1年前に釜石を訪問し、見聞した被災地釜石の様子を釜石訪問(1)、釜石訪問(2)、釜石訪問(3)、釜石・津波からの生還で記事にしました。
今回、1年ぶりに釜石を訪問しました。8月6日に釜石出張があり、その日は釜石市内に宿泊し、翌7日の午前中に市内を見て回りました。
釜石市内の、津波に被災した地域の様子を一言で言うと、
《1年前》
瓦礫が積み上げられており、津波で流出しなかった建物がそこここに残っていた。
《今回》
瓦礫の整理が終わっていた。津波で流出しなかった建物の大部分は撤去されていた。その結果、津波被災地域は一面の更地に変わっていた。
そして、復旧は一切進捗していません。
私が撮った写真で、1年前と今回の比較をしてみます。
⑥の避難道路から
2012年8月
⑤の高台を望む
2012年8月 2011年7月
⑤の高台から
2012年8月 2011年7月
動画2012年 動画2011年 ⑤の高台から
2012年8月
現地で聞いた話によると、津波来襲を受けた地域については、「土地を数メートルかさ上げし、そこを住宅地ではなく水産加工等の工場地域にする。後背地の山を削り、高台に平地を作って住宅地とするとともにそこで出た土を海沿いの土地のかさ上げに利用する。」といううわさがあるようです。
そんな噂が流れていたら、海沿いの住宅地に住宅を再建しようとする人は現れないでしょうから、一面が更地で残っていることは当然うなずけます。
逆にいうと、被災から1年半も経過しているのに、復興計画がまだ“うわさ”の域を出ていないと言うことです。復興計画が確定していないということです。なんという遅さでしょうか。
釜石・津波からの生還で書いたように、駅前橋上市場に店を出している菊鶴商店の若女将である菊池さんが、一度は津波に呑み込まれながらも奇跡的に生還したという物語があり、私はニュース映像でそのことを知りました。
浜町のあたりは、海岸から200メートルぐらいに山が迫っています。そのため、山の中腹に道路が設けられ、そこが避難道路となっています。
地震直後、人々はこの避難道路に上がって津波の来襲を避けていました(左下写真の場所)。その中にNHKの記者もおり、取るものも取り敢えずビデオカメラだけを持って避難していました。その記者が、津波来襲時の一部始終をカメラに集録していたのです。
⑥の避難道路から
去年私が釜石を訪問したときは、この避難道路も歩いているのですが、菊池さんのご自宅の写真は撮っていませんでした。今回はその場所を確認することも目的の一つでした。
菊池さんのご自宅は、津波で流されてしまいましたから、現存しなくて当然です。菊池さんは津波に呑み込まれた車から脱出し、ビルの2階の窓からビルに入ることで九死に一生を得ました。菊池さんの命を救ったそのビルは現存するだろうと想像していたのですが、残念ながら影も形もありませんでした。右上写真、①の位置が菊池さんのご自宅があった場所です。そして②の位置が、菊池さんの命を救ったビルの所在地ですが、ビルは取り壊されて跡形もありませんでした。
ところで③の位置は、当時は空き地でした。①の位置で車に戻った菊池さんは、車ごと津波に呑み込まれたのですが、濁流はたまたま③の空き地に向かいました。この空き地は、その先が山に遮られています。そのために濁流の流れが淀み、菊池さんが自力で脱出することを可能にしたのでしょう。
津波来襲時、菊池さんの息子さんは①の自宅におられました。自宅屋上に上ったのですが、完全に津波に包囲されました。そのときの映像がニュースで流れています。その直後、自宅は津波に押し流され、その後の映像では跡形もありません。しかしニュースによると、息子さんは屋根伝いで逃げ、無事に高台に逃げおおせたとのことです。どのような経路で逃げたのかがわかりませんでした。
今回うかがったところでは、自宅が建っていた場所で逃げたのではないそうです。家が津波に流され、しかしバラバラになる直前、別の建物のそばに流れ着き、そこでその別の建物に避難できたということです。これも奇跡としかいいようがありません。
菊鶴商店は地図の⑩の位置に水産物加工工場を持っていました。ニュース映像でも、津波に蹂躙されたその工場が映りました。去年お話をうかがった際には、建て直すのか改修するのかは決まっていませんでした。
今回、その工場まで足を運んでみました。
下の写真にあるように、元の工場の外装をやりかえ、一部では作業が始まっていました。
やはりうかがった話では、この場所の建物はいずれ撤去が命令される可能性もあるのだそうです。そうとしたら、立て直しはあり得ません。残った建物を改修して作業を再開する以外に手立てはなかったのでしょう。
⑩の菊鶴商店の加工工場
2012年8月
一面が更地ですが、下の写真のような仮設の店舗も建っていました。
新日鐵の埠頭には全天候バースが設置されていました。津波によって右下写真のように損壊していましたが、現在は左下写真のように改修して使用再開しています。
