弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

サッカー解説

2008-05-29 19:25:49 | サッカー
「Q.つまりそれは、前半と後半とで日本はまったく違うチームになったということか?

A. そうだ。私の印象としては、前半と後半とではまったく違う2つのチームのように思えた。それが、こちらのプレーの影響によるものかどうかは分からない。もしかしたら、日本が自滅というか、自分自身でレベルを下げてしまったのではないかという印象さえ受けている。いずれにしても前半の日本は、非常にスピード感あふれていて、プレーも正確だった。攻撃時にいい動きができていたと思う。」

これ、キリンカップ2008 日本対パラグアイ戦のあとの、試合後 パラグアイ代表マルティノ監督会見でのひとこまです。

会見で記者が上記Qの質問を発し、それに対しパラグアイ監督はAのように回答しました。

パラグアイ監督の目には、前半の日本はすばらしいチームと映り、後半の日本は「自滅じゃないか」というぐらいレベルの低いチームと映ったということです。


私はテレビ番組ですらその試合を見ていないので、大きなことは言えませんが・・・
わが家は朝日と日経を取っています。それら新聞で、この試合はどのように報じられているのでしょうか。

日経新聞(阿刀田寛記者)は、「前半は遠藤、山瀬功、巻とジョイントしたが、パスは回れど攻めが停滞した感じ。松井、高原、大久保へと仲間が順々に入れ替わった後半も芳しいものでもなく」と報じ、「前半は良かったけど後半は悪い」というスタンスではありません。
パラグアイ監督の上記発言をわずかに引用していますが、「前半は良かった」という部分はなぜか引用していません。
岡田監督のコメントが、前半と後半の対比をしていないので、記者の観察もそれに引きずられた可能性があります。

朝日新聞(中川文如記者)も、「前半の日本は良かった」とは書いていません。パラグアイ監督コメントとして「前半25分までは手も足も出なかったが」とは引用しているものの、「そのときの日本は良かった」との発言は引用していません。


一方、俊輔のコメント「後半は個人個人が前に行こうとした。サイドチェンジできるところでドリブルで突っかかる。ハーフラインでトップスピードで行く必要はない。彼らの良さだけど、敵陣の最後の3分の1のエリアで個人能力を生かさないと…」は、後半に交代で入った選手たち(松井、大久保を含む)に対する苦言です。


次に湯浅健二氏のコメントを紐解きます
湯浅氏のコメントから、上記パラグアイ監督との会見で質問Qを発したのが、湯浅氏その人であったことが判明します。
パラグアイ監督と同じ印象を持っていた湯浅氏が、パラグアイ監督からまさに思うとおりの発言を引き出した、というところでしょうか。

岡田監督の「前半のポゼッションは良かった・・ただウラスペースを突いていくという視点では十分ではなかった・・それに対して、松井が入った後半は、より良い展開になったと思う」との発言に湯浅氏は納得いかなかったとしています。大新聞の記者は納得してしまったようです。

湯浅氏は、前半の日本の戦いを手放しで賞賛しています。
一方後半については
「要は、松井大輔と大久保嘉人に代表される「諸刃の剣プレイヤー」のことです。前回のコラムでもちょっと触れたけれど、彼らのプレーは、攻守の目的を達成するための「実効」という視点で、決して役に立っていたわけじゃないと思うのですよ。彼らの才能には疑う余地はありません。だからこそ残念なのです。
 二人とも「待ちの姿勢」が強すぎるのです。もっとボールがないところで「組織的なプロセス」にも絡んでいかなければいけません・・そして、もっとシンプルにプレーし、爆発的なパス&ムーブも繰り返さなければいけない・・それがあってはじめて「良いカタチ」で個人勝負を仕掛けられるようなシーンを演出できる・・動かないで足許パスをもらったって、相手に取り囲まれてしまうだけ・・そして「逃げパス」を出すだけといった体たらくになってしまう・・ 」
との評価です。
この評価、松井や大久保に対して湯浅氏が常々語っているところではありますが。


さてここで私がこの話題を取り上げた趣旨ですが

大手新聞やテレビ報道と、パラグアイ監督や湯浅氏の評価とが、このように相違している、ということに対してです。
大手マスコミは、岡田監督に媚びているのでしょうか。相手チーム監督や、私が信頼する湯浅氏の評価と違いすぎます。
われわれシロウトは、テレビで観戦しても試合の評価をする目を持っていないわけです。評論家の評論に頼るしかありません。少なくとも大手新聞の担当記者には、試合を評価する目を持ってもらいたいものです。
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東京大学総合研究博物館小石川分館

2008-05-27 21:41:24 | サイエンス・パソコン
去る日曜日、東京大学総合研究博物館小石川分館を訪問しました。
以前、文京区の小石川植物園を散策した際、入場門と反対側の端(北西端)の境界の向こうに、趣のある古い建物が建っているのが見え、興味を抱いたことがあります。その建物が件の小石川分館で、現在は一般に公開されているのです。今回は娘にお供しました。

