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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

コメ価格の高騰

2025-04-28 10:51:50 | 歴史・社会
コメの小売価格は、今年3月には4172円/5kgで、1年前に比べて倍の値段となり、備蓄米を放出しているにもかかわらず一向に低下しません。こういうときこそ輸入米を増やして対応すべきと思うのですが、最近になるまで輸入米を増やす話は報道にも出てきませんでした。
最近、以下の2つの記事を読みました。
コメ価格高騰、甘かった政府の需要見通し 西川邦夫氏茨城大学教授
2025年4月14日 日経新聞
『ポイント
○「令和の米騒動」は生産調整の限界を示す
○備蓄米放出は目標価格の設定と合わせて
○事後調整への転換や先物市場の活用必要
市場における価格変動を説明する際には、まずはその商品の需給に注目することが一般的である。しかし今次の米価高騰の要因として指摘されるのは流通スタック(停滞)や転売業者等による投機的な取引であり、なぜか需給関係への注目は避けられている。本論ではコメ市場の需給関係から米価高騰の要因を明らかにするとともに、今後の価格動向を展望したい。』

文藝春秋5月号「コメの値段はこの秋も上がる」久保田新之助
零細農家を守るための政策が元凶だ


《コメ価格の高騰とその対策》
農水省は一貫して、「需要に見合うだけのコメの量は確実にこの日本のなかにはあります」「流通がスタック(停滞)して消費者価格が上がっている。流通に問題がある。」との説明です。重い腰を上げて3月から備蓄米の放出を始めており、農水省はこれでコメの値段が下がると言っていましたが、一向に下がりません。

これに対して上記2つの論説では、「需給バランスで供給不足に陥ったことが価格上昇の原因」との見立てで共通しています。両者とも、「6月末民間在庫」の量に着目しています。従来、180~200万トンで需給が均衡することが言われてきました。2020年産と2021年産の在庫は200万トンを超え、流通業者間の取引価格を示す相対取引価格は21年産で13000円/60kg(1083円/5kg)を下回るまで下落しました。
需要減少には供給削減で対応していました。政府は毎年11月に翌年産の需要見通しと生産見通しを公表し、各道府県はそれにあわせて生産量の枠を作成し、それに沿って生産者が生産します。23年産の6月末民間在庫は197万トンと正常化し、相対取引価格は22年産で15000円/60kg(1250円/5kg)に持ち直しました。
しかし23年産で設定された生産見通しは需要見通し(680万トン)を下回る669万トン、実際の生産量はさらにそれを下回る661万トンでした。作況指数は平年作の100を超えて101でしたが、高温障害が襲い、23年米の一等米比率は61.3%と低い値でした。
もうひとつの誤算として、需要量実績が705万トンとなり、見通し(680万トン)を25万トンも超えてしまいました。供給のずれが19万トン、需要のずれが25万トン、合計44万トンの需給ギャップが発生しました。
その結果、23年産の(24年)6月末民間在庫は153万トンと低い値となりました。
端境期に棚からコメが消えるには十分な量でした。米価はつり上げられ、「令和の米騒動」の要因となりました。農産物について、わずかな需給変動で価格が大きく変動することは、農業経済学の基本です。

ここまでは、2つの論説でほぼ同じ内容です。
今年秋の予想について、両者に相違が出ています。
日経新聞の論説:
24年産については、生産量が需給見通しに対して8万トン多い値です。25年3月に備蓄米21万トンが販売され、4月には10万トンが追加されます。単純計算では需給ギャップは5万トン(=44-8-31)まで縮小することになります。ただし、備蓄米が流通に出てくることが前提ですが、現時点ではほとんど流通に出てきていないようです。
『需給ギャップは3回目の放出まででほとんどが解消されると考えられるので、それでもなお備蓄米の放出を続けるなら、米価が想定以上に急落する可能性も否めない』としています。

文藝春秋の論説:
ある卸売業者のシミュレーション結果として、6月末の民間在庫量は備蓄米を抜きにすれば62万トンにしかならないとのことです。これに備蓄米を加えたとしても適正在庫よりもはるかに低いので、「政府が備蓄米をさらに放出しない限り、非常にまずい状況になるのは目に見えています」としています。

《輸入米について》
コメの輸入について、年間約77万トン(玄米ベース)はミニマムアクセス米として関税ゼロで輸入し、それ以外については341円/1kg(1705円/5kg)の関税がかかります。
現在のように、コメの小売価格が4000円/5kg前後であれば、関税がかかった輸入米でも国産米より低価格で販売されるはずです。今こそ、輸入米を増やして店頭に並べるべきでしょう。
一方、コメの需給バランスが回復してコメの小売価格が2000円/5kg前後まで下がったら、多分関税のかかった輸入米の小売価格の方が高くなるので、輸入米の競争力は失われるでしょう。
コメの小売価格が高い現時点で輸入米が増加したとしても、コメの生産者は何ら恐れることはありません。輸入米が増えるといってもせいぜい数万トン~数十万トンの話です。輸入米に対する現行関税のもとで輸入米が競争力を有するのは、コメ価格が高騰している時期のみです。輸入米の供給が理由となってコメ価格が沈静化して国産米の小売価格が正常値まで下がれば、輸入米は競争力を失ってそれ以上は売れなくなるでしょう。
コメ価格の高騰で誰が儲けているのかが不明ですが、生産者もコメ価格高騰の恩恵を受けているのだとしたら、輸入米の増加に対して生産者は涼しい顔をして眺めていれば良いのです。

《減反》
減反の目的はコメの価格を維持することでした。減反を進めることで、農家の収入を確保し、日本では零細な兼業農家が多数を占めることとなりました。2017年をもって表向きは減反を廃止したことになっていますが、交付金によってコメからの転作を奨励することによって、実質上は(コメの)減反は続いています。

《コメの高温障害》
上述のように、23年産は高温障害に遭って一等米比率が61.3%でした。高温障害は20年以上前から問題になっており、高温に強い品種が開発されました。しかし普及面積は14.7%にとどまっています。兼業農家(当主が定年退職した今は専業農家でしょうが)は、農業で儲ける必要がなく、いまさら高温に強い品種に変えるつもりもないのです。

《備蓄米の放出》
中食・外食事業者の集まりの協会会長が、昨年の8月に農水大臣と面談し、備蓄米の放出を要請しましたが、受け入れられることはありませんでした。
今年3月にやっと備蓄米の放出を決めましたが、1年以内に同等・同量の国産米を買い戻すことが条件です。放出された備蓄米のうち、市場に出回っているのはごく僅かなようです。

《先物市場》
日経新聞の論説では、「生産者にとって収穫前にリスク管理をする方法として、24年8月に設立された先物市場の利用も検討に値するだろう」としています。
文藝春秋の論説に先物市場の経緯が記載されています。2011年、試験上場という形で先物が動き始めました。農家にとってはコメの価格が下落した時への備えと、経営計画の立案に有効だと評価されました。21年はいよいよ本上場することが確実視されていましたが、JAの政治力によって突如廃止に追い込まれました。JAが価格決定権を失うことを恐れたため、としています。
先物市場は24年に再び開設されました。
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静かな退職

2025-04-26 14:07:29 | 歴史・社会
最近、テレビのニュース番組で「静かな退職」が取り上げられていました。下のサイトかも知れません。
【work23】会社辞めずに“最低限の仕事”「静かな退職」広がる 実践中の20代男性に密着「ダラダラした方がコスパいい」 企業に意外なメリット?
【news23】4/23(水)
『最近、「退職はしない、ただ、必要最低限の仕事しかやらない」という働き方を指す「静かな退職」という言葉が注目されています。
“必要最低限の仕事のみをこなす働き方”、「静かな退職」。実際に退職はしないものの、心理的には会社を去っている状態を意味します。
「静かな退職」をしている正社員の割合(出典:マイナビ)
▼20代 46.7%
▼30代 41.6%
▼40代 44.3%
▼50代 45.6%』
『“静かな退職”をする大手企業勤務(20代)
「いわゆる“指示待ち”をして、指示されたことはやる」
「(Q.モチベーションは100%で言うと)業務に対する熱量みたいなことですか?ゼロですね」』
--------------------
ここまでの番組の進行では、「静かな退職」とは、「働く積極的な意欲がなく、指示されたことだけをやり、残業ゼロで帰宅してしまう」という「ダメ社員」を指しているような印象です。
しかし、私の理解では、「静かな退職」との文言でくくられる働き方は、むしろこれからの社会で推奨される働き方であると理解しています。適切な日本語を見つけるとしたら「働き方改革」です。
--------------------
『大手企業勤務の20代男性は、「業務に対する熱意がゼロ」と話していましたが、“静かな退職”について、雇用問題に詳しい大正大学の海老原嗣生氏は「いまは労働人口が減り、昭和のような『24時間戦う』無駄な働き方が難しい」「共働き家庭が増えるなか、会社に縛られない『静かな退職』は、家事や育児などと両立できる働き方に繋がる」とみています。』
--------------------
そう、この考え方です。
私は以下の書籍を読みました。
静かな退職という働き方 (PHP新書)


