弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

石原慎太郎氏と尖閣諸島

2010-09-30 21:06:42 | 歴史・社会
今回の尖閣諸島問題に関連して、
国家なる幻影―わが政治への反回想
石原 慎太郎
文藝春秋

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から尖閣諸島に関する記述を読み返して見ました。この本は平成8(1996)年1月~10(1998)年8月に「諸君!」に連載され、1999年に単行本になったものです。文庫本はこちら(国家なる幻影〈上〉―わが政治への反回想 (文春文庫)国家なる幻影〈下〉―わが政治なる反回想 (文春文庫))。

まず、米国に占領されていた沖縄が日本に返還されるとき、尖閣諸島がその範囲に入っていたか、という点について。
アメリカは沖縄を返還するにあたり、協定文書に、有人無人を問わず、北緯何度何分、東経何度何分と7つの地点を明記しそれを結ぶ線の内側に入る島、環礁、岩礁等の海上の突起物すべてを日本領土として返還すると記しました。尖閣諸島の位置は、返還協定書添付の『合意された議事録』に記載された線内に明らかに入っています。

ところがその後、尖閣諸島近辺の海底に埋蔵量の豊富な油田があるということが分かって、台湾、次いで中国(石原氏の著書ではシナ)が自分の領土だと主張し始めます。
これに対し日本は、ハーグの国際裁判所に提起してその所属を改めてはっきりしたいとするのですね。ところが、アメリカに当の返還者としての証言を依頼したら、何とアメリカは、返還はしたがその領土がいずれの国のものかについてはあくまでその後の紛争当事者の問題であってわが国は一切関与しないと声明しました。
それどころかつい最近(諸君!連載の)辞任したアメリカの駐日大使モンデールは、誰の意向を受けてか尖閣諸島の帰属に関しての実力行使を伴う国際紛争の場合には日米安保の発動はこれを対象とはしない、つまり尖閣がもし外国から侵犯されてもアメリカは日本を共同して守るという安保の名目で動くことはしないといいきりました。これに対し国会では何ら問題にならなかったといいます。

昭和53(1978)年4月に入って今度は中国(著書では中共)からの漁船、それもかなりの重火器で武装した漁船が尖閣諸島海域への侵犯を繰り返すようになり、尖閣の中国領土としての正当性を主張し始めました。このときのいいがかりは大陸棚の延長の上にあるからだというものでした。

北京がおびただしい数の武装漁船、つまり沿岸警備のための海軍舟艇を派遣して尖閣周辺で操業する日本漁船を駆逐して見せても、政府はいつものことなかれ主義で通り一遍の抗議をしただけでした。
それに対して石原氏は青嵐会の仲間に計って資金を集め、頭山満翁の孫に当たる頭山立国氏や大平光陽氏にもちかけて関西の大学の冒険部や山岳部の学生を募り、尖閣の魚釣島に上陸させ、バッテリーで灯を点す粗末な灯台をまず作らせました。計画が事前に漏れてしまい、官憲からの締めつけで島に渡る船が調達できませんでしたが、強引に漁船を一隻雇って島に渡りました。
その後第二次隊から参加し出した日本青年社が、やがて現地にソーラー式の立派な灯台を建設し、東シナ海の難所の一つであった尖閣諸島に毎夜確かに灯を点す灯台が誕生しました。

日本青年社が立派な灯台を建設した年(1978)の10月小平が来日し、日本のメディアから尖閣諸島問題について質され、「あれは厄介な問題なので解決はもっと後の世代の利口な連中にまかせよう」と発言し、愚かな日本のジャーナリズムはなるほどシナ人の智恵だと賞賛したものだそうです。
そうした出来事の余韻のうちに日本の外務省には北京に対する妙な敗北感が醸成されました。

石原氏らは尖閣諸島の一部でもいいから地主になってしまおうと、尖閣諸島の地主として地権を相続している沖縄那覇市在住の古賀ハナ子さんを訪ねます。しかし尖閣諸島に関しては、本土の大宮在住の栗原氏なる一族に売却の約束をしてしまったというのです。そこで栗原氏を訪ねると、栗原氏は尖閣の権利を他の何に訴えても自力で守りぬくつもりということでした。

尖閣の魚釣島には昭和63(1988)年、立派な灯台が建設されてその寄附が申請され、運輸省海上保安庁に正式灯台として認可申請されます。しかし外務省からクレームがつき時期尚早ということで棚上げにされ(執筆当時の)今日まで店晒しにされています。そして正式に認知されぬまま件の灯台は先般北京にアジられるまま香港からやってきて無法に上陸したシナ人たちの手によって破壊されました。
--------------
以上が石原氏の著書から拾った尖閣関連の記述です。今回勃発した尖閣問題で、認識を新たにしました。

昭和の末期における尖閣に対する国民の無関心、政府の弱腰、中国の強攻策の様子がよくわかりました。
それに比較すると、今回の民主党政権の対応は、当初中国漁船の船長を逮捕して強攻策に出ましたが、それに対して中国から国交断絶を辞さないようなさらなる強攻策で応じられ、結局は腰砕けになりました。
この腰砕けがトラウマとなり、また中国に対する弱腰に戻らぬように願いたいものです。しかし今回の事件により、少なくとも(私を含め)国民は無関心から一歩前進するでしょう。民主党政権は「尖閣に領土問題は存在しない」と言い続けたわけで、その点は国民に浸透したものと思います。またマスコミも、小平におもねった頃のような対応はもはやしないでしょう。
アメリカも、今回はクリントン国務長官が23日の日米外相会談で「明らかに(米側の日本防衛義務を定めた)日米安保条約が適用される」と明言し、同日夕には、ゲーツ国防長官とマレン統合参謀本部議長が国防総省で緊急の記者会見を開き、「尖閣諸島地域へのわれわれの関与は、間違いなく変わっていない」「(米国は日本の)同盟国としての責任を十分果たす」と口をそろえました。

以上のような記事を準備していたら、週刊新潮10月7日号が発売になりました。
[石原慎太郎氏]
できあがった立派な灯台を海図に載せる件について、外務省は時期尚早といって記載しなかったが、息子(石原伸晃)が国土交通相になってようやく載せたそうです。
[尖閣諸島地主一族]
尖閣諸島を開拓したのは安政年間に福岡で生まれた古賀辰四郎氏で、明治政府から4島を借り受けて漁業や水産物加工業を営み、昭和初期に払い下げを受けて4島が古賀家の所有となりました。74年頃に辰四郎氏の息子の善次氏が、縁のあった埼玉県の結婚式場経営者の栗原家に譲渡しました。上記石原著書の古賀ハナ子さんは善次氏の未亡人なのでしょう。
インタビューに対して一族を代表して栗原弘行氏は、「政府が、尖閣海域に不法侵入してくる中国人を逮捕しないのであれば、将来的には、島に定住する希望者がいたら許可せざるを得ない、と思っています」と語りました。
コメント (8)
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尖閣問題~初動のいきさつ

