弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

Windows 7 マシンでの思わぬトラブル

2013-09-30 19:36:57 | サイエンス・パソコン
今まで、自宅も職場もメインマシンはWindows XP Pro でした。Windows XPのサポート終了まで半年と迫ったこの秋、マシンをWindows 7 Pro 64bit に置き換えることとしました。

まずは自宅のマシンの置き換えがほぼ終了し、現在は職場のマシンについて置き換えをスタートしたところです。
自宅の新しいマシンで問題が発生しました。
新しいマシンでは、メールソフトとしてBeckey!を使っています。このメールソフトでは、暗号化のためにS/MIME plug-inというプラグインを用いています。
顧客から暗号化されたメールが届いたので、暗号の復号を行いました。大部分のメールは正常に復号できたのですが、一部のメールで復号時にトラブルが生じました。
「S/MIME error
復号に失敗しました。
ASN1 メモリ不足です。
(code:80093106)」
と表示され、復号ができないのです。このメールはメールサイズが「7,598,147」と表示されており、どうもメールサイズが大きすぎると復号に失敗するようです。
同じパソコン上にOutlookもインストールされているので、そちらで読んでみたところ、同じメールを問題なく復号することができました。

同じマシンで、ATOK2010をインストールしようとして、ダウンロードしてあったファイルをダブルクリックしたところ、解凍の途中で「解凍に失敗」と表示されてしまいました。
上記2つの問題は、大きなファイルの取扱中の事象であり、共通の原因かもしれません。

まずはメールソフトBeckey!の製造元であるRimArts Inc.にメールを出してみました。しかし、
「当方でテストした限りでは、10MB程度のメールでも特に不具合は発生しないようです。また、そういったご報告も今のところ他には受けておりません。
WindowsのAPI内部でエラーが起こっており、また再現性もないため、残念ながら原因の追跡は難しいかと存じます。」
との回答であり、問題は解決しませんでした。

そこで、ネット検索してみました。その結果、マイクロソフトの以下のサイトにたどり着きました。


『Windows 7で5 MBより大きいメッセージをデコードするときに「ASN1 メモリ不足です」エラー』(英語原文日本語機械翻訳
日本語機械翻訳は意味不明なので、一部英語原文によります。
『"ASN1 out of memory" error when the CryptMsgUpdate function decodes a message that is larger than 5 MB in Windows 7 or in Windows Server 2008 R2』

『Consider the following scenario:
 ・You have a computer that is running Windows 7 or Windows Server 2008 R2.
 ・You use the EnvelopedCms.Decode method in a Microsoft.NET Framework application to decode a message that is larger than 5 megabytes (MB).
In this scenario, the application cannot decode the message. Additionally, you receive an error message that resembles the following:

Unhandled Exception: System.Security.Cryptography.CryptographicException: ASN1 out of memory.(日本語訳「ASN1 メモリ不足です。」)

修正プログラムの情報
サポートされている修正プログラムがマイクロソフトから入手可能です。ただし、この修正プログラムはこの資料に記載されている問題のみを修正するものです。この資料に記載されている問題が発生したシステムにのみこの修正プログラムを適用します。この修正プログラムはさらにテストを受ける可能性があります。したがって、この問題で深刻な影響を受けていない場合は、この修正プログラムを含む次のソフトウェア更新のリリースを待つことをお勧めします。』

私が悩まされていた問題について述べていることに間違いありません。
サイトの指示に従って、修正プログラムを入手しました。

さて、上記「この問題で深刻な影響を受けていない場合は、この修正プログラムを含む次のソフトウェア更新のリリースを待つことをお勧めします。」との注意書きは気になるところです。導入したことによる副作用が発生するかもしれません。
また、マイクロソフトから到着したメールにも以下の記載があります。
『警告 : この Hotfix はマイクロソフトによる完全なテストが行なわれておりません。以下の点につき、あらかじめご理解の上ご利用をお願いいたします。
・修正プログラムダウンロードのためのリンクと共に記載されている "サポート技術情報番号"に記載されている問題が発生しているシステムまたはコンピュータのみでの使用を目的として提供されるものです。
・この修正プログラムについて、互換性やインストールに関し何らかの問題が発生するおそれがある場合は、次のサービス パックがリリースされるまでお待ちになることをお勧めします。サービス パックには、完全にテストされた修正プログラムが含まれます。』

しかし、自宅のパソコンでもあり、ここは人柱として試してみることとしました。

入手した修正プログラムをパソコン上で実行しました。
Windows Updateの「インストールされた修正プログラム」には「Microsoft Windows (KB2480994)の修正プログラム」という名前で登録されていました。

この結果、「Beckey!でファイルサイズの大きいメールの復号ができない問題」「ATOK2010のインストールファイルが解凍できない問題」はいずれも解決し、問題なく処理ができるようになりました。
今のところ、この修正プログラムを導入したことによる副作用も経験していません。

しかし、なんで私の新しいWindows 7 マシンに限ってこの問題が発生したのでしょうか。この点が理解に苦しむところです。
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カミカゼは自爆テロか?

2013-09-28 14:31:10 | 歴史・社会
百田尚樹著「永遠の0 (講談社文庫)」の中で、新聞記者の高山が、「神風特別攻撃は自爆テロだ」「特攻隊員はテロリストだ」との主張をしています。最近、一般社会でもこのような見方があるようです。
特に911同時多発テロとの類似性からこのような見方が広まったのでしょう。

神風特別攻撃と911同時多発テロを対比すると、類似点および相違点が見つかります。
類似点:
航空機を使った自爆攻撃である
相違点:
目標が軍人(軍艦)か民間人(民間施設)かの相違がある

一般に、所定の要件を満たす戦闘行為(相手を殺戮する行為を含む)は犯罪とはされていません。それに対してテロ行為は、絶対に許されない悪であり、犯罪であるとされています。特に911以降。そうとすると、特定の攻撃(人を殺戮する攻撃)が、戦闘行為なのか、それともテロ行為なのか、を峻別することが非常に重要です。

