弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

アジア杯決勝・オーストラリア戦

2011-01-30 15:18:34 | サッカー
厳しい戦いでした。日本代表はよくぞ勝利を勝ち取ったものです。

決定的チャンスの数ではオーストラリアが日本を上回っていましたが、オーストラリアはそのチャンスに決めきれず、日本は数少ないチャンスの一つをものにして勝利を手に入れました。

後半11分、右サイドの藤本に代わってセンターバックの岩政が入ったときは、いったいどのような布陣を採用したのかと呆気にとられましたが、それまでオーストラリアに何度も危ないシーンを作られてていたのに、それからはピタッとオーストラリアの攻撃を封じました。
一夜明けて本日のテレビ番組では繰り返しそのザッケローニ采配について解説がなされています。藤本 → 岩政のひとりの交代に付随して、岡崎を左から右へ、長友を前へ、今野を中央から左サイドバックへ、というポジションチェンジを敢行したのですね。選手たちは交代とポジションチェンジの意味合いを瞬時に的確に理解して行動したようで、その作戦は見事にはまりました。
監督の試合の読みも見事なら、監督の作戦変更を誤解なく理解してピッチで実現した選手たちも見事でした。

さらには、延長前半に交代で入った李忠成が華麗なゴールで期待に応えました。あの場面で、よくぞ難しいダイレクトボレーシュートを打ったものです。普通ならまずはヘディングを、そうでなければワントラップを入れるでしょう。本人のコメントでは、トラップすると失敗すると思ってボレーシュートを打ったとのことです。とにかくゴールネットを揺らすことができて良かったです。

アジア杯に向けて代表が合宿に入ったとき、たしか10人しか集まらなかったと記憶しています。
グループリーグ第1戦のヨルダン戦は、かろうじて引き分けに持ち込んだような試合でした。ザッケローニ監督は、準備不足だしフィジカルコンディションが良くないが、これからチームをまとめていく、というスタンスでした。
そして1戦ごとに、監督が宣言したとおり、チームは目に見えて成長しましたね。
もともと、若い選手を連れてきているのであり、若い選手に経験を積ませるのが第1目的、上位に進出できればもうけもの、といった編成だったのでしょう。それが最後は、手が届かないかと思われた韓国とオーストラリアに勝ってしまったのですから、こんなすごいことはありません。

出場したメンバーにとって、今回の経験は大きな糧となったことでしょう。
唯一の懸念事項は、遠藤ヤットの後釜が見つかっていないことです。そこさえはまれば、3年後のワールドカップに向けた若返りのメドが立つことになります。
今まで、これほどスムーズに代表チームの若返りがされたことがあったでしょうか。
この点でも、ザッケローニ監督の手腕は見事でした。

香川選手は全治3ヶ月ということです。何とか、怪我前と同じパフォーマンスで復帰を図ってもらいたいと願っています。
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アジア杯・日本対韓国戦

2011-01-27 20:57:45 | サッカー
サッカーの試合にこんなにしびれたのは何年ぶりでしょうか。少なくともこの5年間はありませんでした。
特に前半戦。椅子に座って観戦しながら気がついたら、下肢が小刻みに揺れています。武者震いの一種でしょうか。ハーフタイムになって「この大会で本田(圭佑)は一皮むけたような気がする」と発言したら、自分の声が上ずっているのにびっくりしました。

ダイレクトパス回しで韓国ディフェンスを崩しての攻撃は見事でした。各選手がお互いの意図を理解し合いながら、一つの意思のもとでパスが回っているように感じました。

前日のテレビ番組では、「韓国右サイドパックのチャ・ドゥリの裏のスペースを狙え」とのコメントがありました。
この点は、フランスワールドカップ日本対ジャマイカ戦で、ジャマイカのシモンエス監督が日本の左サイドパック相馬の裏を徹底的に狙わせた故事を引くまでもなく、私も大賛成でした。そして日本の1点目は、まさにこの点を攻めた結果として生まれたのでした。
本田に渡る前のパス回しで韓国ディフェンス陣を混乱に陥れ、前を向いた本田はディフェンス3人を引きつけた上でチャ・ドゥリの裏に走り込んだ長友にドンピシャのパスを供給しました。
澤登さんの解説によると、長友は“裏へは走らないよ”とだらだらと動き、チャ・ドゥリが本田に気を取られて長友から目を離したとたんに裏にダッシュした、ということでした。そのような戦術を長友と本田の間で話し合っていたというのです。

本田圭佑は、今回の大会でパサーとして活躍しています。
ほんの1年半前、09年9月に本田は以下のような発言をしています(サッカー 日本対オランダ)。
『「サイドバック(SB)の内田と(長友)佑都には『上がり過ぎるな』と言った。自分が上がったときにチャンスになると思っているようだけど、オレも(自分が)1対1のときはチャンスと思っている。(上がって)『オレのスペースを消さないでくれ』と言った」。自らの考えで、サイドでの数的優位を目指すSBを抑えつけた。』
それが今回は、本田を追い越してサイドを駆け上がった長友に絶妙のパスを供給し、日本の1点目を演出したわけですから、隔世の感です。

しかし、後半戦になると日本の華麗なプレーは影をひそめ、膠着した戦いとなりました。それにつれて、私の高揚感もおさまり、まあ普通に試合を楽しむに至りました。

延長戦前半、本田のど真ん中PKには驚かされましたが、細貝に助けられました。
私が細貝選手と一緒の写真を撮ったのはもう3年半も前のことです。浦和にてで紹介したように、埼玉スタジアムのビューボックスで浦和レッズの試合を観戦した際、細貝選手とエスクデロ選手がわれわれの部屋を訪れてくれたのです。そのときの写真を以下に掲載します。

モザイクのかかっていない中央左が細貝選手です。右端奥の二人のうち、右が知人、左が私です。このときは、細貝選手がベンチにも入らないメンバーであったからわれわれの部屋に来てくれたわけですが、3年半が経過し、その細貝選手が代表戦で貴重な1点をもぎ取ったわけで、わがことのように嬉しいです。

延長戦後半のフリーキックからの日本の失点。5バックとなった日本の守備が棒立ちになったこともありますが、あの場面でフリーキックを与えた本田拓也選手の不用意なファウルがいただけませんでした。

私の高揚のピークは前半戦でしたが、翌日の報道ではとにかくPK戦で盛り上がったようですね。
最初の2本を阻止したキーパー川島は一躍ヒーローになりました。確かに素晴らしいセーブです。ただしこの試合での川島の守備については、思い切りの悪さが目につきました。その点では、カタール戦でのミスが尾を引いていたように思います。

試合途中、韓国の選手がツバを吐く場面があり、“あんなとこでツバを吐いたら本田に当たるんじゃないか”と違和感を持ちましたが、同じように感じた観戦者は確かにいたようです。