⑪新日鐵 全天候バース
2012年8月 2011年7月
以下次号
今回、1年ぶりに釜石を訪問しました。8月6日に釜石出張があり、その日は釜石市内に宿泊し、翌7日の午前中に市内を見て回りました。
釜石市内の、津波に被災した地域の様子を一言で言うと、
《1年前》
瓦礫が積み上げられており、津波で流出しなかった建物がそこここに残っていた。
《今回》
瓦礫の整理が終わっていた。津波で流出しなかった建物の大部分は撤去されていた。その結果、津波被災地域は一面の更地に変わっていた。
そして、復旧は一切進捗していません。
私が撮った写真で、1年前と今回の比較をしてみます。
⑥の避難道路から
2012年8月
⑤の高台を望む
2012年8月 2011年7月
⑤の高台から
2012年8月 2011年7月
動画2012年 動画2011年 ⑤の高台から
2012年8月
現地で聞いた話によると、津波来襲を受けた地域については、「土地を数メートルかさ上げし、そこを住宅地ではなく水産加工等の工場地域にする。後背地の山を削り、高台に平地を作って住宅地とするとともにそこで出た土を海沿いの土地のかさ上げに利用する。」といううわさがあるようです。
そんな噂が流れていたら、海沿いの住宅地に住宅を再建しようとする人は現れないでしょうから、一面が更地で残っていることは当然うなずけます。
逆にいうと、被災から1年半も経過しているのに、復興計画がまだ“うわさ”の域を出ていないと言うことです。復興計画が確定していないということです。なんという遅さでしょうか。
釜石・津波からの生還で書いたように、駅前橋上市場に店を出している菊鶴商店の若女将である菊池さんが、一度は津波に呑み込まれながらも奇跡的に生還したという物語があり、私はニュース映像でそのことを知りました。
浜町のあたりは、海岸から200メートルぐらいに山が迫っています。そのため、山の中腹に道路が設けられ、そこが避難道路となっています。
地震直後、人々はこの避難道路に上がって津波の来襲を避けていました(左下写真の場所)。その中にNHKの記者もおり、取るものも取り敢えずビデオカメラだけを持って避難していました。その記者が、津波来襲時の一部始終をカメラに集録していたのです。
⑥の避難道路から
去年私が釜石を訪問したときは、この避難道路も歩いているのですが、菊池さんのご自宅の写真は撮っていませんでした。今回はその場所を確認することも目的の一つでした。
菊池さんのご自宅は、津波で流されてしまいましたから、現存しなくて当然です。菊池さんは津波に呑み込まれた車から脱出し、ビルの2階の窓からビルに入ることで九死に一生を得ました。菊池さんの命を救ったそのビルは現存するだろうと想像していたのですが、残念ながら影も形もありませんでした。右上写真、①の位置が菊池さんのご自宅があった場所です。そして②の位置が、菊池さんの命を救ったビルの所在地ですが、ビルは取り壊されて跡形もありませんでした。
ところで③の位置は、当時は空き地でした。①の位置で車に戻った菊池さんは、車ごと津波に呑み込まれたのですが、濁流はたまたま③の空き地に向かいました。この空き地は、その先が山に遮られています。そのために濁流の流れが淀み、菊池さんが自力で脱出することを可能にしたのでしょう。
津波来襲時、菊池さんの息子さんは①の自宅におられました。自宅屋上に上ったのですが、完全に津波に包囲されました。そのときの映像がニュースで流れています。その直後、自宅は津波に押し流され、その後の映像では跡形もありません。しかしニュースによると、息子さんは屋根伝いで逃げ、無事に高台に逃げおおせたとのことです。どのような経路で逃げたのかがわかりませんでした。
今回うかがったところでは、自宅が建っていた場所で逃げたのではないそうです。家が津波に流され、しかしバラバラになる直前、別の建物のそばに流れ着き、そこでその別の建物に避難できたということです。これも奇跡としかいいようがありません。
菊鶴商店は地図の⑩の位置に水産物加工工場を持っていました。ニュース映像でも、津波に蹂躙されたその工場が映りました。去年お話をうかがった際には、建て直すのか改修するのかは決まっていませんでした。
今回、その工場まで足を運んでみました。
下の写真にあるように、元の工場の外装をやりかえ、一部では作業が始まっていました。
やはりうかがった話では、この場所の建物はいずれ撤去が命令される可能性もあるのだそうです。そうとしたら、立て直しはあり得ません。残った建物を改修して作業を再開する以外に手立てはなかったのでしょう。
⑩の菊鶴商店の加工工場
2012年8月
一面が更地ですが、下の写真のような仮設の店舗も建っていました。
新日鐵の埠頭には全天候バースが設置されていました。津波によって右下写真のように損壊していましたが、現在は左下写真のように改修して使用再開しています。
⑪新日鐵 全天候バース
2012年8月 2011年7月
以下次号