地下鉄丸ノ内線を茗荷谷駅で降り、北東方向に歩きます。茗荷谷の交差点北側には、昔は古いビルが建っていました。同潤会大塚女子アパートといいました(たとえばこちらこちら)。そのビルが今はなく、ぽっかりと穴が空いたようです。さらに教育の森や筑波大学教育学部を左に見ながら進むと、下り坂です。案内によると湯立坂ですね。写真を撮りましたが坂を坂らしく撮るのが難しいので、案内板を並べておきます。
  
       湯立坂
坂を下りきった谷筋に出ます。大塚駅から後楽園へ続く谷筋ですが、何という名でしょうか。バス停の名前は湯立坂下ですね。この界隈、製本屋が多く、裏通りをフォークリフトが我が物顔に走り回っているので有名です。

交差点のところに、ソーニヤというピロシキとボルシチのお店があります。左下の写真のお店です。まずはそこで腹ごしらえです。
  
ソーニヤ                    博物館小石川分館入り口
交差点を渡ってすぐ、左に簸川神社、右に東京大学総合研究博物館小石川分館入り口(右上写真)が見えます。

入り口から中へ入ると、がっかりすることに遭遇しました。小石川分館の建物全体が、工事用のシートですっぽりと覆われているのです。今回は建物の写真を撮ることが目的の半分でしたから、とても残念です。聞くと、あと半年は工事の予定だそうです。こちらの写真で我慢しましょう。

この建物、東大医学部の前身である東京医学校の本館として、明治9年頃に建てられた建物のようです。旧東京医学校本館に紹介されています。

建物の内部は2階建てで、さまざまな展示物が展示されています。

1階の隅の方に、しゃれこうべを持った老先生の銅像が置いてあります。どなたであるかメモしてくるのを忘れました。
人体解剖模型が4体、その両側に人間の骨格が置かれています。
右から2番目の解剖模型、腹部の内側筋である大腰筋が見えています。最近筋トレを始めていまして、大腰筋を鍛えることが重要だと言われているのですが、その大腰筋を比較的リアルに確認できました。

別の部屋には、棚の中に動物の骨と思われる標本が無造作にぶち込まれています。何の説明もありません。

古い製図用の器具が陳列してあります。白い樹脂製らしき定規と真鍮製の製図器具です。白い定規は何でできているのでしょうか。「工部大学校製」とあります。東大工学部の前身ですね。真鍮製の道具に書かれた文字は「明治九年二月 大日本工部省工学寮工作所製」でしょうか。

ある部屋には、東大の初期の建物の1/100程度の木製模型がいくつも置いてあります。建築の学生が実習で作ったのかな、と話していたのですが、よく見ると銘板に"Miramo"と書かれています。あとからウェブページの「主要展示品」で調べたら、「東大建築の模型…レオナルド・ダ・ヴィンチの機械デザインの復元模型の製作でも知られるイタリア人木工職人ジョヴァンニ・サッキ氏が本部施設部図面をもとに製作を手がけた東大逸失建築の復元木工模型。」と紹介されているではありませんか。さすが東大、復元模型にしてもすごいことをやりますね。

古い古い顕微鏡が何台も置いてあったり、古いガラスケースの中に入った古い天秤ばかり(下皿)も展示してあります。どの展示についても、説明が一切ありません。あたかも、「学校の理科準備室の棚の中から、使われなくなって久しい物品(ガラクタ類)を引っ張りだして並べた」かのようです。不思議な博物館です。
そしてこれは、この展示のポリシーに基づくのでした。
説明書には以下のように書かれています。


「東京大学の学術標本や廃棄物を現代アートの文脈から再構成しようとしたもので、学術的な説明をあえて排除し、全体として目で見ることの知的な喜びに訴えかける一つのアート作品たることを目指した。」


一つの棚の中には、機構学の講義で実演に使ったのであろう、さまざまなリンク機構の真鍮製精巧模型が置いてあります。
複雑な形の回転リンク、えっ、これで本当にスムーズに動くのだろうか、と考え込んでしまいました。その後、この機構がどのように動くのか解明したのですが、その点はまた別の機会に。
別のカム機械、大昔の機械工学便覧を引っ張りだしたら「ヨークカム」と説明されていました。

p.s.博物館に「撮影した写真をブログで公開したがよろしいか」と質問のメールを出したところ、「写真撮影は許可しているがブログ掲載は許可していない」との回答を得ました。そこで、一度掲載した写真ですが、削除しました。
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法科大学院の今後

2008-05-25 15:56:08 | 歴史・社会
5月20日の日経新聞に法科大学院の話題が報道されています。
「法科大学院 社会人入学者 3割切る」
「文部科学省は19日、2008年度の法科大学院(国公立計74校)の入試実施状況をまとめた。入学者総数は5397人で、前年度に比べ5.5%の減少となった。このうち社会人入学者は12.3%減と二ケタのマイナスで、入学者全体に占める割合は29.8%と初めて3割を切った。」
「文科省大学院室は『これまでの不合格者がたまってきており、社会人は競争倍率が厳しくなると判断しているのではないか。学費も安くなく、仕事を辞めてまで挑戦することに二の足を踏んでいる可能性がある』とみている。」
「当初7-8割と見込まれていた新司法試験の合格率が4割程度にとどまり、合格が難しくなっていることが不人気の理由だ。」
「文科省は・・・、法科大学院新設を多数認可した同省が、結果的に合格率の低下を招いたとの声も根強い。」

