弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

端午の節句

2009-04-28 19:37:37 | Weblog
今年の3月の節句におひな様を飾ったことは以前報告しました。
わが家には男の子もいます。ということで、端午の節句についても今年は飾り付けを行いました。
やはり記念に写真をアップします。
  
桃の節句と端午の節句、両方の飾り物が、1年の大部分の間、納戸に保管されています。納戸の結構な部分を占めていますが、致し方のないことです。
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讃岐・釜あげうどんと屋島

2009-04-26 12:13:46 | Weblog
だいぶ前になりますが、3月27~29日に香川を訪問しました。
まず新幹線と本四連絡橋を経由して高松に入り、その日は高松泊。翌日は琴平神社を経由して祖谷渓谷のかずら橋付近に泊まります。そして3日目、高松空港から飛行機で帰ってきました。

1日目は昼頃に高松に着きました。その日は屋島を訪問することにしていたので、お昼は屋島の近くのうどん屋「わら屋」に決めています。

わら屋は、讃岐うどんの老舗として「西の何とか、東のわら屋」と呼ばれていたようです。現在は地元の人にはさほどの人気はないようですが、それでも2006年のランキングで堂々の16位に入っています。
高松市内からタクシーに乗り、東方面にしばらく走ると、左に屋島の山(てっぺんが平坦な山)が見えてきます。その屋島の麓にわら屋があります。古民家を移築した建物らしいのですが、外観を撮るのを忘れてました。こちらを見てください。
  
わら屋 店内(左)  うどん場(右)

この店は、釜あげうどんで有名です。普通、うどんは茹でた後に冷水で締めます。そうしないと、急速に味が落ちるそうです。
それに対し釜あげうどんは、茹でた後に水で締めません。そして、ゆでたてを食するのです。ゆで汁に入ったまま、熱いうどんが運ばれてきます。このうどんをだし(めんつゆ)につけて食べます。
  
釜あげうどん(てんぷら)

ここの名物は、たらいに入って出てくる家族うどんだそうです。釜あげうどんが12玉入っているようですが、我が家族3人ではとても食べきれません。それぞれが普通の釜あげうどんあるいは大盛りを頼みました。

わら屋には、釜あげうどんの他にざるうどん、生醤油うどんもあります。
釜あげうどんは、茹でたてでしか食べられないので、普通は釜あげに限って注文してから余計に時間がかかります。ところがここわら屋では、もちろん釜あげうどんは注文してから時間がかかるのですが、ざるうどんはもっと時間がかかるのです。おそらく、この店は釜あげ専門店なので、茹でて締めて作り置きをすることがないのでしょう。ざるであっても、注文を受けてから茹で、そして冷水で締めるので、釜揚げよりも時間がかかるということのようです。

屋島のてっぺんには、タクシーで行く予定にしていました。しかしうどんでおなかがいっぱいになったこともあり、歩いて登ることにしました。わら屋からすぐに登ることのできる道はないようです。店の人に聞いたところ、ここから一般道をしばらく西に進んだところに、登り口があるようです。
あれこれ迷いながら、登り口に到着しました。池の向こうに屋島が見えます。頂上が平で、不思議な形をしています。

屋島登り口付近から屋島を見る

  
四国八十八箇所第84番霊場の屋島寺  屋島の展望台から

高松市内からわら屋へ向かうタクシーの中で、運転手さんが話してくれたのですが、屋島の中腹にぽつんと青色シートをかぶせた場所が小さく見えます。それは、1300年前、日本書紀に書かれていた遺構が、つい最近発見された、ということでした。詳しくは、ウィキペディアによると以下の通りです。
「天智天皇の命で、白村江の戦い敗戦後の667年に古代山城の屋嶋城(やしまのき)を築いたと日本書紀に記述がある。これは、唐・新羅の日本侵攻を恐れてのことである。同時期には対馬-博多-瀬戸内の海上防衛線に沿って30近い砦城が構築されている。古代山城屋嶋城は長期間その存在が不明であったが、2000年ころ地元研究家の平岡岩夫氏らがその遺構石塁を発見・確認し、現在はその復元が進められている。」

また屋島は、那須与一が扇の的を射た古戦場として有名ですが、そちらについては特にゆかりの地を見ることはできませんでした。

ところで、高松は自転車王国です。大きな道路には、下の写真のように自転車専用レーンが設けられています。

高松市内 自転車専用レーン(右側)
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NHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さん((2)

2009-04-24 20:48:13 | 歴史・社会
4月21日NHK「プロフェッショナル」「武装解除・瀬谷ルミ子」について、前回記事にしました。そこで書き足りなかった点、その後わかったことについて、もう一回記事にします。

瀬谷さん本人のブログ以外にも、プロフェッショナルの司会者である茂木さんのブログ(茂木健一郎クオリア日記)、住吉さんのブログ(すみきち&スタッフブログ)も見つかりました。