2010-09-28 22:49:00 | 歴史・社会
尖閣問題で海上保安庁が中国漁船船長の身柄を拘束した後、この事件のポイントは3回ありました。
第1は船長の逮捕に踏み切ったとき、第2は勾留延長に踏み切ったとき、そして第3は釈放したときです。それぞれの時点で日本の政権内ではどのようにして意思決定がなされたのか。
9月28日の朝日朝刊に掲載されていたのでメモしておきます。

《逮捕に踏み切る》
当時国土交通相だった前原誠司氏は7日の事件発生後、鈴木久泰・海上保安庁長官に電話で「中国漁船の船長は逮捕すべきだ」と指示しました。首相官邸にいた仙谷官房長官にも電話で「中国には毅然とした態度を貫いた方が良い」と伝えました。
岡田外相は、外遊先のドイツで事件発生の連絡を受け、電車の乗り継ぎのわずかな合間に前原氏が主張した船長逮捕をあわただしく受け入れました。
7日の夕刻に、仙谷氏は民主党代表選の渦中にあった管首相に代わり、海上保安庁と外務省の幹部から尖閣諸島沖での衝突事件の報告を受けていました。出席者の認識は「事件の悪質性を考えると逮捕はやむを得ない」で一致しました。

逮捕後も、当初は中国側の反応も比較的穏やかだったようです。
逮捕後の成り行きについて、中国側には「日本側は中国との関係に配慮して船長の勾留延長はしないだろう」との読みがありました。異例の5回に及んだ丹羽大使の呼び出しで、「中国側の意図を十分にくみ取り、釈放してくれる」とみていたからです。

《勾留延長に踏み切る》
17日の午後に管首相は内閣改造を断行します。外務大臣が岡田氏から前原氏に代わりました。
2日後の19日が勾留期限です。外務省幹部は「あの時はちょうど内閣改造の最中で、岡田氏も幹事長就任が決まってからは『それは次の大臣がやること』と仕事に手をつけなかった。前原氏も、直後に控えた国連総会の準備しか頭になかった」

しかし、即時釈放を求めてきた中国は19日を境に、急激に態度を硬化させました。後は見てきたとおりです。

副大臣や政務官の人事構想を終えた21日以降、管首相は悪化の一途をたどる日中関係と向き合うことになります。
このころの首相について、政府関係者は「訪米前に『イラ管』が出て、周辺を怒鳴ることもあった」と明かします。
《中国人船長を釈放する》
首相と外相がともに国連総会に出席し、留守を預かる仙谷官房長官の下で緊急回避策が進みました。官邸と協議をした上で、23日に外務省担当課長が那覇地検に行きました。24日に那覇地検の次席検事が中国人船長の釈放を発表した際、「我が国の国民への影響と今後の日中関係を考慮した」と説明したのは、前日に外務省担当課長から聞かされた意見が根拠となったと見られます。

こうして新聞記事でたどってみると、日本にとっては不幸な状況が重なっていたのですね。「いつどんな場合でも、危機管理の準備を怠りなく」ということがいかに難しいか。今の民主党政権に望んでも無理ではありましょうが。
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尖閣問題はどうなる?

2010-09-27 20:51:41 | 歴史・社会
尖閣諸島をめぐる今回の騒動、結末(まだ終わっていませんが)は何とも後味の悪いものでした。
結果として中国の恫喝に屈するような形で中国漁船船長を釈放しましたが、その後中国は謝罪と賠償を要求し、一方で拘束した日本人4人を釈放する気配は見せず、嵩に懸かってきているようです。

ここで事件をふり返ってみれば、初動の段階で船長の逮捕に踏み切らないか、逮捕したとしても勾留延長をせずに強制送還することが賢明な策だったのでしょうね。しかし逮捕せずに強制送還すれば、逆に政府は弱腰と攻められていたでしょうから、よっぽど事情を承知して覚悟をもった政治家でなければ決断できなかったかもしれませんが。

また、釈放後に官邸は釈放の決断が検察の判断であると繰り返し強調していますが、これも卑怯なやり方です。日中の関係に配慮しての決定ですから、あくまで政府がその責任を負うべきです。それで「司法の独立がおかされた」と文句が出るなら言わせておけばいいのです。

以下エスカレーションは止まるのか? 「尖閣諸島漁船衝突」突如、船長を釈放した日・中それぞれの事情(2010年09月25日(土) 歳川 隆雄)を参考にします。
過去をふり返ると、小泉純一郎政権下の04年3月に中国人活動家7人が尖閣諸島に上陸を強行・逮捕されましたが、当時、靖国神社公式参拝で中国側と冷却関係にあった小泉首相は高度な政治判断によって拘留することなく強制送還処分としたという前例があったといいます。
今回の日本政府の対応は、9月7日午前9時過ぎに衝突事件発生から12時間経ってから海上保安庁が同船長逮捕を決定したことから、その間に当時の岡田克也外相(現民主党幹事長)の判断を仰いだうえでのことだったと推定されています。中国の置かれている政治状況を考えれば、外相判断ではなく、首相判断で決定すべきだったでしょう。大事なところで管首相は閣僚任せにしてしまいました。その後膠着状況に陥ってから管首相はイラ管になってしまったようですが、時すでに遅しです。
またそのときの岡田外相は、外務官僚からどのような献策を受けていたのでしょうか。事なかれ主義を採るチャイナスクール官僚の声を割り引いて考えるにしても、信頼の置ける官僚から適切な助言を受けなかったら、対中国で国益を毀損することなく適切な対応ができるはずがありません。岡田外相は外務官僚と信頼関係を結べていなかったのでしょうか。

中国の国内状況についてみれば、胡錦涛国家主席、温家宝首相の主導により習近平副主席への権力譲渡が既定路線だとみられていましたが、ここにきて対抗馬と目される李克強政治局上級委員・副首相側が巻き返しており、さらに江沢民元国家主席ら保守派が対日、対米外交が弱腰だと責め立てる可能性もありました。かつて胡耀邦総書記が対日政策が融和的だとして失脚した例もあります。
胡錦涛、温家宝も、今回の事件ではこうした党内のバランスに配慮して、日本に強硬的な姿勢で臨まざるをえない状況にあったのでしょう。そのような中国の国内事情を、民主党政権は読み違えたと言うことでしょうか。

