弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

山中城訪問

2024-10-02 23:34:24 | 趣味・読書
9月29日、静岡県三島市にある山中城を訪問しました。

東海道新幹線を三島駅で降り、そこからバスで山中城跡に向かいます。まずは三島駅の観光案内所に立ち寄り、案内図を入手しました。そこでのお話しで、バス乗車券は片道810円だが、三島1日券(みしまるきっぷ)を1500円で購入して使った方が安くなる、ということで、観光案内所で購入しました。

山中城跡

西の丸と西櫓の間の障子堀

三島駅発の路線バスは、元箱根港行きです。
バスは、国道1号を、箱根峠に向かってうねうねと登っていきます。箱根峠は標高800m程度、その途中の山中城は標高500mを超えます。三島の平野から、はるかに登ってきていることがわかります。
wikipedia 箱根火山と山中城などの位置関係
現国道1号から、国道1号(旧道)へ入ると、そこが山中城跡です。ここには箱根旧街道も来ています。


案内図

上の案内図の左下、山中城跡バス停でバスを降ります。
国道1号(旧道)を渡った反対側の案内所・売店の前に、百名城スタンプが置いてあります。

それでは、山中城に入っていきます。
上の図で、③三の丸堀-田尻の池-④二の丸橋-元西櫓-⑤西の丸-西の丸の⑦西から⑪西曲輪-帯曲輪・西木戸・⑬休憩所を回って溜池-そこから元西櫓に戻って⑯二ノ丸-⑰本丸-二ノ丸橋から元に戻る、というコースを辿ります。
案内図中の丸数字と、下の写真冒頭の丸数字が対応しています。


① 三の丸堀

三の丸堀(上写真)をたどって登り、その先は二の丸橋へ向かう堀(下写真)をたどって上ります。

② 二ノ丸西の堀


③ 二ノ丸西の堀


④ 二ノ丸西の堀 左は二ノ丸

二ノ丸橋に到着しました。二ノ丸橋は、元西櫓(下写真 橋の向こう)と二ノ丸(橋の手前)の間の堀をまたいでいます。

⑤ 二の丸橋 その先が元西櫓 その奥が西の丸、手前が二ノ丸

西の丸に至りました(下写真)。

⑥ 西の丸 奥に堀を隔てて西櫓


⑦ 西の丸から

西の丸を一度降り、西の丸の先にある西櫓に向かいます。下の写真、右が西の丸、奥の高いところが西櫓です。土塁が崩落しています。大雨のせいだそうです。

⑧ 西の丸横の土手の崩落


 西の丸と西櫓の説明図

西の丸と西櫓は、ともに四周が堀(空堀)によって囲まれています。この城の堀は、下写真の「障子堀」、さらにその下写真の「畝堀」が特徴です。畝のような障壁を設けた理由は、敵が堀内を自由に移動することを防ぐためだそうです。「障子堀」は、後北条氏の城に独特の形態のようです。
畝の傾斜度は50~60度で、400年前は滑りやすいローム層が露出し、人が堀に落ちれば脱出は不可能だったと推定されています。

⑨ 西の丸と西櫓の間の障子堀


⑩ 西櫓横の畝堀


⑪ 西櫓?


⑫ 西櫓から西の丸方面

下の写真の右1/3付近に、晴れていれば富士山が見えるそうです。

⑬ 西櫓付近から富士山の方向を望む


⑭ 西櫓

下写真、奥が西櫓、左が西の丸で、その間には複雑な形状の障子堀が形成されています。

⑮ 西の丸堀

西の丸の周囲をぐるっと一回りし、元西櫓に戻ってきました。ここから二ノ丸橋を渡って二ノ丸、さらにその先の本丸西橋を渡って本丸に至ります。

⑯ 本丸西橋 手前が二ノ丸、奥が本丸


⑰ 二ノ丸から本丸を望む

こうして山中城の主要部を探索し、二ノ丸橋から三の丸堀を経由して出発地点まで戻りました。

山中城は、戦国時代末期の1560年代に、小田原に本城をおいた北条氏が築城しました。その後、1589年豊臣秀吉と不仲となった北条氏は、秀吉の小田原攻めに備えて急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。しかし翌1590年3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
「何でこんな山の中に城を造ったのか?」と疑問に思いましたが、考えたら、ここ山中城は旧東海道に接しており、豊臣軍が小田原に進軍するためには必須の通過路であり、北条氏はここ山中城で豊臣軍を食い止めたかったのですね。
400年前の遺構がそのまま復元されている山城で、堀や土塁がよく残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがある、と評されています。

三島市のホームページに、面白い記事を見つけました。「山中城合戦 戦国時代最大の攻城戦
『戦いは岱崎(だいさき)出丸と西櫓から開始され、壮絶な銃撃戦が展開されました。中でも(豊臣軍)先鋒の一柳隊は壊滅的打撃を被り、直末自身、流れ弾により戦死を遂げました。一方、(豊臣軍)中村隊も岱崎出丸に執拗な攻撃を繰り返し、渡辺勘兵衛が一番乗りを果たすと、戦いの場はやがて二ノ丸、本丸へ移り、圧倒的な数の前に守備兵は程なく壊滅、城主松田康長も戦死して、正午過ぎには山中城は落城したものと見られます。両軍の戦死者約二千人とも考えられており、戦国時代最大の攻城戦と言われています。
城攻めは、攻める側の被害が甚大であるため、山中城に見られるような力攻めはしないのが普通です。ではなぜこのような凄まじい戦いになったのでしょうか。』
として、その理由を説明しています。
豊臣軍の総大将は豊臣秀次であり、小牧・長久手の戦いの汚名をそそごうとする、秀次の決死の覚悟があったものと見られます。
なお、最も激戦となった岱崎出丸は、このブログ冒頭の案内図の左端からさらに左に行ったところにあります。今回われわれは訪問しませんでした。
コメント
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