弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

GSOMIA 輸出規制 徴用工問題

2019-11-24 10:18:42 | 知的財産権
米圧力で方針転換 日韓、失効直前の折衝―GSOMIA
時事ドットコムニュース 2019年11月22日
『失効期限直前の「ぎりぎりの調整」(韓国政府関係者)の末、GSOMIAの事実上の延長を決定。大統領府関係者は「輸出規制問題解決に向けた協議が進行している間は暫定的にGSOMIA終了を中断するという意味だ」と、いつでも協定を破棄できると強調したが、日本から輸出管理強化の撤回を引き出せなかった苦しい立場をうかがわせた。
◇「元に戻っただけ」
 「日本政府はほとんど譲っていない。米国から迫られ、韓国が折れたのが実態だ」。韓国政府の発表を受け、日本政府高官の一人は勝ち誇ったように語った。
 日本政府はこの間、輸出規制の緩和に応じる姿勢を見せなかった。輸出規制を「元徴用工問題を動かすてこ」(国家安全保障局関係者)とみていたからだ。日本政府にとって元徴用工問題は日韓関係を根本から覆しかねない問題で、「GSOMIA失効もやむを得ない」(同)と判断していた。』

『日本政府はこの間、輸出規制の緩和に応じる姿勢を見せなかった。輸出規制を「元徴用工問題を動かすてこ」(国家安全保障局関係者)』はいけません。輸出規制と徴用工問題は全く別、というのが基本スタンスのはずです。そうでないと、仮にWTO提訴が再開された場合、日本が敗訴する懸念さえあります。

また、『日本政府高官の一人は勝ち誇ったように語った。』も調子に乗りすぎです。こんな発言で韓国国民の気持ちを逆なでして良いことはないでしょう。

私は、このブログの「韓国をホワイト国に戻す基準 2019-09-08」で以下のようにコメントしました。
『私は、世界の中で日本の主張に納得してもらうためには、
「徴用工問題、輸出規制、GSOMIA撤退問題は、それぞれ全く別」
との基本スタンスに立ち、実際に全く別に対応すべきと考えます。
日本が主導権を握っているのは輸出規制のみです。
輸出規制において、日本政府は、「韓国がグループA(ホワイト国)からグループBに変更になった理由は具体的には○○である。韓国の輸出管理体制が□□になったら、グループAに戻すことにやぶさかではない」と明示すべきと考えます。
そして、実際に韓国の輸出管理体制が□□になったことが確認できたら、たとえ徴用工問題が未解決で、GSOMIA脱退が撤回されていなくても、韓国をグループAに戻してしまうのです。
このようなスマートな対応がとれるか否か、興味深いところです。』

今回の両国の発表を聞くと、今回に至るまで、輸出規制に関する両国間の話し合いは全く持たれていなかったのですね。それがとても不思議です。韓国側には今まで、「韓国がどのようにしたら、日本は輸出規制を元に戻すのか」といったスタンスは全くなく、「直ちに輸出規制を元に戻せ」としか主張してこなかったということですね。
今回、話し合いのテーブルが3年ぶりに再開するということです。
日本側の輸出規制担当当局は、上記「韓国がグループA(ホワイト国)からグループBに変更になった理由は具体的には○○である。韓国の輸出管理体制が□□になったら、グループAに戻すことにやぶさかではない」を明示し、事態を進展させるべきでしょう。「説明はするが、輸出規制を元に戻す気はない」のような態度を取るべきではありません。

ps 11/24 23:30
以下のようなニュースが流れました。
【釜山共同】
『韓国大統領府の鄭義溶国家安保室長は24日、南部・釜山で記者会見し、日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA=ジーソミア)維持を巡る合意内容について、日本側が意図的に歪曲して発表したとして遺憾の意を表明した。日本側に外交ルートで抗議し、謝罪を受けたと説明した。合意自体は守る姿勢を示した。
鄭氏は、日本の経済産業省が22日、韓国が輸出管理の問題点を改善する意欲を示したと説明した点を挙げ「完全に事実と異なる」と指摘。実際には韓国の輸出管理制度の運用を確認し、日本の輸出規制強化の撤回を協議するとの線で合意していたと主張した。』
これが本当だとすると、韓国と日本の間には決定的な理解の乖離があるようですね。今後どう進展するのか、想像できません。
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深く静かに潜航せよ

