弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

日経連載 高部眞規子さん

2023-10-07 15:15:51 | 知的財産権
日経新聞夕刊(月曜~金曜)の《人間発見》、今週は、元知財高裁所長・弁護士 髙部眞規子さんでした。
ここに、備忘録として印象に残った内容を書き残しておきます。
裁きのてんびん、重みを力に(1) 2023年10月2日
『女性初の知的財産高等裁判所長を務めた髙部眞規子さん(67)は、特許や著作権などの知財紛争に裁判官として向き合ってきた。問題解決のための最終解を提供する重責だ。
40年5カ月にわたる裁判官生活のうち、22年半を知財裁判官として過ごしました。20世紀は知財の判例が少なかったので、訴訟の論点も未解決で、解釈が定まっていないことが多かったです。』

裁きのてんびん、重みを力に(2) 2023年10月3日
『島根県出雲市で生まれ育った。幼少期よりピアノやバレエなど芸術に親しんだ。
ピアノは4歳からヤマハ音楽教室に通い、小学校から高校卒業までは地元の短大の先生に週1回レッスンを受けていました。県の音楽コンクールに出場しピアニストに憧れた時期もありました。
5歳から10歳までバレエも習っていました。共に母の勧めで始めました。ピアノの先生は芸術系の大学への進学を促してくれましたが、・・・』

裁きのてんびん、重みを力に(3) 2023年10月4日
『司法試験に合格し、法律実務家に必要なことを学ぶ司法修習生に。修習生時代に結婚した夫は、富山県庁に出向していた。
夫が将来また転勤することを考えると、私が富山県で弁護士になることは考えられませんでした。修習の指導教官だった裁判官が生き生きと仕事をされていたこともあり、裁判官を志望。採用面接で富山地裁を希望し無事かなえていただきました。』

裁きのてんびん、重みを力に(4) 2023年10月5日
『希望がかない、東京地裁知財部配属となった。
望んだ配属でしたが知財の予備知識はゼロでした。裁判官室で飛び交う専門用語は、「法律用語辞典」にも出てきません。なかなかなじめなかったのが本当のところです。それでも、分厚い記録を丁寧に読んでいくと、専門用語がどのような漢字、意味を持つのか、少しずつ分かってきます。知財の教科書も少なかったので、他の裁判官との議論を通じて勉強しました。』

裁きのてんびん、重みを力に(5) 2023年10月6日
『知的財産高等裁判所長に就任して力を注いだのは国際交流だ。
知財紛争はビジネスの行方を左右しますので、グローバル企業のためにも、各国の裁判所同士が制度調和を図ったり、理解を深めたりすることは大事です。日本でも2017年から知財高裁などが国際知財司法シンポジウムを開催するようになりました。所長として欧米やアジアの国々の裁判官を招きました。』

高部眞規子さんは、1956年生まれ、島根県出雲高校、東大法学部、司法試験合格をへて裁判官となりました。
地裁・家裁の裁判官として、富山、東京、千葉(松戸支部)、高松、東京と移動し、1994年に最高裁判所調査官を務めます。
その後、東京地裁、2009年に知財高裁、横浜、福井を経て、知財高裁、2018年に知財高裁所長、2020年に高松高裁長官、2021年に定年退官して、現在は西村あさひ法律事務所勤務の弁護士です。

出雲高校では理数科を選択しましたが、大学進学は法曹を目指すこととしました。Z会に入会し、「ビーナスV」の筆名が轟いたそうです。
東大の法学部に進学し、司法試験の準備を始めました。女性5人で勉強会を作り、チューターを頼みました。のちに高部さんの夫となる人で、自治省(現総務省)の官僚で司法試験に合格していました。

司法試験に合格して司法修習生に。修習生時代に結婚した夫は、富山県庁に出向していました。夫が将来また転勤することを考えると、高部さんが富山県で弁護士になることは考えられませんでした。裁判官を志望しました。採用面接で富山地裁を希望し無事かなえていただきました。

