弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

Dropboxの問題が解決した

2011-08-31 23:12:12 | サイエンス・パソコン
Dropboxについてはじめて知ったのは1年前、 川口部長の仕事に使うiPad 第1話 「クラウド三種の神器」の巻~Dropbox GoodReader Evernoteを使ってみるでした。
『Dropboxとは、無料で2GBまで使えるオンラインストレージである。
ウェブサイトからダウンロードしたDropboxをパソコンにインストールすると、「ドキュメント」(または「マイドキュメント」)の中に「My Dropbox」というフォルダができる。iPadで見たいファイルをこのフォルダに入れると、ファイルはパソコン内のDropboxフォルダに移動し、Dropboxのサーバーにコピーされる。
パソコン上のDropboxも、iPadのDropboxも、同じサーバーにあるファイルにアクセスするので、いつも最新のファイルが表示されるという仕組みだ。PDF、テキスト、画像(JPEGなど)、動画(mov、MP4など)、Office文書、iWork文書、HTMLファイルなど、多くのファイル形式に対応しているので、ファイルのやり取りには最適なツールだ。』

私はiPadを持っていませんが、自宅のパソコンと職場のパソコンとの間のファイル共有にも使えます。
ということで、さっそく使い始めました。2GBまでの無料コースです。
共有したいファイルは、パソコン内に作成されたDropboxフォルダに入れておきます。このファイルを自宅パソコンで作成・更新したとします。
翌日職場でパソコンを立ち上げると、自動的にDropboxフォルダ内にファイルが作成・更新され、自宅のと同じ内容になっています。

しばらくは普通に使っていたのですが、ある日突然、事務所のパソコンが不調となりました。エクスプローラの動きが極めて遅くなったのです。通常の10倍ぐらい時間がかかるイメージです。あれこれいじるうちに、思いついてDropboxを常駐から外してみました。するとどうでしょう、何事もなかったようにエクスプローラがすいすい動くようになりました。どうもDropboxとウィンドウズとの相性が突然不良になったようです。
再度Dropboxを常駐させると、やはりエクスプローラの動きは不調となってしまいます。

それ以来、職場パソコンのDropboxは常駐から外したままで、Dropboxは開店休業状態となりました。

最近になって、このような現象は私一人に起きているわけではなく、世の中では多発してすでに解決策が見出されているのではないか、と思いつきました。そこでパソコンで「Dropbox windows エクスプローラ 遅い」で検索してみたら、案の定見つかりました。

DropBoxのせいでPCが重くなったときの対処法が見つかりました。
(1) Dropboxをアンインストールする。
(2) パソコンを再起動する。
(3) C:\Documents and Settings\ユーザー名\Application DataにDropBoxフォルダがあるのでフォルダごと削除する。
(4) Dropboxを再度インストールする。
これでOKです。
やってみました。
見事に問題は解決しました。Dropboxを常駐させても、エクスプローラの動きは正常通り、さくさく動きます。

こうしてDropboxを使った生活がまた始まったのでした。
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ウォルフレン著「誰が小沢一郎を殺すのか?」

2011-08-28 08:45:17 | 歴史・社会
誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀
クリエーター情報なし
角川書店(角川グループパブリッシング)

表紙の帯には、
『異分子を「抹殺」する検察、メディア、日本というシステム
「反小沢キャンペーン」の騒乱に、この国を支配する「非公式権力」を今こそ見抜け--。日本取材30年のオランダ人ジャーナリストが斬る!』
とあります。

日本を実際に動かしている“陰の”政治システムは何なのか、それは他の先進民主主義国とどのように異なっているのか、という話を、小沢一郎を追い詰める検察とメディアの行動を通じて明らかにしよう、という趣旨の本です。
ただし、綿密に事実を検証して真実をあぶり出そうとするには、ページ数が足りません。非常におもしろい見方だと注目する一方で、本当にその通りなのかが本の中できちんと検証されていないので、著者の説を信じて良いのかどうかが不明のままです。その点がとても残念でした。

例えば、「日本は政治主導ではなく官僚主導だ」という点に関して・・・
『もちろん他国では、このような課題は政治家にとって少しも目新しいものではない。なぜならばほかの先進諸国においては、どのような課題を優先すべきか、そして国家がどちらに向かって進んでいくべきかを決定することこそが政治家の役割であると、当然のようにみなされてきているからだ。そしてそのような民主国家では、省庁の官僚というのは大臣のために働く存在である。ところが日本のキャリア官僚たちは、大臣や政治家を、彼らの省庁につかの間やってくる訪問客としてあつかう。大臣たちがやってくれば、省庁の官僚はうやうやしく彼らを迎える。ところが、本来は省庁を指揮する立場にあるというのに、大臣が政策を打ち出すことは殆どない。・・・大臣には忠実なスタッフもいなかった。そして大臣は、高級官僚に四六時中取り囲まれているうちにすっかり洗脳されてしまうのであった。』(20ページ)
書かれている日本の状況については、「まさにその通り」ということで是認します。しかし、他の先進民主主義諸国では、日本とは全く異なり、正しく政治主導が行われている、という認識については知りませんでした。日本もひどい官僚主導だが、他国だった多かれ少なかれ同じなのではないか、と思っていたからです。