2019-11-21 22:35:17 | 趣味・読書
家のパソコンで映画を観ながらの有酸素運動(ステッパー)を始めたことについては、こちらで紹介しました。
永遠の0は見終わったので、次のタイトルを探します。

私は少年の頃、第二次大戦中の米国潜水艦を舞台にした小説「深く静かに潜航せよ」を読んだことがあり、わが日本の敵ながら非常に興味深く読んだことを覚えています。
その小説をもとに映画も公開されており、今回その映画を探しました。
残念ながら、アマゾンプライムには掲載されていないようです。DVDでは、以下のものがヒットしました。
深く静かに潜航せよ [DVD]


一方、YouTubeには動画がアップされていました。
深く静かに潜航せよ【YouTube】
小説とは全くストーリーが異なっていました。

そこで、私が大事に保管していた書籍を、再度読み直しました。
Run Silent, Run Deep.

上の出版物は遙か昔の古本です。最近の発売で安く購入できるのは朝日ソノラマ (1984/04)版でしょうか。

話は、真珠湾攻撃の直後から始まります。主人公のエドワード・J・リチャードソンは当時海軍大尉で、旧式潜水艦S16の艦長でした。ジム・プレッツォーが先任将校を務めていました。最初の逸話は、この艦を用いてジムの潜水艦長資格審査が行われ、審査中の出来事が原因でジムがリチャードソンに憎しみを抱く顛末です。
S16はポーランド海軍に譲渡され、リチャードソンは新造された新鋭潜水艦ウォーラスの初代艦長として転任します。ジムも先任将校として連れて行きました。
小説の大部分は、リチャードソン艦長の下でのウォーラスの戦い(対日本海軍)に関してです。

潜水艦による攻撃では、艦長が潜望鏡で目標を視認し、視認方向から目標の方位を決め、目標のマストの高さから距離を推定し、最後に潜水艦と目標と目標の進行方向がなす角度(方位角)を艦長が推定します。これらの諸元をもとに、襲撃盤を用いて、魚雷の進路(斜進角度)と発射時期を決めます。小説では、その様子が手に取るようにわかります。

様々な戦いを経た後、リチャードソン艦長は負傷して艦を降ります。傷が癒えるまでの間、陸上で潜水艦魚雷の不具合改修に尽力しました。戦争初期の米軍の魚雷はポンコツだったのです。日本海軍の魚雷の方が優秀だったと思います。

復帰したリチャードソンは、最新鋭の潜水艦「イール」の艦長に就任しました。米国の潜水艦は、第二次大戦中に著しく進化したようです。潜水艦攻撃において、レーダーの役割が大きくなります。また、魚雷の設定についても、艦長が潜望鏡で目標を追いながらボタンを押すだけで、自動的に計算される仕組みになっていました。読者としては、どんどん自動化が進むと、読んでいての興奮が低下します。

ジムが艦長となったウォーラスは、すばらしい戦績をあげましたが、最後は豊後水道で哨戒中に帰らぬ艦となりました。この頃、豊後水道では哨戒中の米国潜水艦が次々と討ち取られ、ウォーラスを含めて7隻の潜水艦が未帰還となっていました。「日本海軍の卓越した駆逐艦長(豊後ピート)にやられている」との噂でした。
リチャードソンはイール艦長として豊後水道で豊後ピートと渡り合い、最後は駆逐艦隊を撃滅しますが、後味の悪い結末が待っていました。
戦争は終わり、リチャードソン(当時中佐)は生き残りました。それがこの物語の終結です。

