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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

名古屋城訪問

2024-10-29 12:02:38 | 趣味・読書
10月21日、名古屋城を訪問しました。
今回の旅で、小牧山城犬山城美濃金山城と回ってきて、最後の訪問城です。

天守閣


名古屋城案内図

①東門から入城します。

①東門手前から見た堀

二之丸を歩くと、②清正公石曳きの像があります。天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられました。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられています。

②清正公石曳きの像

本丸の③東南隅櫓が見えてきます。

③東南隅櫓

④本丸表二之門から⑤枡形を経て⑥本丸に入ります。

④本丸表二之門


⑤枡形

本丸でまず目につくのは豪華絢爛な⑦本丸御殿です。本丸御殿に入場する行列ができていました。

⑦本丸御殿


本丸御殿内装


本丸御殿内装


本丸御殿内装

本丸御殿から出ると目の前に⑧天守閣がそびえています。

⑧天守閣

⑧天守閣の南に繋がって⑨小天守閣があります。現在、天守閣、小天守閣ともに、閉館中で入ることができません。

⑨小天守閣

本丸の北、⑩不明門を出て⑪御深井丸に至ります。

⑩不明門

⑪御深井丸の北西方向、木の中に⑫乃木倉庫が建っています。乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになりました。煉瓦造りで旧陸軍の弾薬庫でした。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等は消失しましたが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取り外してここに保管していたため被災を免れました。これら障壁画等は重要文化財に指定されています。

⑫乃木倉庫

⑪御深井丸の北西端に⑬北西隅櫓が建っています。古名は戌亥櫓、清洲城天守を移築したと伝えられ、清洲櫓とも称されました。重要文化財ですが、ここを訪問する観光客は皆無に等しかったです。

⑬西北隅櫓

下写真は西方向から天守閣を見ています。

⑧天守閣

下写真は南西方向から天守閣を見ています。

⑧天守閣


⑭西南隅櫓と後方に⑧天守閣

西の丸を⑮正門から出ます。

⑮正門

⑯二之丸大手二之門に立ち寄り、その後、城域の⑰東南端に至って、名古屋城訪問を終了しました。

⑯二之丸大手二之門

さて、名古屋城の来歴です。
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城しました。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家の居城でした。
長らく尾張の中心は清須城でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めました。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年頃から1616年の間に行われました。この移住は清須越しと称され、5万人を越える住民はもとより、社寺3社110か寺も移る徹底したものでした

こうして、小牧山城、犬山城、美濃金山城、名古屋城を見てまわる2泊3日の旅が終了しました。
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美濃金山城訪問

2024-10-28 10:25:40 | 趣味・読書
10月20日犬山城を訪問した後、犬山城から東方向にある美濃金山城を訪問しました。
犬山駅から、名鉄広見線でまず新可児駅に向かい、そこで同じ広見線の御嵩行きに乗り換え、明智駅で下車します。明智駅からはYAOバスでお城の近くまで移動します。
新可児駅から明智駅に向かう広見線が30分に1本、YAOバスが1時間に1本です。両者の連絡が悪く、新可児駅と明智駅で合計1時間近く待たされることになりました。
YAOバスは、城戸坂またはその前後のバス停で下車します。続百名城のスタンプは可児市観光交流館に用意されています。
バス通りから山道に入り、さらに左折して城域に入ります。

美濃金山城の案内図


当時の配置

最初に到達するのは上の案内図の①蘭丸広場です。

蘭丸広場下の登り口

蘭丸広場に位置する井戸には、下の写真の説明、「伝 蘭丸産湯の井戸 1585年秋、蘭丸がこの山頂にある金山城跡で生まれる。城には井戸がなく、ここから汲み上げて産湯に使ったと伝えられる。」とあります。

伝 蘭丸産湯の井戸

蘭丸とは、森蘭丸の名前で知られる、本能寺で信長とともに討ち死にした、森 成利(もり なりとし)(乱丸)(長定(ながさだ))その人です。森蘭丸出生1565年当時、金山城は蘭丸の父親である森可成(もりよしなり)が城主でした。
蘭丸広場到着後、妻は蘭丸広場で休憩し、私は本丸まで往復してきました。

