弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「風立ちぬ」~逆ガル~堀越二郎氏

2013-06-30 08:44:31 | 趣味・読書
新聞に、宮崎駿監督作品の映画「風立ちぬ」の全面広告が掲載されています。
絵には、『堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて。「生きねば。」』の文字と、天空から舞い降りてくる一機の飛行機が描かれています。飛行機は、逆ガル形主翼、固定脚を持った単発プロペラ機です。

堀越二郎といえば零戦の設計主務者として有名です。
一方、逆ガル形主翼を持ったプロペラ戦闘機としては、アメリカのF4Uコルセアが有名です。もちろんコルセアは引き込み脚ですが。(下の写真:ウィキペディアから)
U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.253.7154.022

堀越二郎氏は、三菱内燃機名古屋航空機製作所の技術者として、七試艦戦(艦上戦闘機)、九試単戦(単座戦闘機)(後の九六式艦戦)、十二試艦戦(後の零戦)の設計主務者を務めています。初作品の七試艦戦(昭和7年)は失敗作でしたが、堀越氏にとってはいい練習台でした。そして、九試単戦(昭和9年)で一気に世界の最先端に躍り出ます。それからさらに、十二試艦戦(昭和12年)の成功により零戦の伝説を生み出すことになるのです。

さて、「風立ちぬ」の写真にある逆ガル形飛行機は一体何でしょうか。

七試艦戦は、こちらの写真によると主翼はやや逆ガルですが、固定脚のカバーがでかすぎます。

九試単戦についてウィキペディアでは、
『三菱の試作機は都合6機製作されたが、最初の試作一号機は逆ガル型の主翼を持ち、続く試作機や量産された九六艦戦とはかなり印象が異なる機体であった。実質的に九六艦戦の原型となったのは試作二号機ということになる。設計主務者は後継の零式艦上戦闘機の設計で知られる堀越二郎技師。日本で初めて全面的に沈頭鋲を採用した機体でもある。』
と説明しています。
そうすると、「風立ちぬ」の逆ガル形飛行機は、九試単戦の1号機がモデルということになるのでしょうか。

黒島 椿のアンニュイな日記に逆ガル形の写真が掲載されています。記事には、
『どうやら駿氏は九六式艦戦の試作型、9試単戦の2号機やら3号機(逆ガルのヤツです)がでてくる物語らしいです。』
『九六式艦戦の主翼は美しいです。』
の文言が出てきますが、正確には「九試単戦の1号機」というべきでしょうか。

九試単戦に基づいて制式採用となった九六式艦戦については、ウィキペディアに以下の写真が掲載されています。
三菱 A5M 九六式艦上戦闘機
第12航空隊所属の96艦戦2号2型機(A5M2b)後期生産機、増槽タンク装備。右に見えている3-104号機は前期生産機。後方に並んでいるのは96艦攻。
主翼途中(固定脚の位置)から若干反りが増加しているようには見えますが、逆ガルとまではいえないようです。

私の手許に、堀越二郎・奥宮正武著「零戦 (1975年)」という書籍があります。この中に記載が見つかりました。
まず、54ページに九試単戦第一号機の写真があり、逆ガル形が明らかです。
次に57ページに以下の記載があります。
『三、翼の形と構造
低翼単葉機では、本質的に戦闘に必要な前下方の視界が悪いのはやむを得ない。当時は複葉やパラソル型からの移り変わりの時で、これが操縦者には予期以上に強く受け取られ、初めは低翼にともなう難問の一つだった。
そこで、この視界の問題と、一本柱の脚の強度、重量の問題との有利な解決策として、中央翼に大きい負の上反角を与え、脚の取り付け点付近から外方に大きな正の上反角を持たせた逆鷗(鴎)形配置を一号機に採用した。
この配置は、すでに述べた通り七試艦戦の時、佐波中佐から示唆されたが構造の複雑なことと安定上懸念があったので、その時は私は用心してこれを見送った。その後イギリスのスーパーマリーン社で、試作戦闘機(スピットファイアの前身)にこの型を採用したことが分かったので、一つこちらもやって見ようという気になった。が、この方法は、やはり翼の折れ目に気流の乱れが生じ、それが安定操縦性に悪影響を及ぼすおそれが大きく、この形式一本ヤリで進むことは危険と思われたので、二号機は初めから中央翼を水平に設計した。』
そうでしたか。堀越氏ご本人の記述ですから確かでしょう。これで、七試、九試、九六艦戦にいたる翼の形について統一的なストーリーが明らかになったと思います。