やはり、映画よりも小説の方が迫力がありますね。詳細なストーリーも、映画ではとても追いきれまません。

私は潜水艦の構造について、小説「深く静かに潜航せよ」から知識を得ました。その知識によると、・・・
潜水艦の中枢は、司令塔と発令所に分かれています。発令所の上に司令塔が配置され、具体的には潜水艦の中央に突き出た構造物の中に司令塔が位置しています。
ところが、最近になってネットで調べてみると、「潜水艦には、司令塔という指揮所は存在しない。発令所に集約されている。潜水艦の中央に突き出た構造物はセイルと呼ばれ、乗組員の配置部署ではない。」という記事しか見つかりません。私は混乱してしまいました。今回「深く静かに潜航せよ」を読み直したのは、その点を明らかにするためもありました。
小説には挿絵があります。下の写真から明らかなように、潜水艦の中央に突き出た構造物の中に司令塔が位置し、その下方に発令所が位置しています。司令塔の上の屋外部分が艦橋です。


私は、潜望鏡の構造が鍵を握っているのではないかと考えました。
潜水艦が潜望鏡深度にあるとき、潜望鏡を上昇させ、先端を水面上に突き出し、下端の接眼部から艦長が観察します。観察が終わったら潜望鏡を下げます。従って、艦長配置位置と艦底との間には、潜望鏡を下降させるだけのスペースが必要です。第二次大戦までの潜水艦では、潜望鏡の対角レンズと接眼レンズの間の距離を短縮することができず、従って艦長の配置位置を、セイルの中の司令塔に設けざるを得なかったのではないかと。
この点について、英語版のウィキペディ「Conning tower」に答えが見つかりました。その中のSubmarines(潜水艦)によると、
『潜水艦のconning tower(司令塔)はセイルの中の区画であり、潜望鏡を操作する。潜水艦のcontrol room(発令所)(司令塔の直下)、ブリッジ(セイルのトップ屋外)と混同してはいけない。
(潜望鏡の)改善の結果、conning station(司令所)を main pressure hull(耐圧内殻)の上部に位置させる必要がなくなった。USS Triton (laid down 1956)が、司令塔を有している最後の米国潜水艦である。それまでのconning towerの機能は、command and control centerに集約された。』とあります。
私の推測が当たっていたようです。現代の潜水艦では、潜望鏡の接眼部を耐圧内殻内の高さに配置できるので、昔でいう発令所に、すべての機能を集約しているのでしょう。

ところで、現代の日本で「司令塔」といったら、サッカーなどのスポーツでチームを指揮する役割を意味します。何で「司令塔」と呼ぶようになったのか。その語源が不明です。
「昔の潜水艦の中央構造物(セイル)の中に司令塔が存在していた」ことから。
 → そんな知識を持っているのはわずかなマニアのみでしょう。
「旧日本海軍の戦艦」から。
 → 戦艦の司令官は艦橋(ブリッジ)にいました。一番高いところに測距儀があり、砲術長が配置されていましたが、「司令塔」とは呼ばれていません。
 → 今調べて判明したのですが、戦艦の艦橋の下部に、分厚い装甲に囲まれた「司令塔」が存在しているようですね。ひょっとしてこれがスポーツの「司令塔」の語源でしょうか。
「昔の米国海軍の戦艦」から。
 → 昔(第二次大戦前)の米国海軍の戦艦には、conning towerが設けられていたようです。しかし、それをもって日本チームスポーツの「司令塔」の語源、と考えるのも無理があります。

潜水艦のcontrol roomを日本語で「発令所」と呼ぶのも、語源があるはずです。「発令所」など、普通の日本語にはありませんから。私は、旧日本海軍の用語が語源ではないかと推定しているのですが、その点について記述しているネット記事は見つかりませんでした。
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永遠の0