番組の中で、瀬谷さん自身が今までも危険をかいくぐってきていることがうかがわれました。

現地で兵士に取り囲まれ、銃を向けられても
「この人は銃をこちらに向けているけど、本当に撃つか撃たないかとか、危険かどうかというのが大体わかるようになってきたので、向けられても、絶対に撃たないだろうとかと思うと、気持ち的にはそんなに怖かったりはしないですね~」(すみきちさんのブログから)
度胸がすわっています。

プロフェッショナルの道具として取り出したカバンの中に、マラリアの薬が入っています。今までマラリアに8回も罹患しているというのです。マラリアにかかりそうになるとわかるので、早めに薬を飲むこともあるそです。

現地では、出された料理には必ず口を付ける、それが信頼を得るために必要だそうです。井戸から汲まれた水が泥にまみれていても、とにかく口を付けます。

番組の最初で、世界の紛争処理の専門家から、瀬谷さんが高く評価されていることが紹介されていました。正確には覚えていないのですが、瀬谷さんは相手の心の中にスッと入って気持ちを通じさせる能力が高いのだ、といった評価でした。

伊勢崎賢治氏は著書「武装解除」の副題を「紛争屋が見た世界」としています。
世界のどこかで紛争が起き、国連が介入すると決めた場合、速やかに派遣団を集めなければなりません。まずトップグループの人選が進み、選ばれた人たちが、実働部隊を速やかに集めます。このとき、紛争解決の実力と実績を持ち、なおかつすぐに馳せ参じることのできる人たち、これを伊勢崎氏は「紛争屋」と呼んでいるのです。
この定義に従うと、瀬谷ルミ子さんは世界的に優秀な紛争屋さんである、ということが言えそうです。


瀬谷さんが学んだイギリスの大学院が、ブラッドフォード大学紛争解決学ということで、前回も紹介したように大西健丞さんと同じ大学院です。専攻まで同じかどうかは確認できませんでしたが。
そこで、大西健丞著「NGO、常在戦場」をひっくり返して、どんな大学院か確認しようと試みました。
しかし、大西さんの著書からは大学院のことはよく分かりませんでした。こちらの大西さんに対するインタビュー記事が、著書の記述と一致しているようです。
大西さんは1993年頃にこの大学院に学んでいました。瀬谷さんは2000年頃でしょうか。お二人が学んだ時期はだいぶ離れてはいますね。

また、ブラッドフォード大学の日本語ページでも、瀬谷さんの言葉が紹介されていました。
「ブラッドフォード大学紛争解決学への留学を希望される方へ
ブラッドフォード大学の紛争解決学の修士課程は、その後私が平和構築の分野で仕事をしていくための道を開く貴重な経験となりました。
自分の故郷を紛争から立ち直らせるため、既に現場で行っている仕事の分析力を磨くため、将来国際協力の仕事をするため─ 様々な理由で世界各地から集まる同級生たちとの日々。刺激的かつ、自分が何をしたいのか見つめ直す機会でもありました。信じた道に進むための選択肢のひとつとして、一度考えてみるのも良いと思います。」

アフリカ平和再建委員会のサイトで、瀬谷さんが紹介されていました。
「4月21日(火)放送のNHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に、2000年~01年にかけてARCルワンダ事務所代表だった瀬谷ルミ子さんが紹介されます。
瀬谷さんは、中央大学在学中にARC事務局ボランティアをしており、卒業後、英ブラッドフォード大学院へ進学。その後、ARCルワンダ事務所代表として、内戦後の女性のための職業訓練プロジェクト(洋裁、バナナ工芸品)を現地団体ARTCFとの協働で運営してきました。(ホームページ)」
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NHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さん

2009-04-22 21:39:46 | 歴史・社会
4月21日NHK「プロフェッショナル」は、「武装解除・瀬谷ルミ子」でした。当日、番組が始まる直前にこの番組のことを知り、視聴することができました。

瀬谷ルミ子さんとは、ご本人のブログ紛争地のアンテナによると、
「1977年2月生まれ
中央大学総合政策学部→英ブラッドフォード大学紛争解決学修士号取得。その後、国連PKO職員、外交官、NGO職員として勤務。第二回秋野豊賞受賞。

今までの勤務地は、ルワンダ、アフガニスタン、シエラレオネ、コートジボワールなど。

専門は、紛争後の復興、平和構築、紛争予防、兵士の武装解除・動員解除・社会再統合(DDR)、アフリカの地域安全保障機構。」
と紹介されています。
日本紛争予防センター(JCCP)事務局長の職にあります。

瀬谷さんの名前を知ったのは、伊勢崎賢治氏の以下の本においてです。
武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)
伊勢崎 賢治
講談社

