弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

すでにデフレ脱却?

2016-05-21 17:49:28 | 歴史・社会
5月21日の日経朝刊「大機小機」(桃李著)です。
『20年来、金融政策の懸案はデフレ脱却だった。異次元緩和を導入した3年前までマイナスだった消費者物価(生鮮食品とエネルギーを除く)の基調的な上昇率は1%程度となっているし、国内総生産(GDP)デフレーターは過去2年、2%程度で推移している。』

「インフレ目標2%」という場合、私は、2±1%が目標範囲だと考えています。そして、インフレ率が2±1%の範囲から外れているとき、即ちインフレ率が3%を超えたら金融引き締めが必要であり、1%未満であればさらに金融緩和を進めることが必要ですが、1~3%の範囲内であれば、金融政策をことさら変更する必要はないと。
大機小機が述べるようにすでにインフレ率が1%を超えているのであれば、目標の中心値である2%に到達していなくても、もう(インフレ率対策としての)追加の金融緩和は必須とはいえません。当面の景気対策などでは金融緩和は必要かもしれず、それが株価や為替レートに直結しますが、その点は今は触れません。

大機小機は続けます。
『「2%のインフレ目標値が達成されなければデフレ脱却ではない」と一般に認識されているのではないか。・・・すでに日本経済はデフレから明確に脱却している。政府・日銀はためらいなくデフレ脱却宣言をすべきだ。そのうえで安定成長のための2%のインフレ目標を今後も長期的に追求する確約をすればよい。それが常に将来を予想して行動する国民の消費や投資行動を変化させる。・・・
日本経済が成長軌道に戻るには、まずデフレ脱却宣言によるデフレマインドの完全払拭と、2%の長期目標としての丁寧な説明による国民の理解が必要である。』

そのとおりです。
しかし、今の日本のマスコミは、当初「目標2%」と掲げたからには、「1%を超えているのでデフレ脱却している」と宣言しても、「政府・日銀の変節だ」として認めないのでしょうね。これから日本経済が成長するためには、国民のデフレマインドを払拭することが最も大切だというのに、残念なことです。
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熊本地震で自衛隊CH-47ヘリはどうしていた?

2016-05-16 21:46:14 | 歴史・社会
去る4月18日、このブログで「熊本地震への救援活動」として以下の趣旨で記事を書きました。
『週末のテレビで終日映し出される現地の映像で納得できないことがあります。
避難所に自衛隊の給水車が到着し、給水車の蛇口からペットボトルに1本1本給水して手渡しています。水を受け取るための人たちが、延々と行列して待っています。』
そして各避難所への必要物資の運搬手段として、
『陸上自衛隊は輸送用ヘリCH-47チヌークを55機保有しています。1回の輸送能力は10トン前後あるようです。CH-47チヌークでピストン輸送すれば、すべての避難所に十分なペットボトルを輸送することに問題はないと思われます。
今回のトモダチ作戦では米軍からオスプレイが応援にやってくるということです。オスプレイは航続距離も長いですから、例えば自衛隊の岩国基地に補給デポ基地を設営し、ここから被災地の各避難所に大量の物資を輸送ずることができるでしょう。』
と書きました。陸上自衛隊の55機に航空自衛隊の15機を加えると合計で70機になります。

その後、ニュース映像で、米軍オスプレイの活動状況を目にすることはありました。しかし、自衛隊のCH-47チヌークによる物資輸送の映像は全く放映されません。なぜだろうか。意図的にオスプレイのみを流しているのだろうか。

ところが本日、以下の記事に接してびっくりしました。
地震時、自衛隊大型ヘリ緊急点検…8割飛べず
読売新聞 5月16日(月)7時28分配信
『熊本地震の発生時、自衛隊の大型輸送ヘリコプター「CH47」全約70機の約8割が、緊急点検などのために飛行できなかったことが、関係者への取材でわかった。
防衛省は、被災地への物資輸送が滞ると判断、米軍の支援を受けてオスプレイが投入されたという。』

熊本地震発生の約1週間前、CH47の点検で翼を回転させる部分近くに異常が見つかったことから、自衛隊は全機の運用を中止して一斉点検を実施したとのことです。熊本地震後、自衛隊はCH47の出動を決めましたが、多くが点検中で、被災地での救助・救援活動には、10機程度しか稼働できなかったというのです。
何ということでしょう。

非常事態というのは突然勃発します。突然勃発した非常事態に対応できるように即応体制を整えて待機しているのが、そもそも軍隊の特質であるはずです。その自衛隊が、一番大切なときに、70機のうちの10機しか稼働できなかったというのです。
めまいがしそうです。