2019-11-19 14:16:13 | 趣味・読書
朝夕通勤時のパワーウォーキング(5km)は継続しているのですが、最近腹部の脂肪が増え気味です。摂取カロリーに比較して消費カロリーが不十分だということです。
我が家には、商品名ナイスデイというステッパーがあります。そこで、このステッパーを使って、有酸素運動を増やすこととしました。
ショップジャパン 【公式】 健康ステッパー ナイスデイ レッド [メーカー保証1年] 踏み台 運動 室内 エクササイズ 有酸素運動

ステッパーの運動は単調ですから、テレビを観ながらでないと飽きてしまいます。ところが、このステッパー、動かすと騒音がギーコギーコとうるさいのです。リビングでテレビを観ながらでは、家族から不評です。
そういえば、私はアマゾンのプライム会員です。パソコンでプライムビデオが観られるはずです。さっそく調べてみましたが、観たい映画がなかなか見つかりません。やっと一つ見つけました。

永遠の0【テレビ東京オンデマンド】
このビデオ、当初は映画だと思い込んでいたのですが、そうではなく、テレビドラマだったのですね。それも、2時間×3に近いような長編のドラマでした。私は毎日、ステッパー運動をしながら30分から1時間に区切ってビデオを見終わりました。

百田尚樹著「永遠の0」については、職場の同僚が貸してくれて読んだ経験があります。このブログには、読書感想をかねて、以下のような記事をアップしました。

百田尚樹著「永遠の0」 2013-09-24
「ワレ本日二機撃墜」 2013-09-13
カミカゼは自爆テロか? 2013-09-28
特攻の論理(再掲) 2013-10-02

しかし、読んだのが6年も前のことなので、詳細は忘れてしまっいてます。6年前には人から借りて読んだので、家には書籍がありません。そこで今回、書籍を購入して再度読み直してみました。
永遠の0 (講談社文庫)

テレビドラマと小説を対比すると、小説が断然いいですね。テレビドラマでは割愛されている、小説中の細かい描写について、「これは省略できないだろう」という部分がかなり見受けられました。こればっかりは、映画やテレビドラマとする場合にはやむを得ないことなのでしょうね。
一方、登場人物のうち、零戦パイロットの孫の姉弟については、姉が広末涼子ということで私の頭の中にイメージがしっかりできあがりました。

宮部久蔵は、中国戦線以来の歴戦の零戦搭乗員であり、卓越した操縦技倆を有していました。一方で、上官や同僚に聞こえるところで、「生きて返りたい」「死にたくありません」とはっきり言う人です。同僚や上官からは「臆病者」と陰口されていました。しかし、あの時代、特に戦闘機搭乗員の世界において、たとえ心の中で思っていても、戦友や上官に聞こえるように公言するなどあり得ないと思います。こんなことが言えるのは、ものすごい信念と勇気を持っている人か、そうでなければ大馬鹿でしょう。宮部久蔵は大馬鹿ではなさそうなので、信念の持ち主であると思われます。
小説では、宮部久蔵が臆病者か否かという点については、さほど重点が置かれていません。一方テレビドラマでは、長編テレビドラマの主題が「宮部久蔵は臆病者だったか?」という点に置かれています。
終盤、基地の戦闘機乗りが全員集合したところで、司令官から「特攻に志願する者は一歩前へ!」と指令されたとき、ただ一人宮部だけがその場にとどまります。これだけでも、強烈な信念と勇気がなければできないことでしょう。テレビドラマでは、司令官から「貴様は命が惜しいのか!」と問いかけられ、宮部は目を泳がせた上で「命が惜しいです」と答えます。これには違和感がありました。信念のもとに特攻志願を蹴った男が、なぜ目を泳がせるのか。
この点、小説ははっきりしていました。
『飛行隊長が怒鳴った。
「貴様、命が惜しいか」
宮部は答えなかった。
「どうなんだ。答えろ!」
宮部は叫ぶように言った。
「命は惜しいです」
飛行隊長は信じられないものを見たように口をあんぐりあけた。
「貴様は--それでも帝国海軍の軍人か」
「軍人であります」』
小説では、宮部の目は泳いでいないですね。明らかに信念に基づく行動です。小説ではこのように明確に設定されているのに、テレビドラマでは別の演出がされていました。その方が若い視聴者には受けるということなのでしょうか。私は違和感を感じますが。