ところで、宮崎駿の「風立ちぬ」は、もともと雑誌「モデルグラフィックス」に連載した漫画が原作だそうです。モデルグラフィックスですか。懐かしい名前です。
Model Graphix (モデルグラフィックス) 2009年 03月号に、私が撮影した写真が掲載されたからです。ブログ記事Model Graphix誌・トラ・トラ・トラ!特集に顛末を書きました。
Model Graphix (モデルグラフィックス) 2009年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
大日本絵画

以下の拡大写真の右端に、「photo/Shunta Naito」と記されているとおりです。


私にとって、堀越二郎、七試艦戦、九試単戦、十二試艦戦の知識は、第一に柳田邦男著「零式戦闘機 (文春文庫 や 1-1)」に拠ります。この機会に、再度この本を紐解いてみたいと思っています。

ps 7/25 堀越・奥宮著「零戦」に掲載された逆ガル・九試単戦の写真は、こちらに掲載されていました(2枚のうち下の写真)。

ps2 9/23 Wikipediaに九試単戦1号機の写真が掲載されたので、こちらにも転載しておきます。
原典 あみあみ [キャラクター&ホビー通販] | 九六式艦上戦闘機と九試単座戦闘機の作り方(書籍・仮称)
コメント (3)
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「シフト補正禁止」審査基準改定

2013-06-27 21:19:05 | 知的財産権
「発明の単一性の要件」と「シフト補正禁止の要件」に関する改訂審査基準が、やっと6月26日に特許庁から公表されました。
「発明の単一性の要件」、「発明の特別な技術的特徴を変更する補正」の審査基準の改訂について
平成25年6月26日 特許庁

シフト補正の審査基準改訂案公表がこの3月6日でしたから、3ヶ月以上が経過してやっと確定版が公表されたわけです。

以下の書面が公表されました。
特許・実用新案 審査基準「第Ⅰ部第2章 発明の単一性の要件」 <PDF 1,373KB>
特許・実用新案 審査基準「第Ⅲ部第Ⅱ節 発明の特別な技術的特徴を変更する補正」 <PDF 201KB>
特許・実用新案 審査基準「第Ⅸ部 審査の進め方」 <PDF 355KB>
「発明の単一性の要件」、「発明の特別な技術的特徴を変更する補正」等の審査基準改訂案に対する意見募集の結果について

改訂審査基準の適用については、
『「発明の単一性の要件」の改訂審査基準は、平成16年1月1日以降の出願に対して、平成25年7月1日以降の審査に適用します。「発明の特別な技術的特徴を変更する補正」の改訂審査基準は、平成19年4月1日以降の出願に対して、平成25年7月1日以降の審査に適用します。』
ということで、6月26日に公表したと思ったらその3営業日後には適用開始ですか。あまりの余裕の無さにはびっくりします。

さて、3月に公表された改定案と、今回の決定版とはどの程度の差があるのか、これからじっくり見ていかなければなりません。
取り敢えず、3月の改定案については、こちらの発明の単一性とシフト補正禁止の審査基準案(3月10日)に私の解読結果を記事にしました。

なお、特許庁は、改訂審査基準の説明会を実施する計画がないそうです。
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辛坊さん遭難とイラク日本人人質事件

2013-06-26 21:28:15 | 歴史・社会
辛坊治郎さんと盲目のセイラーが乗ったヨットが太平洋上で遭難しましたが、海上自衛隊の救難活動によって無事生還しました。めでたいことです。
確かに人騒がせではありますが、これは「冒険」にどれだけ価値を置くかという価値論です。私は、周到な計画の元に冒険に乗りだしたのであれば、冒険ですから危険は想定されるわけで、たまたま失敗したとしても国民の税金で救出することに何ら異議はありません。むしろ、日本人若者がどんどん冒険に挑戦してほしいと思っているくらいです。
ところがこれに対し、「自己責任論」が噴出しているらしいのでびっくりしてしまいました。
辛坊さんに批判相次ぐ=自民部会
時事通信 6月25日(火)15時39分配信
辛坊氏がとるべき「自己責任」
秋原葉月 2013年06月23日