『先進国の大臣なら、閣議において国家が優先すべき課題について議論し、政策を作り出さなければならない。そしてまた国家予算がどのように配分されるかを決定するのも彼らである。・・・またほかの先進諸国であれば、こうした優先課題の割り当てについて、その大半を指示するのは、首相もしくは大統領の役目である。』(20~21ページ)
そうだったのですか。
先進民主主義諸国と日本との間にそのような乖離があるのであれば、「先進諸国はそれぞれこのようなシステムである。違うのは日本だけだ。」という点を実証するのみで、日本の向かうべき道は明確となり、官僚主導から政治主導への道がこのように困難を窮めることにはならないと思うのですが。

著者は小沢一郎を非常に高く買っています。
『すでに10年ほど前から、私のみならず、日本人であれ外国人であれ、日本の経済や政治の状況を詳しく検証する友人たちもまた、これまでに頭角をあらわした政治家たちのなかで、日本が必要とする抜本的な改革に取り組めるのは、小沢氏をおいてほかにはいないだろうと見ていた。』(25ページ)
残念ながら、著書の中には、小沢氏をこのように高く買うことの根拠が書かれていません。かといって私には「その結論は間違っている」と指摘するほどの知識もないので、「いったいどちらが正しいのだろうか」という疑問が残ってしまいました。

日本では、1993年当時から現在に至るまでずっと、小沢氏に対する「人物破壊(character assassination)」が続いていると著者はいいます。「人物破壊」とは、標的とする人物を実際に殺さないまでも、その世間での評判や人物像を破壊しようとする行為を指すそうです。
さらに著者は、他国ではなく、自国の一市民(である小沢氏)に対し、これほど強力な人物破壊キャンペーンが展開される例は他にない、といいます。
日本の外から見たら、それほど異常なキャンペーンだったのですか。

著者は、「小沢氏を標的とした日本でのこうした一連の動きは、政治活動に関する諸外国のいかなる基準に即して考えてみても、極めて異常と言うしかない」として、日本の歴史にさかのぼって検証を始めます。その内容は、非常におもしろい着眼点だとは思うのですが、残念ながら検証が不十分であり、「なるほどそういう見方もある」と納得するには至りません。逆に「それは間違っている」と反論するネタを当方が持ち合わせていないので結論は宙ぶらりんのままです。

取り敢えず、「著者のウォルフレン氏はどのような指摘をしたか」という点については覚えておいて損はなさそうです。今後日本で発生する事象について、ウォルフレン氏の指摘が当たっていたという事象に遭遇すれば、その事象の裏に隠れているシステムをあぶり出すことができるかもしれません。

ついでに、小沢一郎氏に言及した当ブログ記事を上げておきます。
2008-04-03 小沢一郎という政治家
2010-07-17 管政権はもはや死に体か
2010-08-29 小沢一郎に振り回される日本
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中山信弘編「新・注解特許法」

2011-08-25 21:27:57 | 知的財産権
先日、水道橋の丸沼書店に立ち寄った際、以下の本が目に付きました。
新・注解 特許法〈上巻〉第1条~第99条
クリエーター情報なし
青林書院

新・注解 特許法〈下巻〉第4章第2節前注・第100条~第204条・附則

うかつにも、中山先生の注解特許法の改訂版がこの4月に出版されていることに気づきませんでした。

2冊合計で4万円近い価格でもあり、その場では購入に踏み切れませんでした。
ネットで調べたのですが、私が持っている第3版と比較してどのような特徴を有しているのか、情報を取得することができませんでした。ネットでの話題が皆無であることにも驚かされました。

中山先生の注解特許法は、とにかく詳細を窮めているので、裁判の準備書面を記述する際などには手元に置いて役に立つ書籍です。
11年前の第3版と比較して、どのような特徴を有しているのか、その点を知りたいと思うのですが、どなたかご存じの方はおられますでしょうか。
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佐藤栄佐久著「知事抹殺」(2)

2011-08-23 22:59:06 | 歴史・社会
前回に引き続き、佐藤栄佐久著「知事抹殺 つくられた福島県汚職事件」を取り上げます。
前回詳述したように、福島原発に向き合う佐藤栄佐久福島県知事の姿勢は、日本の原子力行政がかかえる問題をすべて見通しているかのように見事なものでした。

その佐藤氏が、なぜ東京地検特捜部の標的となり、有罪判決を受けるに至ったのでしょうか。
佐藤氏の実弟(祐二氏)が経営する会社(郡山三東スーツ)が舞台となります。佐藤氏の父親が創業した同族会社であり、佐藤氏が筆頭株主でもあります。同社がした土地取引が、福島県の木戸ダムにからむ県知事の汚職につながっている、という事件のようです。
まず2003年にブラックジャーナルが動き出し、2004年にアエラが記事にしました。
2005年4月になって東京地検特捜部が動き出しました。任意捜査の2週間後に読売新聞が記事にしました。水谷建設が2002年8月に郡山三東スーツ所有の土地を2億円割高な価格で買い取ったという話でした。
9月に弟の祐二氏が、県の元土木部長とともに逮捕されました。佐藤氏は県政混乱の責任を取って知事を辞職することに決します。10月に三東スーツの総務部長が、東京での取調から帰宅した後に自殺を図り、一命は取り留めたものの意識が戻らなくなるという事件が起きました。
佐藤氏が収賄罪の容疑で逮捕されたのは10月23日です。任意の取調をすっ飛ばしていきなりの逮捕でした。宗像紀夫弁護士らとの事前打ち合わせもできませんでした。
特捜部は、木戸ダム受注の収賄罪に加えて選挙違反事件も立件しようとし、佐藤氏の後援会関係者を事情聴取で呼ぶようになりました。苛酷な取調は聴取された人たちを苦しめたようです。
事情聴取によって多くの人たちが苦しみ、三東スーツの総務部長を含めて2名が自殺を図るまでとなりました。それを見て、佐藤氏は虚偽自白をしてこの事件に幕を引く決意を固めるに至ります(10月28日)。