小説を読み直してみて、改めて「いい小説だな」と感心しました。
先の戦争で、零戦の搭乗員として、また特攻要員として戦った若者たちの姿が、脚色されずそのまま再現されているように感じます。
戦後65年の生き残りに語らせることにより、太平洋航空戦史について実にコンパクトかつ詳細に描写されています。私にこの本を貸してくれたのは事務所の女性職員でしたが、その人と「ガダルカナル」「ラバウル」「栗田艦隊」について語り合うことになるなんて、「永遠の0」の不思議な力だと感じました。
現代の若者である姉弟が、戦争の生き残りの人たちと対峙して話を聞くというスタイルを取っていることから、現代人の意識と戦争生き残りの意識との差異が小説中に組み込まれており、この点も、現代人が戦争について知る上での手がかりが用意されていると感じました。朝日新聞記者を登場させることも、見解の対比を明確にする上で有効でした。

百田尚樹氏のその後の行動や発言から、私は百田氏とは一歩距離を置いており、書籍も読んでいません。しかし、その距離感を前提としても、「永遠の0」はいい小説だ、という感想には変わりありませんでした。
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私の履歴書 IIJ 鈴木幸一氏 (2)

2019-11-10 12:34:43 | サイエンス・パソコン
日本経済新聞の「私の履歴書」IIJ会長の鈴木幸一氏の記述について、前々回報告しました。そこでは、インターネット発展期である1992年から1994年にかけて、日本がどのようにして世界の潮流から取り残されてしまったのか、という点にスポットをあてました。

その後も、「私の履歴書」は10月いっぱい続きました。鈴木さんの足跡を追いかけることで、日本のインターネットがどのように進展してきたのかを追体験することができました。以下にポイントを列記します。

NTTが1994年にネット接続サービスに参入する計画を発表しました。当時のネット接続業者はいずれも小さな会社です。あるとき彼らの代表がやってきて、「日本のネットの先駆者である鈴木さんが先頭に立って、郵政省や世論に『NTTの参入反対』の旗を振ってほしい」と要請されました。鈴木氏は即座にお断りしました。「役所の力を借りないと事業ができないなら、はじめからやらないほうがいい」
NTTが始めた接続サービスはOCNという名称でしたが、鈴木氏は「OCNの父」という別名を頂戴しました。
「NTTやソフトバンクの参入は競争激化をもたらしたが、一方ではネットを利用したビジネスが立ち上がるために不可欠の前提条件でもあった。」(第16回)

IIJがサービスを始めた翌年の1995年、私が弁理士受験生から卒業してインターネットに再度接触した年ですが、日本を揺るがす2つの出来事がありました。1つは阪神大震災、もう1つはオウム真理教による地下鉄サリン事件です。

大災害が発生したとき、電話はあっという間に麻痺します。電話というのは、通話一つが1本の通信回線を占有してしまうからです。
それとは対照的に、インターネットは途切れることなく情報を運び続けました。インターネットでは情報がパケットとして細切れで、かつ多数の人のパケットが混在して、1本の回線を流すことができるので、時間はかかりますが、通信途絶のリスクは格段に低いからです。
IIJは、ネットの強みを生かして被災地の力になりたいと考えました。まずは、被災者の安否などを自由に書き込めるサイトをネット上に開設しました。現地の人から寄せられた生々しい写真やメッセージもリアルタイムで載せました。
『「個人が世界に情報を発信できる新しいメディア」としてのインターネットの可能性を多くの人がこの時、実感したのではないか。』
オウムについては、サリン事件が起きるかなり前に、警察からオウムのネット利用状況を監視するよう依頼を受けましたが、通信の秘密保護を理由に断りました。『その後サリン事件が起こり、「あのとき、どうすべきだったか」を考えることが時々ある。』(私の履歴書第17回)

