弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

政府事故調・水素漏れ経路の再現実験断念

2012-05-30 20:56:34 | サイエンス・パソコン
5月29日の日経朝刊に以下の記事が掲載されました。
政府事故調、再現実験を断念 畑村委員長
2012/5/28 22:21
『政府の東京電力福島原子力発電所の事故調査・検証委員会の畑村洋太郎委員長は28日、会合後の記者会見で、事故時の様子などを再現する実験を断念したことを明らかにした。
畑村氏は「時間と人員(の制約)でできなかった」として、水位計の誤表示や水素漏れの経路について「少なくともこういう現象が起こったはずだと言えないまま終わりそうだ」と述べた。その上で「こう考えるのが一番良いのではないかという表現の方法で、やれるところまで表現したい」と話した。
再現実験は事故の正確な原因解明につなげる狙いで、畑村委員長が実施に意欲を示していた。』

昨年3月12日の1号機の水素爆発、13日の3号機の水素爆発については、それぞれ、各号機の圧力容器で発生した水素ガスが、まず格納容器に漏れ出し、何らかの経路で建屋に充満し、それが爆発して建屋の爆発に至ったことは明らかです。
ところで、格納容器から建屋までの水素漏洩の経路については、2説あります。

《第1説》
格納容器の圧力が上がり、格納容器の気密が破られ、格納容器のいずれかから水素を含むガスが漏れ、そのまま原子炉建屋内を上昇し、建屋上部に充満して爆発に至った。
《第2説》
格納容器のベントを行った際、格納容器から排出されたガスが排気管を経由して排気煙突に至るまでの過程で、水素ガスが排気系を逆流し、建屋上部にいたって爆発の原因となった。

新聞などの論調を見る限りは、第1説が多数説であるようです。東電などはこの説に立っているでしょう。
一方、われわれ(このブログで意見を発表されたxls-hashimotoさん及びこのブログのブログ主)は、第2説に依っています。例えば、去年6月4日のブログ記事「水素爆発とベントの関係」で議論しています。そうそう、朝日新聞の板橋洋佳記者も第2説支持者ですね。

第1説に立てば、「水素爆発が起きたのはベントが遅れたからだ。もっと早くベントしていれば、水素爆発は起きなかった。」という結論が導かれます。
一方、第2説に立てば、「ベントをする限り水素爆発は免れなかった。もっと早くベントしていれば、もっと早く水素爆発しただけだ。」という結論になります。

今回の政府事故調の畑村委員長の発言から推し量ると、政府事故調は、上記第1説と第2説のいずれが正しいか現時点で結論に至っていないということのようです。そして政府事故調は、結論を出すために再現実験を企画したのでしょう。しかし、時間と人員の制約で断念したのです。

この推論が正しければ、政府事故調の最終報告書では、「水素爆発の原因となった水素の経路については、最も可能性が高いのはこの仮説だ」という程度しか記述されないのでしょう。

ところで、4号機も昨年3月15日の朝に水素爆発しています。4号機では水素ガスが発生する原因がありません。一方、3号機と4号機は、排気ガスの排気煙突を共用しています。4号機の水素爆発の原因となった水素ガスについては、3号機のベントで排出された水素ガスが排気煙突にいたり、そこから4号機の排気配管を逆流し、4号機の建屋にいたり、そこに充満して爆発した、という推論が立てられています。
3号機からの水素ガスが4号機の配管を逆流するぐらいですから、3号機の排気管を流れる水素ガスが、どこかの合流管で逆流して建屋に充満することは十分にあり得る話です。
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サウンド・オブ・ミュージックを訪ねて(3)

2012-05-25 18:57:00 | 趣味・読書
第2回に引き続き、映画の進行に従って今回の旅の記録を紹介します。
 

《結婚式場-モントゼー教会》
マリアと大佐の結婚式を撮影した教会は、モントゼーにある教区教会です。
ザルツブルクからは路線バスで所要50分、間隔は1時間に1本、ザルツブルク中央駅を始点として走っています。我々はホテルのフロントでバスの時刻を確かめ、タクシーで中央駅に向かい、そこからバスに乗りました。乗車券は乗るときにバスの運転手から購入します。
走り出してわかったのですが、バスはミラベル広場に停車したのです。これだったら、ホテルから歩いてミラベル広場へ行き、そこからバスに乗ることが可能でした。

バスは丘陵地帯を走ります。到着したモントゼー、停留所を降りても教会は見えません。行き先表示もありません。近くに見かけた人に聞きながら、教会に行き着きました。
  
それでは、映画の場面を中継することにしましょう。
映画では、修道院と教会が隣接しています。マリアがウェディングドレスを身につける修道院、鉄格子の扉を通って修道院から教会へ向かう場面、いずれもセットであり、実在とは異なります。
教会の祭壇近くには大佐がこちらを向いて待ち構えています(下写真)。
 
マリアは、長女に先導されながら、中央の通路を前へ進みます(下写真)。
 
大佐が待つ祭壇前に向かって、マリアが階段を上がっていきます(下写真)。
 
マリアと大佐は手を取り合って、祭壇前にひざまづき、司祭から祝福を受けます(下写真)。
 
映画において、なぜこの教会がロケ地に選ばれたのでしょうか。
私は、祭壇前の階段がポイントだと思います。祭壇前にこのような階段が設けられた教会というのは、あまり数がないように思います。監督は、マリアがこの階段を上がって大佐と手を取り合う場面を、どうしても入れたかったのでしょう。

《ナチス化したザルツブルク》
マリアと大佐が新婚旅行に行っている間に、オーストリアはナチスドイツに併合されてしまいました。ザルツブルク旧市街にあるレジデンツ(下写真)の正面玄関上にはナチスのカギ十字が掲げられました。そのレジデンツを背景として、レジデンツ広場をナチスの隊員が整列行軍しています。
 
レジデンツ

ザルツブルクの人たちは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」が嫌いだということです。「内容がウソばかりだから」ということだそうですが、レジデンツにハーケンクロイツ旗を掲げての撮影には我慢ができなかったことでしょう。

二人が新婚旅行中、二人に黙って子供たちが音楽会に出演することになり、会場で練習します。その会場は、祝祭劇場とつながった会場で、フェルゼンライトシューレと呼ばれています。映画の撮影時には屋根がなかったのですが、今は屋根が設置されて屋内になっているようです。
この会場を訪問しようと思ったのですが、われわれが訪れたときは中に入ることができませんでした。
 
 ↑フェルゼンライトシューレを含む祝祭劇場
  (メンヒスベルクからの遠景)     
  
フェルゼンライトシューレ北端に隣接する階段↑
ps 6/3 本日、映画を再度通しで見ました。トラップ夫妻が新婚旅行中に、ナチス地方長官が車で音楽祭会場に乗り付ける場面があります。その場面、まさに右上の写真の場所でした。この写真の右下に見える渡り廊下の下を通って自動車で乗り付け、車を降りて会場に入っていきました。左下にある入口のすぐ中側が、会場になっているようでした。

祝祭劇場全体のガイドツアーが催されており、それに参加すると同時にフェルゼンライトシューレも見ることができるようです。今回はこの部分をパスしました。

《ナチスから逃げる》
音楽会会場から逃走したトラップ一家は、ノンベルク修道院に逃げ込みました。ナチスも修道院に捜索に向かいます。
ナチスの乗用車2台が修道院に乗り付ける場面、やはり私が訪問したノンベルク修道院が実際に使われていました。ナチスのクルマは、下写真の左にある下から上がってくる道路(下の写真では人影が見えます)から上がってきて、写真右の通用門に乗り付けました。
 
ノンベルク修道院 入口

修道院の人たちは、トラップ一家を墓地に隠すため、時間稼ぎでゆっくりと通用門の鍵を開けます。まさに下の写真の扉でした。
 

修道院長はトラップ大佐に、国境は封鎖されたようだと告げます。大佐は、修道院の外に見えている山を眺めながら、「途中で車を捨て、徒歩で山越えを」(字幕)とつぶやきました。