そこで、テロの定義についてネットで調べてみました。
明確な定義はないようです。ひとつ、テロリズムの定義 - 国立国会図書館(Adobe PDF)が見つかりました。
『「テロリズムに対する資金供与の防止に関する国際条約」第2条第1項bによると、
「あらゆる文民に対して、あるいは武力紛争状態において戦闘行為に直接参加していないあらゆる人に対して、死又は重大な身体的損傷を引き起こすことを目的とした(中略) いかなる行為も、その行為が、その性質又は状況に照らして、住民を威嚇し、又は政府若しくは国際機関に行為若しくは不作為を強制することを目的とする場合」には、犯罪を構成する。
これをテロリズムの定義と捉えることは可能だろう。これは、二つの要素から構成されている。一つは、文民たる住民が被害を受けることであり、もう一つは、政治的秩序の破壊である。』
『2 テロリズムと戦争法規
戦争は、テロリズムと同様に、非戦闘員に対しても大きな恐怖を引き起こす。時には、国家の戦闘員によって非戦闘員に対して、テロリズムのような暴力が行われることもある。・・・軍隊は、戦争を行っているときに、しばしば戦争法規を無視し、市民に対し暴力を行使することもあるが、このような行為にテロリズムというレッテルが貼られることはほとんどない。軍隊の暴力とテロリズムの間の、一般に共通する区別は、現在のテロリズムの標的が、首尾一貫して非戦闘員であるということである。軍隊は、主として敵の軍隊と戦うが、例外的に非戦闘員も標的になってしまうことがある。』

上記テロの定義に従えば、神風特別攻撃はテロではありません。
むしろ、太平洋戦争末期、東京大空襲や広島・長崎原爆投下こそ、文民たる住民が被害を受け、日本の政治的秩序を破壊しようとの意図がありますから、テロの定義に合致します。
また、米軍戦闘機(グラマンやムスタング)の機銃掃射で日本人小学生が射殺されたこともテロに近いですが、「政治的秩序の破壊」という目的はなかったでしょうから、単なる殺人かもしれません。

イラク戦争中のファルージャを例にとってみましょう。
ファルージャは、バグダッド付近にあって、スンニー派トライアングルを構成する小都市であり、イラク戦争中に二度にわたって米軍から大規模な攻撃を受けました。1回目の攻撃では、米軍機の空爆により、大勢の女性・子供を含むイラク人が殺害されました。イラク人は「一家に一台」の銃を持っていますから、男性は外見上「武装勢力」に入れられてしまいますが、だからといって「空爆で殺害が許される戦闘員」に入るかどうかは難しいです。しかし、空爆を行う米軍機が「テロリスト」と呼ばれることはありませんでした。逆に、「テロとの戦い」を戦う「善」であると。
同じ頃、ファルージャ近くを通過した日本人が拘束され、人質となりました(イラク日本人人質事件)。私の観るところ、米軍によるファルージャ攻撃で怒り心頭に発した地元の青年団(当然ながら銃を持っている)が、たまたま付近を通りかかった日本人を人質にして政治的主張を行ったものでした。これを日本のマスコミは「テロ行為であるから『絶対悪』であって許されない」と激しく非難しました。
何かおかしいです。

「永遠の0」に戻ります。
高山記者は、「カミカゼはテロである」との主張の中で、その根拠として以下のようなことも述べています。
○ 特攻隊員は、国のために命を捨てることをむしろ誇りに思っていた。
○ 天皇にこの身を捧げる喜びを書いたものもあり、彼らは心情的に殉教的自爆テロリストと同じだ。信念のために命を捨てるという一点において共通点が認められ(る)

これら根拠は、「テロ」とは何ら関係がないですね。
戦闘に直面するすべての軍人は、「国のために命を捨てることをむしろ誇りに思っていた」まではいかなくても、「死にたくはないがここは勇敢に戦おう」との思いがなければ、不利な状況下で戦闘に参加できないでしょう。アメリカ軍人だっておなじです。
攻撃が「自殺的」であればテロに近づくのでしょうか。しかし、第二次大戦中に玉砕した各地の日本軍の最後の「バンザイ突撃」がテロであった、と観る人もいないでしょう。
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暴戻なシリア政府軍を膺懲する

2013-09-26 21:57:36 | 歴史・社会
シリア内戦の現場で化学兵器が使用されたという事実に基づき、米国のオバマ大統領がシリア政府軍を空爆する方針を提示し、一時は騒然としました。その後、ロシアの提案で知り得政府軍側の化学兵器を国際管理する方向で米国も同意し、当面はシリア空爆の危機は去りました。

私がシリア紛争と日本の対応で書いたように、シリア内戦の実態は、決して「暴虐なシリア政府軍 vs 民主勢力」という構図ではなく、反政府軍側は国民から乖離した軍事勢力となっています。また、アサド政権を倒したら、その後のシリアは現政権よりも混乱した世の中になる可能性が高いです。イラク戦争でフセインを倒した後のイラクが参考になるでしょう。

そんな中、オバマ大統領はなぜシリア政府軍に対する空爆を言わざるを得なかったのか。それは、「化学兵器使用はレッドラインだ」と以前発言したからのようです。一方で、オバマ大統領はアサド政権を倒す意図までは持っていないようです。そうするとその発言は、「いかなる国であれ、暴虐な行為が行われたら懲らしめなければならない」という価値観が基礎になっていると思われます。

「暴虐な行為が行われたら懲らしめなければならない」
「暴虐なシリアアサド政権は懲らしめなければならない」
と来ると、いにしえの四文字熟語を思い出します。

「暴支膺懲」(暴戻(ぼうれい)な支那は懲らしめなければならない)

これにならえば、今回のオバマ大統領の方針は

「暴シ膺懲」「暴叙膺懲」(シリア=叙利亜)

と呼べそうです。

そこで、「暴支膺懲」について振り返ってみます。

1937年、北京近郊の盧溝橋で発生した中国側による発砲事件は、当初は現地にて日本と中国の間で停戦協定が結ばれました。ところが、国民政府の蒋介石は、この事件を奇貨として日本軍を中国大陸から追い落とそうと画策したのです。
盧溝橋事件が発生する前の段階で、蒋介石はドイツ軍事顧問団の協力のもと、上海の周辺に強力な軍事施設を敷設し終わっていました。そしてこの軍事施設をベースとして、蒋介石はドイツから購入した強力な兵器で武装した軍隊をもって、上海に駐屯する日本軍(海軍陸戦隊)を攻め立てたのです。
私はこのときの顛末を、阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」()として記事にしました。
このいきさつ、あるいはその直前に北京付近で発生した通州事件を知れば、ときの日本政府および日本国民が「暴支膺懲」(暴虐な支那は懲らしめなければならない)といきり立つ気持ちもわかります。