1998年には日本のインターネット利用は順調に伸びていました。しかし鈴木氏は不満を持っていました。「当時の企業のネット活用といえば、ほとんどが社内のメールやホームページの作成にとどまり、ネットを使って事業モデルを大胆に作り替えようという動きがほとんどなかったからだ。」
そのような状況を変えるため、IIJ自身がネットを使った新サービスを起こせばよい、と考えたのです。そして、ネット証券の立ち上げに関与しました。
当初、既存の大手証券会社に話を持ち込みましたが、冷ややかな対応でした。そこで住友銀行の西川頭取(当時)に相談すると「おもしろそうじゃないか」となって、事業が立ち上がりました。「当該市場にしがらみのある会社は保守的になり、異業種の人がチャンスをつかむ。ネットが産業の地殻変動をもたらす仕組みがよく分かった出来事だった。」
ほぼ同時に、旧知の松本大さんにも声をかけると、松本さんはソニーの出資も得てマネックス証券をつくりました。
「彼らの旗揚げが日本のネット証券の出発点だったことは確かだ。私もいささかなりともそれに関与できたのは、誇らしい思い出である。」(第18回)

1990年に私がインターネットを最初に利用したとき、不思議だったのは「大陸間の回線を使用する回線使用料がなぜ無料なのだろうか」ということでした(インターネット初め)。
今回の「私の履歴書」でも、「鈴木氏が始めたIIJは、日本国内、大陸間の通信回線を、自社で構築したのだろうか」という点がはじめから疑問点でした。私の履歴書第21回でその点が語られています。
当初、IIJは「特別第2種電気通信事業者」であって、自分自身は光ファイバー網などの通信回線を所有せず、NTTやKDDなどのいわゆるキャリア(第1種電気通信事業者)から回線を借りて、サービスを提供していたのです。

われわれインターネット利用者は、接続サービスプロバイダーに月額料金を支払うだけで、世界中のどことどれだけのデータ通信を利用しても、回線利用料が別途かかることはありません。この間の謎は謎のままですが、プロバイダーが利用者から徴収した月額料金の一部が、回線所有者に使用料として支払われているのでしょうか。

さて、「自前のインフラを持とう」ということで、IIJの鈴木氏は散々苦労したのですね。
自分で光ファイバー網を構築するのではなく、他社の光ネットワークの「区分所有」で、郵政省から1種として認めてもらう作戦をとります。トヨタ自動車系の新電電(テレウェイ)が「区分所有」契約に同意し、さらにトヨタとソニーが出資して「CWC」という会社を立ち上げました(第22回)。
バックボーン回線はトヨタ系新電電から調達できましたが、各家庭やオフィスにデータを届ける「ラストワンマイル」がありません。東電の通信子会社などとの経営統合協議に入りましたが、様々な不運が重なり、結局はうまくいきませんでした(第24回)。
2003年8月、CWCは資金繰りに行き詰まり、会社更生法適用を申請しました。民事再生法でなく会社更生法を選んだのは、サービスの継続に万全を期すためでした。
NTTは最大のライバルでしたが、NTT相談役の宮津純一郎さんから声がかかり、「CWCのコンセプトは100点満点だが、インフラづくりは貧乏な会社のやることではなかったよ」との言葉を受けました(第25回)。