香川の怪我には驚かされました。接触プレーではなく、試合中に骨折したようですね。香川の途中交代、やはり異変を察知した上での交代だったのでしょうか。
今大会、本田圭佑抜きでの試合経験はありますが(サウジ戦)、香川抜きでの経験はありません。オーストラリアとの決戦ではどのような布陣を敷くのでしょうか。こちらにも書いたように、サウジ戦での柏木は機能しているように思えました。
私は香川真司選手はどこまで伸びるかにおいて、「何とか大怪我をせずに伸びていってほしいものです。」と祈念しましたが、起きてほしくないことが起きてしまいました。ブンデスリーガでの後半戦、ベストコンディションで再登場できるかどうか危ぶまれます。せっかくの上り調子だったのに。

ところで、私は4年半前にW杯後遺症に書いたように、ドイツW杯がトラウマとなって、日本代表戦を素直に楽しめなくなっていました。去年の南アW杯についても、日本中が沸き立っているのに、私一人白けているという情けない状態でした。
ザックジャパンになってからですね。どうやら後遺症の傷も癒え、心から日本代表を応援できるようになりました。
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中国の「空母キラー」ミサイル

2011-01-25 20:43:46 | 歴史・社会
昨年12月、日経新聞の「私の履歴書」米ウィリアム・ペリー元国防長官の巻について、何度も記事にしました(ミサイルギャップとキューバ危機北朝鮮核疑惑危機とペリー米国防長官普天間問題とペリー米国務長官)。まだ書き残しておきたいというエピソードがあったのですが、なかなか時間が取れませんでした。

1996年3月、中国はミサイル演習と称して台湾近海に向けて3発のミサイルを発射しました。この2週間後、台湾は総統選挙を控えており、台湾では中国からの独立の気運が高まっていたのに対し、台湾近海に向けてのミサイル演習はこの独立気運を牽制する目的でした。実際、ミサイル実験の後、中国指導部は強気の発言で台湾の独立に強い警告を発します。

米国のペリー国防長官は、ミサイル発射は演習の域を超えるものではなく、一種の威圧的外交として台湾の総統選挙に影響力を誇示するものに過ぎないであろうと分析していました。一方で、このミサイル演習を米国が非常に深刻に受け止めているということを中国に分からせておく必要がある。そのためにペリー氏はクリントン大統領に進言し、横須賀を母港とする空母インディペンデンスを中核とする戦闘グループを台湾周辺海域に向かわせるとともに、インド洋で待機していた原子力空母ニミッツを中核とする機動部隊も台湾近海へ向かわせました。
インディペンデンスが台湾周辺に到着するまでに中国はミサイル演習を終えており、事態は沈静化していました(2010年12月25日記事)。
『あの事件以来、中国は海軍力の増強にまい進するようになっていった。そして、今、中国は南シナ海の南沙諸島だけでなく、東シナ海の尖閣諸島を巡っても領有権を主張。自国の海軍に所属する軍艦部隊を沖縄・宮古島周辺海域で堂々と航行させるなど日本と台湾の周辺海域で軍事プレゼンスを誇示している。
「中国は軍事大国ではあるが、西太平洋地域で最強の軍事力を持つのは米国であることを思い起こすべきだ。」
中国が演習を続けていた時、私は米議会でこう述べ、中国軍部を意図的に強く牽制して見せた。もちろん、その思いは今も微動だにしていない。』(12月26日記事)

中国が、敵空母部隊に対しての強力な攻撃兵器を開発しているという話が最近出てきました。1月16日の朝日新聞にも記事が掲載されています。あるいはこちらの記事。
それは「対艦弾道ミサイル(ASBM)」であり、ほぼ完成してすでに部隊配置も始まっているようです。
ASBMとは中距離弾道ミサイル(DF21)を改造して、はるかかなたの洋上を航行する空母を攻撃できるようにした新兵器で、防御が難しいことから「空母キラー」とも呼ばれています。人工衛星から誘導するようです。
射程は1500キロを超えるということで、日本列島は沖縄を含めてすべてその範囲内に入り、グアムのアンダーセン基地のみがかろうじて射程から外れています。弾道ミサイルは目標への突入速度が速すぎるからでしょうか、迎撃が難しいと言われているようで、ということは、もはや米国空母は中国近海に進出することがきわめて危険であるということになります。
中国がこのような兵器開発に着手する契機となったのが、まさに上の1996年台湾総統選挙時の中国ミサイル演習とそのとき米国が2つの空母部隊を台湾近海に派遣して力で押し返したことにあるようです。

日本政府関係者によると、米側からは「もう、96年のようなこと(緊急時の台湾近海への空母派遣)は怖くてできない」と聞かされているといいます。
そこで編み出された新戦略は「統合海空戦闘構想」と呼ばれいます。その内容は、①抑止が破れて中国からミサイルなどで攻撃を受けたら、米軍はいったんその射程外まで撤退、②態勢を立て直して、海空両軍で反撃に転じる-というものです。
昨年11月に発表された米中経済・安全保障検討委員会の米議会への報告書は、中国軍が弾道・巡航ミサイルで、三沢、横田、嘉手納各米空軍基地を攻撃する能力を持っていると指摘。有事の際には使用不能となる可能性に触れています。
『米側では、「多くの専門家が琉球諸島の米国の『(軍事)聖域』はすでに失われたと思い始めている。だから海空戦闘構想が広まっている。米国は(有事には)日本とともに戦い、そうした基地を取り返さなければならない(ヨシハラ米海軍戦争大准教授)という指摘が聞かれる。』

米中のせめぎ合いに対する日本の対応はというと。
昨年末に発表された防衛計画の大綱には、中国が上記のような能力を高めているという状況認識は含まれておらず、また米国の「海空戦闘構想」への言及もありません。
大綱では「動的防衛力」が打ち出されましたが、米の構想が本格的な戦争を念頭に置いているのに対し、「動的防衛力」は戦争に至らない、いわゆる「グレーゾーンの紛争」への対処を主眼としているものであり、日米の食い違いが生じているとのことです。
---以上 朝日新聞記事---

中国のステルス戦闘機開発も含め(例えばこちら)、中国に対する米国の軍事抑止力は急速に変化し、弱まっていく可能性がありそうです。日米同盟で米国に軍事基地を提供している日本列島、特に沖縄は、防御が困難な中国弾道ミサイルの標的となるでしょう。狙われるのは、空軍基地である三沢、横田、嘉手納、空母母港である横須賀あたりでしょうか。

日米同盟は、さしあたり東アジアに向けた軍事プレゼンスを急速に高めている中国への対応が急務となりますが、中国対艦弾道ミサイルの実戦配備は、日米同盟の骨格を急速に変化させる必要に迫られていきそうです。
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アジア杯でのサッカー日本代表