調べてみたらわかりました。辛坊さん自身が、9年前のイラク日本人人質事件に際し、「自己責任論」の急先鋒に立っていたことに起因するようですね。

9年前のイラク日本人人質事件を思い出しました。
私がこのブログを始めたのが2006年で人質事件から2年後だったので、人質事件のリアルタイムでの意見は表明していません。しかし、2006年に以下の記事を掲載しました。
イラク日本人人質事件 2006-03-13 00:18:23
『イラクの日本人人質事件からもう2年経つのですね。
ここ何年かで、あんなに心が痛んだ事件はなかったように思います。
突然武装集団に囚われ、いつ殺されるかと怖い思いをし、外界と完全に遮断され、やっと助かって日本へ帰ってきたわけです。日本の人たちが暖かく迎えてくれるかと思いきや、日本はもっと怖い国になって人質たちを非難糾弾したのでした。あれで神経をやられなかったらよっぽど図太い人です。
確かに、あの時期にファルージャ近郊を通過するという判断は不注意だったと思います。しかし、情勢が急速に変化していた時期であって、情勢を見誤ってしまったとしてもそれほど大きな過失があったとは思えません。あの程度の過誤は誰にでもあるものです。その結果として危難に遭遇したのであれば、日本政府として当然に救助に最善を尽くすべきです。
それに対して、日本人の平均的な意見は、「自己責任」「あんなとこに行った本人が悪い」「かかった費用は本人たちに負担させろ」「また行きたいと言ったらしいがもってのほか」といったようなものでした。帰ってきた人質の人たちは、帰国して笑顔を浮かべることも許されず、ひたすら謝罪を要求されました。』

上の記事にある「自己責任」「あんなとこに行った本人が悪い」「かかった費用は本人たちに負担させろ」がもし当時の辛坊氏の意見と重なっているとしたら、今回非難されても致し方ないでしょう。
さらに「また行きたいと言ったらしいがもってのほか」とまで言っていたとしたら、今回の辛坊氏発言
「これだけたくさんの人に迷惑をかけて、口が裂けてももう一回やりたいとはいえないでしょ。いや言えません。もし今度やるとするならば、誰にも連絡せずに全部自己責任、何があっても自分たちで責任を取るという覚悟で、船を出すことはないとはいえない。」
はうなずけます。

ところで、今回の海上自衛隊飛行艇の活躍は素晴らしかったですね。
最近、この飛行艇を世界に販売していこうとの動きがあり、手始めにインドに買ってもらう話が進んでいることは承知していました。
今回のこの活躍は、この飛行艇を世界に広める上で大きな助けになるのではないでしょうか。それを思うと、かかった費用1000万円は無駄にはなりませんでした。
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ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡」(3)

2013-06-21 21:18:28 | サイエンス・パソコン
第1回第2回に引き続き、ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡〈下〉 (岩波文庫 青 942-2)」の第3回です。
200インチ反射望遠鏡のためのガラス円盤は完成しました。下巻では、望遠鏡の機械部分・電気部分の設計・製作、円盤を研磨して精密な放物面の反射鏡に仕上げる工程、人里離れたパロマー山の頂上に建設するための苦労が詳細に記録されています。以下、本に沿ってたどっていきます。

《北極星を観測できるマウンティング》
当時の望遠鏡のマウンティングとしては、当然ながら赤道儀が用いられます。小さな望遠鏡であれば、鏡筒の片側に赤道儀マウンティングを取り付ければ完成です。40インチのヤーキス望遠鏡はこの方式です。もっと大きくなると、マウンティングをフォーク形とし、鏡筒の両側からフォークの先端で支えます。ウィルソン山の60インチ反射望遠鏡はこの方式でした。
ところが、ウィルソン山の100インチとなると、フォークでは負荷がかかりすぎます。そのため、両端に軸受を備えたヨーク式とし、鏡筒を2つの軸受の間に設置しました。2つの軸受を結ぶ線は北極星を向いています。そしてこの方式だと、北極星に望遠鏡を向けようと思っても、軸受が邪魔をして向けることができないのです。
パロマー200インチでは、ヨーク式を用いながら北極星をも観測できる形態を志向し、北側の軸受部分を巨大な馬蹄形としたのです。

《サンディ大佐》
当時、安心して天文台建設を任せられる元請けメーカーを見つけることができませんでした。ヘールらは、アメリカ海軍のクライド・S・マクダウェル大佐に注目しました。呼ばれたマクダウェルはヘールら3人で一日話し合い、夕方には、どうやってこの事業を組織化し成功させるかをヘールらに示しました。ヘールの決断は迅速であり、その場でマクダウェルを責任者として任命することを決めてしまいました。

《西へ、西へ》
アメリカ東部のコーニング社で製造された200インチのガラス円盤は、鉄道でカリフォルニアまで運ばれることになりました。円盤は立てて貨車に積むしかありませんが、それでも、その高さでトンネルや橋を通過できるか難しいです。円盤は線路上17フィート7インチの高さがあり、コーニングからカリフォルニアまでの鉄橋のうち少なくとも2つは、上下間隔が17フィート10インチでした。この本では、東部を出発した列車が西部に到着するまでの一部始終を克明に描いています。

