弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

6人除外前の名簿「見ていない」

2020-10-11 10:03:41 | 歴史・社会
日本学術会議、6人の任命拒否問題について、私は『日本学術会議と加藤陽子先生 2020-10-03』ではじまる5件の記事で問題とし、特に『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(再掲)~菅総理・恐怖政治の始まりか?? 2020-10-06』では
「理由も明かされずに突然拒否される。想像するに政権の方針に反対の意見を表明したかららしい。」
これって、独裁政権における恐怖政治ではないですか。
菅政権では発足当初から、恐怖政治をやり始めたらしい・・・。想像だにしない事態が勃発してしまいました。

さらに言えば、菅さんには学問に対する尊敬が欠如しているように思います。今回の6人について、おそらく、どんな業績を挙げてきた人たちか興味も持たず、知ろうともせず、ただただ「自分の政策に楯突く意見を表明した」とその点のみを見て決めてしまったのでしょう。
言い換えれば、菅さんは教養に欠けるところがある、とも言えるでしょう。こんな人を我が国の総理にいただいてしまった・・・。今後が薄ら寒く感じます。今回の任期いっぱいまでの短命政権で終わってくれることを祈るばかりです。』
として厳しく問題を指摘しました。

一方、マスコミの論争では、「そもそも日本学術会議というのが胡散臭いのではないか」「総理が任命権を有しているのだから、推薦があっても任命しないことに違法性はない」など、論点外しの議論が盛んに論じられ、結果として6人任命拒否問題が陰に追いやられている気配がありました。
そこへ来て、以下の新聞記事です。

6人除外前の名簿「見ていない」 菅首相インタビュー
2020年10月9日 朝日新聞
『菅義偉首相は9日、朝日新聞などのインタビューに応じ、日本学術会議が推薦した会員候補のうち6人を任命しなかった判断について、安倍前政権ではなく現政権で下したと説明した。一方、6人を除外する前の推薦者名簿は「見ていない」と述べた。首相が名簿を確認した段階で、すでに6人は除外されていたとした。
首相は任命除外をめぐる判断の過程の一部を明らかにしたが、除外の理由は具体的に語らなかった。
首相は決定の経緯について「最終的に決裁を行ったのは9月28日。会員候補のリストを拝見したのはその直前」としたうえで、「現在の会員となった方が、そのままリストになっていたと思う」と説明した。
自身が確認した名簿は実際に任命した99人分で、学術会議が提出した105人の候補者名簿は見ていないとしたが、誰が6人分を除外したかは明らかにしなかった。
一方、6人を除外した理由について問われると、「総合的・俯瞰的な活動、すなわち広い視野に立ってバランスの取れた行動をすること、国民に理解される存在であるべきことを念頭に全員を判断している」「一連の流れの中で判断した」などと述べるにとどめた。推薦者の思想信条が任命の是非に影響するかは「ありません」と否定した。』

「今回除外した6人はこの方たちです」という情報が本当に菅総理に提示されなかったのかどうか、その点が今一不明確ですが、どうも「見ていない」ようですね。
そうとすると、「なぜこの6人を任命拒否したのか」が明言できないのは当たり前です。そもそも、下僚が勝手に6人を除外して決裁を挙げてきたのに対し、何の疑問をも呈さずに決済したことが、任命権者としてあまりに無責任です。

さて、「総理が実は6人を具体的に知らなかった」問題はさておき、「6人を拒否した根拠」についての今後の展開です。
今の世の中の雰囲気では、だんだん忘れ去られそうです。
現時点で日本学術会議会員は6人欠員なのですから、補充が必要なはずです。この6人補充に関して、学術会議側から今回任命拒否された6人をそのまま推薦する、という対応がよろしいと思います。
内閣総理大臣は、この6人を推薦通りに任命するのか、もしも任命拒否するのであれば、今度こそその根拠を明示することが求められます。

任免拒否された6人のうち、私が存じ上げているのは加藤陽子東大教授です。
このブログでもご紹介したように、加藤教授は、日本の近現代史に関し、総合的・俯瞰的に論じることのできる歴史学者の第一人者であることがうかがえます。加藤さんを、「総合的・俯瞰的な活動、すなわち広い視野に立ってバランスの取れた行動をすること、国民に理解される存在であるべきこと」「推薦者の思想信条は任命の是非に影響しない」という基準で任命拒否することは不可能でしょう。
そもそも、日本学術会議が「広い視野に立ってバランスの取れた行動をする」と要請されているのですから、会員の意見が偏るようでは主旨に違反します。「時の政権の政策に反対する意見の持ち主は任命しない」などという態度が許容されないことはもちろんです。
さて、欠員6人の推薦と任命に関する第2ラウンドを楽しみにしましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書・寺田千代乃さん

2020-10-09 22:00:23 | Weblog
2020年9月の日経新聞「私の履歴書」は、アート引越センターを創業した寺田千代乃さんでした。

アート引越センターが創業した1976年より以前、引っ越しというのは、引っ越す当事者にとって大変な重労働でした。書籍や食器などの家財を段ボール箱に詰めるのは家族の仕事であり、引っ越し当日までに終わっていなければなりません。引っ越し当日、職場の同僚が手伝いにかり出されます。段ボール箱をトラックまで運搬するのは職場の同僚です。運送会社のトラックは、ただ運転して引っ越し先まで移動するだけです。
引っ越しが終わると、引っ越し先では手伝いに来てくれた職場の同僚に飲食の接待です。

アート引越センターが創業して、引っ越しが大変革しました。段ボール箱の運搬はすべて引っ越し業者がやってくれます。お金さえ出せば、書籍や食器などの家財を段ボール箱に詰める作業まで引き受けてくれます。