2011-01-22 21:35:15 | サッカー
日本対カタール戦、試合終了間近に日本が3点目をゲットして1点リードした後、試合終了までの数分間はハラハラどきどきで命が縮まる思いでした(大げさですが)。
吉田が退場して日本が10人になった直後、カタールに得点されて日本は1点ビハインドとなりました。それまでも攻めあぐねていたし、人数が減って絶望的状況です。こんな状況で、日本はその後の失点を防ぎつつ2点も得点したのですから、大殊勲です。
最後の15分間、日本は人数が少ないこともあり、選手の足が止まるのではないかと危惧しましたが、足が止まったのはカタール側だったようです。この点も日本選手に拍手です。

この大会での香川の状態はどうなのでしょうか。(カタール戦前までの)新聞報道では香川の評価が芳しくありません。確かに、去年のパラグアイ戦で見せたような爆発的な力はまだ発揮していません。中盤でボールを奪われたりするシーンがよく見られます。しかし、カタール戦では3得点全部にからんでそのうちの2点が香川のゴールですし、サウジアラビア戦の岡崎ゴールをアシストしたクロスも見事でした。
ブンデスリーガでMVPを獲得したほどの活躍はまだ見られない、ということはいえるでしょう。

吉田麻也はやってしまいましたね。カタール戦2失点の両方にからんでしまい、さらには退場でチームに迷惑をかけました。
数日前のテレビ番組でセルジオ越後氏が、吉田は接触プレーで手が出やすいのでそれが心配だ、と述べていました。そのセルジオ氏の心配が当たってしまいました。1回目の警告は競り合った相手に対するプッシングでしょうか。2回目は吉田が転倒した後に上げた足が相手の足に絡まってしまいました。

サウジアラビア戦では、怪我の本田圭佑に代わって柏木陽介がトップ下に起用されました。朝日の新聞報道によると、この柏木の評価が低いですね。
予選の最初2試合では、香川の中央での活動が少なく、またサイドバック長友のサイド攻撃参加があまり見られませんでした。しかしサウジ戦では、香川の活動範囲が広がり、また長友の攻撃参加も増えました。
私は柏木の動きはわかりませんでしたが、想像するところ、柏木は香川が動きやすいようにポジションチェンジしていたのではないかと想像します。
それに対して予選の最初の2試合では、本田圭佑が中央に居座り、香川が本多に遠慮したのか左サイドに立て籠もり、そのために長友が左サイドを駆け上がれなかったのではないか、という気がしています。
柏木は、そりゃ個人技では本田には及ばず、その点で見劣りがしたかも知れませんが、チーム戦力としてみたらひょっとすると本田よりも上だったのではないか、というのが私の評価です。

最近2試合に出場した伊野波雅彦は、本職がセンターバックということで、サイドバックに要求される攻撃参加については大部分の時間帯で十分ではなかったようです。しかし2試合とも、“ここ一発”で伊野波は良い仕事をしました。サウジ戦で後半に交代出場してすぐ、サイドを駆け上がって放った前田へのラストパスは見事でした。
カタール戦の3点目については、シュート自体はもちろん難しくはありませんが、「あの場面でよくぞあの場所にいた」という点が殊勲です。10人という数的不利の中、ディフェンスの伊野波があそこまで駆け上がるのには勇気がいったでしょうし、試合終了間際の疲れ切っているときによく走ったものです。
このゴール、アトランタオリンピックでの日本対ブラジル戦で決勝点を挙げた伊東輝悦にダブります。

湯浅健二氏の評論によると、長谷部誠と遠藤保仁の二人に対する評価が高いですね。私はアナログテレビで観戦しているのでテレビ画面からは選手を識別することができないので、よくわかりませんでしたが。
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GT-R開発者水野和敏氏

2011-01-20 21:32:18 | 趣味・読書
日産GT-Rの開発責任者は水野和敏さんです。2009年秋にその水野和敏さんにフェルディナント・ヤマグチ氏がインタビューした記事が日経BPオンラインに掲載され、私は日産GT-R開発者水野和敏氏で記事にしました。

その日産GT-Rが、発売から3年ぶりでモデルチェンジしたそうです。フェルディナント氏がその新しいGT-Rに試乗した上で、1年ぶりに水野氏にインタビューした記事がこちらです。

暗いニッポンを吹き飛ばせ! 「水野劇場」第2幕、阿吽が分かるチームが強い 第73回:日産自動車 GT-R【開発者編】その1

フェルディナント氏がコーナーにオーバースピードで突っ込み、ちょっと危険なゾーンまで行ってしまったのですが、スパっと曲がって何事もなかったかのように次のコーナー目指して立ち上がっていくんだそうです。
公道を走っても、2007年のモデルよりも速いのに乗り心地が良くなっているとのことです。水野氏は「そう、速いけど乗り心地が良い。そこを感じて欲しかった」と答えます。

水野氏によると、最初のGT-R登場時には、お客様に分かり易いものとしてまずは圧倒的なキャラ作りをしました。ポルシェとも違う。フェラーリとももちろん違う。既存のクルマとは全然違うじゃない、というキャラを明確に立てました。そして、3年経ってから完成の領域に持っていく、と。

ここから、水野氏の「組織vsチーム」談義が始まります。
水野氏によると、言葉と数字でつなごうとするのが“組織”であるのに対し、水野氏が作っているのは組織じゃなくてチームなんだと。
(引用はじめ)「組織とチームは全然違う。言葉とか数字を超えて、残りの4割の感性でつなぐのがチームです。だからチームは“合宿”をするんです。組織というのは、普通の会社で朝9時に出社して夜6時に終わってはいお疲れさんって帰るという成り立ちです。
でもチームは、言葉とか、数字とか、理性のコミュニケーションツールを超えて、感性から生まれる“思い”であったり、それを目指す“姿”であったり、言葉にならないものであえて人と人とをつなごうとするものです。だから良いチームを作るために合宿をするんです。僕らは毎年5月と9月にニュル(ニュルブルクリンク:ドイツの有名なサーキット。過酷なコースで、世界中のスポーツカーが走行テストを行うスポーツカーの聖地)に行って、約3週間近く一緒に暮らします。」(引用終わり)

水野氏が率いる開発グループは、組織ではなくチームだということです。
戦後日本に導入された組織論は、多民族国家であるアメリカでこそ必要とされるものであって、単一民族国家である日本では別のやり方が適していると水野氏はいいます。

水野氏によればそれは阿吽です。阿吽は最高の技術だし、チームの要になるものです。

私の理解では、フツーの会社がその会社の社員を集め、そこそこの能力を有する社員をリーダーに任命した程度で、それなりの成果が出せる組織を構築する、それが普通に必要とされる組織論です。しかし、それなりの成果では世界に秀でた業績を上げることはできない。エクセレントな成果をあげるためには、普通の組織論とは異なったアプローチが必要となるでしょう。そして水野氏がリーダーを務める場合は、「チーム」という考え方でグループを統括しているというわけです。納得できる話です。ただし、卓越したリーダーがいるからこそ成り立っているわけで、普通の人が真似をして同じ成果をあげることはなかなか難しいでしょう。