こうしてみると、オバマ大統領によるシリア政府軍空爆の意思も、支那事変勃発直後の日本政府の意思も、動機とするところは大同小異であるように思われます。

ただし、大きく違うところは、終わり方です。
オバマ大統領は、議会の承認を得ようとすることで時間稼ぎし、稼いだ時間のうちにロシアから提案があり、アメリカがその提案に乗ることによって空爆開始は回避されました。
一方の支那事変時における日本です。大変な犠牲を払った結果として上海から蒋介石軍を駆逐しました。ここで戦闘をストップさせていたら、日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。ところがそうではなく、日本軍は南京を攻略する方向に舵を切ってしまったのです。
こうして、日本は日中戦争の泥沼に足を突っ込むとともに、攻め落とした南京では南京大虐殺の汚名をきることとなりました。

なお、満州事変直後の第一次上海事変では、司令官の白川大将の勇断によって戦闘は上海のみでストップしました。これに対して盧溝橋事件直後の上記第二次上海事変では、上海での戦闘がほぼ終結した後に杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将が、独断で南京攻略に進撃しようとしました。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまったのです。
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百田尚樹著「永遠の0」

2013-09-24 00:29:03 | 趣味・読書
永遠の0 (講談社文庫)
百田尚樹
講談社

職場の同僚から借りた上記の本を読み終わりました。
まだ読み終わる前、この小説のヒントになったのではないかと感じた古い書籍があったので、「ワレ本日二機撃墜」としてすでに記事も書いています。
読了後、「永遠の0」の巻末に「主要参考文献」のリストが掲示されていることに気づきました。この文献目録のなかには、「ワレ本日二機撃墜」が掲載されている、豊田穣著『撃墜』―日米空戦記 (光人社NF文庫)はあがっていませんでしたね。残念ながら私の推測は外れたのでしょうか。

私も太平洋戦争中における零戦の物語についてはいろいろと読んできました。柳田邦男著「零戦燃ゆ〈1〉 (文春文庫)」、岩井勉著「空母零戦隊 (文春文庫)」については、「永遠の0」「主要参考文献」にも掲載されていました。
これら私が過去に読んできた文献からの記憶と、「永遠の0」の記載とを比較してみると、少なくとも戦場で起きている事象については非常に正確に再現されていると理解できました。登場人物の内面については、当時の当事者と同じ心理風景であったか否かは当然ながら推測できませんが。
たまたまネット検索で見つけた、粕井貫次さんの書き下ろし個人エッセイ『「永遠の0」百田尚樹著を読んで』において、
ご本人の戦争体験については、
『私は13期海軍飛行専修予備学生で昭和18年 9月に入隊、93式水上中間練習機、零式三座水上偵察機、九四式水上偵察機の操縦を学び、九三式中間練習機の教官をへて特攻編成、出撃30分待機をへ て終戦を迎えました。搭乗時間550時間、元海軍中尉。』
と紹介されています。
そして、「永遠の0」に関して、
『戦後しか知らない著者の記述には時おり間違い勘違いなどが多いものですが、この小説には全くといってよいほど、それがありませんでした。』
と評されています。実際に体験された方の評価ですので、そのとおりなのだと思います。

この小説の構成は、現代に生きる二人の姉弟が、太平洋戦争末期に特攻で戦死した実の祖父の足跡を知ろうとして、祖父の当時を知る存命の方々を訪ね歩くストーリーとなっています。それら存命の方々が語る戦争の実録は、太平洋戦争について予備知識が何もない人にとっても、太平洋航空戦史をそのまま実感することができます。
神風特別攻撃隊は、形の上では志願したことになっていますが実態は強制でした。このような形で死んでいく特攻隊員の心の中を、現代の我々が推し量ることはとても困難です。この小説は、現代の若者の目を通して特攻の実録を見る形をとることによって、あの時代を生き、そして特攻で死んでいった若者たちを現代の我々に身近なものとしてくれているようです。大手新聞の高山記者を登場させることによって、いろいろな考え方を対比させることにもなっています。

また、太平洋戦争、および太平洋航空戦史に関し、後世に伝えておきたいエッセンスの多くの部分がこの小説の中にコンデンスされていると感じました。
例えば私は、「日本が太平洋戦争まで突き進んでしまった根源は、日露戦争のポーツマス講和条約後の日比谷焼き討ち事件にさかのぼるのではないか」との印象を持っているのですが、この本でも同じことが語られていました。
さらに、私が『堀越二郎著「零戦」角川文庫』で書いた“零戦と太平洋戦争の全体感”についても、この小説では私と同じ全体感を共有し、さらにその根拠についても過不足なく述べられていました。

ところで、「永遠の0」巻末参考文献の中に「戦艦ミズーリに突入した零戦」との書籍が掲載されていました。
戦艦ミズーリに神風特攻で突入した零戦については、下の有名な写真があります。
 NavSource

私は、5年前のハワイ旅行で真珠湾に公開されている戦艦ミズーリを訪問しました(戦艦ミズーリ訪問)。
ミズーリの後甲板には、カミカゼ突入についての説明パネルが設けられていました。

戦艦ミズーリ甲板上に掲示された説明パネル
『1945年4月11日、連合軍による沖縄侵攻のとき、米戦艦ミズーリは日本のゼロの攻撃を受けた。火はすぐに消し止められた。・・・・カミカゼの飛行機の残骸の中から、イシノセツオの遺体が回収された。キャラハン艦長は、翌日に軍の葬儀(水葬のこと?)を行うように命じた。』
右上方にはイシノセツオとキャラハン艦長の写真が掲示されています。
下の4枚の写真、左から1番目の写真は、車輪が見えることから主翼の一方でしょう。2番目の写真、高射機関砲の先端に残骸が引っかかっています。3番目の写真は水葬の際の“弔銃”といわれる作法でしょう。右端は水葬される様子です。

戦艦ミズーリにおけるカミカゼ突入と「永遠の0」との関係について記述すると、ネタバレになりますのでやめておきます。
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16世紀フランスとロワール古城