2008年のCWCの破綻に連動して、IIJも危機(債務超過)に陥りました。
再生のために必要なのは資金であり、鈴木氏はNTTに支援を持ちかけました。その結果、NTTグループが31%の出資比率で出資を受けました。
これを機に、IIJは、技術志向から利益重視にカジを切りました。そして、事業の主眼をインフラの整備や加入者の獲得競争から、もっと上位のサービスフレイヤーでの独自性追求に切り替えました。結果として、決算が黒字に転じました。
CWCもNTTコミュニケーションズの傘下に入りました。そして、鈴木氏がこだわり抜いて作った横浜と川口の2つのデータセンターは今でも現役で活躍中です(第26回)。

鈴木さんが前のめりでインターネットの進歩を推し進めようとするのに対し、日本のその他関係者が一歩遅れでついてきた、その辺の事情を見ることができました。
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オリンピックのマラソンと競歩が札幌移転決定

2019-11-04 17:29:53 | 歴史・社会
東京オリンピックのマラソンと競歩の競技会場が、東京から札幌に移されることが決定しました。

私は、オリンピックの東京招致が決定した際、前回の1964年と同様、当然に10月頃に開催されるものと思い込んでいました。それが実は8月開催だと知って、びっくり仰天しました。「なんでこんな暑いときに東京でオリンピックをするんだ?!」
後で、アメリカの放映権料が関連していることを知りました。
そして次に思ったのが、「それだったらマラソンぐらいは北海道で実施してもいいのではないか」という点です。この点については、我が家の中のみでつぶやいており、このブログに意見表示はしませんでしたが・・・。

それが今になって、IOCから突然、マラソンと競歩を札幌に移すことが通告されました。一体何があったのか・・・。

直接には、ドーハの世界陸上での棄権者続出の悲劇を受けてのものであるそうです。
しかし、東京の8月が酷暑であることは、ドーハを待つことなく想定すべきことです。
私は、IOCが怒っているのではないか・・・、と想像しました。
「8月の東京が酷暑であることがJOC、東京都にわかっていたのなら、もっと早く(例えば2年前に)、JOC、東京都から、『マラソンを北海道に移したい』との提案があるべきだ」
「招致の段階から、JOC、東京都はIOCをだましていたのではないか」

IOCの横暴か?選手第一か? 海外メディアは東京五輪マラソンの札幌移転をどう報じたのか」(11/2(土) 5:20配信 THE PAGE)では以下のように報じています。
『今回の騒動を「東京とIOCは、2013年に日本の首都での五輪開催をすると宣言した際に、夏の高い気温に関する懸念をはぐらかしていた。東京への招致では、東京側は『東京は、選手たちが最高のパフォーマンスを出せる温暖で晴れの日が多い理想の天候にある』と主張。IOCは『天候的な理由から(東京を)選んだ』と言及していた。専門家は、夏に五輪を開催する本当の理由は『天候ではなく金にある』と話している。』

『選手ファーストの見地から東京の酷暑で行うマラソンに対しての議論が起き、開催場所変更案が出るのはもっともだが、なぜ、その指摘が今ごろになったのか。突然の変更が、先のドーハの世界陸上での棄権者続出の悲劇を受けてのものであるならば、もし世界陸上がドーハで行われていなければ、このまま変更がなかったのか。東京を開催地に選び、その後の準備、運営を定期的にチェックしてきたはずのIOC側の横暴はもっと厳しく批判されるべきで、今後の五輪のあり方も考え直す必要があるのだろう。』

日本陸連は、「東京以外でのマラソン実施を真剣に検討すべきではないか」と提案できたはずです。組織委員会は、アスリートファーストであるのなら、IOCに対して提案ができたはずです。招致決定時のいきさつに縛られて、IOCに提言できなかったのでしょうね。お役人仕事としか言いようがありません。

IOCの独断決定で、開催場所は札幌に決定しました。しかし、「札幌のコースは日陰が少ない」など、問題提起がされています。少なくとも2年前に検討がなされていたのなら、そのような問題についても最適解を見つけることができたのでしょうが、この時期ではあまりにも遅すぎます。
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