海老原 嗣生 (著)
「はじめに」から抜粋します。
『「静かな退職」――アメリカのキャリアコーチが発信し始めた「Quiet Quitting」の和訳で、企業を辞めるつもりはないものの、出世を目指してがむしゃらに働きはせず、最低限やるべき業務をやるだけの状態である。
「働いてはいるけれど、積極的に仕事の意義を見出していない」のだから、退職と同じという意味で「静かな退職」なのだ。
・言われた仕事はやるが、会社への過剰な奉仕はしたくない。
・社内の面倒くさい付き合いは可能な限り断る。
・上司や顧客の不合理な要望は受け入れない。
・残業は最小限にとどめ、有給休暇もしっかり取る。』

この「はしがき」も「静かな退職」に対してちょっとネガティブですね。しかし、本を読み進めると、違った姿が見えてきます。

最近の日本では、女性の社会進出が現実的に進展し、業務スキルを身につけた女性が育児退職することが会社の損失になり始めました。それに対する対策が取られた結果、少なくとも育児女性に関しては、「忙しい毎日」型の労働からは脱し、短時間で会社から帰る権利が確保されました。そのような働く育児女性が増えると、その夫は、家事分担を行うことが必須となり、男性についても「忙しい毎日」型の労働から脱することが必要となります。もはや日本では、「静かな退職」型の働き方が主流になっていくのです。
夫婦共働きの時代、夫婦ともに「静かな退職」を選ぶことで、家事と育児を共同で行うことが可能となります。

「働き方改革」ということで、エリート候補だろうがそうでなかろうが、皆が「静かな退職」的な働き方を目指しているようです。しかしこれでは、最先端の技術やエクセレントな会社は生まれづらいでしょう。やはり、優秀な一部のエリート層が全力で最先端を追いかけないと、日本の産業が欧米に並ぶことは難しいです。
一方、エリートコースに乗れないことが客観的に分かっているグループの人たちについては、24時間働くことは無意味であり、人生で失うものが多すぎます。

著書「静かな退職という働き方」では、日本での働き方と、欧米での働き方の違いが描かれます。
日本では、大卒で大手会社に正社員で入社すると、全員が「がんばれば社長や役員にもなれる」とおだてられてがむしゃらに働きます。「24時間働けますか?」の世界ですね。しかし、実際に社長や役員になれるのは、そのうちのごく僅かです。
一方、欧州大陸諸国(フランス、ドイツ)では、同じ大卒であっても、エリートコースに乗れるグループと乗れないグループが入社当初から厳然と分けられています。欧州大陸諸国であれば、職業資格と学歴で昇進上限が決まり、自分の将来が早期に見えてしまいます。
年齢別の年収を見ると、エリート層は年齢とともに年収が上昇するのに対し、非エリート層は年収の上昇がごくわずかです。
エリートコースに乗っている少数のグループはばりばり働いて先頭争いをする一方、そうでないグループは上記「静かな退職」の人たちに似たような働き方をします。
さて、日本のやり方と欧米のやり方のどちらが好ましいか、という問題です。

問題は、スタートの段階でエリートと非エリートを区別するという「差別」を、日本人が受け入れるか否か、です。
戦前の日本では、旧制高校と旧帝大を出た人たちがエリートで、それ以外の中卒・小卒は非エリートコースで厳然と別れていました。戦後の日本は、このエリート主義を否定することから始まっています。それがために、「大卒(場合によっては高卒)は全員、がんばれば社長や役員になれる」という平等主義で走ってきました。そのため、客観的に見たら役員などになり得ない人たちまでも、「24時間頑張れ」と働いてきたのです。

以上で、欧州大陸諸国と日本を対比しました。アメリカはどうなのでしょうか。著書「静かな退職という働き方」ではアメリカについてはさほど詳細に解析していません。
私が知る限りでは、アメリカの一般労働者は「静かな退職」型が多いようです。一方で、エクセレントな結果を出す集団は、集団全体が「24時間頑張れ」型になっている気がします。
今のウィンドウズパソコンのOSの原点は、Windows NTであると理解しています。そのWindows NTの開発の様子を、私はブログ記事『ザカリー著「闘うプログラマー」 2013-04-16』としてアップしました。
『私生活を顧みずに仕事に打ち込むことが要求されたので、家庭を顧みず、離婚にいたり、恋人と別れた人たちもいました。』

インテルがアンドリュー・グローブに率いられていた頃、アンディは「インテルはワーカホリック集団だ」と言っていたとの記憶があります。アンディがCEOの時代のインテルは地獄だったようですが。

最近の世界での技術革新は、アメリカ発が圧倒的に多いように思います。一般労働者は「静かな退職」型が多い一方、何事かをなし遂げようとする集団は優秀な人材がまとまって「24時間頑張れ」型の仕事をしており、これが技術革新を連続して生み出す源になっている気がします。
一方、日本もそうですが、ヨーロッパからもなかなか革新的な新技術が生まれません。エリートコースに乗っている少数の人材のみでは、アメリカのような革新的技術が生まれないのかもしれません。

以上を記述した上で現在の日本を振り返ると、日本は優秀層を含めて誰もかれもが「静かな退職」型に移行しつつあるようです。これでは、夫婦共働きには対応できるものの、世界の先頭に立つような国にはなりえないでしょう。結果として国民全体が貧しい生活を受け入れることになろうかと思います。
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裁判官不足が続いている

2025-04-16 09:59:34 | 歴史・社会
法曹増でも裁判官不足の怪 見合わぬ待遇、弁護士に流出
2025年4月13日 日経新聞
『法曹界でトップエリートとされてきた裁判官のなり手不足が深刻だ。法曹人口は10年で3割弱増えたのに、判事補と呼ぶ若手裁判官は2割減った。企業法務需要が増えたことに伴い、大手法律事務所が最優秀層の学生らを好待遇で積極採用しているためだ。それでも採用方法を抜本的に見直す機運は乏しく、放置すれば司法システムが揺らぎかねない。』
『最高裁によると、24年度の判事補は673人と14年度の832人から159人(19.1%)減った。定員数を削っているにもかかわらず、定員の8割しか埋まらない状況が続く。』
裁判官の数は2800人弱で近年は横ばいが続きます。

五大事務所が、難関大の優秀な学生を司法試験の受験前から囲い込みます。試験の成績上位者は合格時点で就職の内定を得ていることが多いです。優秀な学生はこれまで裁判官になるケースが多かったですが、近年は人材獲得競争で劣勢に立たされています。
裁判官になっても度重なる地方転勤が重荷となって転身を図る若手も絶えません。
裁判官の採用については、司法試験の成績などを重視する傾向は変わらず、昔ながらのエリート主義が足かせになっています。

主要各国の制度の比較表が載っています。
        任用      転勤
米国(連邦)  法曹一元制   原則なし
英国     法曹一元制   原則なし
フランス   職業裁判官制  本人の同意が必要
ドイツ    職業裁判官制  応募制
韓国     法曹一元制   定期的に実施
日本     職業裁判官制  定期的に実施

米国、英国は一定の職務経験を積んだ弁護士などから裁判官を選任する「法曹一元制」を採用します。特定の裁判所の裁判官として任用されるため異動や昇進は原則ありません。
フランスやドイツは日本と同じく国家試験の合格者を裁判官として任用し、実務経験を積ませる「職業裁判官制」です。
ドイツの人口は日本の2/3ですが裁判官は2万人います。柔軟な働き方が可能で、異動も応募制で希望しない限り対象となりません。
上の表で、強制的な転勤を定期的に実施しているのは日本と韓国だけ、職業裁判官制に限ると日本だけです。欧米の主要国では、強制的な転勤がある国は存在しません。

私は「裁判官は定期的な転勤が存在するのが原則」と思い込んでいましたが、日本だけの特有の制度だったのですね。近い将来に、日本も主要諸外国並みの制度に変わっていくといいのですが。
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コードブレイカー(2)

2025-04-01 14:41:02 | 歴史・社会
第1報に続き、ジェイソン・ファゴン著「コードブレイカー――エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史」の第2報です。

この本の主役は、エリザベス・スミス・フリードマン(1892-1980)と、その夫のウィリアム・フリードマンです。

第1報では、エリザベスと沿岸警備隊における彼女のチームが、南米のナチのスパイ組織の通信暗号文を解読する活動までを記しました。また、ウィリアムと彼が率いる陸軍暗号解読班が日本の外交暗号パープルを解読し、パープル暗号複合機を制作するまでを記しました。

パープル制覇は、ウィリアムが本格的な暗号解読者としてなしとげた最後の偉業、最後の命がけの登攀となりました。この時点から晩年にかけて、ウィリアムは暗号機の発明と、インテリジェンス機関の設立という側面から国のために働くこととなります。

イギリスにはイギリス安全保障調整局(BSC)という組織がありました。1000人の組織員が、「アメリカの孤立主義を終わらせて戦争に参戦させる」ことを目的に邁進しています。イギリスはフーパーのFBIと協力しようとしますがフーバーは拒否しました。イギリスはフーバー以外の協力を獲得すべく運動し、ルーズベルト大統領は情報調整局(COI)を創設しました。CIAの前身です。このときから、イギリス人がエリザベス・フリードマンに親しげに近づいてくるようになりました。イギリスはすでに無線傍受技術を持っていましたが、イギリスからは信号を入手できない地域がありました。イギリスは、アメリカにおける無線インテリジェンスや暗号解読に強いのは沿岸警備隊であると知りました。
イギリスのBSCがヨーロッパ全域に設置した無線局と、アメリカ沿岸警備隊の傍受通信が互いを補うこととなります。

