弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

玉川上水13・幡ヶ谷~四谷大木戸

2021-11-28 13:21:20 | 知的財産権
玉川上水踏破-再開 2021-11-12」で書いたように、私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。
最近になって、残った区間、明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)までを踏破しましたので、その記録を2回に分けてアップしています。
前回、明大前から幡ヶ谷までの記録をアップしました。今回は、幡ヶ谷から四谷大木戸終点までの記録です。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)


明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)まで(図面をクリックすると大きな地図になります)

10月27日、前回の終点である幡ヶ谷駅を出発点とし、四谷大木戸までを歩きました。出発点の二字橋の次は西代々木橋です(下写真)。

西代々木橋

さらに進みます。下の写真は、代右衛門橋のさらに先です。初台駅の近くでしょうか。


下の写真は、改正橋のさらに先です。


伊東小橋、三字橋と過ぎ、正面に大きなビルが見えてきます(下写真)。


さらに進むと、右側に文化学園・文化学園大学のビルです(左下写真)。歩道には女神像だ立っています(右下写真)。

文化学園              叡知と慈愛の女神像
右上写真の説明書き
『この立像は、ドイツのバイエルン地方の理想の女神像として語り継がれているクニグンデ皇后像で、左手に抱く書物は叡知を右手で差し出す硬貨は慈愛を象徴しています。
本学ドイツ姉妹校ヴュルツブルグの専門大学のご協力により複製が許可され、ここに安置することができました。』

60年以上昔、地上を走っていた京王線の車窓から、円筒形の形をしたビルが見えました。ウィキによると、『1955年(昭和30年) - 新宿本校に円筒形の校舎が完成。以後、文化服装学院を象徴する建物となる』とあります。当時は文化服装学園と呼ばれていました。

文化学園の先になこそ橋跡の碑が立っています(左下写真)。地球儀(右下写真)の由来はわかりませんでした。

勿来橋跡                       大地球儀
碑文『なこそ橋の由来は、江戸時代に福島の三春藩主であった秋田安房守がこの地に下屋敷をおいたことによる』


上写真
説明『このモニュメントは、明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた、玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用して、ほぼ原寸大で再現したものです。平成15年1月東京都水道局』

ここまでずっと、玉川上水の跡地に沿って道路を歩いてくることができました。新宿駅の南口まで到達すると、ビルに行く手を阻まれます(左下写真)。後から調べると、ここは葵橋跡であり、左下写真のビルの1階に葵橋の説明板があるのだそうです

新宿駅南口(西側)                  新宿駅南口(東側)
ビルに行く手を阻まれたので、左へ迂回してみたら、そこは甲州街道でした。そして新宿駅南口に出て、正面がバスタ新宿です。振り返って玉川上水の上流方向を見たのが右上写真です。

さらに甲州街道を進み、新宿四丁目交差点の先、右側に雷電稲荷神社の鳥居群がありました(下写真)。東京都神社案内によると、『源義家が奥州征伐の途中雷雨にあい、小祠前で休んでいる時、一匹の白狐が現れ、義家の前で三回頭を下げたところ、雷雨がたちまち止んだことから雷電神社と呼ばれるようになったと伝えられています。』とあります。

雷電稲荷神社

さらに進むと、玉川上水は新宿御苑の北辺に沿ったルートとなります。現在ここは、「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」として整備されているのですね。
説明文『分水散歩道の延長は約540m「旧新宿門」「大銀杏」「大木戸」の3区間から成り、水源は、国道20号新宿御苑トンネル内の共同溝に湧出した地下水を利用しています。』

新宿御苑北側・旧新宿門付近


新宿御苑北側・大銀杏区間


新宿御苑北側

ルートは、新宿御苑の大木戸門に至ります。その先に、水門碑記と四谷大木戸跡碑が立っています。

水門碑記(すいもんのいしぶみのき)
説明文『四谷大木戸の水番屋は、現在の四谷地域センター内にあり、これを祈念して、明治28(1895)年に石碑がたてられました。石碑は、高さ4.6mにおよび、篆額は徳川家達(いえさと)が書き、書は金井之恭(しきょう)が書いています。碑文には、漢文で玉川上水建設の理由や、工事を請け負った玉川兄弟の功績をたたえた内容が書かれています。』