このアイテムの詳細を見る

この本については、このブログの伊勢崎賢治「武装解除」 でも紹介しました。アフガニスタンで、カルザイ政権が成立した後、旧北部同盟の軍閥の武装を解除する重大な役割を、日本の外務省が引き受けました。その困難な仕事を、伊勢崎賢治氏が中心となってやり遂げた、そのときの記録です。
武装解除(DDR)と一般に呼ばれている仕事は、D(武装解除)D(動員解除)R(社会復帰)の三つのプログラムを総称したものです。

この本のあとがきには、
「さらに、同大使館(在アフガニスタン日本大使館)DDR班で、僕の片腕となってくれた堀江浩一郎、井上勇一両参事官、そして工藤大介、瀬谷ルミ子両二等書記官の尽力は特筆に値する。瀬谷さんは、シエラレオネで国連スタッフとして僕の下で働いてくれて以来の付き合いであるが、まだ二十台の若さですでに二つのDDRを現場で経験した、これからの日本にとって逸材中の逸材である。
(NGOによる国際軍事監視団で活躍する今井千尋さんを紹介し)
日本の平和貢献の将来は、女性が担う予感がする。」
と紹介されています。


番組によると、瀬谷さんは英国の大学院で紛争解決学を学び、紛争解決のなかでも武装解除の仕事に自ら入っていったようです。
シエラレオネでは、90年代に激しい内戦があり、500万人の人口のうち5万とも50万ともいわれる人が命を失いました。同じ伊勢崎賢治氏の自衛隊の国際貢献は憲法九条で―国連平和維持軍を統括した男の結論(このブログでも伊勢崎賢治「自衛隊の国際貢献は憲法九条で」で紹介)によると、
「実際にかれら(RUF(革命統一戦線))がやったことは、住民の無差別殺戮でしかなかった。無防備の村を襲い、恐怖を植え付けるために見せしめの殺人を行い、成人男子を奴隷にし、子どもは洗脳して兵士に仕立て上げ、次の村に向かっていくのである。」「生きたまま手足を切り落とされた子どもも数千人規模で生まれた。」
このシエラレオネで、内戦が終わった後、伊勢崎氏がリーダーとなって武装解除が行われます。「2002年初頭、全兵士の武装解除を成功させた。9ヶ月間にわたる努力の成果だった。シエラレオネの武装解除は、国連の内戦処理の輝かしい成功例になった。」

瀬谷さんは、シエラレオネで伊勢崎さんと一緒に、この武装解除プロジェクトに参画しました。
兵士の中に少年兵がいます。その少年兵は、村が反政府軍に襲われ、強要されて自分の父親の手を切り落とさせられ、その後兵士にさせられた経歴を持っています。内戦が終わっても、家族は「そんな子はいらない」と拒否します。少年でありながら、どこにも自分の居場所が見つけられないのです。
瀬谷さんはその少年たちの話を聞いてあげます。その結果、少年たちが少しは救われたらしいことを感じ、瀬谷さん自身も救われたようです。

アフガニスタンでの武装解除にも、瀬谷さんは伊勢崎氏と一緒に参画したわけです。二等書記官と言うことは、外務省職員の資格で参画したのですね。
アフガニスタンでの武装解除が成功裏に終わった後、社会復帰した元兵士が、結局は新しい社会になじめずに、武装勢力に逆戻りした、という話を瀬谷さんは聞きます。このときは無力感を感じられたようです。

番組が紹介するのは、スーダンでの武装解除活動に参画する瀬谷さんの姿です。今回は、DDRのうちR(社会復帰)を担当しています。
武装解除され、動員を解除された元兵士が、どうしたら新しい社会で新しい生活を始めることができるか。そのために瀬谷さんは、元兵士が復帰する現地に直接足を運びます。そこで、何が不足しているか、元兵士がどのような職業訓練を受けたら現地の役に立つのか、目で見て確かめ、計画を立案するのです。

悩みを持っているという一人の少年兵と面談します。最初はかたくなに面談を拒んでいた少年兵は、次第に瀬谷さんに自分の思いを語り始めます。自分は除隊して学校に通いたい。しかし上司がそれを許してくれない、というのが少年の悩みでした。
瀬谷さんはまず、軍を統括する准将に話しに行きます。准将は、勉強をしたい希望を持つものなら除隊はかまわないと言います。次に少年兵の直接の上司の少佐(中佐?)に談判すると、上司は、自分の一存では決められないと言います。そして最後に警察本部(少年は警官をさせられています)の大佐に談判に出かけると、大佐は、辞めるのを許すわけにはいかない、しかし勉強したいのなら、勤務しながらできるはずだ、と言いました。
3人との面談を終えた瀬谷さんは、少年兵に次第を伝えます。少年の希望を叶えることはできなかったが、細いルートを造ることまではできました。最後に瀬谷さんが「これは私の人生ではない。あなたの人生だ」と問いかけると、少年は瀬谷さんに「これはあなたの人生ではない。僕の人生だ。」と言い切ります。瀬谷さんの行動は、少年をここまで自立させることに役立ったのです。