フーバーのFBIは、数種類の未知の暗号システムについて沿岸警備隊に手助けを求めてきました。エリザベスは、スパイの一部が書籍サイファを用いていることを見抜き、また回転グリルを用いる暗号については、暗号文から得られる手がかりだけをもとに推論し、5回か6回のひらめきを経てルールを見破りました。

1941年1月、ウィリアム・フリードマンは、ウォルター・リード総合病院の神経精神科に自分から診療を受けに来ました。エリザベスに知らせずにです。数日前に倒れたのだが多分神経がやられたのだろう、とウィリアムは話しました。
ウィリアムはそれから2ヶ月半、この病院の精神科病棟で過ごしました。外出は許されませんでした。
1941年3月、病気の診断が確定し、ウィリアムは陸軍の任務に戻ってよし、となりました。ウィリアムは陸軍の職場に復帰しましたが、以前とは全くちがう人間となり、この先も元に戻るてことはありませんでした。退院から三週間後、ウィリアムは陸軍から「健康上不適格という理由で」名誉除隊となったとの通知を受けました。ウィリアムは徹底的に抗議しましたが、除隊となり、民間人の立場で任務を続けるほかなくなりました。
エリザベスは、抑うつ状態にあるウィリアムの面倒を見ながら、仕事も続けなくてはなりませんでした。

ヨハスネ・ジークフリート・ベッカーは、ナチの親衛隊の士官でかつ南米で活動したスパイでした。7カ国でスパイを使い、ナチ支持者とともに政治的陰謀や軍事クーデターを組織し、地下無線局を設置しました。
沿岸警備隊のエリザベスのチームは、南米発信の暗号文を解読していきます。解読文は、フーパーのFBIにも提供されました。FBIはこの解読文をあたかもFBI発であるように偽装しました。そのため、エリザベスが記録から抹消され、後年J・エドガー・フーバーがエリザベスの業績を横取りしていきました。
2000年に国立公文書館に保管された極秘資料が機密解除され、FBIではなく沿岸警備隊が、無線通信回路を解明したことを証明しているのでした。

1941年12月、『真珠湾攻撃のニュースがフリードマン家に入ると、ウィリアムはせかせかと歩き回って小声でつかえながら、理解できないとつぶやいた。エリザベスの耳に、「でも、彼らは分かっていたじゃないか。分かっていた、わかっていたはずだ」という声が何度も聞こえてきた。』
ウィリアムら暗号解読者たちには、少なくとも数日前から、日本軍の攻撃態勢が整っていることはマジックから一目瞭然でした。ただひとつなぞだったのは、攻撃目標地点でした。それなのになぜ、ハワイの米軍は何の供えもなく不意打ちされてしまったのか?
それから長年にわたり、何が間違っていたのだろうという疑問がウィリアムの頭から離れませんでした。軍部が真珠湾の司令官に専用のパープル暗号機を提供しなかったせいで、真珠湾では直接マジックを読むことができませんでした。

日本の外交暗号パープルがアメリカで解読されており、真珠湾攻撃前に米大統領に手渡すはずだった最後通牒は、事前に解読されて米政府内で読まれていました。日本が米国に開戦することは明らかでした。それなのになぜ、真珠湾の米海軍・陸軍は無防備でやられてしまったのか。これは、アメリカの暗号関係者にとって最大の謎でした。このブログでも何回も取り上げています。たとえば
ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたか 2008-10-04(ブログ記事)
『日本政府は、アメリカに対する最後通牒を真珠湾攻撃開始の30分前に米国政府に手交する段取りとしていました。そしてその通告文(第1部から第14部まで)が、外交暗号に組まれて在米日本大使館に送信されます。
まず第13部までが送信されます。米国は直ちにこれを解読し、アメリカ東部時間で12月6日の夜遅くにはルーズベルト大統領に届けます。これを読んだ大統領は「これは戦争だ」とつぶやいたことが知られています。
アメリカ東部時間で7日の午前9時には、最後の第14部も到着し米国に解読されます。「これ以上、外交交渉により合意に到達することは不可能と認む」「全14部の通告を貴地時間7日午後1時にハルに手交せよ」とあります。東部時間午後1時は、ハワイ時間午前7時半です。

もちろん、米海軍作戦部長のスタークもこの情報を知らされます。部下から「いますぐキンメル大将(ハワイ太平洋艦隊司令長官)に警告されてはいかがでしょうか」と進言され、スタークは受話器を取り上げます。午前10時45分です。スタークはキンメルに電話をせず、代わりにホワイトハウスを呼び出しましたが、大統領は話し中でした。スタークはそのまま受話器を置き、あとは何もしませんでした。
米陸軍については、マーシャル参謀総長がつかまりません。自宅から乗馬に出かけたことになっています。やっと家に戻ったのは11時25分でした。マーシャルはスタークと電話連絡し、スタークはハワイへの連絡に海軍の電信網を使ってはどうかと提案しますが、マーシャルはそれを利用しません。そしてその緊急命令は、なぜか商業通信RCAによって打電され、実際にハワイのショート陸軍司令官に届いたのは真珠湾攻撃が終わった後でした。

結局、米国政府首脳は、「日本が東部時間午後1時の直後に、どこかの地点で米国に攻撃を仕掛けてくる」ということを知っていながら、ハワイにはその情報を伝えていなかったのです。』
--以上、ブログ記事-------------------

日本から米国への最後通牒の暗号解読に直接携わっていたウィリアムには、その解読情報が生かされず、ハワイが無防備で攻撃されたことに納得がいかなかったのでしょう。

開戦後、さまざまな暗号任務にフリードマン夫人の手を借りたいとの声があがりました。ウィリアム・ドノヴァンは、情報調整局、後のCIAを設立する業務を行っていました。エリザベスが名指しされ、CIAの原型の原型となる初の恒久的暗号部門の立ち上げに尽力しました。

沿岸警備隊に戻ったエリザベスは、南米からの傍受通信の解読を再開しました。

1942年3月、FBIと南米の警察は、ナチのスパイ網の一斉検挙を試みました。しかし、一斉検挙は不首尾に終わり、さらにはスパイ網が用いる暗号システムがすっかり変更されました。
それ以来、アメリカとイギリスの諜報網は、有益な情報はFBIにもらさない、との行動を取るようになりました。
エリザベスらがスパイ網の暗号を解読すると、スパイ網は暗号を変更します。この繰り返しでした。1942年冬には、やっとのことでスパイ網の秘密の通信回線をふたたび掌握できるようになりました。
ただひとつ、解読できない回路3-Nがありました。通信文がエニグマ機のどれかで暗号化されていると推測しました。

当時、ナチスドイツと敵対していない国はアルゼンチンのみでした。1943年1月、ナチススパイのジークフリート・ベッカー、別名「サルゴ」がブエノスアイレスに現れました。エニグマ暗号機をもってきました。無線技士のウッツィンガーは、強力な無線局を一つ造り、ベルリンには3つの無線局があると思い込ませることにしました。赤はベッカーと親衛隊の協力者を結ぶ回線、緑はハンス・ハルニッシュとウプヴェーアを結ぶ回線、青は「大使館の連中」用です。

エリザベスのチームとイギリスのチームが、それぞれ単独で3-Nの解読に成功しました。エニグマにはいくつもの種類がありますが、今回のエニグマは中程度のセキュリティでした。
南米のベッカーたちナチスパイは、南米各国の政府転覆計画を推進していました。その状況は、暗号を解読しているエリザベスらに筒抜けでした。
連合国当局は、これら暗号解読情報をも参照して、アルゼンチン政府に脅しをかけました。その結果、アルゼンチン政府は、ドイツおよび日本とのあらゆる関係を断絶するに至りました。

さらに、南米ナチの赤用の新しい3台目のエニグマについても、エリザベスたちは解読に成功します。イギリスに報告したところ、「自分たちも解読に成功したところだ」との回答がありました。

南米のナチ諜報網はとうとう、壊滅されることとなりました。実際に捜査し逮捕したのは南米の警察とアメリカのFBIでしたが、必要な情報の大部分を提供したのはエリザベスが率いる沿岸警備隊チームでした。エリザベスらの貢献のおかげで、南米諸国は枢軸国側に奪い取られずに済んだのです。しかしそのことは、当時は明かされることがありませんでした。

欧州での戦争が終了すると、ウィリアムはナチの諜報関係資料を収集するためのチームに配属となり、ドイツに向かいました。
ウィリアムはドイツからイギリスに向かい、イギリスのアラン・チューリングと会いました。チューリングは、ドイツのエニグマを解読する上での中心人物と目される天才数学者です。イギリスは1952年、アラン・チューリングが同性愛者であるという理由で、機密情報の取り扱い資格を剥奪しました。のちにチューリングは、明らかに自殺と思われる状態で死んでいるのを発見されました。
イギリスでウィリアムは、ナチの諜報活動について調べました。会ったドイツ人捕虜のなかには、ナチの一流の暗号家であるヴィルヘルム・フリッケ博士とエーリッヒ・ヒュッテンハインがいました。捕虜の尋問や調べた文書から、ドイツはエニグマ機の安全性をつゆほども疑っていなかったと判断しました。一方、ウィリアム自身がフランク・ローレットと共同開発したシガバを破ることができないでいたと知り、誇りに思いました。

日本との戦争が終結し、ウィリアムはアメリカに帰国しました。
ウィリアムは、戦後のアメリカ諜報機関をどのように設計するかの議論に参画し、1952年、国家安全保障庁(NSA)が誕生することとなります。また、自身の開発した暗号機の技術解説をまとめ、商品化を目指して特許を出願するつもりになっています。