四谷大木戸跡碑
説明文『四谷大木戸碑は、昭和34年11月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。 昭和24年6月』

そして、私は四谷四丁目交差点に到着しました。ここが、江戸時代は四谷大木戸だったのですね。

四谷四丁目交差点
ウィキによると、『元和2年(1616年)、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792年)以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)。』とあります。また『往時、ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して江戸市中各地へと配水していた。』とあります。

こうして、私の玉川上水踏破は完了したのでした。

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玉川上水12(明大前~幡ヶ谷)

2021-11-27 19:54:00 | 趣味・読書
玉川上水踏破-再開 2021-11-12」で書いたように、私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。
最近になって、残った区間、明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)までを踏破しましたので、その記録を2回に分けてアップします。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)


明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)まで(図面をクリックすると大きな地図になります)

1回目は明大前から幡ヶ谷までです。10月5日に歩きました。

明大和泉校舎の正門前にある明大橋跡を過ぎると、玉川上水は井の頭線の上をまたぎ、その先が公園になっています。左下の写真にある遊具が置かれ、「くじら公園」と呼ばれています。

くじら公園                       久左衛門橋

公園の途中に久左衛門橋があり(右上写真)、公園が井の頭通りにつきあたったところに、左下写真の水門を模したモニュメントがあり、ここで上水公園が途切れます。

モニュメント(井の頭通り手前)       井の頭通り(向こう側に和泉給水所、近くにバス停・水道横町)

井の頭通りに出ると、右上写真のように、通りの向こうに和泉給水所の大きな水タンクがそびえています。手前にはバス停「水道横町」の標識が見えます。どのようないきさつでこの地のバス停の名前が水道横町になったのか、調べましたがわかりませんでした。

井の頭通りから先は、しばらくの間、玉川上水の跡地をたどることができません。和泉給水所の敷地内は入ることができません。和泉給水所の東端から先は甲州街道の北側に沿っているはずですが痕跡はありません。
下の地図は、現在の明大前駅から代田橋駅付近についての、明治20年地図です。水路の青色と活字部分は、私が追記しました。地図の右端で玉川上水がくの字状に右折れして南下する部分が、後述の代田橋駅付近です。

現在の明大前駅から代田橋駅付近についての、明治20年地図
上の地図の範囲内で、明治20年当時の甲州街道は玉川上水と平行に走っています。そして、地図上の「代田橋」と記載した部分より東側は玉川上水の北側、西側部分は玉川上水の南側に沿っています。すなわち「代田橋」は、甲州街道が玉川上水をまたぐ橋だった、ということです。この部分で、玉川上水は直線を保っている一方、(当時の)甲州街道はクランク状に曲がっています。甲州街道よりも玉川上水の方が重要であった、ということでしょうか。
なお、明治20年地図(東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作)(古地図史料出版株式会社発行)については、このブログのこちらで詳しく説明しています。

京王線の代田橋駅付近で、玉川上水は南に転じます。そして(現在の)甲州街道の南側に抜けたところから、開渠になります。下の2枚の写真は開渠の開始部で、左下写真は開渠開始部の下流側、右下写真は開渠開始部の上流側とその先の甲州街道を撮したものです。

開渠開始部(下流側)             開渠開始部(上流側と甲州街道)


京王線の線路下                開渠をまたぐ歩道(ゆずり橋)
開渠になった玉川上水は、まず京王線の線路の下を通過します(左上写真)。その下流側に、開渠をまたぐ歩道の橋(ゆずり橋)があります(右上写真)。車止めとして水道施設のバルブが使われています。歩道の橋を横から見たのが下の写真です。