現在、瀬谷さんは有能な紛争解決の専門家として認められ、毎日を過ごしているようです。


瀬谷ルミ子さんは現在32歳ということです。大学に入学したときから、国際紛争解決、それも武装解除という重い仕事にずっと携わっています。瀬谷さんをここまで駆り立てる原動力は何だったのでしょうか。

瀬谷さんには3歳下の弟さんがおられます。その弟さんが、小さいときに脳出血を患いました。家族が総出で看病を続ける中、瀬谷さんは大学に進学します。自分一人だけやりたいことに進んでいいのだろうか、と自問する中で、国際紛争を解決する仕事に就けば、家族も弟も許してくれるだろう、という思いがあり、この道に進まれたようです。
弟さんは九死に一生を得、現在は左半身不随ながら生活をされているようです。その弟さんが電話で「お姉ちゃんを誇りに思う」と瀬谷さんに伝えたそうです。

こんなすごい日本人の若者がいるのですね。NHKはいい番組を作ってくれました。
瀬谷さんのブログによると、NHKは1ヶ月にわたり4人チームでスーダンの現場の瀬谷さんに密着しました。担当ディレクターも女性だったそうです。

ところで、瀬谷さんが卒業したイギリスのブラッドフォード大学ですが、このブログでも紹介した大西健丞氏も同じ大学で学んでいるのですね(NGO、常在戦場)。

ps追加の記事をこちらにアップしました。

ps2 2011.11.6.「職業は武装解除」関連記事をこちらこちらにアップしています。
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退職者医療制度の不思議

2009-04-21 21:34:31 | 歴史・社会
ある日突然、住んでいる杉並区の国民年金課から、配達記録郵便が届きました。

「国民健康保険『退職被保険者証』をお送りします」
ということで、1枚の健康保険被保険者証が同封されていました。

「国民健康保険の保険証には、『国民健康保険被保険者証(サーモン色)』と『国民健康保険退職被保険者証(若草色)』の2種類があります。」ということで、送られてきたのは若草色の保険証です。
いったい何事でしょう。

ペーパーの裏面に「退職者医療制度について」と説明書きがあります。
「1.制度の成り立ち
 退職者医療制度は、会社などを退職し国民健康保険に加入された方の医療費を、加入していた社会保険等が一部負担する制度です。
 退職者は現役時代に加入していた社会保険等の医療給付を受けることが少なかった一方、医療の必要性が高まる退職後は国民健康保険に加入し医療給付を受けます。この制度*は、医療費の増大に伴い財政が圧迫されるようになった国民健康保険と社会保険等との退職者をめぐる費用負担の公平性を図るため昭和59年10月に施行されました。」

上記第2段落の第2文の冒頭「この制度」は、退職者医療制度を指すようです。普通、このような文章だったら、第2文に「この制度」とあれば、当該段落の第1文の中に「この」の相手を探すでしょう。しかし、退職者医療制度について言及するのは前の段落であって、当該段落の第1文には出てきません。そのためにわかりづらい文章になっています。

と文句を言ったところで・・・

私は企業勤務時には組合健康保険に加入しており、企業を退職して特許事務所経営を始めたときに国民健康保険に加入しました。
その私が、退職者医療制度の対象となったので、杉並区がそのことを確認し、新しい保険証を送ってきたというのです。

退職者医療制度の対象となるのは
(1) 退職被保険者(本人)については、①国民健康保険に加入、②65歳未満、③厚生年金等の老齢年金等を受けている等、の3つの項目のすべてに該当する人です。
私は、去年60歳に相成り、年金の給付を受け始めたので、③に該当することとなり、①~③のすべてに該当したというわけです。

そしてここで問題にするのは、
(2) 退職被扶養者(家族)です。この該当人物については、
①国民健康保険に加入、②65歳未満、③退職被保険者本人に扶養されている同一世帯の配偶者もしくは三親等以内の親族のうち、年収が130万円()未満等、の3つの項目のすべてに該当する人です。

私の配偶者は、年収が130万円以上ですが、今までは国民健康保険に加入する私の家族としての保険証を所有していました。国民健康保険の家族については、「年収130万円未満」という制限がないのです。
それが、私が退職被保険者(本人)になったとたん、家族が本人の被扶養者に入るには「年収130万円未満」という制限が付加されました。従って、私の配偶者は退職被扶養者(家族)になり得ません。さて私の配偶者は、どの健康保険に加入できるのでしょうか。

もらった資料を何遍読んでもわかりません。インターネットでもわかりません。そもそも退職者医療制度は各市町村が担当しているらしく、各市町村のホームページの解説文がヒットするばかりです。国全体としての情報に到達できません。