アート引越センターを創業した寺田千代乃さんは、「引っ越し業」という新しい産業を創出したのです。これは、「宅配便」という新しい産業を創出したヤマト運輸の小倉昌男さんの業績に匹敵します。

寺田(旧姓:山本)千代乃さんは1947年1月、神戸市に生まれました。お父さんは化粧品のお店を持っていたのですが、友人の借金の保証人か何かで、寺田さんが小学校のときに夜逃げ同然に神戸を離れ、大阪に住みます。周囲は高校進学を勧めましたが、本人は中学卒業とともに就職する道を選びました。(2回3回
中学卒業後に勤めたのは大阪の繊維関係の会社で、転勤して和泉府中のインテリア店勤務となりました。「商品について勉強し、お客様の要望を聞いてお勧めの品を考える。そんな仕事が面白かった。」
中学卒業まで年末は叔父さんの化粧品店に手伝いに行き、叔父さんから「千代乃は商売に向いている」と言われました。「自分の工夫で商品が売れ、喜んでもらえる。その充実感やうれしさが次のエネルギーになる。今思えば、やりたい仕事の原点はこんな経験にあったような気がする。」
その後、梅田のインテリアショップに転職しました。「和泉府中、梅田の店に勤務している時、インテリアの基本を教えてもらった。その土台の上に自分の考えや感性を生かせる仕事。面白く、自分に合っていると思った。(4回(写真右))
2歳年上でのちに夫になる寺田寿男さんと付き合い始めました。「寺田とは交際したと言うより、独立して仕事をする夢を聞いて共感し、関係が近づいた気がする。(5回
寺田寿男さんは高校を中退した後、鋼材問屋でトラック運転手として働いていました。運送部門を切り離して別組織とし、寺田さんが引き継ぐ話が持ち上がりました。相談した寺田さんの親族がこぞって反対する中、千代乃さんは逆に背中を押しました。
社長から二人で来るように言われ、出向きました。千代乃さんは社長に気に入られたようで、「しっかりしたええ子やないか。あの子と結婚するんやったら任せる。」といわれました。1968年10月、23歳と21歳で二人は結婚しました。千代乃さんは経理を手伝い、税務申告の時期が近づくと、自宅の部屋に領収書などを広げ、青色申告の手引きを見ながら書類を作成しました。(6回
皆の頑張りで寺田運輸の業績は伸び、借金の返済も順調に進み、1972年に株式会社化しました。69年、70年に長男、次男が生まれます。
伸びる会社と思われたのか、社長から、株式を半分持つので共同経営にしようとの誘いを受けました。この出資話を断ると社長の態度が一変し、「3ヶ月以内に出て行け。もう仕事は出さん」と罵倒されました。(7回
会社の業績は厳しくなりましたが、寿男さんが開拓した新顧客の立石電機(後のオムロン)から、月極専属の仕事を受注し、専用のコンテナ車(箱車)を配置するようになりました。(8回)
オムロン専用の箱車が増え、これを活用できないかと考えた末に思いついたのが引っ越しでした。夕立が来て、荷台に引っ越し荷物を載せたトラックのドライバーが急いでシートをかけているのを見かけました。「箱車だったら荷物はぬれない。」そこで、寺田運輸引越センターの名称で電話帳に広告を載せました。仕事が増え、寺田運輸とは切り離し、別会社でやっていく方向になりました。電話帳で最初に載る社名ということで「アート引越センター」に決まりました。
「『いっそ、おまえが社長をやってみるか。おまえならできる』。寺田からそう言われた私は『やってみる』と答えた。」(9回)
運送免許を取る相談を陸運局に持ちかけたところ、千代乃さんは当時29歳、小柄で童顔なので経営者の娘が思いつきで考えた事業と思われたのか、丁寧な口調で軽くあしらわれました。その後申請が受理され、社員の募集を始めました。サービスへの理解を重視し、運転手経験のない人を採用するようにしました。(10回
電話番号に「0123」を採用したのは創業当時からです。個人で0123を使っていたお宅に伺って交渉しました。夜、譲っていただくお願いに伺うのが日課になっていたような時期もあります。
「その後も番号の入手には力を入れ、全国展開を終える頃には150以上、最終的には500以上の0123を所持できた。・・会社が大きく成長する原動力になった。」(11回
「引っ越しは人間相手のサービスであり、こころに訴えかける部分が大きい。あれこれ考えるのが面白かった。」「最初の頃は、クレームが新しいアイデアの種だった。」つなぎ服ユニホームの採用、引っ越し先で新しい靴下に履き替え、密閉したトラック内での家財の一括殺虫など。
当時、見積もり依頼を電話で受け、お宅に伺って交渉した後、電話を借りて会社に予約電話を入れます。それら電話代(20円)を袋に入れて目立たないところに置いておくサービスを始めました。口コミで次第に話題になり、新聞にも取り上げられました。(12回
CMを出す計画を立てますが、3ヶ月流すのに300万円ぐらいかかります。銀行に融資を打診しますが、貸してくれません。苦肉の策として、幹部らが個人で数カ月預金をし、融資を受けてCM資金を作ることになりました。コマーシャルソングを別制作する資金はないので、寺田氏と2人で詞を考えることにしました。作曲は当時無名の若手に依頼し、歌手だけは当時売れっ子の天知総子さんにお願いしました。15秒のCMが流れると電話が鳴る、その繰り返し。(13回)

