しました。

新幹線で小田原駅に到着すると、小田原城正規登城ルートに従うべく、出発点に向かいました。

案内図

上の案内図は現在の地形です。小田原城の最盛期、どのような城郭だったのかがなかなか把握できません。以下を参照しました。

立体模型

小田原城全体図


学橋(まなびばし)


めがね橋と馬出門

めがね橋を渡って馬出門に至ると、いよいよ登城ルートの出発点です。
お堀の馬出門から天守閣までの間には、3つの枡形が形成されています。馬出門の枡形、銅門の枡形、そして常磐木門の枡形です。


馬出門枡形の内部

馬出門の枡形を抜け、馬屋曲輪を経て、住吉橋を渡り、手前の内仕切門を入ると銅門(あかがねもん)の枡形です。

住吉橋と銅門枡形入り口


銅門(枡形の中から)


銅門広場は梅が見頃でした。

銅門広場から二の丸広場を経由すると、最後のお堀(現在は花菖蒲園)を常磐木橋で渡り、常磐木門の枡形に至ります。

常磐木門(枡形の中から)

常磐木門を出たところが、本丸広場です。その北端に天守閣がそびえています。

天守閣


天守閣

天守閣に上り、360°の眺望を楽しみました。

天守閣から
天守閣からは、常磐木門枡形、銅門枡形、馬出門枡形を同じ方向に一望できます(上写真)。
写真の右端に見える巨木は、「天然記念物 ・小田原城跡本丸の巨松」と呼ばれる松のようです。


ゲットしたスタンプ

こうして、日本100名城スタンプ旅の第1回を終了しました。
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