しかたがないので、杉並区の担当部署に電話で聞いてみました。
その結果わかったことは、「私の配偶者は、退職者医療制度の退職被扶養者(家族)とはなり得ないので、今まで通り、国民健康保険の被保険者であり続ける」ということでした。
しかし、国民健康保険の被保険者(本人)は国民健康保険の退職被保険者(本人)に移動しました。本人が不在なのに、被扶養者のみが国民健康保険に残り得るのでしょうか。全くもって不可解です。
そこで、ウィキペディアの国民健康保険で調べてみました。
「被用者保険と異なり、自営業、無職(専業主婦、専業主夫、学生など)、未成年者等も、被保険者となる。
被保険者の属する世帯の世帯主は、保険料(又は国民健康保険税)を納付する義務がある。世帯主が他の医療保険の被保険者(国民健康保険の被保険者ではない)であって、その世帯内に国民健康保険の被保険者がいる場合は、その世帯主を国民健康保険の被保険者である世帯主とみなして保険料または保険税の納付義務者とする。この場合における世帯主を、実務上「擬制世帯主(ぎせいせたいぬし)」または略して「擬主(ぎぬし・ぎしゅ)」という。」

なるほど。国民健康保険には「被扶養者」という概念がないのですね。一方、勤め人が加入している組合健康保険には「被扶養者」の概念があり、年収130万円未満が条件なのでした。国民健康保険の退職者医療制度は、国民健康保険の中にありながら、組合健康保険の被扶養者の概念を持ち込んでいた、ということでしょうか。
私の配偶者は、自営業であって国民健康保険の被保険者であり、一方世帯主は私なので私が保険料を納付している、という関係にあるのですね。私が国民健康保険に加入していようがいまいが関係ないと。

もうひとつ。月々納める保険料の計算が心配です。今までですと、私と家内の保険料を合算して、合算した結果が納付最高限度額を超えていたら、その最高限度額を納めれば足りました。今回、私が退職者医療制度の本人、配偶者が国民健康保険の被保険者と別れたわけですが、今後とも納付額については今までと同じにやってくれるのでしょうね。
心配だから機会をみつけて確認してみましょう。
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第2回特許制度研究会

2009-04-19 17:51:33 | 知的財産権
現在、特許法改正の議論が、全く独立の2つのルートでなされています。こちらでも紹介しました
一つは、知的財産戦略本部の下にある知的財産による競争力強化専門調査会の活動であり、官邸が主導しています。
もう一つは、特許庁長官の私的研究会である特許制度研究会です。日経記事によると、1年間かけて検討し、2010年には産業構造審議会で審議したうえ、11年の通常国会に特許法改正案か新法を提出、12年の施行をめざすとしています。

特許制度研究会は、第1回が平成21年1月26日、そして第2回が平成21年3月27日に開かれ、第2回の議事要旨が公開になりました

上記日経記事によると、特許制度研究会では特許法について以下の観点で改正に向けての議論がされるということでした。
《保護の対象となる「発明」の定義の見直し》
《「差止請求権」の放棄など技術革新の促進に向けた制度づくり》
《「職務発明規定」の見直し》
《審査基準の法制化に向けた検討》
《迅速で効率的な紛争解決方法の検討》
《審査の迅速化と出願者のニーズへの対応》
《分かりやすい条文づくり》

しかし、現在のところ、差止請求権のあり方についての議論に止まっているようです。第2回特許制度研究会の配付資料を見ても、「特許権の効力の見直しについて(基本的考え方)」という資料が見られるのみです。
第2回の議事要旨によると、
「事務局から特許制度研究会に対する委員のご意見を紹介し、資料に沿って説明した後、自由討議。概要は以下のとおり。」
ということです。
自由討議の内容は概要として示されていますが、「委員のご意見」というのは公開されていません。どのような意見が交わされたのでしょうか。

自由討議の内容を見ると、特許の差止請求権について、委員の各人が自由に言いたいことを言い合った、といった内容でしょうか。

差止請求権について、事務局が作成した資料では、特許権を数多く獲得して特定分野での権利行使を行うファンドなどの事業者(パテントトロール)の問題を例として挙げています。「自らは他者の特許権侵害を問われることがないため、他者に対しては特許権を躊躇せず行使することとなり、その結果、事業を実施している事業者のリスクが高まっているといわれている。」
このような問題意識で、特許の差止請求権を見直そうというわけです。

差止請求権は、特許権の最も主要な権利です。この権利を現行法よりも効力の少ないものにするのか否か、という点については、徹底的に議論を尽くす必要があります。
そしてそのためには、現在どんな問題が生じているのか、近い将来にどのような問題が起こりうるのか、という観点で、具体的に事例を突き詰めていく必要があります。机上の空論、あるいはイメージのみの議論で結論を出してはなりません。

第2回特許制度研究会の自由討議の内容を読むと、各委員あるいは事務局が具体的な調査を行う気運を見ることができません。このまま、抽象論のままで法改正の議論が進行するのでしょうか。その点を危惧します。