東京進出に際しては、まず東京本部を開設し、東京と神奈川に3つの営業所を設けました。「大きな賭と言える決断をしたのは、大金をつぎ込んだCMと東京進出である。急成長を続けていたとはいえ投資額が大きかった。」全国展開するのに10年かかりました。
売り上げが30億円台の頃、100億円の目標を立てました。「一丸とはあの頃の社内の雰囲気を指すのかもしれない。」1984年100億達成しました。(14回・100億達成してダルマに目入れ

ここまでが、血湧き肉躍る、千代乃さんの真骨頂といえるでしょう。ここからは、さらなる事業の発展についてです。
海外進出(15回)
事業多角化(16回)
変調と奢り(17回)
反省と挑戦(18回)
時代とニーズ(19回)
顧客満足(20回)
株式上場(21回)
保育事業(22回
「年々、上場した意味が分からなくなっていた。株式市場からの資金調達はせず、上場で会社の社会的信用や修飾人気に大きな変化があったわけではない。一方、上場維持の費用はかさむ。ある日、役員らに思わず聞いてしまった。『ねえ、うちにとって上場のメリットって何かしら?』」
創業家が株式を取得・所有する会社を設立し、2011年、公開買い付けに踏み切りました。「今では、上場したことも、非上場化したことも、両方が正解だと思っている。」(23回)
審査会委員
「政府税調の会合が終わった後、委員で評論家の大宅映子さんから声をかけられた。『お飾りのかわい子ちゃんだと思っていたら、あなた、なかなか言うわね』」(24回
関西経済同友会(25回)
代表幹事就任(26回)
女性として
「経済団体で活動する女性はまだ少ない。『寺田さんの後に続く人がいない』と言われたこともある。」(27回)
不易流行(29回
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKスペシャル・加藤陽子先生と瀬谷ルミ子氏 (再掲)

2020-10-07 00:09:58 | 歴史・社会
日本学術会議と加藤陽子先生 2020-10-03 に記載したように、加藤先生の論述は、右にも左にも偏らず、リアリストとして歴史に向き合う姿勢です。私にとっては、日本近代史について、加藤先生の意見であれば傾聴に値する、と尊敬している学者です。
ここでは、その加藤先生が安保関連法案改正の問題について述べている、NHKスペシャルでのご発言を文字起こしした私のブログNHKスペシャル・加藤陽子先生と瀬谷ルミ子氏 2014-08-26の記事を再掲します。
--再掲-------------------------------
NHKスペシャル《シリーズ日本新生 戦後69年 いま"ニッポンの平和"を考える》(YouTube
2014年8月15日(金)午後7時30分~8時43分
日本紛争予防センター理事長の瀬谷ルミ子さんが出演するとご自身のブログで述べておられたことから、視聴に至りました。討論には、東大教授の加藤陽子先生も加わっておられました。
主に、「集団的自衛権」についての議論です。議論がどうしても抽象的になる中、瀬谷ルミ子さんの発言は、紛争地で活動するNGOが直面する具体的な問題に立脚して発言されている点が印象的でした。
瀬谷さんと加藤先生の発言はともに示唆に富むものだったとの印象を受けました。しかし、以前の記事にも書いたように、視聴から一夜明けるともう記憶の彼方です。「時間があったら発言の文字起こしをしておきたいものです。」とつぶやいていましたが、今回文字起こしに敢行しました。
時間がなかったので、加藤先生と瀬谷さんの発言のみをピックアップしてボイスレコーダに記録し、再生速度を2/3程度としてタイプしました。

-----------------------------------------------------
加藤:私は集団的自衛権の今回のやり方での容認には反対。どうしてかというと、抑止というようなことをいうけど、どうも抑止のイメージが20世紀における軍事力重視の抑止に見える。離島に例えば中国の軍艦の方たちが漁民を装ってやってきたときにどうしようという、そういうイメージは、中国が海洋国家でこれからやってくるんだぞという自分たちのイメージにうまく呼応しすぎているんじゃないか。本来の今の例えば危険というのはアメリカの偵察衛星、軍事システムなどはあそこの9割は何か経済情報を拾っているという。だから、攻撃の第一波というのはどうもたとえば他国の経済の大きな部分を揺るがしにかかるんじゃないか、というなことを感じる。歴史でいうと、戦争前に1934年頃には今度の戦争は艦隊同士の決戦だということで大艦巨砲主義でいく。でも太平洋戦争は空母と飛行機という明らかにフェーズが変わった戦争だった。抑止力だ、危険だというときに、イメージを限定して反応しているんじゃないか。
急速にその時代時代に変わることを想定しながら、危険だというようにいっていかないと危ないのではないか。

司会:瀬谷ルミ子さんは紛争地に平和をもたらしたりする活動をされているのですが、その立場でいうと集団的自衛権容認はどのように作用するのか。

瀬谷:平和を維持するために最低限の軍事力は必要だ。そういう意味では国連PKOを積極的に推進して、同時に派遣するからにはその地域に向けた  が求められている。期待を満たす形で守ることができる体制が整備されていくというのは歓迎すべきことと思っている。ただ同時に、今回の議論で日本周辺の有事、日本周辺の抑止力は多分に議論が行われているが、それ以外の地域で今回他の地域で抑止力になるかは議論されていない。
たとえば日本周辺で日米同盟深化なり集団的自衛権の行使容認で、中国や北朝鮮からの脅威から日本を守ることができると政府が説明しているが、世界の各地でアメリカが戦争に関わっているわけで、そういう地域で逆にアメリカと一体化することで日本に脅威が高まると思っている。そういう地域では逆に、日本独自に果たせる役割、逆に日本単独の方が中立性を保ち、仲介とか調停活動をできる地域もあるので、そういう意味で一律行使容認を歓迎していないが、他地域で生じるリスクを軽減するための法整備をあわせて行わないと、逆に世界各地で日本人が被る被害が拡大する地域があると思う。結果として、たとえば今のソマリア、アフガニスタン、イラクで日本が行うことが本国に対する攻撃に置き換えられる、そこはきちんと扱っていかなければいけない。