蘭丸広場を望む

蘭丸広場から登っていくと②展望台があります。展望台からは、南方の景色を見ることができます。

② 展望台


展望台からの眺め


展望台からの眺め

帰りのバスの時間があるので、本丸往復は急ぎました。③三の丸を経て、④本丸の石垣を眺め、⑤本丸に至ります。

③ 三の丸


④ 本丸の石垣


⑤ 本丸

本丸からは、北西方向、北東方向を望むことができます。

本丸からの眺め


本丸からの眺め


⑥ 本丸の枡形虎口

さて、美濃金山城の来歴です。
現代の日本地理上では、美濃金山城は交通の便の悪い山奥に立地している印象です。
しかし、戦国末期、金山城は美濃の中央に位置し、木曽川や東山道を眼下に見る要衝にあることから、美濃統治のための重要な城でした。尾張統一を果たした信長が、美濃を攻略する際にまずこの城を押さえたのもそのためです。

1537年、斎藤道三の命をうけ、その猶子斎藤大納言正義はこの山頂(標高273m)に築城、鳥ヶ峰城と称しました。
1565年、織田信長は東濃経路の拠点として森三左衛門の尉可成(よしなり)を金山城主としました。以来、森可成(よしなり)・長可(ながよし)・忠政父子三代の居城としました。長可(ながよし)は可成(よしなり)の次男、忠政は可成(よしなり)の六男、成利(なりとし)(乱丸)(長定(ながさだ))は可成(よしなり)の三男です。
1582年4月、長可(ながよし)が信州海津城(後の松代城)城主となり、弟の乱丸が金山城主となります。
同年6月、本能寺の変で乱丸、坊丸、力丸が死去します。
1583年、金山城を拠点とした、長可(ながよし)による東美濃の制圧が完了します。
1584年、小牧・長久手の戦いで長可(ながよし)死去。弟の忠政が城主となります。
1600年、忠政が海津城主として信州川中島へ転封となり、金山は犬山城主石川光吉の領有となります。
その後、金山城は破却され、解体された金山城の建材は、筏に組まれ木曽川を下し、犬山へ輸送されたと伝わります。

こうして美濃金山城訪問を終了しました。
バス-明智駅-新可児駅-犬山駅-名古屋駅と乗り継ぎ、この日は名古屋のホテル泊です。
以下次号
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犬山城訪問

2024-10-27 10:52:55 | 趣味・読書
10月20日 犬山城を訪問しました。
前日、小牧山城を訪問し、犬山駅近くのホテルに宿泊しました。ホテルに荷物を預け、犬山城に向かいます。スマホの道案内に従うと、駅近くの大通りを北上し、ついで左折して魚新通りに入り、右折して本町通りを経由したようです。本町通りが、城下町のメイン通りのようでした。

犬山城天守閣

本町通りから、高台にある犬山城の天守閣がそびえています。

城下町から犬山城を望む


説明図
上の説明図で、大手道から本丸に入る位置(⑪)の門が現存しています(下写真)。門の名前がわかりませんでした。

⑪ 大手道から本丸に入る門

門を入ると本丸広場です。まずは事務所で百名城のスタンプをゲットしました。
本丸広場の奥(⑫)に天守閣がそびえています。

⑫ 犬山城天守閣

犬山城は1537年に築城されました。天守閣の建造年代は不明ですが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろ、とあります。天守は現存する日本最古の様式といわれています。国宝に指定されている由縁です。

天守閣入り口付近の石垣


天守閣入り口付近の石垣


木組み


階段

最上階の展望回廊から四周を見渡すことができます。回廊は成瀬氏による増築とされています。回廊の手すりは決して高いとはいえず、他の観覧者にちょっと押されたら転落しそうです。今まで転落者が発生しなかったことが奇跡のようです。
城の北には、城の直下を木曽川が流れています。