今後のスケジュールによると、1~2ヶ月に1回のわりで研究会が開かれるようです。今の調子で進んでいくとしたら、具体的な改正の方向が見えてくるのはいつのことやら、と心配されます。見えないところで事務局が粛々と改正案を作成しているのだとしたら、その方がもっと恐ろしいですが。
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近藤道生氏と戦争体験

2009-04-16 19:25:13 | 歴史・社会
日経新聞「私の履歴書」は近藤道生氏のシリーズが続いています。
第1回が、近藤氏大学2年の時の真珠湾攻撃です(そのときのエピソードについてはこちらに紹介しました)。1942年に大学を繰り上げ卒業して大蔵省に入省したもののすぐに海軍短期現役士官として戦争にかり出され、1947年に復員するまでを主に南方で海軍士官として苦労されました。第1回から4月14日の第13回まで、近藤氏の戦争体験がずっとつずられます。そして次の日の第14回で、戦死した戦友たちに思いをはせます。

おそらく近藤氏にとって戦場で過ごしたこの6年間は、人生の中でもっとも重い体験だったのでしょう。

ウィキペディアによると、復員した近藤氏は大蔵省に復帰し、銀行局長を経て国税庁長官に就任します。そしてその後、1975年に博報堂の社長に迎えられ、博報堂の経営に貢献したようです。
私の履歴書における今後の展開が楽しみですが、近藤氏にとっては、戦場での体験が、それ以前以後の人生にも増して強く印象に残ったものと思われます。

近藤氏に限らず、死と隣り合わせの戦場を生き抜いて復員された方々が、戦後の日本復興と高度成長を支えたことは間違いないでしょう。あの戦場の労苦に比べれば、戦後焼け跡からの生活など苦労のうちに入らなかったと思われます。

私はもちろん戦後生まれですから、戦争中のことは書物で知るしかありません。現代の感覚で戦争中を評価しようとしてもそれはほとんど無意味です。
戦争中に日本国民が
・どのような生活を送り
・どのような情報に接し
・どのようなことを考えていたのか
という点について、できるかぎり生の姿に接したいと考えております。

その意味で、日経新聞の「私の履歴書」で描かれる戦時中の生の体験は、私にとって貴重な情報源となってきました。

近藤氏は1920年生まれということで、90歳が近いご高齢です。近藤氏と同じように将校として太平洋戦争を経験された方々は、おそらくそのほとんどがすでにお亡くなりになっていることでしょう。もうこれからは、このような体験を語ってくださる方もあまり出てこないだろうと推察されます。私の履歴書で近藤氏の戦争体験を記録に残されたことは、貴重な記録となりました。
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東郷和彦「歴史と外交」

2009-04-14 20:38:18 | 歴史・社会
東郷和彦氏は、鈴木宗男・佐藤優騒動が起こる2002年まで、外務省の高級官僚でした。祖父・東郷茂徳(太平洋戦争開戦時と終戦時の外相)、父・東郷文彦(外務事務次官、アメリカ大使)に続く外務省サラブレッド3代目であり、駐ロシア公使・条約局長・欧亜局長・駐オランダ大使などを歴任、あの事件がなければ和彦氏も外務省のトップまで上り詰めたのでしょう。
宗男騒動の2002年、駐オランダ大使でしたが、退職を拒否し免職処分を受けるという異常事態でした。日本に帰ると特捜に逮捕される可能性もあるので帰らず、退官後はライデン大学・プリンストン大学・淡江大学(台湾)・カリフォルニア大学サンタバーバラ校・ソウル国立大学などで客員研究員となり、2007年末に帰国しました。現在はテンプル大学日本校客員教授です。
歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判 (講談社現代新書)
東郷 和彦
講談社

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「さて、日本の政治・外交にそういう大きな動きがみられるなかで、プリンストンでの2年間の契約は終了し、私の性からにアジア・シフトの方向性が強まった。
2006年秋、台湾の淡江大学に4ヶ月。2007年春、米国西海岸カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校に半年。そして2007年秋、韓国はソウル国立大学に4ヶ月、強弁と研究の時を過ごすことができた。
このころから、日本の歴史問題や、アジアとの和解や、最終的に避けて通れないアメリカとの歴史問題などについて、英語での論文、日本の雑誌への投稿などで、自分の考えを世間に発表する機会が少しずつ得られはじめた。
そして、2007年12月末。私は日本に帰った。・・・・・
34年の外務省での仕事で北方領土問題の解決という戦いに敗れた後、約6年の外国での“漂流”を経ての帰国であった。」
ここで講談社から本書の提案を受けます。東郷氏は、これまでの勉強をまとめて発表するのははるかに早すぎると最初は思いましたが、6年、外から日本を見続けてきたことについての、現時点でのまとめを書いてみることには、それなりの意味があるかもしれないとして本書執筆に至りました。
「本書で伝えようとしているのは、自己の軌跡のはざまから、いま私が強く感じている、ひとつのメッセージである。
それは『もうそろそろ、終わりにしなくいいけない』ということだ。
戦後、60年の漂流を続けていた日本の歴史問題について、いまだに私たちをとらえている猛烈な左右の対立を、『もうそろそろ終わりにしなくてはいけない』。
意見の違いは、最後まである。それは、徹底的に議論しなければいけないと思う。しかし、そういう意見の違いを乗り越えて、お互いを尊重し、同じ日本人として、オール・ジャパンとしての大きな方向性を、そろそろ見いださなければいけないのではないか。」