CH-47ヘリコプターは、ベトナム戦争当時から使われ、現在でも生産が続けられ、世界中で多数が運用中のはずです。この機種に内在する問題があるとしたら、すでに顕在化しているはずです。熊本地震発生の後、本当に自衛隊が所有する全70機を運用中止し続ける必要があったのでしょうか。
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三菱自にはシャリオがあった

2016-05-14 12:07:04 | 歴史・社会
三菱自動車が大変なことになっています。もうこの会社は潰れるのではないか、と予感させました。
ここ数日、日産が救いの手を差し伸べ、最悪の事態は脱したようです。ただし、今後、三菱自動車が自分の力で昔の勢いを取り戻せるかどうかは全くの未知数です。

わが家の愛車遍歴、その中でも三菱シャリオの位置づけについては、2年前に記事にしました。その記事を再録しつつ、三菱自動車について書いておこうと思います。

我が家の愛車遍歴をたどると以下のようになります。全部新車購入です。
1972-1981 トヨペット・コロナ
1981-1984 ホンダ・アコード
1984-1993 三菱・シャリオ
1993-2002 三菱・シャリオ

上記からわかるように、1972~2002年の30年間のうちで、三菱自動車の車に乗っていた期間が18年にも及びます。

1981年にそれまで乗っていたコロナの調子が悪くなり、急遽次の車選びを開始しました。当時すでに子どもが2人いたこともあり、今のミニバンのような車を探したのですがどうしても存在しません。ライトバンまで調べましたが、ライトバンは商用車であり、リアサスがリーフ・リジッドとあっては選ぶ気になりません。仕方なくホンダ・アコードにしました。
その後、1984年頃(子どもは3人に増えている)に三菱・シャリオの存在に気づきました。まさに今でいうミニバンであり、3列7人乗りです(下の写真)。見たとたんに気に入り、まだ3年程度であったアコードを下取りに出して入手しました。
 Rudolf Stricker
三菱・シャリオ(初代)

当時、同じクラスでは日産のプレーリー(下写真)とこのシャリオの2種類しかありませんでした。当時私は、クルマ選びの指針として、徳大寺有恒氏の「間違いだらけのクルマ選び」をバイブル代わりにしていました。その84年版で、シャリオについては、操縦性、乗り心地、居住空間、結論のすべてにわたって高評価でした。一方のプレーリーについては、「走る、曲がる、止まるに関しては圧倒的にシャリオが上だ」との評価でした。
 Acty259
日産・プレーリー(初代)

3人の子どもたちが小さいうちは、このシャリオは万能でした。中列をフラットにすれば、子どもたち3人が足を延ばして並んで眠ることができます。長時間ドライブでも子どものけんかが起きにくいという利点もあります。

1台目のシャリオに乗っていた頃、世の中ではシャリオの存在は全く無名でした。三菱自動車が宣伝しないからです。自宅の駐車場に駐まっているわが家のシャリオを見て、近所の知り合いが「こんないい車があるのか!」と驚き、同じシャリオを購入する人、あるいは日産のプレーリーを購入する人などが相次ぎました。現在のミニバンの隆盛を見ても解るように、3列7人乗りのミニバンには大きな需要があるのです。当時、自動車業界の大部分はそれに気づいていません。三菱自動車も、開発陣の中にはミニバンの需要に気づいてシャリオを完成させるグループがありましたが、三菱自動車の営業及び会社全体はまだ需要に気づいていなかったのです。

上の初代シャリオの写真、左ハンドルです。この写真は欧州仕様のもののようです。
わが家が初代シャリオの頃、街で走っているシャリオを見かけることは多くありません。普及していませんでしたから。一方、1987年に東西ドイツを訪問する機会があったのですが、西ドイツの街を歩いているとシャリオをけっこう見かけるのです。日本と西ドイツで、シャリオを見かける頻度は同程度のようでした。何を意味しているかというと、当時の日本人はシャリオの価値に気づいていませんでしたが、西ドイツの人はすでに気づいていたのです。また、日本のシャリオは中列と後列のシートベルトは2点式でしたが、ドイツで見かけるシャリオは中列と後列も3点式であり、日本よりも進んでいました。

その後、1台目のシャリオも9年ほど乗って調子が悪くなり、次のクルマ選びになりました。初代シャリオは、それまではちょうど良い大きさだったのですが、子どもたちが大きくなり、特に後列の狭さが気になり出しました。大人には後列はとても窮屈です。そこで、クルマの外形寸法が大きくなってもいいから、大人が窮屈でない座席を有する7人乗りを探しました。しかし、当時はありませんでした。
仕方なく、もう1回シャリオを購入しました(下写真)。
 TTTNIS
三菱・シャリオ(二代目)

その1年ほど後です。ホンダ・オデッセイ(下写真)が発売になったのは。
  IFCAR
ホンダ・オデッセイ(初代)