「声も根強い」じゃないでしょう。明白な事実です。


新司法試験の合格者数は、平成22年度には3000人まで増やす計画です(法務省のサイト)。昨年度(19年度)は1851人が合格しました。このブログでも話題にしています
一方、法科大学院は文科省が設置認可し、平成19年度現在、全国で74校(国立23校、公立2校、私立49校、総定員5,825人)が認可されています(文科省のサイト)。

総定員5825人が全員司法試験を受験し、3000人が合格するとしたら、合格率は52%となります。単純な話です。分母を本年度入学者数5397人としても、合格率は56%です。当初計画では合格率7-8割だったはずです。
(なお、法科大学院卒業生は新司法試験を3回まで受けることができます。上記の合格率は、ある卒業年次の卒業生が3回の受験をし終わったときの累計合格率を意味します。従って、未修者1回目、既修者2回目である昨年度の合格率が4割台であってもおかしくありません。また司法試験は複数卒業年次の卒業生が受験しますから、分母が多くなり、司法試験合格率は、特定の卒業年次の卒業生に的を絞った累計合格率よりは低い数値となります。)


要するに、法務省は司法試験合格者を3000人と決めているのに、文科省が法科大学院の入学人数を多く認可しすぎたのです。

私は、法科大学院卒業を前提とする新司法試験は、合格率7割以上8割程度を確保すべきと思います。勉強の実を上げるのは大学院教育に期待し、司法試験は知識の最低レベルを担保する目的に特化すべきです。今の大学医学部と医師国家試験の関係と同じです。
日本が制度を真似たアメリカのロースクールもそうです。このブログで紹介した弁理士の日野真美さんの体験記から明らかです。私がした推定で、アメリカの司法試験合格率は84%にのぼります。


新司法試験の合格者数の計画(法務省)と、法科大学院の入学定員の計画(文科省)とは、いったいどのような調整を行ったのでしょうか。まさか全く調整せずに縦割り行政で決めたのではないでしょうね。

調べてみると、法科大学院の教育と司法試験等との連携等に関する法律(平成14年法律第139号)という法律があるようです。
「第六条 法務大臣及び文部科学大臣は、法科大学院における教育の充実及び法科大学院における教育と司法試験との有機的連携の確保を図るため、相互に協力しなければならない。
2 文部科学大臣は、次に掲げる場合には、あらかじめ、その旨を法務大臣に通知するものとする。この場合において、法務大臣は、文部科学大臣に対し、必要な意見を述べることができる。
 一 法科大学院に係る学校教育法第三条に規定する設置基準を定め、又はこれを改廃しようとするとき。
 二 法科大学院の教育研究活動の状況についての評価を行う者の認証の基準に係る学校教育法第六十九条の四第三項に規定する細目を定め、又はこれを改廃しようとするとき。
 三 学校教育法第六十九条の三第二項の規定により法科大学院の教育研究活動の状況についての評価を行う者を認証し、又は同法第六十九条の五第二項の規定によりその認証を取り消そうとするとき。
3 法務大臣は、特に必要があると認めるときは、文部科学大臣に対し、法科大学院について、学校教育法第十五条第四項の規定による報告又は資料の提出の要求、同条第一項の規定による勧告、同条第二項の規定による命令その他の必要な措置を講ずることを求めることができる。
4 文部科学大臣は、法科大学院における教育と司法試験との有機的連携を確保するため、必要があると認めるときは、法務大臣に対し、協議を求めることができる。」

文部科学大臣さんと法務大臣さん、どうかお願いしますよ。
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四川大地震での日本の医療支援(2)

2008-05-22 20:55:45 | 歴史・社会
昨日に続いて、四川大地震での日本の医療支援についてです。

JICA国際緊急援助についてのページ派遣事例で、2006年インドネシアジャワ島中部地震での緊急援助実績を確認しました。
「2006年5月27日、インドネシアの古都・ジョグジャカルタでマグニチュード6.3の大地震が発生。これによる死者は約5,800名、負傷者は約138,000名にのぼり、その惨状は世界に伝えられました。日本はインドネシア政府の要請を受け、いち早くJDR医療チームを派遣。10日間にわたり、献身的な活動を行いました。

日本の対応:
 医療チーム:26名(先遣隊7名含む)
  先遣隊:5月28日~6月10日
  本隊:5月29日~6月10日

 自衛隊部隊:264名
  2006年5月30日~6月21日」

上記ジャワ島中部地震での援助実績と、今回の四川大地震援助実績を比較すると、その違いが明確になります。

日本の緊急医療援助体制は、どちらも全く同じ体制のようです。
屋外テント、簡易レントゲンや透析の機器、簡単な外科手術設備を持ち込んで、地元の病院が復旧するまでの期間、被災者の応急手当を行おうという体制です。人員は、団長、副団長に加え、医師3名、看護師7名、薬剤師1名、医療調整員5名、業務調整員4名より構成される総勢23名(今回)です。

ジャワ島中部地震では、地震発生の翌日に先遣隊が出発、本隊も翌々日に出発しています。インドネシア政府からの要請が迅速であったことがうかがわれます。
そして本隊は2週間の活動後、二次隊の派遣はしていません。現地の医療体制が急速に復旧し、簡易テントでの応急手当の必要性が薄くなっていたからです。
逆にいうと、ジャワにしろ四川にしろ、日本が準備した緊急医療援助は、地元の病院が機能を回復したら必要がなくなるということです。