2013-09-22 11:35:50 | 歴史・社会
フランス王シャルル七世の時代に、英仏百年戦争はフランス勝利で終了しました(佐藤賢一著「英仏百年戦争」(2))。それから、ルイ十四世によって絶対王政が確立するまでのフランスの様子について記します。王朝の系図は以下の通りです。

(ヴァロア朝)
シャルル七世(1422-1461)  ジャンヌ・ダルク
  |
ルイ十一世(1461-1483)
  |
シャルル八世(1483-1498)  イタリア戦争
(ヴァロア・オルレアン家)
ルイ十二世(1498-1515)
(ヴァロア・アングレーム家)
フランソワ一世(1515-1547) イタリア戦争勝利
  |
アンリ二世(1547-1559)
  |  -(愛人)ディアーヌ・ド・ボアティエ
  |  -(王妃)カトリーヌ・ド・メディシス
フランソワ二世(1559-1560)
  シャルル九世(1560-1574)
    アンリ三世(1574-1589) 暗殺される
(ブルボン家)
アンリ四世(1589-1610)  ナントの勅令、暗殺される
  |
ルイ十三世(1610-1643)
  |
ルイ十四世(1643-1715)  ヴェルサイユ宮、絶対王政


百年戦争による荒廃からようやく立ち直ったフランス王シャルル八世は、イタリア支配の夢にとりつかれます。1494年にイタリアに出兵し、歴代の王がその志を継ぎ、ようやくフランソワ一世が1516年、教皇やスイスとノワイヨンの和議を結びました。北イタリアをフランス王、南イタリアをアラゴン王が支配することで決着しました。
イタリアのルネサンス芸術がフランスにもたらされ、ロワール川流域の華麗な城館に見られるフランス・ルネサンスを開花させるのは、フランソワ一世のイタリア出兵に負うところが大きいといいます。

フランソワ一世は、ロワール川流域の古城群に大きな足跡を残しています。
第1はシャンボール城です。
シャンポール城の全体的な構造は、ウィキペディアに掲載されていた空撮写真がわかりやすいので下に転載します。
Elementerre
下の写真は、私が今年7月に現地を訪問したときに、城の側面(空撮写真の左上方向)から撮影したものです。
 

シャンボールは、もともと王の狩猟用の離宮として考えられていました。ところが1519年、フランソワ一世はシャンボール城の膨大な建設工事に着手します。イタリアでルネッサンス様式の建築にふれた若き王は、フランスに帰国後、大きな野心と愛する狩猟のためにシャンボール城の建設に着手したのです。城はフランソワ一世の在世中には完成せず、アンリ二世とルイ十四世によって現在の姿に整えられました。
王の居城でも行政府でもない、単なる遊びのための城として、よくもこのような豪壮で絢爛な城を建設したものです。

ロワール川流域に、フランス王が居城とした城として、ブロワ城とアンボワーズ城が残っています。ブロワ城は、ブロワで生まれたルイ十二世がフランス王に即位した1498年から、アンリ四世が宮廷をパリに移すまでの約100年間、フランス王の第1城だったそうです。またアンボワーズ城は、シャルル八世が7491年に結婚した直後にアンボワーズ城に移り住むことを決めたときからフランス王の居城となっているようです。
シャンボール城を作ったフランソワ一世は、ブロワ城にはフランソワ一世棟を建造し、アンボワーズ城にもフランソワ一世の棟を建造しています。ロワール川流域の古城群に及ぼしたフランソワ一世の影響力は絶大でした。
 
ブロワ城でもらった説明書の図面

 
③ルネッサンス様式(フランソワ一世棟)中央のらせん階段はフランソワ一世の階段と呼ばれている。

ロワール川からアンボワーズ城
 
 
王族の居住棟
直角につながった左側の棟はシャルル八世の棟(ゴシック様式)、右側の棟はフランソワ一世の棟(ルネッサンス様式)の屋根窓を持っている。

さて、フランソワ一世の息子がアンリ二世(在位1547-1559)。王妃はカトリーヌ・ド・メディシス、イタリアのメディチ家から嫁いできました。
ウィキペディアの「フランス料理」には、
『中世時代フランスで食べられていた料理は食材を焼いて大皿に乗せ、手づかみで食事を行うという非常にシンプルなものであったが現在のフランス料理の原型は、ルネサンス期のイタリアからやってきたカトリーヌ・ド・メディシス(当時フランスの王であったアンリ2世と婚姻した)とその専属料理人によってもたらされたと言われ、当初は粗野であったフランス料理に変革をもたらし、ブルボン王朝の最盛期に発達した。
それに伴い、ハプスブルク家により、ロシア、ドイツなどの宮廷に広まった。また、革命以後、宮廷から職を追われた料理人たちが街角でレストランを開き始めたことから、市民の口にも入るようになった。』
と書かれています。カトリーヌはまず、「フランス料理の母」として記憶されます。

アンリ二世には20歳年上の愛人、ディアーヌ・ド・ボアティエがいました。アンリ二世は愛人ディアーヌにシュノンソー城を与えました。城はシェール川の岸に建てられていました。
 
ディアーヌ・ド・ポワティエはアーチ型の橋を建設し、城をシェール川の向こう岸と結びました。ところが、アンリ2世が1559年に死ぬと、王妃であるカトリーヌは次の王の摂政となるとともに、シュノンソー城からディアーヌを追い出し、カトリーヌがこの城の主となったのです。
カトリーヌは、ディアーヌの橋の上に建物(ギャラリー)を建造した。これによって、現在のシュノンソー城の外形ができあがりました。
カトリーヌが1589年に死ぬと、城はアンリ3世の妻のルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相続しました。アンリ三世は暗殺され、王家はアンリ四世のブルボン朝に移行するのですが、このあと、ルイーズはシュノンソー城に引き籠もり、白い喪服を着てこの城で過ごしたといいます。

  
ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋             カトリーヌの肖像画
城内には、この城にまつわる人々の部屋が並んでいます。左上の写真はディアーヌの部屋です。なぜかその左上(暖炉の上)には、カトリーヌの肖像画がかかっています(右上写真)。

  
カトリーヌ・ド・メディシスの庭園            ディアーヌ・ド・ポワティエの庭園
カトリーヌとディアーヌの名がつけられた庭園が、シュノンソー城の前に広がっています(上の2枚の写真)。