東京地検特捜部に立件された容疑者は、それぞれの事情によって検事に迎合する場合が多いようです。
佐藤優氏の場合、累が外務省インテリジェンスでの情報提供者に及ばないように、また佐藤氏の「チーム」メンバーに及ばないようにとの観点で、その範囲で検事に迎合したと著書にあります。村上ファンドの村上世彰氏は、逮捕直前に牧野洋氏に電話で「きょう、生まれて初めて公の場でうそをつきます」「罪を認めるということです。これから東京証券取引所で記者会見しますから、ぜひ来てください」と語りました。「罪を認めなければ、ぼくのほかにも幹部が逮捕されてしまう。」というのがうそをつく理由でした(村上ファンド事件の新聞報道を検証する)。
このように検察に迎合して供述調書を取られてしまったら、公判で証言を翻しても、完全無罪を勝ち取ることは極めて困難と思われます。
村木厚子さんは一切の迎合をせずに戦い抜き、無罪を勝ち取ることができましたが。

公判でのやり取りについては、この本の著者が被告人当人でもあることから、本当のところはよくわかりません。
弟の祐二氏は「談合に関与し、土地売買の賄賂性を認識していた」という自白調書を取られていましたが、弁護士の「なぜ、事実でない調書をとられたのか」との質問に対しては「拘置所で精神的に参っていた。この場から逃げ出したかった」と答えています。
佐藤氏自身は、弟の祐二氏が社長を務める三東スーツには、自分が筆頭株主であるにもかかわらず関与しないことと決めていたと書いています。一方で、祐二氏は佐藤氏の選挙には深く関わり、選挙資金で苦労していたという事実があるようです。この辺も良く分かりません。

2008年8月に出た一審判決では、執行猶予付きの有罪でした。
控訴審判決は2009年10月同じく執行猶予付きの有罪でしたが、その内容は、「土地を時価より高く買ってもらった差額が賄賂だとする検察側の主張は退けられたが、前知事らが得た賄賂は土地を換金できた利益であるという判断が示された。(コンプライアンス特報)」というものでした(「物言う知事」はなぜ抹殺されたのかも参照)。収賄と言いながら賄賂額がゼロだという意味のようです。wikipediaには「高裁の判決は佐藤前知事を有罪とする前提が全て崩れているにも拘わらず、『無形の賄賂』や『換金の利益』など従来の法概念にない不可思議な論理と論法で有罪にしている。不可解極まる判決であり、一体何の罪で有罪になったのかが、全くわからないような内容になっている。」とあります。

私が想像するに、裁判所としては、「一度は自白調書に署名した以上、完全無罪は有り得ない。それが裁判所・検察ムラの掟だ。執行猶予付きで十分だ。」ということでしょうか。

いずれにしろ、佐藤栄佐久氏をサポートしていた福島県の多くの人たちが、特捜部による苛酷な取調で疲弊し、後援会も何もかも瓦解したことでしょう。佐藤氏の政治基盤は完全に葬り去られたのです。
日本を改革するリーダーたり得たかもしれない(と私がこの本を読んで印象を受けた)佐藤栄佐久氏は、こうして東京地検特捜部によって政治生命を消し去られたのです。

ところでこの本、8月16日に管直人首相が八重洲ブックセンターで購入した書籍の中にも入っていたそうですね(毎日新聞 8月16日(火))。
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佐藤栄佐久著「知事抹殺」

2011-08-21 09:16:09 | 歴史・社会
知事抹殺 つくられた福島県汚職事件
クリエーター情報なし
平凡社
福島原発事故がなければ、佐藤栄佐久氏のことに着目することはなかったでしょう。上記の本も、原発事故直後までは新刊では入手できない状況で、私は図書館で借りようとしましたがおびただしい人数の予約待ちでした。その後新刊で手に入るようになり、入手しました。

この本は佐藤氏ご本人の著作ですから、第三者の客観的な目は入っていません。そのような留保は付きますが、この本から見える佐藤氏の政治家としての力量はすばらしいものと感じました。このような人こそ日本国のリーダーとしてふさわしいのではないか、との印象を受けました。
それにもかかわらず、佐藤氏は東京地検特捜部によって政治生命を絶たれたのです。

この本では、以下の内容が語られています。
○ 参議院議員、そして福島県知事に当選するまでの足跡
○ 福島県知事として東電の原発との関わり合い
○ 小泉政権下での「三位一体改革」との関わり合い
○ 東京地検特捜部に逮捕されてから一審有罪判決を受けるまで

一審の判決が2008年8月8日、この本の初版第一刷発行が2009年9月16日、そして控訴審判決が2009年10月14日です。従って、本の内容も一審判決までになるのですが、私が購入した本のあとがきには「追記」として控訴審判決について半ページほどの文章が追加されていました。

《第3章 原発をめぐる戦い》
佐藤栄佐久福島県知事は、当初は原発反対派であったわけではありません。プルサーマルの使用についても一番最初に諒承を与えています。
○ 1987年に参議院議員として中曾根首相のフィンランド訪問に随行したとき、チェルノブイリ原発事故の恐ろしさを実感しました。

