弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

藤原てい「旅路」

2009-07-30 23:20:20 | 歴史・社会
藤原ていさんが、3人の乳幼児を抱えて終戦直後の満洲から北朝鮮、そして38度線を越えて日本に帰還した経緯について、「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」を紹介しました()。この本は、1949年に発行されたものです。

その藤原ていさんが、昭和56(1981)年に“自伝的小説”として出版した本が「旅路」です。
旅路 (中公文庫)
藤原 てい
中央公論社

このアイテムの詳細を見る

藤原ていさんは1918年生まれとありますから、63歳頃の作品でしょうか。

《女学校時代》
ていさんは諏訪の山の中で育ち、子どものときは山をかけまわって遊びくらしていました。町の女学校に合格し、寄宿舎生活を始めますが、窮屈で耐えられません。それでも教師になることを夢見て、必死に勉強しました。
ところがある日、ていさんの父親から「学校をやめさせる」との連絡が入ります。ていさんの両親はなぜか別居しており、父親は中学校の校長をしていました。父親とていさんは互いに嫌い合っていたのですが、その父親の家で食事の世話をするように、ということでした。
今から75年以上前の日本では、親の反対を押し切って子供が自分の希望を通そうとしても、そもそも親から見放されたら生きることさえかなわないような貧乏な生活をしていたものと思われます。特に女性の場合には。

《新婚生活》
その後、お見合い話の中から、藤原さん(後の新田次郎)と結婚することとなりました。
気象台に勤める夫が新京(長春)に転勤します。
その新京で三人目の子供を出産した二度目の夏、昭和20年8月9日、藤原さんたち家族は新京を捨てて逃避することとなります。

《放浪生活》
ここからの記録は、「流れる星は生きている」の時代と重なります。
「流れる・・・」では、北朝鮮に拘束されていた時代のソ連兵との確執はほとんど記述されていませんでした。しかしやはりあったのですね。「旅路」では、藤原さんの団体が駐屯するソ連兵から受けた暴力行為のいきさつが語られています。
団体は櫛の歯が抜けるようにさみだれで脱出者が出、藤原さんたち母子はあるときに単独で脱出したようです。駅からキップなしでも貨車に乗せられ、平壌へ、そして新幕まで運ばれました。
そこからは徒歩で、見えない敵に追われるように逃亡します。
気付いたときには、子供達と一緒に山の中で倒れていました。目の前に朝鮮兵が四人、突っ立っています。兵隊たちは「殆どの子供達が死んでいるのに、よくお前は子供を守ってきた。オレ達が救けてやろう」と岡の上まで背負ってくれます。その丘の下には米軍がいるはずだといわれ、坂を転げ落ちていきました。
次にまた気付いたとき、ていさんはトラックの上でした。多くの死体と一緒に運ばれていたのです。

《夢に見た日本》
船で博多に上陸してから長野県の実家にたどり着くまで、ていさんはほとんど記憶がないようです。3ヶ月遅れて夫の新田次郎氏が帰国したときも、誰なのか判別できないほど、意識がもうろうとしていました。
夫は元気を取り戻して東京の職場に復帰しましたが、ていさんは2年以上も、最初のうちは立ち上がることもできず、やっと立ち上がって伝い歩きするような状況でした。
東京に気象庁の官舎が確保でき、家族全員で東京へ引っ越します。ていさんは「全身衰弱」毎日ペニシリンの注射が必要でした。夫の収入の半分はペニシリン代に消えます。
目まい、吐き気、心臓の痛みは続きます。そのような中で、子供達に遺書を残そうと思い立ち、夫に気付かれないように北朝鮮放浪の生活を書き綴りました。

廊下を手放しで歩くことができるまでに回復した頃、ていさんは思い切って遺書を夫に見せます。それはノートに二冊、細かく書き込んでありました。
「もう必要ありませんものね、焼き捨てましょうか」
夫は吸い付けられるように読み、今まで涙を見せたことなどなかったのに、ぽろぽろ涙を流しました。
「オレがあずかっておく」
その遺書が本になりました。夫と、当時気象台長をしていた叔父、藤原咲平との好意からでした。赤土色の本の表紙は、北朝鮮の赤土の泥の色だとのことです。

本は全く予想もしなかったのに、売れに売れました。ていさんは原稿を依頼されるようになります。
小学校に通う娘は、学校から帰ると「あ、お母さん、原稿を書いていたね、目がこわいから、すぐわかるよ」「仕事をしてはイヤ」かん高い声で言います。
ある日、至急の原稿を郵便局に出して帰宅すると、次男がかんしゃくを起こしてドアを壊していました。次男が学校から帰ると鍵がかかっており、怒って壊してしまったのです。
ていさんはその日からペンを折りました。

