弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

掛川城訪問

2024-06-30 14:29:12 | 趣味・読書
6月29日(土)、掛川城を訪問しました。
東京-掛川間を新幹線こだまで往復する日帰りコースです。

12時過ぎ、掛川駅に到着しました。まず観光案内所(ビジターセンター「旅のスイッチ」)を訪問します。掛川でのおいしい食事についてきいてみると、やはりうなぎとのことです。当初は、掛川城訪問の後に食事をするつもりだったのですが、うなぎ店は1時半ごろにはお昼の部を終了するとのことです。そこで、まずは昼食をとり、そのあとでお城を訪問することにしました。
掛川城までの順路沿いで、甚八うな専が隣り合ってあります。まず甚八に到着すると、待ち行列が並んでいる上に、すでにお昼の部は終了していました。その隣のうな専は、並ぶことなく席に着くことができました。
琵琶湖の長浜では、うな重のボリュームがわれわれには大きすぎたので、ここでは一番下の値段のうな重を注文しました。

うな専
上の写真のように、うなぎが1枚半でした。長浜は3枚でしたが、われわれには1枚半がちょうど良かったようです。

掛川駅前の北口ロータリーからまっすぐ北上すると、掛川城の券売所に至ります。それに対してわれわれは、一つ東の道を北上したようです。大手門に至りました(下写真)。掛川駅からまっすぐ北上していたら、大手門は見逃しているところでした。

大手門
大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。


大手門番所
大手門をくぐるとすぐ、大手門番所があります。江戸時代末期に建てられたこの番所は、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所でした。この番所は、掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられました。現在残されている建物は、嘉永7年(1854年)の大地震で倒壊後、安政6年(1859年)に再現されたものです。


逆川(さかがわ)

下の2枚の地図で、白黒は現在、色鉛筆は当時を意味しています。

掛川城地図


掛川城地図


掛川城ジオラマ


掛川城鳥瞰図

券売所でチケットを購入して城内に入ると、まず四足門をくぐります。

四足門
調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。門の内側には、入場者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした。


内堀

主な見どころは天守閣と御殿です。ちょうど団体客が天守閣を訪れていたので、われわれはまず御殿を訪問することにしました。
御殿は、城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。現存する御殿は、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所しかない、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。

御殿


御殿


御殿

天守閣は、嘉永7年に起こった安政の大地震により損壊し、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年に廃城となりました。
掛川市民の掛川城天守再建への熱意と努力は平成6年に実を結び、天守は140年ぶりに木造で再建されました。

天守閣


天守閣

   四足門              太鼓櫓             本丸広場

天守閣から南方向

       大日本報徳社大講堂
二の丸美術館                      掛川城御殿

天守閣から東方向


天守閣内部の階段


太鼓櫓と天守閣を望む

掛川城由来
掛川城は戦国大名今川氏の重臣朝比奈氏の居城でした。今川氏の滅亡後、徳川家康の家臣が入城しました。家康が関東に移ると、天正18年(1590)に豊臣秀吉配下の山内一豊が入封しました。一豊はこの城を三重の天守をもつ近世城郭へと大々的に改修しました。
関ヶ原の戦いの後、山内家は掛川2万石から土佐20万石にと大出世し、その後、掛川城には多くの譜代大名が入りました。

天守閣に、山内一豊騎馬像があったので写真に収めました。

山内一豊騎馬像
天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻(千代)が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談があります。千代の嫁入り道具の鏡の柄の中に金が仕込まれており、これを取り出して馬を買ったというものです。この馬の働きで敵将を討ち取り、敵将が所持していた銘槍を奪って一豊が自分のものにした、という話が「功名が辻」に出てきました。
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オプジーボ特許紛争~本庶佑氏側から

2024-06-28 14:27:30 | 知的財産権
がん治療薬「オプジーボ」については、ノーベル賞授賞学者本庶佑氏と小野薬品との間で特許紛争があったことを承知しています。
このブログでは先日、「オプジーボ特許紛争~小野薬品側から 2024-06-27」として記事をアップしました。
この6月、日経新聞の「私の履歴書」は一方の当事者である本庶佑氏です。ここでは、私の履歴書の記事から、オプジーボ特許紛争の内容についてピックアップします。

本庶佑 私の履歴書(19)がん免疫療法
2024年6月20日 日経新聞
『「PD-1」は免疫が亢進(こうしん)するのをコントロールするブレーキ役を果たしている。ならば、がんや感染症、関節リウマチなどの自己免疫疾患、移植された臓器の拒絶反応といった、免疫制御の欠陥を特徴とする様々な病気の治療へと道が開けるのではないか。
1998年春ごろだった。研究室メンバー数人で将来の臨床応用への可能性を探る研究が始まった。(PD-1の)がんに対する免疫効果をいち早く見つけたのが当時、大学院生だった岩井佳子くん(現在、日本医科大学教授)だ。』
動物実験の結果、がん治療薬としての効果が発現してきました。成果が論文として公表される前に特許を押さえておかなければなりません。
01年、京大内の「発明委員会」で、大学としてきちんと特許を持つため、弁理士を雇って申請してほしい、と力説しました。しかし大学本部の知的財産を扱う部署は実態は「もどき」の組織で人も資金も足りません。
『「(特許の)申請や維持に相当のお金がかかる。大学では無理です。先生、どこか企業に頼んでください。」と、担当者の回答はそっけなかった。
PD-1の一連の研究には全く関与していなかったが、付き合いのある小野薬品工業に依頼せざるを得なかった。』

