本年3月に、このブログで「何で今“教育勅語”?」として記事を書きました。
杉並の大宮八幡宮で、『誰にでも覚えやすい「教育勅語」(たいせつなこと)』(明治神宮崇敬会発光小冊子「たいせつなこと」より転載)をいただいたことに端を発します。
その後、あちこちで教育勅語が話題になっていることから、どんな意味内容なのか、原文を眺めることになりました。
《本文》
『(一)朕惟(ちんおも)うに、我が皇祖皇宗(こうそこうそう)、国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹(た)つること深厚なり。我が臣民、克(よ)く忠に克(よ)く孝に、億兆心を一にして世世(よよ)厥(そ)の美を済(な)せるは、此れ我が国体(こくたい)の精華(せいか)にして、教育の淵源、亦(また)実に此に存す。
(二)爾(なんじ)臣民、(1)父母に孝に、(2)兄弟(けいてい)に友(ゆう)に、(3)夫婦相和(あいわ)し、(4)朋友(ほうゆう)相信(あいしん)じ、(5)恭倹(きょうけん)己(おのれ)を持(じ)し、(6) 博愛衆に及ぼし、(7) 学を修め、業を習い、以(もっ)て智能を啓発し、徳器を成就し、(8)進んで公益を広め、 世務(せいむ)を開き、(9)常に国憲(こっけん)を重んじ、国法に 遵(したが)い、(10) 一旦緩急あれば、義勇公(こう)に奉じ、以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし。
是くの如きは、独(ひと)り朕(ちん)が忠良(ちゅうりょう)の臣民たるのみならず、 又以(もっ)て(11)爾(なんじ)祖先の遺風(いふう)を顕彰(けんしょう)するに足らん。
(三) 斯(こ)の道は、実に我が皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺訓にして、子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 、之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外(ちゅうがい)に施(ほどこ)して悖(もと)らず。
(四)(12) 朕、 爾臣民と倶(とも)に拳拳服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶幾(こいねが)う。
明治二十三年十月三十日
御名御璽』
一つ、論点があるようです。
『以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。』の部分は、その前のどの部分を受けているのだろうか、という論点です。
最近の論説では、上記部分の直前、『一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、』のみを受けているような解釈ばかりです(解釈1)。
一方、ウィキペディアの教育ニ関スル勅語には、さまざまな解釈が掲載されており、その中には、戦前の文部省が示していた解釈が含まれています。それによると、『以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。』の部分は、その前の、『父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、 学を修め、業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、 世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に 遵い、 一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、』の全体を受けているような解釈になっています(解釈2)。
解釈1でも、解釈2でも、結論ががらっと変わるわけではありませんが、全体が示すニュアンスは結構変化します。そして現時点で、どちらの解釈が正しいのか、私にはわかりません。ただしここでは、戦前の通説であったらしい解釈2を用いることにします。
それでは、本文の(一)と(二)前段の部分について、現代語訳を試みます。
『(一)明治天皇である私がおもうに、私の祖先である歴代天皇は、はるか昔にこの国をはじめ、徳を樹立してきた。
私の臣民が、「忠」と「孝」の2点において、億兆(現臣民と過去の臣民の全体?)が心を一つにして、代々、その美(天皇の徳?、臣民の忠孝?)を受け継いできた。このことは、私の「国体」の神髄かつ美しいところであって、教育の源もまさにそこに存在する。
(二)あなた方臣民、
「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、 学を修め、業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、 世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に 遵い、 一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、」
これにより、天地共にきわまりのない皇運(天皇、天皇家の盛運)を助けなさい。』
済す---受け継ぐ
天壌無窮---天地と共にきわまりのないこと
扶翼---助ける
上記(一)からわかることは、