ノンベルク修道院の入口(2つ上の写真)から遠方を眺めると、平野の彼方に急峻な山がそびえています。ネット情報によるとウンタースベルクという山のようです(下写真)。映画の画面と見比べました。山頂付近の様子が微妙に異なりますが、全体の雰囲気としては似ていました。映画もウンタースベルクが対象だったのでしょうか。ただし、ウンタースベルクはもちろん国境の山ではありません。
 

トラップ一家は、車に乗ってノンベルク修道院から逃走します。上の「ノンベルク修道院 入口」の写真において、中央奥にアーチの出入り口が見えます。車はここを通って中から出てきました。そしてそのまま、写真の手前に走り去りました。私が歩いた道です。車はまず、ノンベルク修道院の最初のアーチ門(下写真)をくぐったはずです。
 
そして道を下るとカピテル広場に到達します。その後、どのような道を辿って国境の山に至ったのか、その辺の設定はわかりません。

上に掲げた地図で、ホーエンザルツブルク城塞へのケーブルカーの乗り口付近に「ザンクトペーター墓地」が記載されています。下の写真のような墓地が並んでいます。ガイドブックでは、このザンクトペーター墓地が、トラップ一家が隠れた場所だと書かれています。まあ、墓地のデザインを参考にはしたでしょうが、この墓地が隠れ場所だというのには無理があります。
 
ザンクト・ペーター墓地

《今回訪問できなかった映画の撮影場所》
○ 冒頭の場面でマリアが歌っている高原
 木之下晃&Tomoeさんが書いた「ザルツブルク 永遠のサウンドオブミュージック」では、冒頭場面の高原を探すために木之下さんは大変な苦労をしました。最終的に見つけることができましたが、その場所はドイツにありました。私有地でもあるため、木之下さんは本の中で正確な地名を記載していません。

○ トラップ大佐の邸宅
 ザルツブルクの南に位置するレオポルツクロン城が、その場所といわれています。ただし、城の門と、城の前に広がる湖が撮影対象でした。
ps 6/14 私は、ホーエンザルツブルク城塞の上から南方向を撮った写真の中から、レオポルツクロン城を見つけました。左下写真の右上の当たりです。拡大した写真が右下写真です。
  
 映画の中の邸宅の外観は、レオポルツクロン城とは異なっています。ヘルブルン宮殿の近くにあるフローンブルク宮殿がそれだということです。

○ 庭園のガラスの家
 トラップ家の長女と郵便配達の青年が愛を語らい、マリアと大佐が愛を確かめ合ったあのガラスの家です。現在はザルツブルク郊外のヘルブルン宮殿に設置されています。

○ 登山鉄道
 ザンクト・ヴォルフガングにあるシャーフベルク登山鉄道です。

○ 登山鉄道で登った高原 ドレミの歌を歌った。
 シャーフベルク登山鉄道で登った場所ではありません。この場所も、木之下さんたちが苦労して見つけました。
 ザルツブルクから南へ44キロほど行ったところにヴェルヘンがあります。映画場面のバックに映っている丘の上の城は、ヴェルフェンにあるホーエンヴェルヘン城だと判りました。木之下さんたちはその付近をくまなく車で探索し、最終的に撮影地を見つけ出したとのことです。

○ ラストシーンで徒歩で国境を越える山
 木之下さんの本によると、ロシュフェルド峠ということです。
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サウンド・オブ・ミュージックを訪ねて(2)

2012-05-23 20:18:53 | 趣味・読書
第1回に引き続き、映画の進行に従って今回の旅の記録を紹介します。
 

前回は、子供たちの遊び着としてカーテンを生地に服を作り、大佐の留守中にその服を着せて遠足に出かけた場所を追跡するところまででした。

《子供たちと遠足-2》
映画では、さらにザルツブルク市内を歩き回る場面が続くのですが、子供たちの服装が違います。カーテン地の洋服から普通の洋服に替わりました。

最初の場面は、旧市街と城塞を背景とする高台からです。下の写真の場面です。メンヒスベルクのエレベータを上がったところの展望台で撮ったのでしょう。
 
メンヒスベルク

次の場面からはザルツブルクの新市街です。新市街はザルツァッハ川の北側に広がっています。新市街といっても、その中心にミラベル宮殿、ミラベル庭園があります。ミラベル宮殿は1606年、ときの大司教が愛人のために建設したのが最初であり、その当時はまわりに何も街がないところに宮殿と庭園を建造したようです。

ペガサスの噴水は、ミラベル宮殿の正面に位置しています。映画では、この池のへりをマリアと子供たちが走り抜けます。ミラベル宮殿から撮影したのでしょう。下の写真は同じ場所を反対側から撮影したもので、背景がミラベル宮殿です。
 
ミラベル庭園 ペガサスの噴水

続いてバラのトンネルです。今回の旅で私たちはあやうく見逃すところでした。地図の門1からミラベル庭園に入りました。家内が「日陰に行こう」ということで左端に向かったのですがまさにそこがバラのトンネルだったのです。、
 
バラのトンネル

映画では、バラのトンネルの次の場面が下の写真でした。地図の「門1」です。両側の門柱の上に人が腕を振り上げている彫刻があるのですが、残念なことに、彫刻は日陰で目立ちませんでした。この場面を撮影するのは午前中が良さそうです。
 
ミラベル庭園入口(南東端)

マリアと子供たちは再度ミラベル庭園に戻り、北端の門に至ります。地図の「門2」です。中央にペガサス噴水と花壇、左にミラベル宮殿、はるかかなたの山の上にはホーエンザルクブルク城塞が見えます。マリアと子供たちは、歌いながらこの門の階段を上ってきました。
 
ミラベル庭園入口(北端)

トラップ大佐が、男爵夫人を連れて邸宅に帰ってきました。
それから大佐邸を舞台として、マリアと子供たちのボートが転覆、人形劇、大パーティーと続き、パーティーの途中でマリアが突然に邸宅を飛び出してノンベルク修道院に帰ってしまいました。

《ノンベルク修道院》
映画での修道院の内部についてはスタジオセットだろうといわれています。
一方、修道院の外、入口の部分については、実際のノンベルク修道院が使われています。この修道院を今回私は訪問しました。
ホーエンザルツブルク城塞にケーブルカーで登った後、帰りは坂道を歩いて降りました。その途中、下り道はヘアピンで折れ曲がるのですが、曲がらずに真っ直ぐ行く道が続いています。この道が、ノンベルク修道院への道でした。

たどり着いた先の風景は、トラップ家の子供たちが、修道院に戻ったマリアに会いたくてやってきた修道院の景色そのものです(下写真)。写真の右端に見えている通用門が、子供たちがたどり着いた門です。前方はるか高くにはホーエンザルツブルク城塞がそびえていますが、木の葉が邪魔して写真ではよく見えません。この木の葉のみが、撮影時との相違点でした。右下の花壇の木柵も含めて、撮影時のままの風景が広がっていました。
 
子供たちが門前払いを喰わされた門扉も、映画の中と全く一緒です(下写真)。
ps 6/3 映画では、入口アーチの右側に呼び鈴用の紐が下がっていて、子供たちがその呼び鈴を鳴らしていましたが、実物の修道院には呼び鈴用の紐はありませんでした。
 

院長と話し合ったマリアは、トラップ家に帰ることになりました。マリアと大佐はすぐに愛を確かめ合いました。その現場である庭のガラスの家ですが、現在はヘルブルン宮殿の庭園に設置されています。今回は訪問しませんでした。

以下次号
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金環蝕

2012-05-21 19:42:51 | サイエンス・パソコン
世紀の金環蝕ショー、東京でも何とか薄雲を通してその姿を垣間見ることができました。

2009年の部分日食に際して日食眼鏡は購入済みでした。そのときは曇りで不発に終わったのですが、今回に備えてその日食眼鏡をずっと保管してあったのです。
昨日の天気予報は悲観的な予報だったので、半分は諦めていました。そのため、準備する積もりにしていたピンホールも作らず、まあ、ダメ元で7時に起きてみようということで目覚ましだけはかけておきました。
どこで観察できるのかについても、“家の前の道路に出て観察することになるだろう”程度の予測でした。