《反射鏡研磨の責任者はトラックの運転手》
200インチ鏡製作の全責任を担ったアンダーソン博士は、この仕事に最適任の人を選びました。彼の名はマーカス・H・ブラウンといい、カリフォルニア州ロング・ビーチの養鶏農場から来た者であり、当時はトラックの運転手でした。
このときをさかのぼる32年前、マーカス・ブラウンは父親の農場で働いていたとき、自分が農業を好きになれないことがわかりました。そこで彼は独り立ちし、小学校を修了するとあらゆる種類の仕事に就きました。そのうちに、つてがあってウィルソン山のトラック運転手となります。ブラウンは運転手をしながら、天文台のガラスの仕事をしたいと考え、自分で光学理論の勉強を始めました。
数年が経ち、パロマーの200インチ望遠鏡計画が明らかになると、ブラウンは行動に出ました。ブラウンはアンダーソンを訪ねて、研究所に光学ガラス工として就職したいと申し出ました。アンダーソンは、ブラウンが一人前のガラス工になれるなら、ウィルソン山で働いてもらおうと承諾しました。見習い工から始めたブラウンは、こうして3年間をガラス工として過ごし、家では光学の勉強を進めました。
1931年の段階では、誰が200インチの主任光学ガラス工になるかわかりませんでした。アンダーソンは、第1候補、第2候補が仕事を受けないことが明らかになった後、ブラウンに決定したのです。
初志を貫徹したブラウンにしろ、表面上はトラック運転手に過ぎなかったブラウンを採用したアンダーソンにしろ、日本だったら考えられないような物語ですね。アメリカという国が持っている底力を感じ取ることができる逸話でした。

ブラウンは、研磨作業を行うための21人のチームを編成しました。この21人は、ガラスの経験を積んだか否かは全く考慮されませんでした。ブラウンは、仕事に興味を持ち、それをやり続ける能力を持った若い人を選びました。

円盤の研磨では、まず円盤表面を球面に研磨し、次いで放物面に研磨します。球面研磨は終わりました。このあと、ベンガラと水の混合府つで円盤をさらに研磨して仕上げ、千分の5インチのガラスを削り取ります。この作業に3年はかかると予想され、ブラウンはその前に3ヶ月半を費やして研磨工場の清掃を行ったのでした。
著者のウッドベリー氏は、この研磨作業を実際に見学し、ブラウンとも話をしています。

《インスピレーション》
それまで、反射望遠鏡の反射鏡は、ガラスに銀をメッキしていました。
当時、カリフォルニア工科大学にジョン・ストロングという27歳の奨学生がおり、赤外線分光学の研究をしていました。彼はガラスの表面に石英をメッキする実験を行い、うまく行くことがわかりました。突然、彼はアルミニウムだと思いつくのです。なぜ鏡を従来ありきたりの銀の代わりに、アルミニウムでメッキしないのか。アルミニウムは紫外領域では銀よりも反射能が強く、錆びるということがありません。彼は石英と同様にアルミがメッキできるだろうと考え、アンダーソンに説明しました。すぐにストロングは、24インチの鏡にAlメッキを成功させました。ストロングはさらにウィルソン山の100インチのアルミメッキを行い、そしてパロマー山の200インチ巨大鏡をメッキする機械の設計も彼に依頼されたのでした。

《後日物語》
ウッドベリー氏の取材は1939年まで続き、あと1年ぐらいでパロマー建設が完了するだろうというところで一度は物語を終えました。ところが戦争が勃発し、1年で終わる予定の仕事は7年もかかることになってしまったのです。
戦争中、鏡の仕事はほとんど中断されました。あらゆる科学者と職工の熟練は、新しい兵器の考案に必要とされました。カリフォルニア工科大学はロケットの研究、光学工場は海軍のために測距儀のプリズムの製作などに活躍しました。
戦争が終了して6ヶ月後、反射鏡の研磨作業が再開されました。最終の作業では、作業時間が短くなり、テストの回数はますます増えます。ガラスを5千分の1インチ削る仕事にまる1年かかりました。1947年3月、鏡の全表面を、あらゆる点で完全な放物面と光の1は長以内の誤差、1インチの5万分の1の誤差に磨き上げました。
そして1947年10月、鏡は完成しました。

11月19日に鏡はパロマー山上に輸送され、12月はじめにはアルミニウムメッキを難なくやってこなしました。ジョン・ホプキンス大学で新しい地位についていたストロングがメッキのためにパロマーに来ていました。