本庶佑 私の履歴書(20)オプジーボ
2024年6月21日 日経新聞
『「PD-1」に関する特許は、いくつかの別のテーマで共同研究していた小野薬品工業に援助をお願いし、特許出願することになった。
特許は普通、申請後1年半ほどで公開される。2002年の論文発表後、直ちに抗がん剤の開発に着手してほしいと小野薬品に依頼した。
しかし、小野薬品は関西を基盤とする中堅の製薬会社で、当時、がんに関する医薬品を扱っていなかった。臨床試験(治験)まで含めると数百億円かかるかもしれないハイリスクな開発に尻込みした。』
本庶氏は小野薬品の担当者にがん治療薬開発を迫りました。小野薬品は単独では無理なので共同開発のパートナーを探しました。1年かけましたが、どこからも開発協力が得られません。
その後一転して、小野薬品が「うちで開発をやる」と言ってきました。後からわかるのですが、04年頃、メダレックスという米ベンチャーが小野薬品に共同開発を持ちかけてきたのです。そして09年、巨大製薬会社である米プリストルマイヤーズスクイブ(BMS)がメダレックスを買収しました。治験は一気に加速します。
PD-1抗体(製品名オプジーボ)は14年、メラノーマを対象にがん免疫薬として承認されました。
『進捗状況について小野薬品からは知らされなかった。オプジーボ誕生のよろこびとは裏腹に、私の中に同社への不信感が芽生えていった。』

本庶佑 私の履歴書(23)特許係争
2024年6月24日 日経新聞
『重い決断を下さざるを得なかった。2020年6月、長年の共同研究先でがん免疫治療薬「オプジーボ」を製造・販売する小野薬品工業に対し、約262億円の支払いを求めて訴訟を起こした。
PD-1分子を使ったがん免疫治療には大きく分けて3つの特許がある。物質そのものに対する特許、免疫の仕組みに関する特許、そして薬につながる用途特許だ。いずれも私と小野薬品とが特許権者になっている。
小野薬品は米メダレックスと共同開発するにあたり、特許権の独占的使用を認めるよう私に求めてきた。』
本庶氏は当時、研究に多忙であり、小野薬品との交渉は京都大学にいた大手製薬会社出身の知財担当者にすべてを任せていました。この判断が失敗であったと本庶氏は言います。
本庶氏は、特許契約での自分の取り分が少なすぎると感じるようになりました。契約条件について再交渉が始まりました。
条件の見直しがまとまりかけていた頃、今度は小野薬品とメダレックスを買収した米BMSとが、オプジーボと似た薬を発売したメルクを特許権侵害で訴えました。本庶氏はこの訴訟への協力要請を受けたので、同時に提示された条件を前提にこれに応じることにしました。米国での特許訴訟は、ディスクロージャーであらゆる証拠の提出を求められ、本庶氏は科学者としては想像を絶する壮絶な争いに巻き込まれてしまいました。17年1月、小野薬品・BMSとメルクとの係争は和解が成立しました。
『製薬会社同士の紛争がようやく解決してよかったと思った。その後、私と小野薬品との紛争が続いたことは広く知られているとおりである。
21年11月、訴訟協力や発明の対価に対する私と小野薬品との係争は、裁判所からの勧告もあって大阪地裁で和解した。』

以上が、「私の履歴書」における本庶氏の主張です。
前報にも記載したように、産経新聞 オプジーボ訴訟詳報2021/9/2 によると、本庶氏が請求していたのは、オプジーボに似た薬を販売する米製薬大手メルクから小野薬品が得る特許使用料の一部についてとのことでした。小野薬品などはメルクを特許侵害で訴え、2017年1月、メルクが約710億円などを支払う内容で和解しました。
オプジーボに関する特許を共同で持つ小野薬品と本庶氏は以前から特許使用料の配分をめぐり対立していました。本庶氏は、メルク訴訟に協力すれば小野薬品に支払われる和解金の40%を配分するという提案を相良社長から受けたのに、実際は1%にとどまったと主張しています。これに対し小野薬品側は、40%の提案をしたことは認めていますが、本庶氏自身が「はした金だ」と一蹴したために金額交渉自体が決裂したとの見解です。「第三者から特許使用料を得た場合、1%の対価を支払う」としたメルク訴訟前の平成18年の契約に基づき、それまでに数億円を配分したと反論していました。

私の履歴書の記述によると、本庶氏はメルクとの訴訟への協力要請を受けたので、同時に提示された条件を前提にこれに応じることにしたつもりでいましたが、「同時に提示された条件(多分40%)」は本庶氏が蹴飛ばしていたことのようです。
メルク訴訟への協力要請をうけたときの協議に、本庶氏は法律・交渉事の専門家を同席させるべきだったですね。

それと、時々刻々、小野薬品から本庶氏への情報共有が不足していたようです。それが、本庶氏の小野薬品に対する不信感を増幅させたのでしょう。

小野薬品側は、契約を盾にとってごり押しするのではなく、妥当な条件での和解に応じました。これにより、両者の紛争は一件落着することができたようです。
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オプジーボ特許紛争~小野薬品側から

2024-06-27 11:42:23 | 知的財産権
がん治療薬「オプジーボ」については、ノーベル賞授賞学者本庶佑氏と小野薬品との間で特許紛争があったことを承知しています。