さて、目覚ましが鳴ったのでリビングに行ってみると・・・。東側の窓から太陽が見えます。隣家の屋根の上まで太陽が昇っていたのです。こりゃ楽だ、家の中から観察できる。さらに、曇ってはいますが、雲が薄くなる瞬間もあり、運が良ければ金環蝕も観察できそうです。

それではということで、ピンホールも作ることにしました。まさに泥縄です。
A3のコピー用紙を持ち出し、孔を明けました。突然でもあり、どの程度の直径の孔を明ければ好適かもわかりません。孔を明ける工具もありません。太めの爪楊枝を使って紙に孔を明けました。従って、孔の直径も、爪楊枝の太さで決定です。

セロテープでピンホールを東側の窓ガラスに貼りつけ、準備OKです。


部分日食の間、リビングの床にもう1枚のA3コピー用紙を置き、針穴を通しての木漏れ日日食を写し出しました。次にデジカメのセッティングです。日食の周囲が明るすぎるので、オート露出を「-2」に設定しました。撮ったのが下の写真です。


いよいよ金環蝕の瞬間がやってきました。光量が減ったので、スクリーンを床に置いたのでは距離が遠すぎ、うまく映りません。ピンホールからの距離を近づけ、写した写真が下の写真です。


コントラストの良好な写真を撮影しようとしたら、部屋をもっと暗くしてキャメラ(暗い部屋)にすべきでした。今回は、どのような観測になるのかがわからなかったので、起き出したと同時にすべての雨戸を開けてカーテンも開けました。後から考えたら、東側の窓を除いて雨戸を閉め、東側の窓も針穴を除いてはカーテンで遮光すべきでした。
ピントについても、オートフォーカスがなかなか決まらないので苦労しました。私のカメラ(Canon PowerShot S95)には「全手動(フルマニュアル)」モードがありますから、フォーカスも手動として撮影する手もありました。
しかしすべて後知恵です。次のチャンスは与えられていません。

ところで、マスコミはすべて「金環日食」と呼んでいます。私はどうしても「金環蝕」にこだわりたいですが・・・。

p.s. 写真のコントラストを若干修正しました。
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サウンド・オブ・ミュージックを訪ねて(1)

2012-05-20 21:13:29 | 趣味・読書
今年のゴールデンウィークは、家内とオーストリア・ザルツブルクを中心に回ってきました。
ザルツブルクといえば映画「サウンド・オブ・ミュージック」です。今回は、映画の場面を追体験することを大きな目的としました。
出発前に映画のDVDを購入し、各場面をスチール写真として旅行に持参しました。この写真と実際の風景を照らし合わせながらの探索です。

映画「サウンド・オブ・ミュージック」のロケは、ザルツブルクを中心に行われたわけですが、そこばかりではありません。
ザルツブルク 永遠のサウンドオブミュージック
クリエーター情報なし
東京書籍(株)
上の本は、木之下晃&Tomoe氏が、丹念にロケ地を探した記録と写真集です。この本を読んだ結果、各場面のだいたいのロケ地についてはめどが付きました。
ただし、ザルツブルク宿泊3泊の短い旅ですから多くを回ることはできません。歩き回ることの可能なザルツブルク市内をメインとし、郊外としては、モントゼーのみを訪問しました。モントゼーには、映画での結婚式の会場として使われた教会があります。
そのため、上記木之下さんの著書は、私たちの今回の旅では直接役に立った部分はありませんでした。

それでは、映画の進行に従って今回の旅の記録を紹介します。
 

映画は冒頭、高原で歌うマリアの場面が映された後、「オーストリア ザルツブルク 1930年代 最後の栄光の時」とのフリップとともに、ザルツブルクの遠景が写し出されます。
 
メンヒスベルクの展望台から

上の写真は、メンヒスベルクのエレベータを上がった展望台から撮したものです。山の上にそびえるのがホーエンザルクブルク城塞です。山のふもと、城塞の左側にいくつもの尖塔が立っています。このあたりが、大聖堂やレジデンツなどを中心とする旧市街の主な建物群です。写真の右下に祝祭劇場の建物が見えます。

続いてマリアが入っているノンベルク修道院(尼僧院)です。上の地図では右下に位置しています。
今回宿泊したのはザッハー・ホテルです。部屋は川に面した3階で、ベランダ付きでした。そしてそのベランダからは川の南に広がる旧市街と山上の城塞が一望できるのです。さらに幸運なことに、このベランダからノンベルク修道院を望むことができました。下の写真です。
 
ノンベルク修道院

映画に登場した映像と同じ角度からの撮影となりました。ただし映画では、修道院の前に広がる市街が映っていません。おそらく、上の写真の右に見えている尖塔の上あたりから撮影したものと想像されます。

《修道院から大佐邸へ》
マリアは修道院長から、トラップ大佐邸に家庭教師として向かうことを告げられます。それでは、修道院から大佐邸に向かうマリアを追いかけてみましょう。
ps 6/3 マリアが修道院を出る場面、ノンベルク修道院がロケ地として使われていました。私は、修道院の外から眺めただけでした。扉は開いていたので、このとき扉の中に入っていれば、修道院の内部を撮した映画の場面と遭遇できたはずですが、それをのがしたのは残念でした。下の写真が修道院出入り口部分です。
 
修道院を出たマリアは、どこかの高台の道を歩いています。この場面がどこで撮影されたかは最初わかりませんでした。
映画でコンサート会場として使われたのは、フェルゼンライトシューレという会場で、祝祭劇場の一部です。そのフェルゼンライトシューレの中に何とか入れないかと、その場所の周辺をうろうろしました。崖の縁に階段があったので登ってみました。
  
階段を上がったところ(上の地図の「高台」)からは、旧市街の教会群が見えます。思わずシャッターを押しました(下の写真)。そしてホテルに帰ってから調べてみたら、何とこの高台からの眺めが、撮影された背景とぴったり一致していたのです。スチールには「経験したことのない冒険に」との字幕が映っていました。
 
フェルゼンライトシューレ階段上

次の場面は、ドーム広場からレジデンツ広場へとつながるアーチです(下の写真)。映画と同じ角度から撮したかったのですが、撮影ポイントに馬車がたむろしていたためにできませんでした。字幕には「後戻りはできない」とあります。
 
 ドーム-レジデンツ

レジデンツ広場には噴水があり、その前をマリアが通過します。馬が口から水を噴出しており、背景はレジデンツです。字幕は「真心で努めるの」でした。
 
 レジデンツ前

最後は、カピテル広場です(下の写真)。遠景はホーエンザルツブルク城塞、映画の字幕は「皆はきっと私を試すわ」でした。
 
 カピテル広場

トラップ大佐邸に到着したマリア、子供たちとはすぐに打ち解けました。子供たちの遊び着としてカーテンを生地に服を作り、大佐の留守中にその服を着せて遠足に出かけました。
《子供たちと遠足-1》
最初の場面はモーツァルト小橋です。
 
モーツァルト小橋
  

続いてドーム広場。ドーム(大聖堂)を背景としています。
 
ドーム広場

昔、ここで馬を洗ったらしいです。映画では箱形の自動車が走っていましたが、もちろん現在は現代の車が走っています。
 
馬の洗い場

大学広場では、毎日青空市場が開かれているようです。われわれが訪れたときは昼前後で、もう店じまいしかけていました。映画ではここで、マリアが果物でお手玉をします。映画と同じ背景の建物を探しましたが、見つかりませんでした。
  