木曽川ライン大橋を望む(北西方向)


木曽川ツインブリッジ犬山橋を望む(北東方向)

天守閣の南には、大手道から本丸に入る門(⑪)が見えます(下写真の左下)。下写真には、門の右側に入母屋の建物が見えます。上の説明図に従えば、⑬の鉄砲櫓(m)でしょうか。

天守閣から 左下は大手道から本丸に入る門(⑪)


天守閣骨組み模型


上段の間 武者かくしの間

こうして犬山城訪問を終えました。
城下町の本町通り、魚新通りには、昔からの家が建ち並んでいます。

町並み

下の写真の場所で、近くの団体の案内人が「やまの格納庫」と説明しているのが聞こえました。やま=山車でしょう。

山車(やま)の格納庫

さて、犬山城の歴史です。
築城されたのは1537年、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築城されました。
1565年、織田家一族の領地争いの結果、織田信長が犬山城を攻略しました。
1584年、小牧・長久手の戦いが始まりました。当時の犬山城主は織田信長の次男信雄(のぶかつ)の家臣中川定成でしたが、伊勢に出陣していたため不在であり、秀吉軍の池田恒興が木曽川を渡り城内に侵入し、落城しました。後に秀吉が入城しました。
1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦で、西軍方の武将達が退去し、東軍に占拠されました。
1617年、家康の重臣の成瀬正成が犬山城を拝領、成瀬氏が幕末まで城主を務めることになります。
1891年、濃尾大地震によって天守は半壊しました。その後、修理を条件として愛知県から旧藩主の成瀬氏に譲渡され、城は無事修復されました。
1961年に天守の解体修理が行われました。2004年、城は成瀬氏の個人所有から財団法人の所有にかわりました。

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小牧山城訪問

2024-10-23 18:10:34 | 趣味・読書
10月19~21日にかけて愛知県周辺を旅し、2泊3日で以下のお城を巡ってきました。
小牧山城→犬山城→美濃金山城→名古屋城

まずは小牧山城訪問の経緯を記事にします。

小牧山城の最寄りは、名鉄小牧線(上飯田線)の小牧駅です。東京から新幹線で名古屋駅を降り立ち、小牧駅に向かうためには、乗り換えが必要でした。名古屋駅から東山線に乗って栄で乗り換え、名城線右回りに乗って平安通で乗り換え、そこから上飯田線で小牧駅に到着します。
小牧駅から小牧山城まではさらに路線バスを利用します。今回、小雨が降っていたこともあり、小牧駅から小牧山城までタクシーを利用しました。

小牧山は城域ではあるのですが、その頂上に天守閣が建っていたわけではありません。現在、小牧山を遠望すると、その頂上に天守閣が建っているように見えます。これは、一民間人が建設した歴史館で、天守閣のような外形を模しているだけです。

石垣と歴史館

小牧山は、平野の中にポツンと浮かんでいる独立の山です。その山全体の景色を写真に撮りたいと思っていましたが、タクシーで現地に向かう途中では撮れる場所がありませんでした。以下にウィキの写真を拝借して掲載します。
小牧山(撮影場所:小牧市堀の内ホームセンターコーナン小牧店屋上)


小牧山城案内図

上の案内図の右下、史跡標識と書かれているあたりから城域に入ります。まずはれきしるこまきで続百名城のスタンプをゲットしました。そこから、桜の馬場を経由して大手道の途中に出ます。

① 大手道 下側
上の写真が①の位置から下方を見た写真、下の写真が②の位置から上方を見た写真です。織田信長の築城の特徴らしいですが、安土城と同様、大手道が直線の階段になっています。防御性についてはあまり考慮されていないようです。

② 大手道 上側

上の案内図の「園路(大手道)」と書かれた赤線の道に沿って進みます。途中、③、④の位置の写真(?)を挙げておきます。④のあたりで山頂を望むと、⑤の石垣と歴史館の写真を撮ることができます。