司会:武力行使新三要件が出てきている。これをどう考えるか。

瀬谷:私は先ほど申したとおり、国連PKOの現場で、政府が駆けつけ警護と呼んでいる、他国の軍を含めた攻撃されたときにこれを攻撃することができるというのは、他国の部隊も当然同じことができるので、それが容認されることは歓迎すべきだ。ただ、今回問題だと思ったのは、その説明のプロセスの中で、そもそもその説明の仕方の段階で、現場の実務を理解されないで話されたと思ったことが何箇所かあった。
国連のPKOは普通、特定の国がある国の特定の地域に派遣される。その地域外にNGOの日本人がいるからといってそこ(担当地域)を出てかけつけることは行われない。説明の仕方で誤解がある。
後同時に、(説明で)日本のNGOを使ったのも、危機管理の観点からふさわしくない。NGOは中立性の観点から国連軍であっても行動を一緒にしない、関係に気を遣っているNGOが欧米は多い。そんな中で政府から名指しで現地で軍から守られる存在ですとあれだけ公にされるというのは危機管理上マイナスになる。そういうことをPKOの現場で一番最初に教える。私もそういう講義をして最初に教えることだが、それを政府の中でわかっている人間がいなかったことの表れ。現場の観点からのリスク管理が今回のプロセスの中でかなり抜け落ちている部分がある。今回のプロセスの中でリスクヘッジの部分は必ず担保されなければならない。それがされないまま、行使容認がされたというプロセスには反対している。

司会:加藤さん新3要件の歯止め

加藤:岩田さんが今回の閣議決定のもの自体の限定はかなり限定されているという評価は正しい。私は容認に反対だが。基本的に新三要件の中の明白な危険は、国際司法裁判所が認定する際の集団的自衛権発動の三要件と同じ、それにもうちょっと限定をかけている。
VTRを見ていたときに、安倍総理大臣が切れ目のない限定としていたところが興味深い。切れ目がないというところはリスクが入ってくるかどうかの境目と思う。
たとえば集団的自衛権というものは、国際連合の集団的安全保障が機能するまでの、安保理で攻撃の発生が認定される、執るべき措置をこうするという安保理で決まるまでに集団的自衛権がとにかくがんばっていなさい。これは隣り合わせ。隣り合わせであるときに、集団的自衛権といったときに、攻撃の存在判断を集団的安全保障は安保理がやるが、こちらは結局、かかわる国がやるわけだ。攻撃があったかどうか。だからその、シームレスというが、切れ目のない安全保障といったときに、実はそのところで危ない、歯止めの線で危ないんじゃないか。このあたりを岡本さんに伺いたい。政府が最後に閣議決定に持って行く際に、集団的安全保障の言葉を入れようとした。集団的自衛権とは別の所で、何か閣議決定の中身を変えようとした動きもあった。その切れ目もないということで攻撃の認定を恣意的に集団的自衛権の場合はなるのではないか。

司会:重大なことになる良くない集団的自衛権は良くない。歴史的に見ていいと悪いの境目は。

加藤:そこは難しい。先程来日本はホルムス海峡を通る船の8割は日本の関係だということがあったが、あまり人と物は非常に動いているが、国境を接していないところは、危機感とか安全感というものは尚早に支持される部分がある。油が問題になるときに不安になるのは、ホルムズ海峡生命論じゃないが、やはり1931年以降の満州事変の時に、満蒙の危機、これ確かに危機だけど、どう満蒙で日本が虐げられていた権益上の不利は、中国大陸の本土での貿易で補完可能で、中国と正しい関係で経済的にうまくやっていけば良かった部分がある。満蒙の危機、満鉄線が包囲されるという象徴的なキーワードで危機があおられるときに付随してくる事件というのはやはり冷静な判断が国民もマスコミの側もできなるなる。

司会:瀬谷さんはそことは違うところでNPOの活動として紛争地で平和をもたらす活動をしていますが、どう聞いておられましたか

瀬谷:明白な危機はもちろんあるが、危機は逆に作られることもある。今回、日本の同盟国が攻撃されてそれに対して反撃することは自衛だから認めるべきとの議論があるが、そもそもその国が何で攻撃されたかをきちんと判断できる必要がある。今の議論で強化されなければいけないのはそこだ。日本が攻撃されているときは日本自身が情報を持っている。アメリカが攻撃された場合、攻撃される前のコンテクスト、アメリカがその前にとったアクションのせいなのかそうでないのか、判断できるだけの情報収集力が日本にあるのかというと現時点でそこはとても弱い。

瀬谷:私はシェラレオネとコートジボワールで国連PKO参加していてたが、私は国連PKOに積極的に参加すべき。代わりに多国籍軍に参加は控えるべき。
鳥越さんがいっていたことは開発手法の問題で、PKO赴任の主任務における不備ではない。開発手法ODAの現場でも日本で行っている支援が現地でどれだけ成果を上げているか、成果測定がされていない部分もあるのでその範疇で改善されるべき。