大学広場 グリューンマート

このあと、一行は登山電車に乗って山にピクニックに出かけますが、今回のわれわれの行き先には入っていません。

以下次号
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日本はシリア停戦監視団派遣を断った

2012-05-18 22:40:14 | 歴史・社会
日本政府、シリア監視団への派遣要請を断る
日本テレビ系(NNN) 5月18日(金)18時13分配信
『シリアで活動する国連の停戦監視団への要員の派遣について、日本政府は「派遣しない」という判断を国連に伝えた。
国連は現在、シリアに非武装の停戦監視団を派遣しているが、部隊を拡大させるため、日本を含む各国に要員の派遣を求めている。西田恒夫国連大使は17日の会見で、「要請には応えられないと国連に伝えた」と述べ、日本政府として派遣はできないと国連に回答したことを明らかにした。
シリアでは監視団の派遣が始まった後も衝突が続いていて、日本政府筋は「治安状況が改善に向かっているとは言い切れない中で、今回の派遣は難しい」としている。』

「シリアに非武装の停戦監視団を派遣」ですか。いったいどのような活動なのでしょうか。
非武装の軍事監視団というと、私は伊勢崎賢治氏を思い浮かべます。このブログの中では以下のように記事にしてきました。
自衛隊施設部隊が南スーダンPKO派遣》2011-10-15
『伊勢崎氏が主導したアフガニスタンDDRでも、軍事監視団の問題がありました。私がアフガン復興で日本がやってきたこと(2)で書いたように、DDR推進に際し、中立の軍事監視団が存在しませんでした。通常の国連活動であれば、非武装の軍事監視団が現場に駐在し、極めて権威ある活動を行います。
このような非武装の軍事監視団に日本の自衛官が参加できれば、これほど日本の自衛隊にふさわしい活動はありません。伊勢崎氏は当時、日本政府に要請しましたが、まったく反応がありませんでした。結局、お金は日本が出し、国連アフガニスタン支援団の軍事顧問チームを監視員として借り受け、伊勢崎氏が団長になって監視団を組織しました。伊勢崎氏の任期は1年でした。軍事監視団はNGO(日本地雷処理を支援する会)の園部宏明氏に引き継がれました。』

アフガニスタンに陸上自衛隊派遣?》2008-06-15
『日本が担当した「武装解除」活動において、活動を見守る軍事監視団が結成されます。非武装の軍人が当たります。武器を持っている軍閥から、非武装の軍事監視団が監視して武器を取り上げるというわけで、勇気のいる仕事です。2003年当時、日本の自衛隊がこの軍事監視団に加われば、名誉ある地位を得ることができたでしょうが、伊勢崎氏の進言にもかかわらず、日本政府は一顧だにしませんでした。』

日本が外国に自衛隊を派遣する場合、常に「武器使用基準」が問題になります。活動の場の治安状況から考えて必要な武器使用ができない状況では、当然ながら自衛隊を派遣することはできません。
それに対して停戦監視団は《非武装》です。丸腰で行くのですから、武器使用基準は問題になりません。もちろん非武装ですから、武装集団に襲われて殺害される危険がつきまとうでしょう。それだけ崇高な任務であり、各国は国連からの要請で高級将校を監視団員として派遣していると思われます。

今回、国連は日本に対して停戦監視団への要員派遣を要請したのですね。それに対して日本政府は断りを入れたようです。
「世界平和を守るためには危険はつきもの。その危険に飛び込んでこそ、世界から尊敬される。」という図式が恐らくあるはずです。日本はそのような価値観を世界と共有することを放棄したのでしょう。

同じ日本人でも、警察官、消防士、海上保安官などは、常に危険と隣り合わせの職務を遂行されています。毎年、殉職される方も一定の人数でいらっしゃるはずです。私たちはそれに対して、ありがたく感謝するとともに尊敬しているのです。何で、自衛官のみは危険な職務に就くことが許されないのでしょうか。
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2006年に福島大津波が予測されていた?

2012-05-15 22:31:45 | サイエンス・パソコン
福島第一の電源喪失リスク、東電に06年指摘
読売新聞 5月15日(火)13時47分配信
『枝野経済産業相は15日、閣議後の記者会見で、経産省原子力安全・保安院が2006年に、福島第一原子力発電所が津波によって全電源喪失に陥るリスクがあることを東京電力と共有していたことを明らかにした。
14日の国会の原発事故調査委員会で、参考人として招致された勝俣恒久会長はこの事実について、「知らない」と回答。枝野経産相は「共有されなければ、意味がない」として、会議内容の公開も検討するとした。
枝野経産相などによると、04年のインド洋大津波で、インドの原発に被害が発生したことを受け、保安院が、独立行政法人「原子力安全基盤機構(JNES)」、東電などとの合同会議を開催。福島第一原発に高さ14メートルの津波が襲来すると、タービン建屋が浸水し、全電源喪失に陥る可能性が指摘されたという。東電は08年にも国の見解に基づき、15・7メートルの高さの津波を試算していたが、対策には生かさなかった。』

国会の原発事故調査委員会(以下「国会事故調」)で、委員から勝股会長に対してこの質問が出たようです。

原発事故調査委員会として、上記「国会事故調」のほかに、政府の事故調査・検証委員会(「政府事故調」)、福島原発事故独立検証委員会(「民間事故調」)が並列して走っています。
政府事故調は昨年12月に中間報告を発表、民間事故調は今年3月に報告書を発表しました。

今回、国会事故調関連で明らかになった上記事象については、政府事故調でも当然に把握しているべき事象です。そこで、政府事故調中間報告を再度さらってみましたが、該当する記述を見つけることができませんでした。

政府事故調中間報告では、事故発生までの福島第一原発に関する津波対策に付いて、以下のように記述しています。(このブログでは下記2記事)
原発事故政府事故調中間報告~津波予防対策
原発事故政府事故調中間報告~津波対策と原子力安全保安院

---政府事故調中間報告抜粋---
平成14 年7 月
推本(総理府に設置された地震調査研究推進本部)が「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」で「1896 年の明治三陸地震と同様の地震は、三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの領域内のどこでも発生する可能性がある。」と公表。
平成20 年
東京電力は、推本の長期評価に基づき試算した結果、福島第一原発2 号機付近でO.P.+9.3m、5 号機付近でO.P.+10.2m、敷地南部でO.P.+15.7m といった想定波高の数値を得た。

平成21 年6 月及び7 月
「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会地震・津波、地震・地盤合同ワーキンググループ」において、委員から、貞観三陸沖地震・津波を考慮すべき旨の意見が出された。
平成21年8 月上旬頃
保安院の審査官が東京電力に対し、貞観津波等を踏まえた福島第一原発及び福島第二原発における津波評価、対策の現況について説明を要請した。
平成21 年9 月7 日頃
保安院において東電が保安院の室長らに対し、貞観津波に関する佐竹論文に基づいて試算した波高の数値が、福島第一原発で約8.6m から約8.9m までであったことを説明した。

平成23 年3 月7 日
保安院において東京電力に対するヒアリングが行われた。
(ケース1)明治三陸沖地震(1896 年)のモデルを用いた場合には、福島第一原発で8.4m から15.7m まで、(ケース2)房総沖地震(1677 年)のモデルを用いた場合には、福島第一原発で6.8m から13.6m までとなる。
---抜粋終わり---

やはり政府事故調中間報告には、2006年の保安院・原子力安全基盤機構(JNES)・東電の合同会議については記述されていないようです。

ということは、保安院は、昨年12月までの段階ではこの合同会議について完全に失念していたということでしょう。まさか覚えていたのに政府事故調に隠していたということはないでしょう。
最近になって保安院が思い出し、国会事故調に報告したのでしょうか。

2006年の合同会議の話が本当だとしたら、その知見を生かして津波対策が構築されていなかったことの責任は、第一に原子力安全保安院にあると思われます。保安院は、東電に対して、対策を講じるよう指示または命令を発出すべきでした。