ウィリアムの鬱症状は1947年に再発しました。
エリザベスとウィリアムは、自分たちが関係した暗号関係の書類を自宅図書館で保管していました。そしてこれら書類を、ジョージ・C・マーシャル財団に寄贈することに決めました。
1969年、ウィリアムが心臓発作によって亡くなりました。
葬儀が終わると、エリザベスはウィリアムの残した書類について目録の作成に取りかかりました。そしてエリザベス関連の書類を含め、レキシントンのジョージ・C・マーシャル財団図書館に運び込みました。
1980年、エリザベスは88歳で亡くなりました。

それから何年ものあいだ、何も起こりませんでした。
暗号解読に従事する女性たちが、エリザベスに注目するようになりました。

そして2014年、この本の著者のジェイソン・ファゴンが、財団図書館に眠るエリザベスの書類にたどり着きます。主任記録保管人は、「エリザベスの資料はすばらしいですよ」と伝えました。
ただし財団図書館の所蔵書類は、所蔵当時に機密指定になっていないものに限られます。そこで、財団図書館の書類調査だけでは、ぽっかりと穴が開いている状況でした。著者はその部分を、最近になって機密が解除された公文書によって埋めていきました。

以上が、エリザベス・フリードマンとウィリアム・フリードマンの歴史です。
この2人が、夫婦で暗号解読の仕事を行うことで暗号学を深め、次いでそれぞれが単独で政府、軍、沿岸警備隊での暗号解読に邁進することで、アメリカの暗号解読の能力は秀逸なものになっていきました。
日本の外交暗号パープルは、ウィリアムが率いるチームによって解読されました。
ドイツの暗号エニグマは、主にイギリスの努力によって解読されたようですが、アメリカのエリザベスのチームも、ほど同じタイミングで各種のエニグマの解読に成功しています。
一方、米軍が主に用いた暗号システムは、ウィリアムが率いるチームによって造り出され、日本もドイツもその暗号を破ることはできませんでした。
このように見ていくと、第二次大戦での暗号の世界において、米英が日独に優位に立っていた理由の相当の部分が、エリザベス・フリードマンとウィリアム・フリードマンという2人の功績によるのではないか、という気がしてきます。
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コードブレイカー(1)

2025-03-27 17:33:09 | 歴史・社会
ジェイソン・ファゴン著「コードブレイカー――エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史」

この本の主役は、エリザベス・スミス・フリードマン(1892-1980)と、その夫のウィリアム・フリードマンです。
第2次大戦の開始当時から、アメリカは、交戦国であるドイツの外交暗号(エニグマ)を解読し、日本の外交暗号(パープル)を解読していました。一方、ドイツも日本も、アメリカの暗号を解読できておらず、また自分たちの暗号がアメリカに解読されていることに気づきませんでした。
アメリカにおける、エニグマの解読とパープルの解読に最も貢献したのが、2人の個人、エルザベス・スミス・フリードマンとウィリアム・フリードマンであった、というのです。その詳細が今回の書籍に克明に記されています。

このカップルは、夫と妻の二人一組で、言うなれば家族経営の暗号解読局として機能するようになっていきました。コンピュータが存在しない時代、二人は鉛筆と紙、そして自分の頭を頼りにしていました。
エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破しました。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作製の手法を一変させました。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいます。
夫の方のウィリアム・フリードマンは、インテリジェンス史研究家から尊敬を集めるようになりました。国家安全保障庁(NSA)の父としても広く知られています。
一方、妻のエリザベスの知名度は、優れた才能を持ち多大な貢献をしたにもかかわらず格段に低いです。エリザベスが行った仕事が暗号解読に関するものであり、守秘義務を負って公表することができなかったこと、そしてFBIのJ・エドガー・フーバーが、エリザベスの貢献を横取りしてFBIの成果に見せかけてしまったためです。

1976年、エリザベスはNSAから派遣されたインタビュアー、ヴァージニア・ヴァラキのインタビューを受けました。エリザベスが84歳のときです。これが、エリザベスの業績が公に広く知られるきっかけになったようです。

エリザベスの保守的な父親は、エリザベスの大学進学に反対していました。エリザベスは学費は自分で払うと宣言して大学に進学しました。
1915年当時の教育を受けたアメリカ人女性ができる仕事といえば、せいぜい高校や小中学校で教えるくらいのものでした。女は、教師をして、子どもを産み、退職して、人生を終えるものでした。しかしエリザベスは、リスクを伴うものに情熱がかき立てられます。
一度は郡立高校の校長代理として赴任しますが退職し、両親の家にも長居できず、荷物をまとめてシカゴ行きの列車に乗り込みました。頭を使うことが必要な仕事を求めましたが、シカゴの職業紹介所職員からはそのような仕事の口はありませんとの答が返ってきました。
シカゴのニューベリー図書館に所蔵された、シェイクスピアのファースト・フォリオという稀覯本に彼女は関心を抱いていました。この図書館に出かけたことが、フェイビアンに出会うきっかけでした。
フェイビアンは大金持ちの事業家で、リバーバンクに研究所を開設していました。その研究所では、多くのテーマの研究が行われており、ミセス・ギャラップが、シェイクスピアの戯曲の作者はじつは哲学者のフランシス・ベーコンであり、その証拠のメッセージが戯曲の中に埋め込まれている、という仮説で研究を進めていました。ミセス・ギャラップは若いエネルギーと鋭い目をもった助手を求めていました。23歳のエリザベス・スミスはその助手の仕事に就きました。
ギャラップ夫人によると、ニューベリー図書館が所蔵するシェイクスピアのファースト・フォリオの文字の形の中に、秘められたメッセージが埋め込まれており、ギャラップ夫人はその秘密をすでに解き明かしているといいます。エリザベスの仕事は、ギャラップ夫人の手法を用いて既存の研究結果を再現することです。

ウィリアム・フリードマンは若い遺伝学者であり、リバーバンクのフリードマンの研究所に住み着いて研究をしていました。ギャラップ夫人の仕事も手伝っていました。
ギャラップ夫人の仕事、すなわちシェイクスピアの戯曲のなかにベーコンが仕組んだメッセージを解き明かそうとする仕事は、暗号解読と同様のスキルを必要とします。そのため、エリザベスとウィリアムは、この仕事を通じて暗号解読に必要なスキルを自然と身につけていきました。

第一次大戦の直前、通信手段として無線が用いられるようになりました。無線だと敵味方関係なく受信できるので、通信文の暗号化が必須になります。ところがアメリカには暗号解読家が数人しかおらず、そのうちの二人がエリザベスとウィリアムでした。
戦争省(現在の国防総省)は、モーボーン大佐をリバーバンクに派遣しました。モーボーンは暗号解読の実務経験がありました。モーボーンは、エリザベスとウィリアムのなかに才能の輝きを見て取りました。実際に敵国の暗号文の解読を依頼したところ、見事に解読に成功しました。その後、第一次大戦アメリカ参戦後の八カ月間、ウィリアムとエリザベスをはじめとするリバーバンクのチームが、アメリカ政府のあらゆる機関の暗号解読を行いました。暗号解読は、紙と鉛筆と二人の頭脳と、そして二人の連係プレイによってなし遂げられました。
エリザベスとウィリアムは、ストレート・アルファベット、ダイレクト・アルファベット、逆アルファベット、多アルファベット、混合アルファベットなど、数種類の換字式サイファを識別し、解読できるようになりました。書籍サイファを、その本自体が手許になくても解読できる一般的なテクニックを開発しました。二人は「柔軟な思考」「直感力」と表現しました。二人にとって直感とは、努力の末に獲得した体内コンパスのようなものでした。
その過程で得られた暗号解読に関する新たな知見は、リバーバンクから出版され、今日これらは現代暗号学の礎石と評価されています。
戦時中のある日、イギリス陸軍が開発した小型の手動式暗号機で暗号化された通信文の解読を試みました。イギリスは、この装置は解読不可能と結論づけていましたが、アメリカ側が念のために二人に解読を依頼してみたのです。二人は、絶妙の連係プレイでこの暗号を解読してしまいました。

ウィリアムはユダヤ人であり、ユダヤ教徒以外との結婚は家族全員が反対します。エリザベスはクエーカー教徒の一家でした。その障害を乗り越え、1917年、二人は結婚しました。フェイビアンの研究所にある風車が、二人の新居でした。

ウィリアムは陸軍への入隊を希望し、フェイビアンはなかなか許可しませんでしたが、戦争が終わったら戻ってくるという条件で陸軍入隊許可を与えました。そしてエリザベスを残して、フランスの戦地に赴任しました。
戦争が終結しました。
二人はリバーバンクから決別しようとしますが、フェイビアンの妨害でうまくいきません。やっとのことで逃げだし、ワシントンに向かいました。

第一次大戦後、各国の暗号の世界では、暗号文を作成する機械の必要に迫られていました。高速で、使いやすく、格段に高い安全性が確保されているという機械です。フリードマン夫妻は、ワシントンに到着するやこうした事態に放り込まれ、1921年、二人は政府機関での勤務を開始しました。