司会:日本はどのような国を目指すべき

加藤:自衛隊の活動に関わることでいうと、内閣府の世論調査では自衛隊は災害出動とPKOの活動をやるべきだということは国民の非常に幅広い支持がある。憲法9条と日米安保の自由主義経済を守るためのという、あの2つが、自衛隊と平和主義をあわせる、日本の東アジアにおける平和、他国に脅威を与えないというメッセージを出してきた長い歴史がある。積極的平和主義といったときにちょっとその言葉の出自に問題がある。自民党が2回、今まで憲法改正案を出していた。第2章「戦争の放棄」という大きな日本国憲法の第2章のタイトルが「安全保障」と名前にする。その次に「国防軍」という項にする。非常にこれは激変。それは困る。これはさすがに、積極的平和主義という言葉をまとった気がする。私は通常の穏健な平和主義で、国民が望む自衛隊も活動。それを周辺事態派遣法などの法律で丁寧に修正していくことで今は十分なのではないか。

司会:瀬谷さんが紛争地で経験しておられることで日本はこれからどうしていくべきか。いろんな国の活動を見ておられると思うのですが。

瀬谷:祈る平和も大事だが行動する平和もとても大事。私はそのための活動を現場でしている。今回の積極的平和主義の議論でいう、行動が軍事的なものに集約されているので誤解や懸念を生んでいる。非軍事的にできる平和を作るための行動を日本も政府として強化をしなければ行けない。
アフガニスタンに外交官として派遣されていたときに、当然現地にいたときにNATOやアメリカから自衛隊を派遣してほしいとの要請が来ていた。そのとき、イラクへの自衛隊派遣は決まっていたので、アフガニスタンでも日本がアルカイダやタリバンの攻撃対象となるリスクは上がった。
現場にいてつくづく思ったのは、日本が外交として切れるカードが少ない。日本が国際平和への協力を求められるときにお金を出すか自衛隊を出すかの二択しかない。他の国は、たとえば内務省や現地の国防省や財務省にアドバイザーとか専門家チームを派遣し、専門家チームが現地の政策なり対策を立て体勢を立て直すことでインパクトがある。貢献している。日本も中立的に見られる国は中東やアフリカをはじめ多いので、そういうところに派遣できる専門家チームなり人材なり、単に日本のごり押しで派遣する人間ではなく本当に現場を変えることのできる人間を養成する。日本として貢献される役割を果たすために切れるカード,オプションを増やしていく。非軍事的、経済的を含めて。現地の復興にも役立つ。そういうところを強化すべき。

司会:これから戦後70年という時を迎えていく。今日の議論を聞かれて私たちに問われていることは。

加藤:行使容認ということは日米関係にとって非常に大きな画期だったことはわれわれ自覚しなければ行けない。結局、日本の憲法を作ったのはアメリカだから、そのアメリカにとって憲法の大きな柱を変えるような防衛関係、安全保障についての変更を日本がしたのかな、というところをちゃんと押さえていかなければいけない。今後われわれは、沖縄の基地、集団的自衛権行使と沖縄の軽減負担を、もう一回再考するきっかけとして使わなければいけない。
                     以上
--再掲終わり-------------------------------

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(再掲)~菅総理・恐怖政治の始まりか??

2020-10-06 00:01:25 | 歴史・社会
前号に引き続き、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3) 2009-01-27の記事を再掲します。
--再掲-------------------------------
前回に続き、満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)を取り上げます。

日本陸軍の派遣軍の陣容は、現役兵を中心とする部隊ではなく、予備後備兵、補充兵を中心とする部隊でした。参謀本部第一部長の石原完爾は、あくまで対ソ連戦のために現役兵精鋭部隊を温存し、上海に補充兵中心の部隊を送り込んだのです。これが、上海から南京にかけての日本軍の軍紀弛緩の原因となりました。

この点は、上海での第百一師団 でも話題にしたとおりです。
「第百一師団長日誌―伊東政喜中将の日中戦争」(中央公論新社)に関する中央公論の座談会で、古川隆久日大教授は以下のように述べています。
「まず部隊の作り方がおかしい。急に日本で兵隊をかき集めて、そのまま二週間後には送り出してしまう。
この日誌から直接読み取れるところでも、師団長と連隊長の意思疎通がうまくいっていない。」
「中国と本格的な戦争になるなどとは思ってもいなかったと考えないと辻褄が合わない。」
「この日誌を読むと分かるのですが、行軍の時に、だんだんと統率が乱れていきます。」

こうして上海戦線に送り込まれた兵士たちがどのような体験をしたのか。秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)」から拾います。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
 なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
 『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
 日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
 ・・・
 ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」

満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)」に戻ります。
陸軍省軍事課長であった田中新一は、38年1月12日の乗務日誌に「軍紀風紀の現状は皇軍の重大汚点なり。強姦・略奪たえず。現に厳重に取締りに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なおたえず」と書きました。

戦争は日本軍にとって緒戦から困難な闘いとなり、37年中に動員された兵士は93万人に達します。その内訳は、召集兵は59万4千人で、現役兵の33万6千人の倍近くでした。戦争は続き、帰還兵による戦場の様相が少しずつ社会にも伝えられるようになります。
「陸軍次官通牒『支那事変地より帰還する軍隊及び軍人の言動指導取締に関する件』に例示されている帰還兵の話には、次のようなものがあった。
『兵站地域では牛や豚の徴発は憲兵に見つけられてよく叱られたが、第一線に出れば食わずに戦うことはできないから、見つけ次第片端から殺して食ったものだ』『戦闘中一番嬉しいものは略奪で上官も第一線では見ても知らぬ振りをするから思う存分略奪するものもあった』『戦地では強姦位は何とも思わぬ』。」
加藤著書ではここで、以前紹介した吉井義明「草の根のファシズム」 に言及します。上記「陸軍次官通牒」の出典が明らかにされていないのは残念でした。