そして今回の中国では、5月12日に地震が発生しているのに、緊急医療援助隊が出発したのが20日です。地震発生後8日目です。先遣隊も送っていない雰囲気です。地震発生の翌々日に本隊が出発したジャワとは、全くもって迅速性に差があります。
これでは、今回の日本の緊急援助体制が役に立たないだろうことは、ジャワの実績からもうかがえるところです。


中国がジャワと同じ緊急医療援助隊を受け入れるなら、地震発生直後であるべきでした。そして地震発生から10日が経過した現在であれば、もし医療支援を受けるのであれば、「医師の数が足りない、医薬品が足りない」ということに対する応援でしょう。
その辺の調整がなされないまま、中国は被災後8日後にやっと支援要請を行い、日本は中国でのニーズがわからないまま、被災直後にしか威力を発揮しないパッケージを送り出したということになります。


そもそも中国は日本と肩を並べる(あるいはそれを超える)大国なのですから、現時点で現地の医師の数や医療品が不足しているのなら、自国の他の地域からかき集めることで十分に対応できるはずです。日本から大騒ぎして3名の医師を派遣してどうにかなるものではないでしょう。
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四川大地震での日本の医療支援

2008-05-21 20:39:26 | 歴史・社会
医療チームが成都の病院を視察 四川大地震
5月21日13時21分配信 産経新聞
「中国・四川大地震の被災者に対する医療活動を行うため、成都入りしていた日本の国際緊急援助隊医療チーム(23人)は21日午前、中国側が活動場所として指定した同市内の第一人民病院を視察した。ただ、大都市の総合病院では日本隊が持つ緊急治療のノウハウをいかせないため、日本側は中国側に「被災地に近い現場に入りたい」との強い希望を伝えている。
 田尻昭宏団長(外務省アジア大洋州局中国課地域調整官)によると、中国側は困難な手術を必用とする重傷患者が運び込まれている同病院で、外科手術を行うよう要請しているという。
 一方、「野戦病院」式の治療を想定し、被災地により近い屋外にテントを張って、被災者を診察できるよう、簡易レントゲンや透析の機器、簡単な外科手術設備を持ち込んでいた。
 中国側は、被災地では感染症などの問題も出始めているため、外国の医療チームの安全が確保できないと主張しており、両者の希望が食い違っている形となった。田尻団長は具体的な活動場所について、なおも中国側と調整中としている。
 援助は受け入れ側との綿密な事前調整が必用だが、田尻団長によれば、事前に現地の要求を把握するためのコーディネーター派遣などはしなかったという。
 一方、岡山県を本部とする民間の国際医療ボランティア組織「AMDA」がいち早くコーディネーターを現地に派遣し、地元病院との協力のもと、すでに17日から綿陽市安県などで医療活動を展開しており、民間NGOとのフットワークの差が出た格好だ。」

これはまた解せない報道です。

日本の緊急援助隊は、独立行政法人 国際協力機構(JICA)による派遣チームの筈です。JICAでは以下のように報じています。
中国西部大地震被害に対する国際緊急援助隊・医療チームの派遣-23名が20日(火)夕方成田発-
「JICAは、日本政府の決定を受け、中国西部で発生した甚大な地震災害に対し、国際緊急援助隊・救助チームに引き続き医療チームを派遣する。
医療チームは、田尻和宏(たじりかずひろ)外務省アジア大洋州局中国課地域調整官を団長、加藤俊伸(かとうとしのぶ)JICA東・中央アジア部東アジア課長と医師を副団長に、その他医師3名、看護師7名、薬剤師1名、医療調整員5名、業務調整員4名より構成される総勢23名。
5月20日(火)18時25分成田発チャーター機(JL8879)、22時50分(現地時間)成都着の予定。約2週間の活動を予定している。」


産経新聞の報道では、日本の緊急援助隊は事前にコーディネーターを派遣しなかったことをフットワークが悪いように記載しています。
JICAによる医療チーム派遣は今回に始まったことではありません。自然災害時の緊急派遣を中心に、すでに40回を超える実績を持っています。そして派遣に際しては、先遣隊を送り出して本隊の活動をスムースにする事例が前例としてあるのです。

国際協力機構(JICA)の国際緊急援助隊事務局に勤務していた野村留美子さん(現在はアフガニスタンに赴任中)によるレポート「インドネシアジャワ島中部地震 国際緊急援助隊医療チームに参加して」を読めばよくわかります。

JICAによる医療チーム派遣はすでにパッケージ化しており、インドネシア派遣と今回の中国派遣はほとんど同じスタイルです。派遣チームの携行機材は、今回同様、応急処置対応が主となります。
そしてインドネシア派遣に際し、先遣隊がまず派遣され、地元との調整及び設営場所の選定を事前に行っているのです。

今回、インドネシア大地震のときと相違し、なぜ先遣隊が派遣されなかったのか、なぜ中国は緊急医療チームの携行機材からくる特質を理解しようとしないのか、そこのところは実に不明確です。