アメリカの政府部内で暗号解読を行う部局は3つ、職員は合計で50名以下でした。規模が最大なのは元陸軍中尉のハーバート・ヤードレーが率いる暗号局、その他は海軍と陸軍所属でした。その陸軍の暗号部門でフリードマン夫妻は勤務を始めました。
ウィリアムは、2機の暗号作成機械で生成した暗号の解読に成功しました。この時点では、紙と鉛筆とひらめきだけで機械を破ることがまだ可能でした。ただし、徹底した注意力と集中力を働かせる必要がありました。
ウィリアムは、当時市場で販売されていたエニグマ(ドイツ製の暗号機)の解析にも取り組んだことがありました。このときは本気で解読しようとはしていませんでした。

エリザベスは海軍の要請で勤務を始めましたが、5ヶ月勤務後に妊娠のために職を離れました。
1925年、エリザベスは沿岸警備隊の訪問を受けました。禁酒法の時代、沿岸警備隊のチャールズ・ルートは、海岸を経由して酒を密輸する船を捕まえる任を負っていました。エリザベスは、期間限定で在宅勤務なら、ということで受けます。
沿岸警備隊は財務省所管でした。財務省は法執行機関を沿岸警備隊を含めて六つ、抱えており、財務省捜査官はTメンと呼ばれていました。アル・カポネの逮捕、リンドバーグの愛児誘拐事件の犯人逮捕は、いずれもTメンによるものでした。

エリザベスは、沿岸警備隊が傍受した犯罪組織間の暗号通信文を次々に解読していきました。エリザベスは暗号通信文の解読のみならず、広範で包括的なシステムの構築に取りかかりました。エリザベスは、財務省でただひとりの上級暗号解析管、すなわち暗号解読法を知っている唯一の人間だったため、財務省内の各法執行機関に所属するTメンたちを結びつける役割を果たし始めました。
沿岸警備隊では、エリザベス一人が暗号解読を担い、3年間で酒密輸にかかわる通信文を12000通解読しました。限界を覚えたエリザベスは、暗号解読班の設置を提案しました。提案が認められ、下級暗号解読者3名と速記者2名、それにオフィスが与えられました。アメリカ史上唯一の女性が率いる暗号解読班となりました。3人の新人が暗号解読のスキルを身につけました。1932年にF・D・ルーズベルトが大統領に就任したときには、エリザベス率いるチームは、アメリカにおける掛け値なしに最高の無線インテリジェンス組織に成長していました。ここで獲得したスキルに基づき、エリザベスはのちに、ナチ・スパイの極秘ネットワークを打ち破る立役者となります。
ニューオーリンズでの刑事裁判でエリザベスが証人として公開の裁判所で証言することとなり、エリザベスは一躍時の人となりました。

このころウィリアムは、その後10年にわたって、陸軍で日本の外交暗号の解読に携わることになりました。1930年にウィリアムは陸軍の新たな暗号解読班を立ち上げ、これがのちに国家安全保障庁の中核をなすことになります。
ウィリアムはこの組織で、日本の外交暗号解読を目指すとともに、自分たちでも暗号作成機を創り出しました。
1930年ころから日本が使い始めた機械は、Angooki Taipu Aと呼ばれ、アメリカでは「レッド」のニックネームで呼ばれていました。1938年、日本はレッドを大幅に改良した高度な暗号機 Angooki Taipu Bに置き換えました。アメリカでは「パープル」と名付けました。
またウィリアムのチームは、M-134、さらに改良したSIGABAと呼ばれる暗号機を創出しました。アメリカ陸軍と海軍は第二次世界大戦中、1万台以上のシガバをあらゆる戦域に設置しました。ドイツ、イタリア、日本のいずれも、最後まで解読できませんでした。
ウィリアムの仕事は極秘であり、家に帰っても同業者である妻にすら話すことができません。ウィリアムは夜に帰宅するとほとんど何もしゃべらない生活となりました。ウィリアムの神経が病んでいきます。

ナチスドイツがボーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発しました。
大西洋を隔てたアメリカは安全なように思われましたが、もしナチが南米を支配したら、アメリカも安全ではなくなります。
ヒトラーは、南米に工作員を送り込みました。携帯式無線機をもった新人工作員が、Uボートで海岸にたどり着いたり、飛行機から落下傘で降下したりして目的地に潜り込みました。
エリザベス・フリードマンが1940年から1945年にかけて行っていたことについては、厳重な機密指定がされ、エリザベスの死後にようやく封を解かれました。
エリザベスのチームは、財務省から依頼された暗号を解読するうちに、未登録の無線局から発信された謎めいた暗号文の存在に気づきました。暗号を解読すると、平文はドイツ語であり、位置測定からすると発信元はメキシコ、南米、アメリカにある未確認の無線局のようです。まもなく、これらの無線局はナチのスパイが設置したものだとわかりました。
エリザベスと彼女のチームは、紙と鉛筆を用いて直感と経験をもとに、この暗号を解読していくのです。著書では、その過程が詳細に示されています。
エリザベスの基本的な解読スタイルは、紙と鉛筆で試行錯誤を繰り返し、推論を立ててそれを試します。エリザベスはこれまでの25年間、何万通もの通信文を手掛ける中で、ありとあらゆる種類の暗号を解いてきたので、近道の見つけ方、つまりは文中でのパターンの見分け方を心得ていたからです。エリザベスは一種の人間コンピュータでした。

1940年、ドイツのエニグマ機で作成された暗号文に始めて遭遇したとき、エリザベスはたいして怖じ気づきはしませんでした。
エニグマ機で暗号を作成するに際し、マシンのロータの開始位置を頻繁に変更することが必要です。しかしある無線局では、送信者がまちがって同じ開始位置を使ってすべての通信文を送っていました。そのため、数多くの暗号文を縦に重ねることで、暗号を解く鍵を見つけたのです。そしてチームは、暗号の特徴がエニグマ機に似ていることに気づきました。保有していた古いエニグマの商用機で解析を始めました。そして、見たこともないエニグマ機にある3枚のロータすべての配線をなんとか解明して見せました。

ウィリアムが率いる陸軍暗号解読班では、日本の外交暗号機パープルが生成する暗号文の解読に努めていました。
『1940年9月のある日、ウィリアム・フリードマン率いる陸軍暗号解読班がいる窓のない丸天井の部屋で、所属する2人の女性暗号解読者のうちの1人、ジュネビーブ・グローチャンが自分のデスクの前に立ち、なにかを発見したかも知れません、と男たちに話しかけた。
・・・
このときグローチャンは、これまで誰も見つけられなかった2つのパターンが見えてきた、と感じていた。』
男たちはデスクのまわりに集まってきます。
『「これだ!」とローレットが叫ぶ。「これだよ! 探していたものをジーンが見つけてくれた!」』
男たちはこの発見に興奮して笑いながら飛び跳ねていましたが、ウィリアム1人はほとんど悲しげに見えました。このときすでに、ウィリアムは精神的に病んでいたのです。

グローチャンの発見から5日後、1通の通信文が始めて完全に解読されました。
『今日、暗号史の研究者は、苦難の末に成功をものにしたという点では、パープルの突破は、アラン・チューリングのひらめきによりドイツの暗号エニグマを打ち破った功績と同等の価値があるととらえている。』
ウィリアムたちは、日本の通信文を読み解くためのパープル模造機の作製に取りかかり、完成させました。
パープル暗号を解読した解読文のうちで最高機密扱いされるものをマジックと呼ぶようになりました。日本が真珠湾攻撃を敢行したとき、在米日本大使が米大統領に手渡すべき最後通牒を、その前の日の晩にルーズベルト大統領がマジックとして入手し読んでいたことは有名です。日本は戦争終結に至るまで、パープル暗号が敵方に解読されていることに全く気づきませんでした。

以下次号
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私の履歴書~辰野勇氏(2)

2024-12-31 12:14:20 | 歴史・社会
第1報は、第1話から第9話まで、辰野勇氏の少年時代から先鋭の登山家として活躍する時代が描かれていました。
この第2報は、第10話から第19話まで、辰野氏がモンベルを創業して発展させ、カヤックの世界にも深く入っていく時代を描いていきます。

辰野勇 私の履歴書(10)独立創業メンバー(中央が筆者)
丸正産業では、製品企画がすべてうまくいったわけではありません。登山の経験を生かし、自分たちのほしいものが作れる会社を立ち上げようと考え始めました。
1975年に丸正産業を退職、大阪市の雑居ビルの一室で株式会社モンベルを創業しました。大阪あなほり会の真崎文明氏と増尾幸子氏が創業メンバーに加わりました。

辰野勇 私の履歴書(11)新素材初のヒット商品
スーパーマーケットの商品企画を行う企業に勤める友人から、新規企画のショッピングバッグの製造を依頼されました。商社時代の人脈や経験を生かして、生地調達、縫製工場手配を行い、製造したバッグは予想を超える売れ行きでした。そのおかげで初年度1億6千万円の売り上げを達成しました。この利益を使って登山用品の開発を始めることとなります。
丸正産業時代の上司、麻植(おえ)正弘さんからの情報、米デュポン社開発のダクロンホロフィルⅡという化学繊維は、軽くて暖かく、濡れてもすぐ乾く、寝袋の中綿としては画期的な素材でした。帝人がコンピュータのリボンテープ用に開発した極薄高密度素材を表地に使用しました。大阪市内の登山用品店では扱ってくれませんでしたが、東京の問屋で性能を説明すると、一挙に2千個の注文をもらいました。この寝袋は登山業界に大きな反響を巻き起こしました。
次に雨具の開発を進めました。素材にはデュポン社の合成ゴム、ハイパロンを選びました。76年に製品化し、長く売れ続けるモンベルの代表的商品となりました。零細企業のモンベルに対し、デュポン社はダクロンホロフィルⅡの寝袋使用に関する独占使用権を与えてくれました。