○ 福島県知事になった後の1989年、福島第二原発3号機で原子炉内に座金が流入する事故がありました。
『この事故で、強烈な教訓として残ったのは、「国策である原子力発電の第一当事者であるべき国は、安全対策に何の主導権もとらない」という「完全無責任体制」だった。事故が起きても、国にとっては東京電力や関西電力など、個別電力会社の安全管理の問題であり、事故が起きたときだけそれぞれの電力会社の役員を呼びつけ、マスコミの前で陳謝させ、ありがたく指導する。しかし、それだけなのだ。「一つの事故から得た教訓を原発関係者が共有し今後の防止につなげよう」という、航空機事故調査などでは当たり前になっている「水平展開」がまったくない。今から思えば、「同じことで同じような事故が起き続ける仕組み」だったのだ。
私は、「同じ目には二度と遭うまい」と考えた。そこで、原子力発電や原子力行政について、少しずつ勉強を始めることにした。
残念なことに、勉強がムダになることはなかった。』
『原発は巨大技術であり、その細部までわれわれはうかがい知ることはできない。ならば、原発の何を信用すればよいのか。外部から見れば、「原発を動かす人、組織、そして仕組み」が信頼に足ると思われるものであることが必要なのだ。』

○ 中部電力原発トラブルに対応して原子力安全保安院が出した点検の指示について
『これでは、点検が大事なのか運転を続けることが大事なのかわからない。私は呆れた。「これでは保安院ではなく、推進院ではないか」』

○ 2001年
『知事に就任して12年、否応なしに原発とつき合ってきたが、同じ方向しか見ず、身内意識に凝り固まる原子力技術者だけでは安全性は確保できないこともわかってきた。東京電力や経産省をふくめた「原子力ムラの論理」につき合わされて振り回された反省にもたって、「いったん立ち止まり、原点に帰って」原子力政策について考えるべきだと思った。』

○ 2002年 県エネルギー政策検討委員会
『第2回検討会で、国際基督教大学教授の村上陽一郎氏は、原子力を支える科学技術と現代社会の関係について講演され、その中で「安全学」という耳に新しい学問領域の話をされた。
「有り得ないことが次々と起きる」ということは、「起こるべくして起きている」のと同じ意味なのだ。これらはすべて日本社会に内在する問題だ、と村上氏は強調した。』

○ 2002年8月 東電の原発検査データ捏造
内部告発の手紙が、2年も前に原子力安全保安院に届いていたのに、保安院は適切に処置していませんでした。
『やはり「国と電力会社は、同じ穴のムジナだ」
私は副知事に檄を飛ばした。「本丸は国だ。敵を間違えるな」
「原子力行政全体の体質が問題だ。政策そのものを考え直さないといけないのではないか」
「日本は、原発に対し世界の共通の常識を持つべきだ。」』
『「原子力政策の責任者である(原子力委員会)委員長が役所から独立し、しっかりと原子力全体をリードしていかないと、日本の原子力はいずれストップしますよ」』
『「国が原発の安全を確保するのは当然のこと。安全宣言なんてセレモニーである茶番劇だ。」
原子力保安院は、ほとぼりの冷めるのを見計らって安全宣言を出し、電力需要期を図りながら運転再開を進めるような、「スケジュール闘争」ともとられかねない行動をしていた。』

○ 2005年 原子力委員会が「原子力政策大綱」案を発表したのに対応し、福島県はパブリックコメントを原子力委員会に提出しました。
『この中では、ヨーロッパ諸国の原子力政策決定過程について触れ、国民投票や国会の議決など、より開かれた議論の必要性について述べるとともに、これまでも一貫して主張している原子力安全・保安院の経産省からの独立についても述べている。』

『私は、優秀な原子力技術者を課長とする対策部署を新たに作り上げ、県職員の意識を高めてきたこともあって、2002年の福島第一原発データ改ざん発覚時の県としての対応は素早く、一糸乱れずにできたという自負がある。
しかし「東京の論理」はまったく違っていた。
東電サイドから見れば、私のせいで社長経験者が4人、しかも経団連トップを務めた人物まで“吹っ飛ばされた”という恨みがある。
「東電には“佐藤栄佐久憎し”という感情が間違いなく渦巻いていました。」』

こうして、2009年の著書で佐藤氏が記述した内容を列挙してみると、今回の原発事故とその後の対応でわれわれが知ることになった原子力行政の実態と問題点が、ほとんどすべて指摘されていたことに気づきます。
唯一、「津波対策が不十分である」という点を除いて。

続く
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1号機の非常用復水器稼働状況

2011-08-18 21:25:45 | サイエンス・パソコン
冷却装置停止 所長ら把握せず
NHKニュース 8月17日 18時37分
(東京電力の関係者が、政府の事故調査・検証委員会の調査に対し、証言している内容)
『福島第一原発1号機では、すべての電源が失われても原子炉を冷却できる非常用復水器と呼ばれる装置が備えられていて、地震発生直後に起動しましたが、11日午後6時半ごろからおよそ3時間にわたって運転が止まっていたことが分かっています。この理由について、東京電力の関係者が政府の事故調査・検証委員会の調査に対し、「復水器が起動していれば発生するはずの蒸気が確認できなかったため、1号機の運転員が復水器の中の水がなくなっていわゆる『空だき』になっていると疑い、装置が壊れるのを防ごうと運転を停止した」と証言していることが分かりました。安全上重要なこの情報は、当時、免震重要棟で指揮をとっていた福島第一原発の吉田昌郎所長ら幹部には伝わらず、非常用復水器が動いているという前提で対策が取られていたことも分かり、吉田所長は「重要情報の把握漏れは大きな失敗だった」という認識を示しているということです。1号機は、東京電力の解析で、地震発生から5時間という短時間のうちに原子炉の燃料が溶け落ちるメルトダウンになり、大量の水素が発生して翌日の12日に水素爆発を起こしています。これについて、エネルギー総合工学研究所の内藤正則部長は「非常用復水器が動いていれば原子炉に一定の水位があったはずだが、実際にはどんどん水位が下がっていたわけで、一刻も早く別の注水手段を取るべきだった。重要な情報が伝わらなかったことで、メルトダウンまでは時間的余裕があると思い込み、事態を深刻にした可能性がある」と話しています。』