以下に、野村さんのレポートから今回の事例と関連する部分を抜粋します。
----抜粋開始-----
翌朝、私は成田空港にいた。
朝9時半、空港内の特別室にて結団式が始まる。
「昨日7名の調査チーム(先遣隊)が出発し、無事現地についたようです。」

JDR医療チーム
今回派遣されたJDR医療チームは、4つある国際緊急援助隊のチームの一つである。他には救助(レスキュー)、専門家、自衛隊チームがあるが、医療チームの歴史が一番長く、派遣実績も44回(今回の派遣を含む)と最も多い。

医療チームは、通常21名から構成され(今回は最終的に25名)、団長を筆頭に副団長、医師、薬剤師、看護師、医療調整員、そして業務調整員から成る。活動期間は2週間だ。

一団を乗せた飛行機は一路ジャカルタへ。そこからすぐに、最大の被災地であり先遣隊が診療サイトを確保したバントゥール市にバスで向かう。
1時間ほどしてバントゥール市内の目抜き通りに到着。そこには1日早く着いた先遣隊が立てた簡易テントが数戸立ち上がっており、既に診療を開始していた。テントの前には既に診療を待つ患者の列が出来ていた。

到着後すぐに、診療サイトのすぐ側にあるムハマディア病院を見学しに行った。
診療サイトを選定する際、州政府からこの病院の近くで活動してほしいという要望があったのだが、この病院とはその後2週間にわたって協力関係を保ち続けた。たとえば、私たちJDR医療チームは携行機材が限られており、応急処置が主となるため、手術を必要とするような重度の患者には対応することができない。そのような患者が診療サイトに来たときは、ムハマディア病院は後方支援病院として機能し、患者を受け入れてくれた。

先遣隊は、「最初3日間の合計睡眠時間が8時間で、死ぬかと思った」というくらいハードなスケジュールだったようだし、診療テントの中も連日32度を超え、脱水症状を起こしかけた隊員もいた。
-----抜粋終わり------


ところで、産経新聞記事にある「岡山県を本部とする民間の国際医療ボランティア組織「AMDA」」とはどのような団体でしょうか。
こちらのサイトに紹介されています。
こちらを拝見すると、1970年代の岡山大学医学部の活動が発端となり、1984年にAMDA(アジア医師連絡協議会)が設立されています。
今回の四川大地震に関しては、5月14日の「AMDA台湾支部は被災地近隣地域の医師と連絡をとり、被災地での緊急医療の提供に向け、必要物品購入などの準備を行っている。」「AMDA上海の関係者を通じ、派遣待機中の基幹病院のチームへの合流について、上海紅十字と鋭意折衝を行っている。」「日本国内の関係者を通じ、地元スタッフによる医療チームを編成し、50万円相当の医薬品を調達した。」からスタートしています。

日本のAMDA本部が主導したというよりも、AMDAで活動している中国人が主体的に動き始めたことを発端としているようです。
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サブプライム後に何が起きているのか

2008-05-20 20:49:29 | 歴史・社会
サブプライム後に何が起きているのか (宝島社新書 270) (宝島社新書 270)
春山昇華
宝島社

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同じ春山昇華氏の春山昇華氏のサブプライム問題とは何かについては、以前報告しました
「サブプライム後に何が起きているのか」はその続編です。

《第1章 窮地に陥った金融機関》では、サブプライム問題の顛末をもう一度おさらいしています。前作で分かりづらかった点を補った形です。

《第2章 突如として表舞台に登場した国富ファンド》
従来の金融危機では、危機に陥った金融機関を救済するため、他の金融機関が「奉加帳」方式で救済資金を提供してきました。しかし今回の金融危機では、すべての金融機関が危機に陥り、奉加帳が成立しません。
そこで登場したのが、アジア・中東の国富ファンドです。
資源輸出国、商品輸出国は、貿易黒字で得た外貨資金を、万が一のために、外貨準備金という形で一定量手元に残しました。その外貨が貯まったままではもったいないとのことで設立されたのが、外貨準備金を運用する国富ファンドです。
従来は、いつでも現金化できる流動性の高い資産に投資する保守的なものでしたが、最近の原油価格の高騰で外貨準備高が急増したので、外貨準備の一部を使って「長期固定させてもよいから、高いリターンを目指そう」という積極的な運用を可能にさせました。
国富ファンドは、巨大資本家ならではの特徴があり、通常の株式投資家よりも高いリスクを取り、より高いリターンを享受しようとします。ただし運用は「人知れず静かに」行います。

国富ファンドは、アジア・中東と言いますが、なぜ日本ではないのでしょうか。
そういえば、年金基金は140兆円も積み上がっています。これを基金に国富ファンドが成立するのではないか。
その点について著書では、「国富ファンドのもう一つの特徴は、通常の投資信託や年金ファンドと違い、『短期的な時価評価に一喜一憂する必要がない』という点だ。」としています。年金基金ではだめなのですね。
それにしても、日本は貿易黒字国ですから、外貨準備金を保有しているはずです。なぜ国富ファンドが生まれないのか、その点について著書は語っていません。

今回なぜ、アジア・中東の国富ファンドは欧米の金融機関への救済資金提供を決断したのでしょうか。自分たちの投資で欧米の金融機関が再生するなら、それに対するリターンが非常に魅力的だからです。

