弁理士の日々

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槇有恒著「山行」

2018-08-26 15:24:43 | 趣味・読書
6月にスイスアルプスを訪問して以来、スイスアルプスにはまっています。今回は、対象から昭和にかけて活躍した日本の登山家、槇有恒(まきゆうこう)氏について述べます。
まずは、今年のわれわれのスイス旅行と槇有恒氏の関係についてです。われわれは、クライネシャイデックのホテルに2泊し、3日間にわたってアイガーのそばにいました。
このブログのスイスの旅(3)アイガー~ユングフラウに記載したように、槇有恒氏は1921年(大正10年)、グリンデルヴァルトの登山ガイド3名と共にアイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀しました。ホテルの廊下には、そのときに撮られたのであろう写真が飾ってありました。Yuko Maki 10 Sept. 1921”と署名されています。

また、クライネシャイデックとユングフラウヨッホをつなぐ登山電車の途中駅であるアイガーグレッチャーから降り、クライネシャイデックへ至るハイキング道の途中に、槇有恒氏ゆかりの山小屋が移設されて保存されています。

上の写真の右下に見える小屋です。

入口のガラスを通して中を見ると、この小屋が使われていた当時を再現しているようでした(左下写真)。右下写真は、槇有恒氏に違いないでしょう。
 
 小屋の内部                         槙有恒氏の写真
アイガー東山稜(ミッテルレギ)を初登攀した記念として、3年後に槇有恒氏が1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作ったそうです。
ネット記事によると、「2001年 ミッテルレギ小屋2号が建てられた際小屋1号をアイガーグレッチャー駅の近くに移動。その後、2011年に現在の位置(ハイキングコース)に移動させました。」とあります。

帰国後、自宅の本棚を調べてみたら、槇有恒氏著の以下の図書が見つかりました。
山行 (1975年) (覆刻日本の山岳名著)
槇有恒
大修館書店
奥付には昭和48年10月30日発行とあります。読んだかどうか記憶がありません。奥付の著者名には「まきゆうこう」とふりがなが振ってあり、正式名が“まきありつね”ではなく“まきゆうこう”であることがわかります。
緒言などによると、この本は大正12(1923)年に発行され、昭和23(1948)年に復刻、さらに昭和48(1973)年に復刻されたものです。そのときどきの、槇有恒氏による緒言、序、まえがきが記されています。槇有恒氏は、1894年(明治27年)生まれ、1989年(平成元年)没(95歳)です。

「登高記」として、6件の登高記録が掲載されています。
1.ヴェッターホルン(1920)
2.メンヒよりアイガーへの縦走(1920)
3.フィンスターアールホルンよりグロッセシュレックホルンへ(1920)
4.マッターホルン(1921)
5.アイガー東山稜への初登攀(1921)
6.マウント・アルバータの登攀(1925)

1から5まではスイスアルプス、6がカナディアンロッキー(初登攀)です。スイスアルプスについては、今回私が実際に自分の目で見た山々であり、実に印象深く読むことができました。私の写真を掲載します。
1.ヴェッターホルン(1920)
          ヴェッターホルン                         アイガー山頂とアイガー北壁

[クライネシャイデックから]                    クライネシャイデックのホテル

2.メンヒよりアイガーへの縦走(1920)
             アイガー                            メンヒ

[クライネシャイデックから]

3.フィンスターアールホルンよりグロッセシュレックホルンへ(1920)
                       シュレックホルン              フィッシャーホルナー?

[アイスメーアから東方]             フィッシャー氷河
上の写真は、ユングフラウヨッホへの登山電車の途中駅(アイスメーア)から東方向を撮影したものです。フィッシャーホルナーの後方にフィンスターアールホルンが位置していると思われます。

4.マッターホルン(1921)
5:49
[ツェルマットから]

5.アイガー東山稜への初登攀(1921)
        東山稜(ミッテルレギ゛)   アイガー北壁とアイガー山頂

[グリンデルヴァルト近くから]

本の末尾に、安川茂雄氏による解説が掲載されています。それによると・・・
槇有恒は慶應義塾に進学し、教授の鹿子木員信の助言を得ながら慶応義塾山岳会を設立しました。アメリカに留学しますがすぐにヨーロッパに移動し、イギリスでは、日本アルプスの父とも言えるウォルター・ウェストン氏を訪問し、氏の助言でスイスのグリンデルヴァルトに居を移すこととしました。
グリンデルヴァルトに長期滞在しながら、槇有恒は、登山技術と知識の習得に努めました。そして、本書の登高記にあるように、ヴェッターホルン(1920)、メンヒよりアイガーへの縦走(1920)、フィンスターアールホルンよりグロッセシュレックホルンへ(1920)、マッターホルン(1921)を経験しました。
当時、アイガー山頂は1858年に初登頂されていましたが、東山稜(ミッテルレギ)経由ではだれにも登攀されていませんでした。この東山稜登攀に、槇有恒は、グリンデルヴァルトに住む3人のガイド(ブラヴァント、ストイリ、アマター)とともに挑み、初登攀に成功したのです。
登攀のスタートは、ユングフラウ登山鉄道の途中駅、アイスメーアからです。私が上の[アイスメーアから東方]の写真を撮影した場所です。絶壁の穴から下の氷海(アイスメーヤ)に下り、氷雪を進み、次いで東山稜の尾根を目指して登攀を開始します。尾根の南側に自然の穴を見つけ、そこを露営の場所と定めました。アマターは尾根の北側に山ランプを起きました。グリンデルヴァルトの村から見えるように。そのうち、村の牧場に強い光の燈火がつきました。ブラヴァントは許嫁のとぼした火だといいます。
翌朝は朝6時に出発、そして最後の急壁を登攀するのに、9時から午後の5時までかかりました。午後7時15分、ついに頂に立ちました。登頂後、日が沈んだアイガーの西壁を下ります。アイガーグレッチャーの停車場に着いたのは午前3時でした。

初登攀に成功したのは4人ですが、登攀技術に長けていたのはむしろ3人のガイドです。しかし、3人のガイドは槇有恒に雇われた身であり、主役は槇有恒、という扱いのようです。

そしてその3年後、槇有恒氏が1万スイスフランを寄贈してミッテルレギ小屋(en)を作ったというのです。

グリンデルヴァルトに長期逗留したこと、ガイドを雇って困難な登攀を成し遂げたこと、小屋建設の寄付をしたことなど、その財源がどこから出たのか気になります。本書末尾の解説には『父は奥羽日日新聞の主筆で、のち実業界に身を投じた。』とあります。実業界で成功され、財を築いたのでしょうか。

このあと、1925年、槇有恒氏はカナディアンロッキーに遠征隊を率いて出かけ、マウント・アルバータの初登攀に成功しています。著書「山行」に登頂記が収められています。
私は中学時代から、「マウントアルバータ」という山を知っていました。中学の図書室に「山行」が置いてあって、その目次ぐらいは眺めていたのでしょう。

槇有恒氏がヨーロッパから持ち帰った登山用具、登山技術は、日本の登山を刷新したようです。

槇有恒氏はその後、日本山岳会会長(2期)、日本山岳協会会長・名誉会員を歴任し、ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂を成功させました(1956年(昭和31年))。
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