今回の国会事故調てのやりとりからすると、たまたま東電の勝股会長が呼ばれたときに「合同会議について知っているか」と問うたようです。国会事故調は、東電会長に質問する前に、まず保安院に対して質問すべきです。「なぜ東電に津波対策を命令しなかったのか?」
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原発事故政府事故調中間報告~事故後の国の対応・事故対策

2012-05-11 22:08:50 | サイエンス・パソコン
このブログでは、政府が設けた東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の「2011.12.26 中間報告」から、注目される項目をピックアップして内容の抜粋を紹介してきました。

3月11日に福島第一原発を津波が襲った以降、事故の被害を最小限にくい止めるためにどのような措置が執られ、その措置は適切な措置だったのか否かについて、第一原発の構内で行われていた対応に関しては、とりあえず1号機ついて1月8日に原発事故政府事故調中間報告~1号機の初期状況、3号機について5月8日に原発事故政府事故調中間報告~3号機の初期状況として記事にしました。

マスコミは事故直後以来、まずは「東電が原子炉の廃炉を恐れて対応が遅れたが、官邸が叱咤して対応させた」と報道し、その後は「政府・東電本店の対応、とりわけ管総理の対応が悪かったので事態を悪化させた」との報道に変化しました。
このような点について、今回の中間報告はどのように認識しているのでしょうか。中間報告の「Ⅲ 災害発生後の組織的対応状況」から抜粋してみました。

末尾の抜粋を読んでいただくとわかるのですが、政府事故調は、中間報告で以下のような評価を行っています。
(1) 原子力安全保安院は経産省にある緊急時対応センター(ERC)に原災本部の事務局を設置し、伊藤哲朗内閣危機管理監は、緊急参集チームのメンバーを官邸地下にある官邸危機管理センターに招集しました。ところがこれとは別に、管総理が官邸5階にコアメンバーを呼び出して独自の議論と指示出しを行いました。
法定の組織(原災本部事務局、官邸危機管理センター)にさらに官邸5階が乱立し、統一の取れた対応が困難になりました。
(2) ERCの原災本部事務局には情報が集まりません。東電本店とオフサイトセンターは現地との間にテレビ会議システムを立ち上げてリアルタイムで情報を入手できる体制を整えていたのですが、ERCメンバーは同じシステムをERCにも導入しようという発想をもつ者がいませんでした。
(3) 情報を持たない保安院が出す指示は、時期に遅れたものばかりで、実際の役には立ちませんでした。
(4) 官邸5階からは、東電の武黒フェローらが現地の吉田所長にあれこれ官邸の意向を電話しました。しかしその意向のうちで採用すべきものは、すでに現地の判断で実施検討開始されていましたし、現地の方針と異なる意向については、現地の吉田所長が官邸の方針ということで重く受け止め、かえって対応を誤らせた可能性があります。
(5) 現地には保安院の保安検査官が駐在していました。しかし現地本部のメインテーブルに常駐することがなく、情報を迅速的確に入手できませんでした。さらに理由を付けて現地から撤退してしまいました。こうして、保安院の現地の目となることができませんでした。
(6) 以上のように、国の対応は事故を収束する上で何の役割も果たしておらず、「あのときにこうしていたらもっと良い結果が得られた」というような「惜しい!」という場面は皆無だったのです。
(7) 中間報告では、原子力安全委員会の活動結果評価がまだ不足しています。

マスコミでは事故時の対応として「政府の対応」に注目が集まりますが、この事故調査委員会は、「現地の対応には、さまざまなミスはあったが、少なくとも怠慢はなかった。一方、政府の対応の善し悪しは、今回の事故対応においてクリティカルな影響を及ぼしていない」と認識していたようです。政府事故調は中間報告の段階では管元総理に事情聴取を行っていませんでしたが、あまり興味がなかったのでしょう。
以下に中間報告からの抜粋を載せます。

--抜粋はじめ-----------------------------
Ⅲ 災害発生後の組織的対応状況
1 原災法、防災基本計画等に定められた災害対応
(1)総論
、原子力災害対策特別措置法(「原災法」)は、原子力災害の予防に関する原子力事業者の義務、原子力緊急事態宣言の発出、原子力災害対策本部(「原災本部」)の設置、緊急事態応急対策の実施等について規定している。
・・・
(2)原災法第10条に基づく通報後の対応
① 保安院は、原子力防災管理者から10条通報を受けると、・・・経済産業大臣を本部長として経済産業省に設置される同省原子力災害警戒本部(「警戒本部」)において、事故対応に当たる。
・・・
② 内閣官房は、官邸地下にある官邸危機管理センターに官邸対策室を設置し、情報の集約、内閣総理大臣への報告、政府としての総合調整を集中的に行うとともに、事態に応じ、政府としての初動措置に関する情報集約を行うため、各省庁の局長等の幹部(緊急参集チーム)を同センターに参集させる。
③ 安全委員会は、直ちに、緊急技術助言組織を立ち上げる・・・。
④ 現地に駐在している原子力保安検査官事務所の職員は、直ちにオフサイトセンターに参集し、現地警戒本部を設置するとともに、原則として2名の原子力保安検査官(「保安検査官」)が現場に赴き、現場確認を行う。
(3)15条事態発生時の対応
保安院が、実用炉において原災法第15条第1項の規定する事態(原子力緊急事態)が発生したと判断した場合、政府は、以下のとおりの対応をとることとされている。
① 保安院は、経済産業省に設置される原子力災害対策本部において事故対応に当たる。

③ 内閣総理大臣は、原子力緊急事態宣言を公表し、自らを本部長、経済産業大臣を副本部長とする原災本部を内閣府に設置する。
この原災本部の事務局は、保安院長を事務局長として、経済産業省別館3階にある経済産業省緊急時対応センター(ERC)に置かれ、六つの機能班(総括班、放射線班、プラント班、医療班、住民安全班、広報班)から成る。
④ 官邸対策室は・・・。
⑤ 現地においては、経済産業副大臣を本部長として、国の原子力災害現地対策本部(「現地対策本部」)をオフサイトセンターに設置する。(47ページ)

2 事故発生後の国の対応
(1)国の対応の概観
平成23 年3 月11 日14 時46 分の地震発生直後、経済産業省は、震災に関する災害対策本部を設置し、被災地に所在する原子力発電所の原子炉の状況等に関する情報収集を開始した。他方、官邸においては、同日14 時50 分、伊藤哲朗内閣危機管理監(「伊藤危機管理監」)は、地震対応に関する官邸対策室を設置するとともに、関係各省の担当局長等からなる緊急参集チームのメンバーを、官邸地下にある官邸危機管理センターに招集した。
・・・
(2)保安院の対応
保安院は、3 月11 日14 時46 分の地震発生以降、ERC に必要人員を参集させ、六つの機能班(総括班、放射線班、プラント班、医療班、住民安全班、広報班)を編成し、情報収集や必要な対応を行う態勢を整え、さらに、原災本部が官邸に設置されると同時にその事務局がERC に設置された。
  ・・・・
東京電力本店においては、事故発生直後から、社内のテレビ会議システムを用いて福島第一原発の最新情報を得ており、このシステムは、12 日未明までには、保安院職員が派遣されていた現地対策本部(オフサイトセンター)でも使用できるようになり、プラント情報等が共有されていた。
しかしながら、ERC にいたメンバーには、東京電力本店やオフサイトセンターが、社内のテレビ会議システムを通じて福島第一原発の情報をリアルタイムで得ていることを把握していた者はほとんどおらず、情報収集のために、同社のテレビ会議システムをERC に持ち込むといった発想を持つ者もいなかった。また、迅速な情報収集のために、保安院職員を東京電力本店へ派遣することもしなかった。
ERC での情報収集は、例えば、原災本部事務局プラント班の保安院職員が、ERC詰めの東京電力職員に対し、携帯電話で同社本店からプラントパラメーターの情報を収集させ、電話をつないだまま電話口で、口頭で報告させるといった方法で行っていた。
保安院の東京電力に対する指示・要請は、そのほとんどが「正確な情報を早く上げてほしい。」というものであり、時折、監督官庁として具体的措置に関する指導・助言を行うものの、時宜を得た情報収集がなされなかったために、その指導・助言も時期に遅れ、又は福島第一原発のプラントやその周辺の状況を踏まえないものであることが少なくなかった。あるいは、保安院の指示は、既に実施し、又は実施しようとしている措置に関するものが多かったため、現場における具体的な措置やその意思決定に影響を与えることはほとんどなかった(例えば、3 月12 日朝に行われた福島第一原発1 号機のベントの実施命令の発出。また、同日夕方に行われた同原発1 号機への海水注入命令の発出)。(55ページ)