⑤ 石垣と歴史館


⑤ 石垣と歴史館


⑥ 頂上からの遠望


⑤ 石垣

頂上に到達し、さらに歴史館の4階から景色を眺めます。
                     犬山城

犬山城方向を望む
小牧・長久手の戦いにおいて、織田信雄・徳川家康軍が小牧山城を根拠地と、一方の豊臣秀吉側は犬山周辺に着陣し、両軍が砦の修築や土塁の構築を行いました。その結果、双方共に手が出せなくなり、挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥りました。その戦域が、上の写真で見える、小牧山から犬山城までの平野地帯になるのですね。

                       長久手古戦場

長久手古戦場方向を望む

このような膠着状態の中、秀吉側は池田恒興の献策により、秘密裏に三河へ向けての進軍を行います。家康の根拠である三河を襲えば、家康は小牧を守ることができなくなるとの思惑です。
しかし家康はこの動きを察知し、長久手のあたりに進軍して秀吉軍に襲いかかりました。長久手の戦いです。上の写真の遠方に位置するのが長久手古戦場のようです。

さて、小牧山城の来歴です。
名前から、小牧・長久手の戦いにおける信雄・家康軍の根拠地がまずは頭に浮かびます。しかし小牧山城は、それ以前、織田信長によって築城され、信長の居城としていた時期があるのです。
信長は岐阜城(稲葉山城)を攻略するため、1563年に小牧山に築城し、清洲から居城を移したのです。2004年からの試掘調査で、城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明しました。ひょっとすると、小牧山の頂上には天守閣のような建物も存在していたのかも知れません。
織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、1567年、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となりました。
その後、1584年、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置いたのは前述の通りです。

こうして小牧山城訪問を終えました。帰りは路線バスを用い、小牧市役所前から名古屋駅まで移動しました。小牧駅から名鉄で犬山駅に向かいます。本日は犬山のホテルに宿泊です。
以下次号
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滝山城訪問

2024-10-13 21:05:03 | 趣味・読書
10月13日、八王子市にある滝山城を訪問しました。
中央線の八王子駅とその北に位置する青梅線の拝島駅との間で、多摩川は北西から南東に向かって流れています。その多摩川の南側に、多摩川と平行して流れる川が谷地川です。滝山街道は谷地川沿いに伸びています。多摩川と谷地川の間は、細長い丘陵地帯(加住北丘陵)となっており、都立滝山自然公園にも指定されています。この丘陵の一角に、今回訪問する滝山城があります。
滝山城で一番有名なのは下の写真の引橋のようです。追々説明します。

引橋

今回、京王線で終点の京王八王子駅にいたり、そこから路線バスを利用しました。滝山街道沿いの滝山城址下停留所で降ります。
滝山城址への入口のところ(案内図の⑧)に、お城のパンフレット置き場がありました。下の案内図中の丸数字は、以下の写真説明の冒頭に付した丸数字と対応しています。

案内図


地形図

お城への道は、いきなり上り坂で、両側はうっそうとした竹林です。

① 上り坂の竹林

急坂を登り切り、右側に位置する三の丸を過ぎると、左側に②千畳敷址です。広い平地になっています。

② 千畳敷


③ 角馬出の説明図

説明によると、滝山城の特徴は、「二の丸の集中防御」にあるといいます。千畳敷から二の丸に向かうルートには、③角馬出が設けられています。上写真が角馬出の説明図です。「馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である」と説明されています。
下の写真は分かりづらいのですが、左下の手前が千畳敷側、その右に馬出の空堀があり、空堀の向こうに二の丸に向かう角々したルートが配置されています。

③ 角馬出

さて、二の丸を経て④中の丸に至りました。中の丸の一番奥に下写真の建物があります。以前は国民宿舎の建物だったようです。ここで、続百名城のスタンプをゲットすることができます。

④ 中の丸

④中の丸と⑥本丸との間は深い空堀となっています。そしてその空堀に引橋が設けられており、中の丸から本丸に行くことができます。「引橋」と呼ばれており、敵襲などの緊急な時に橋板を取りはずせるように作った橋なのでしょう。