辰野勇 私の履歴書(12)カヤック社員旅行
1974年、丸正産業の上司、麻植正弘さんに誘われ、カヤックを始めました。初心者の段階で出場した大会で優勝してしまい、すっかりカヤックにはまりました。
アイガー北壁登攀者の高田光弘さんなどもカヤックを始めていました。高田さんから組み立て式カヤックを譲ってもらい、あちこちの川に出かけるようになります。
モンベルの社員にもカヤックを勧め、77年、はじめての社員旅行は琵琶湖に浮かぶ竹生島へのカヤックツーリングでした。ところが、帰路で三角波が立ちはじめ、2人乗り1艇が転覆してしまい、這い上がることができません。遊覧船が近づいてきて、全員引き上げてもらいました。
78年には黒部ダムに組み立て式ボートを持ち込みました。

辰野勇 私の履歴書(13)海外進出西ドイツのシュースタ
当時、日本の登山市場の規模が500億円の頃、30年後にその20%、100億円まで業績を伸ばせる可能性を検討し、海外に販路を広げることとしました。創業3年の78年夏、西ドイツのケルンで開かれた国際的なスポーツ用品の展示会を視察し、その後、ミュンヘンの老舗登山用品店「シュースタ」を訊ねました。応対してくれた初老の紳士は、ケレン・スペーカー、ヒマラヤの8千メートル峰にも登頂した登山家でした。辰野氏がアイガー北壁を登ったことを告げると、商品を検討してもらえることとなりました。その年のクリスマスイブに、注文書が送られてきました。

辰野勇 私の履歴書(14)パタゴニアヨセミテの岸壁
1980年、ドイツの登山用品店シュースタ(前掲)のパーティー会場で、米国のアウトドア衣料メーカー、パタゴニアの創業者、イボン・シュイナード氏と出会いました。ヨセミテ大岩壁を初登攀した著名な登山家でもあります。意気投合し、彼から日本の代理店をやってみないかと尋ねられました。
辰野氏が米国で彼を訪ねると、カヤックでの波乗り、ワイオミング州の岩壁での新ルート開拓、ヨセミテの岩場など、良き山仲間としての交流が深まりました。
パタゴニアの製品の日本での販売を手伝い始めます。パタゴニア製品として、ポリエステルのフリース「シンチラ」が支持を集め、一気にビジネスが拡大しました。しかし辰野氏の中に釈然としない気持ちが芽生えました。モンベル本来のアイデンティティーが失われるという不安です。
パタゴニア副社長のクリス・マックデービッドさんに、日本での販売を自分たちでやるように申し出ました。そして、パタゴニアの日本法人設立と責任者の採用面接を手伝い、互いに遺恨のない爽やかな別れとなりました。

辰野勇 私の履歴書(15)黒部峡谷初下降下の廊下の大滝をカヤックで下った
1987年、黒部川を源流から河口までカヤックで下る挑戦を始めました。渓谷の上部、「上の廊下」の初下降に挑むため、ヘリに7艇のカヤックと装備をつり下げ、河原に降り立ちました。モンベル社員の有志を中心に7人のメンバーがカヤックを漕ぎ出しました。滝の連続に行く手を阻まれ、黒部ダムの湖畔に上陸してこの年の挑戦は終わりました。
黒部ダムの下流「下の廊下」と呼ばれる渓谷の河口は2年がかりになりました。
流れは速く、転覆する艇が相次ぎました。継続を諦めた2艇を樹林帯に縛り付け、翌朝、残りの5艇で川下りを再開しましたが、落差4,5メートルの滝が連続します。この年はここで引き上げることとし、小高い岩盤にハーケンを打ち込んで5艇のカヤックを縛り付け、下山しました。
翌89年、現地に行くと、縛り付けておいた艇はすべて雪に押しつぶされていました。樹林帯に縛り付けた2艇が無事だったので、それを使うこととしました。渓谷には落差15メートルの滝があります。観察するうちに「下れるかも」と思い始めました。別の仲間はやめることとしました。辰野氏は迷った末、「いける!」と思った瞬間、迷いなく漕ぎだしました。滝壺に5メートルほど潜り、浮上したらパドルが3つに折れていました。
S字峡では返し波につかまり転覆しましたが、なんとか窮地を脱しました。そして、この年のゴール仙人谷ダムまで漕ぎ下ることができました。
その翌年、仙人ダム下から仲間と一緒に漕ぎ下り、全員で日本海に到達しました。

辰野勇 私の履歴書(16)冒険大賞画像
この回は読めませんでした。

辰野勇 私の履歴書(17)直営店最初の直営店
現在モンベルは全国に127点の直営店を展開しています。
1991年、JR西日本から、新設する商業施設に出店を要請されました。
それまで、モンベルは消費者に直接販売することはしていません。しかしそれでは、実績のない製品を店頭に置いてもらえません。直営店を出すしかないと考えている矢先でした。
もうひとつの問題は値引き販売です。市場では希望小売価格から30%近くの値引きが常態的でした。しかしメーカー直売店では値引きをするわけにはいきません。そこで辰野氏は、メーカー希望小売価格を一気に3割ほど引き下げる決断をしました。ほとんどの販売先が取引を継続してくれました。しかし「値引き」を唯一の販売手段にしてきた大型ディスカウントチェーン店は、その優位性が無くなって取引から撤退しました。

辰野勇 私の履歴書(18)海外の川下りグランドキャニオンのコロラド川
1982年、米国のヨセミテ渓谷を流れるトゥオルミー川を、辰野氏は3人の友人と下りました。パタゴニア創業者のイボン・シュイナード氏、ノースフェイスの創業者ダグラス・トンプキンス氏、それにロイヤル・ロビンス氏です。トンプキンス氏はアイガー北壁の米国人初登攀者で、ノースフェイス(The North Face)の名はこれに由来します。ロビンス氏はヨセミテの岩壁ルートを開き、自らの名をブランドにして立ち上げた人です。いずれも米国を代表するアウトドア企業の創業者であり、クライミング界のレジェンドでもあります。
米国のグランドキャニオンを流れるコロラド川の364キロを3週間かけて下りました。
ネパールのトリスリ川やマルシャンディ川を数日かけて下りました。カナダのユーコン川は、障害を持った仲間達と一緒に1週間かけて下りました。
90年代から2000年代はこんな川や海をカヤックの旅で満喫しました。

辰野勇 私の履歴書(19)モンベルクラブカタログや会報誌
1986年、「モンベルクラブ」を立ち上げ、年間1500円の会費をいただくこととしました。会報の発刊にもいたりました。
05年、創業30年当時、モンベルクラブの会員数はおよそ8万人でした。16年後の21年には100万人を突破し、現在120万人に近づきつつあります。

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中曽根康弘氏の憲法改正論

2024-12-19 21:32:14 | 歴史・社会
日経新聞 私の履歴書、12月はジェラルド・カーティス氏です。
12月17日の第16回は、中曽根康弘氏に関する思い出の記事です。
ジェラルド・カーティス 私の履歴書(16)中曽根康弘氏
米コロンビア大学名誉教授 2024年12月17日
『私が1966年に再来日して出会い、旧大分2区を舞台に「代議士の誕生」を書くきっかけを作ってくれた中曽根康弘氏は、その後も会いに行くと時間を割いてくれた。
出会いから16年後の82年には首相となり、5年にわたりその座にとどまった。
その間、国内では国鉄や電電公社の民営化を進める一方、日米同盟の重要性を唱えてロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を築くなど外交にも力を入れた。』
『強く印象に残るのが憲法改正をめぐる考え方の変化だ。2013年2月のインタビュー時にこう発言した。
「憲法の改正はだんだん遠ざかる。一般の人たちはそれほど憲法の独自性とか、誕生の秘密性とか、そういう問題はわれわれの時代には非常に強かったが、時間がたってみたら、そのような意識は殆どなくなって、中身が良いか悪いか(が大事になり)そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている。」
日本は歴史上、外のものを多く輸入、消化し、自分のものとしてきた。憲法も誕生の過程はともかく、時を経て日本国民に受け入れられたのだから全面改正の必要はなく、不都合な部分に手を入れればいい。そういう思いなのだと私は受けとめた。』

日本国憲法とその改正の方向性についての考え方、カーティス氏がインタビューで聞き出した中曽根氏の考え方は、まさに私の考える方向と一致していました。

以下に、私の以前のブログ記事を再掲載します。
憲法記念日によせて 2017-05-03
『確かに、現行憲法は、日本が連合国の施政権下にある時期に、連合軍総司令部に示された英語草案をほとんど直訳してできあがったものです。その意味では確かに異常です。
マッカーサー総司令部から示された草案ですが、私は、「米国から強要された」とは思っていません。たまたま連合軍総司令部(GHQ-SCAP)の民政局に勤務していた少数の者たちが、(自国では認められなかった)自分の理想を日本国に実現したいとの希求の元、短時間で執筆したものと理解しています。
日本国民はこの新憲法を受け入れました。そして現在に至るまで、日本国民は現行憲法におおよそ満足しているものと、私は観ています。
マッカーサーが新憲法制定を急いだ理由、そして当時の吉田総理がそれを受け入れた理由は、早く憲法改正を行わないと、当時の極東委員会から「天皇制廃止」を言い出されかねない、という事情があったからだと、確か吉田茂本人が述べていたと記憶しています。
「自国の憲法は、国が完全に独立しているときに、国民の総意で決定すべき」というのは確かにその通りです。一方、現行憲法がその原則から外れるといっても、「だから全部ダメ」とは思いません。
必要に応じて、憲法の一部を改正することはされるべきです。一部改正のチャンスが生まれるのであれば、そして、現行憲法の制定過程がどうしても気持ち悪いのであれば、一部改正のチャンスに、憲法の残りの部分について信認投票を行ってもよろしいでしょう。』
カーティス氏が聞き出した中曽根氏の意見が、私の意見の方法と一致しているのを知って意を強くしました。