産経新聞 オプジーボ訴訟詳報2021/9/2 によると、
本庶氏が請求しているのは、オプジーボに似た薬を販売する米製薬大手メルクから小野薬品が得る特許使用料の一部についてです。小野薬品などはメルクを特許侵害で訴え、2017年1月、メルクが約710億円などを支払う内容で和解しました。
オプジーボに関する特許を共同で持つ小野薬品と本庶氏は以前から特許使用料の配分をめぐり対立していました。本庶氏は、メルク訴訟に協力すれば小野薬品に支払われる和解金の40%を配分するという提案を相良社長から受けたのに、実際は1%にとどまったと主張しています。これに対し小野薬品側は、40%の提案をしたことは認めていますが、本庶氏自身が「はした金だ」と一蹴したために金額交渉自体が決裂したとの見解です。「第三者から特許使用料を得た場合、1%の対価を支払う」としたメルク訴訟前の平成18年の契約に基づき、これまでに数億円を配分したと反論しています。

この6月、日経新聞の「私の履歴書」は一方の当事者である本庶佑氏です。
また、朝日新聞の6月14日15日の記事として、他方の当事者である小野薬品の前社長現会長の相良暁氏が発言しています。
そこでまず、小野薬品側の発言として、この記事の内容を取り上げます。本庶佑氏の発言については、回を改めて紹介することとします。

(けいざい+)オプジーボの先へ:上 変なもん、効き目ほんまもん
2024年6月14日 朝日
『「うちって変なもんやってますからね。そのひとつみたいな」
多くのがんの治療に使える画期的な仕組みを持つ薬「オプジーボ」を2014年、世界で初めて発売した小野薬品工業(大阪市)。社長を15年以上務め、この春会長になった相良暁(さがらぎょう)(65)は、第一印象をそう振り返る。兆円単位の売り上げを持つ世界のメガファーマが研究開発に毎年数千億円を投じるなか、中堅クラスの小野薬品が先んじた「快挙」だった。
・・・
オプジーボは、1980年代から交流が深かった京都大学特別教授の本庶佑との共同研究から開発に繋がった。がん治療に使うとして02年に特許を出願。
開発はなかなか進まなかった。
当時はオプジーボが人体の持つ免疫が働くようにしてがんをたたく仕組みは広く理解されてはいなかった。
担当者が医師に臨床試験を頼むと「こんなメカニズムで効くと思うてるような素人と一緒に仕事したない」「もし効いたら頭丸めたるわ」
12年、世界的権威の医学雑誌で高く評価され、14年にはメラノーマの薬として認められ、販売を始める。その後、肺がんや胃がんなどでも認められた。』

(けいざい+)オプジーボの先へ:下 「特許の壁」乗り越え、挑む海外展開
2024年6月15日 朝日
『小野薬品工業の売上高は、2014年にがん治療薬「オプジーボ」を発売してから、23年度までで3.7倍に伸びた。一方でその間、オプジーボによる二つの壁に直面した。
ひとつは、価格が高いとの批判だ。いまは、さまざまながんの治療薬として認められているが、日本では当初、患者が少ない皮膚がんの一種(メラノーマ)の治療薬として売り出した。投じた研究開発費なども考慮して採算が取れるよう、国が決めた薬価は100mg約73万円だった。』
一方、翌15年に肺がんに使えるようになり、薬価は半年おきに改定され、今は当初の1/5です。
『もうひとつは、共同研究をしていた京都大学特別教授の本庶佑との訴訟だ。本庶は18年、オプジーボに繋がる研究でノーベル生理学・医学賞を受賞。その後の20年6月、契約通りの特許使用料を得られなかったなどとして、約262億円を払うよう小野薬品を訴えた。
「対応を間違ったら、小野薬品のレピュテーション(評判)が悪くなってしまう。」相良はリスクを感じ、21年に和解に応じた。本庶に解決金などで50億円を支払い、若手の研究者を支援するための基金として230億円を京大に寄付することにした。だが、本庶と結んだ特許料の契約の内容を変えることには応じなかった。
製薬会社に限らず、企業は大学などと組み、さまざまな研究や開発に取り組んでいる。成功すれば目立つが、失敗することも多い。企業はそのリスクを負って資金を出している。
「研究が大きな成功に繋がったら、もともとの契約を変更して上乗せしてしまうと、産学連携に禍根を残すのではないか。」この裁判は自分たちだけの問題ではないと考えていた。』

それでは、私の履歴書における本庶佑氏の主張については別の記事でまとめます。
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五稜郭・志苔館訪問

2024-06-26 16:43:48 | 趣味・読書
北海道に出かける用事があり、6月21日(金)、函館の五稜郭と志苔館を訪問しました。
諸般の事情により、6月21日の朝に千歳のホテルを出発し、日帰りで五稜郭と志苔館を訪問し、その日のうちに新さっぽろのホテルに帰着するという行程です。函館への往復にはJRを利用しました。今回は私の単独行動です。

五稜郭は函館駅から北の方角に位置します。志苔館は、函館駅の東方、函館空港の近くに位置しています。
函館駅に到着すると、まずは駅の観光案内所を訪れました。志苔館往復のルートを検討するためです。
ヤフーの路線で検索すると、函館駅から路面電車で終点の湯の川まで行き、そこから徒歩40分で志苔館にいたる、というルートしか出てきません。観光案内所では、91系列のバスが運行していることを知らされ、時刻表をいただきました。ただし、1時間~2時間に一本しか運転されていません。
駅ビルの2階で昼食のラーメンを食しながら時刻表を確認したら、今から10分程度でバスが出発することが分かりました。そこで、訪問の順番として、まずは志苔館に向かうことにしました。

志苔館は、函館空港の南側、海岸の近くに位置しています。観光案内所では、志海苔の停留所で降車するように言われています。
さて、志海苔の停留所でバスを降ります。ここからが大変でした。志苔館の入り口に向かうルートが分からないのです。停留所は海岸近くにあり、その北側が海岸段丘で、海岸段丘を上がったところに志苔館の土塁があることは見て分かります。北へ向かって登る最寄りの路地(坂)をいくつかトライしましたが、途中で行き止まりになります。結局、バス停から西に少し戻ったところの川に沿って歩くと、やっとのことで志苔館の入り口を見つけることができました。