⑤ 引橋(空堀の底から)


⑤ 引橋(空堀の底から)


⑤ 引橋(本丸の側から)


⑤ 引橋から空堀を見る

⑤引橋を渡ると、そこは⑥本丸です。奥に鎮座しているのは霞神社でしょうか。

⑥ 本丸


⑥ 本丸の石碑

霞神社の裏手をさらに進むと、もう一つお社があります。⑦金比羅社でしょうか。

⑦ 本丸奥(金比羅社)

そして金比羅社の近くで、多摩川を望むことができました。

⑦ 多摩川


⑦ 多摩川

金比羅社から元に戻るには、元来た道をたどることもできますが、金比羅社の鳥居からはるか下に降る階段道もあります。そこを降りることとしました。その途中から鳥居を見上げたのが下写真です。

⑦ 本丸奥に向かう階段
そして階段を降りきった谷底が、本丸と中の丸の間の深い空堀でした。引橋を見上げることができました。
ここからは、元来た道をたどって城を後にしました。バス通りに出たところに、以下の碑が建っていました。

⑧ 入口の碑

途中の説明板に書かれていた周辺の城郭地図を挙げておきます。

周辺の城郭

さて、滝山城の説明です。現地でもらったパンフレットを参考にしました。
滝山城は、丘陵の自然地形を巧みに利用し、巨大な空堀で主郭部を囲んでいます。中世城郭の最高傑作ともいわれているようです。
近年の研究によると、北条氏照(小田原北条氏四代氏政の弟)が、由井領を支配していた大石綱周の養子になり、1567年までに滝山城を築城して移転したと考えられているようです。加住丘陵の北は多摩川に浸食された急峻な断崖、南は谷戸が入り組んだ複雑な形状になっています。滝山城はこうした地形を利用し、堅固な構えとなっていました。
1569年に甲斐の武田信玄が上野から武蔵に侵入して滝山城を攻撃した際にも守り抜いたようです。
その後、氏照は甲斐を重視して八王子城の築城に取りかかり、その完成後、1587年までに移っていきました。その後、滝山城は廃城となりました。
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山中城訪問

2024-10-02 23:34:24 | 趣味・読書
9月29日、静岡県三島市にある山中城を訪問しました。

東海道新幹線を三島駅で降り、そこからバスで山中城跡に向かいます。まずは三島駅の観光案内所に立ち寄り、案内図を入手しました。そこでのお話しで、バス乗車券は片道810円だが、三島1日券(みしまるきっぷ)を1500円で購入して使った方が安くなる、ということで、観光案内所で購入しました。

山中城跡

西の丸と西櫓の間の障子堀

三島駅発の路線バスは、元箱根港行きです。
バスは、国道1号を、箱根峠に向かってうねうねと登っていきます。箱根峠は標高800m程度、その途中の山中城は標高500mを超えます。三島の平野から、はるかに登ってきていることがわかります。
wikipedia 箱根火山と山中城などの位置関係
現国道1号から、国道1号(旧道)へ入ると、そこが山中城跡です。ここには箱根旧街道も来ています。


案内図

上の案内図の左下、山中城跡バス停でバスを降ります。
国道1号(旧道)を渡った反対側の案内所・売店の前に、百名城スタンプが置いてあります。

それでは、山中城に入っていきます。
上の図で、③三の丸堀-田尻の池-④二の丸橋-元西櫓-⑤西の丸-西の丸の⑦西から⑪西曲輪-帯曲輪・西木戸・⑬休憩所を回って溜池-そこから元西櫓に戻って⑯二ノ丸-⑰本丸-二ノ丸橋から元に戻る、というコースを辿ります。
案内図中の丸数字と、下の写真冒頭の丸数字が対応しています。