(3)官邸危機管理センター(緊急参集チーム)の対応
3 月11 日14 時46 分の地震発生直後から、官邸地下にある官邸危機管理センターにおいては、緊急参集チームとして、保安院その他の関係省庁の局長級職員や担当職員が集まり、各地の被災状況に関する情報を収集するとともに、避難、物資・機材の調達その他の被災者支援のため必要な対応を検討し、関係部署に対して必要な指示・要請をするなどしていた。
ただし、官邸地下においては、情報保全のため平時から携帯電話が使用できず、携帯電話で事故情報を迅速かつ機動的に収集することが困難であった。また、地震発生後は、原発事故だけでなく、地震・津波等に関する情報収集や連絡も並行して行われたため、回線が混雑し、FAX により関係省庁等から福島原発事故等に関する情報を収集することも困難な状況にあった。
他方、後記(4)のとおり、菅総理ら官邸5 階にいたメンバーは、地震・津波発生以降、官邸5 階の総理大臣執務室又はその隣室等において、避難区域の設定、福島第一原発内の各プラントの現在及び将来の動向とそれへの対応等について検討・決定していたが、緊急参集チームのメンバーは、その経緯を十分把握し得なかった。(57ページ)

(4)官邸5 階
また、この官邸5 階での協議においては、単にプラントの状況に関する情報を収集するだけではなく、入手した情報を踏まえ事態がどのように進展する可能性があるのか、それに対しいかなる対応をなすべきか、といった点についても議論され、その結果、主に東京電力の武黒フェローや同社担当部長が、同社本店や吉田所長に電話をかけ、最善と考えられる作業手順等(原子炉への注水に海水を用いるか否か、何号機に優先的に注水すべきかなど)を助言した場合もあった。
ほとんどの場合、既に吉田所長がこれらの助言内容と同旨の判断をし、その判断に基づき、現に具体的措置を講じ、又は講じようとしていたため、これらの助言が、現場における具体的措置に関する決定に影響を及ぼすことは少なかった。しかし、いくつかの場面では、東京電力本店や吉田所長が必要と考えていた措置が官邸からの助言に沿わないことがあり、その場合には、東京電力本店や吉田所長は、官邸からの助言を官邸からの指示と重く受け止めるなどして、現場における具体的措置に関する決定に影響を及ぼすこともあった(1 号機原子炉への海水注入、2 号機原子炉の減圧・注水等、3 号機原子炉への淡水注入)。(59ページ)
(5)安全委員会の対応
(6)他の政府関係機関等の対応
(7)福島第一原子力保安検査官の活動の態様
3 月11 日14 時46 分の地震発生当時、保安院職員としては、原子炉の定期検査等のため、福島第一原子力保安検査官事務所の保安検査官7 名全員及び保安院本院職員1 名が、福島第一原発敷地内におり、・・・5 名が福島第一原発敷地内に残り、同発電所敷地内の免震重要棟内において、情報収集及び保安院への報告に当たった。
当時、保安院等への連絡は、屋外に駐車した福島第一保安検査官事務所の防災車に搭載された衛星電話を用いて行っていたが、放射線量の上昇に伴い屋外に出ることが困難になり、この電話を用いた連絡ができなくなったことから、3 月12 日5 時頃、前記5 名は、福島第一原発から退避することとし、ERC にいた保安院原子力防災課長の了承を得た上で、オフサイトセンターに退避した。
前記5 名がオフサイトセンターに戻った後の翌13 日未明、海江田経産大臣から、現地に保安院職員を派遣して原子炉への注水作業を監視するようにとの指示があった・・・。
現地対策本部は、・・・4 名の保安検査官の福島第一原発への再派遣を決め、この4 名は、13 日7 時40 分頃から、再び福島第一原発敷地内に常駐し、ローテーションを組んで、情報収集及びオフサイトセンターへの報告を行う態勢をとった。
再派遣された4 名の保安検査官は、免震重要棟内の緊急時対策室に隣接する一室において、東京電力職員からプラント状況等に関する資料を受け取り、東京電力から貸与された同社内部のPHS を用いて、オフサイトセンターに置かれた現地対策本部プラント班に、これらの資料の内容等を報告していたが、免震重要棟の外に出て注水現場を確認することはなかった。
・・・
3 月14 日午後、同日11 時頃の3 号機原子炉建屋の爆発や、その後の2号機の状況悪化を受け、前記4 名の保安検査官は、福島第一原発敷地内にとどまった場合には自分たちにも危険が及ぶ可能性があると考え、オフサイトセンターへ退避することについて現地対策本部に指示を仰いだが、明確な回答が得られなかったため、同日17 時頃、退避することを決め、現地対策本部にその旨を伝えた上で、オフサイトセンターに退避した。
さらに、翌15 日、この4 名を含む福島第一原発担当の全ての保安検査官は、他のオフサイトセンター要員と共に、福島県庁に移動した。
--抜粋おわり-----------------------------
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原発事故政府事故調中間報告~3号機の初期状況

2012-05-08 22:48:41 | サイエンス・パソコン
ゴールデンウィークは終了し、私は本日から定常勤務となりました。


東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の2011.12.26公表「中間報告については、昨年12月から今年1月にかけて、このブログにて読み込みを行ってきました。

事故発生直後の各号機の作動状況に関しては、中間報告において1号機と3号機の解析が行われています。2号機については中間報告ではほとんど解明されていません。
その中の1号機については、1月8日に原発事故政府事故調中間報告~1号機の初期状況として記事にしたのですが、3号機が手つかずのままでした。
そこで、遅ればせながら、3号機に関する政府事故調中間報告の抜粋をまとめておきます。

中間報告(概要)
平成23年12月26日
東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会

『4 福島第一原発における事故後の対応に関する問題点
(2)3 号機代替注水に関する不手際 【Ⅳ章4(2)、Ⅶ章4(2)】
3 号機については、原子炉圧力が低い状態下で運転範囲を下回る回転数で長時間高圧注水系(HPCI)を運転していたため、当直は、HPCI による十分な注水がなされていないことを懸念し、平成23 年3 月13 日2 時42 分頃、HPCI を手動停止した。この時、当直は、十分な代替注水手段が確保されていないにもかかわらず、バッテリー枯渇リスクを過小評価しており、結果として代替注水のための減圧操作に失敗した。これらの措置に関する判断は、当直及び発電所対策本部発電班の一部のスタッフのみで行われ、幹部社員の指示を仰いでいなかった上に、発電所対策本部発電班から幹部社員に対する一連の経緯に関する事後報告も遅れた。かかる経緯は危機管理の在り方という点で問題であり、また、結果的に13 日9 時25 分頃まで代替注水が実施されなかったことは、極めて遺憾であったと言わざるを得ない。
また、全交流電源喪失の下では、HPCI 等の作動に必要なバッテリーの枯渇について懸念してしかるべきであった。そうした懸念があれば、発電所対策本部としては、消防車等を利用した早期の代替注水に取り掛かることも可能であったと思われる。しかし、発電所対策本部は、電源復旧によるほう酸水注入系からの注水という中長期的な対処については準備・検討していたものの、3 号機当直からHPCI 手動停止後のトラブルの連絡がなされるまで、消防車を用いた代替注水に動くことはなかった。発電所対策本部に3 号機代替注水に係る必要性・緊急性の認識が欠如していたことが、こうした対応の遅れを生んだと言わざるを得ない。』