コンピュータプログラミングでも、人海戦術でそこそこのプログラムを大量生産する場合にはそれに適した組織が必要ですが、これでは秀でたソフトは生まれません。世の中を変えるようなソフトは、秀でた能力を有する人たちが少人数の「チーム」を組んではじめて生まれているものと思われます。

さらに水野氏の日本組織論です。

今の日本の子供たちは、水野さんが言うように儒教をベースに家族制度で教育されてなぞいませんから、水野さん流にいうとすでに日本は崩壊しているのかもしれませんが。
しかし、水野チームに配属されるメンバーは、日産の社員です。普通に大学を出て、普通に日産の入社試験を受けてそこにいるわけです。そのような人たちでも、水野チームに入ればチームメンバーとして機能しているわけですから、そうそう捨てたものでもないかも知れません。
もちろん、水野和敏氏という卓越したチームリーダーが存在することが大前提ですが。


仕事なんて楽しいワケがない! プロは客に尽くして喜ぶものでしょ 第74回:日産自動車 GT-R【開発者編】その2

阿吽の呼吸を旨とする水野チームは、メンバーが固定されているのでしょうか。

水野氏によると、人は入れ替えなきゃダメで、マンネリ化はよくないんだということです。
例えば今回はエンジンの課長さんが交代しています。前の人がどんなにしっかりやってくれていても、あるところで発想は止まってしまう。新しい発想で制御してみようと思ったら、新しい血が必要という経験則ですね。
水野氏はレースをやっていた時代からずっと鉄則にしていて、だいたいチームの2割の人間を入れ替えるというのが適切だそうです。それも毎年。

同じメンバーで長く続けた方が、阿吽の呼吸がうまくいくのではないでしょうか。

水野氏によると、慣れと阿吽は明確に違います。むしろ慣れると思い込みになってしまう。水野さんはきっとこう思うはずだ、こう言うはずだとか言って、水野さんと相談もしないで勝手なことを始めてしまうのです。

能力の低いメンバーを替えていくのでしょうか。
水野氏は、あくまでもチーム全体を対象とします。リーダーとツーカーの固定メンバーをそろえてリーダーが楽をすると、その分だけ組織は硬直化して、惰性と慣れと思い込みに入っていくのです。

水野和敏さんという人は、実際にGT-Rというエクセレントなクルマを生み出し、また3年で大きく進化させてきたリーダーです。その人が今まで育んできたチーム論をこうして楽しく聞くことができました。
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日本の対ロシア外交のその後(2)

2011-01-18 20:53:52 | 歴史・社会
前回に続き、ここでは次期ロシア大使に予定されている原田親仁氏について記します。

前原外相 2月10日に訪露 領土交渉打開へ糸口探る
2011.1.15 14:17
『・・・・・政府は昨年末、メドべージェフ大統領の北方領土訪問の際、事前に情報をつかめなかったなどとして河野雅治駐露大使を退任させ、後任に原田親仁駐チェコ大使を起用する方針を固めている。政府関係者によると、この駐露大使人事は前原氏の訪露後に発令される見通しだという。』

管政権が河野駐ロ大使の後任に予定している原田親仁氏について、当ブログ駐ロ大使更迭と「闇権力の執行人」において、在モスクワ日本国大使館で「ルーブル委員会」という組織が裏金で不正蓄財を行っていた事実を鈴木宗男氏が暴露しており、モスクワに在勤していた原田親仁氏もこうした不正蓄財に手を染めていたことについて記しました。

1月21日版の週刊朝日に
「佐藤優氏が不正蓄財を暴露! 次期ロシア大使は“悪のサンタ”」
なる記事が掲載されています。

週刊朝日の記事によると、佐藤優氏が「原田氏は、そのループル委員会の責任者だった」と証言しています。『「原田さん自身が車を売って個人的に蓄財していたことを私は知っています。これは外交官の商業活動を禁止した、外交関係に関するウィーン条約に違反する行為です。」』
『さらに問題なのは、ロシア側が不正蓄財の情報を握っていることだと、佐藤氏は指摘する。
06年8月、根室の漁船「第31吉進丸」がロシア国境警備局の警備艇に銃撃され、乗組員のひとりが死亡する事件が起きた。当時、欧州局長だった原田氏は対ロ折衝の前面に出るべき立場にもかかわらず、すべてを政治家任せにした。この経緯をみても、原田氏がロシア側に“弱み”を握られていると推測できるという。』
原田氏が駐ロ大使になったらロシアから首根っこを掴まれるだろうことは、鈴木宗男氏の著書から推測していましたが、あの日本人漁船員銃撃死亡事件のときにすでに、原田氏はロシアから首根っこを掴まれていたということですか。
これは恐ろしいことになったものです。

ところで、週刊誌のタイトルにある“悪のサンタ”について。
鈴木宗男著「闇権力の執行人 (講談社プラスアルファ文庫)」によると、ループル委員会による不正蓄財について『こうした不正蓄財に手を染めていたのが、旧ソ連時代にモスクワに在勤していた西田恒夫外務審議官(現・国連大使)であり、原田親仁欧州局長(現・駐チェコ大使)、そして、松田邦紀ロシア課長(現・米デトロイト総領事)だった。』と記載されています。いずれも「田」がつく3人のことを“悪のサンタ”と呼んでいるようです。

闇権力の執行人 (講談社プラスアルファ文庫)」は2006年1月に単行本刊行ですが、文庫本は2007年9月に発行されました。そして、2006年8月の「第31吉進丸」銃撃事件については、巻末に掲載された佐藤優氏による解説に記述されています。
佐藤氏が現役外交官だった頃、東郷和彦元欧州局長、篠田研次元ロシア課長や佐藤氏が責任者をつとめた「ロシア情報分析チーム」に属した若手外交官たちは、北方四島周辺で銃撃や拿捕が起きてはならないと考え、北方四島の現場で警備を行っているロシア国境警備隊の将校たちを日本に招き、北方領土の特殊性について説明し、また、一緒にウオトカや日本酒を酌み交わして人間的信頼関係を強化していました。鈴木宗男氏は行きつけのラウンジバーにロシア語のカラオケを特別に備えました。このラウンジバーでロシア国境警備隊の責任者は「こういう風にして顔が見えるようになると、オレ達も撃つことはできないよ」と佐藤さんにいいました。
このような交流は、1999年から2002年春に鈴木宗男氏が失脚するまで続けられました。しかし、鈴木氏と東郷和彦氏が失脚した後、外務官僚の出世の作法としてこれらの人たちの路線をできるだけ否定することが重要になり、外務省はロシア国境警備隊との交流を止めてしまいます。
国境警備隊員の任期は1年半から2年であり、3回以上の任期を続けてつとめることはできないので、鈴木宗男氏が失脚して4年経った時期に「第31吉進丸」の悲劇が起きたというのです。