(1)あくまで中心は天皇、天皇家である、ということです。
(2)天皇に対する「忠」と、(父母に対する)「孝」が価値の中心にすわっています。
(二)からわかることは、
(3)「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、」については、これだけ単独に取り出せば、「国の独立が脅かされたときは、命を懸けてでも国の独立を守る」との意味ととることができ、独立国の国民であれば普通に持ち合わせているはずの価値観です。
(4)一方、「父母に孝に」から「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、」までの徳目は、いずれも常識的な徳目が羅列しているように見えますが、これらの徳を持すことは、それ自身が目的ではなく、手段であることが明らかです。
(5)これら手段は何を目的としているかというと、まさに、「天地共にきわまりのない皇運(天皇、天皇家の盛運)を助けなさい」が目的です。
ところで、「国体」とは何でしょうか。
第二次世界大戦の末期、日本には「一億玉砕」というスローガンがありました。「一億」とは「国民全員」の意味ですから、「国民全員が戦死するまで戦おう」という意味であることが明らかです。国民全員が戦死しても守らなければならないものとは、一体何でしょうか。
どうも「国体の護持」が究極の目的らしいのです。「国体」が「国民」を意味しないことは、「一億玉砕」から明らかです。
そして「国体」とは、「天皇、天皇制、天皇を中心とした国の秩序」を意味するようでした。
以上のように考えると、教育勅語の「これ我が国体の精華にして」とは、「これは、天皇を中心とした国の秩序の神髄であって」と読み取ることができます。
ネットで検索すると、世の中には「教育勅語」の現代語訳がいろいろと登場しています。いずれも、私が行った上記解釈とは似ても似つかないものです。
しかし、ここ一週間ほど、つらつらと教育勅語を眺めた結果としての解釈は、上記私の解釈が妥当なところだとの思いを強くします。
この教育勅語、現代の教育現場で、どのような活用が可能でしょうか。
高校生ぐらいの年代で、各自に意味を解釈させた上で、グループで討論を行う、というような活用はありえるでしょう。
一方、小中、あるいは幼稚園で、暗唱させる、というのはどうでしょうか。暗唱とは、意味がわかろうがわかるまいが記憶させるということです。普通は、「普遍的に正しいこと」を暗唱させます。暗唱した本人たちは、それが正しいものとして記憶に定着するでしょうから。
上記私の解釈しか有り得ないような教育勅語を、訳もわからない子供に暗唱させていいはずがありません。
「憲法や教育基本法の範囲内で、幼稚園や小中学生に教育勅語を暗唱させる」という教育法はあり得ません。
杉並の大宮八幡宮で、『誰にでも覚えやすい「教育勅語」(たいせつなこと)』(明治神宮崇敬会発光小冊子「たいせつなこと」より転載)をいただいたことに端を発します。
その後、あちこちで教育勅語が話題になっていることから、どんな意味内容なのか、原文を眺めることになりました。
《本文》
『(一)朕惟(ちんおも)うに、我が皇祖皇宗(こうそこうそう)、国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹(た)つること深厚なり。我が臣民、克(よ)く忠に克(よ)く孝に、億兆心を一にして世世(よよ)厥(そ)の美を済(な)せるは、此れ我が国体(こくたい)の精華(せいか)にして、教育の淵源、亦(また)実に此に存す。
(二)爾(なんじ)臣民、(1)父母に孝に、(2)兄弟(けいてい)に友(ゆう)に、(3)夫婦相和(あいわ)し、(4)朋友(ほうゆう)相信(あいしん)じ、(5)恭倹(きょうけん)己(おのれ)を持(じ)し、(6) 博愛衆に及ぼし、(7) 学を修め、業を習い、以(もっ)て智能を啓発し、徳器を成就し、(8)進んで公益を広め、 世務(せいむ)を開き、(9)常に国憲(こっけん)を重んじ、国法に 遵(したが)い、(10) 一旦緩急あれば、義勇公(こう)に奉じ、以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし。
是くの如きは、独(ひと)り朕(ちん)が忠良(ちゅうりょう)の臣民たるのみならず、 又以(もっ)て(11)爾(なんじ)祖先の遺風(いふう)を顕彰(けんしょう)するに足らん。
(三) 斯(こ)の道は、実に我が皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺訓にして、子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所 、之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外(ちゅうがい)に施(ほどこ)して悖(もと)らず。
(四)(12) 朕、 爾臣民と倶(とも)に拳拳服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶幾(こいねが)う。
明治二十三年十月三十日
御名御璽』
一つ、論点があるようです。
『以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。』の部分は、その前のどの部分を受けているのだろうか、という論点です。