開渠をまたぐ歩道の橋(ゆずり橋)
歩道の橋と並行して、太い鉄パイプが開渠の上に設置されています(下の2枚の写真)。

歩道と水道管


開渠終了部
京王線の線路と上記歩道の橋のすぐ下流側で、開渠は終了し(上写真)、その先は暗渠で地上は公園になっています(下の写真)。


暗渠の上の公園(代田橋駅から環七まで)
玉川上水は環七と交差します。その交差する部分に、歩行者のみが通行できる地下道が設けられています(下の写真)。

環七の下をくぐる地下道
地下道を利用して環七の東側に出ると、そこはまた暗渠の上の公園になっています。しばらく行ったところ、稲荷橋において、暗渠から開渠に変わります(下写真)。

稲荷橋(暗渠から開渠へ)
ここは区の境で、世田谷区側は暗渠、渋谷区側は開渠となっています。

稲荷橋から笹塚駅方向
稲荷橋から下流方向、笹塚駅方向の開渠部分を臨んだ写真が上の写真です。
さらに笹塚駅方向に進みます。下の写真の左端は二号橋で、ここから先は暗渠になります。

笹塚駅へ向かう開渠部分・左端は二号橋


二号橋・開渠から暗渠へ


二号橋から上流方向の開渠部分を見る

玉川上水は、笹塚駅の付近で京王線の線路に接近し、ここで鋭角に右に曲がり、進路を南に変えます。下の写真は、その曲がり角と京王線の線路を撮したものです。

京王線笹塚駅(暗渠部分)


三号橋(暗渠から開渠へ)
京王線の線路からちょっと南へ下ったところ、三号橋のところで暗渠から開渠に変わります(上写真)。三号橋から下流側の開渠を見たのが下写真です。

三号橋から開渠を下流方向に見る

笹塚駅から南に向かう玉川上水のこの部分(笹塚橋)に、三田上水となる分水がなされていました。下の写真、開渠から暗渠になる部分ですが、青い鉄格子で覆われた部分が玉川上水の下流側、鉄格子の右側に見える階段部分が、かつての三田上水への分水取水部でした。

開渠から暗渠へ・笹塚橋
ここは区の境で、渋谷区側は開渠、世田谷区側は暗渠となっています。
ここからしばらく、玉川上水と三田上水とは平行して流れます。このちょっと先で玉川上水は鋭角で左折し、三田上水と別れ別れになります。

下に、笹塚駅付近を含む明治20年地図をアップします。

笹塚駅付近で南に折れ曲がり、少し南下したところで東に折れ曲がりますが、その途中で分水した先が三田上水です。上の地図では間違えて「三田分水」と書きました。

《三田上水について》
ここで、三田上水について触れます。三田上水は、上の明治20年地図に「三田分水」と記載した水路です。「三田用水跡をたどる」に掲載された地図でもよくわかります。
『三田上水は、現在の港区南東部エリアの飲用水として、1664年に開通しました。上水は現在の世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区、渋谷区、目黒区、品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝に至る、全長10kmほどの水路でした。』
『玉川上水と同じく三田用水もまた、より遠くまで水を届けるために尾根の上を選んで通されています。そのルートはちょうど、渋谷川と目黒川の分水界にあたります。段彩図で地形を見てみると、それは一目瞭然です。細長く伸びた台地の上を、渋谷川や目黒川の枝谷を避けながら用水が通っています。そして、それぞれの枝谷には分水が落とされており、三田用水と目黒川・渋谷川のあいだにはあたかも動脈と静脈のような関係性がなりたっています。』

さて、玉川上水に戻ります。
以上述べたように、玉川上水は、笹塚駅の部分で鋭角に右折し、しばらく南下したところで今度は鋭角で左折しています。なぜこのようなルートを採ったのか。それは、笹塚駅付近に、南から北へ向かう谷筋が存在するからです。上の明治20年地図にもその谷筋の川が青色に塗られています。その谷筋の流れは、さらに進んで神田川に合流します。
上水路は常に尾根筋をたどり、常に上流から下流へと標高を下げていかなければなりません。行く手に谷筋が現れたときは、上水路が谷に下りてしまわないよう、その地域の等高線に沿って流路を曲げていく必要があるのです。