満州事変、国際連盟脱退、盧溝橋事件から日中戦争へ、のそれぞれの時点で、特定の為政者の強い意思に基づくわけでもなく、もちろん蒋介石の仕掛けた罠でもなく、各人の思惑、日中領国の思惑がすれ違い、事態は悪い方へ悪い方へと転がっていった、というのが真相であるように理解されました。
--再掲終わり-------------------------------

以上、3回にわたって、加藤陽子先生著の満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)を見てきました。これからもわかるとおり、加藤陽子先生の論述は、右にも左にも偏らず、リアリストとして歴史に向き合う姿勢です。私にとっては、日本近代史について、加藤先生の意見であれば傾聴に値する、と尊敬している学者です。
このような学者について、菅政権は日本学術会議会員任命を拒否しました。政権は、拒否の理由について説明する気が全くないようです。この点については、これからも厳しく政権を追求していく必要があるでしょう。

マスコミの論争では、「そもそも日本学術会議というのが胡散臭いのではないか」「総理が任命権を有しているのだから、推薦があっても任命しないことに違法性はない」などが盛んに論じられています。しかしこれらの議論は、いずれも今回の問題に関しては論点外しの議論であると考えられます。
今回はあくまで、「立派な業績を上げている6人の学者が、その業績に基づいて推薦されているのに、理由も付されずに任命拒否された。」ことに論点を絞るべきです。
菅総理は今のところ、この6人を拒否対象として選んだ理由は説明しそうもありません。そもそも説明不可能でしょう。「時の政権の政策に反対の意見を表明したから」以外には理由がなさそうですから。

「理由も明かされずに突然拒否される。想像するに政権の方針に反対の意見を表明したかららしい。」
これって、独裁政権における恐怖政治ではないですか。
菅政権では発足当初から、恐怖政治をやり始めたらしい・・・。想像だにしない事態が勃発してしまいました。


さらに言えば、菅さんには学問に対する尊敬が欠如しているように思います。今回の6人について、おそらく、どんな業績を挙げてきた人たちか興味も持たず、知ろうともせず、ただただ「自分の政策に楯突く意見を表明した」とその点のみを見て決めてしまったのでしょう。
言い換えれば、菅さんは教養に欠けるところがある、とも言えるでしょう。こんな人を我が国の総理にいただいてしまった・・・。今後が薄ら寒く感じます。今回の任期いっぱいまでの短命政権で終わってくれることを祈るばかりです。

次号では、安保関連法案改正に関し、テレビの座談会で加藤先生が「今回のやり方での容認には反対」として条件付きのご意見を述べた際の文字起こしブログを再掲します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2)(再掲)

2020-10-05 12:54:35 | 歴史・社会
前号に引き続き、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2) 2009-01-27の記事を再掲します。
--再掲-------------------------------
それでは、前号に引き続き、加藤陽子著「満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)」を紹介します。

《日中戦争へ》
単なる発砲事件である盧溝橋事件が、なぜ全面的な日中戦争まで拡大してしまったのか。例の田母神論文では、日本が蒋介石に嵌められたことになっています。
盧溝橋事件の直後、現地では停戦協定が成立します。しかし蒋介石は、4箇師団を北上させる一方、まずは決戦の決心をなせとの命令を発します。
「日中両政府とも不拡大を希望しながらも、挑発には断乎応戦するとのスタンスを取った。」「日本側において当初から拡大論を唱えた者の中には、比較的リスクが低いと考えられた中国を相手とする紛争を名目にして臨時軍事費を獲得し、それによって産業五カ年計画(統制経済による軍需工業を軸にした重化学工業計画)を一気に軌道に乗せてしまおうとの目論見をもつ者がいた。」
日本と中国が、双方の思惑を読み間違い、双方の軍事力を読み間違えたことが、悲劇を生んだ、と言えるでしょうか。日本側で言えば、中国の軍事力を過小評価しすぎていました。ところが上海と長江流域には、蒋介石がドイツ人顧問団とともに育成した精鋭部隊8万を含む30万の中央軍が配備されていたのです。36年の統計では、ドイツは武器輸出総量の57%を中国に集中させ、国民政府軍はドイツ製の武器を用い、ダイムラー・ベンツのトラックで輸送し、ドイツ人顧問団に軍事指導を支援される状態にありました。
対する日本軍は、陸軍の到着までは海軍と特別陸戦隊の約5000名にしか過ぎませんでした。

上海では、蒋介石軍の攻勢に対し、日本海軍特別陸戦隊が壊滅の危機に瀕します。私のブログ記事石射猪太郎日記(2)の8月17日部分が、加藤著書に引用されています。
陸軍は上海に5師団からなる上海派遣軍を派遣し、さらに第10軍が編成されます。上海戦は「ベルダン(第一次世界大戦の激戦地)以来もっとも流血が多かった」と称される戦闘となります。
蒋介石は、日本軍を中国内陸部におびき寄せようと策略をめぐらしたのではないと思われます。もしそのような策略であれば、上海に日本軍を呼び入れ、巧みに後退して日本軍を内地に引き入れるでしょう。しかし上海戦の終盤になると、ドイツ人顧問団によって訓練され、ドイツ製の兵器で装備した近代的戦闘部隊が完全に消耗する痛恨の事態に見舞われます。上海戦に投入された中国軍は延べで70箇師団、70万、そのうち19万人が犠牲になったといわれています。蒋介石は、日本軍を罠に陥れるのではなく、本気で日本軍を上海で壊滅するつもりだったのでしょう。