著者は「国富ファンドは盤石なのか」と問い、「なにやら中国全体に『浮ついた浮かれ・自惚れ』を感じる。中国の国富ファンドもそうした状況のまま投資が実行されているとしたら、停滞しっぺ返しを食らうのではないだろうか」と警戒しています。

《第3章 レバレッジ・バブルの「正体」》
《第4章 モノライン》
前作では、サブプライムローンが証券化されたメカニズムがよく理解できませんでした。今回の著作ではそこの部分を詳細に説明しています。本来は焦げ付きの危険性を持っているサブプライムローンが証券化され、なぜトリプルAの格付けが付いたのか、そのメカニズムがある程度理解できました。

《第5章 世界金融維新》
 ○ 長く覇権国であったアメリカは、このまま覇権を失っていくのであろうか。
 ○ 次の覇権国は中国か
 ○ 消費をしまくるアメリカ経済と製造をしまくる中国経済

《第6章 日本は昇るのか、沈むのか》
「かつて経済大国と呼ばれた日本。いまや中国に完全に追い抜かれた感が否めない。日本は果たしてこのままアジアの一小国として沈んでいくのか。それとも再び復活できるのだろうか。」
ライブドアの堀江氏と村上ファンドの村上氏が叩かれた状況を例示し、「(その事件と)同時にリスクをとって頑張ろうという風潮が後退し始めた。・・そして景気は悪化し、法人税収入は減少した。」としています。堀江氏と村上氏が正しかったとはいえないが、それにしてももっと別のお灸の据え方があったのではないか。
「多くの国民は会社家を経営して付加価値、利益を生む出すというリスク・テイク族ではなく、利益を生み出す人や会社にぶら下がっているブラサガリ族である。日本を牛耳っている役人もまた、税金のブラサガリ族である。リスク・テイク族が頑張らないと社会は前進しないし、発展もしない。」
「日本が生き延びるには、社会を引っ張るリスク・テイク族を増やさなければならない。彼らに活力を与えることが、日本に活力を与えることだ。」
「現在進行中の変化は、投資立国へと進んでいくプロセスなのである。海外の有望な投資チャンスを掴み、お金に働いてもらう時代になるのだ。」
「今後は、知恵とお金を上手に結合することが重要になってくることは間違いないだろう。そうした新しい世界なら、資源や人工にハンデのある日本だって大いにチャンスがある。お金+知恵=人類の最終兵器なのだ。日本が復活し成長するには、社会を引っ張るリスク・テイク族を増やさなければならない。失敗を恐れず、何度でもチャレンジすることを後押しする社会になるべきなのだ。かつて経済大国と呼ばれた日本。再び日出ずる国として世界に羽ばたくために、私もチャレンジを続けていきたい。」

この本の特徴でもある第6章でした。
しかし日本の現状を考えると、著者が願うような方向に日本が変わっていけるのか、大きな疑問符が付きます。
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四川大地震と中国の学校校舎

2008-05-18 10:37:39 | 歴史・社会
5月17日の新聞報道によると、
「中国四川省で12日に起きた大地震で、倒壊した校舎が四川省内だけで6898棟に登ることを教育省当局者が16日、明らかにした。・・教育省当局者によると、震源地付近のぶん川県の学校は当対数に含まれていないため、実態はさらに多いという。」

この記事を読むと、以前にも紹介した杉本信行著「大地の咆哮」を思い出します。
大地の咆哮(ほうこう) (PHP文庫 す 19-1)
杉本 信行
PHP研究所

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この本の中で杉本氏は、中国が抱える負の部分について詳細に語ります。著書の中で、この部分の記述が最も詳細です。都市住民と農民との間に生じている圧倒的な格差、農民の生活の困窮の実態が語られます。国家、省、県、市、郷鎮など各段階ごとに存在する無駄な行政機関と役人の存在により、国が政策を立案しても末端では全く実施されません。
農民は、国から耕作地を割り当てられている一方、生活最低保障、失業保険、医療保険など、都市住民が受ける社会保障の対象外となっています。逆に、地方政府からさまざまな制度外費用を徴収されます。
中国社会は、都市住民と農民との差、豊かになった沿岸部と内陸部の格差、都市の中における貧富の格差、この「三重の格差」が構造問題となっています。

中国の田舎における学校については以下のように述べています。
「中国の郊外の農村を視察してすぐに気づくのは、ほとんどの小学校で校舎の老朽化が甚だしいことだ。1950年代、60年代に建てられた、いまにも朽ちそうなオンボロ校舎の中に汚い椅子と机が置いてあり、他に何もなく、電気すら来ていない。」
「『危ないので、私たちの小学校を建て直してください。』
地方の村からそういった要請があるたびに、私はランドクルーザーに乗って、現場に出向いた。電灯もないようなところがほとんどである。なかには、校舎に天井がなく、空が見えていて、いつ崩落してもおかしくないような学校すらあった。」
「中国は・・・教育費に対する予算付けがあまりにも貧弱であることを指摘しておきたい。」