① 三の丸堀

三の丸堀(上写真)をたどって登り、その先は二の丸橋へ向かう堀(下写真)をたどって上ります。

② 二ノ丸西の堀


③ 二ノ丸西の堀


④ 二ノ丸西の堀 左は二ノ丸

二ノ丸橋に到着しました。二ノ丸橋は、元西櫓(下写真 橋の向こう)と二ノ丸(橋の手前)の間の堀をまたいでいます。

⑤ 二の丸橋 その先が元西櫓 その奥が西の丸、手前が二ノ丸

西の丸に至りました(下写真)。

⑥ 西の丸 奥に堀を隔てて西櫓


⑦ 西の丸から

西の丸を一度降り、西の丸の先にある西櫓に向かいます。下の写真、右が西の丸、奥の高いところが西櫓です。土塁が崩落しています。大雨のせいだそうです。

⑧ 西の丸横の土手の崩落


 西の丸と西櫓の説明図

西の丸と西櫓は、ともに四周が堀(空堀)によって囲まれています。この城の堀は、下写真の「障子堀」、さらにその下写真の「畝堀」が特徴です。畝のような障壁を設けた理由は、敵が堀内を自由に移動することを防ぐためだそうです。「障子堀」は、後北条氏の城に独特の形態のようです。
畝の傾斜度は50~60度で、400年前は滑りやすいローム層が露出し、人が堀に落ちれば脱出は不可能だったと推定されています。

⑨ 西の丸と西櫓の間の障子堀


⑩ 西櫓横の畝堀


⑪ 西櫓?


⑫ 西櫓から西の丸方面

下の写真の右1/3付近に、晴れていれば富士山が見えるそうです。

⑬ 西櫓付近から富士山の方向を望む


⑭ 西櫓

下写真、奥が西櫓、左が西の丸で、その間には複雑な形状の障子堀が形成されています。

⑮ 西の丸堀

西の丸の周囲をぐるっと一回りし、元西櫓に戻ってきました。ここから二ノ丸橋を渡って二ノ丸、さらにその先の本丸西橋を渡って本丸に至ります。

⑯ 本丸西橋 手前が二ノ丸、奥が本丸


⑰ 二ノ丸から本丸を望む

こうして山中城の主要部を探索し、二ノ丸橋から三の丸堀を経由して出発地点まで戻りました。

山中城は、戦国時代末期の1560年代に、小田原に本城をおいた北条氏が築城しました。その後、1589年豊臣秀吉と不仲となった北条氏は、秀吉の小田原攻めに備えて急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。しかし翌1590年3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
「何でこんな山の中に城を造ったのか?」と疑問に思いましたが、考えたら、ここ山中城は旧東海道に接しており、豊臣軍が小田原に進軍するためには必須の通過路であり、北条氏はここ山中城で豊臣軍を食い止めたかったのですね。
400年前の遺構がそのまま復元されている山城で、堀や土塁がよく残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがある、と評されています。

三島市のホームページに、面白い記事を見つけました。「山中城合戦 戦国時代最大の攻城戦
『戦いは岱崎(だいさき)出丸と西櫓から開始され、壮絶な銃撃戦が展開されました。中でも(豊臣軍)先鋒の一柳隊は壊滅的打撃を被り、直末自身、流れ弾により戦死を遂げました。一方、(豊臣軍)中村隊も岱崎出丸に執拗な攻撃を繰り返し、渡辺勘兵衛が一番乗りを果たすと、戦いの場はやがて二ノ丸、本丸へ移り、圧倒的な数の前に守備兵は程なく壊滅、城主松田康長も戦死して、正午過ぎには山中城は落城したものと見られます。両軍の戦死者約二千人とも考えられており、戦国時代最大の攻城戦と言われています。
城攻めは、攻める側の被害が甚大であるため、山中城に見られるような力攻めはしないのが普通です。ではなぜこのような凄まじい戦いになったのでしょうか。』
として、その理由を説明しています。
豊臣軍の総大将は豊臣秀次であり、小牧・長久手の戦いの汚名をそそごうとする、秀次の決死の覚悟があったものと見られます。
なお、最も激戦となった岱崎出丸は、このブログ冒頭の案内図の左端からさらに左に行ったところにあります。今回われわれは訪問しませんでした。
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