「第31吉進丸」の漁船員が射殺された事件に関し、事件を予防できなかったのはロシア国境警備隊員との交流を外務省がおろそかにしたためであり、事件発生後に外務省が断固たる対応を取れなかった理由は当時欧州局長であった原田親仁氏がロシアに弱みを握られていたためであった、ということのようです。
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日本の対ロシア外交その後

2011-01-17 20:47:02 | 歴史・社会
前原外相 2月10日に訪露 領土交渉打開へ糸口探る
2011.1.15 14:17
『前原誠司外相が2月10、11の両日、ロシアを訪問し、ラブロフ外相と会談することが15日、固まった。複数の政府関係者が明らかにした。前原氏の訪露には、ロシア側の対日強硬姿勢を受けて停滞を余儀なくされている北方領土交渉を“リセット”し、改めて軌道に乗せる狙いがある。メドべージェフ大統領との会談も調整されており、領土問題打開への糸口を探ることになる。
・・・・・
政府は昨年末、メドべージェフ大統領の北方領土訪問の際、事前に情報をつかめなかったなどとして河野雅治駐露大使を退任させ、後任に原田親仁駐チェコ大使を起用する方針を固めている。政府関係者によると、この駐露大使人事は前原氏の訪露後に発令される見通しだという。』

メドヴェージェフ・ロシア大統領が国後島を訪問して以来の対ロ外交については、北方領土問題と日本外交駐ロ大使更迭と「闇権力の執行人」駐ロ大使更迭(2)で話題にしてきました。
さらに最近得た情報をフォローします。

1月10日の朝日新聞では、「日ロ外交 不信の連鎖 検証駐ロシア大使更迭」という特集記事が載っています。クレジットは「高橋純子、モスクワ=副島英樹」とあります。どのような記者さんでしょうか。
《メドヴェージェフ大統領の11月1日国後島訪問は、本当に事前にキャッチできなかったのか》
『河野氏をトップとする在モスクワ日本大使館が「北方領土を訪問する可能性がある」という公電を送ったのは、29日夜のことだった。
外務省幹部によると、重大な情報は「官邸に上げないことはあり得ない」。・・・ただ別の幹部は「官邸への情報は外交の玄人でない人が読んでも『行きそうだ』と分かるような内容になっていなかったかもしれないと語る。
官邸サイドはどうか。スタッフの一人によると、官邸側が10月31日に「本当に行かないのか」と念押ししたのに、外務省幹部は「行かない」と答えたという。』
官邸に外交の専門家はいないのでしょうか。そんなことはありません。内閣官房副長官補として、外務省からは河相周夫氏が官邸に入っています。河相氏は昨年1月に就任しています。外務省から官邸に上がった情報は河相氏がチェックしているはずですから、たとえ外務省方言で書かれた情報でも読み解けたはずです。
官邸側が外務省幹部に「本当に行かないのか」と問いただしたとされるとき、河相氏がどのような対応を行ったのかも気になります。

《河野大使を日本に呼び戻して官邸で事情を聞いた際、管首相らはぶち切れたのか》
『大統領の訪問直後、官邸は河野氏を帰国させて事情を聴取。・・・その場で首相は河野氏に「情報収集の強化」を指示。「イラ管」が爆発するような場面はなかった。』
駐ロ大使更迭(2)で取り上げたような、「<駐露大使更迭>私はロシアに詳しくない…首相、怒り爆発」という場面は実際にはなかった、ということでしょうか。

『官邸と外務省のすれ違いが今回の大統領の北方領土訪問への対応の遅れにつながった。ある同省幹部は、「政権交代後、『政治主導』の名の下で官邸と外務省の神経が切れた」と語った。』

《日本はロシアに対してどのようなメッセージを発してきたのか》
『河野氏が大使に任命された09年2月、メドベージェフ大統領と麻生太郎首相(当時)は首脳会談で、大統領提案の「独創的アプローチ」の下で領土交渉を進める方針を確認。北方領土交渉の進展に期待が高まった。
だが、同年5月20日、麻生氏は国会で北方領土について「ロシアによる不法占拠」と答弁。法律家出身の大統領は激怒・・・』
『だが、同年9月の日本の政権交代で、ロシア側の期待が再び高まる。鳩山由紀夫首相(当時)と会談した大統領は「領土問題を含めた新たな道筋をつけるように努力したい」と意欲を示した。
にもかかわらず、10月には前原沖縄・北方担当相(当時)による「ロシアの不法占拠」発言で冷却化。12月に訪ロした岡田克也外相(当時)はロシア側の一方的な譲歩を迫り、「刺し合うような雰囲気」(外務省幹部)だったという。』
鳩山政権時代、前原氏が「ロシアの不法占拠」発言をしたのですか。その前原氏が外相となり、この2月にロシアを訪問するというのですね。ロシア側と信頼関係を結ぶのは至難の業といわざるを得ないでしょう。

《管首相のスタンス》
『「歴史はいいから、それよりも戦略をくれ」
管首相は最近、北方領土問題について、外務省幹部にこう語った。』
官僚は戦略の選択肢をいくつか提示するのが仕事です。歴史を踏まえて、その選択肢の中から政策を最終的に決断するのが首相の仕事です。首相が歴史を把握せずに、官僚から政策の結論を得ようとする態度は、首相としての資質が欠けることを自白しているようなものです。困ったものです。

河野大使に代わって次期ロシア大使に就任するという原田親仁氏については、また次の機会に。
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映画「ドレスデン」

2011-01-16 15:22:39 | 趣味・読書
昨年のゴールデンウィークにはベルリン~ドレスデン~プラハを訪問し、ドレスデンについてはこちら(ドレスデン)に紹介しました。ドレスデンというと、第二次大戦中の1945年2月13日に連合国軍の大空襲で破壊されたことで有名で、その点については「ドレスデン逍遙」~ドレスデン大空襲」で紹介しました。川口マーン惠美さん著「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」に依ります。

そのドレスデン大空襲を舞台とした映画が以下の作品です。今回、この映画をテレビで見る機会がありました。
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ドレスデン大空襲の直前、ドレスデン市内にある私立病院が舞台です。病院に勤務する医師の婚約者アンナは看護師で、この病院の院長の娘でもあります。病院内には傷病者があふれており、モルヒネが欠乏する中で手術が行われています。
空襲前のドレスデン市街が写し出されます。エルベ川の対岸から見た風景、ゼンパーオペラを背景としたシーン、アウグスト橋を渡った市電が旧宮廷教会の前で曲がっていく様子など、去年の5月に私が見たとおりの景色です。

イギリスからは毎日のように4発のランカスター重爆撃機がドイツ夜間空襲に飛び立っています。
イギリスのランカスターについては、書籍「ドレスデン逍遙」でドレスデンを爆撃した爆撃機としてその名を知りましたが、今回の映画でランカスターが活動する様子を実際の映像で見ることができました。