《志苔館跡》

志苔館平面図
入り口の案内に以下のように記載されています。
『志苔館跡は、函館市の中心部から約9km離れた標高25mほどの海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ、その外側には壕が巡らされている。
郭内は、東西70~80m、南北50~65mで、約4100平方mの広さがある。
また、館跡の正面にあたる西側には、二重に堀が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
松前藩の史書「新羅之記録」によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
この記述によれば、康正2年(1458)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。
戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討ち死にしたといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。』


志苔館断面図

志苔館入り口の手前に、木戸と柵が巡らされ、その先に石碑が建っています(下写真)。

木戸横の説明書きに以下のように説明されていました。
『志苔館和人殉難御霊      慰霊碑
   阿伊努(あいぬ)悵魂御霊
由緒
下北半島、津軽方面において南北朝の戦いに敗れし南朝方武士達、蝦夷地にのがれ移り住み、道南の処々に館を築きてありしが、康正2年(1458)志苔館付近にて阿伊努(あいぬ)の蜂起あり。
志苔館を始め道南の処々の館は次々と落とされ、わずか上磯の茂別館と上ノ国の花沢館が残るに至った。
ここにコシャマインの戦いに於いて亡くなりし館の主、和人殉難御霊、阿伊努(あいぬ)悵魂御霊双方を同一座にお祀りしたものであります。』

さて、志苔館の土塁の内側を歩き回りました。草ぼうぼうの原っぱで、周囲が土塁で囲まれているだけです。

土塁と右側は館の内部


館の内部から外側の土塁を望む

土塁の内側にはスタンプ設置場所はありません。土塁の外の四阿に、やっとスタンプを見つけました。

土塁外の四阿


四阿のスタンプボックス

以上の説明からもわかるように、志苔館は、南北朝時代に設けられた、周囲を土塁で囲んだだけの館跡です。1512年のすぐ後には廃城になっています。それから500年、よくぞ保存されていたものだと感心します。

志苔館訪問は以上の通りです。
これから、五稜郭に向かわなければなりません。
坂を下りてバス停留所に至りました。次のバスは1時間以上後です。タクシーを呼ぶことにしました。電話で予約したのですが、タクシーはなかなか来ませんでした。炎天下をずいぶん待たされ、やっとタクシーが到着しました。タクシーで五稜郭に向かいます。

《五稜郭》
五稜郭に到着しました。私は2度目の訪問です。時間に余裕がないので、とにかくスタンプに直行し、そのルートの写真撮影のみに限定しました。

外堀


二の橋


表門


箱館奉行所庁舎

100名城のスタンプは、五稜郭中心部にあるお休み処に設けられていました。


外堀


内堀

帰りの特急電車の出発時刻の関係で、今回は五稜郭タワーには登りませんでした。これでは、五稜郭の全体が全くわかりません。そこで、14年前に私が五稜郭を訪問した際の、五稜郭タワーから撮った写真を以下に掲載しておきます。私の別ブログ「9月20日・函館 2010-11-03」で記事にしたものです。





北海道には、200名城のうちの5箇所があります。そのうちの2箇所について、今回スタンプをゲットすることができました。
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特許による独占権の意義とそれを制約する制度

2024-06-19 11:51:00 | 知的財産権
特許制度に関連して、6月17日の日経新聞に2つの記事が掲載されていました。

第1は、「特許による独占権は必要である」との議論です。
日本に知財の「殿堂」を 杉光一成氏
金沢工業大学大学院教授(知的財産論)
2024/6/17 2:00日本経済新聞
『「知財」と略される知的財産は、その代表格である「発明」と同じくらい一般にも知られる言葉になった。しかし同じ発明でも、権利を持っている場合とそうでない場合とでは、天と地ほどの差がある点はあまり知られていない。
例えばペニシリンという世界初の抗生物質がある。発見したフレミング博士は「ペニシリンを独占することは人道に反する」と考え、特許を取らない判断をしたといわれる。この選択には納得する人が多いだろう。
しかし、権利のない、誰でも使える技術に巨額の投資をすることはリスクでしかない。特許権は、研究開発の成果への投下資本を回収できるようにした知財権のひとつであり、金もうけの手段ではない。』

弁理士である私も、特許制度の意義について聞かれたらそのように答えようと考えています。製薬会社が開発した新薬について、特許権存続期間においてはその製薬会社のみが独占的に製造・販売する権利を有しています。最近の新薬は特に超高額であることが多いです。「それはおかしい」という意見の人がいたら、
「その新薬が完成するまでには、失敗した多くのトライを含め、莫大な開発費が費やされています。もし特許によって独占権が付与される制度がなかったら、だれも新薬開発に巨費をつぎ込みません。今入手できるこの新薬は、特許制度がなかったら生まれていなかったでしょう。それこそ、人類にとっての不幸です。」
と説明するつもりです。