あの小泉政権ですら、尖閣に上陸して逮捕された中国人を拘留することなく強制送還しました。中国政府は今回もそのような処分であろうと考えていたところが、逮捕され勾留延長され、中国政府は完全にメンツを潰された形となり、強硬な中国世論の攻撃をかわすためには強硬姿勢を取らざるを得ませんでした。

日本側がした勾留延長の理由もよくわかりません。ニュースによると「船長が否認したので自動的に勾留延長」であったようですが、何でそのような杓子定規になるのでしょうか。検察は杓子定規、政府は検察任せということで、「勾留を延長せずに強制送還」というチャンスをみすみす逃すこととなりました。

鳩山前首相がまた余計なことを言っていますね。「私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた」ですか。そう思うのなら、事件勃発直後に鳩山氏から管総理に申し入れをすべきでした。しかしその当時は民主党代表選の真っ最中でした。管氏も鳩山氏もそれどころではなく、岡田外相に任せきりだったのでしょうね。
また鳩山氏は首相時代の今年5月27日、全国知事会で「(尖閣諸島の)帰属問題は日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」と発言したそうですね。全く大変な人を首相に戴いていたものです。

小沢一郎氏はどうなのでしょうか。
ほんの1年にもならない前にチルドレン約140名と後援者合わせて数百名を連れて訪中した小沢氏です。また宮内庁にゴリ押ししてルール違反の中国要人面会を実現しました。中国首脳と太いパイプを持っていたはずではないですか。①実はパイプは存在しなかった、②パイプはあるが代表戦の遺恨で今回は封印した、のいずれであるにせよ、小沢氏にはがっかりです。

今回の騒動を見ていると、中国というのはやくざのようなもので、メンツを潰されたらどんな暴力行為に出てくるか予想がつきません。それに対して日本は暴力に弱い平和国家ですから、暴力で来られたらお手上げです。うまくつき合うしかありません。
とにかく、民主党政権は今回の件で肝に銘じたでしょうから、これからは外交の感度を高めて国益を損なわないように振る舞ってほしいものです。
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2010年・鳥人間コンテスト

2010-09-26 11:29:19 | 趣味・読書
今年の鳥人間コンテストは、7月24、25日に行われ、その結果が9月24日に読売テレビ(日テレ)系で放映されました。7月に結果は出ていたわけですが、関係者には放映までの間箝口令が敷かれ、公式には結果が分かりません。それでもネット上に実況中継版があったりして“人力ディスタンス部門ではどうも東工大が優勝したらしい”という雰囲気は感じられました。

そして24日の放映です。
天気は良好、風も画面からは感じられず、良好なコンディションで行われたようです。

滑空機部門で優勝したのは、常勝の人で最終フライトだった人が今回も優勝したようです。自分で視聴していながら良く覚えていないのですが。10m高さの舞台から飛び出し、最初に一気に下降して水面すれすれの飛行となったので、“これでは距離が出ないのではないか”と懸念したのですが、そこから水平に飛行を続け(たように見えた)、距離を稼いだのでした。上昇気流があるのなら格別、水面すれすれで滑空機がこのような飛行を行えるのかとびっくりしました。

人力タイムトライアル部門は驚くような記録が出たようです。ここでも記憶が曖昧なのは、ちょうど夕食を食べながら観ていたせいです。
舞台から離陸し、150m地点をスタートとし、そこから500mに設定された折り返し点を折り返してスタートラインに到達するまでの時間を競います。ただし、ウィキに「第30回(2006年)において初めて実施された。第32回(2008年)までは1km地点で折り返すルールだったが、いずれの大会も完走できたのは1チームのみであった。第33回(2010年)より、半分の500m地点での折り返しに変更され、初めて複数のチームが完走した。」とあるように、今回から距離が半分に縮まったので、時間が短くなったのは当然のようです。
第30回 2006年 7分2秒61 チームエアロセプシー
第31回 2007年 4分37秒62 大阪府立大学
第32回 2008年 5分10秒00 大阪府立大学
という経過でしたが、
今回は確か「各大学の鳥人間OBが集まって結成したチーム」が優勝したと思います。記録は確か1分台でしたから、やはりすごい記録です。

そして人力ディスタンス部門です。やはり東工大マイスターが優勝していました。サイト東工大マイスター放映案内に若干の写真が掲載されています。

開催年 回 優勝距離 優勝チーム
        m
1986  10   512 チームエアロセプシー
1987  11   436 日本大学
1990  14  1,810 日本大学
1991  15   500 日本大学
1992  16  2,020 チームエアロセプシー
1993  17  2,181 日本大学
1994  18  2,372 日本大学
1995  19  8,764 チームエアロセプシー
1996  20  9,762 大阪府立大学
1998  22 23,688 チームエアロセプシー
1999  23  4,913 大阪府立大学
2000  24  7,946 大阪府立大学
2001  25  3,824 東京工業大学
2002  26  6,201 東京工業大学
2003  27 34,654 日本大学
2005  29 22,813 日本大学
2006  30 28,628 東北大学
2007  31  3,998 東京工業大学
2008  32 36,000 東北大学
2008 中止
2010  33 18,556 東京工業大学

過去、優勝したチーム数は5チームしかありません。そのうちチームエアロセプシーは現在参加しておらず、大阪府立大学は人力タイムトライアル部門に移ってしまったので、過去優勝経験があるチームとしては日大、東北大、東工大の3チームのみです。
この競技は、過去の経験の蓄積がものをいうらしく、過去に優勝経験のないチームはどうしても優勝できていません。今回も日大、東北大、東工大の勝負になったようです。

前回(2008年)まで、スタート点から半径19キロに想定された円弧が折り返し点となっており、2008年にはとうとう東北大が折り返した上でスタート点に戻って完走するという快挙を成し遂げました。そこで今回は円弧の半径が20キロと遠くなり、完走すれば40キロということになります。
強豪チームは皆40キロを目指しました。
プラットホームの真西方向は対岸の半島が突き出しており、20キロに足りません。北西の方向、あるいは南西の方向に飛ぶと、湖上に20キロの円弧が存在します。

東工大は最初の方で飛行しました。
24日に放映があった翌日の25日、東工大の同窓会誌が送られてきました。そこに何と、マイスターのコンテスト出場報告が載っていたのです。
 