『長男は富山時代に生まれましたが、当時は育休制度はなく、産休も生後6週間で明けたので、すぐに保育所に預けました。
富山地裁から東京地裁に異動し、長女は東京生まれです。ところが長男の保育所は、0歳児を預かっていなかったため、半年間は電車で2駅離れた別の保育所に預けに行っていました。当時は延長保育も十分にありません。2つの保育所の迎えが午後6時に間に合うように、5時になったらすぐに退庁し、あとは自宅で判決を書いていました。
自治体の子育てサポートや親族の力を借りたほか、ママ友にもずいぶん助けられました。どうしても迎えが間に合わないときなど、一緒に家に連れて帰ってくれ、夕飯も食べさせてもらったことは、感謝に堪えません。当時のママ友たちとの付き合いはいまも続いています。
仕事は早い方だったと思いますが、いつも早めの準備を心がけていました。子どもが急に病気になることもありますので、何かあっても全体のスケジュールを崩さなくて済むよう工夫してきました。』

千葉地裁松戸支部、高松地裁と異動しました。『富山から東京へは夫と一緒に転勤できましたが、松戸に異動して1年たった時に夫が香川県庁に出向。2年間、ワンオペで育児をしました。ワンオペだった松戸時代が人生で一番大変でしたが、仕事は面白くて辞めようとは思いませんでした。』

いやはや、当時は父親の育休がなかったのみならず、母親の育休もなく、産休も短かったから、育児には大変な思いをされたはずです。
しかし高部さんは、「他の人よりも仕事が速い」という特技を十二分に活用して、育児に充てる時間を確保したのですね。高部さんならではです。

『高松から東京地裁に戻るタイミングで、知的財産分野を自らの専門に定めた。
地方では行政、労働、医療、交通関連など様々な事件を担当しましたが、東京地裁でしかできないような仕事がしたいと思いました。
異動前に東京地裁に出張があり、初対面の所長代行にご挨拶にいくと、単刀直入に「何がやりたいの」と聞かれました。経験はないけれど専門的と思えた知財部を挙げたところ、「理科系は得意か」と確認されました。出雲高校理数科出身の経歴が「技術に向き合う意欲有り」と捉えられたようです。この段階で知財部への配属が内定したように思います。』

1994年に東京地裁勤務となり、97年には当時最年少の裁判長に就任しました。「たまごっち事件」が特に思いで深いと言います。訴状送達から9ヶ月の超特急で、意匠権侵害と不正競争防止法違反で差し止める判決を言い渡しました。

1998年に就いた最高裁調査官では、「キルビー事件」を担当しました。判例を整理し現状に批判的な学説なども報告書にまとめて裁判官に提出しました。2000年、最高裁が「裁判所が特許の無効理由の有無について判断できる」と示したことで、知の日本の特許訴訟の迅速化につながりました。

2009年に知財高裁判事となります。
公開の場である口頭弁論期日に、法廷で技術説明会をすることにしました。
私も、知財高裁での審決取消訴訟で技術説明会を何度か経験していますが、いずれも非公開である準備手続期日の中で行われました。公開の口頭弁論期日で行った記憶はありません。

2018年に就任した知財高裁所長としては、国際交流に力を注ぎました。
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高部眞規子裁判長の知財判決で私の印象に残っているのは、「一太郎事件」ですね。ウィキでも紹介されています。パナソニックが所有する特許発明は、機能説明アイコンをクリックしてから別のアイコンをクリックすると、後者のアイコンの機能説明をする、というものでした。ジャストシステムの一太郎と花子が権利を侵害していると訴えられました。一審で高部裁判長は侵害を認める判決を出しました。控訴審でジャストシステムは新たな証拠を提出し、「特許無効により非侵害」の逆転判決が出ました。
ウィキでは、エーザイ「セルベックス」不正競争事件も紹介されていました。
高部さんが記事で紹介している「たまごっち」事件については、私も印象に残っておらず、ウィキにも紹介されていませんでした。
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