初代オデッセイは全長が4750mm、二代目シャリオの全長が4,515-4,555mmですから、オデッセイの方が長く、従って室内居住空間もゆったりしていたはずです。当時の我が家の家族構成と照らすと、シャリオよりもオデッセイの大きさの方がフィットしていたでしょう。
その後、ホンダの的確なPRもあり、オデッセイは爆発的に売れていたようです。

当時のシャリオとオデッセイを比較すると、共に「7人乗り3列シートのミニバン」であってコンセプトは同じです。私から見ると、「シャリオは小さな子どものいる家向き、オデッセイはちょっと大きな子どものいる家向き」といえるでしょう。しかし、世の中は、「オデッセイによってはじめてミニバンの世界が開けた」といったイメージ一色であり、シャリオは忘れ去られました。

我が家の子どもたちが大きくなり、「シャリオよりも大きなミニバンが欲しい」という要請が出てきました。三菱の営業がしっかりウォッチしていれば、ユーザーのそのような要請に気づくはずで、ホンダよりも早く「一回り大きいシャリオ=オデッセイ的なもの」を世に出せていたはずです。

週刊プレイボーイ No.21 5/23 号 [雑誌]
「燃費不正で崖っぷち。復活のカギは過去の偉業にあり!
もし再建できたら・・・・ 三菱のこんなクルマがまた見たい!!」
という記事が掲載されています。

三菱自動車のプラス面での歴史について、
三菱が世界ではじめて量産化した技術としては、96年のギャランに初搭載された直噴ガソリンエンジン「GDI」、96年のランサーエボリューションⅣの左右トルク配分機構「AYC」を挙げ、「ともに現在は世界中のメーカーに広まった定番ハイテク」としています。
モータースポーツ活動では、「ランエボ」の世界ラリー選手権での活躍、1985年にパジェロで初の総合優勝をしてから、2009年にワークス撤退するまで、計12回の総合優勝を果たしたダカールラリーが紹介されています。

そして、三菱が歴史的に新ジャンルへの先見の明を果たした例として、まずは「初代パジェロ」を挙げ、その次に「シャリオ」が登場します。
『日本のミニバンブームは94年の初代本田・オデッセイが起爆剤となったが、それより10年以上もさかのぼる83年に発売された「初代シャリオ」こそが、82年発売の日産の初代プレーリーとともに「元祖国産ミニバン」といっていい。』

そして今回露見した三菱自動車の負の側面について
今回残念なのは、「①燃費を実際よりよく見せるため一部の車種でデータ捏造したこと」と、「②試験方法として日本で法定の『惰行法』ではなくアメリカで用いられている『高速惰行法』を25年前から用いていたこと。」が同時に発覚したことです。
②については、違法ではありますが、直ちに燃費をごまかしたかどうかは不明です。しかし、②が25年前から行われていた、ということから、燃費を良く見せるための捏造が25年前から行われていたように誤解されているとしたら残念なことです。

今回のデータ捏造に関しては、まだわからないことだらけです。
捏造したデータは、国交省に提出し、国交省が試験して燃費を算出するための元データになるべき大事なデータです。そのようなデータであれば、通常の製造会社においては、製造部門や開発部門とは独立した品質保証部門が取り扱うべきはずのものです。
品質保証部門は、「正しい値を出すこと」で評価される部門です。燃費が社の目標に達したか否かに関しては何ら責任を負いません。もし品質保証部門が開発本部長の下にぶら下がっていたら、開発本部長の意向を忖度して、データを捏造する可能性が生じることは誰にも明らかであり、だからこそ、品質保証部門を開発部門から切り離すのが常識なのです。
どうも三菱自動車は、このような常識に基づく組織になっていなかった模様です。
組織設計を誤った点については明らかに経営の責任です。たとえデータ捏造について全く知らされていなかったとしても。経営がデータ捏造に気づいていた、あるいは経営が積極的にデータ捏造に追い込んだのだとしたらもちろん責任はもっと重大です。

今回、日産が経営に参画することを契機として、経営は総入れ替えし、組織は不正を生みにくい組織に改め、出直してほしいものです。そして、30年以上前に開発された初代シャリオのように、時代を画する新しいクルマを生み出してくれるよう、切に願います。
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ピアノ発表会2016春

2016-05-07 20:34:32 | 趣味・読書
5月5日(木)にピアノ発表会がありました。
私がピアノを習っている大城先生は、以前はフィガロ音楽院で教えていらしたのですが、フィガロ音楽院の経営が変わったのを機に独立され、音楽教室ラルゴを主催されています。今回のピアノ発表会はそのラルゴ音楽教室の発表会ということで、小さな子供から私のようなロートルまで、大城先生の生徒さんが一堂に会するはじめての発表会でした。
場所は瑞江東部フレンドホールです。このホールでの演奏は、2013年秋、2014年秋に続いて3回目です。