マグデブルク爆撃に向かったランカスターの1機がドイツ国内で被弾し、搭乗員がパラシュートで脱出します。そのうちの一人であるロバートが怪我を負った上、逃げ回ってドレスデン市内に潜入します。
院長の娘のアンナと、イギリス空軍搭乗員ロバートとがこの映画の主人公です。

病院の地下室に潜伏したイギリス兵ロバートを看護師アンナが見つけ、怪我の応急処置を施した上で「ここから早く立ち去るように」と言い残して去ります。
しかしロバートは、何と病院の入院患者になりすましてしまうのです。そして突然、二人は恋に落ちます。戦時下の喧噪に包まれた病院内でこんなことが起こりえるのか、という奇想天外な展開になっていきます。
物語の筋には、院長によるモルヒネの横流しがからみます。それに気づいたロバートがアンナにそのことを伝え、アンナは医師との婚約を解消した上でロバートと駆け落ちしようとしますが、二人は捕らえられてしまいます。

そしてその夜、ドレスデンは大空襲を受けるのです。登場する人びとのそれまでの愛憎を空襲はすべて粉砕し、人びとは劫火の中を逃げまどいます。劫火の状況は、私が「ドレスデン逍遙」で読んだ以下の内容と重なりました。
「見わたす限り、火焔の嵐が吹き荒れていた。周りの建物全部が、1階から5階まで火に包まれ、まるで溶けた鉄のように輝いていた。どの窓からも、炎が吹き出している。自分の家がどうなっているかとふり返ったとき、私は目を疑った。家は崩れ落ちてなくなっていた。私達が地下室にいたあいだに、5階建ての建物が私達の上に丸ごと崩れ落ちていたのだ。」

空襲の翌朝、破壊されずに残った聖母教会のてっぺんに登り、破壊され尽くされたドレスデン市街を眺めるシーンがあります。聖母教会についてはこちらに書きました。書籍によると、空襲から二晩、聖母教会は燃え続けたことになっており、空襲の翌朝にてっぺんまで登ることは不可能だったと思いますが。

映画は最後、2005年に飛びます。聖母教会は空襲の二日後に倒壊し、破壊されたままだったでしたが再建され、落成の大式典がこのとき行われたのです。

“戦時下の病院内で繰り広げられる、敵の逃亡兵との間の情事”を私は奇想天外と受けとったのですが、どうなのでしょうか。

佐藤優著「自壊する帝国 (新潮文庫)」で描かれた一場面を思い出します。
ソ連では1991年8月にクーデター失敗があり、12月にソ連が崩壊します。
その年の1月、リトアニアでは独立派系住民とソ連軍とが衝突し、その後リトアニアの首都ビリニュスでは、独立派は最高会議建物に籠城し、ソ連軍と対峙していました。モスクワにいた佐藤優氏はうまくリトアニアに入国し、その最高会議建物に入ります。佐藤氏は独立派にもソ連派にも知己を持っていました。そしてソ連派の重要人物から、最高会議建物を攻撃しないつもりだから独立派に伝えてくれと頼まれ、それを最高会議建物に立て籠もっている独立派に伝えます。独立派はこの情報によって力を得て籠城を続け、独立を勝ち取りました。佐藤氏はこの功績により、後にリトアニア政府から勲章を授与されました。
佐藤氏が双方対峙中のある夜に最高会議建物に入った際、ふと、バリケードの隅の暗闇で何かが動く気配を感じます。よく見ると毛布にくるまった男女であり、注意深く観察すると、そこここで、毛布や寝袋にくるまった男女がうごめいているのです。リトアニア外交官によると、「そろそろ緊張が限界に達しているのだよ。緊張が高まると子孫を残したいという本能が刺激されて・・・・」(p372)
日本人の話としては、篠田節子著「インコは戻ってきたか (集英社文庫)」があります。
映画のような成り行きもあり得るのかもしれません。

もう一点
この映画にはドレスデンに在住するユダヤ人の夫とドイツ人の妻の夫婦が登場します。1945年1月の時点で、ドイツに住むユダヤ人であっても、ドイツ人と結婚している場合にはまた強制収容所に送られずにいたということのようです。
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玉川上水(11)

2011-01-14 22:00:19 | 杉並世田谷散歩

前回は牟礼橋から浅間橋までをたどりました。さらに先に進みます。

  
浴風会
浅間橋からは、中央高速道の北側の歩道を進みます。ほどなくして左側に浴風会病院が見えてきます。
浴風会の沿革と歴史 によると、浴風会は、大正12年(1923年)9月の関東大震災の後、大正14年(1925年)に設立されました。浴風会の事業は養老事業と老年医学の発祥として事業を行っていました。終戦に伴い、生活保護法による保護施設として再生復興し、さらに昭和38年(1963年)に老人福祉法による施設として事業が運営され、平成12年(2000年)4月の介護保険法の施行を経て今日に至っいます。
わが家は7年前に杉並の現住所に居を構えたのですが、土地は地元の地主さんから購入しました。その際に地主(複数)の方々から、この周辺の昔話をうかがいました。玉川上水の話もありまして、老人ホームである浴風会に入居している方が玉川上水に身投げされるという事例がよくあったらしいのです。浴風会付近で入水すると、その下流の水衛所は和田堀ですから、まさにわが家の周辺では騒ぎになったのでしょう。
今回、その浴風会がまさに玉川上水に隣接して設けられていることを実感しました。その点は、浴風会のgoo地図の昭和22年航空写真からも明らかです。

さて、人喰らい川としての玉川上水の話をもう一つ。
宅急便の生みの親でヤマト運輸の中興の祖である小倉昌男氏が、日経新聞の私の履歴書で連載していることがありました。その連載で知ったのですが、小倉氏のご兄弟の一人が幼い頃、玉川上水に落ちて亡くなったというのです。ウィキによると、小倉氏は幡代小学校卒業とあり、幡代小学校は渋谷区初台にあって玉川上水とまさに隣接しています。このあたりで事故に遭われたのでしょう。

浴風会のすぐ下流に第六天神社がありました(左下写真)。説明によると鎌倉時代に建立されたようです。社殿に向かって左側に、日露戦役紀念碑が建っていました(下中央写真)。裏面には従軍者の名前が刻まれ、明治39年9月とありました。
さらにその先で環状八号線道路と交差します(右下写真)。
  