一方、同じブログ記事の中に、2017年当時に同じ中曽根氏が発言した内容が記されています。
『憲法記念日を前にして自民党の会(新憲法制定議員同盟)
同じ会合で、議連の会長・中曽根元総理は、「明治憲法は薩長同盟という藩閥政治の力の所産であり、現行憲法はマッカーサーの超法規的力が働いたことを考えれば、憲法改正はその内容にもまして、国民参加のもとに国民自らの手で国民総意に基づく初めての憲法をつくり上げるという作業だろうと自覚する。」と述べていました。』

これは・・・、2013年にカーティス氏のインタビューで中曽根氏が述べた意見と異なっています。いったいどちらが本音なのでしょうか。
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年収103万円の壁

2024-11-16 09:27:13 | 歴史・社会
「年収103万円の壁」が議論されています。
共働き夫婦の一方の年収が103万円を超えると、その夫婦が合計で支払う税金が突然高くなるので、年収が103万円を超えない範囲でしか働かない、という問題と理解しています。
この問題は解決すべきでしょう。
ところが、この対策を行うと、国・地方合計で年間7兆6000億円の減収が生じる、と政府が試算しているようです。
しかし、対応策は以下のようにあるべきと思います。
「夫婦の一方の年収を、従来は103万円に抑えていた。103万円の壁が取り払われたので勤務時間を増加し、年収150万円になった。税額の増加代は、年収が103万円から150万円に増加した分に見合った穏やかな増額である。夫婦の他方の人の納税額は変化しない。また、この対象となった家族以外では、税金の増減はない。」
以上のような変化が生じたとして、税金は増える方向です。
なぜ年間7兆6000億円もの減収が生じるのか、もっと良い方策はないのか、モヤモヤしていました。

衆院選後の石破政権の課題(下) 政策実行 避けられぬ財源論
森信茂樹・東京財団政策研究所研究主幹 2024/11/15付日本経済新聞
上記記事の中にざっと意見が述べられていました。
『国民民主党は所得税の基礎控除と給与所得控除の合計を103万円から178万円に引き上げることを主張し、若者の支持を得た。・・・
一方で国民民主党の問題意識は、多く働くと税や社会保険料負担が生じて手取りが減ることへの対応だ。それなら7兆~8兆円の減収が生じ、高所得者ほど恩恵の多い所得控除の引き上げではなく、対象を中低所得者に限定し、所得に応じて税・社会保険料負担を軽減する「給付付税額控除」が有効だ。国民民主党の公約にも書かれている。』
『財源は将来世代へ負担を押しつける国債発行ではなく、資産所得を含めた高所得者への負担増、時代遅れとなった退職金税制の見直しなどが考えられる。税制は究極の構造改革なので腰を据えた議論が必要だ。』

上記だけではとても内容を理解するには至りません。しかし、年間7兆6000億円もの減収が生じるのは、ある特定の対応を取ったときの話であって、別の対応を行うことで、所期の目的を達成しつつ減収を抑えることは可能らしい、ということは理解できました。
ぜひ、このような議論を進めてほしいものです。
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朝日新聞『「未完」の辺野古』

2024-09-12 15:17:44 | 歴史・社会
9月5日~12日の朝日新聞朝刊に、『「未完」の辺野古』という連載記事(1~5)が掲載されました。このブログ記事の末尾にポイントを掲載しておきます。
普天間基地の辺野古移設問題については、このブログでも取り上げてきました。以下に概略を述べるように、2009~2014年あたりにかけてです。

今回、朝日新聞の記事と私のブログ記事を比較して読んでみました。私のブログ記事と対比して、朝日の記事に特に目新しい内容は含まれていないようです。それどころか、守屋武昌(当時)防衛次官が提起した「シュワブ陸上案」は扱いが小さく、小川和久氏が提起した「キャンプハンセン案」は登場すらしていません。残念でした。

沖縄の基地問題を論じる上では、「沖縄の声」を重視することが最重要です。ところが、「沖縄の声」には2種類があり、一つは「沖縄県民の声」、もう一つは「沖縄土建業者の声」です。
「沖縄県民の声」は、「移設先は県外」であって移設先が沖縄である限り反対です。その結果、「シュワブ陸上案」「キャンプハンセン案」は「沖縄県民の声」「沖縄土建業者の声」のいずれも反対で、合意が成立する可能性がありません。一方、「辺野古埋め立て案」については、「沖縄県民の声」は反対ですが「沖縄土建業者の声」は賛成であり、成立が可能となりました。
従って、辺野古埋め立て案については、軟弱地盤の改良でどんなにお金がかかろうと、これ以外に合意の可能性はなく、「唯一の案」となるのです。残念なことです。

辺野古にできる海兵隊基地は、普天間基地に比較すると機能が落ちます。有事の際には海兵隊の能力が十分に発揮できない可能性があります。
しかし、普天間基地は「世界一危険な米軍基地」なのですから、一刻も早くより安全な基地に移転する必要があります。
私は、海兵隊が普天間基地から辺野古基地へ移転した後も、普天間の基地機能は保有しておき、台湾有事で海兵隊の大部隊が沖縄に集結する場合には普天間を使う、というアイデアを有しています。

以下、当ブログ記事と今回の朝日新聞『「未完」の辺野古』記事のポイントとを掲載します。

--当ブログの記事-----------------------
普天間問題 2009-12-29

普天間問題の行方 2010-04-29
それまで「絶対に不可能」といわれてきた普天間返還の道筋を開いたのは橋本龍太郎政権です。米国大統領との直接交渉でとっかかりを得ると、普天間の代替地探しが始まります。嘉手納統合案からスタートし、米国から反対されるとつぎに辺野古地区に移ります。
2004年頃、守屋武昌(防衛次官)氏は「シュワブ陸上案」というのを提案するのですね。
しかし、地元では名護市の建設業者が中心になって「埋め立て案」を持ち出してきます。その背後には「埋め立てで地元の経済を潤したい」という気持ちがあったに違いないといいます。
この中で05年10月、当時の大野功防衛庁長官が頑張り抜いて「キャンプシュワブ宿営地案」で米国と合意に達しました。
その後の地元との交渉で「住宅地の近くでうるさく危険だ」という理由で浅瀬に押し戻すことが求められ、地元の協力を得る視点から額賀長官が決断し、現在の「V字型案」で06年4月に名護市長らと合意に達しました。
しかし沖縄はこれで交渉を終わらせません。小泉内閣から安倍内閣に代わり、稲嶺知事から仲井眞弘多知事に代わると、「もっと浅瀬に出してくれ」と言い始め、二枚舌とも言える交渉を主張して普天間問題の先延ばしを図るのでした。

小川和久著「普天間問題」 2010-07-25
96年6月までに、小川和久氏は普天間飛行場の移設構想をまとめ上げました。その案とは、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建設し、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジアのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという構想でした。
2005年6月、小川氏は当時の守屋武昌防衛次官と話し合います。
守屋氏はこのあと、積極的に陸上案を主張しますが、辺野古の普天間代替施設はズルズルと海側に引っ張られていき、現在のV字型滑走路案となっていきました。
『この背景には、埋め立てにからんで巨額のビジネスにありつくことができる業者の関与があった、というのが沖縄における定説です。有力な国会議員に対し、多額の政治献金が渡った結果だとされています。飛行場を海上に引きずり出し、少しでも埋め立て面積を増やそうとする動きは、最近まで続きました。』

普天間問題~05年頃に何があったのか 2010-08-08

中国の軍事力脅威と在日米軍の再編 2011-11-16

小川和久氏と普天間移設問題 2014-04-06
1996年頃、小川氏のキャンプ・ハンセン移転案は、自民党代議士と地元利権によって葬り去られました。
2010年における小川氏のキャンプ・ハンセン移転案も、辺野古埋め立てを求める地元土建業者の利権を背景に迫る官僚に、鳩山総理が負けてしまったのでしょう。

沖縄訪問(1) 2014-03-30
2014年に沖縄を訪問しました。私としては今回の沖縄訪問で、『「世界一危険な米軍基地」と、そこに隣接する普天間第二小学校』をこの目で見ておきたいと考え、レンタカーを繰って訪問しました。そのときの記録です。

普天間第二小の校庭に米軍機窓枠落下 2017-12-16
『普天間基地の近くには小学校もあり、宜野湾市の伊波前市長はいつも小学校が危ないと心配していました。日本政府も放置できず、この小学校を移転させようとしました。
ところが、驚くべきことに移転に一番反対していたのは伊波氏でした。はっきり言って、かれはこの小学校の危険性を政治的に利用していました。この小学校がなくなれば、基地に反対する材料が減ると思い、移転に反対していたのです。普天間基地は自分を政治的に引き立ててくれる存在というわけです。「基地のない沖縄」を標榜する革新系地方政治家の正体がこれなのです。』
--当ブログの記事--以上--------------