7月25日の朝早く、3番機でマイスター機がフライトしました。右上の記事の地図で分かるように、マイスター機は南西に針路を取りました。
記事によると、10キロを過ぎた当たりから陸へと吹き込む風を受け始めます。水陸の温度差が出てきて「海風」が吹き始めたようです。陸へと追いやる横風に懸命に抗いながらパイロットは飛行し、13キロ地点を過ぎてようやく岸から離れる方向に針路を向けることができましたが、それまでの飛行で体力を消耗したようです。まず片足がつり、18キロを過ぎたところでもう片方の足もつってしまい、着水に至りました。飛行時間50分、18556.82mのフライトでした。

20キロの折り返し点まで到達できず、ボートに引き上げられたパイロットは涙にくれます。
しかしその後、日大が2326mなどの強豪チームも次々短い距離で着水します。

そして最終フライトの東北大です。東北大は前回、折り返し38キロの大飛行を実現しています。
スタート直後は北西方向に向かっていましたが、途中で進路を変更して南西方向に向かいます。針路が「く」の字になったということで、ものすごいロスをしました。風の読みがスタート前と異なったのかもしれません。
パイロットの表情は次第に苦しくなります。そしてとうとう力尽きて、東工大到達点よりも短い11457mで着水に至りました。
今回の東北大のパイロットは、体重が前回パイロットより10キロ重かったそうです。
その年にパイロットが決まると、そのパイロットの体重に合わせて機体を設計するそうです。東工大マイスターのページにそのような記述がありました。ですから、パイロットの体重が重かろうと軽かろうとその体重に合わせたベストの機体になっているはずなのですが、ひょっとしたら「好ましい体重」というのがあり、重すぎると不利になるのでしょうか。

ということで、前回大会に比較すると記録は伸びませんでしたが、東工大の優勝ということになりました。
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弁理士試験~FD改竄~尖閣問題

2010-09-24 21:59:07 | 弁理士
《弁理士論文試験合格発表》
9月24日に弁理士試験の論文式試験合格発表がありました。本年の合格者は822人でした。
合格したみなさん、おめでとうございます。
例年のように、論文試験合格者の推移を記録します。

     受験者数 論文 最終
            合格 合格
平成03年度 3217     96
平成07年度 4177    116
平成10年度 4362    146
平成11年度 4700 223 211
平成12年度 5166 250 255
平成13年度 5599 306 315
平成14年度 6714 470 466
平成15年度 7953 551 550
平成16年度 8883 634 633
平成17年度 9115 738 711
平成18年度 9298 655 635
平成19年度 9077 589 613
平成20年度 9679 601 574
平成21年度 7354 944 813
平成22年度 6582 822
     (短答受験者)

《郵便不正事件~FD日付改竄》
今回の大阪地検特捜部によるFD日付改竄を最初に明らかにしたのが朝日新聞ということで、本件の報道については朝日新聞の独走状態が続いています。
昨日23日朝刊の段階で、「FDに時限爆弾を仕掛けた」という前田容疑者の発言をスクープしています。相当に先行した取材がすでに行われているのでしょう。
『検察関係者によると、今年1月に大阪地裁で開かれた厚労省元局長の村木厚子氏(54)=無罪確定=の初公判で、FDに記録された最終更新日時内容が問題になった。このため、同僚検事の一人が東京地検特捜部に応援に行っていた前田検事に電話をかけ、「FDは重要な証拠なのに、なぜ返却したのか」と聞いた。これに対し、前田検事は「FDに時限爆弾を仕掛けた。プロパティ(最終更新日時)を変えた」と明かしたいう。
さらに同僚検事が、最終更新日時が「6月1日」と書かれた捜査報告書が特捜部の手許を離れ、村木氏の裁判を担当する公判部に引き継がれたことを伝えると、驚いた声で「それは知らなかった」と語ったという。』(23日朝日朝刊)

最高検に逮捕された前田容疑者は、当初「過失だ」と言い張っていたようですが、報道機関にこれだけの内容を曝露されたら、逃れようがありません。そもそもこの期に及んで、すぐにばれる嘘で言い逃れするなど、往生際が悪すぎます。

そして、FD日付書き換えの事実を知った大阪地検上層部の行動です。
『(大阪地検)の一室で今年1月30日、2人の検事が、特捜部の当時の副部長と向き合っていた。1人は目に涙を浮かべていた。
「前田検事が大変なことをした。村木さんは無罪だ」』
副部長と向き合った一人は、上記「FDに時限爆弾を仕掛けた」と前田容疑者から聞かされた検事です。
副部長は前田検事に電話をかけ、前田検事から「誤って日付を変えたかもしれない」と聞かされ、特捜部長とともに「問題ない」という結論を出してしまいます。大阪地検の検事正と次席検事にもその旨報告したということです。
前田検事の話を真に受けた副部長、その報告を受けて聞き流した検事正、いずれも、もしこれが本音だとしたら、とても検事という職を任せておくことはできません。即刻辞表を出すべきです。また、怪しいと知りながら隠蔽したのだとしたら、隠蔽の罪は免れません。

今しばらくは、最高検による捜査も朝日新聞の報道を後追いすることになりそうです。

《尖閣問題》
9月24日の朝日新聞朝刊に「中国、レアアース禁輸」の一面記事が載っています。ネットニュースにも載っていませんでした。わずかにニューヨークタイムスが報じていたようです。これも朝日のスクープでしょうか。
さらにフジタ社員4名が中国で拘束されたとのニュースです。
そして本日15時、那覇地検は中国人船長を釈放しました。鈴木亨次席検事は記者会見で「我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当ではないと判断した」と述べ、日中関係悪化が判断材料となったことを認めました。
○この時期に釈放するぐらいなら、そもそも勾留延長を行わずに釈放する方がはるかに得策だったと思います。勾留延長して中国のメンツまで潰して、何を捜査しようとしたのでしょうか。
○検察が記者会見で「政治判断」を理由に述べるのは異常です。何で「捜査の関係で拘留が必要なくなったから」と述べないのでしょうか。実際に政府から圧力がかかり、それを不服としてこのような発言をしたのでしょうか。
○今回のように極めて政治的に微妙な事件において、相手国と裏取引して釈放時期を決めるなど当然に必要でしょう。ただしそれを公表する必要はありません。そのような大人の外交を、民主党政権は中国・那覇地検との間で遂行することができなかったということでしょうか。
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郵便不正事件・FD日付改竄