この本の記述は、以上で終わっています。

パロマー計画のスタートからカウントすると、もう90年以上前の話であるにもかかわらず、この本を読むと昨日のことのように開発の情景が思い浮かびます。
ザカリー著「闘うプログラマー」でも感じましたが、アメリカ人が執筆するドキュメンタリーは、徹底的に「人」に取材し、執筆も「人」に焦点を当てている点で秀逸であるとの印象を受けます。
巻末、2002年に成相恭二氏が執筆した解説によると、日本のすばる望遠鏡を計画し建設するに際しても、皆さんでこの本を参照したということです。

なお、私は中学時代に、木邊成麿著「反射望遠鏡の作り方 (1967年)」でパロマー望遠鏡の建設物語を読んでいたのですが、そのときの記憶として、鏡用の円盤は第二次大戦中の長い間、コーニング社の焼き鈍し炉で深い眠りについていたと思い込んでいました。そうではなかったことが今回判明しました。木邊著を再読しましたが、私の思い違いでした。
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ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡」(2)

2013-06-18 23:05:49 | サイエンス・パソコン
前回に引き続き、ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡」の2回目です。
パロマーの巨人望遠鏡〈下〉 (岩波文庫 青 942-2)
D.O.ウッドベリー
岩波書店
《パロマー山200インチ反射望遠鏡》
1928年、ジョージ・ヘールは「ハーパーズ・マガジン」に投稿した論文で次のように書きました。
「200インチまたは300インチの望遠鏡を今ただちに建設して、天文学の大いなる進歩に役立てなければならないと私は確信する。リック、ヤーキス、フーカー、カーネギーは既に亡くなった。しかし他の新しい寄付者が、知識を進歩させ、同時に大宇宙の性質とそのいまだ探求されない神秘の問題に関する自己の好奇心を、満足させる機会は残っているのである」
ヘールはこの論文の校正刷りをロックフェラー財団のローズ博士に送りました。するとローズはこの計画に魅了され、紆余曲折はありましたが、200インチ望遠鏡を擁する天文台建設に6百万ドルを超える寄付を決定したのです。
リックは、カリフォルニア・ハミルトン山にある36インチ屈折望遠鏡(ヤーキス望遠鏡ができるまで世界最大)の建設費を寄付した人です。ヤーキスは、現在でも世界最大の屈折望遠鏡であるヤーキス天文台の建設費を寄付しました。フーカーとカーネギーはウィルソン山100インチ反射望遠鏡の建設費を寄付しました。そして今回の主役である200インチパロマー望遠鏡はロックフェラー財団です。
大望遠鏡を新設することによる天文学の進歩は、ずっとアメリカが主導してきましたが、こうして見ると、その財政的基盤はすべて大富豪の寄附に頼っていることかわかります。アメリカという国はそういう国なのですね。
そして、上記に登場した望遠鏡のうち、ヤーキス40インチ屈折望遠鏡、ウィルソン山100インチ反射望遠鏡、パロマー山200インチ反射望遠鏡のすべてについて、そのときどきの富豪(財団)を説得して予算を獲得する上での立役者が、すべてジョージ・ヘールだったのです。ジョージ・ヘールとアメリカの大富豪が、天文学の進歩を推進したといっていいでしょう。

カリフォルニア工科大学(CALTEC)は現在、世界的に著名な大学です。実はこの大学の発展にも、ヘールが大きな影響を与えていることを今回知りました。この大学は、もともと地方の一大学に過ぎませんでしたが、ウィルソン山天文台の運営を行いつつ、1920年カリフォルニア工科大学として発足しました。ヘールはこの大学の発展に大きく貢献します。そして大学発足のたった8年後に、ロックフェラー財団から6百万ドルの寄附を受け取ってパロマー天文台を建設することになるのです。
パロマー天文台のための理事会の最初の理事は、ヘール、物理学者のミリカン、化学者のノイズ、銀行家のロビンソンでした。ミリカンとは、あの油滴実験で有名なミリカンです。

ヘールらが招聘したひとりにラッセル・W・ポーターがいます。発明家、光学機器商、建築家、芸術家、北極探検家でしたが、天文界では全く知られていませんでした。ヘールらはこのポーターに着目し、天文台設計の中心人物として据えるのです。

200インチ反射望遠鏡で最も困難な問題は、鏡の素材をどうするかという点でした。ガラスの熱膨張による熱変形には、100インチ望遠鏡でも苦労しており、200インチではもっと大きな問題でした。2つのアイデアが寄せられました。一つは、当時コーニング社で実用化したばかりのパイレックスに代表される低熱膨張ガラスの採用、もう一つは、もともと熱膨張が少ない溶融石英の採用です。
最終的にはコーニング社のパイレックスが採用されるのですが、その前、溶融石英の可能性を探る大規模な実験が、ゼネラル・エレクトリック社で行われました。結局は失敗に終わるこの試みを、この本では克明に追いかけています。GE社は今も当時も、石英製品を扱っています。私がかつて従事していたシリコン単結晶の製造において、多結晶シリコンを溶融して単結晶化するに際し、シリコンを溶融するルツボは石英ルツボです。GE社は石英ルツボのメーカーの一つでした。
このとき開発チームは、巨大ガラス板を石英で製造するに際し、石英粉末を溶融して吹き付ける方法を考え出し、直径2フィートの円盤製造には成功しました。しかしそれ以上の直径の円盤にはとうとう成功せず、石英は採用されませんでした。しかし、開発に要した60万ドルはロックフェラーからの寄付金で賄われたので、GE社は自己負担なしに溶融石英吹き付け法の開発に成功したことになります。この点は、石英製品の製造方法進歩に有益だったものと思われます。

そして開発は、コーニング社のパイレックスガラスに移りました。
最初に出されたアイデアは、ガラスをムクで作るのではなく、ハニカム構造にして重量を低減するというアイデアです。この本の下巻の表紙に写真があります。
次のアイデアは、ガラスを鋳造するに際し、原料のガラス粉末を一挙に溶融するのではなく、別の炉で溶融したガラスを少しずつ、柄杓で反射鏡の溶解炉に移し替えるという方法を採用したことです。
パイレックスガラスを用いたハニカム円盤の製造は、30インチ、60インチ、120インチと進み、最後は200インチを完成させました。この間の苦労の一部始終が書籍で語られています。
200インチの最初の鋳造では、ハニカムを形成するためのコアが浮き上がるトラブルがありました。そこで、ハニカムの支持方法を改良した上で第2回の鋳造を行いました。鋳造は成功し、円盤は遅滞なく焼き鈍し器に移し替えられました。その中で2ヶ月間は温度一定に保ち、さらに8ヶ月間かけて平均して冷却される予定でした。ところが鋳造から8ヶ月後、コーニングの工場は川の氾濫に見舞われるのです。洪水は焼き鈍し器にまで到達し、電源は72時間にわたって遮断されました。円盤は無事だったか。それから3ヶ月後、焼き鈍し器から取り出された円盤には何ら問題はなく、とうとうパロマー反射鏡のためのガラス円盤は完成したのです。
(以上、上巻)

以下次号。
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ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡」(1)

2013-06-15 12:58:58 | サイエンス・パソコン
ブログネタはいくつか溜まっているのですが、なかなか記事を書く時間が取れず、更新が滞っています。以下の書籍についても、読んだのはずいぶん前なので、記憶がどんどん薄れています。
パロマーの巨人望遠鏡〈上〉 (岩波文庫)
D.O.ウッドベリー
岩波書店

アメリカ・パロマー山の200インチ反射望遠鏡は、長いこと世界最大の望遠鏡として君臨し、多くの成果をあげてきました。
私にとっても、小学校か中学校の図書館にパロマー天体写真集が置いてあって、写真をよく眺めていたことを記憶しており、パロマー天文台は強く印象に留まっています。

パロマー200インチ望遠鏡の建設について最初にゴーサインが下った(ロックフェラー財団が寄付の方針を決定した)のは1928年、できあがった反射鏡が望遠鏡に組み込まれたのは1947年です。

今回読んだ「パロマーの巨人望遠鏡」にはふたりの主人公が存在します。第1の主人公はジョージ・ヘール、第2の主人公がパロマー望遠鏡です。

《ジョージ・ヘールの物語》
話は1881年、13歳のジョージ・ヘールが望遠鏡の製作を思い立ったところから始まります。その後のヘール青年の天体観測における貢献はめざましいものがありました。

ヘールが24歳でシカゴ大学の助教授であった時、36インチの屈折望遠鏡の対物レンズ用のガラス円盤が宙に浮いている話を聞きつけました。南カリフォルニア大学が発注したものの、寄付がもらえずに中止になったのです。
しかしシカゴ大学にもお金はありません。ヘールは、シカゴの大富豪の一人であるヤーキスに的を絞りました。そして、ガラス円盤購入とレンズ製作に必要な金額の寄附取り付けに成功するのです。しかし、さらに望遠鏡と天文台まで作るお金がありません。ヤーキスは寄附を拒否します。それから後もヘールはヤーキスを説得し続け、とうとう望遠鏡費用の寄付にこぎ着けるのでした。
今日でもこの望遠鏡は世界最大の屈折望遠鏡であり、ヤーキス望遠鏡と呼ばれていることを知っていましたが、このようないきさつでできたのですね。
ヤーキス天文台は1897年に完成し、29歳のヘールは初代台長に就任しました。
ヤーキスが頑として認めなかった天文台建設費寄付も、最後には承諾してお金を出したのだそうです。

パロマー山の200インチ反射望遠鏡ができる前、ウィルソン山の100インチ反射望遠鏡が世界最大でした。その100インチ望遠鏡も、計画したのはヘールでした。
ヘールは太陽観測に大きく貢献しており、ウィルソン山に太陽望遠鏡を建設するところからはじまりました。
パロマー山もウィルソン山も南カリフォルニアに位置し、どちらも天体観測に好適な条件を揃えていました。そしてどちらも交通の便が極端に悪かったのですが、ウィルソン山の方が比較的ましであり、そこに太陽望遠鏡を設置することに決まったのです。
ウィルソン山に設置した太陽望遠鏡はすばらしい成果をあげました。

次にヘールがトライしたのは、ウィルソン山の60インチ反射望遠鏡です。そしてその望遠鏡がまだ稼働する前から、同じウィルソン山に100インチ反射望遠鏡を建設する計画が立ちました。
この頃(1910年)、アンドリュー・カーネギーは存命でした。そして、カーネギー氏はカーネギー財団に追加の1千万ドルを寄付し、「私はウィルソン山に期待をかけている。私はこの世を去る前に、新しい天界に関することがさらにいっそう明らかにされることで・・・満足を覚えたい」という書簡を送り、これでウィルソン山の100インチ反射望遠鏡の将来は保証されたのです。

ウィルソン山100インチ反射望遠鏡は、1917年に観測を開始しました。

それ以前の1910年、ヘールは病魔に襲われました。一種の能の鬱血による発作であり、それが科学的研究に熱中しているときに起こるのです。その時以来、ヘールは太陽の研究続けつつ、残りの時間はその並外れたエネルギーを他の人々を力づけ励ますことに捧げたのです。しかしこれもやり過ぎになり、ついに病気が深刻な状態になりましたが、彼はパロマーの200インチ反射望遠鏡誕生のための困難な交渉に全力を傾注したのです。

以下次号。
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ピアノ発表会無事終了

2013-06-05 21:27:40 | 趣味・読書
6月2日(日)、本年2回目のピアノ発表会が無事終了しました。

前回は今年2月24日、恵比寿のアートカファフレンズでミニ発表会がありました
今回は、葛西のフィガロ音楽院が会場です。
大城真紀先生にピアノを習っている大人(高1以上)と、>中村春彦先生に声楽を習っているやはり大人の生徒さんとのジョイント発表会です。生徒が合計10人と先生2人です。

私が今回弾くのは、シューマン「子供の情景」より「異国の土地の人々」「トロイメライ」「詩人は語る」の3曲です。
はじめの2曲は今年2月の発表会でも弾きました。今回、3曲目を新たに加え、連続して弾くことになりました。

発表会で弾くと必ず、どこか1箇所で詰まってしまいます。同じ曲をさんざん練習し、指が曲を覚えています。ところが、演奏中にふっと集中が途切れるときがあり、あるいは押す指を間違えてしまったとき、その次に押すべきキーがわからなくなるのです。そうなったらその箇所から再度引き始めることは不可能です。
そのため、発表会が近づくと、楽譜の行単位程度で、途中から再開できるようにとの練習を繰り返すこととなります。

しかし今回は、3曲とも大きな破綻なく弾き終わることができました。
それでは、恥ずかしながら私の演奏動画をアップします。
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3曲目(詩人は語る)の最終部分で、やはり小さな破綻がありました。しかし何とか、次に進んでエンディングを弾き終わりましたので、いいことにしましょう。

私は自分の技量に合わせて弾いているので、演奏するスピードは本来のスピードよりもだいぶ遅いです。
それでもこの3曲、特にトロイメライは、私の技量にしてはだいぶ背伸びした選曲です。複雑な和音の進行が連続します。ですから「トロイメライを弾いている」というのは、私としては密かな自慢なのです。
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笹子トンネル事故調査5月28日

2013-06-01 13:09:42 | 歴史・社会
5月28日、笹子トンネル事故に関する報道が相次ぎました。

<笹子トンネル崩落>複数の要因が重なり事故
毎日新聞 5月28日(火)21時9分配信
『・・・
骨子によると、換気や大型車両が起こす風圧の影響は、設計では無視されていた。だがアンカーボルトにかかっていた力は、設計時の最大2.5倍に達していたとみられる。車が通る際に繰り返しかかった風圧は、35年間で700万回に及ぶと推計した。
設計に加え、施工にも要因があった。アンカーボルトはトンネル最上部のコンクリートに開けた穴に、接着剤で固定される。だが、事故後の引き抜き検査で強度が弱かったボルトを調べると、穴の深さがボルトより平均で約3センチ長かった。そのため接着剤が行き渡らないまま先端に残ってしまい、施工当初から強度不足のボルトがあったと推測した。』

換気の風圧、考慮不十分=ボルトに過剰負荷―笹子トンネル事故・国交省調査
時事通信 5月28日(火)11時40分配信
『・・・
国交省によると、笹子トンネルは上部に天井板を設置し、隔壁板で左右を仕切って換気する方式を採用したが、換気時に隔壁板にかかる風圧を十分に考慮していなかったとみられる。同省のシミュレーション試験の結果、1本のボルトの設計荷重約1.2トンに対し、最大で2倍超の負荷がかかっていた。』

当初から耐久力の余裕不足=ボルト設計施工に問題―笹子トンネル事故・国交省調査
時事通信 5月28日(火)2時33分配信
『・・・
国交省や関係者によると、笹子トンネルでは、トンネル最上部のコンクリートに開けた穴に、接着剤などの入ったカプセルを挿入した上で、ボルトを押し込んで接着させていたとされる。設計上、1本のボルトにかかる荷重は約1.2トンで、耐久力には3~4倍の余裕があるとされていた。
しかし国交省の調査で、施工の仕様書と完成図でボルト穴の深さが約2センチずれていたことが判明。実際に56カ所を調べた結果、9~20.5センチとばらつきがあり、接着剤が十分に拡散されていないものもあった。
同省はこれらの影響もあり、特に負荷のかかる天井が高い場所の一部で、完成当初から耐久力の余裕分が不足していた可能性があるとしている。』

報道ごとにさまざまな事象を述べていますが、全体のつながりがよくわかりません。そこで、国土交通省のホームページに事故報告が掲載されるのを待ちました。
トンネル天井板の落下事故に関する調査・検討委員会のページに、第5回(2013年5月28日)を含めて配布資料が掲載されています。

まず第1に、上記ニュースから「事故後の引き抜き検査で強度が弱かったボルトを調べると、穴の深さがボルトより平均で約3センチ長かった。そのため接着剤が行き渡らないまま先端に残ってしまい、施工当初から強度不足のボルトがあったと推測した。」と報道された部分を調べようとしました。
ところが、第5回(2013年5月28日)の配布資料を調べても見つかりません。わかったことは、この調査は第4回(2013年3月27日)配布資料資料5-3 覆工コンクリートコア等の観察に含まれていたのです。つまり、3月に公表されていた結果が、5月のニュースとして流れたということです。
さて、「穴の深さが深すぎたから接着剤が行き渡らず、それが接着力不足の原因となった」という推定であれば、「穴の深さが深い箇所ほど、接着力が低下する」というデータになっているはずです。そこで、調査がどのように評価されたか調べてみました。
資料5-3の15ページにそのグラフはありました。横軸が「過堀長=削孔長―埋込み長(mm)」、縦軸が「引き抜き抵抗力(kN)」です。グラフを見る限り、「横軸の過堀長が長いほど抵抗力が低くなる」という結果にはなっていません。このページにも、「サンプル数が少なく、相関性を論じるには至らない。」と記載されています。
なお、同じ資料の次のページ(16ページ)には、(接着剤の)定着長(mm)と引き抜き抵抗力(kN)との関係グラフがあり、やはり相関性は見られません。

結局、現在わかっていることは、
○ 引き抜き抵抗力が極端に低いボルトがあった。
○ ボルトの接着剤被着長さが短いボルトがあった。
○ ボルト穴が長すぎるものがあった。
という個別の結果は出ているものの、どの原因に基づいて引き抜き抵抗力低下という結果に至ったのか、という因果関係は不明のまま、ということになります。

このままだと、「ケミカルアンカーボルトの引き抜き抵抗力が低いものが多く、それが天井板落下の主要原因となった。引き抜き抵抗力が低下した原因の候補はいくつも見つかっているが、どの因子がどの程度影響しているかの因果関係は不明のままである。」という結論に至りそうです。
とにかく、「天井板をケミカルアンカーボルトで固定しているトンネルでは、一刻も早く天井板を撤去するしか対策はない」ということは間違いありません。

なお、「換気時の風圧が原因で、ボルトにかかる引張力が設計の2.5倍もあった」という点については、資料をざっと眺めましたが解読は困難そうです。
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