第2は、「特許による独占権を制限する必要がある」との議論です。
特許法には、特許権による独占権を制限するためのいくつかの制度が設けられています。
その一つが、公共の利益のために必要とされる場合に、特許権者ではない第三者に特許発明の実施(強制的実施)を認める、裁定通常実施権の制度です。
iPS特許、密室の決着 元研究者ら和解、公益性議論に課題
2024年6月17日 日経新聞
『理化学研究所などが持つiPS細胞関連の特許を巡り、元理研研究者らが特許を使用する権利を求めて国に起こした裁定請求が5月末、「和解」で決着した。元研究者らは条件付きで特許を使えるようになったが、焦点となった「公共の利益」を巡る議論は非公開のまま決着。専門家からは「貴重な議論が埋もれてしまった」との指摘も挙がる。
裁定請求は理研の元研究者、高橋政代氏が社長を務めるビジョンケア(神戸市)などが、iPS細胞関連の特許を使用する権利を求めて2021年に申し立てていた。・・・特許権者は理研、大阪大学、ヘリオスの3者だ。今回の和解で、ビジョンケアは患者自身のiPS細胞を使う「自家移植」の場合に限り、無償で特許を使えることになった。
公共の利益のために設けられている「強制実施権」だが、日本では発動例はない。』
裁定は、特許庁の審理機関の部会が担当し、部会から和解が勧められ、和解に至りました。しかし、部会が非公開であったことから、専門家部会で精力的に行われた議論が埋もれてしまいました。

コロナ禍の真っ最中、コロナワクチンが完成したにもかかわらず、必要とされる全世界に十分に供給されていない、という議論がありました。あのとき私は、「足りないのであれば、上記裁定による強制実施権を認めてもらい、製造能力を有している別の製薬会社が製造すれば良いのに」と思っていたところですが、そのような話は一度も表れませんでした。
結局、「公共の利益のために認められる「強制実施権」」制度、われわれ弁理士にとっては法律知識の一部に過ぎず、実務でお目にかかることはありませんでしたが、今回はじめて目にすることができました。

「特許権者に特許発明の独占的実施を認める特許制度は、産業の発達のために必須の制度だが、独占権であることにともなう弊害を除去するためのしくみも内蔵している。」
という点について紹介しました。
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東京大アタカマ天文台

2024-06-17 10:52:54 | サイエンス・パソコン
6月14日の朝日新聞記事に、大型赤外線望遠鏡「東京大アタカマ天文台」(TAO)についての記事が掲載されていました。

標高世界一の天文台、宇宙に迫る 日本、「すばる」に加え地球の裏からも観測
2024年6月14日 朝日
『口径6.5mの大型赤外線望遠鏡
南米チリの5千メートルを超える高地に大型赤外線望遠鏡「東京大アタカマ天文台」(TAO)が完成した。計画のスタートから四半世紀、「標高世界一の天文台」の建設は苦難の道のりだった。いよいよ始まる観測で、どんな宇宙の謎が解き明かされるのか――。
アタカマ砂漠の乾燥した大地にそびえるチャナントール山。TAOの観測施設が完成したのは、その山頂(標高5640メートル)だ。
TAO計画が始まったのは1998年。・・まずは仮設道路づくりから始めた。
酸素は平地の半分ほどしかない。「高山病を防ぐため、全員が酸素ボンベを背負って工事を進めた。」
日本の赤外線観測施設としては、北半球に国立天文台のすばる望遠鏡(米ハワイ)がある。南半球にも望遠鏡を置けば、北半球からは見えない天体を観測することができる。
アタカマ砂漠にあるチャナントール山・・山頂は空気が薄いのに加え、世界で最も空気が乾いている砂漠地帯にある
宇宙から地球に届く赤外線は、大気中の水蒸気に吸収されて弱まっていく。・・波長31.5μmの中間赤外線は、すばる望遠鏡(標高4200m)には5%しか届かず、欧州南天文台のVLT(標高2600m)にはほとんどと届かない。それがTAOには40%も届くという。
プロジェクトの開始から26年にわたって代表として主導してきた東京大の吉井譲名誉教授(銀河物理学)は・・・』

一方で、5月27日から31日までの日経新聞に、その吉井譲さんを紹介する連載記事が載りました。
世界一高い天文台を造る(1)
東京大学名誉教授 吉井譲さん
人間発見
2024年5月27日 日経
『南米チリに建設されていた東京大学アタカマ天文台(TAO)の望遠鏡施設が4月に完成した。標高5640メートルの山頂に位置し「世界一高い天文台」とギネスブックから認定され、宇宙の研究に新時代を開くと期待される。東大名誉教授の吉井譲さん(72)はプロジェクト代表として計画の立案から完成までけん引した。
TAOは日本の大学が単独で海外に天文台を建設する前例のないプロジェクトです。自分でなければ最後まで実行することができなかった、と自負する一方で、大勢の人たちに支えられてここまで来ることができた、と感謝しています。』

世界一高い天文台を造る(2)
2024年5月28日 日経
『病弱だったことなどから、あまり家の外に出ることがなかった。
母は体が弱く、私は子守がそばについている環境で育ちました。私自身も子供の頃は貧血で倒れることが多く、小学校で倒れて迎えに来てもらうことがよくありました。家で姉と2人で遊んだり、一人で好きなことをしたりしていることがほとんどでした。
まず興味を持ったのが昆虫採集でした。チョウの種類の多さと色の豊かさに関心を持ったのです。』
新潟高校-京都大学と進学しました。
卒業研究は、天体核物理を希望しましたが、申し込み直前にドライブで事故に遭い、九死に一生を得たものの、卒業研究の申し込みは締め切りを過ぎていました。希望する研究室は埋まっており、宇宙物理学教室で恒星系力学の研究に取り組みました。

