弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

日本サッカーと「世界基準」

2007-02-27 22:16:23 | サッカー
久しぶりにサッカーの話題です。
セルジオ越後著「日本サッカーと『世界基準』」(祥伝社新書)を読みました。
日本サッカーと「世界基準」 (祥伝社新書 (046))
セルジオ越後
祥伝社

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最近気付いて買ったのですが、昨年の9月に発行になっているのですね。そして未だに第2刷ということは、あまり売れていないのでしょうか。
しかし内容は納得することばかりです。

私にとってジーコは尊敬の対象としてあるので、いまだにジーコを非難する議論を聞くと辛いです。その点はドイツW杯の戦前及び戦後に書いたとおりです。
ジーコが監督としての試合運びが苦手であることも、ヒディングと比べたら監督としての資質は下位にあるだろうことも、戦前からわかっていたことです。ところが開催前は、ジーコを危惧する声はほとんど聞かれず、それが私には不思議でした(5月13日)。W杯を前にして日本は醒めているのか?と疑ったものです。また大会直前になると、楽観論ばかりが語られ、一次リーグ突破確率の議論では、セルジオのみが30%であとの識者は80%としていました。
戦いが終わってから、敗戦の原因をジーコに帰着させる議論を聞くと、「そんなことは戦う前からわかっていたことではないか。なぜもっと前に監督交代論を主張しなかったのか。」と腹立たしくなります。しかし論者がセルジオであると、腹を立てずに聞くことができます。

日本サッカー界のおかしなところについて、セルジオの言葉をリストアップします。

・ファンの応援の仕方
日本以外では、不甲斐ない戦いをしていれば会場のスタンド全体から大叱責を食らうし、負けている側のファンが終盤に一斉に歌い始めて大合唱になることもあります。
日本のファンは、いつもお決まりのコールを一本調子で叫んでいるだけで、チームを奮い立たせる効果的な応援になっていません。
「日本のサポーターは、勝っても負けても拍手ばかり。励ますのもときにはいいですが、それだけでは選手は鈍感になってしまいます。」

・批判精神の欠如
「日本ほどサッカー番組にタレントが出てくる国はありません。」
「番組の作りはあくまで芸能チックなもの。そこには本来あるべきはずの批判精神はかけらもありません。」

・補欠という名の人材損失
日本では二つ以上のチームに重複登録できないので、学校サッカー部に入ったら下級生のうちは補欠として球拾いしかできません。複数のチームに重複登録を許し、クラブ間の行き来を自由にして試合に出られるようにすべきです。

・巨大化するサッカー協会
日本サッカー協会の2004年の収入は200億円を超えるほど巨大化しているのに、お金の流れや人事の透明性が十分に確保されていません。

以下、私の意見です。
日本のサッカー番組に対する上の指摘は賛成です。試合後のインタビューも同じです(昨年5月の記事)。
しかし、テレビをはじめとするマスコミは、視聴者が欲する番組を提供しているだけであって、要するに視聴者がこのような番組や紙面を求めているに過ぎません。日本のサッカーファンが成熟していないことを示しているだけでしょう。
地元の子ども達のサッカー技術レベルが高くて驚いたのはもう20年も前です。その子達がもう大人になってサッカーファンのレベルを上げているはずなのに、なぜ全体として向上していかないのか、よくわかりません。しばらくはこのレベルが続くのでしょうか。

最近どうも日本人はセルジオの言葉に耳を貸さなくなっていますね。セルジオのキレが衰えたのかと想像していたのですが、今回のこの本を読む限りセルジオは良いことを言っていると思います。それにもかかわらずセルジオ離れが起きているとしたら、何か日本のファンやマスコミが勘違いをしているのかもしれません。
笹塚の本屋をのぞいてみても、並んでいるのはオシム本ばかりです。
その国のトップリーグが実力をつけないと代表のレベルは上がらないはずです。最近はJリーグチームがアジアで勝てなくなっており、日本トップリーグの力は相対的に落ちているようです。このような中で、オシム一人の力で代表のレベルを上げることは困難です。

ここしばらく、日本サッカーは世界の水準から取り残されていき、その動きは当分続きそうな気がします。
コメント (14)
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