《成長した家族たち》
「今日、役所で、今後は藤原てい夫と、名刺に書くべきだと言われたよ」
ある夕食の折、夫はポツンと言います。
にぎやかだった食卓に冷たい風が吹き抜けるようになりました。
「オレも、小説を書く」
「お前に出来ることぐらい、オレにも出来る」
小説家・新田次郎は、このようにして誕生したのでした。

その夫が、突然に死亡します。心筋梗塞でした。1980年、67歳。ていさんは62歳です。
あれほど、本気になって育て上げた子供達もみな社会人になって巣立ってしまい、夫までもが再び帰らない旅へ立って行ってしまいました。「もう、私を必要としている人は誰もいなくなったのだ」むなしい日々が流れていきます。

《あとがき》
「あの敗戦直後の長く苦しく悲しかった北朝鮮での放浪の日々。引き揚げ後の貧しい中で、ひたすらに子供達を育て上げていった日々。よろこびは瞬間に通り過ぎてしまって、苦しかったことのみが、心に重く残ってしまっている。それでも私は、精一杯に生きて来たように思う。あるいはこれが人生というものかもしれない。それならば、残された日々を、今までのように、また一生懸命に生きてゆこうと思う。
 こんな時、大野周子さんが、生きて来た道を書き残すようにとすすめてくださった。そしてこの本が出来上がることになった。あるいはこれが私の生きて来たあかしになるかもしれない。なんともありがたいことである。」


この本はちょうど、藤原ていさんがご主人を突然に失った失意のときに書かれたものだったのですね。
「流れる・・・」の出版から32年が経過しています。「流れる・・・」の当時は書けなかったことも、この「旅路」では明らかにしています。その両方を読み比べることによって、真実の姿が見えてくるようです。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村松尚登「テクニックはあるが、サッカーが下手な日本人」

2009-07-28 20:57:15 | サッカー
村松尚登氏については、1年前に日本少年サッカーの現実で紹介しました。バルセロナのバルサスクールで子供達にサッカーを教えており、サイト日本はバルサを超えられるを運営されています。
その村松氏の下記の著書を読んでみました。
テクニックはあるが、サッカーが下手な日本人 日本はどうして世界で勝てないのか?
村松 尚登
ランダムハウス講談社

このアイテムの詳細を見る

プロローグから
「スペインには毎年のようにはるばる日本から小中高生のサッカーチームが遠征にやってきます。サッカー留学のために個人でスペインにやってくる日本人青少年も居ます。」
「こういった多くの若い日本人選手たちが、スペインでその力量をスペイン人たちの前で披露するわけですが、日本人選手のプレーに対するスペイン人の“第一印象”は概して良く、彼らは口を揃えて『日本人のテクニックやスピードは素晴らしい!』と驚嘆します。
しかし、残念ながらその好印象が長く続くことは稀で、彼らのプレーを数十分間見続けた後の日本人選手に対する“第二印象”は、『日本人はテクニックやスピードは素晴らしいがサッカーは下手』というものに変化していってしまいます。」

《スペインサッカーは痛い》
スペインに渡ったばかりの頃、スペイン9部リーグに属するチームに所属し、練習を始めました。練習といえども彼らは、激しくフィジカルコンタクトしてきます。スペインではテクニックよりも「戦えるかどうか」が最も重要視されています。

《「サッカー=長期リーグ戦」という公式》
スペインでサッカーをプレーするあらゆる人たちが、各チーム20名ぐらいのチームに属し、すべてのチームは16チームからなるリーグに属し、1年間に合計30試合を戦います。毎週末に試合が行われます。
大人も子供も、上手くても下手でも、自分にあったチームに加入します。万年補欠はほとんど存在せず、毎週末の試合に出場することができます。
こうしてあらゆる階層のサッカープレーヤーが、毎週末の試合を通じてうまくなっていくのです。

《選手は育てるものではない。見つけてくるもの》
最近私はNHK番組で、長友選手に密着した番組を見ました。中学時代、長友選手は自分の実力よりも低いチームに所属し、増長していました。その長友選手を目覚めさせ、導いた先生がいたそうです。
スペインではそんなことは起こりません。どの選手も自分の実力に見合ったチームに所属しますから、増長することなく、毎週末の試合で技術を磨いていくのです。そうして結果を残した選手が、より高いレベルに上がっていきます。

《サッカーはサッカーをすることで上手くなる》
スペインで日常的に目にする練習メニューや指導スタイルに、日本と比較して真新しいものはほとんどない、という実情のようです。
結局、「○○は上手いけどサッカーは下手」という日本人のサッカーレベルを向上するためのヒントは、ここに集約されました。「サッカーはサッカーをすることで上手くなる」
サッカープレーヤーのすべてが、自分のレベルにあったチームで補欠でなく毎週末の試合に参加し、年間30試合を戦うことによって、サッカーが上手くなっていくということです。
このようなスタイルでサッカーを追求する結果として、日本人に足りないといわれる“賢さ”も備わっていくように思われます。