南進から北進へ                      四條橋


常盤橋から暗渠部緑道


暗渠部緑道

下の代々幡橋の向こう側に、「代々幡斎場→」の看板が見えます。代々幡橋を南に入ったところに、代々幡斎場があるのです。実はこの斎場、明治時代から存在しました。上の明治20年地図に「火葬場」と記載した場所です。
それと「代々幡」という地名、代々木と幡ヶ谷をつなぎ合わせた造語のように見えますが、一時期実際に存在した地名なのでした。

代々幡橋

玉川上をたどり、京王線の幡ヶ谷駅付近まで到着しました。二字橋は、幡ヶ谷駅から南下したところにあります。二字橋の欄干の西側すぐのところに、水道管の鉄管が玉川上水を渡っています。下の写真では、鉄管の上に台形のカバーが配置されています。
私が小学生の頃、この地におじさん一家が住んでいまして、その家の二階からこの二字橋がよく見えました。右下写真のアングルです。見ていると、近所の子供たちが鉄管の上をすたすた歩いて遊んでいるのを見た記憶があります。当時、その場所の玉川上水は開渠だったはずですが・・・。

二字橋と上水をまたぐ水道管

10月5日、明大前を出発しての玉川上水散策は、ここ幡ヶ谷駅をもって終わりとしました。

戻る                            続く

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枝野幸男氏と福島原発事故

2021-11-14 16:47:05 | 歴史・社会
東日本大震災直後の民主党政権の行動に関し、私は当時の枝野幸男官房長官の発言と行動で、以下に記載するように、どうしても許せないことがあります。
この点に関し、当の福島県の被爆者の人たちも同じ思いを抱えていることが、今回の総選挙でわかりました。

【総選挙2021】「政権交代のために投票するが枝野だけは許せん…」 野党共闘の陰で原発事故被害者が抱える「ただちに影響ない」への怒りと葛藤 2021/10/22
『総選挙の投開票日を31日に控え、原発事故被害者たちがジレンマを抱えている。2011年3月の事故発生直後、当時の枝野幸男官房長官が連呼した「ただちに影響ない」が魚の小骨のように喉に引っかかっているのだ。放射性物質は避難指示区域外にも大量に降り注いだが、政府は被曝リスクに正面から向き合わなかった。わが子を被曝から守ろうと必死だった親は「せめて謝罪を」と願う。「枝野だけは許せない」と憤る人も。』

【原発事故と「ただちに影響ない」】「結局、詫びないまま辞めるのか」 総括なき代表辞任に福島から「枝野氏は総括するべきだった」との声 鈴木博喜 (「民の声新聞」発行人)2021年11月13日
『「枝野さんは「『ただちに影響ない』のイメージは強いですよ。〝誰も経験したことのない原発事故〟というのは分かるんだけど、やっぱり正確な情報を発信してくれれば良かった」
 当時、男性の子どもは幼稚園児だった。〝自主避難〟も検討したが、様々な事情でできなかったという。
「避難指示が出なかった区域にだって線量の高い場所はあったから。川俣でも飯舘村に近い地域、山木屋に近い地域、二本松に近い地域…。後から考えると、避難指示が出なかった区域に住んでいるわれわれも(避難指示に)該当したんじゃねえの?っていう想いがあるよね。特に幼い子どもがいる家庭は自力で県外に逃げた。とどまった人の多くは枝野官房長官の言葉を信じてた。だって分からないんだから信じるしかなかった。でも実際どうだったのかね。そのモヤモヤを抱えている人は多いですよ」』