上記「概要」の結論に至った詳細について、「Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処」から、長くなりますが関連する記述を抜粋してみます。

--抜粋開始---------------------------
3号機の直流電源盤が被水を免れたことにより、直流電源で操作可能なRCIC 及びHPCI がいずれも起動可能であった。そして、3/4 号中央制御室の制御盤上、これらの状態表示灯が点灯していたため、当直は、状態表示灯を見て、RCIC 及びHPCI が起動可能であることを確認できた。(95ページ)

(7)3 号機のプラント状態と対応
① 3 月11 日16 時3 分頃以降、3 号機のRCIC は、手順通り、復水貯蔵タンクの水を水源として運転していた。
当直は、3 号機のRCIC をできるだけ長時間作動させるため、当面必要ではない負荷を順次落としていった。

4 1 号機R/B 爆発後、3 号機R/B 爆発まで(3 月12 日15 時36 分頃から同月14 日11 時1 分頃までの間)
(2)3 号機への代替注水の状況
a 3 号機の当時のプラント状況と当直の対応
① 3 号機については、3 月12 日11 時36 分頃、何らかの原因でRCIC が停止した。・・・そのうちに3 号機の原子炉水位が低下していったため、同日12 時35 分頃、HPCI が自動起動した。
HPCI については、その流量が大きいため、流量を調節しなければ、原子炉水位が急上昇してすぐに停止してしまう。そして、再起動には多くの電気を必要とすることから、バッテリーの消耗が大きくなる。そのため、当直は、あらかじめ、HPCI のテスト配管の電動弁を開操作して、原子炉に注入するラインと水源である復水貯蔵タンクに戻るラインを作り、HPCI の流量を調節して作動できるようにしていた(図Ⅳ-7 参照)。
その後、3 号機原子炉は、HPCI の作動によって減圧が顕著となり、同日19時以降、3 号機の原子炉圧力は、原子炉圧力計によれば、0.8MPa gage から1.0MPa gage までの数値を示すようになった。

② ・・・当直は、原子炉水位が不明な中で、HPCI によって原子炉注水が十分なされているのか判然とせず、かつ、通常と異なる運転方法によってHPCIの設備が壊れるおそれがあるとも考え、HPCI を作動させ続けることに不安を抱くようになった。
また、この頃、3/4 号中央制御室の制御盤上、SR 弁の状態表示灯が全閉を示す緑色ランプを示していたため、当直は、依然として制御盤上の遠隔手動操作によりSR 弁を開けることができると考えていた(資料Ⅳ-6 参照)。
そして、原子炉圧力が0.8MPa gage から0.9MPa gage 程度といった低い状態であったため、当直は、制御盤上の遠隔手動操作によりSR 弁を開けて原子炉を更に減圧すれば、作動中のD/DFP の吐出圧力でも注水可能であり、D/DFPの接続先をS/C スプレイラインから原子炉注水ラインに変更すれば、D/DFPで原子炉に注水できると考えた。
そこで、当直は、HPCI による注水からD/DFP による注水に切り替えた方が安定した注水ができると考え、同月13 日2 時42 分頃、HPCI を手動で停止することにした。

③ 3 号機のHPCI を手動停止する前、当直は、発電所対策本部発電班の一部(緊急時対策室の発電班ブースに控えていた3/4 号中央制御室担当の当直長ら)に対し、HPCI の作動状態に関する問題意識を示した上、HPCI を手動停止し、SR 弁で減圧操作してD/DFP を用いた原子炉注水を実施したい旨相談した。当直から相談を受けた発電班の一部の者は、3 号機のHPCI の作動状態に関する問題点やHPCI の手動停止の是非等に関して話し合った。その結果、これらの者は、運転許容範囲を下回る回転数でHPCI を作動させ続ければHPCIの設備破損等の危険があるのに対し、制御盤上の操作でSR 弁を開けてD/DFPによる原子炉注水が可能なのであれば、HPCI を停止するのもやむを得ないと考え、当直にも、その旨伝えた。
しかし、これらの発電班の一部の者は、現場対応に注意を払う余り、情報伝達が疎かになり、当直が抱いたHPCI の作動状態に関する問題意識やHPCIの手動停止に関する情報が、発電所対策本部発電班全体で共有されることもなかった。そのため、発電班長も、かかる情報を把握しておらず、低圧状態下で回転数が落ちた状態ではあるもののHPCIが作動しているという認識を有しているにすぎなかった。
その結果、吉田所長を含む発電所対策本部幹部や本店対策本部も、3 号機の当直がHPCI を手動で停止しようとしていることを知らなかった。

④ 3 月13 日・・・2 時42 分頃、当直は、3/4 号中央制御室において、制御盤上のHPCIの停止ボタンを押し、さらに、タービン蒸気入口弁の全閉操作をして、HPCIを手動で停止した。そして、同日2 時45 分頃及び同日2 時55 分頃、当直は、3/4 号中央制御室において、制御盤上の遠隔手動操作によりSR 弁の開操作を実施した。しかし、いずれの場合も、制御盤上の SR 弁の状態表示ランプは、「全閉」を示す緑色ランプから「全開」を示す赤色ランプに変わらなかった。そのため、当直は、制御盤上の遠隔手動操作によってSR 弁を開くことができず、減圧操作に失敗したと判断した。
3 号機制御盤上の状態表示灯が点灯していたにもかかわらず、SR 弁の開操作に失敗した原因については、その後同日9 時頃、電源復旧してSR 弁の開操作に成功していることから、物理的な障害ではなく、開操作に必要なバッテリー容量が不足していた可能性がある。・・・

⑤ 3 月13 日2 時45 分頃及び同日2 時55 分頃、当直は、合計2 度にわたり、遠隔手動によるSR 弁の開操作に失敗したが、当直長は、その都度、その状況を発電所対策本部発電班に報告していた。
しかし、発電班の中で、その報告を受けた者や、その者から状況を伝え聞いた者は、いずれも3/4 号中央制御室の交代要員として控えていた当直長らであり、発電班長に報告していなかったため、発電所対策本部や本店対策本部は、この時点になってもなお、SR 弁の開操作に失敗したことはもとより、HPCIを手動で停止させていたことすら把握していなかった。
・・・

⑥ 3 月13 日3 時35 分頃、当直は、3/4 号中央制御室において、HPCI の再起動を試みたが再起動できなかった。再起動できなかった要因は、HPCI 起動時のバッテリー消費が大きいため、再起動に必要なバッテリー残量がなかった可能性が高い。そして、このバッテリーは、人力で持ち運び困難であり、仮に新たなバッテリーを調達したとしても、3 号機R/B 内に持ち運んで取替作業を行うことは事実上不可能であった。
・・・
そして、HPCI 停止及びその後の当直の対応を把握していた発電班の人間は、同日3 時55 分頃になってようやく、発電班長に報告することに思いを致し、発電班長に対し、「3 号機のHPCI が停止し、D/DFP による注水を試みたが、注水できなかった。原子炉圧力が4MPa gage 程度まで上昇した。」旨報告し、発電班長を通じて、吉田所長を含む発電所対策本部幹部も、3 号機のHPCI が停止したことを把握した。それまで、吉田所長を含む発電所対策本部幹部は、3 号機の当直がHPCI を手動で停止する予定であるという報告も、手動で停止したとの報告も受けておらず、3 号機のHPCI が正常に作動しているものと考えていた。
このとき、本店対策本部も、テレビ会議システムを通じて、3 号機のHPCIが停止したことを初めて把握し、発電所対策本部に対し、自動停止だったのか、手動停止だったのかを確認するように指示した。そこで、発電班長は、発電班に HPCI の停止原因を確認したが、緊急時対策室が騒然とする中で、発電班から「手動停止」と報告を受けたのに、「自動停止」と聞き違え、メインテーブルにおいて、マイクで「自動停止」と発話した。その際、緊急時対策室が騒然としていたため、報告をした発電班の人間も、発電班長の誤解に基づく発話に気付かず、訂正できなかった。そのため、発電所対策本部及び本店対策本部は、同日2 時42 分頃に3 号機のHPCI が自動停止したものと誤解した。