このような小学校の校舎が、今回の地震では軒並み崩壊したのでしょう。多くの小学生が下敷きになって犠牲になりました。

杉本氏は、「草の根無償資金協力」を通じて中国の田舎に300以上の校舎を建ててきました。
91年からスタートした「草の根無償資金協力」とは、1千万円程度の規模までの対中資金協力であり、中国地方政府からの要請を受け付け、日本大使館の判断で実行できるようです。中央政府を通さないので、地方で本当に必要とされる施設を建設することができます。また、それぞれが地元の人たちからは大歓迎され、本当に喜ばれました。

「こうした田舎では、1千万円もかければ、コンクリート製のかなり立派な三階建ての校舎を建てることができ、1千万円の価値に驚かされることがたびたびあった。」

日本だと、1千万円では戸建て住宅すら建つかどうか怪しいです。

ただし、今回ちょっと心配になりました。1千万円でコンクリート三階建て校舎ができたのは事実でしょうが、耐震強度はどうだっただろうか。もし1千万円からしかるべき金額がワイロで消えていたら、建設に使われた金額はもっと少ないはずで、耐震強度が不十分だったおそれがあるのではないかと心配になってしまいます。

ぜひ、四川省において草の根無償資金協力で作られた校舎が、今回の地震で健在であったのか、調査して欲しいと思います。もしこれらが地震に耐えて健在であったのであれば、日本の無償資金協力の価値がさらに上がることになるでしょう。

ネットで「四川 地震 草の根無償資金協力」で検索してみたのですが、私が知りたい記事は見つかりませんでした。一方、以下のようなサイトが見つかりました。

草の根・人間の安全保障無償資金協力(概要)2008年3月

草の根無償資金協力署名式 (貴州省石阡県唐家営中心小学校建設プロジェクト)(貴州省錦屏県瑶光小学校建設プロジェクト)
立て替え前の校舎がどんなに老朽化されていたか、写真で確認できます。

草の根無償資金協力竣工式(雲南省怒江州蘭坪県河西郷衛生院中日友好入院棟建設プロジェクト)
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ドイツ博物館のUボート

2008-05-15 20:30:25 | サイエンス・パソコン
私が持っていったガイドブック「街物語 ドイツ」(JTB)には、ドイツ博物館について詳しく説明され、「Uボートが展示されている」とあります。

博物館の地下に、その潜水艦は展示されていました。
  
 船尾機関室                司令塔
  
 乗員居室                 魚雷発射管室
  Deutsches Museum

小さな潜水艦がまるまる展示され、側壁を開口して内部が観察できるようになっています。プロペラが2基設置され、それぞれに電動モーターと内燃機関が直結されています。内燃機関は1基のみ設置されていました。
説明板には「U1」と記載されていたようです。そこで、どのような由来の潜水艦なのか、ネットで調べてみました。

青葉山軍事図書館の説明によると、
「<U-1級>:ドイツ海軍潜水艦第1号。ロシア海軍が1904年にクルップ社に発注した潜水艦の改良型である。長さ4.5mの潜望鏡を持ち、無線通信用の昇降マストも装備している。全長42.2m、全幅3.8m、水上排水量238トン、水中排水量283トン。主機はケーテン石油エンジン2基・電動モーター2基400馬力で、最大速度は水上10.8ノット、水中8.7ノット。航続距離は水上10ノットで278km、水中5ノットで92.6km。兵装は45mm砲1門と45cm魚雷発射管1門で、魚雷3本を搭載する。乗員12名。U-1が1906年に就役した。
<U-1>:第1次大戦時は訓練用に使用された。ミュンヘンのドイツ博物館に展示されている。」とあります。

そもそも「Uボート」という名称は、ドイツ語のUnterseebootの略で「潜水艦」という意味です。従って、第一次、第二次大戦のドイツ軍のあらゆる潜水艦がUボートと呼ばれています。第二次大戦中だけでも、「初期の丸木舟と呼ばれたII型から大西洋を中心に各方面で活躍したVII型、さらに大型化したIX型、水中能力を高め大戦後の潜水艦設計の基礎となったXXI型、沿岸作戦用のXXIII型などがあった」(Wikipedia)とされます。
VII型は排水量800トン程度、IX型は1000トン程度あります。それに対し、ドイツ博物館に展示されているU-1は排水量280トンと小型です。第一次大戦で使用されたUボートはだいたいそんな大きさだったようです。

いずれにしろ、ドイツ海軍が第一次大戦時に最初に建造した潜水艦が、そのままの姿でドイツ博物館の地下に陳列されているということです。小さいので、内部構造を一目で確認することができます。潜水艦の何たるかを把握する上では好適な船であるといえるでしょう。
ガイドブック「街物語 ドイツ」には「1923年に博物館に収められた。これに乗ると思うとぞっとする。」と説明されています。
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君はV2号ロケットを見たことがあるか

2008-05-13 23:14:35 | サイエンス・パソコン
ドイツ博物館シリーズは、前回のバイキング船に続いて、今回は第二次大戦中にドイツが開発・実用化したミサイルのV1号、V2号です。
V1号はバルスジェットエンジン推進、V2号は液体燃料ロケットエンジン推進で、ともに無人のミサイルです。ロンドン市街の爆撃に用いられたことで有名です。