2010-09-22 21:46:11 | 歴史・社会
今週19日から21日にかけては北海道に旅行に行っていました。旅先の旅館でテレビニュースを見ていると、郵便不正事件で検事がフロッピーの日付を改竄したようなニュースが流れています。ニュースを見ただけではわけが分かりません。

そもそも私の頭の中では、上村元係長が偽造した証明書のフロッピーの日付は6月1日であって裁判でも確定していたはずです。今になって何で改竄の話が出てくるのだろうか。

自宅に帰って朝日新聞を読んではじめてわかりました。
今回の日付改竄事件は、朝日新聞の特ダネだったのですね。フロッピーが上村被告側に返却されていたというのもびっくりですが、そのフロッピーを朝日新聞社が借り受け、詳細に調査した結果として日付改竄が明らかになったといいます。

2010年9月21日朝日朝刊によると・・・
『FDは2009年5月26日、上村被告の自宅から押収された。FDの押収後に調べた特捜部の捜査報告書などによると、初めは「04年6月1日1時20分06秒」と記録されていた。
検察側は、上村被告が村木氏から証明書の不正発行を指示されたのは6月上旬であり、上村被告が証明書を作成したのはその後という構図で関係者の供述を集めていた。証明書が6月1日未明に保存されていたという証拠は、検察側にとって都合の悪いものだった。
FD内に記録された証明書の最終更新日時が書き換えられたのは09年7月13日。検察側の構図と合う「04年6月8日」とされ、FDは3日後の09年7月16日、上村被告側に返却された。
しかし、FDはその後、公判で証拠としては採用されず、代わりに、証明書の最終更新日時を「6月1日」と正しく記載した特捜部の捜査報告書が証拠採用された。捜査報告書は村木氏側に証拠として開示され、村木氏側から公判に証拠請求されたためだった。主任検事は、裁判を担当する地裁公判部に捜査報告書が引き継がれていたことを知らず、報告書はそのまま村木氏側に開示されたとみられる。
捜査報告書の存在の重要性に気付いたのは、大阪拘置所での勾留中に開示証拠をチェックしていた村木氏本人だった。検察が描いた構図と、上村被告が文書を作成した日時がずれていると、弁護団に連絡した。弁護団は今年1月の初公判の弁護側冒頭陳述ではこの証拠を生かして、「検察の主張は破綻している」と訴えた。』

村木裁判の初公判(本年1月27日)、検察側冒頭陳述では「村木被告(当時課長)が04年6月上旬、上村被告(当時係長)に偽証明書の作成を指示した」ということになっています。すでにフロッピーの日付が6月1日であることを知っていながら。そしてその事実が捜査報告書に記載済みでありながら。
検事たちは、フロッピーの日付が6月1日であると記載された捜査報告書の存在を完全に忘却していたのでしょうか。
そしてその捜査報告書の存在と重要さに気付いたのが村木さん本人だったという点がまたすごいです。そこから弁護側の独自調査が始まり、初公判の弁護側冒頭陳述で実は裁判の勝敗はついていたのかもしれません。

村木厚子さんの裁判を見守り支援する部屋から探ってみます。
検察側冒頭陳述
『倉沢の要請を了承した被告人(村木厚子さん)は,平成16年6月上旬ころ,上村に対し5月中の目付で公的証明書を作成して被告人のところに持参するように指示した。
これに対し,上村は,・・・・・を伝えた上で,それでも公的証明書を発行して良いか,その指示を仰いだ。
被告人は,上村に対し,「先生からお願いされていることだし塩田部長から下りてきた話でもあるから,決裁なんかいいんで,すぐに証明書を作ってください。上村さんは,心配しなくていいから。」などと告げ,早急に公的証明書を作るように指示した。
上村は,被告人に対し,その指示を了解し「凛の会」に対する公的証明言を作成次第被告人のところに持参する旨答えた。』
弁護側冒頭陳述
『上村が本件証明書を作成した日時については,上村のフロッピーディスクに記録された文書ファイルのプロパティによれば,平成16年6月1日未明(午前1時20分06秒)以前であることが明らかである。
したがって,上村が6月上旬ころになって,被告人から指示されたことを契機として,本件虚偽証明書作成に踏み切ったという検察官の主張は,この点でも破綻している。』

初公判の段階で、大阪地検は村木さんによる上村被告への偽造指示のロジックが破綻していることを思い知らされました。今回逮捕された大阪地検特捜部の主任検事、前田恒彦容疑者(43)は、その頃東京地検に応援に行っていたようです。
その後ほどなくして、大阪地検の上層部も前田容疑者から聞いて改竄の事実を知ったことでしょう。

それにしても、まだ動機や手口を含めて、全貌が見えません。
前田容疑者は、「日付の改竄がないか自分で調べているうちに、誤って日付を改竄してしまった」と言い訳しているようですが、これもすでに破綻しています。前田容疑者が使ったというソフトは、日付変更はできるが改竄の有無を評価する機能は有していなかったといいます。
だいたい、専門家でもない検事自身が大事な証拠のフロッピーをいじくり回すなど、捜査の基本から完全に逸脱しています。
そしてその大事な証拠を、日付改竄の数日後に上村被告側に返却したというのも意味が分かりません。
弁護側からフロッピーが証拠として提出されるのを待ち、そこで日付が6月8日になっていることから検察有利に推移する、という作戦でも立てていたのでしょうか。そうだとしたら、それこそ検察が自分を全否定するようなあるまじき暴挙です。無実の人を故意に冤罪に陥れようとする行為ですから。

公判の場で、捜査報告書の記述からフロッピーの日付が当初は6月1日であったことがすでに明らかにされ、問題のフロッピーは返却されて上村被告側が保管しています。改竄の事実が白日の下にさらされるのは時間の問題だったといっていいでしょう。
改竄の事実を知らされてしかしその事実を公表しなかった大阪地検上層部は、問題が露見するのをただ恐れおののいていた毎日だったのでしょうか。
それとも本当に「大したことはない」とたかをくくっていたのでしょうか。

私は今年2月27日の記事「郵便不正事件の謎」で、「これで大阪地検特捜部が負けることになったら、重大な汚点を残します。民主党連立政権下で、大阪地検特捜部は潰されるのではないでしょうか。」と発言しました。
しかし民主党政権によって潰されるのではなく、大阪地検特捜部が自壊して消滅することになりそうです。
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オーウェル「1984年」