全電源喪失時に1号機の圧力容器を冷却するための唯一の設備が非常用復水器です。その動作については非常用復水器の動作メカニズムに書きました。図面はこちらにあります。
3月11日における1号機の非常用復水器の動作状況については、不明点が多すぎます。

まず、いつ動いていていつ止まっていたのかがあいまいです。
6月18日東電報告書(福島第一原子力発電所 被災直後の対応状況について(PDF 661KB))には、わかっている時系列として以下のように記述されています。
14:52 非常用復水器(IC)自動起動
15:03頃 ICによる原子炉圧力制御を行うため、手動停止。その後、ICによる原子炉圧力制御開始。
15:37 全交流電源喪失
18:18 ICの戻り配管隔離弁(MO-3A)、供給配管隔離弁(MO-2A)の開操作実施、蒸気発生を確認。
18:25 ICの戻り配管隔離弁(MO-3A)閉操作。
21:30 ICの戻り配管隔離弁(MO-3A)開操作実施、蒸気発生を確認。

今回の上記NHKニュースがいう「3時間にわたって運転が止まっていた」というのは、18:25の閉操作から21:30の開操作までを指しているのは明らかです。

15:37 全交流電源喪失後の非常用復水器動作については、諸説があります(5月23日東電報告書(2)1号機)。
① 津波来襲後に非常用復水器が立ち上がり、その冷却効果によって圧力容器圧力が下がりすぎるので、非常用復水器のオンオフ手動操作を行っていた(マニュアル通り)。たまたまオフのときに津波が来襲して電源喪失し、オフのままで固まってしまった。
② 津波来襲時、「非常用復水器の配管破断」有無を検出するための計器の直流電源が失われ、フェールセーフ動作として「非常用復水器の配管が破断した」という信号が発信された。これによって非常用復水器の隔離弁が自動的に閉操作した。従って、津波来襲時に非常用復水器が停止した。
③ 5月23日東電報告書(東北地方太平洋沖地震発生当時の福島第一原子力発電所運転記録及び事故記録の分析と影響評価について)では、全交流電源喪失後の非常用復水器動作状況は未だ不明確であることから、シミュレーションでは全交流電源喪失以降は非常用復水器が動いていなかった前提を置いています。

その後、何らかの情報が追加されて非常用復水器の動作状況がより明確になったのでしょうか。そこがまずわかりません。

NHKニュース情報によれば、少なくとも1号機の運転員は、「18:25に、それまで動いていた非常用復水器を停止した」という意識が明確にあるようです。しかし、停止したことによる重大な影響(燃料棒がメルトダウンする)については自覚しておらず、だからこそ所長に報告しなかったのでしょう。
一方で所長は、非常用復水器が機能しているつもりであり、だからこそ淡水注入の開始は翌12日の5:46だったわけです。非常用復水器が止まっていることを知っていれば、もっと早く淡水注入を開始したことでしょう。
1号機運転員が閉操作しようがしまいが、非常用復水器はその前から停止していたのかもしれません。しかし所長は停止していることに気づいていないのですから、「運転員が意図的に停止した」という情報がもし伝わっていたら、それは大きな意味が持ったはずでした。
残念なことですが、これを言っても仕方ありません。非常用復水器が停止していたことに気づき得る手段はほかにもあったはずですから。

ps 8/18 22:40
復水器からの蒸気発生が認められなかった時点で、1号機の運転員が所長に報告すべきは「緊急報告! 非常用復水器からの蒸気発生が止まった。冷却水がからになり、非常用復水器は1号機圧力容器の冷却能力を喪失した可能性あり!!」ですね。空だきで非常用復水器が破損することなどどうでもいいのです。
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プライムニュースでの馬淵澄夫議員

2011-08-17 21:59:21 | 歴史・社会
BSフジ プライムニュース8月16日は馬淵澄夫議員をゲストとして『馬淵議員に問う代表選 消費税は?大連立は』(前編後編)でした。
馬淵議員の政権構想を聞くのははじめてでした。そこで、馬淵議員が手記を掲載しているという「文藝春秋」9月号も購入して内容を確かめてみました。

馬淵議員が語る国政の方向付け(政権構想)を聞いてみると・・・
○ 被災地の復興財源は、増税ではなく復興債で。復興というのはむしろ、世代間で引き継いでいくべきものである。
○ 復興までの長い道のりの間に、経済成長を前提とした「デフレ脱却」の政策を掲げていく。そのためには金融政策として「量的緩和」を実行するしかない。世界中がお金の流通量を増やしているのに、日本だけがマネタリーベースを下げ続けている。
○ 社会保障に関する政府の一体改革案に、経済成長を前提とした議論が抜け落ちている。本来なら「社会保障と税」ではなく「成長と社会保障と税」を一体に考えていかなければならない。