V1号は、巡航速度が当時のプロペラ機でも撃墜できる程度の速度であり、ほとんどが撃墜されましたが、安価に製造できるメリットがありました。
V2号は、撃墜不可能な速度を有していましたが、ロケット4機で爆撃機1機が製造できるほど高価でした。
ともにドイツ軍の戦果としては大きなものはありませんでしたが、V1号は後の巡航ミサイルの元祖となり、V2号は後の弾道ミサイルの元祖となります。
また、V2号の技術、実物、技術者を米ソが競い合って獲得し、戦後の米ソにおけるロケット開発の基礎となりました。

ドイツ博物館には、V1号が天井からつり下がっています。本物なのか、実物大模型か、縮尺模型か、判然としません。実物は全長7.9mとのことです。
  
  Deutsches Museum

そしてドイツ博物館には、V2号も展示されているのです。こちらは本物のようです。全長14mのロケットが直立し、博物館の2階から4階までを突き抜ける小穴の中に配置されています。そのため、全体を遠望することができません。2階から4階までらせん階段を上がりながら、部分部分をながめていきます。
  
  
   ① 弾頭部           ② 燃料ポンプ

   ③ ロケットエンジン
  Deutsches Museum

V2号は、液体酸素と液体燃料をタンクに搭載し、これらは燃料噴射ポンプを経てロケットノズルを冷却した後にノズル内に噴射され、ロケット推進します。慣性誘導装置を備えていました。このように、原則的なところでは後のアポロ計画に使われたサターンロケットと同じ構造をすでに具備しているのです。このV2号を参照できたからこそ、第二次大戦後の米国とソ連は急速に宇宙開発とミサイル開発に成功したのでした。
そのような由緒あるV2号の実物を間近に見ることができたのは、今回の旅行の成果でした。

ドイツのロケットV2号、そのV2号を作りだしたフォン・ブラウン博士は、私が小学生の頃は科学少年にとって著名でした。
ドイツを占領したアメリカとソ連は、それぞれ競い合ってV2号の知識を奪い取ります。そしてその知識は、ソ連による世界初の人工衛星であるスプートニク1号として結実します。フォン・ブラウン博士は米国に渡り、米国の宇宙ロケット開発の中心を担ったようです。
第二次大戦後の冷戦及び米ソ宇宙開発競争にとって重要なエポックとなったV2号、そしてV1号を自分の目で見ることができるのがドイツ博物館です。連合国にとっては憎い破壊兵器の筈ですが、それでもこのようにきちんと展示しているのですね。

その他、飛行機関係で撮った写真を載せておきます。
  
  メッサーシュミット戦闘機        ユンカース輸送機

  
第二次大戦中の世界初ジェット戦闘機 戦後アメリカのF-104ジェット戦闘機
  Deutsches Museum
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ミュンヘン-ドイツ博物館

2008-05-11 11:54:43 | サイエンス・パソコン
この連休中、家内と二人でドイツ旅行を楽しんできました。
アムステルダムに到着し、そこから電車を乗り継いで、ケルン-ライン河下り-ハイデルベルグ-ミュンヘンと旅し、ミュンヘンから飛行機を乗り継いで日本に帰りました。

ミュンヘンではドイツ博物館を見学するチャンスがありました。
Wikipediaでは「技術・科学の国立博物館である。ドイツ国内のみならず、世界でもこの方面の博物館として頂点に立つものとされる。」「農業、鉱業、航空工学から、鉄道、機械、宇宙に至るまで、ドイツの科学技術を若い世代に引き継ぎ、学ばせるための博物館で、敷地面積5万平米。展示品目は約1万7千点以上。」と説明されています。

限られた時間なので、見たい展示物のみを短時間で見て歩くことにします。

1階の入り口を入ると、まずは船を展示した大きなホールです。この領域だったら見たい物が一つあります。ステアリングボード(舵板)が右舷に取り付けられているバイキング船です。探したらすぐにその模型が見つかりました。下の写真です。

  Deutsches Museum

3月3日にこのブログで、イージス艦衝突事故に関連して海上衝突防止法を記事にしました。その中でも紹介していますが、船の右舷をスターボード・サイド、左舷をポート・サイドと呼んでいます。なぜこのような名称になったのか、この記事を書く際に知ることができました。

その昔、バイキングが活躍していた頃、バイキング船の舵は船尾の幅中央に設置されるのではなく、下の図にあるように、右舷の後方に設置されていました。ステアリングボードという名称です。そこで、ステアリングボードが設置されている側の名前が、なまって「スターボードサイド」になったというのです。
また、右舷にステアリングボードがあるので、接岸するときは左舷を接岸させていました。そのため、左舷を「ポートサイド」と呼ぶようになったのです。

今回、ドイツ博物館で、上にある写真のように、ステアリングボードがスターボード・サイドに取り付けられた船の模型を観察することができ、スターボードとポートの由来を改めて認識することができました。

このあと、第二次大戦中のドイツのロケットミサイルであるV2号、第一次大戦中のドイツの最初のUボートなどを順次見ていくのですが、それぞれ別の記事とします。

なお、博物館内での写真撮影については、「私的利用の撮影は許可いたします。商用目的の場合は、電話○○までご連絡ください。」と日本語パンフレットにあります。撮った写真のブログ掲載がここでいう私的利用に該当するかどうか、現在博物館にメールで問い合わせているところです。
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