2010-09-18 20:16:05 | 趣味・読書
村上春樹「1Q84」がベストセラーになっていますが、まだ読んでいません。私は本を買うときは文庫本を買うことにしていまして、まだ文庫本が出版されていないためです。
ところで、作者自身「執筆の動機として、ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』を土台に、近過去の小説を書きたいと以前から思っていたが」と語っているようです(ウィキ)。
そこで、「1Q84」の文庫本が発行されるまでの間を利用して、オーウェルの「1984年」を読んでみることにしました。
「1984年」は1949年に発表された小説です。
私は学生時代、SF全集に集録された「1984年」を所有していたのですが、今はもうありません。その代わり、「1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)」が書棚にあります。奥付を見ると、昭和59年印刷で、つまり1984年に書店に並んだ本であるということです(下の写真)。

一方で定価が480円なのにカバーに「¥240」のラベルが貼ってあり、古本屋で購入したことも明らかです。どのような経緯で私の手許にあるのか、もう覚えていません。
いずれにしろこの文庫本は、字が小さすぎて現在の私には読むことに困難を感じます。仕方ないので、新しく文庫本を購入しました。
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
ジョージ・オーウェル
早川書房

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私は、学生時代にこの小説を読んでいたつもりになっていたのですが、今回読んでみてわかりました。以前読んだとしても最初の数ページ程度にすぎず、何も理解していなかったということが。

1945年に第二次大戦が終了した後、どのような経緯かはわかりませんが、1984年当時、この地球の人間世界は3つの超大国によって分割統治される星になっていたのです。アジアの大部分とヨーロッパ大陸全土(英国を除く)がユーラシア、南北アメリカの全部と英国がオセアニア、東アジアの地域(日本や中国を含む)がイースタシアという超大国です。

そのうちの旧イギリスはロンドンに一人で住むウィンストンという39歳の男性が主人公です。オセアニア住人ということになります。

ユーラシアは、スターリンのソ連がそのままアジアからヨーロッパ大陸全土を制覇したような国になっているようです。しかし小説の舞台はオセアニアであるため、ユーラシアやイースタシアがどのような政治体制と人びとの生活になっているかは一切わかりません。何しろ国の間の人の行き来が完全に遮断されているらしいのです。
この小説の舞台であるオセアニアは、米国や英国が主体であるにもかかわらず、やはりどんないきさつか分かりませんが、「党」の一党独裁国家になっているのです。イデオロギーは「イングソック」と名付けられ、「イギリス社会主義」がベースになっているらしいことがうかがえます。
オセアニアの人間は、上層(党中枢)、中間層(党周辺)、下層(プロール)に厳然とわかれた階級社会になっています。「プロール」とは「プロレタリア」から来ているのでしょうか。主人公のウィンストンは中間層に属します。
中間層の人たちは、生活のすべてが監視されています。ウィンストンのアパート居室には「テレスクリーン」が配置され、行動はテレスクリーン内の監視カメラで常に監視されています。この国では「心の中で何を考えているか」までもが支配の対象となっているのです。現在の一党独裁体制に不満であると心の中で考えただけで、粛正の対象となります。
ウィンストンの母親、そしてその後に父親も、ウィンストンが小さい頃、ある日忽然と姿を消しました。粛正されたに違いありません。

ウィンストンはこのような国家体制から逃れたいと考えます。そして、党中枢に近い地位にいるオブライエンも同じ志をもっているのではないかと推測していました。そのオブライエンからある日、誘いがかかるのですが・・・。

いやはや、オーウェルの「1984年」がこのような展開をたどる小説だとは知りませんでした。
取り敢えず、1984年を読んだことで、「1Q84」に取りかかる準備は完了しました。あとは「1Q84」の文庫本が売り出されるのを待つだけです。
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原英史「官僚のレトリック」(3)

2010-09-16 21:35:14 | 歴史・社会
原英史著「官僚のレトリック―霞が関改革はなぜ迷走するのか
第1回第2回に続いて第3回です。

安倍政権下で2007年6月に成立した改正国家公務員法では、「各省斡旋の禁止」と、曖昧な部分を残しつつも「新・人材バンク」を実現しました。

2007年9月、安倍内閣が倒れて福田康夫内閣が誕生しました。
安倍総理と違って、福田康夫総理は、公務員制度改革にはさほど熱心ではないようにも見受けられました。しかし、福田内閣は、安倍内閣で仕掛かりになった公務員制度改革のアジェンダをそのまま引き継いだのみならず、旗振り役の渡辺行革大臣まで留任させました。

福田政権に持ち越された案件が、「公務員への労働基本権の付与」でした。
公務員には労働基本権に制約が設けられているのですが、実はこの「労働基本権の制約」の最大の受益者は公務員自身、それも次官から係員までの公務員全体だというのです。代償措置として設けられたのが人事院の勧告制度で、公務員は自分で労使交渉することなく、民間企業の成果にただ乗りできる仕組みになっています。
安倍内閣は、「労働基本権」を公務員制度の第二の急所と見定め、「07年秋までに最終結論」との期限を設定しました。これが福田内閣への置き土産となりました。

安倍内閣のもう一つの置き土産は「官民人材交流センターの制度設計に関する懇談会」です。田中一昭拓殖大名誉教授が座長です。そして委員の長谷川幸洋氏が「会議はインターネットで中継すべき」と主張し、渡辺氏も同調して2回目以降はインターネット中継されました。公開であることが幸いして、国民目線での議論が進められました。そして報告書では、センターの基本的な性格付けとして「天下りを続ける機関」ではなく「天下りを、本人の能力・実績に応じた再就職に転換するための機関」と定まりました。
しかし最終段階では、福田政権の町村官房長官が守旧派を代表する態度を取ったのですが、なんとか法案は閣議決定に至りました。しかし国会では全く審議されず、最終的には廃案となりました。