日本陸軍の派遣軍の陣容は、現役兵を中心とする部隊ではなく、予備後備兵、補充兵を中心とする部隊でした。当時参謀本部第一部長であった石原完爾は、戦線の不拡大方針をとり、あくまで関東軍をはじめとする在支日本軍の主力は対ソ戦に備える方針だったからです。戦線の不拡大に失敗した石原は、9月27日に第一部長を辞任することになります。
「こうした陸軍の方針には、天皇もまた強い疑念を抱いていた。華北から華中に拡大した戦争に対する、戦力の漸次投入ほど拙策はない。不安に駆られた天皇は、8月18日、軍令部総長と参謀総長に対し『重点に兵を集め、大打撃を加えたる上にて、我の公明なる態度を以て和平に導き、速やかに時局を収拾するの方策なきや、即ち支那をして反省せしむるの方途なきや』と下問する。」
陸海統帥部がなした奉答は、航空機による爆撃であり、兵力の少なさを戦略爆撃で補完する発想でした。

事変の不拡大方針、その根本は正しい判断だと私も思うのですが、結果として「不拡大方針を取ったことから、事変は泥沼化し、かえって事変を拡大させる結果を招来した」という皮肉なことになったように思います。

以上のとおり、日本陸軍の派遣軍の陣容は、現役兵を中心とする部隊ではなく、予備後備兵、補充兵を中心とする部隊でした。これが、上海から南京にかけての日本軍の軍紀弛緩の原因となりました。この点についてはまた次回に。
--再掲終わり-------------------------------

以下次号。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」 (再掲)

2020-10-04 09:26:12 | 歴史・社会
日本学術会議と加藤陽子先生 2020-10-03 に記載したように、加藤先生の論述は、右にも左にも偏らず、リアリストとして歴史に向き合う姿勢です。私にとっては、日本近代史について、加藤先生の意見であれば傾聴に値する、と尊敬している学者です。その点を明らかにするため、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」 2009-01-25の記事を再掲します。
--再掲-------------------------------
たしか、今年の中央公論の3月号だったと思うのですが、「新書大賞ベスト30」という特集があり、そこで推奨された新書の大部分を私が読んでいないことが判りました。
その中の1冊に以下の本があり、いつか読もうと購入していました。
満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)
加藤 陽子
岩波書店

このアイテムの詳細を見る

1931年の満州事変勃発から、満州国成立、国際連盟脱退、そして盧溝橋事件から日中戦争が拡大する1940年までを対象にした歴史書です。
新書ですから、記載量には限りがあります。その制約の中で、「何が起こったか」を簡明に述べるよりも、「その深層に何があったか」を解明しようとする書です。従って、「この時期に何が起こっていたか」を詳しく知らずに読むと消化不良を起こしそうです。
かくいう私も、今年の春に購入した時点ではなかなか読み始める気力が沸きませんでした。ところがその後、「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書)」「外交官の一生 (中公文庫BIBLIO20世紀)」「外交五十年 (中公文庫BIBLIO)」などを読むチャンスがあり、この時期に起きた事柄を頭の中で整理することができました。その結果、上記加藤陽子氏の著書をスムーズに読むことが可能になりました。

しかし、読み終わってその内容をまとめようとすると、やはり内容が実に多岐にわたっているのに対し、新書という制限内の著述でしかなく、私の頭をきちんと整理するのが極めて困難であることを実感します。

満州事変前後の国際情勢を語る際に、「日本が有していた満蒙における特殊権益」という言い方がよくされます。
加藤氏の著書では、「特殊権益(日本の特殊な権利、日本の特殊な利益)」というものが、決して二国間あるいは国際的に認知されたものではなく、日本単独の独りよがりであったことを本の中で明かしていきます。

しかし当時の国民は、陸軍による宣伝活動が功を奏し、「日本は満蒙に特殊権益を有しているのだ」と信じて疑わなくなります。そのような日本の権益を侵害する張作霖、張学良、中国人民はけしからん連中である、ということになります。

《満州事変後のリットン調査団から国際連盟脱退まで》
満州事変後、国際連盟はいわゆる「リットン調査団」を派遣します。
団長であるイギリスのリットン伯爵自身は、紛れもなく中国に同情的でありましたが、リットン報告書は日本に好意的に書かれたものでした。アメリカ代表は「日本側は報告書の調子に満足するだろう」と述べていますし、日本の専門家のメンバーも「内容は全体的には日本に対して非常に好意的である」と評価します。
しかし日本はこの報告書に満足しません。主に、日本の特殊権益が認められなかったところが大きかったようです。
当時の外相である内田康哉は、満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であり、はやくから満州国独立・満州国承認論を論じていました。32年6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決されます。
国際連盟で、日本代表の松岡洋右は妥結に向け努力しますが、それを内田外相が葬ってしまいます。内田は国際連盟を脱退せずに済ます自信があったようです。
しかし国際連盟は、リットン報告書をベースとした和協案よりも厳しい内容の勧告案を採択します。

国際連盟脱退は、意外な展開に基づきます。
連盟規約16条では制裁について規定していますが、それは、15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えたときにだけ適用されると解釈されます。
関東軍は、「熱河作戦」を計画し、斉藤内閣はこれを諒承します。天皇も参謀総長の上奏に許可を与えます。この時点でまだ国連の勧告は決まっていません。しかし2月8日、連盟の手続が勧告案へ移行したことが伝えられます。斉藤首相と天皇は、熱河作戦が「新しい戦争」と解釈される恐れがあると気付き、うろたえます。
熱河作戦は撤回できない。16条適用もありうるかも知れない。ならば速やかに(連盟を)脱退すべきだとの方針を内閣は取りました。
こうして、日本は国際連盟から脱退しました。決して、松岡洋右単独のプレーではなかったのです。