世界一高い天文台を造る(3)
2024年5月29日 日経
『東北大学大学院に進学したが、期待した専門分野の研究はできなかった。
指導教官の高窪啓弥先生に転学を相談すると、京都大学の林忠四郎先生と同様に「やりたいことは独力でもできる。新たな分野にチャレンジをする機会だと思えばいい」と言われました。』
そこで始めたのが京大時代から気になっていたELS論文という銀河系の進化に関する有名な論文の読破です。筆者のひとりで銀河力学の権威だったリンデンベルに興味を持ち片っ端から論文を読んでいたのですが、この論文だけ異質だったのです
(ELS)論文では銀河系をとりまく古い星や球状星団でできたハローという部分が形成されるのに2億年かかると結論づけていましたが、吉野さんと2年先輩の斎尾秀幸さんが調べ直し、ハローの形成には30億年かかるという論文をまとめました。
銀河天文学の権威だったフリーマンがELS論文を批判する(吉井さんの)論文に興味を持ってくれました。日本学術振興会の海外派遣事業に応募するため、フリーマンに受け入れを打診すると「もちろん」との返事。オーストラリア国立大学ストロムロ山天文台に行くことになり、2年滞在しました。
(吉井さんは)それまでの常識を覆し、(宇宙項で)宇宙が加速膨張しているという論文を1990年に発表しました。
吉井さんは、クエーサーと呼ばれる銀河を使って距離を測定する新手法を考案し、その手法で宇宙モデルを決定したいと考え始めました。そのためには少なくとも口径2mクラスの専用望遠鏡が必要です。

世界一高い天文台を造る(4)
2024年5月30日 日経
『望遠鏡のハワイ設置が問題になった。
専用望遠鏡を作りたいと考えていた矢先の1994年、文部省(当時)が先端的な研究拠点整備のために新設するCOE(中核的拠点)形成科学研究費に、佐藤勝彦先生を代表とする東大グループも応募することになりました。「初期宇宙の探求」がテーマで、国立天文台から東大教授に転任したばかりの私にも声がかかり、喜んで参加しました。
「マグナム」と名付けられた望遠鏡はクエーサーと呼ばれる特殊な銀河を観測し、極めて遠い銀河までの距離を測定する新手法を確立することが目的でした。』
1998年前後、超新星爆発の観測を基に、宇宙の膨張が加速しているという論文が発表され、ノーベル賞を受賞しました。1990年に吉井さんが論文発表した予想(仮説)が実証されました。
マグナム望遠鏡ではクエーサーを使っても超新星と同じ100億光年くらいの距離までしか観測できません。(吉井さんは)どうしてもより遠いクエーサーまで観測したいという思いが募り、マグナム稼働前の98年にTAOのプロジェクトをスタートさせました。
最終的にチャナントール山に決めたのが2003年ころ。

世界一高い天文台を造る(5)
2024年5月31日 日経
『加速膨張する宇宙モデルが誕生直後の宇宙でも正しいか検証する観測に挑む。
東京大学アタカマ天文台(TAO)は宇宙が生まれた頃に近い極めて遠い銀河などの天体を観測することが、目的のひとつです。私自身はクエーサーと呼ばれる活発に活動する銀河を継続して観測し、銀河までの距離と銀河が地球から遠ざかる速度を正確に調べることに最も興味があります。それにより宇宙の加速膨張モデルが、誕生して間もない宇宙から現在まで本当に成り立っているかを検証できる。そもそもこれが私にとってのTAOの原点です。』
クエーサーは、ブラックホールがある中心核領域の明るさが時間的に変化します。中心核をとりまくガスなどの物質が出す光の明るさも変化し、中心核の変化とは時間のずれが生じます。ずれを調べると、クエーサーまでの正確な距離が計算できます。
宇宙が誕生してから138億年とされています。超新星爆発を利用した観測で、約100億年前の宇宙から現在まずの加速膨張が確認されましたが、誕生から間もない時期の宇宙でも加速膨張モデルが正しいかはまだわかっていません。TAOで100億光年よりも遠いクエーサーまでの距離を測れば、それが分かるはずです。
『今年4月の完成記念式典に参加した海外の友人からは「計画を聞いた当初は信じられなかったが、本当にやったんだな」と祝福されました。今後、望遠鏡の調整や観測装置の取付などを進め、本格観測を開始するファーストライトは25年の予定です。』

南米チリの、標高5640mの高地に口径6.5mの大型赤外線望遠鏡「東京大アタカマ天文台」(TAO)が完成しました。東大単独の事業であり、天体からの赤外線観測に最適であることなど、新しいことずくめです。このような事業が計画され完成した裏で、東大名誉教授の吉井譲さんの尽力があったことがわかりました。
また、吉井さん自身の研究テーマである、宇宙誕生から100億年前までの宇宙膨張の実態を明らかにすること、そしてそれによって吉井さんが提唱した宇宙膨張の加速を明らかにすることも実現できるでしょう。ノーベル賞の対象にもなりそうです。
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野尻抱影著「宇宙のなぞ」

2024-06-15 13:23:26 | 趣味・読書
私(1948年生まれ)は小学生の頃、「宇宙のなぞ」という本を愛読書にしていました。著者名は忘れましたが。

この6月、日経新聞の「私の履歴書」はノーベル賞授賞学者である本庶佑氏(ウィキ)(1942年生まれ)の物語です。
6月3日の記事「私の履歴書(3)生意気な小学生」で、以下の内容が紹介されていました。
『6年生の夏休み、野外学習の場に理科の先生が天体望遠鏡を持ってきた。のぞき込むと澄み切った夜空に浮かぶ土星のきれいなリングが幾重にも見えた。さすがにこれには仰天した。
思えばこれが自然科学に魅了された最初の出来事だった。「あの向こうはどうなっているのか。宇宙の果ては一体どこにあるのか」
野尻抱影が子ども向けに書いた「宇宙のなぞ」を読みふけった。岩波書店が出していた絵刷りの雑誌「科学の学校」も愛読書だった。
本を読んだり図鑑を眺めたりして、太陽フレアや地動説、火星の運河の有無などについて独学した。小学校の卒業文集には、将来、天文学者になりたいと記した。』