これら政策は、まさに高橋洋一氏が唱える政策に非常に近いです。
民主党の中で、このような政策が受け入れられるのかどうか。

この2年間の民主党政権を見ていて感じるのは、
“民主党議員は組合に首根っこを掴まれている”
“民主党政権は財務省に首根っこを掴まれている”
というものです。

民主党議員は、たとえ組合出身ではなくても、最初の選挙のときに地元の組合にお世話になっており、なかなか組合に不利な政策を進めにくいのだそうです。

川口マーン惠美氏「原発事故の憂鬱と空疎な議論に関心を奪われて、いまの日本にいると外が見えなくなる」
で書いたように、民主党政権は、政権運用能力に欠けているため、特に財務省の力に頼らざるを得ず、半ば財務省の言いなりにならざるを得ない、という状況にあるようです。

もしそうだとしたら、総理候補一人が好ましい政権構想を掲げたとしても、とても代表選で勝利することは難しいことになります。
また、たとえ代表選で勝利して総理に就任したとしても、その政策を実現していく政権を持つことはとても困難なこととなります。

小泉政権が種々の改革を実現できた背後には、まず小泉さんに対する国民の支持がベースにありましたが、それに加え、飯島秘書官と竹中平蔵大臣という優秀なブレーンを抱え、橋本政権時代に用意された経済財政諮問会議というツールを有効活用したことが挙げられます。高橋洋一氏、岸博幸氏らの優秀な改革派官僚を官邸に配置したことも大きかったです。
短命に終わった安倍内閣、福田内閣、さらにはさんざんな評価だった麻生内閣ですら、民主党政権に比べれば改革が推進されました。官邸に配置された改革派官僚として、原英史氏、古賀茂明氏らの存在も大きかったでしょう。

民主党政権は、国家戦略局を司令塔にするとの触れこみで経済財政諮問会議を封印しましたが、今では国家戦略局はどこへ消えてしまったか。改革派官僚を有効に使うことはまったくできず、財務省にあやつられているようです。

馬淵議員の政権構想はとてもおもしろいと思うのですが、一体どうしたら馬淵議員の政権構想を実現することができるのでしょうか。民主党単独政権では無理そうな気がします。
ところで、高橋洋一理論に近いのは、みんなの党の渡辺喜美代表です。自民党でいえば、塩崎恭久、中川秀直氏らでしょうか。
ということは、馬淵議員は民主党内で代表を目指すのではなく、みんなの党、自民党の塩崎・中川ラインと共闘を組む方が、われわれ国民にとっては良い結果を生むのかも知れません。

なお、プライムニュースでは、馬淵議員に以下の項目について質問して欲しかったです。
・改革を進めるツールとして、国家戦略局をどうしようとしているのか。
・増税の前にやるべきこととして、公務員制度改革にどのように取り組むのか。
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3月20日前後の圧力容器海水注入量推移

2011-08-15 23:26:49 | サイエンス・パソコン
8月8日の朝日新聞によると、原発の専門家が、「3月21日過ぎに3号機の海水注入量が激減し、その時点で3号機は再度再溶融した可能性がある」という報告をした旨の報道がありました。
震災10日後、2度目の溶融か 福島3号機、専門家指摘
アサヒ・コム 2011年8月8日3時2分
『東電の公表データによると、3号機炉内への1日あたりの注水量はその後(14日以降)、20日までは300トン以上を保っていた。燃料は冷えて固まったとみられる。
ところが、注入できた量は21~23日に約24トン、24日は約69トンに激減した。圧力容器の圧力が高まり、水が入りにくくなった可能性がある。
旧日本原子力研究所で米スリーマイル島原発事故などの解析を手がけた元研究主幹の田辺文也さんによると、この量は炉内の核燃料の発熱(崩壊熱)を除去するのに必要な水量の11~32%しかない。1日もあれば全体が再び溶ける高温に達する計算になるという。
田辺さんは、大規模な「再溶融」によって高温になった核燃料から大量の放射性物質が放出され、大半が圧力容器の底から格納容器まで落ちたと推測する。』

圧力容器への海水注入量が日々どのように推移したのかというデータについては、私はまとまったデータを見たことがありません。しかし上の記事によると、少なくとも3月20~24日について、日々の海水注入量実績が東電から公表されていることになります。どこかに公表されていないか、探してみました。

その結果、日々のデータを一覧できる一覧データを見つけることはできませんでしたが、日別のデータがそれぞれ記載されたデータを、経産省のサイトで見つけることができました。経産省の東京電力株式会社福島第一原子力発電所について-原子力発電所事故の状況について-のサイトには日々の報告があがっています。例えば2011年3月22日(火)の地震被害情報(第41報)(3月22日7時30分現在)及び現地モニタリング情報にあるプラントパラメータ(PDF形式:71KB)を閲覧すると、3月22日朝方の海水注入量実績が記載されています。

そこで、地震発生以降のデータを一つ一つ調べてみました。
海水注入量のデータは、どういうわけか日によって「リットル/分」と「立方メートル/時間」が使い分けられています。そこでこれらを、上記朝日新聞記事に合わせて「トン/日」に換算しました。
抽出したファイルをこちらのエクセルファイルに収納しています。リットル/分と立方メートル/時の両方が記述されている場合は、両方の合計をトン/日の欄に記述しています。

1~3号機とも、3月11~15日まではデータを見つけることができず、3月16日の分からはじめて海水注入状況のデータを見ることができます。それも、16日については「注入中」とあるのみで流量が記載されていません。流量が記載され始めるのは17日からです。
それでは、号機別に見ていきます。