カトリーヌ・ド・メディシスは摂政としての顔を持っています。夫王のアンリ二世が馬上槍試合での事故で若くして死亡し、幼い息子達がフランソワ二世(1559-1560)、シャルル九世(1560-1574)、アンリ三世(1574-1589)として即位した際、摂政を務めたのです。
当時フランスでは、カトリック派とプロテスタント派の間で宗教抗争(ユグノー戦争)が勃発していました。ギーズ公がカトリック派、ブルボン家がプロテスタント派です。シャルル九世の摂政としてカトリーヌは、両派のバランスの上に立とうとしました。
しかし事態が急変したのは有名な「サン-バルテルミの虐殺」です。ブルボン家のナヴァール公アンリの婚儀のためにパリに集まっていた多くのプロテスタント派貴族を、カトリーヌがギーズ公アンリと共謀して大量虐殺したのです。
展開はめまぐるしく変化します。王位への野心を抱くギーズ公アンリはカトリック同盟を結成してパリを支配しましたが、パリから逃亡したアンリ三世にブロワ城にまねきよせられて暗殺されました。

ブロワ城
  
アンリ三世時の国王の居室(ギーズ公暗殺の場所)         ギーズ公暗殺の絵画

ギーズ公暗殺の翌年にはアンリ三世も暗殺されます。この結果、ナヴァール公アンリがアンリ四世として即位し、ブルボン王朝がはじまるのです。
アンリ四世はプロテスタント派でしたが、カトリックに改宗し、1598年に「ナントの勅令」を発して宗教戦争に終止符を打ちました。アンリ四世は、その行動力、洞察力、人柄の点で、歴代の王の中ではいまでもフランス国民に最も人気があるそうです。しかしそのアンリ四世も、1610年にパリの路上で暗殺されてしまいます。

こうして、フランソワ一世(1515-1547)からアンリ四世(1589-1610)にいたるフランス王家の歴史と対比しつつ、ロワール川流域の古城との関連を見てきました。
普通だったら全く接することのないフランス史の一小断面ですが、ロワール川流域の古城めぐりをする上では必須の知識となるのです。
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佐藤賢一著「英仏百年戦争」(2)

2013-09-19 20:56:37 | 歴史・社会
前回に続き、佐藤謙一著「英仏百年戦争 (集英社新書)」の2回目です。

シャルル王太子(シャルル七世)(アルマニャック派)は、ブールゴーニュ派によってパリを追い落とされ、ブールジュに本拠を構えていました。1929年、シャルルはシノンに滞在していました。このとき、3月6日、神の遣いを称する少女が、シャルルをシノンに訪ねてきました。自分はオルレアンを解放し、王太子殿下をランスで聖別させるよう、神に命じられているのだと、近々響く金切り声で叫びながら。
いわずと知れたフランスの救世主、ジャンヌ・ダルクの登場です。

私は今年7月、家内と二人でフランスのロワール地方とパリを旅してきました。シノン城はロワール川の支流であるヴィエンヌ川流域の山上に位置しています。私たちはこのシノン城も訪問しました。ヴィエンヌ川から見たシノン城の様子を、ウィキペディアに公開されている写真で紹介します。
Vue du chateau de Chinon de la rive gauche de la Vienne. On distingue a droite la tour de l'Horloge et a gauche la tour du moulin.
現在のシノン城は、城壁こそ立派に残っていますが、城内の施設はそのほとんどが廃墟と化しています。
城の受付から出て橋を渡るとすぐに城門です(下写真)。城門から場内に入ります。
 
城門

シノン城は高台にあるので、城からは旧市街とヴィエンヌ川を眼下に眺めることができます。
  
旧市街とヴィエンヌ川

さて、1429年、ジャンヌ・ダルクがはじめて王太子シャルル(シャルル7世)に謁見したのがこのシノン城です。ガイドブックには「その歴史的会見の後数世紀を経て、すっかり廃墟となったシノン城。ジャンヌを迎えた大広間も、今では暖炉を残すのみだ。」とあるのですが、私たちは暖炉が残された大広間を見落としてしまいました。
ところが、フランス ロワール古城めぐり―絢爛たるロマンと追憶に心解き放たれる (講談社カルチャーブックス)には「ジャンヌを迎えた部屋も今は壁の暖炉だけが残る」と記載され、その説明が示す写真は、私の左下の写真と一致していることが判明しました。この書物の通りだとすると、私は意識せずにジャンヌの謁見の跡を見ており、その場所の写真を撮影していたこととなります。左下写真の壁のマークを拡大し、コントラストを強調してみました(右下写真)。上の左右には「1429」とあってジャンヌがシノン城でシャルル七世に謁見した年であり、中央部の文字は「JEANNE DARC」と読み取ることができます。間違いなさそうです。
  
ジャンヌダルク会見場跡                     壁部分の拡大写真

城内にはジャンヌに因んだ展示がなされています。
  
ジャンヌダルク

城内には、シノン城がどのように変遷したかを示す模型が展示されています。1100年から合計5つの時期の模型が展示されていました。そのうちの1429年と現代の模型の写真を以下に示します。
  
城の模型 1429年                    現代

さて、佐藤謙一著「英仏百年戦争」に戻りましょう。

シノン城でシャルル七世に謁見したジャンヌは、そのまま軍勢を与えられてオルレアンに入城しました。このあとジャンヌは、オルレアンを包囲したイングランド王軍の砦を順に攻め落としていきました。対峙する英仏両軍とも持久戦の構えでしたが、ジャンヌが鼓舞したとたんにフランス側は短期決戦に一変してしまいました。
ジャンヌはこの勢いのまま、シャンパーニュの大司教座都市ランスまで北上し、ついにシャルル七世の戴冠式を実現させるのです。
古のフランク王クローヴィスがランスの地で洗礼を受けたときに天使が届けたとされる聖なる油がランスに保管されている、と広く認められており、それを全身各所に塗られた者は、たちまち神通力を得るとされていました。そのため、フランス王の戴冠式は伝統的にランスで行われていたのです。塗油のあと、シャルル王太子は晴れてシャルル七世となりました。