第六天神社        日露戦役紀念碑         環八との交差点

 
甲州街道と分かれる                    玉川上水遊歩道
中央自動車道は、上北沢で甲州街道(国道20号線)と合流します。そしてその同じ場所で、玉川上水は中央自動車道から北側に分離します。左上写真の赤い柵から先の左手方向がそれです。ここから先は、明大前で再度甲州街道と合流するまで、玉川上水の跡地がずっと遊歩道(上水公園)として続いています。右上写真の場所では、北側(写真の左側)が遊歩道よりもだいぶ低くなっています。玉川上水建設時、左側の堤を高く積み上げて上水を通したのでしょうか。
上水は途中で荒玉水道道路と交差します(左下写真)。荒玉水道道路とは不思議な道路で、片側一車線で狭い道路なのですが(一部は一方通行)、多摩川に近い成城学園の付近から杉並の妙法寺の近くまで、ほぼ一直線で伸びているのです。道路の下に水道が埋まっているのでしょう。
上水公園は場所によって周囲よりも低い位置となります(右下写真)。
 
荒玉水道道路と交差                    玉川上水遊歩道
 
甲州街道と合流                      龍泉寺
下高井戸付近で玉川上水は再度甲州街道(中央高速道)とぶつかり、ここから先は甲州街道の北側を並行して走ります(左上写真)。この近くには寺院が多く、その一つが右上写真です。
そして、上水公園が一端途切れます(下の写真)。
 
玉川上水遊歩道                      玉川上水遊歩道
  
築地本願寺和田堀廟所                             土盛り
上水公園が途切れた後、甲州街道の北側に築地本願寺和田堀廟所とその附属墓地が見えてきます(左上写真)。お寺の正面に建つ石柱です(上中央写真)。「皇紀二千六百年記念」とあります。昭和15年建立です。
和田堀廟所からその先の明治大学敷地にかけて、右上写真に見られるような土盛りが見られます。私は、この下に玉川上水の水道管が埋まっているとふんでいるのですが、どうでしょうしか。
そして明治大学和泉校舎です(左下写真)。この門の近くに、「塩硝蔵地跡」という説明板があります。現在命題和泉校舎と本願寺和田堀廟所となっているこの付近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡なのです。明治維新の際に塩硝蔵は新政府軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、威力を発揮したそうです。大正の末期に廃止されるまで陸軍の火薬庫として使用されました。
明大の門から京王線・井の頭線の明大前駅に行くには甲州街道を渡る歩道橋を利用する必要があります。最近、その歩道橋にエレベータが設置されました(右下写真)。便利になったものです。
 
明治大学和泉校舎                   明大前歩道橋のエレベータ
  
玉川上水の鉄パイプが井の頭線の線路を高架する
明大の校門を過ぎると、玉川上水は再度甲州街道から逸れます。そしてすぐに井の頭線と交差します。交差地点で、井の頭線は低地を走っています。玉川上水は井の頭線の線路の上を通過するのです。左上写真で、下を井の頭線が通過しており、コンクリート製の架台の上に鉄パイプが走っています。上中央写真はその鉄パイプを撮ったものです。さらに近づいてみると、右上写真のように、鉄パイプは上下2段になっています。
さて、その昔、井の頭線がなかった頃は当然ながら普通に開渠が通っていたと思われます。井の頭線が開通したとき、玉川上水はどのように処置されたのでしょうか。ここでまたgoo地図の登場です。こちらの地図の中央やや上寄りに井の頭線と玉川上水の交差位置を置いています。「昭和22」の航空写真を表示すると、高架橋は同じように存在するものの、鉄パイプはなさそうです。この写真から判断するところ、この高架橋の上を玉川上水は開渠として流れていたように見えます。水道橋ということですね。
浅間橋から下流側が暗渠化されたとき、この高架水道橋についても上下2段の鉄パイプ化されたのでしょうか。

     「明治二十年 二万分の一」古地図史料出版株式会社から
さらに、古地図史料出版株式会社の明治20年地図で、明治20年当時にこの界隈がどうなっていたのかを確認しておきます(上図)。青色の彩色は私が色鉛筆で記入しました。
「火薬庫」が残っています。ここが、現在の明大和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所に生まれ変わったわけですね。
「現在の明大前駅」の下に「谷筋(現在の井の頭線)」と記入しました。井の頭線は、明大前駅の南側は谷筋に沿って設けられ、明大前駅の北側については土地を掘り込んで線路にしています。そのため、甲州街道と玉川上水の下を通過することになったのです。井の頭線を建設するに際し、玉川上水が井の頭線をほぼ直角に横切るよう、上水について若干の位置変更をしている模様です。
次回の経路に含まれることになりますが、上の地図には代田橋が記入されています。明治20年当時、甲州街道が玉川上水を横切るに際し、甲州街道側が折れ曲がって交差していたのです。そこに架けられた橋が代田橋であり、現在の京王線代田橋駅の語源になっています。

 
久左衛門橋                遊歩道終端から上流を見る
明治大学の正門からはじまった上水公園は、井の頭通りに突き当たるまで続きます。その途中に「久左衛門橋」と表示された欄干が設けられています(左上写真)。ここが開渠だった頃、久左衛門橋と名付けられた橋が架かっていたのでしょう。名前の由来を知りたいですが、わかりませんでした。
井の頭通りに至り、後ろを振り返った風景が右上写真です。
左下写真が遊歩道の終端で、その先に井の頭通り、そして井の頭通りの向こうに巨大な水道タンクが見えます。左下写真の右下の端には不思議なオブジェが設けられています。水門を形取っているようですが、開渠だった頃ここに水門が存在したのか、それともただの飾りなのか、これも不明です。
井の頭通りから撮った東京都水道局和泉給水所の巨大な2つのタンクが右下写真です。
 
遊歩道終端                東京都水道局和泉給水所
井の頭通り(正式には「井ノ頭通り」)は、「境浄水場から和田堀給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた。」(ウィキ)というものです。境浄水場~吉祥寺~和田堀給水所~渋谷駅付近の3区間に分けることができます。境浄水場は1924年通水、和田堀給水所(二号配水池)は1924年竣工とありますから、井の頭通りもそのころ作られたのでしょうか。

戻る                            続く
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玉川上水(10)

2011-01-12 22:07:47 | 杉並世田谷散歩

前回は三鷹駅から牟礼橋の手前までをたどりました。さらに先に進みます。

 
どんどん橋手前              牟礼橋
牟礼橋は、人見街道と呼ばれる道路にかかっています。人見街道は、井の頭通りを浜田山付近で分岐し、久我山を経て玉川上水をわたり、さらに三鷹市牟礼まで走る街道です。東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道だったようです。
牟礼橋のたもとには「石橋建立供養之碑」についての説明が書かれています。
『三鷹市と杉並区の境、玉川上水に架かる牟礼橋は、「上水記」記載(「久我山橋、玄蕃橋とも云」)の古橋の一つで、昔は附中か移動(旧鎌倉街道)の旧久我山村(杉並区)と旧牟礼村(三鷹市)とを結ぶ交通の要衝だった。
別名東橋とも呼ばれたが、これは旧牟礼村の一番東にあったためで(現在は上流に“新”東橋が架かる)、久我山村では牟礼橋と呼んだ。またどんどん橋の名もあるが、“どんどん”とは急な水勢をあらわす擬声語で、主として子供たちの呼び名だった。』
私は、この「説明書き」の写真は撮ってきたのですが、ここに書かれている肝腎の「石橋建立供養之碑」があることに気づきませんでした。説明書きによると、「供養之碑」は宝暦七年(1757)11月の建立であることと建立の由来が書かれています。さらにその左には、この橋が寛政九年(1797)8月、ついで嘉永二年(1849)4月に架け替えられたことが刻まれています。上水最古の碑だそうです。
現在は並んで二つの橋が架けられ、人見街道の橋で玉川上水と斜めに交差する大きな橋が牟礼橋と呼ばれ、そのすぐ上流で玉川上水と直角に交差する小さな橋がどんどん橋と呼ばれているようです。現在のどんどん橋が、供養之碑に書かれた(旧)牟礼橋であるようです。
  