《3号機》
3月17、18日は300トン/日前後を注入し、20日などは800トン/日を超える量です。そころが、3月22日6時に24トン/日と急減し、その後22、23日は「ハンチング」、24日は「流量計不良」との表示で流量が分かりません。ここの部分について、朝日新聞記事では「21~23日に約24トン、24日は約69トン」と記述されています。朝日新聞は、どのような情報からこれら流量を確認したのでしょうか。
唯一、3月22日6時の24トン/日との数値が、朝日新聞の情報と合致しています。
今回の経産省情報からは、朝日新聞の情報が正しいのかどうかが検証できませんでしたが、朝日新聞の数値が正しいのであれば、3月22~24日に3号機圧力容器への海水注入量が少なかったことになります。
次に、もし海水注入量推移が朝日新聞の記事通りだとしたら、3号機の圧力容器温度は、3月20日までは低い温度であり、21日以降に温度が急上昇しているはずです。そこで3号機圧力容器温度を確認してみました。
東日本大震災後の福島第一・第二原子力発電所の状況から、3号機圧力容器温度データ(pdf)を確認してみると、例えば圧力容器下部温度については、3月19~20日が250~350℃程度であり、21日以降はむしろ温度が下がって150~250℃程度となっています。温度データとの整合性が取れていませんね。
朝日新聞の記事にある専門家は、この点をどのように解釈しているのでしょうか。

《1号機》
朝日新聞では、3号機のみに注目しており、1号機については何もコメントしていません。しかし、今回私が収集した海水注入量推移のデータでも、また圧力容器温度データでも、実は3号機よりも1号機の方が危機的状況にあるのです。
1号機の海水注入量データについてみると、3月17、18日は「流量計なし」、3月20日にはじめて出現した水量が48トン/日と極めて少量であり、その状況は22日まで続くのです。23日になってやっと海水注入量が増大します。
3号機圧力容器温度データ(pdf)もこの点を裏付けています。3月20日に最初の温度データが得られた時点で、圧力容器下部温度は388℃であり、その後23日まで温度は上昇し続け、とうとう400℃に達します。その後温度は低下に転じ、24日には200℃以下まで低下します。
そして、温度と水量のこのような推移は、3月24日の私の記事「1号機はどうなっている?」と合致しています。「圧力容器の温度が分かったみたら、1号機は400℃に達していたので、あわてて海水注入量を増大して冷却強化を図った」と報道されていたのです。
このときは、「しかるべき海水注入量を確保していたのに温度が高く、注入量をより一層増大した」と解釈していたのですが、今回海水注入量実績を追いかけてみたらそうではありまんせでした。3月20日に注入量が測れるようになったときに、すでに注入量が極めて少ないことが分かっていたのですね。なぜこの時点で注入量を増やさなかったのか、その点が解せません。

ps 8/16 1~3号機の3月中の温度実績をエクセルデータに落としました(エクセルファイル)。出典は東電サイトのプラント関連パラメーのcsvデータです。
コメント (3)
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日本代表 日韓戦

2011-08-11 10:28:12 | サッカー
昨日の日韓戦、前半の20分過ぎから観ました。
香川真司の動きが良かったですね。1点目は最後にトラップを入れずに瞬間シュートですか。日本人離れしていると思いました。2ゴールのみならず、左サイドでの動きも良かったです。1年前は、爆発的な瞬発力に目を見張りましたが、今回は足技と位置取りが秀逸でした。
香川と本田圭佑とのコンビネーションも光っていました。今では、“香川か本田か”という二者択一ではなく、香川と本田の二人で相手ディフェンスを切り裂く光景を楽しめるようになりました。
清武弘嗣が代表初出場で2アシストは立派でしたが、あそこは2つとも自分でシュートを打つ場面でしょうね。本人もそこは反省しているようでした。とにかく初代表であそこまで試合に絡めたということは立派なもので、今後が楽しみです。

しかしそれにしても、後半の終盤は日本が追い込まれました。日本ディフェンスが何回も破綻し、たまたま韓国のシュートが枠を外れたから無失点で済みましたが、2、3点入れられてもおかしくない展開でした。
何であの時点で守備が破綻したのか。
試合展開の細かいところはわかりませんが、“遠藤に交替して家長が入ってから悪くなった”という時系列ではあります。さらにその後、ザッケローニ監督はFW香川に代えてMF細貝を入れました。ボランチをてこ入れしたように見えます。
そこで、湯浅健二さんの評価を確認すると・・・
湯浅さんも私と同じポイントに着目し、試合後にザッケローニ監督にこの点を質問していました。これに対してザッケローニ監督は「韓国に攻め込まれピンチを迎えた背景要因は、ボランチにあるのではなく、前戦の選手の動きが落ちてきたことにある」と答えたようです。一方で湯浅氏は
『まあ、そういう見方も出来るけれど、私は、交替出場した家長昭博のいい加減なディフェンスが大きな要因だったと思っているわけです。チェイス&チェックしない・・ボールがないところでのマークで、走り込む相手を簡単に「行かせて」しまう・・またチャンスなのに、協力プレスに行かない・・などなど』
とコメントされています。

今回、私が観戦を始めた前半20分過ぎの段階では、「どちらが勝ってもおかしくないな」との印象でした。しかし終わってみれば3-0という大差で大勝しました。第1のポイントは「決定力の差」ですね。日本には香川と本田がいて決めるべきときに決めた。韓国にはパクチソンがおらず、決定力不足に泣いた。

決定力の差で大勝した一方、日本の課題も見えました。

“遠藤の後釜が見つからない”

この点は、この1月にアジア杯決勝・オーストラリア戦
「唯一の懸念事項は、遠藤ヤットの後釜が見つかっていないことです。そこさえはまれば、3年後のワールドカップに向けた若返りのメドが立つことになります。」
と書いたとおりです。