ところがこのあと、ジャンヌは振るいません。戦果を挙げることができず、とうとうコンピエーニュの戦いでブールゴーニュ軍の捕虜に取られてしまうのです。ブールゴーニュ軍ですからフランス軍です。そのブールゴーニュ軍が、ジャンヌの身柄を身代金と引き替えにイングランド軍に引き渡してしまいました。宗教裁判が開始され、31年にジャンヌは火刑に処されました。

ジャンヌはアルマニャック派とシャルル七世にとっては救世主であったはずですが、ジャンヌ救出のために動いた形跡は全くありません。フランス王シャルル七世はジャンヌを非情に切り捨てたのです。
ジャンヌ・ダルクは瞬く間に忘れ去られました。
これを発掘して大々的に広報したのが、かのナポレオン・ボナパルトでした。これにより、ジャンヌ・ダルクの人気は一気に爆発しました。カトリック教会も動き、ジャンヌは聖人となりました。

さて、英仏百年戦争はその後、1450年にシャルル七世がノルマンディに進軍し、イングランド王軍の最後の占領地であったノルマンディとアキテーヌを陥落させ、かくて英仏百年戦争は終わりを告げるのです。

以下次号
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佐藤賢一著「英仏百年戦争」

2013-09-16 22:32:33 | 歴史・社会
英仏百年戦争 (集英社新書)
佐藤賢一
集英社

「英仏百年戦争」といえば、1337年から1453年にかけて、イギリス国とフランス国の間でフランスの地を舞台として戦われた戦争であると理解されています。前半はイギリスの黒太子エドワードが活躍してイギリス優位で展開し、後半にフランスのジャンヌ・ダルクが活躍してフランスか勝ちをおさめた、というストーリーです。
ただし、現代のイギリスでは、結論が異なって理解されているそうです。イギリスが勝利したところで百年戦争は終結します。シェイクスピアが強く影響しているようです。

佐藤謙一著「英仏百年戦争」は、この戦争を以下のように紐解いています。

《百年戦争開始の頃》
○ フランスは国としてのまとまりが不十分であり、各地を諸侯が支配していた。フランス王(カペー朝)はパリ近郊のイール・ド・フランスを支配しているに留まり、フランス王の地位というのは、諸侯から臣下の礼を受ける契約をしていたに過ぎない。
○ イギリスはまだ、イングランド、スコットランド、アイルランドに分裂しており、英仏百年戦争の一方はイングランドであった。(ウェールズはイングランドの版図に入っていた)
○ イングランド王は、当時のフランスにおけるノルマンディー公がつとめていた。当時のイングランドは、ノルマンディー公が支配する植民地に過ぎなかった。
○ 英仏百年戦争の実態は、カペー朝フランス王と、ノルマンディー公が勢力拡大したプランタデュネ家(イギリス王を兼ねる)との間の戦争、即ちフランス諸侯間の戦争であった。

《英仏百年戦争の結果》
○ フランスは戦争を戦う過程で、フランス国家としての体裁を整えていった。フランス国が成立したといっていい。
○ イングランド王は、戦争開始当時はフランスの自分の領地に居を構え、フランス語で会話していた。植民地イングランドの王を兼務する状況である。戦争終了時には英語で会話し、イギリス王に専念することとなった。


フランスの有力豪族であるノルマンディ公のギョームがイングランドを征服し(1087)、ウィリアム一世を名乗ります。世にいうノルマンディ公ウィリアムです。
ウィリアムの子孫は男系が絶え、孫娘のマチルドがノルマンディ(及びイングランド)の女相続人となりました。このマチルドがフランスの有力豪族アンジュー伯ジョフロワと結婚します。そして生まれたのがアンリ・ダンジュー、またの名をアンリ・ド・プランタジュネです。
このアンリが、アリエノール・ダキテーヌと結婚します(1153)。アリエノールはフランス王ルイ七世の妃でしたが、性格の不一致を理由に離婚し、その2ヶ月後にアンリと再婚したのです。このアリエノールが、アキテーヌ公の女相続人だったのです。
こうして2組の結婚の結果として、アンジュー家は、アンジュー公、ノルマンディ公(イングランド王を兼ねる)、アキテーヌ公にまたがるフランスの超巨大な豪族に成長しました。フランス王を名乗るカペー朝の直轄地を遙かに上回ります。

後世のイギリスから見ると、「プランタジネット朝イギリス王は、フランスに広大な領地を有していた」となりますが、実態は、「フランスにおいてプランタジュネ公は広大な領地(アンジュー帝国)を有し、イングランド王を兼ねていた」です。

ところが、アンリの4人の息子はどら息子達であり、領地の相続争いが勃発しました。それに乗じたのがカペー朝フランス王のフィリップ二世であり、アンジュー帝国を吸収してしまいました。アンジュー家はフランスの領土を失い、イングランド王の地位のみが残されました。これが「第一次英仏百年戦争」の実態です。

フランスのカペー朝はもともと弱小王家でしたが、10世紀のユーグ・カペーから13世紀のフィリップ三世まで、歴代の王は後継者となる男子を必ずもうけており、これが理由で勢力を増大してきました。
ところが、フィリップ四世の息子達は直系男子を残さずに早世してしまいます。ここでフィリップ四世の甥であるブァロア伯フィリップがフィリップ四世として即位し、ヴァロア朝が成立しました。
一方、フィリップ四世の娘であるイザベルはイングランド王エドワード二世と結婚しており、その息子がエドワード三世です。エドワード三世は、「我こそはフランス王である」と名乗るのです。
1337年にエドワード三世は(ヴァロア朝)フィリップ六世に宣戦布告し、「第二次英仏百年戦争」が幕を開けたのです。実態は、フランスのブァロア家対プランタジュネ家(イングランド王を兼ねる)の戦争でした。
1346年、フランスのクレシーで両軍が対決します。人数で劣るイングランド王軍が大勝するのですが、勝因の一つは「長弓(long bow)」の採用でした。6000人の弓兵が合計50万発の矢を放ったといいます。
次のボワティエの戦い(1355)でもフランス王軍が敗れ、フランス王ジャン二世は捕虜となりました。このあと、フランス王シャルル五世は、ジャン二世の莫大な身代金を支払うため、フランス全土に対して課税することに決めました。シャルル五世は「税金の父」と呼ばれているそうです。