今回私が演奏するのは、
ベートーベン ソナタ「月光」第1楽章
パッヘルベル カノン
の2曲です。

「月光」については、練習を始めたのが2013年の秋、その後、2014年6月15日サマーコンサート(葛西のフィガロ音楽院)、同年7月13日アトリエカノンライブ(西荻窪のアトリエ・カノン)同年10月13日第14回フィガロ音楽院発表会(東部フレンドホール)2015年6月21日ピアノ発表会(葛西にある音楽教室ラルゴ)で合計4回演奏し、今回が5回目になります。

パッヘルベルのカノンは、実に多くの編曲があります。2011年10月にオルゴールバージョンを弾きました。1年前から、珠玉の名曲ピアノピース パッヘルベルのカノン (初~中級/上級/連弾) 橋本晃一編に収録されたカノン(上級)にチャレンジしてきました。2015年12月20日Largo クリスマス発表会(西葛西アート音楽教室)では途中までしか弾けませんでしたが、それから半年、今回は取りあえず全体が弾ける状態にまで向上しました。

さて、発表会当日になりました。

ホール正面


ステージ

会場の東部フレンドホールでは、午の前後からリハーサルが始まり、午後3時開場、3時半開演で、5時過ぎまでが発表会でした。私のリハーサルは午後1時過ぎであり、それが済んだ後、会場から子どもたちのリハーサル状況を見ることができました。どの子も、恐ろしく難しい曲を上手に弾いています。
ごく普通のピアノ教室ですから、上手な子もいればそうではない子もいるはずです。練習を始めたばかりの子、なかなか練習に身が入らない子がいるのは世の常です。私も小学校の頃に僅かの期間ピアノを習っていましたが、練習に身が入らない落ちこぼれ組でした。
しかし、リハーサルを聞いていると、おしなべて子どもたちのレベルが高いのにはびっくりしました。

3時の開場とともに、主に演奏する子どもたちとその家族や親族を中心として客席が埋まり始めます。といっても、全体で数十人の観客、といったところです。
演奏は、小さい子供からだんだんと高学年、そして高難度の曲、と進行していきます。どの子もスムーズに弾いています。演奏会の選曲では背伸びした曲を選んでいるはずですが、それでも破綻することはありません。みんな、よく仕上がっていること、そして本番で実力を十分に発揮していることには驚きです。先生の反応を聞いていると、練習のときよりも本番の方が良い演奏をしている子も多いようでした。
子どもたちの力、恐るべし!

われわれが演奏する「大人の部」は最終グループです。私の「月光」が一番目です。
試験の直前、演奏の直前、勉強したことや練習したことを全部忘れてしまったような恐怖にかられることがあります。しかし始まってみると、ちゃんと思い出して答案を作成し、演奏が始められます。
しかし今回は、本当に忘れていました!!
私が「月光」ほどの曲を弾くとき、曲を完全に暗譜し、さらに指が憶えるまでに弾き込んではじめてそれらしい演奏になります。その段階では、指が憶えているので、突然指が忘れたら曲になりません。今回の冒頭がそんな感じでした。最初から8小節ぐらいはミスタッチのオンパレードでした。
実は、そんな予感はあったのですが、現実になってしまいました。
それでも、8小節が過ぎたあとは指が思い出し、演奏を進行することができました。しかし、長い第1楽章の途中2カ所で指が止まってしまい、その部分では若干はしょって先に進んでしまいました。

一人おいて3曲目が私の「カノン」です。
こちらも、曲の出だし、間違えるはずのないところでミスタッチしてしまいましたが、その後はなんとか最後まで辿り着きました。

今回も、全員の演奏を私のデジカメに動画で記録しました。
動画 月光  iPad
動画 カノン  iPad
帰ってから自分の演奏を聴いてみると、発する音が弱々しいのには落胆しました。「月光」も「カノン」も、右手の小指でメロディーを演奏します。私は左利きでもあるので、右手小指はもともと力が入りにくいのですが、少なくとも1年前まではそれなりの音が出ていました。
今回の発表会前、練習しているとどうも指が疲れたような実感があります。演奏会直前も、練習しすぎると腱鞘炎になる予感もあったので、練習をセーブしたほどです。発表会本番で緊張して各指まで神経が回らない状況ではますます、右手小指の力が抜けしてしまったようです。

多分“とし”でしょうね。
今後ますます指の力は衰えるでしょうから、発表会で「月光」を弾くのはこれが最後かもしれません。

大城先生が音楽教室ラルゴをスタートさせて1年、このように立派な単独発表会を企画され、見事成功裏に終わりました。その全体をつぶさに拝見しました(演奏もしたのですが)。教え子の子どもたちが良い成果を上げていることも、発表会の演奏で感じることができました。
これからもさらなる発展を祈ります。
コメント (3)
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