こうして見ると、韓国でパクチソンが代表を引退した意味がよくわかります。「このままパクチソンが代表で踏ん張っていたら、3年後のワールドカップ本戦でパクの後任が不在の状況が起こりえる。今の時点で代表を引退することにより、後任を育てよう。」

振り返って日本はどうでしょうか。今のままでは、遠藤の後釜が見つからないままにワールドカップ本戦を迎えてしまう可能性もあります。
ザッケローニ監督もそれを心配するからこそ、日本の勝利が確定的になった時点で遠藤を家長に代えたのでしょう。
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吉村昭「三陸海岸大津波」

2011-08-08 23:26:40 | 歴史・社会
7月25日に釜石を訪問し、釜石訪問記を4部にわたって書いてきました。その東京~釜石の往復の車中で、以下の本を読みました。
三陸海岸大津波 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋

まえがきによると、吉村氏は何度か三陸海岸を旅しており、小説の舞台に三陸海岸を使ったことがありますが、いつの頃からか津波のことが妙に気にかかりだしたといいます。津波を調べはじめ、体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残しておきたい気持ちになり、この本ができあがったということです。昭和45年です。

内容は、明治29年の津波、昭和8年の津波、そしてチリ地震津波です。

今回の東日本大震災津波では、宮城県の被害が一番大きく、ついで岩手県と福島県でした。しかし明治と昭和の大津波では、岩手県が最大の被害だったようです。最大震源の位置が異なっていたのでしょうか。

吉村氏が取材した当時、明治29年津波を実際に体験した2人の人から話を聞くことができました。取材がこの時期よりも遅かったら、本人の話を聞くことはできなかったでしょう。その意味でも貴重です。
明治29年津波の各地の状況が記されていますが、40mの波高の津波、20mの高地に打ち上げられた船の記録などがあります。

昭和8年の津波は、3月3日の午前2時過ぎの地震によって起こりました。一度は地震後の津波を心配した住民も、岩手県のこの時期の午前2時です。屋外の高台に避難するには寒すぎます。そして古老が「冬の晴天には津波は来ない」という伝承を語ったので、また寝床に入ってしまった住民が多かったようです。
当時の田老村は、明治29年と昭和8年の両方とも、甚大な被害を受けることとなりました。現在の田老町には、田老尋常高等小学校生徒の作文(昭和8年)が残っており、この本に集録されています。

チリ地震津波のとき、日本の気象庁は津波予報を出していなかったのですね。チリで地震があり、ハワイでも津波が来襲していたというのに、うかつなことでした。
津波来襲前、三陸海岸では潮が引いて海底がむき出しになったそうです。明らかな津波の前兆ですが、住民は半信半疑でした。直前に地震がなかったからです。「地震がないから津波ではない」と思い込んでしまったのです。

田老町は、津波太郎(田老)という名称が町に冠せられるほどでした。しかし住民は田老を去らず、津波被害防止のために積極的な姿勢をとりました。昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、戦後になって堤防として出現しました。さらに新堤防を建設し、昭和33年に高さ最大7.7m(海面からの高さ10.6m)の新堤防を完成しました。
この本(2004年発行)の「解説」で高山文彦氏は『10年ばかり前、私は田老を訪れたことがある。異様なほどに巨大な防波堤が、視界をさえぎるように海にそそり立っていた。景観美をいちじるしく損ねる姿に閉口したけれども、それはただ過ぎ去るだけの旅人の独りよがりというものだ。20メートルをはるかに超える高さで押し寄せてくる大津波を、この防波堤がすべてくい止めることができるはずがない。海に生きる人びとは、津波の来襲を拒めない。いや、拒まないのである。』と記しています。
今回の大津波は、明治29年大津波と昭和8年大津波の記憶の想定内のできごとだったことがわかります。

この本の「再び文庫化にあたって(平成16年)」で吉村氏は、その3年前に岩手県の三陸海岸にある羅賀のホテルで津波の講演をした話を語っています。
『沿岸の市町村から多くの人びとが集まってきて、熱心に私の話を聞いてくださったが、話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。耳を傾けている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである。
「明治29年の6月15日夜の津波では、この羅賀に50メートルの高さの津波が押し寄せたのです」
私が言うと、人びとの顔に驚きの色が濃くうかび、おびえた目を海に向ける人もいた。』

明治29年と昭和8年に大被害を被った岩手県でさえ、その記憶を地元での生きた記憶として語り継ぐことには非常な困難が伴っていたことがわかります。
そうであれば、明治29年と昭和8年にさほど大きな被害を被らなかった宮城県沿岸では、なおのこと、大津波の恐ろしさを肌身で理解することは難しかったでしょう。

宮城県よりもさらに南に位置する福島県であればなおのことです。
一方、吉村著「三陸海岸大津波」では、歴史を紐解いています。三陸海岸を襲った津波を合計18例列挙しており、その第1番が、『貞観11年5月26日(西暦859年7月13日)、大地震によって死者多数を出し、家屋の倒壊も甚だしかった。と同時に津波が来襲、死者千余名に及んだ。(「三代実録」による)』として、貞観大津波をきちんと記録しているのです。
すなわち、三陸海岸大津波に注意を払う人であれば、貞観大津波は視野に入っていたはずで、さらにここ10年ほどの調査によって貞観大津波の実態も把握されてきていたのです。従って、福島県の沿岸地方で暮らす一般の方々はさておき、少なくとも原発関係の専門家であれば、過去の大津波を「知らなかった」とはいうことができず、今回の大津波を「想定外」と言い訳することもできないはずです。
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