さらに安倍政権の置き土産で07年7月に「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会」が発足しました。メンバーに堺屋太一氏や屋山太郎氏などが入っています。そして報告書は堺屋氏を中心とする起草委員会に一任することになりました。
しかし福田総理が後ろ向きで、報告書を受けとらないと言ったそうです。最終的には受けとりますが、その段階で福田総理は「日本は政治家が弱いんですよ。こういう国では官僚が強くないといけなんです」と言いはなったと言います。報告書の最大の眼目は「官僚内閣制の打破」でした。
福田総理の発言は本音だとは思いますが、「何とか政治家が強くなって議院内閣制を実現しよう」という意識だけは持ってほしかったです。
次には報告書に沿った「国家公務員制度改革基本法」の法案化です。渡辺氏が法案化を目指した内容は報告書とほぼ同じ内容でした。
1「官僚内閣制から真の議院内閣制へ」(政官接触の集中管理、「国家戦略スタッフ」「政務スタッフ」)
2.「キャリア制度の廃止」
3.「各省割拠主義から日の丸官僚へ」(「内閣人事庁」の設立)
この改革に反対する勢力が作った通称「素朴な疑問」といわれる怪文書も出回りました。
そのような強い反対を受けた改革プランですが、08年4月、ほぼ当初案通りの「基本法」として閣議決定されました。自民党内で中川秀直議員率いる「国家戦略本部」が強力に改革をバックアップしたこと、その国家戦略本部が会合をマスコミフルオープンの戦術をとったことが奏功したそうです。当初は積極的でなかった福田総理が前向きな姿勢に変わったことも転機となりました。
国会は衆参ねじれでしたが、むしろ民主党の側から早期審議を要求するようになり、自民・公明・民主の三党修正合意を経て08年6月に「基本法」は成立したのでした。
『小さな「骨抜き」に見える修正はあったにせよ、内閣人事庁(局)という根幹の部分を残して、法律として成立に至ったこと自体、大戦果と言ってよかった。』
『渡辺氏は、法案がまだもめている頃に中曽根康弘元総理に相談に行き、「これ(内閣人事庁構想)は革命だよ。実は私もこういうことをやろとうしていたんだ。だけど、当時はまだ機が熟さなかった。いまこういう壮大な革命を仕掛けるのであれば、枝葉のところは妥協しなさい」とのアドバイスを受けたと明らかにしている。』

2008年9月、福田総理が突然に退陣して麻生内閣が発足します。
安倍内閣時代に成立した国家公務員法の改正により、「官民人材交流センター」に一元化することが決まっていました。天下り規制を施行する期限は08年12月。そこから3年以内の経過期間中は「監視委員会」の承認を受けて各省が斡旋を行うことが認められるとなっていました。
その08年12月が到来しました。
法律では、監視委員会委員の人事を国会同意人事としていました。ところが民主党が多数を占める参議院で、民主党の反対で委員の人事がことごとく否決されました。民主党の反対の理由は「委員会を設けること自体に賛成できない」ということでした。当面、各省斡旋の承認を行うことに反対だというのです。民主党が政権を取った後の「天下り垂れ流し」状況を見るにつけ、民主党は本当にいい加減だと思います。
改正法では、監視委員会が承認しなかったら、08年12月以降は各省斡旋による天下りが不可能になります。
麻生政権は奇想天外な解決策を発動しました。12月19日に閣議決定された「退職管理政令」です。この政令の中で、何と、「監視委員会」に代わって「総理が承認を行う」という「読み替え規定」が置かれたのです。“政令が法律を読み替える”というあり得ない事態になったのです。さらにこの政令では「渡り」を容認する規定が置かれていました。

こうして、安倍・福田両内閣で築き上げてきた改革は、麻生内閣になった途端、一気に逆行していきます。これに強い危機感をいだいたのが渡辺喜美氏でした。09年1月13日に自民党離党に至りました。

上記「読み替え」規定については、民主党政権になっても変更されず、(10年4月現在では)生きているそうです。

「内閣人事局」には、総務省、人事院、財務省から、それぞれにある人事関係の機能を移して一元化することが当然必要と考えられていました。
これに対して、当時の人事院総裁である谷公士氏が真っ向から異論を唱えました。しかし人事院総裁は閣議メンバーではないので、谷総裁の異論は無視しておけば良かったのです。しかし麻生総理は閣僚会合の場で「人事院については、残る論点について調整されたい」と発言しました。これは“霞が関修辞学”では、担当の甘利大臣に人事院との「調整」を求めたもので、谷氏の了解を取り付けよと指示したことになるようです。この発言は財務相出身の総理秘書官が総理の発言要領に潜り込ませ、麻生氏が深く考えもせずにそのまましゃべったのだそうです。

閣議決定前、内閣人事局長を誰にするかでもめました。官僚側は官房副長官の兼務を推進、自民党内で中川秀直元幹事長らは「人事局長は新設ポストにすべき」と主張しました。そして当時の官房副長官であった漆間巌氏(元警察庁長官)が「事務の副長官が就くべき」と発言します。結局「官房副長官の兼務」で決着し、その直後に漆間氏が「私が(人事局長を)やること」とテレビカメラの前で語り、官僚が勝利したことは明らかでした。
そしてその閣議決定した法案そのものが、国会ではまともに審議されないまま総選挙に突入し、法案は廃案となってしまったのです。

総選挙の結果、政権交代で民主党連立政権が誕生しました。
野党時代の民主党は、「新・人材バンクは『天下りバンク』だ」、「官僚もハローワークに行けばよい」といった強烈な批判を繰り返していました。「人材交流センターでも生ぬるい。もっと徹底した天下り規制をすべきだ」という論旨だと当然に国民は理解していたでしょう。
ところが政権を握ってみると、天下り禁止を推進するどころか、天下りを放任する事態となってしまいました。こちらで紹介したとおりです。
『結局、「財務省は敵に回せない」などと言って自民党守旧派同様の“官僚への配慮”を続け、加えて“公務員労組への配慮”まで行い始めた結果、自民党政権時代よりも、状況ははるかに悪化してしまったように見える。
「脱官僚」は、残念ながら、もはや、風化しつつある。』
何とも情けないことになりました。
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管直人氏再選+村木裁判の行方

2010-09-14 22:16:38 | 歴史・社会
菅首相が小沢氏に圧勝 721対491
産経新聞 9月14日(火)15時38分配信
『民主党は14日午後の臨時党大会(党代表選挙集会)で、菅直人首相(63)の代表再選を決めた。党所属国会議員と地方議員、党員・サポーターによる投票の結果、小沢一郎前幹事長(68)を破った。菅首相の獲得ポイントは721(国会議員412、地方議員60、党員・サポーター249)、小沢氏の獲得ポイントは491(国会議員400、地方議員40、党員・サポーター51)だった。』

数字は大差ですが、党員・サポーター票で差がつきましたね。
党員・サポーター票は小選挙区制だったのですね。各選挙区ごとに1ポイントですか。
選挙前のマスコミ予想の比率で投票されたら、小選挙区では大差になって当然ではあります。
党員・サポーターの個人ベースでの得票数比率を知りたいと思ったのですが、ネットニュースの中には見つけることができませんでした。