「宇宙のなぞ」・・・私が小学生時代に愛読していた本と同じ題名です。同じ本かどうか、確かめたくなりました。
ネット検索すると、古書店で3000円で販売している記事を見つけました。さっそく入手しました。

野尻抱影著「宇宙のなぞ」偕成社
昭和30年(1955)初版
昭和35年(1960)10版

さて、私が小学生の頃に愛読していた「宇宙のなぞ」と同じ本か否か。私は当時の本の中で一箇所だけ記憶している映像があります。「ノモンハン事件」の挿絵です。
探したらありました(143ページ)。

地球から星までの距離を「光年」で表すことの説明です。
「ヒコボシは16光年、タナバタは27光年、ミツボシは500光年、北極星となると1000光年、天の川の中のとおい星は7,8万光年という遠さです。」
そして、挿絵の説明として、
「今わたしたちのながめている星の光は、いつごろ輝いた光でしょうか?」として、
左から2つめの挿絵の説明として、
「ひこぼし 昭和14年(1939)ノモンハン事件がおこる」
としています。
これで、私が愛読していた「宇宙のなぞ」が、本庶佑さんが読みふけった本と同じであることが確認できました。

私が「ノモンハン事件」の存在を知ったのはこの本の挿絵からです。これがなければ、1960年当時の小学生がノモンハン事件の存在を知ることはなかったでしょう。
また、著者の野尻抱影氏が、1939年頃に起こった事象として、ノモンハン事件を取り上げたということは、当時の大人にとってノモンハン事件は強烈な印象で記憶されていたということでしょうか。
挿絵は、日本軍と思われる兵士が軍刀をかざして切り込み、ソ連軍と思われる戦車が燃えています。ノモンハン事件の中で、日本軍歩兵の火炎瓶攻撃でソ連軍のガソリン戦車を多数炎上させた事象を表しているのでしょう。このブログでは、ノモンハン事件での火炎瓶攻撃 2021-09-14で記事にしました。

ところで、ノモンハン事件が起こった1939年にひこぼしから発せられた光は、16年後の1955年に地球に達します。「宇宙のなぞ」の初版が発行された年です。私が今回購入した10版は1960年発行ですから、その光はとっくの昔(5年前)に地球に到着済みです。

最近の小学生が、著書「宇宙のなぞ」で得られるような知識をどのようにして得ているのか、今度孫(中学生)に会ったら聞いてみることにします。
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小谷城跡・長浜城訪問

2024-06-11 14:19:11 | 趣味・読書
6月9日(日)、滋賀県長浜市の小谷城(おだにじょう)(ウィキ)を訪問しました。
前日、大阪での所要を済ませた後に長浜駅近くのホテルに宿泊し、当日朝、JRで最寄り駅である河手駅に移動しました。
今回の小谷城跡訪問で最大の問題点はクマでした。クマとの遭遇を防ぐためには、小谷城跡の訪問を諦めるべきか否かという問題です。小谷城跡に登らない場合、近くの小谷城戦国歴史資料館で100名城のスタンプだけ押して退散することとなります。
ネットを調べても結論が出ません。現地の人たちの意見を聞いて決めることにしました。
まず、宿泊したホテルのフロントで訊きました。「大丈夫とまでは言い切れない」との回答です。
次に長浜駅の観光案内所で聞きました。やはり「ゼロとはいえない」というお答えです。
3番目は河手駅の観光案内所です。無人駅のようですが、観光案内所にはおじさんが詰めていました。聞いたところ、「心配することはない。しゃべったりクマ鈴を鳴らしながら行けば大丈夫」とのことでした。
最後は可手駅から乗車したタクシーの運転手さんです。やはり「心配ない」とのことでした。タクシーで番所跡まで到着すると、駐車スペースに何台かクルマが駐まっています。「何組かが登っているようなので、クマも近づかないのではないか」ということです。
私は、北海道で使用したクマ鈴を今回持参していました。リュックの背負いひもにくくりつけていたのですが、河手駅で調べたらなくなっていました。どこかで外れて紛失してしまったようです。これはがっかりです。クマ鈴が使えないので、話し声でこちらの存在をクマに伝えなければなりません。

下の絵図は、絵図の右端近く「現在地 番所」と記載されたところにあります。
100名山のスタンプは、絵図のやや右下の小谷城戦国歴史資料館に置いてあります。一方、小谷城跡を訪問する際、クルマで「現在地 番所」まで登ることができます。絵図の右端「大手道」と書かれている付近から小谷林道が山中に分け入り、終点が「番所」になっています。
河手駅で乗ったタクシーで、まず小谷城戦国歴史資料館に行ってもらい、一時下車してスタンプを押印し、そこから戻って小谷林道に入り、番所まで行ってもらいました。
そこから歩いて、絵図の中央やや上の「本丸」までが目標です。

小谷城跡絵図

小谷林道入り口で標高が100m、番所の標高が300mです。もしこのルートでタクシーを使わなかったら、番所までで標高差200mを登らなければなりません。高齢者のわれわれには負担です。本丸は標高350mです。番所までタクシーで移動したわれわれは、番所から本丸まで標高差50mを登るだけで到着できます。
本丸よりさらに上に行く場合、山王丸は標高398m、そこから六坊に下ると360m、さらに大嶽(小谷山)が495mです。