以下次号へ。
--再掲終わり-------------------------------

以下次号。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本学術会議と加藤陽子先生

2020-10-03 10:58:50 | 歴史・社会
(時時刻刻)学問の自由、菅政権の影 学術会議、候補6人除外 安倍政権、2年前から検討 2020年10月3日 朝日新聞
『「日本学術会議」の新会員をめぐり、会議が推薦した候補者のうち6人を菅義偉首相が除外したことは、憲法が保障する「学問の自由」が問われる問題に発展しつつある。政権の意に沿わない人材を追いやる手法は、安倍政権から菅政権にも継承されるのか。菅政権は拒否の理由を説明しないままだ。
学術会議が推薦した人を首相が拒否することは過去一度もない。中曽根康弘首相(当時)は1983年、「政府が行うのは形式的任命に過ぎない。学問の自由独立はあくまで保障される」と答弁している。
■日本学術会議の会員に任命されなかった6人
●芦名定道・京都大教授(宗教学)
 近現代キリスト教思想などが専門で「安全保障関連法に反対する学者の会」に賛同している。日本宗教学会などに所属
●宇野重規・東京大教授(政治思想史)
 「安全保障関連法に反対する学者の会」の呼びかけ人の一人。2013年には、特定秘密保護法案に反対の立場を表明した。著書に「保守主義とは何か」「トクヴィル」など。
●岡田正則・早稲田大教授(行政法学)
 名護市辺野古沖の埋め立て承認を撤回した沖縄県に対して防衛省がとった法的手続きについて「行政不服審査制度を濫用するもの」と共同声明で批判。著書に「国の不法行為責任と公権力の概念史」
●小沢隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)
 衆院特別委員会の公聴会で安保関連法案について「存立危機事態の定義があいまい」と批判した。共著書に「安倍改憲と自治体 人権保障・民主主義縮減への対抗」
●加藤陽子・東京大教授(日本近代史)
 「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人の一人。福田康夫政権での「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」のメンバー。著書に「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」
●松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)
 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案を審議した参院法務委員会の参考人質疑で「共謀罪は必要ない」と発言』

6人が任命されなかった理由が全く不明のままです。6人の経歴(上記朝日新聞記事)によると、安倍政権における「安保関連法案」「共謀罪」の法改正に反対する意見の持ち主がほとんどのようです。一方で、6人がなしてきた学術における貢献が、学術会議の会員としてふさわしくなかったのかどうか、という点はまったく明らかでありません。

6人の中で、私がある程度存じ上げているのは加藤陽子先生のみです。
加藤陽子著「満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉」 (岩波新書)は、私にとって、半藤一利「昭和史1926->1945」とともに昭和初期の歴史を理解する上でのバックボーンになっています。以下のブログ記事としました。
加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」 2009-01-25
加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2) 2009-01-27
加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3) 2009-01-29
半藤一利「昭和史1926->1945」 2010-02-14

加藤先生の論述は、右にも左にも偏らず、リアリストとして歴史に向き合う姿勢です。私にとっては、日本近代史について、加藤先生の意見であれば傾聴に値する、と尊敬している学者です。

その尊敬すべき学者が、なぜ学術会議会員の任命から外されたのか。
(1)上記朝日新聞記事では『「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人の一人』と紹介されています。私は加藤先生がこの会の呼びかけ人であったことは知らず、そもそもこの会の存在も趣旨も知りません。この事実が学術会議会員の欠格事由にあたるようにも思えません。
(2)ブログ記事『NHKスペシャル・加藤陽子先生と瀬谷ルミ子氏 2014-08-26』は、NHKスペシャル《シリーズ日本新生 戦後69年 いま"ニッポンの平和"を考える》2014年8月15日(金)午後7時30分~8時43分を視聴した内容について記したものです。私はわざわざ、このテレビ番組での加藤陽子先生と瀬谷ルミ子氏の発言を録音し、文字起こししてブログ記事にしたのでした。この中で加藤先生は冒頭に、
「私は集団的自衛権の今回のやり方での容認には反対。どうしてかというと、抑止というようなことをいうけど、どうも抑止のイメージが20世紀における軍事力重視の抑止に見える。」
と発言されています。集団的自衛権について、「今回のやり方での容認には反対」として条件付きの意見です。
このような意見の表明が、学術会議会員の欠格事由にあたるようにも思えません。
(3)『除外された加藤陽子氏「首相官邸、学問の自由軽んじた」 10/2(金) 朝日新聞デジタル』によると、『任命されなかった一人、東京大学の加藤陽子教授(日本近代史)は「共謀罪」法案などに反対の立場を取ったことがある。』とあります。
このような意見の表明が、学術会議会員の欠格事由にあたるようにも思えません。

今まで調べた範囲では、加藤陽子先生の学問的な業績はとても立派なものであり、ぜひ日本学術会議で活躍していただきたい学者です。そうとすると、今回任命から外れた理由は、時の政権の政策に反対の意見を表明したから、というだけのこととなってしまいます。

報道では「学問の自由が損なわれる」とあります。しかし、加藤先生の学問の専門は日本近代史であり、その学問の内容で任命拒否されたのではなく、ご自分の学識経験に基づいて専門外の事項について意見を述べた、その意見が政権の方針と異なる、という理由で任命拒否されたように見えます。
これは「学問の自由の否定」というより、「思想信条の自由の否定」ととらえるべきと思われます。むしろ、菅政権の問題点としてはより一層深刻です。

次の発言以降で、加藤先生に関連する私のブログ記事を再掲し、加藤先生の学問内容についてご紹介していきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする