弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

教科書検定・沖縄「集団自決」

2007-10-30 21:18:15 | 歴史・社会
日本史教科書の文科省検定で昨年、「沖縄戦での民間人集団自決が日本軍の強制による」との記述に対して修正を求める検定意見が付き、教科書は修正されて発行されました。
この検定に対して、反論が高揚し、政府は教科書の記述を元に戻す方向で動いています。

「集団自決は軍命令によるのか否か」という議論を行うに際し、「軍命令」をどのように捉えるかで結論が変わります。
「軍命令」「師団命令」「大隊命令」などの形で、オフィシャルに民間人の集団自決を命令した事例は多分ないのだと思います。
実態は、民間人もいさぎよく自決すべきだという「空気」が民間人側にも軍人側にもあり、その「空気」に従って手榴弾が民間人に配布されます。
一方、最終決断は、民間人と軍人がともに隠れている洞窟のそれぞれで異なっていたのではないかと推測されます。
ある洞窟に隠れている軍人の最先任将校(下士官)の例えば少尉が、「我々軍人は最後まで戦うが、あなた方民間人は米軍に降伏しなさい。」と指導した場合、その洞窟に隠れる民間人は助かりました。そのような事例はよく聞きます。従軍看護婦が書いた本で記憶があります。
一方、別の洞窟の最先任である例えば伍長が、民間人に「最後はこれで自決しろ」と手榴弾を配れば、受け取った民間人はこれを当然ながら「軍命令」と捉えるでしょう。たとえその伍長が単なる「空気」に基づいて手榴弾を配ったとしても。

多分、「軍命令はなかった」と主張している人たちは、「オフィシャルな軍命令はなかった」と言っているのでしょう。これ自体は上記のように誤りではありません。
しかし沖縄の人たちにしてみれば、たとえ伍長からでも「これで自決しろ」と手榴弾を渡されたら、立派な「軍命令」です。
今回の議論では、「軍命令」を柔軟に捉え、沖縄の人たちが主張するように理解すべきと思います。

月刊誌「世界」11月号に安田浩一氏が「誰が教科書記述を修正させたか」を載せています。
昨年12月末、教科書会社の編集者、執筆者が文部科学省を訪れると、同省の教科書調査官から指摘を受けます。
「軍隊から何らかの強制力が働いたかのような受け取られ方をしてしまう。この表現は、ちょっと避けてもらえませんか。」
教科書会社の編集者は「これだけは絶対に譲ることはできないとでもいうような、文部官僚の"決断"だけは伝わってきました」と述懐します。

2005年、自由主義史観研究会の代表を務める藤岡信勝拓殖大学教授らが沖縄を訪問します。その後、藤岡氏は「現地調査を行った結果、旧日本軍が沖縄住民に集団自決を強要したというのは虚構があることが判明した」と報告します。

今回の教科書書き換えを迫った調査官は、村瀬信一氏という人だそうです。

藤岡氏と村瀬氏の関係について、世界の記事では、「藤岡氏は、『新しい歴史教科書をつくる会』を立ち上げたことで知られる。現在、藤岡教授は『つくる会』の会長だ。村瀬氏は、『つくる会』教科書を監修した伊藤隆・東大名誉教授の弟子である」という関係を紹介しています。

また世界の記事では、まだ強気だった頃の安倍内閣時代にすべてが進行したことを留意すべきとしています。

それにしても、このような社会問題になるような動きが、たった一人の文科省調査官の力で行い得るものなのでしょうか。
文部科学大臣の公式見解では、「検定に関しては、最終的に外部の学識経験者によって組織される検定調査審議会が決めるもので、調査官をはじめとする文科省の意思など反映させることができない、口出しなどできない」と言っているようです。
ところが、民主党の川内博史代議士の調査によると、審議会による「検定意見書」の内容は、文科省調査官による「調査意見書」とまるで同じ記述・内容だったのです。そして、審議会において、集団自決に関しては何の議論もされなかったというのです。
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湯浅健二氏の著作2点

2007-10-28 20:08:32 | サッカー
湯浅健二著「サッカー監督という仕事」(新潮文庫)
湯浅健二著「ボールのないところで勝負は決まる」(出版芸術社)
サッカー監督という仕事 (新潮文庫)
湯浅 健二
新潮社

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ボールのないところで勝負は決まる―サッカーQ&A
湯浅 健二
出版芸術社

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湯浅健二氏の「日本人はなぜシュートを打たないのか?」を非常に興味深く読むことができたのですが、湯浅氏の考える「よいサッカー」は、世の中で喧伝されている「オシムサッカー」と極めて近似しています。「日本人はなぜシュートを打たないのか?」によると、湯浅氏のサッカー観は、30年前のドイツサッカー留学時の体験に基づいているとのことです。とはいうものの、「日本人はなぜシュートを打たないのか?」はごく最近の出版物であり、私は以前の湯浅氏のサッカー観に触れたことはないので、「ひょっとして最近のオシム人気にすり寄っているのではないか」との疑問を捨てきれません。
そこで、冒頭の2つの書籍を読んでみました。
「サッカー監督という仕事」は、平成12年発行の単行本もあるのですが、文庫本も平成16年発行で今から3年前であり、十分に「オシム日本以前」です。
「ボールのないところで勝負は決まる」は、平成17年発行の改訂本をわざと避け、平成13年発行の旧版を古本で購入しました。

まず結論からいうと、湯浅氏のサッカー観は終始一貫しており、振れていません。私は、一時でも疑った不明をお詫びしなければなりません。

「サッカー監督という仕事」文庫本は、2004年6月、ドイツW杯のアジア予選が行われている頃の出版です。文庫本特別書き下ろし
その1 徹底比較 トルシエとジーコの戦術はここが違う
その2 市原イビチャ・オシム監督のプロ魂
の2編は、現在読んでも十分に説得性のある論評です。

湯浅氏が考える「よい選手」「よいサッカー」は、30年前に氏がドイツに留学して指導者ライセンスやサッカー教師ライセンスを取得する過程で身につけた考え方で、少なくともドイツサッカー界では共通認識になっているようです。ドイツの著名なコーチ、浦和レッズを率いたブッフパルトなどの考え方と共通するようです。
現在のサッカー先進国において、「よいサッカー」の考え方に何通りもあるのでしょうか。それとも、湯浅氏がいうドイツ流の考え方が、世界の共通意見と考えてよろしいのでしょうか。

もしドイツ流が世界の共通意見であるとしたら、サッカー後進国である日本も、その考え方を模範とするのが良さそうです。

ところが、私が見聞する限り、日本サッカー協会にしろ日本のマスコミにしろ、「湯浅氏の考え方がまさに世界の潮流である」と思っていないような雰囲気です。もし以前からそう思っていたのであれば、湯浅氏の考え方はオシムの考え方と極めて共通しているようなので、「オシムに教えられた」とは言わずに、「オシムの考え方は従来からの日本サッカー協会の考え方と共通する」と言うはずです。
そしてジーコ監督時代において、「ジーコの考え方は日本サッカー協会の考え方と合わないようだ」と評価して監督交代に動いたはずです。
しかしいずれもそうなっていません。
また、Jリーグ各チームの評価にしても、「よいサッカー」を指向しているか否かを判断できるはずです。

日本サッカー協会は、そして協会を批評すべき日本のサッカー評論家は、「よいサッカー」についてどのような考え方を持っているのでしょうか。

湯浅氏が述べる「よいサッカー」では、攻撃でも守備でも「ボールがないところでのクリエイティブなムダ走り」が重要視され、攻撃と守備の切り替え時の全力疾走が要求され、とにかく体力がなければ実現できません。Jリーグ各チームでの練習では、選手の走力向上にどれだけ力を割いているのでしょうか。もしJリーグ各チームに期待できないとしたら、少なくとも日本代表候補選手の走力を底上げしなければならないのですが、そのようなアイデアは生まれないのでしょうか。
日韓ワールドカップ時の韓国代表は、ヒディング監督のもとで体力改善プログラムが組まれたようですね。
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サッカー批評「Jリーグ批評」

2007-10-25 21:51:40 | サッカー
季刊「サッカー批評」36は、「サッカー誌が書かないJリーグ批評」という特集です。
サッカー批評 issue36―季刊 (36) (双葉社スーパームック)

双葉社

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[直撃インタビュー]セルジオ越後はなぜ批評を繰り替えするか?というインタビュー記事があります。インダビュアーは宇都宮徹壱氏です。
前書き「本誌は一貫して適正な目でオシムを評価していこうと呼びかけてきた。結論を急ぐのではなく中長期的視野で議論をしなければならないと思うからだ。その点で本誌と、オシム解任論まで唱えるセルジオ越後氏とのスタンスは明らかに異なる。なぜセルジオ越後氏は批判を繰り返すのか。疑問をぶつけるべく、本人を直撃した。」

「サッカー批評」と名乗る雑誌が、「評論家が批評することがおかしい」ということ自体がすでにおかしいのですが、サッカー批評誌はオシムを積極的に支持してきたという経緯があるので、オシム批評を繰り返すセルジオ氏は「決して看過すべきものではなかった」ということのようです。やっぱり変だ。

そして記事の最後に「終わってみれば、ほとんど完敗といえるインタビューであった。ボールは常に相手側にあり、こちらは防戦一方。いいたいことは山ほどあるのに、いざ切り出そうとすると反論が10倍になって返ってくる。しかも、その半分くらいは理不尽なものだったりするから、なおさら悔しく、もどかしい。」
一体何なんでしょうか。

インタビューで語るセルジオ氏の言説は、決しておかしな内容ではありません。世の中、いろんな意見を出し合って適正な方向を見いだしていくのであって、セルジオ氏のこの言説を遮るようではとても批評誌とは言えません。

アジアカップを4位で終わった日本代表について、セルジオ氏がオシム批判を繰り広げます。これに反論があるのであれば、「今の日本代表選手の力が○○である中、オシム監督は○○という対応を取ることによって代表をいい方向に進化させているではないか」と具体的に反駁すればいいだけのことです。それができていないのですから、一方的に押し切られても致し方ありません。

「セルジオさんは、何か具体的なJリーグの改革案をお持ちでしょうか?」
「たとえばJ1リーグのクラブの数、4チーム減らしてみてください。いい選手はみんなJ1に来るよ。レベル上がるよね。弱い相手との試合では、強化にならないのよ。何のためにJリーグを作ったのか。勝つために作ったんでしょ?儲けるためじゃない。でも、最近は興行に走っているよ。」との応答です。
それに対し、「今度、鬼武(健二)チェアマンにお会いするので、聞いておきます」としか答えられません。

同じ雑誌の中で、宇都宮徹壱氏が「Jリーグへの警鐘」と題して鬼武チェアマンと対談しています。その中で、「J1のチーム数ですが、2年前に16チームから18チームになったことで、ゲーム内容が薄まったように思えてなりません。」と切り込んでいますが、チェアマンが「Jは今のところ18にしているけど、適切な数だと思っています。」「16チームになったからおもしろいゲームが増えるいとうわけでもない。むしろ18でそれをやらないと。」と応答され、それっきりです。

結局、サッカー批評誌としての意見、それも明確な理屈に裏付けられた意見がないのですね。せっかく「サッカー批評」という雑誌名をつけ、税抜き933円という値段で販売しているのに、残念なことです。


先日記載したように、「日本人はなぜシュートを打たないのか?」を書いた湯浅健二氏は、サッカーに対する自分の考え方を明らかにし、なぜそのような考え方に到ったのか、具体的な経験をもとに説明し、その考え方をもとに、オシム監督の指導方針について論評(賛成意見)を述べています。
このような説得性のある意見を、他のサッカー批評家もぜひ身につけて欲しいものです。

今回のサッカー批評誌には他に、「加藤久からのメッセージ」「クラマーとともに歩み、戦った日本代表の物語」「ヤスダの復活」といった記事があり、こちらは興味深く読むことができました。
ヤスダとは以前記事にしたあの安田です。
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日本人はなぜシュートを打たないのか?

2007-10-23 20:17:56 | サッカー
湯浅健二著「日本人はなぜシュートを打たないのか?」(アスキー新書)
日本人はなぜシュートを打たないのか? (アスキー新書 018) (アスキー新書 18)
湯浅 健二
アスキー

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私はサッカーファンを自認していながら、うかつにも湯浅健二氏のことはまったく知りませんでした。
今回上記の本を購入し、始めて湯浅氏の言説に触れることができました。

まず、湯浅氏のホームページ情報から、氏の経歴をチェックしておきます。

1952年 生まれ
1971年 神奈川県立湘南高等学校卒業(サッカー部に在籍)
1976年 武蔵工業大学 機械工学科卒業
1976年 ドイツ留学 ケルン国立体育大学およびケルン総合大学(哲学・社会学)入学
1977年 ドイツサッカー協会公認指導者資格「B級ライセンス」取得
1979年 ドイツサッカー協会公認指導者資格「A級ライセンス」取得
1981年 「サッカー教師養成コース」国家試験およびドイツサッカー協会公認試験に合格
1982年 読売サッカークラブ(現東京ヴェルディー)と、専業コーチとして契約
1983年より、同クラブトップチーム監督に就任したドイツ人プロ監督、グーテンドルフ氏のコーチ(パートナー)として日本リーグ、天皇杯、JSLカップなどに優勝
1986年 読売サッカークラブ退団 退団後、現在の会社を設立
現在 ●株式会社APインターナショナル代表 ●ドイツサッカーコーチ連盟会員

本の表題は「日本人はなぜシュートを打たないのか?」であり、帯には「『決定力不足』は、日本代表だけではない」と書かれていますが、本の内容はこのようなテーマに限定されるものではありません。氏の体験に基づき、「サッカーの試合に勝つためにはいかになすべきか」のノウハウ全般が書かれています。

氏のドイツ留学時代、所属していたアマチュアサッカーチームでの諸々のできごとをエピソードとし、そこから体得したサッカーの極意が語られます。実体験に基づいているので、いちいち納得できます。
今まで、これほど知的なサッカー談義をあまり聞いたことがなかったように思います。それほど新鮮でした。

○ 攻撃において、ボールがないところでのフリーランニングが大事で、何回ムダ走りになろうとも、それを繰り返さなければいけない(汗かきプレー、クリエイティブなムダ走り)。

○ 守備において、相手のボールホルダーを自由にプレーさせない「守備の起点」となることが大事。そのためには、全力ダッシュで開いてボールホルダーにチェイス&チェックを実行しなければならない。それが守備における「クリエイティブなムダ走り」だ。
そして、仲間と協力する組織的なディフェンスで相手からボールを奪取する。

○ 全員攻撃、全員守備のトータルフットボールでは、守備での汗かきプレーや、攻撃におけるボールがないところでのクリエイティブなムダ走りなど、攻守にわたってしっかりと動き(走り)つづけることが要求される。

○ 許されざる「アリバイ守備」
ジーコジャパン当時のあるゲームで、天賦の才には恵まれているその選手は、自分のパスミスでボールを奪われたにもかかわらず、突っ立って様子をうかがうだけになっていた。傍観するその選手のわきを中田英寿が二度もすり抜け、全力ダッシュで相手にチェイスしていった。

○ サッカーは本物の心理ゲームである
心理的な悪魔のサイクルに陥ると、その試合においてチーム力はがた落ちになる。監督が心理マネージャーとして選手全体の意識を高揚することにより、チーム力は大幅に増強する。
(これを可能にする監督の能力を、湯浅氏は「パーソナリティー」と表現していますが、日本語で当てはめるとすれば「人間力」でしょうか。)


自身の経験に基づく湯浅氏のサッカー理論は、日本代表のオシム監督の考え方(考えて、走る)とぴったり一致しているようです。

しかし、今から30年も前の、ドイツのアマチュアチームでの経験が、現在の日本代表にとっても新鮮であるほどの知識になり得る、ということが本当にあり得ることなのか、信じがたい気もします。日本のサッカーはそれほどに遅れているのでしょうか。

もし本当に日本のサッカーが遅れているのだとしたら、湯浅氏の見識をぜひ日本サッカーの高揚に向けて生かして欲しいと思うのですが、なぜ表舞台に出ていらっしゃらないのでしょうか。
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ローマ皇帝の系譜

2007-10-21 20:08:47 | 歴史・社会
古代ローマは、紀元前750年頃にロムルスが建国したと伝えられ、それから紀元前509年までは王制が敷かれます。王政は、終身の身分ですが世襲ではなく、先王が死ぬと次の王は市民の選挙で選ばれます。
紀元前509年から紀元前27年までは共和制です。元老院議員の中から、毎年2人の執政官が選ばれ、1年任期で勤めます。
共和制の下でローマは国力を増大し、カルタゴとの三次にわたるポエニ戦争に勝利し、地中海世界で大きな勢力となります。
共和制末期、カエサルは独自の判断でガリア地方(今のフランス全体、ドイツ西部、イギリス南部を含む地域)を平定するとともに内乱を勝ち抜きますが、前44年に暗殺されます。
カエサルが遺言状で後継者に指名したオクタヴィアヌスは、内乱の末に国内を平定し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながら事実上の帝政をはじめます。この時以降がローマ帝国と呼ばれる時代でしょうか。

塩野七生著「ローマ人の物語」文庫版は、現在29~31巻(終わりの始まり)が発売されています。ここまでのローマ皇帝を並べると、以下のようになります。アウグストゥス以降に連番(①~⑳)をつけました。

カエサル 暗殺
アウグストゥス①
ティベリウス② ①の妻(リヴィア)の連れ子
カリグラ③ リヴィアの連れ子の孫(①の娘とアグリッパの孫)
クラウディウス④ リヴィアの連れ子の子
ネロ⑤ ④の妻(アグリッピーナ、③の兄弟)の連れ子 暗殺
相次いで3人
ヴェスパシアヌス⑨ 軍団たたき上げ
ティトゥス⑩ ⑨の息子
ドミティアヌス⑪ ⑨の息子 暗殺
ネルヴァ⑫ 70歳、子がいない
トライアヌス⑬ 属州出身、⑫の養子 子がいない
ハドリアヌス⑭ 子がいない 帝国の主要な防衛線をすべて巡行
アントニヌス・ピウス⑮ ⑯を養子にするとの条件で⑭の養子になる
マルクス・アウレリウス⑯
コモドゥス⑰ ⑯の息子 暗殺
ペルティナクス⑱ 66歳、暗殺
ユリアヌス⑲ 
セヴェルス⑳ ⑲を倒し、ライバルを粉砕、軍の強化

カエサルが暗殺されたとき、オクタヴィアヌスは18歳の無名の青年でしたが、成長して才能を発揮し、アウグストゥス①として帝政ローマの基を築きます。カエサルの人を見る目は確かでした。
その後、ティベリウス②~ネロ⑤と続きますが、アウグストゥスの妻リヴィアの連れ子の系統で、なかでもカリグラ③とネロ⑤は凡帝でした。ネロは「暴君ネロ」として有名ですが、歴史の中で比較すると暴君というほどではなさそうです。
しかし、前皇帝の縁続きで選ばれる皇帝に名君は続かず、ネロ⑤が暗殺されると、その後は内乱が勃発します。「われこそは皇帝」と名乗る将軍が乱立し、その混乱は、ドミティアヌス⑪が暗殺されるまで続きました。

そしてその後、ネルヴァ⑫、トライアヌス⑬、ハドリアヌス⑭、アントニヌス・ピウス⑮、マルクス・アウレリウス⑯と続く5人が、「五賢帝」と呼ばれる皇帝達です。
上の表でわかるように、ネルヴァ⑫からハドリアヌス⑭まで、子供がいないことが特徴です。ハドリアヌス⑭は死の直前、アントニヌス・ピウス⑮を養子に迎えますが、そのときの条件が、若いマルクス・アウレリウス⑯を養子にすることでした。アントニヌス・ピウス⑮をワンポイントリリーフ、マルクス・アウレリウス⑯をその次の後継者と指名したわけです。
ということで「五賢帝の時代」と呼ばれるローマの全盛期、世襲がなかったのです。皇帝に男の子がいなかったことが幸いしました。

ところがマルクス・アウレリウス⑯には、コモドゥス⑰という息子がいました。マルクスが死ぬときまだ20歳前でしたが、後継皇帝に指名せざるを得ませんでした。
前記のように、コモドゥス⑰が凡帝で、実の姉に殺されかけた後は暴君に変貌します。