--「未完」の辺野古-----------------
(「未完」の辺野古:1)05年交渉「米海兵隊、強い反対」 辺野古移設、合意優先へ妥協
2024年9月5日
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の辺野古移設をめぐり、国の異例の「代執行」を経て、8月20日に始まった大浦湾の埋め立て工事。日米両政府が米軍キャンプ・シュワブ(同県名護市)沿岸を埋め立てて2本の滑走路を「V字形」に配置する現行案に合意したのは、2006年5月のことだ。合意に先立つ05年当時の交渉は、緊迫した雰囲気に満ちていた。

(「未完」の辺野古:1)V字形、机上の折衷案 軍事的観点よりも、政治的調整を重視
2024年9月5日
『(1面から続く)
辺野古移設をめぐる日米合意の舞台裏。日本側の事情はどうだったか。
2005年夏、防衛庁(現防衛省)の守屋武昌防衛次官(当時)は、米側交渉代表のリチャード・ローレス国防副次官(同)から手渡された1枚の図面に目を奪われた。名護市辺野古の南方沖合の浅瀬を埋め立てる案(通称「名護ライト案」)の図面だった。
埋め立て案に後ろ向きだった守屋氏は、米側にはしごを外された感覚だった。複数の防衛庁幹部らは「名護ライト案」は地元の建設業者らの意向を反映しているとみていた。米国の大手建設会社も関わり、自民党の大物議員や外務省も支持していたという。
守屋氏は当時、海の埋め立てに反対していた。環境破壊が理由ではない。市民団体の海上抗議活動によって代替施設の建設が実現しないことへの恐れだった。
守屋氏らが推していたのが、米軍キャンプ・シュワブの敷地内での建設案(通称「シュワブ陸上案」)だった。』
米側が突然持ち出した「名護ライト案」はほどなくして消えます。その後、陸上案によりつつ、辺野古崎に面した部分を占め立てる折衷案(「L字案」)で妥協、さらに「L字案」を海側へ300mずらした、現行の「V字滑走路」案に決まりました。
『日米合意の経緯を検証すると、建設する基地の軍事的観点からの検討とは異なり、関係者間の意見調整という政治的側面が最重視されたことが分かる。それでも、ある沖縄防衛局長経験者はこう総括する。「多くの関係者が関わる中、それぞれ多少の不満はあれど、それなりに収まった多元連立方程式の解だった』

(「未完」の辺野古:2)「大浦湾に手を付けると…」
2024年9月6日
『2009年9月、政権交代の熱気が日本中を覆う中、防衛相に就任したばかりの北沢俊美氏は執務室で頭を抱えた。「これは混乱するな……」
2カ月前、民主党の鳩山由紀夫代表(当時)は米軍普天間飛行場の移設先について「最低でも県外」と表明。北沢氏は「党内的な議論はなかった。鳩山さんが大きな石を投げた感じだった」と振り返る。』
政権交代当時、北沢氏は防衛省内である警告が耳に入っていたと証言します。
「大浦湾に手を付ければ、大変なことになる。」
まだ「軟弱地盤」は確認されていませんでしたが、大浦湾は水深が深いため、予算が巨額に膨らむことが避けられない、とのことです。
その後、自民党政権で軟弱地盤が発覚し、関係予算は1兆円弱に積み増されました。
『日米両政府は自民党の政権復帰以降、辺野古移設を「唯一の解決策」と強調するようになった。ある防衛省幹部に予算の膨張を尋ねると、こんな答が返っていた。
「そんなことを今から心配してもしょうがない。辺野古への移設は、米国が『必要ありません』といわない限りは絶対に続いていく。どんなに時間やカネがかかろうとも」』

(「未完」の辺野古:3)「見直しはパンドラの箱」
2024年9月10日
『2009年の政権交代後、米軍普天間飛行場移設の「最低でも県外」を掲げた民主党鳩山政権のもと、米政府もいったんは辺野古の「V字形滑走路」の現行案見直しに取りかかった。ただ、この経験は、米側には「苦い記憶」として残る。』
「残念だった。振り出しに戻ってしまったからだ」。当時、米国防次官補を務めたウォレス・グレグソン氏は当時の心境をそう振り返ります。
『グレグソン氏は「V字形滑走路」の現行案が近隣住民の理解も得られているものとして、政治的には「最善の策」だったと語る。ただ、辺野古基地については、滑走路の短さや「軟弱地盤」といった問題から、軍事的な有用性を疑問視する声は海兵隊内からもたびたび上がっていた。』
『米政府が辺野古移設推進をやめる考えがないのは「見直しは、再び『パンドラの箱』をあけることになる」(元国防総省高官)からだ。』
『現行案を再び振り出しに戻せば、地元沖縄県の反発もさらに強まる懸念があると指摘』

(「未完」の辺野古:4)「首相は米に要求する勇気を」
2024年9月11日
鳩山政権の「県外移設」の迷走後、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先が再び現行案に戻ると、政府は辺野古移設を「唯一の解決策」と繰り返すようになった。だが、米海兵隊内部の不満は今もくすぶる。
2009~15年、沖縄で米海兵隊太平洋基地政務外交部次長を務めたロバート・エルドリッチ氏は「私の付き合いのある海兵隊の中で評価する人はゼロだ」と言い切る。

(「未完」の辺野古:5)「戦略的に重要」は後付け
2024年9月12日
『巨額の税金を投入し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を進める日本政府。その姿は、沖縄からどう見えているのか。米軍基地問題に詳しい我部政明・琉球大学名誉教授(国際政治学)に聞いた。』
『中国が台頭した結果、米海兵隊が、部隊運営に支障がない普天間を使い続けたいと思っているのが、沖縄にいるとよく分かります。』
『米側が「辺野古では部隊運用が不十分」と考えれば、普天間を使い続けようとする可能性はある。』
--「未完」の辺野古-以上----------------
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定額減税、事務負担重く

2024-05-30 15:20:48 | 歴史・社会
定額減税、事務負担重く
自治体、追加給付の対象特定 企業は扶養親族再確認
2024年5月30日 日経新聞
『政府が6月に定額減税を始めるのを前に、実務を担う地方自治体や企業は煩雑な事務作業に苦心している。減税額の計算や対象者の特定などを迫られているためだ。納税者本人と配偶者らを含む3200万人程度には減税と給付の両面から対応しなければならない。
定額減税は国の所得税を1人あたり年3万円、自治体の住民税を同1万円差し引く。会社員や公務員といった給与所得者の場合、6月以降の給与とボーナスの納税額を減らす。』
『住民税の非課税世帯など低所得層の1700万~1800万世帯は減税による恩恵を受けられないため、代わりに1世帯あたり10万円を軸に給付する。
・・納税額が少なく4万円分を減税できない世帯には給付を組み合わせる。4万円に足りない分を1万円単位で切り上げて給付する。』
『減税と給付を組み合わせる対象者は3200万人ほどとされる。給付の実務は市区町村が担う。』
『源泉徴収している企業の負担も重い。・・・定額減税の対象者数の把握には扶養親族の再確認が欠かせない。
給与明細には所得税の減税額を明記するよう義務づけられた。』

「減税」といいながら、何千万世帯もが減税と給付の組み合わせ、あるいは給付のみになる、という煩雑さです。そして市区町村は、給付が生じる世帯を割り出して連絡し、本人に銀行口座を含めて申告してもらわなければなりません。それを6月までに終える必要があります。

地方自治体と各企業での事務負担量の増加は半端なさそうです。これを経費に換算したら、大変な金額になるのではないでしょうか。

最近のテレビでのニュース番組では、定額減税の問題が大きく取り上げられています。
しかし、今回始まる制度で、このような問題が生じることについては、税務に携わる人であれば容易に把握できたはずです。主管官庁ならなおさらです。なぜ、このような制度の新設が提案されたときに、「このような問題が生じるので、定額減税はやめるべきだ。給付オンリーの制度とすべきだ」と進言しなかったのでしょうか。
最近の官邸主導の行政では、官邸から政策が降りてきたとき、問題点を指摘することなく、制度が成立して実施段階で大問題が生じても「ざまーみろ」という態度を取っているようです。
今から4年前、菅次期政権による霞ヶ関支配 2020-09-14において私は以下のように記述しました。
片山善博氏(元総務大臣)曰く『かつての官僚組織には問題もありましたが、プロフェッショナルとして国民に奉仕するという気概を持った方もたくさんいました。内閣人事局が悪用されている現在よりも過去の方が相対的にマシです。
役所のいいところを潰してしまいました。今の霞が関の雰囲気はこうです。国民のためではなく政権に言われたことをやる。それで失敗したら官邸のせいにして留飲を下げる。国民のためにならないのであれば、直言する気骨が失われてしまいました。』」

今回の定額減税制度についても、上記のようないきさつで馬鹿げた制度が成立してしまったのでしょうか。
上記記事を書いてから4年近くが経過しますが、霞ヶ関の劣化状況は改善されていないようです。

報道機関も報道機関です。ちょっと専門家の意見を聞けば、このような問題が生じることはすぐに判明するはずです。立法の段階で問題点を大々的に報道すべきでした。それが今になって、このような問題点を指摘されても後の祭りです。
日本の報道機関も劣化が激しいですね。
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