私にしろ福島県の被爆者の方々にしろ、枝野さんの何に憤っているのでしょうか。以下に説明します。

2012年6月の当ブログ記事「米提供汚染地図と枝野官房長官(当時) 2012-06-20」で、私は以下のように述べました。
『去年(2011年)3月23日の後、国際原子力機関(IAEA)が「飯舘村の住民を避難させるべきだ」と勧告したとき、枝野官房長官が自分の口で、「その必要はない」と会見したのを私はテレビでしっかりと見ています(3月31日)。政府が前言を翻して飯舘村住民の避難を決定したのはそれからずっと後(4月22日)でした。』
2011年3月、飯舘村で何があったのでしょうか。2011年3月27日の当ブログ記事「放射能拡散状況の実態 2011-03-27」で紹介しています。
『事故を起こした原発の周囲で、放射能がどのように拡散しているかをコンピュータシミュレーションするソフトがあるらしい、という情報は断片的に聞いていました。しかし、実際に計算結果を見ることができずにいました。
それがやっと、23日に公表され、24日の朝刊に掲示されました。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測)システムという名称だそうです。ちっとも迅速でなかった点は皮肉ですが。
そしてその報道の半日後、24日の夕刊に、米軍機が測定した放射能汚染状況を示すマップが公表されたのです。
 
3月24日朝日朝刊                  3月24日朝日夕刊
上記二つのマップが、極めて似た傾向を示していることには驚かされます。

ただし、2つは対象が異なります。
SPEEDIの方は、「3月12日から24日までの12日間の積算ヨウ素被曝量(ミリシーベルト)」です。
米軍の方は、「17~19日に測定が行われ、数値は1時間当たりの放射線量(マイクロシーベルト)」です。』
放射能汚染地域が、福島第1原発から北西方向に線状に延び、飯舘村まで至っていたことが、米軍機の実測結果で明らかになっており、その事実は3月24日の新聞に掲載されていたのです。飯舘村に至る線状の放射能汚染は、3月15日早朝の2号機の破損に伴う大量の放射能放出と、そのときの風向きが南東の風であって放射能が北西方向に流れ、その日の午後の降雨によって飯舘村に降り注いだ、ということがその後の経緯から明らかになっています。

以上のような事実をも踏まえ、国際原子力機関(IAEA)が「飯舘村の住民を避難させるべきだ」と勧告したものと思われます。ところが当時の枝野官房長官は、自分の口で、「その必要はない」と会見で述べているのです(3月31日)。
飯舘村を中心とする20キロ圏外の避難区域を指定したのは、4月22日になってからだといいます(米軍機による放射能モニタリングデータ・続報 2012-06-19)。飯舘村が放射能汚染された3月15日から1ヶ月以上もの間、飯舘村の子供たちは放射能を浴び続けていたのです。

私はこのときのことを決して忘れません。この1点のみをもって、私は枝野さんを許すことができず、今回の枝野代表の辞任は妥当であると考えているものです。
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玉川上水踏破-再開

2021-11-12 20:53:27 | 杉並世田谷散歩
先日のブラタモリで、玉川上水を特集していましたね。

玉川上水は、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで続きます。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)

私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。以下がそのときの記録です。
羽村取水口-拝島()(2008年11月23日)

       羽村取水口-拝島(クリックすると大きな地図になります)

拝島-鷹の台()(2010年2月20日)

       拝島-鷹の台(クリックすると大きな地図になります)

鷹の台-三鷹()(2010年4月3日)

       鷹の台-三鷹(クリックすると大きな地図になります)

三鷹-明大前(1011)(2011年1月8日)

       三鷹-明大前(クリックすると大きな地図になります)

そうです。明大前から四谷大木戸までの区間を残したまま、11年弱が経過してしまいました。
私は現在、特許事務所に勤務し、主に在宅で執務しています。齢73歳となり、業務量も減少傾向にあるので、時短勤務ですがそれでも時間に余裕ができてきました。最近は海外旅行に行かないので年休にも余裕があります。そこで、仕事が切れたときを見計らって、年休を取得してあれこれ歩き回ることにしました。
その第1弾として、玉川上水の未踏破部分の再踏破を試みることにしました。
すでに、明大前から幡ヶ谷まで、幡ヶ谷から四谷までと、2回に分けて踏破は終了しています。

ps 11/28
実際の記録として、玉川上水(12)玉川上水(13)として別の記事で記述しました。

明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)まで(図面をクリックすると大きな地図になります)

戻る                            続く
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