シャルル六世(シャルル五世の息子)は1392年に発作を起こし、それ以降は精神異常状態となりました。これを機に、フランス王国で内紛が勃発し、ブールゴーニュ派とオルレアン派とに別れて権力闘争が始まりました。オルレアン派がアルマニャック派と名前を変え、両派ともにイングランドに援軍を頼みました。
イングランド王ヘンリー五世はフランスに進軍しました。アザンクールの戦いでフランス軍(アルマニャック派)は惨敗しました。
フランスの王太子シャルル(シャルル七世)(シャルル六世の息子)(アルマニャック派)は、ブールゴーニュ派によってパリから追い落とされ、ブールジュに本拠を置いていました。このシャルル本人が、本当にシャルル六世の息子であるか自信が持てず、優柔不断だったようです。

1428年、イングランド軍はオルレアンを包囲しました。もしオルレアンが陥落すれば、アルマニャック派の命運は風前の灯となり、シャルル七世には亡命しかなくなってしまうでしょう。

ここで、有名なジャンヌ・ダルクが登場します。以下次号

なお、この間のフランス王朝の系図を書いておきます。
(カペー朝)
  ├-------------------┐
フィリップ三世(1270-1285)         後のブルボン家
  ├-----------------┐
フィリップ四世(1285-1314) カペーの奇跡
  |
ルイ十世(1314-1316)
  フィリップ五世(1316-1322)
    シャルル四世(1322-1328)
  ┌-----------------┘
(ヴァロア朝)   英仏百年戦争の始まり
フィリップ六世(1328-1350)
  |
ジャン二世(1350-1364)
  |
シャルル五世(1364-1380)
  ├----------------┬┐
シャルル六世(1380-1422)        後のオルレアン家、アングレーム家
  |
シャルル七世(1422-1461)  ジャンヌ・ダルク

                         続く
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「ワレ本日二機撃墜」

2013-09-13 00:23:23 | 趣味・読書
撃墜 ―太平洋航空戦記 (集英社文庫 78-A)
豊田 穣
集英社

今は絶版で、代わりに豊田穣著『撃墜』―日米空戦記 (光人社NF文庫)が入手できるようです。
太平洋戦争での航空戦に関する短編小説が掲載されています。
その中に「本日ワレ二機撃墜」という短編小説が含まれています。
太平洋戦争中に日本海軍の戦闘機パイロットだった高杉氏から、同じく海軍に在籍した正木という人が、高杉氏の話を聞くというストーリーです。作者の豊田氏も海軍にいましたから、正木とは豊田氏その人かもしれません。

主人公の高杉義三が海軍で操縦練習生となったのは昭和7年でした。支那事変が始まった昭和12年に南京に転勤したときには、空母赤城、加賀などの乗り組みを経て、戦闘機パイロットとしてベテランになっていました。
そして昭和17年8月、ガダルカナルに米海兵隊が上陸してくる半月前に、高杉はラバウルに転属になりました。
8月26日、ラバウル航空隊は、ガダルカナルの日本陸軍援助のため総力を挙げてガ島の飛行場を叩きました。日本機は48機、それに対して米軍は200機を上げて待ち受けていました。このとき日本側は笹井隊長機を失い、また高杉氏は、敵の編隊空戦の練度が向上していることを悟りました。

『このとき、一つの決意が私の中に沸いたのです。--決して無理をしてはいかん。一日二機撃墜というペースでゆこう--と。敵は増えてくる。味方のベテランは次々に倒れてゆく。これではラバウル航空隊は全滅です。自分のような有経験者は貴重な存在なのです。後進の指導のためにも生き残らねばならぬと考えました。早速この日も、巴戦で二機を墜とすと、あとは見張りを十分に行い、高度をとって、窮地に陥っている味方があると接近して援護射撃を行い、追跡中の敵を狼狽させ、いざ撃墜の手柄は先刻の友軍機に譲りました。ここで自分が撃墜しようという野心を起こしちゃあいかんのです。空の戦いにはそれぞれのリズムがあります。ペースを崩したら死が待っているだけです。
こうして、出撃すると、「本日ワレ二機撃墜」と報告する日が続くようになりました。報告をうける小園中佐もにやりとするようになりました。私の意図がわかったのでしょうか。こうして、私の撃墜機数は、四十機、五十機と増えてゆきました。』

18年6月に高杉氏はグアム島に移り、さらに比島を経て19年2月に厚木航空隊に転任しました。この頃高杉氏は中尉になり、厚木航空隊では最古参の戦闘機乗りでした。

『私はこの頃も、相変わらず「ワレ本日二機撃墜」で通していました。飛行隊でも有名になってしまって、・・・一部では私を卑怯者とそしる声もあったようです。『高杉中尉は厚木空一の腕を持ちながら、二機の割り当て分を終わると高見の見物をしている。あれは本当は命が惜しいんだ。卑怯者だからソロモンでも生き残ってきたんだ』などと若い搭乗員の中には陰で私を悪く言っていたようです。しかし、そのような一見勇敢な搭乗員は早く死んでゆきました。なかには一機も墜とさずただヘルキャットの大群の中に突入して、火だるまになって落ちていった機もあります。』

高杉氏は昭和20年8月15日の終戦まで生き残りました。

最後に、自分の撃墜機数について『「協同で百五十機というところでしょうね。それも自慢にはなりません。何しろ、ペースが本日ワレ二機撃墜ですからね」と言って笑った。』

なぜこの短編小説の紹介をしたか。

私は今、事務所の同僚から借りて、百田尚樹著「永遠の0 (講談社文庫)」を読んでいます。
この本の主人公であるゼロ戦パイロットの宮部は、ひょっとして「ワレ本日二機撃墜」の高杉義三をモデルにしたのではないか、と考えたのです。モデルとまではいかなくても、小説設定のヒントぐらいにはしたのではないかと。

さて、どうでしょうか。

なお、「ワレ本日二機撃墜」の中では、空戦の秘技である「ひねりこみ」についても、高杉義三が編み出した、ということになっています。
コメント (7)
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インターネット出願の通信エラー問題の広報