b 3 号機注水に関する吉田所長の判断
① 3 月13 日3 時55 分頃、吉田所長は、発電班長からの報告を受け、3 号機のHPCI が同日2 時42 分頃に停止していたことを知った。・・・
吉田所長は、3 号機のHPCI が停止したとの報告を受け、3 号機について、他号機よりも優先して、可能な限り早期に水を確保し、SR 弁による原子炉減圧と消防車を用いた注水を実施する必要があると判断した。そこで、吉田所長は、3 号機T/B 前の逆洗弁ピット内の海水を3 号機原子炉に注水するラインを構成するとともに、SR 弁の開操作に必要なバッテリーを調達するように指示した。本店対策本部やオフサイトセンターの武藤副社長らも、吉田所長の前記判断に異論はなかった。
② ・・・
③ 3 月13 日6 時19 分頃、3 号機につき、同日4 時15 分頃にはTAF に到達していたものと考えられたため、吉田所長は、官庁等に、その旨報告した。

c HPCI 停止後の海水注入準備の状況
・・・
③ 他方、3 月13 日2 時42 分頃にHPCI 停止後、2 度にわたり当直がSR 弁の開操作に失敗していたものの、消防車によるFP 系注水のためには、SR 弁を開操作して原子炉の減圧を行わなくてはならず、SR 弁開操作のために必要な電源を確保する必要があった。SR 弁の開操作には合計120V の直流電源が必要であったが、福島第一原発には、使用可能なバッテリーを備蓄していなかった。
・・・
そこで、発電所対策本部復旧班は、同日6 時頃から発電所構内にバッテリーがないか探し始めたが、既に1/2 号中央制御室及び3/4 号中央制御室の計測機器の電源復旧のため協力企業の業務用車両の 12V バッテリーを用いていたことから、これと同様に、SR 弁開操作に必要な直流電源として、車の12V バッテリーを10 個直列に接続して用いようと考え、同日7 時44 分頃までに、発電所対策本部にいる社員の通勤用自動車から12V バッテリー10 個を取り外して集めた。
その上で、発電所対策本部復旧班は、3/4 号中央制御室に12V バッテリー10個を持ち運んで、これらを直列に接続してSR 弁制御盤につなぎ込み、同制御盤の操作スイッチ・レバーによりSR 弁を遠隔手動で開操作できるようにした。その際、既に3/4 号中央制御室も放射線量が高くなっていたので、発電所対策本部復旧班は、全面マスク、ゴム手袋を装着した状態で、懐中電灯を用いながら配線の接続等の作業を行い、配線作業専用端末処理工具やバッテリー接続治具もなく、代用品を使うしかなかったので、通常よりも時間を要した。
また、SR 弁はAO 弁であるため、遠隔手動開操作には、バッテリーによる電磁弁の励磁のほか、AO 弁駆動用の空気圧が必要であったが(資料Ⅳ-6 参照)、発電所対策本部は、この時点では、アキュームレーターの残圧によって開操作できると考え、新たに可搬式コンプレッサーを準備することはなかった。

d 淡水注入への変更・実施
① 3 月13 日未明以降、官邸5 階の総理大臣応接室では、海江田経産大臣、平岡保安院次長、班目委員長、東京電力部長らが、時折、吉田所長に電話をかけるなどして情報を得ながら、福島第一原発のプラント状況や今後の対応等に関する意見交換をしていた。
このとき、福島第一原発において、3 号機原子炉への海水注入に向けた作業を実施しているとの情報が得られ、「海水を入れるともう廃炉につながる。」「発電所に使える淡水があるなら、それを使えばいいのではないか。」「発電所内の防火水槽やろ過水タンク、純水タンクなどに淡水がまだ残っていないのだろうか。」「新潟県中越沖地震後、防火水槽をたくさん作ったのではないか。」などといった意見が出た。
この会合に参加した者らは、これらの意見を交わしたものの、福島第一原発が、発電所内に淡水が残っていないことを確認した上で海水注入すると判断したか否かについて分からなかったので、会合に参加していた東京電力部長が、吉田所長に電話をかけて問い合わせてみることになった。
同日早朝、東京電力部長は、吉田所長に電話をかけ、「他に防火水槽とかろ過水タンクとかに淡水があるのではないか。淡水が残っているなら極力淡水を使った方がいいのでないか。官邸でそのような意見が出ている。」旨伝えた。

② 東京電力部長は、官邸5 階の会合で出た意見を伝えたにすぎなかったが、吉田所長は、これを重く受け止め、海水注入の前に極力ろ過水タンク等に残る淡水を注入すべきというのが、菅総理を含めた官邸の意向と理解した。・・・
そこで、吉田所長は、テレビ会議システムを通じて、本店対策本部及びオフサイトセンターの武藤副社長らに官邸の前記意向を伝えた上、まず淡水注入をしたい旨述べたところ、特に異論が出なかったので、担当責任者を通じて、現場で海水注入のための作業を行っていた自衛消防隊及び南明社員に対し、海水注入のための作業を中断して、使える淡水を全て使えるよう注水ラインを変更するように指示した。

③ この頃、既に、3 号機T/B 前の逆洗弁ピットに貯留していた海水を消防車で吸い上げ、これを3 号機T/B 送水口からFP 系ラインを通じて3 号機原子炉に注水するラインは完成していた。
しかし、現場で注水作業に従事する自衛消防隊及び南明社員は、吉田所長の指示に従い、放射線量が高い中で、散乱するがれき等に埋没していた防火水槽の取水口を探し回り、水源となる淡水の確保に努めた。
そして、3 号機及び4 号機の各R/B 付近にあった防火水槽から淡水をくみ取り、これを3 号機T/B 前ヤード海側の防火水槽に補給するラインと、この防火水槽から3 号機T/B の送水口に注水するラインを作って、FP 系ラインを通じて 3 号機原子炉へ注水しようと考え、消防ホースの敷設等の作業を行った(資料Ⅳ-21 参照)。

④ 3 月13 日9 時8 分頃、発電所対策本部復旧班は、3/4 号中央制御室において、合計120V のバッテリーをつなげてSR 弁の電磁弁を励磁し開操作を行い、3号機の原子炉の急速減圧を実施した。
3 号機の原子炉圧力は、原子炉圧力計によれば、同日8時55 分頃に7.300MPagage であったが、減圧操作中の同日9 時10 分頃に0.460MPa gage、同日9時25 分頃に0.350MPa gage まで減圧され、消防車の吐出圧力を下回って注水が可能となった。そして、同日9 時25 分頃、消防車により、3 号機への淡水注入を開始した。
もっとも、注水の水源となる淡水には限りがあったため、吉田所長は、近いうちに海水注入に切り替えなければならないと認識していた。
その後、吉田所長は、オフサイトセンターにいる武藤副社長からも、そろそろ海水注入も考える必要がある旨示唆を受け、同日10 時30 分頃、淡水枯渇後速やかに海水に切り替えるため、海水注入を視野に入れて動くように指示をした。

⑤ 3 月13 日12 時20 分頃、取水可能な防火水槽にある淡水が枯渇し、外部から福島第一原発にすぐに淡水が補給される見込みもなかった。
自衛消防隊及び南明社員は、水源を防火水槽から3 号機T/B 前の逆洗弁ピットに変更して淡水注入ラインから海水注入ラインに切り替えられるようにあらかじめ準備し、淡水枯渇後、速やかに海水注入ラインに切り替える作業を開始したが、3号機原子炉への海水注入
が開始されたのは同日13時12分頃であった。
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1号機のみならず、3号機までもが炉心溶融に至った詳細の経緯が以上から明らかです。
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