この本の中で東郷氏は、この6年間の勉強・思索・そしてアメリカ・韓国・台湾・中国の学生や学者と討論した内容の遍歴を淡々と語ります。それは、外務省エリート官僚だった東郷氏が、一人の学者・知識人として確立していく過程でもあります。日中戦争から太平洋戦争にかけての日本と東アジア・米国との関わり合いについて、当事国出身の留学生らときわめて率直な意見交換を行い、その中から考えの方向性を見いだしていこうと努めています。
そしてその考え方の方向は、私自身が考える方向とも一致しており、この本を読んでいる間、不思議な親近感をずっと感じていました。

この本で取り上げる題材は、靖国問題、慰安婦問題、日韓問題、台湾独立問題、広島・長崎原爆投下問題、東京裁判です。
これら、東アジアや米国と日本との間の「歴史認識」と呼ばれる問題について、東郷氏がそれぞれの問題の当事国で真剣に議論を重ね、考えをまとめていきます。その過程が本の中でつづられています。

宗男騒動という残念な事件の結果、東郷氏は外務省を去りましたが、その事件を逆に糧として、日本をリードする知識人となられることを期待します。
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筋トレ1ヶ月の成果

2009-04-12 11:32:30 | Weblog
筋トレを目的として、近所のフィットネスジムに入会したことを先日報告しました。
フィットネスジムには、家庭用の体脂肪計に似た計測装置があります。両方の足の裏及び両手の平に電極を接触し、電流を通す点では体脂肪計と同じです。そころがその計測装置では、右腕、左腕、体幹、右脚、左足それぞれについて、部位別の筋肉量が表示されるのです。
そして、入会直後、1ヶ月後、2ヶ月後の3回、無料で計測を行った上でカウンセリングが用意されています。

入会直後の計測結果は以下の通りでした。
      測定値 目標値 偏差
体重(kg)   58.6 59.9 不足 1.3
筋肉量(kg)  44.8 48.1 不足 3.6
体脂肪量(kg) 11.3  9.0 過剰 2.3

部位別筋肉量の過不足
両腕 83%(80~120%が標準)
体幹 88%(90~110%が標準)
両脚 100%(90~110%が標準)

筋肉量が3.6kg不足、体脂肪量が2.3kg過剰という結果です。部位別筋肉量で見ると、やはり昔取った杵柄(サッカー)で、両脚の筋肉量が標準に達しています。

そして先日、入会1ヶ月後の計測を行いました。
      測定値 目標値 偏差
体重(kg)   59.2 59.9 不足 0.7
筋肉量(kg)  45.3 48.1 不足 3.1
体脂肪量(kg) 11.4  9.0 過剰 2.4

部位別筋肉量の過不足
両腕 80%(80~120%が標準)
体幹 85%(90~110%が標準)
両脚 105%(90~110%が標準)

この1ヶ月間で、体重が0.6kg増え、筋肉量が0.5kg増え、体脂肪量が0.1kg増えました。体脂肪量は誤差の範囲として、筋トレの成果として筋肉量が増え、その分だけ体重が増えた、という評価結果です。
筋肉増加量0.5kgの半分程度は誤差範囲かもしれませんが、半分程度は実際に筋肉が増えたと考えましょう。
体脂肪量が減っていませんが、この1ヶ月間、食事の量はむしろ増加して筋肉の肥大に励んでいますので、脂肪が増加することもやむを得ません。いずれ筋肉が増加すれば、基礎代謝が活発になって体脂肪も減り始めるでしょう。

部位別筋肉量の推移を見ると、両脚は確実に筋肉量が増えています。なにしろレッグプレス10回×3セットの負荷を、当初は90~110kgで始めたものを、現在は130kgにまで上げています。たとえ40年前であっても、筋肉はちゃんと昔のことを記憶しているのですね。


それに対し、両腕と体幹の筋肉量がむしろ低下しているのはどうしたのでしょう。両腕はしょうがないとして、体幹については何とかしなければなりません。1ヶ月計測の後、腹筋運動の負荷を若干増大するようにしました。といっても、腹筋が音を上げたらそれ以上のことは現実問題としてできませんが。
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靖国神社参拝と遊就館訪問(2)