下の写真は、河手駅でわれわれを迎えてくれる浅井長政公とお市の方の銅像です。

浅井長政公・お市の方像

タクシーに乗車し、まずは小谷城戦国歴史資料館で途中下車して100名城スタンプを押印しました。下の写真を一枚撮影しただけで退散しました。

小谷城戦国歴史資料館

そして、戦国ガイドステーション付近で林道に入り、林道の終点である番所にてタクシーを降りました。上の絵図とともに、下写真のような看板がわれわれを脅かします。

クマに注意

番所から御茶屋跡、桜馬場、大広間、本丸までの途中、下のような鳥瞰図が置かれていました。

番所鳥瞰図
番所
小谷城の主要部への入り口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側は石垣上に一段高い平地がある。


お茶屋から桜馬場までの鳥瞰図


本丸・大広間鳥瞰図


御茶屋跡
番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。


カモシカ注意


馬洗池
馬洗池は湧水ではないが往時は年中水が絶えなかったという。

鳥瞰図によると、馬洗池のすぐ近くに井戸があります。この井戸からくみ上げた水を馬洗池に満たしたのでしょうか。いずれにしろこの山城が水源を持っていたことが明らかです。
籠城戦においては、食料は備蓄するとして、水が得られることが最重要事項です。小谷城において、このような高地(麓から標高差200m以上)において井戸から水が得られたということが、防備堅固な山城の重要ポイントでしょう。


首据石
黒金門跡の手前にあり、天文二年(1533)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。


浅井家及家臣佛・・


大広間
別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m、幅約35mで全面に高さ約4mの石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。

大広間の一番奥に、石垣が確認できます。本丸跡の石垣です。


本丸跡の石垣
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。


本丸跡

本丸まで到着したわれわれは、ここでUターンして下山します。番所まで至り、電話でタクシーを呼びました。しばらくして到着したタクシーは、登りで乗車した運転手さんと同じ人でした。
タクシーで河手駅まで、そこからJRで米原駅、新幹線で東京へと帰途につきました。

小谷城跡を登っていくと、各所で周囲の展望が開けます。
まずは、伊吹山方面の展望です。
        伊吹山
               大依山                       横山


           伊吹山
                   大依山             横山

伊吹山は、標高1377m、岐阜県と滋賀県の県境に聳え、滋賀県の最高峰です。
大依山は、「姉川の合戦」を前に、浅井・朝倉軍が軍議を開いた山です。砦跡が随所に残ります。
横山は、小谷の支城、横山城があった山です。その手前に流れる姉川を挟んで、元亀元年(1570)6月、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦いました。
姉川の合戦で織田方が勝利した後、信長は横山城を築城し、木下秀吉を配置して前線基地としました。

次に琵琶湖方面です。
       長浜城・彦根城方面                 虎御前山


               比良山系       竹生島     山本山城跡
虎御前山                          丁野山城跡
                    山崎丸   中島城跡      福寿丸

姉川の合戦の後、浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進しました。
山本山城は浅井氏の支城で、重臣阿閉貞行(あつじさだゆき)が守備していましたが、後に織田方に寝返りました。
丁野山城、中島城は浅井氏の支城でした。
山崎丸は、朝倉氏の重臣山崎吉家が守っていました。
福寿丸は浅井福寿庵が守っていました。

阿閉貞行の寝返りにより山本山城が手に入ったことで、織田方は小谷城の包囲が可能になり、越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功しました。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣しました。

1573年(天正元年)、信長は自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功しました。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えました(刀根坂の戦い)。信長は越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、虎御前山に帰陣しました。翌日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功しました。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害しました。さらに本丸も落ち、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡しました。
その後、小谷城は羽柴秀吉に与えられましたが、秀吉は1575年(天正3年)、北国街道と琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城としました(長浜城)。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。

今回、土曜に大阪で所用を済ませ、その日は長浜駅近くのホテルに宿泊し、日曜に小谷城を訪問しました。
長浜駅?と聞いて長浜城を思い浮かべました。そう、上記の通り、浅井氏が滅んだ後に羽柴秀吉の居城となった城です。
調べたら、立派な天守閣も再興されているではないですか。こんな有名な城で天守閣もあるのに、100名城、続100名城のいずれにも含まれていないのはなぜでしょうか。

土曜日、長浜駅を降り立ち、ホテルへの移動の途中で長浜城を訪問しました。

まずは、長浜城天守閣に向かって、ひょうたん状の切り抜きを有するモニュメントがあります。皆さん、切り抜きを通して天守閣が映り込むように写真を撮影しています。私も便乗しました。

ひょうたんの向こうに長浜城

天守閣に向かいます。
本日は時間が遅いので、天守閣と接続する長浜城歴史博物館は閉まっていました。

長浜城


長浜城

長浜城についてウィキで調べて見ました。上の小谷城との関係の深い人たちが出てきました。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)がこの地に長浜城を築城しました。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領しました。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加し、負けた阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑され、長浜城は羽柴氏の支配下に戻りました。
小谷城攻防で浅井側から織田方に寝返ったあの山本山城主の阿閉貞征ですね。
大坂の陣後の1615年(元和元年)、長浜城は廃城になりました。

日が暮れて、長浜駅近くに夕食に出かけました。長浜駅到着時、観光案内所で長浜名物として焼鯖そうめんのちらしをもらいました。ところが、現在19時半、お店はことごとく閉店しているのでした。
やむを得ず、魚民で夕食となりました。
夕食後、長浜駅周辺からホテルへ向かうと、長浜城がライトアップされているのが確認できました。到着時と同様、ひょうたんから長浜城を眺める写真を撮りました。

ひょうたんの向こうに長浜城
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