コモドゥス⑰が暗殺され、その後をペルティナクス⑱が継ぎます。ペルティナクス⑱は66歳で、世襲しないことを宣言し、ネルヴァ⑫の再現になるかと期待されましたが、歴史はそのような展開を許しませんでした。


共和制から帝政に移行するとき、カエサルが基礎を築き、アウグストゥスが既成事実として帝政を始めたわけですが、皇帝の承継のルールは自然発生的に決めざるを得ませんでした。近い血縁、特に息子がいれば、自然とその息子に皇帝が承継されます。
ところがローマ帝政は、江戸時代の徳川将軍家とは異なり、凡人では皇帝が勤まらなかったのですね。

そして、ネロ⑤やコモドゥス⑰のように、凡帝(悪帝)が暗殺で殺されると、軍を掌握する総督たちが「われこそは次の皇帝」と乱立し、内乱に突入してしまいます。

たまたま男の子がいない皇帝が続いたときだけ、「五賢帝時代」のような時代が生まれたのでした。


古代ローマの人々は、まず「世襲ではない王政(終身)」を発明し、次いで「1年任期の2人執政官の共和制」を発明しました。この制度でローマは大きく伸張しました。
この勢いで、「4年任期の一人大統領制(連続再任1回まで)」を発明できたら、ローマの時代はもっと続いたのではないかと悔やまれます。
しかし実態は、「承継ルールのはっきりしない帝政(終身)」に移行し、上記のような経過をたどったのでした。
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ローマ帝国の黄昏

2007-10-20 10:44:05 | 歴史・社会
塩野七生著「ローマ人の物語」終わりの始まり 中、下
 
皇帝コモドゥス(在位180~192)は、五賢帝最後の皇帝であるマルクス・アウレリウスの息子です。
実の姉のルチッラに暗殺されかかり、それを機に皇帝コモドゥスは猜疑心の塊となってしまいます。自分を暗殺しようとしているとの噂を耳にすると、直ちにその相手を殺害してしまいます。
そして最後は側近に殺されてしまいます。

帝政ローマにおいて、皇帝は死ぬまで皇帝でい続けます。皇帝が暴君だったりした場合、その皇帝を取り除くには暗殺しかありません。
暗殺のあと、内乱を起こすことなく次の皇帝が決まれば、良かった良かったということになります。

コモドゥスを殺害した側近3人は、直ちに近衛軍団の長官エミリウス・レトーを呼び、レトーは直ちに元老院有力議員とはかって後継皇帝を決めてしまいます。

ジェノヴァで解放奴隷の子として生まれたペルティナクスは、自らの才覚でローマ市民権を得、さらに軍隊に入って頭角を現し、シリア属州総督まで務め、コモドゥス殺害当時は66歳でローマ首都長官を務めていました。レトーがこのペルティナクスを説得し、後継皇帝とします。老境のペルティナクスは、「自分は本当にふさわしい皇帝が現れるまでのワンポイントリリーフだ」とこころえ、受諾します。
ローマ帝国の各地の軍団を指揮する総督たちは、以前のペルティナクスの同僚という地位でしたが、ペルティナクスの皇帝就任に対して反旗を翻しませんでした。
ペルティナクスは、皇帝を世襲しないことを宣言し、次々と政策を実行していきます。ローマ帝国は、また五賢帝時代の安定を取り戻すかに見えました。

ペルティナクスを皇帝に推挙したレトーは、その見返りとして、エジプト長官に就任することを望んでいました。エジプト長官は蓄財のうま味があるのです。ところがペルティナクスはレトーのこの希望を叶えないまま、3ヶ月が経過します。待ちぼうけを食ったレトーが、ついに部下の近衛兵を扇動し、ペルティナクスを殺害してしまうのです。

ペルティナクスを排除したレトーが次に選んだ皇帝は、ユリアヌスでした。元老院出身で名誉あるキャリアを勤め上げ、60歳になっていました。
ところが今度は、前線の軍団を指揮する総督たちが、ユリアヌスを認めませんでした。ユーフラテス川防衛線を担当するニゲル、ブリタニアで指揮するアルビヌス、ドナウ川沿いの広大な防衛線を担当するセヴェルスの3人が、「自分こそ皇帝」と立ち上がります。
セヴェルスがいち早く軍団を率いてローマに進軍します。
勝ち目がないと悟ったローマの近衛軍団は皇帝ユリアヌスを殺害し、セヴェルスは無血でローマに入りますが寛容な政策は採りません。
セヴェルスは、同じく皇帝を宣言したニゲルを戦闘で破り、ついでアルビヌスも戦闘で破ります。戦闘とは、昨日まで友軍だったローマ軍同士が戦うわけです。

五賢帝時代に、広大なローマ帝国版図が安全と繁栄を謳歌したのが嘘のような内戦時代への突入です。
内戦はセヴェルスの勝利で終わりますが、そこには、軍事を優先する新しいローマ帝国時代が始まっていました。


塩野七生著「ローマ人の物語」文庫版は、今回の「終わりの始まり」上中下が29~31巻です。これまで淡々と読んできましたが、この巻で始めて、「何で歴史は非情なんだ」との感情が湧き上がりました。

たまたま、五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝に男の子がおり、そのコモドゥスが凡帝であったがために、ローマ帝国は衰退への道をたどり始めました。しかしうまい具合にコモドゥスが暗殺され、老境のベルティナクスが帝位につき、帝国の軍団もベルティナクスの治世を承認します。このままうまくいけば、五賢帝時代のように、ローマには平和と繁栄の時代が戻ったかもしれません。
ところがそのベルティナクスが、欲に目がくらんだ近衛長官レトーによって排除されてから、帝国は坂道を転がり落ちるように、内戦の時代に入り、同胞が相戦って血を流し、軍国主義的なローマ帝国へと変貌していくのです。

昭和初期の日本が、坂道を転げ落ちるように悪い方向へ向かった姿と重なるものがあります。
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ローマ皇帝マルクス・アウレリウス

2007-10-18 17:55:01 | 歴史・社会
ローマ帝国に「五賢帝時代」というのがあります。
ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人が順次皇帝をつとめた時代です。このブログでも、塩野七生氏の「ローマ人の物語」(文庫本)に従って、トライアヌスハドリアヌスについて書いてきました。
トライアヌス帝「初の属州出身皇帝となったトライアヌスは、防衛線の再編、社会基盤の整備、福祉の拡充等、次々と大事業を成し遂げ、さらにはアラビアとダキアを併合。治世中に帝国の版図は最大となる。」

ハドリアヌス帝は、在任期間(後117~138)の半分以上を旅に充てます。少数の実務家を引き連れ、主に軍団基地を中心に、僻地に至るまでの全域を網羅します。各地において実情視察とともに現地の実務家の意見を聞き、帝国の安全保障体制を万全のものにするための必要な措置を講じていきます。
こうしてハドリアヌス帝によって万全の安全保障体制が構築され、ローマ帝国は自身が「黄金の時代」と称する時代を迎えるのです。

塩野七生氏の「ローマ人の物語」文庫本シリーズは、つい最近、「終わりの始まり」上、中、下が刊行されました。
ローマ人の物語 29 (29) (新潮文庫 し 12-79)
塩野 七生
新潮社

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ハドリアヌス帝が死去する前、まだ少年だった後のマルクス・アウレリウスを、後継の皇帝として考えます。そして中継ぎに、アントニヌスを指名します。ハドリアヌス帝はアントニヌスを養子とし、条件として、マルクス・アウレリウスを養子にすることを望みます。アントニヌスはこの条件を呑み、ハドリアヌス帝に次ぐローマ皇帝(在位138~161)となります。

ハドリアヌス帝が僻地の防衛体制を整えた結果として、アントニヌス・ピウスの時代には防衛上の問題がまったく起こりません。そのため、アントニヌスはイタリア半島から出ることがありませんでした。さらに、後継と目されたマルクス青年の勤務地についても、イタリア半島の外に出しませんでした。経験を積ませるのであれば、ライン防衛戦の百人隊長、大隊長、軍団長、属州総督などを歴任させることも可能だったのですが。

アントニヌス・ピウスの時代は、「秩序の支配する平穏」と呼ばれました。しかしマルクス・アウレリウスの時代(在位161~180)になると突然、東方のパルティアや、ゲルマニア人が蛮族として支配する辺境が騒がしくなりました。軍隊を指揮した経験のないマルクスは、それでも懸命に努力して帝国の領土を守ります。

マルクスは「自省録」と呼ばれる書物を残し、哲人皇帝と呼ばれています。
しかしどうも、人間に対する考察が甘かったようです。

パルティア戦役のあと、エジプトで暴動が発生します。この暴動鎮圧のため、有能な軍人であったカシアスを司令官として向かわせ、カシアスはあっというまにその任務を完了します。このとき、カシアスにはローマ帝国No.2に匹敵する役職を与えるのですが、暴動鎮圧後も、その役職を解かないままでした。
あるとき、カシアスのもとに「マルクス・アウレリウス死す」という情報が届きます。結局は誤報だったのですが、カシアスはこの情報に基づき、「次の皇帝は自分だ」と宣言して立ってしまうのです。
この内乱は鎮圧されますが、ローマ帝国内に傷跡を残しました。

マルクス・アウレリウスは、男の子一人と何人かの女の子を残しました。
長女のルチッラは、マルクスの共同皇帝となったルキウス・ヴェルスの妻となり、そのときにアウグスタ(皇后)の称号を得ます。ルキウスはほどなくして死んでしまうのですが、ルチッラのアウグスタ称号はそのままでした。
マルクス・アウレリウスが死ぬと、ただ一人の息子が、次の皇帝コモドゥスとなるのですが、何と姉のルチッラがコモドゥス殺害を企てるのです。コモドゥスに子供が生まれると、自分のアウグスタ称号が消滅することを嫌ったからでした。この事件の後、単なる凡帝であったコモドゥスは、暴帝に変貌します。

こうしてみると、カシアスの「帝国No.2」の称号をそのままにしたために内乱を誘発し、ルチッラのアウグスタ称号をそのままにしたために皇帝暗殺未遂事件(弟殺害未遂事件)を誘発してしまいました。いずれも、マルクス・アウレリウスの人を見る目のなさ、といえると思います。

こうしてローマ帝国は、輝かしい「五賢帝時代」の終焉を迎えるのでした。
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未成年による凶悪事件は増えているか

2007-10-16 16:20:49 | 歴史・社会
今年初め、未成年者が殺人を犯す痛ましい事件が相次ぎ、「最近の子ども達は異常な方向にぶれているのではないか」という論調がマスコミを賑わしました。そのたびに、「本当に未成年者による殺人は増えているのだろうか。それは統計を見ないとわからないのではないか。」と疑問に思っていました。
他殺で死亡する人は、年間で600人に及びます。このうち、マスコミで大々的に取り上げられるのはせいぜい10人というところでしょうか。600人の全体を見ずに、10人の事件だけを取り上げるのでは、まさに「木を見て森を見ず」です。

そう思っていたところに、日経ビジネスオンラインのライフ分野で、日本大学文理学部 広田照幸教授が、「凶悪犯罪は低年齢化」していない~子どもに対してせっかちな大人たち」という記事を書かれました。
この記事、日経オンラインにユーザー登録していなくても閲覧できるでしょうか。ちょっと心配ですがリンクしました。

記事の中で、3つの図面が提示されています。

図1:年齢層別窃盗検挙者数の推移
図2:年齢別層殺人(未遂含む)検挙者数の推移(人口10万人当たり)
図3:14歳~20代の年齢層別殺人検挙者数の推移(人口10万人当たり)

広田教授
「図1は窃盗検挙者数の推移を年齢別に見たものです。子どもの場合は万引きと自転車泥棒が多いのですが、この図を作ってみて私が驚いたのは、10代の発生率と20代以降が対応していないということです。
 ご覧のように、10代の窃盗検挙者数は、1960年代半ばや70年代末~80年代初頭のところに山ができています。しかし、もし規範を身につけないまま大人になっているんだとしたら、窃盗少年たちがずるずると犯行を繰り返し、この数年後に20代の山ができるはずです。ところがそうなっていないんですよ。万引き少年がたくさんいた世代が、大人になって、大量に事務所荒らしになっていく、といったことにはなっていない。

 『では、凶悪犯罪はどうなのか?』という疑問が出ますよね。図2は戦後の殺人(未遂含む)検挙者数の推移を年齢層別の人口比で表したものです。
 これを見ると明らかなように、10代では1960年代から70年代にかけてぐっと下がって、現在まで非常に低いところで横ばいで推移しています。20代でも大体同じですね。

 さらに10~20代の殺人検挙者数を細かく区分してみた図3を見てください。低い年齢層の殺人率が高まっているのではなく、この年代の中の比較的高い年齢層――10代後半~20代前半の層――の検挙者数が大幅に減少しているのだということが分かります。

 メディアでは『凶悪事件の低年齢化』が騒がれていますが、実際はそうではなくて、比較的高い年齢層の少年や若年成人が、殺人事件を起こさなくなっているんですね。で、相対的には10代半ばまでの低年齢層の比率は高くなっていることが分かります。

 だから事実は、『凶悪事件の低年齢化』ではなくて、10代後半~20代の凶悪事件が沈静化した結果、10代半ばまでの低年齢層の子どもの起こす凶悪事件が、数は少ないにもかかわらず目立つようになっている、ということなのです。しかも、豊かな社会の中での犯罪は、かつてより動機が不透明のように見えるため、『子どもがおかしくなった』と騒がれやすい。」

広田教授は、図1~3を用いて上記のように説明されています。


ただし、図2、3を良く眺めると、10代の殺人比率が、2000年前後を境にして若干増加傾向にあることは認められます。

「1960年から2000年までを追っていくと、各年代とも、殺人件数は継続して下がり続けてきた。20代、30代は今でも減少傾向が続いているが、なぜか10代のみは上昇に転じているかも知れない。」といえる可能性があります。
上昇に転じているといっても、1960~75年、つまり我々が10代だった頃に比較するとまだ低いですが。


それとは別に、20代が殺人を犯さなくなった、という傾向はすごいことです。
この点については、以前も話題にしたことがあります
「人が殺人を犯す比率は、年齢・性別の影響を強く受ける。世界中どの国でも、文化・宗教によらず共通している。二十台前半の男性が殺人を犯す比率が圧倒的に多い。ところが唯一の例外があり、現代の日本では二十代男性の殺人比率が劇的に下がっている。」という事実があります。


もうひとつ、年間の他殺による死亡数が600人である点について、統計グラフを見つけました。こちらです。本川先生の社会実情データ図録を初めて見ましたが、役に立ちそうです。
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事務所補助員問題と面接ガイドライン

2007-10-14 11:35:06 | 弁理士
特許事務所補助員の問題については、1年前の産業構造審議会知的財産政策部会で取り上げられ、昨年10月20日に開かれた第5回弁理士制度小委員会の配付資料では、
「弁理士は、特許庁と出願人との間に立って、権利取得手続等を迅速・円滑に行う役割を担うものであるが、弁理士が補助員に独占業務を実質的に行わせることについては、迅速な審査・事務処理の妨げとなることがあり、実際に審査の現場ではそのような実態が散見されることが指摘されている。また、特許事務所の弁理士1人あたりの特許出願件数(別紙1参照)をみても、最も多い事務所では、弁理士1人あたり453件という実態があり、また1人あたり200件以上という事務所も14事務所あり、これらの事務所においては補正書、意見書などの中間手続も考えると、実質的に補助員に代理業務を行わせていると考えざるを得ない状況にある。」
と論じられました。詳しくはこちら