2009-04-09 22:46:17 | 歴史・社会
前回に引き続き、靖国神社の遊就館訪問記です。

「靖国問題」は、3年前の2006年に一つのピークがありましたが、その後はマスコミの話題に上りません。小泉政権が終わり、後継首相が靖国参拝を行っていないことから、韓国・中国が靖国問題を取り上げなくなったためでしょうか。

3年前の私のブログから拾うと、
東郷和彦氏「靖国再編試案」
「(靖国神社が宗教法人化した)ことによって、先の大戦時の歴史観をそのまま顕示し、軍事博物館に準じる施設を宗教法人が作ってしまった。遊就館で示される歴史観は、日本国民のなかでもコンセンサスがないし、国際的にはもっとコンセンサスがない。しかし、政治家はそのことについて何も言えない。憲法20条が盾になっているからです。」

靖国神社に対する韓国の考え方
2006年8月16日ソウル発
「韓国政府は15日の小泉首相の靖国参拝に対し「A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社」との表現で非難したが、今後は靖国神社自体が「侵略戦争を正当化する」施設であるとの判断に基づき、靖国問題に対応していく姿勢を示したといえる。
韓国の青瓦台(大統領官邸)関係者は聯合ニュースに対し、靖国神社内の「軍事博物館」である遊就館は軍国主義を美化する施設と指摘。分祀した後に政治家らが参拝しても容認できないとし「靖国問題はA級戦犯の分祀では解決できない」と言明した。」

(『「外交」とは何か、「国益」とは何か』から田中行夫氏の発言)
「靖国神社の展示や主張を見ると、それはブッたまげますよ。明らかに侵略以外の何者でもない満州国について「現在は中国が支配し東北部と称している」と説明している。南京については「(日本軍が入ったから)南京城内では一般市民の生活に平和がよみがえった」とこう書いてある。こんな歴史観というか過去についての認識は、アジアどころか世界中どこへ行っても相手にされない。」

中国が仕掛ける遊就館戦争
民主党の浅尾慶一郎参議院議員の話として、
「日本に駐在する各国外交官の間で、昨年末頃からなぜか靖国神社見学がブームになっています。それも目的は本殿ではなく遊就館。明らかに日中の対立を意識したもので、何らかの働きかけがあったことは想像できます。そして問題はこれが効果を生んでいること。米国大使館の外交官の一人は、遊就館の展示物を見てかなり驚き、『中国が怒るのも無理はない』との感想を漏らしたと聞きました。」と紹介しています。
「この遊就館を見学すれば日本の歪んだ歴史観がわかると、駐日外交官たちに宣伝したのが実は中国大使館であるとの噂は根強い。昨年末から靖国参拝への厳しい論調が海外で目立つのは、この工作が奏功したからという見方もある。」

以上のように、靖国神社の遊就館は要チェックだと認識していながら、それから3年近くが経ってやっと今回の訪問となりました。

有料の展示スペース全体では、結構な量の展示物で、全部を見て回ったらすっかり疲れてしまいました。

まず第一印象として、“ぶったまげるような右傾の展示”ではありませんでした。普通に見て回ったら、主に戊辰戦争以降の内戦及び日本が関与した戦争の内容を順に展示しているだけ、との感想で終わったかもしれません。

私の場合は、以下の3箇所の展示説明を筆記してきました。
《満州の歴史》
「・・・・・・満州事変の後に清朝の宣統帝を元首とする満州国が建設されたが、現在は中国が支配し東北部と称している。」

《国際連盟脱退》
「満州の地方指導者たちは関東軍の支援のもとに清朝の誰それ(溥儀だったか?)を迎え満州の分離独立を宣言した。我が国は満州国を承認した。国際連盟は中国の主権を残しつつ満州を自治地域とするリットン報告書を採択し、我が国はこれに抵抗して連盟を脱退した。」

《南京事件》
「昭和12年12月、南京を包囲した松井司令官は隷下部隊に外国権益や難民区を朱書した要図を配布して「厳正な軍記、不正行為の絶無」を示達した。敗れた中国軍将兵は退路の下関に殺到して殲滅された。しないでは私服に着替えて便衣隊となった敗残兵の摘発が厳しく行われた。」

南京事件の説明については、上記田中行夫氏の説明とは異なった展示となっていました。この3年間のうちに記述内容を変更したのでしょうね。しかしそれでも、南京事件の説明としては、日本側にとって都合のいい事実のみを抽出しており、都合の悪い事実については口をつぐんでいるという態度であり、納得のいく説明とは言えません。


全体として膨大な展示の中で、上記3箇所の説明は別に大書されているわけではなくひっそりと展示されているのみです。私は、特に注目しわざわざメモに取ってきましたが、そうでもなかったら、気付かずに通り過ぎている可能性が大きいでしょう。

3年前とは異なる展示になっているようですから、今でも外国人が見て驚き、結果として日本の国益を損なうような影響を及ぼしているのかどうかは不明です。昔と今とを見比べている人の意見を聞きたいものです。
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