話変わって、大阪地検が村木さんの裁判で控訴するのかどうか注目しているのですが、なかなか結論が出ません。今朝のネットニュースで唯一
検察、控訴断念へ 郵便不正・村木元局長無罪
産経新聞 9月14日(火)7時39分配信
『障害者団体向け割引郵便制度をめぐって偽の証明書を発行したとして虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われ、大阪地裁で無罪とされた厚生労働省の村木厚子元局長(54)について、検察当局が控訴断念に向けて検討に入ったことが13日、分かった。大阪地検では控訴すべきだという意見が根強いが、上級庁を中心に今回の捜査手法などをめぐる検証が必要との判断に傾いているもようだ。』
が上がりましたが、この後に続くニュースが出てきません。

p.s. 9/15 党員・サポーター票の得票数については、9月15日朝日の朝刊で確認できました。票数比較では、事前のマスコミよりも小沢票が多かったように思います。
       票数     ポイント
管氏  137,998票(60.5%) 249ポ(83%)
小沢氏  90,194票(39.5%)  51ポ(17%)
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郵便不正事件~地裁判決を受けて

2010-09-12 19:54:04 | 歴史・社会
厚労省元局長の村木厚子さんを被告人とする裁判の判決(9月10日)は、従前の予想通り無罪判決でした。それも、検察の予想をはるかに超えて検察に対して厳しい内容だったようです。
その後、テレビでも検証番組がいろいろ特集で組まれています。11日のNHK 追跡 ! A to Zは「徹底検証 村木元局長裁判」でした。

公判の趨勢は、今年3月4日の石井議員の証言が大きな転機だったようです。私の印象では、2月27日に郵便不正事件の謎で書いたように、石井議員証言前の段階でとても検察の勝ち目はないように感じていましたが、検察はまだ「供述調書を証拠採用して勝てる」と踏んでいたようです。そしてその後、3月3、4日の公判の様子を郵便不正事件の謎(2)に書きました。3日に当時村木課長の部下だった当時の課長補佐が証言、そして4日に石井議員が証言しました。倉沢被告が石井議員に面会したと証言したまさにその日に、石井議員は成田でゴルフをしていたというのです。石井議員の手帳にその証拠が記されていました。
NHK番組によると、検察は4日の石井証言を受けたあと、3月5日に成田のゴルフ場に捜査に向かったということです。
石井議員は公判前にホテルの一室で検察の聴取を受けていました。村木さんを起訴した後です。石井議員はそのときに件の手帳を持参してテーブルに置いたのですが、検事は手帳をバラバラとめくるだけで、問題の日の行動についても一切質問しなかったといいます。
このような明らかな捜査の手落ちが、公判での検察の立場を大きく損なったようです。

3月3日に『当時、課長の村木被告の部下だった元課長補佐(61)=退職=が証人出廷し、捜査段階で村木被告の関与を認めたことについて「わたしはずっと『記憶にない』と話した」と述べた。元課長補佐は2004年2月下旬、村木被告から自称障害者団体元代表倉沢邦夫被告(74)が訪ねて来ると教えられ、「担当者を紹介してあげてください」などと指示されたとの供述調書に署名している。』
と証言した厚労省の当時課長補佐だった人も番組に登場していました。
“村木課長から指示を受けていないのに、なぜ「指示を受けた」という供述調書に署名してしまったのか”という点についてぼそぼそと説明していました。正確に覚えていないのですが、検事から「この調書で誰かに影響が及ぶようなものではない」のようなことを言われ、長時間の事情聴取の末に署名してしまった、ようでした。

番組で一番驚いたのは凛の会会長だった倉沢氏の談話です。郵便不正事件の謎(2)に書いたように、倉沢被告は16年6月上旬ごろ、厚労省において村木被告から偽造証明書を直接受け取ったと証言しています。
公判の証言では、
 倉沢被告「課長(村木被告)が厚労省の封筒の上に、2行ぐらいの短い書類を載せて『ご苦労さまです』と手渡してくれた。私はお礼を言って帰った」
 検察官「それ以上の詳しいやりとりは?」
 倉沢被告「ありません」
というものでした。
これに対し、弁護人が倉沢被告の手帳を示しながら質問すると、結局、6月1日~10日のいずれの日についても、「行っていない」と答えるのです。裁判官が再度質問しても同じでした。
以上の状況から、私は“倉沢被告は、偽造証明書を厚労省の課長席で女性課長から受けとった記憶は確かにある。しかし日時が特定できない。”ということだろうと推定していました。
ところがNHK番組での倉沢氏の談話には驚かされました。「女性課長に会って証明書を受けとったかどうか、記憶が定かでない」というのです。「(どのように証明書を受けとったかどうか記憶がないが)課長から直接受けとった可能性が高いのではないか」と自分の中で考えただけであるようです。

これで、検察側の最後の拠り所が崩れ去ったと思われます。私の頭の中でも、唯一引っかかっていたところが解けました。

上村被告に対する取り調べについて「おやっ」と思うことがありました。上村被告は取り調べに対してずっと「自分一人でやった」と述べていました。これに対し厚労省の何人もの職員が取り調べで村木課長の関与を認める供述をし、調書に署名していました。上村被告の取り調べ検事はこの調書を見ていて、「あなた以外は全員、村木さんの指示を認めている。」と上村被告に迫るのです。
このような取り調べ方法は、私が知っている特捜の取り調べ方法から逸脱しています。
田島優子「女検事ほど面白い仕事はない」(2)に書いたのですが、女検事ほど面白い仕事はない (講談社文庫)で田島氏は、
『○訟務局参事官から聞いた、特捜での取り調べについて
担当する被疑者を割り当てられるときは、ただ「この被疑者を調べろ」と言われるだけで、容疑の内容は教えられない。取り調べ前に情報を与えてしまうと、特捜検事は有能だから、被疑者の供述をそっちに引っ張る恐れがあるからだ。』
と述べています。
私は特捜の取り調べはそのように行うのだと納得していたのですが、今回の大阪地裁特捜部の捜査方法は全く上記の方法から逸脱していますね。
しかし今回の大阪地検特捜部に限らず、佐藤優氏を逮捕した東京地検特捜部にしても、「ストーリーをまず決めてそのストーリーに合うような供述調書を作成して署名させる」というやり方は同じでした。田島さんが聞いた頃からは様変わりしているのでしょうか。

判決を受けて村木さんは記者会見で、「これ以上、私の時間を奪わないで」と訴えました(産経新聞2010/09/10)。私は「検察は必ず控訴するだろう」と予想していたのですが、報道によると検察も控訴するかどうか揺れているようです。ここはぜひ、控訴を断念して村木さんの社会復帰を実現させてください。
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