2013-09-10 21:34:44 | 知的財産権
インターネット出願での通信エラー頻発について、私がこのブログに最初に記事にしたのは7月6日でした(インターネット出願で通信エラー頻発)。その数週間前から、私のパソコンからインターネット出願で特許庁に書類を提出する際、通信エラーで中断することがたびたび発生していました。
7月のはじめにインターネット出願の電話サポートに相談したところ、ウイルスソフトとしてウイルスバスターを使っている場合に、そのころ通信エラーが頻発しているということでした。電話サポートで教わったとおりにトレンドマイクロ社にメールを送ったところ、修正モジュールの提供を受けました。そして7月5日ころにその修正モジュールをパソコンで実行して以降、通信エラーの発生は皆無となりました。

このような通信エラー現象に見舞われ、原因がわからなくて困っている人も多かろうと思い、7月6日に記事をアップした次第です。

その後、当然のこととして特許庁や弁理士会からお知らせが発せられると考えていたのですが、お知らせが出た気配が一向にありません。8月中も注意してみていましたが、何も気づきませんでした。
そこで私は8月29日にインターネット出願の通信エラー解消として再度終結宣言をアップしました。

その直後です。9月6日に弁理士会からメールでペーパーレスニュース(平成25年度No.3)を受け取りました。その中で、「2.ウイルスバスター・ウイルスクリアをご利用の方へ」として、「平成25年5月末頃から、トレンドマイクロ社製 ウイルスバスタークラウドをご利用の方に、特許庁への通信、バックアップ、文書入力などでエラーが起きる現象が発生しています。」とのアナウンスがはじめてなされました。
そして、メールの案内に従って電子出願ソフトサポートサイトへ行ってみると、「【重要】トレンドマイクロ社製ウイルスバスターをご利用の方へ」ということで、日付は平成25年7月になっています。私は8月中もいろいろと見て回っているのですが、サポートサイトにこのようなお知らせが出ていることには気づきませんでした。一体いつ公表されたのでしょうか。
また、電子出願ソフトサポートサイトのトップページはWhart's New になっていて、各ニュースタイトルが掲載日とともに記述されているのですが、「[重要]トレンドマイクロ社製ウイルスバスターをご利用の方は、こちらをご覧ください。」ともう一つだけは掲載日が記載されていませんでした。
弁理士会からのペーパーレスニュースが9月に入ってから送られてきたというのも妙です。

いずれにせよ、インターネット出願ソフトとウイルスバスターとの間に相性問題が存在し、それが私だけの問題でないことが明らかになりました。そしてその対策は少なくとも7月はじめにはわかっていたことであり、弁理士会からは9月始めにわれわれにニュースが届いたということです。
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鳥人間コンテスト2013

2013-09-07 21:16:43 | 趣味・読書
今年の鳥人間コンテストは、7月27、28日に琵琶湖で行われ、9月4日にテレビ放映されました。私はビデオ収録して6日に観ることができました。

本年の出場チームと記録

過去の記録

まずは人力ディスタンス部門です。
《人力プロプラ機ディスタンス部門 今年の上位順位》
優勝 東京工業大学   20,399
2位 日本大学      2,724
3位 芝浦工大(タンデム) 885
4位 帝京大学       569
・・・
9位 東北大学       42

優勝は東京工業大学マイスターです。下に人力ディスタンス部門の過去の優勝記録を掲載します。
コースは、湖上をスタート地点から20km進むと折り返してスタート地点を目指します。ここ3年ほど折り返し地点未達でしたが、今年は東工大チームがやってくれました。東工大のサイトに航跡図が掲載されています。折り返し地点を目指す場合、東工大のように北西方向に進むか、あるいは南西方向に進むかを選択する必要があります。北西に進路をとった東工大は、途中西風を受けて難渋していました。その点では、南西に進路をとったらもろに向かい風だったかもしれず、北西選択は正解でした。そして、横風に難渋しながらもさほど距離ロスはしておらず、安定したフライトだったと感じられます。最後は「足がつった。痛い!」と絶叫でした。筋肉の限界までこぎ続けたのでしょう。


去年、一昨年と東北大が二連覇しており、東北大は三連覇目標、他のチームは三連覇阻止を目標に戦いました。その東北大は最後に飛んだのですが、まさかの42m着水でした。何があったのでしょう。
去年も、東工大が587mという不本意な成績で着水しています。名門の御三家(東北大、日大、東工大)であっても、実際飛んでみないと何が起こるかわからない、ということでしょうか。

日大は去年と同じ2位でしたが、記録は去年(12,342m)より落ちました。

今年、帝京大が569mの成績で4位に食い込みました。記録には出場回数5回とありますが、過去7年ほどの人力ディスタンス記録を調べましたが見あたりませんでした。そういう意味では突然のデビューで4位入賞です。
私の大学時代の同じ研究室で1年後輩だった大森さんが、現在帝京大の教授に就任されてこのチームの指導をされているというのはご本人からうかがっていました。今回テレビ放映後、大森さんのお話によると、名門御三家は機体重量が30kg代という軽量機を実現していますが、御三家以外のチームでは人数、予算が少なく、何よりも設計ノウハウの蓄積がありません。そのため、機体重量も50kg代で設計・製作しているとのことでした。そのようなハンディの中での4位入賞は快挙です。
記録では帝京大は「サポーター賞」を受賞しています。ビデオ観戦では注目していたのですが、このチームの放映時間はせいぜい1分、それも応援団とおぼしきサンバのお姉さんの映像が半分程度でした。番組的には致し方ないでしょうが。

[人力ディスタンス 過去の優勝履歴]
開催年 回 優勝距離 優勝チーム
        m
1986  10   512 チームエアロセプシー
1987  11   436 日本大学
1990  14  1,810 日本大学
1991  15   500 日本大学
1992  16  2,020 チームエアロセプシー
1993  17  2,181 日本大学
1994  18  2,372 日本大学
1995  19  8,764 チームエアロセプシー
1996  20  9,762 大阪府立大学
1998  22 23,688 チームエアロセプシー
1999  23  4,913 大阪府立大学
2000  24  7,946 大阪府立大学
2001  25  3,824 東京工業大学
2002  26  6,201 東京工業大学
2003  27 34,654 日本大学
2005  29 22,813 日本大学
2006  30 28,628 東北大学
2007  31  3,998 東京工業大学
2008  32 36,000 東北大学
2009 中止
2010  33 18,556 東京工業大学
2011  34 18,687 東北大学
2012  35 14,129 東北大学
2013  36 20,399 東京工業大学
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