最近の論説では、上記部分の直前、『一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、』のみを受けているような解釈ばかりです(解釈1)。
一方、ウィキペディアの教育ニ関スル勅語には、さまざまな解釈が掲載されており、その中には、戦前の文部省が示していた解釈が含まれています。それによると、『以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。』の部分は、その前の、『父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、 学を修め、業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、 世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に 遵い、 一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、』の全体を受けているような解釈になっています(解釈2)。
解釈1でも、解釈2でも、結論ががらっと変わるわけではありませんが、全体が示すニュアンスは結構変化します。そして現時点で、どちらの解釈が正しいのか、私にはわかりません。ただしここでは、戦前の通説であったらしい解釈2を用いることにします。
それでは、本文の(一)と(二)前段の部分について、現代語訳を試みます。
『(一)明治天皇である私がおもうに、私の祖先である歴代天皇は、はるか昔にこの国をはじめ、徳を樹立してきた。
私の臣民が、「忠」と「孝」の2点において、億兆(現臣民と過去の臣民の全体?)が心を一つにして、代々、その美(天皇の徳?、臣民の忠孝?)を受け継いできた。このことは、私の「国体」の神髄かつ美しいところであって、教育の源もまさにそこに存在する。
(二)あなた方臣民、
「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、 学を修め、業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、 世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に 遵い、 一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、」
これにより、天地共にきわまりのない皇運(天皇、天皇家の盛運)を助けなさい。』
済す---受け継ぐ
天壌無窮---天地と共にきわまりのないこと
扶翼---助ける
上記(一)からわかることは、
(1)あくまで中心は天皇、天皇家である、ということです。
(2)天皇に対する「忠」と、(父母に対する)「孝」が価値の中心にすわっています。
(二)からわかることは、
(3)「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、」については、これだけ単独に取り出せば、「国の独立が脅かされたときは、命を懸けてでも国の独立を守る」との意味ととることができ、独立国の国民であれば普通に持ち合わせているはずの価値観です。
(4)一方、「父母に孝に」から「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、」までの徳目は、いずれも常識的な徳目が羅列しているように見えますが、これらの徳を持すことは、それ自身が目的ではなく、手段であることが明らかです。
(5)これら手段は何を目的としているかというと、まさに、「天地共にきわまりのない皇運(天皇、天皇家の盛運)を助けなさい」が目的です。
ところで、「国体」とは何でしょうか。
第二次世界大戦の末期、日本には「一億玉砕」というスローガンがありました。「一億」とは「国民全員」の意味ですから、「国民全員が戦死するまで戦おう」という意味であることが明らかです。国民全員が戦死しても守らなければならないものとは、一体何でしょうか。
どうも「国体の護持」が究極の目的らしいのです。「国体」が「国民」を意味しないことは、「一億玉砕」から明らかです。
そして「国体」とは、「天皇、天皇制、天皇を中心とした国の秩序」を意味するようでした。
以上のように考えると、教育勅語の「これ我が国体の精華にして」とは、「これは、天皇を中心とした国の秩序の神髄であって」と読み取ることができます。
ネットで検索すると、世の中には「教育勅語」の現代語訳がいろいろと登場しています。いずれも、私が行った上記解釈とは似ても似つかないものです。
しかし、ここ一週間ほど、つらつらと教育勅語を眺めた結果としての解釈は、上記私の解釈が妥当なところだとの思いを強くします。
この教育勅語、現代の教育現場で、どのような活用が可能でしょうか。
高校生ぐらいの年代で、各自に意味を解釈させた上で、グループで討論を行う、というような活用はありえるでしょう。
一方、小中、あるいは幼稚園で、暗唱させる、というのはどうでしょうか。暗唱とは、意味がわかろうがわかるまいが記憶させるということです。普通は、「普遍的に正しいこと」を暗唱させます。暗唱した本人たちは、それが正しいものとして記憶に定着するでしょうから。
上記私の解釈しか有り得ないような教育勅語を、訳もわからない子供に暗唱させていいはずがありません。
「憲法や教育基本法の範囲内で、幼稚園や小中学生に教育勅語を暗唱させる」という教育法はあり得ません。