久我山水衛所跡             水難者慰霊碑          兵庫橋から見た久我山水衛所
牟礼橋の先、兵庫橋の手前に久我山水衛所跡があります。左上写真でわかるように、水路に格子が構築され、格子の幅よりも大きな浮遊物はこの格子に引っかかる仕掛けです。右上写真は、下流の兵庫橋から水衛所の格子を遠望したところです。玉川上水事典には『昭和40年、淀橋浄水場が廃止された時、芥上げや水路監視を行う水衛所は、熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸にあった』と記されています。
境の次がこの久我山ですから、太宰治入水のときにも、三鷹からこの久我山水衛所までが捜索の範囲だったようです。こちらの記事によると『太宰治と愛人の山崎富栄が、三鷹駅近くの玉川上水に毒を飲んで入水心中をしたのが、昭和23年の6月13日のことでした。梅雨のさなかで水かさも増し、久我山水衛所までの捜索が続けられましたが遺体がなかなかあがらず、水衛所の格子で履物が見つかってほどなく、6月19日に明星学園前の玉川上水で腰紐でつながれた二人の遺体が見つかったのでした。』とあります。明星学園というのは玉川上水の図で新橋の南に所在しています。
久我山水衛所と兵庫橋の間の右岸に、水難者慰霊碑(上中央写真)がひっそりと建っています。写真を撮ってきただけなのですが、後から調べてみると、『国語学者の金田一京助のお嬢さんが、玉川上水で亡くなられたのを偲んで、金田一京助が詠んだ歌を昭和27年に歌碑にしたものです。「うれひなく さちかきりなき あめのくにに さきそひいませ とはやすらかに」と、石碑の裏に刻まれています。』とのことです(上述の記事から)。また、こちらには、「金田一博士の四女自殺」ということで1949年当時の新聞記事が紹介されています。

玉川上水事典によると、玉川上水は「人喰らい川」と呼ばれる恐ろしい水路でした。『玉川上水が豊かな水をたたえていた時代、周辺住民にとってはときに生命を奪う恐怖の対象でもあった。激しい急流で、秒速2メートル、もし人が落ちればひとたまりもない。渕は深くえぐれ、はい上がろうにも何かをつかむ手だてはない。
新聞記事によると、昭和33年からわずか5年間で玉川上水が飲み込んだ生命は自殺者も含めて90人にのぼっている。』
金田一博士のお嬢さんの遺体はとうとう見つかりませんでしたが、境から久我山までの区間で溺れた人は、ここ久我山水衛所で見つかることが多かったでしょうから、その意味でも水衛所の近くに水難者慰霊碑が建立されたのでしょう。
 
岩通ガーデン               岩崎通信
兵庫橋の次が岩崎橋です。橋の名前の由来は、おそらく橋の南西側にある岩崎通信機(右上写真)から来ているのでしょうね。そして橋の南側には、柵で囲まれた庭園が見られます。施錠された入り口から覗くと、「岩通ガーデン」という看板が見えます(左上写真)。看板に記載された図には、玉川上水の右岸から庭園を横断して青い線が描かれています。これは分水に違いありません。そこで玉川上水右岸と庭園の間を歩いてみたら、下の写真のような設備が見つかりました。ここがおそらく分水の入り口でしょう。

分水
こちらはgoo地図です。地図の上端に「昭和22」という枠があります。ここをクリックすると、昭和22年の航空写真を見ることができます。現在の岩通ガーデンは当時も森林であり、地図中央の十字からその森林を南東に向けて横切る線が見えます。この線が、往事の分水であった可能性が高いでしょう。ネット検索したら、烏山川を下るが見つかりました。『自然河川だった烏山川は玉川上水からの烏山村分水を接続したことにより灌漑用水として利用されるようになった。田んぼに水を引いたりして、水路が作られた。』この記事中のこの写真が、岩崎橋から見た分水口だそうです。上記記事のこの地図は、昭和22年の航空写真と付合しています。
ただし、私が見つけた分水の入り口は、烏山村分水の入り口よりも下流側にありました。さらに調べた結果、世田谷の川探検隊の北沢川という記事を見つけました。この記事中のこの写真が、まさに私が見た取水口と一致しています。私が見たのは北沢分水の取水口なのでした。
岩通ガーデンの南側で分水(結果的には烏山分水)の跡をたどろうと試みましたが、ガーデン南端から狭い路地が10メートルほど続き、その路地の下には暗渠が隠れていそうでしたが、10メートル先の道路は丁字路であり、分水の先は完全に埋め立てられて家屋が建っていました。

東京都世田谷区を代表する河川は北沢川と烏山川です。今はどちらも全線が緑道化していますが。その2大河川のいずれもが、ここ岩崎橋の近くで玉川上水から分水した水の供給を受けていたわけですね。

ところで、上記紹介したgoo地図で昭和22年の航空写真を見ると、今の岩崎通信機が位置する土地には多くの建物が整然と建っています。岩崎通信機の当時の工場に違いありません。ウィキで調べると、岩崎通信機は1943年に久我山の当地に本社・工場が完成し、1944年に「電波警戒機第1号機を東京第1陸軍造幣廠に納入」とあります。ということは軍需工場です。米軍B29の空襲を受けずに残ったのでしょうか。まさか終戦から2年間で工場を再建したのでもありますまい。

岩崎橋からその先の浅間橋までは、左岸のみに遊歩道があります。しかし私は右岸の分水を探しに行ったので、今更岩崎橋まで戻る気にもなれず、右岸を迂回して浅間橋にたどり着きました。
羽村取水口からここまで、ごく一部を除いてほとんどが開渠であった玉川上水は、ここから先で地下へ潜ります(下の写真)。開渠の終点が浅間橋です。この先ずっと、中央高速道の下をたどります。というか、中央高速道(上北沢からこの浅間橋まで)が玉川上水の上に建設されたというべきでしょう。
 
浅間橋終点と中央自動車道               暗渠に潜り込む箇所

続く
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