弁理士制度小委員会の報告書では、補助員問題については、
(1) 特許庁審査官・審判官からの内容についての連絡応対は、弁理士のみができる。
(2) 面接において弁理士事務所の補助員は説明することができない。
(3) 弁理士法においても名義貸しの禁止規定を設ける。
とまとめられました。詳しくらこちら

以上のとおりですから、特許庁における面接で特許事務所の補助員が説明できなくなることは時間の問題でした。


今般、特許庁から面接ガイドライン【特許審査編】の改訂版が発表になりました。
この中で、
「代理人が代理している場合は、代理人と面接を行います。弁理士事務所員は同席できますが、審査官と直接的に意思疎通を図ることはできません。」
とされています。


弁理士試験の合格者数が、特に最近7年間ほど、非常に多い人数です。詳しくはこちら。この合格者たち(特に実務未経験者)が、特許事務所にスムーズに就職できないとして問題になっているようです。
私は問題にしていません。
特許事務所に最初に就職するときは、だれでも実務未経験者です。昔からそうです。昔は「実務未経験・無資格者」であったものが、「実務未経験・有資格者」に変わっただけです。資格の有無にかかわらず、従来通りに就職/採用すればいいだけだと思っています。
ただし、就職しようとする実務未経験弁理士は、有資格であることで有利になろうとしてはいけないでしょう。あくまで実務未経験であることを肝に銘じる必要があります。

ところで、特許事務所は、同じように実務未経験、同じように技術知識を有する求職者が現れたとき、無資格者と有資格者のいずれを採用するでしょうか。
単純に考えると、有資格者は法律知識を持っているわけですから、就職に有利であるように思います。一方、有資格者は、事務所が一所懸命教育して一人前に育て上げた後、独立してしまう可能性があります。それがために、かえって無資格者の方が就職に有利、ということもあるかもしれません。

そこで今回の面接ガイドラインです。
「補助員が面接で説明できない」というガイドラインは、「特許事務所での実質的実務は弁理士が行うべきである」という行政の意思表示です。私も、「明細書の執筆は当然に弁理士の仕事である」という方向に実務が進んでいくべきと思っています。
このように流れが変わった結果として、特許事務所も、無資格者よりも有資格者を優先して採用する傾向が生まれるのではないか、とひそかに期待しています。
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ピアノがやってきた

2007-10-12 23:00:13 | 趣味・読書
わが家に電子ピアノがやってきました。
ヤマハ電子ピアノで、DGP-5といいます。特徴としては、鍵盤のメカニズムとしてグランドピアノと同じメカニズムを採用し、グランドピアノのキータッチを忠実に再現したというものです。音源はグランドピアノから採音したものを用いています。ヘッドホンを用いて弾く限りは、周りに全く迷惑をかけません。

DGP-5は、下の写真にあるようにコンパクトです。ヤマハ電子ピアノでは唯一、蓋がないタイプです。デザイン指向から蓋を止めたようです。わが家では蓋があった方が良かったのですが・・・。
ヤマハ電子ピアノには、他にアップライト仕様のものもあります。鍵盤メカニズムにアップライトピアノタイプを用いているので、見た目も通常のアップライトピアノと変わらず、DGP-5ほどコンパクトではありません。また、グランドピアノ仕様の更に高級タイプでは、本物のグランドピアノの鍵盤メカニズムをそのまま採用し、ピアノの奥行きがわが家のものより大きいです。
ヤマハにはほかにもクラビノーバシリーズがあり、またヤマハ以外ではローランドも出していますが、「ピアノと同じキータッチが実現できている」という観点でDGP-5を選択しました。


私は、小学校時代にちょっと習っていた程度で、バイエル(子供のバイエル)が終わらないうちに脱落してしまいました。それ以来ピアノは弾いていません。しかし今回、わが家に電子ピアノが来たこともあり、練習を再開することにしました。

昔にならってバイエルを購入すると同時に、独習に際して必要な情報(手の形だとか姿勢だとか)を得るために「おとなのためのピアノ教本(1)」も購入しました。アマゾンです。
しかし購入した「教本」には、「指を45°の角度とする」ことが記載されているのみで、それ以外の私が知りたかった情報は掲載されていませんでした。このような本はやはり書店で手にとって選ばなければだめです。

現在、1日30分の練習を日課としています。教本はバイエルです。
ヘッドホンを使って練習していると、本人は普通にピアノを弾くのと全く変わらない気持ちで練習することができます。一方、本人以外にはピアノの音が聞こえませんから、リビングで他の家族がテレビを観ているところで、自由にピアノ練習をすることができます。

普段パソコンのキーボードをタッチタイプで打っているから、ピアノについても簡単であろうと想像していました。しかし、ピアノの方がキーが重く、パソコンキーボードとは様子が違います。特に利き手でない方の小指、薬指を動かす筋肉がすぐにだるくなります。
しかし、タッチタイプをやっていない人に比較すれば、上達は速いかもしれません。

現在、家に帰ってからの日課は、ピアノ30分と、足こぎ自転車30分の二つです。
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