《戦術的ピリオダイゼーション理論》
日本サッカーを向上させるヒントを探し、村松さんは11年もの長い間バルセロナで仕事をしてきました。しかしその答えが「サッカーはサッカーをすることで上手くなる」では寂しすぎます。
そんなとき、村松さんが出合ったのが「戦術的ピリオダイゼーション理論」でした。
この理論の内容については、私もよくわからなかったので、興味のある方は本を読んでください。
「サッカーは“カオス”であり、かつ“フラクタル”である。」という“サッカーの本質”だけ、紹介しておきます。

セルジオ越後氏が「日本サッカーと「世界基準」 (祥伝社新書 (046))」で主張している内容について、こちらでも紹介してきました()。村松さんの上記の考え方は、このセルジオ氏の考え方と極めて良く一致しています。

紹介記事でも話題にしたように、日本の登録選手数89万人が、松村さんが唱えるように1チーム20人のチームに所属するとすると、チーム数は4.5万チーム(=89万/20)となります。これらのチームのすべてが、16チーム一組でリーグ戦を組み、毎週末にホーム&アウェイで試合を行うというわけです。1グラウンドで1日に4試合できるとして、グラウンド数は全国に合計6千ほど必要となります。

また、チーム数に見合った指導者の確保が問題です。
スペインでは、今のシステムで長い間に育った多くの大人がいます。また、村松さんによるとスペインの勤労者は5時に終業し、その後に地域でサッカーを指導することが可能だとのことです。

このような、グラウンドインフラ、指導者インフラが、日本には欠けていると言わざるを得ないでしょう。

ところで、日本にも、スペインと同じようにインフラが潤沢な地域があるかもしれません。
静岡です。
静岡は昔からサッカーが盛んだと聞きます。各地域に多くのサッカーグラウンドを抱え、サッカーセンスに優れた大人も多く在住している可能性があります。そのお陰だと思うのですが、やはり静岡はサッカープレーヤーの供給源になっています。フランスワールドカップの時、日本代表選手のうちの半分の出身地が静岡県だったのにはびっくりしました。
静岡における状況をサーチすれば、村松さんが提唱するスタイルが日本でどのように機能し得るのか、検証できるように思われます。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界が尊敬する日本人100人

2009-07-26 11:25:39 | 歴史・社会
ニューズウィーク日本版の7月8日号に、「世界が尊敬する日本人100人」という特集が載っています。瀬谷ルミ子さんのブログで「瀬谷さんが載っている」ということで紹介がありました。
早速購入しようと思ったのですが、なかなか入手できませんでした。たまたま「さよなら、マイケル」という特集が併載されたためでしょうか、アマゾンで売り切れなのです。
定価より2倍も高い中古本でやっと入手できました。
Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2009年 7/8号 [雑誌]

阪急コミュニケーションズ

このアイテムの詳細を見る

100人は、3つのカテゴリー、"Challengers"、"Pioneers"、"Heroes & Icons"それぞれで選ばれています。私が知っている人が少ないのにまず驚きました(リスト)。

ネットで調べてみると、ニューズウィーク日本版は「世界で尊敬される日本人100人」特集をけっこう頻繁に出しているようですね。ということは、今回特集で選ばれた100人は、「ここ数年の間に世界で注目された日本人」ということになるのでしょうか。それも、“全世界で注目”ではなく、“世界のある地域では有名”という人も多いようです。

これだけ多くの日本人が、世界で活躍し、尊敬されているのですね。私が知らなかったのは不徳でした。これからもがんばってください。

瀬谷ルミ子さんの次に白洲次郎氏が名を連ねていますが、“なぜ白洲次郎が今回なのか”はよく分かりません。
宮崎樹里さんは、イギリスのコッツウォルズ地方の小さな町ウィンチコムで、6年前に両親と共に開設した"Juri's"というTea Rooms & Restaurantを開いています。写真を見るとうら若き女性です。08年に英国紅茶協会の「トップ・ティープレース」賞に輝きました。「とにかく文句のつけようがない。この店には、旅行ガイドが約束したイングランドがそのままある。」という評価です。
北野武氏は、ペナンを支援していることで尊敬されているようです。

「徳川家康」にはびっくりです。役職が“征夷大将軍”というのも笑ってしまいます。中国では、山岡荘八原作の書籍が読まれているそうです。私も、山岡荘八の「徳川家康」は少なくとも2回読み、戦国武将のイメージについてはこの小説から得たものが焼き付いています。ですから私の中では“徳川家康は天才で善人”となっています。
漫画家の神尾葉子氏は、韓国で「花より男子」が大ヒットしていることから選ばれたようです。
中満泉さん(女性・46歳)は、国連PKO局で08年に政策・評価・訓練部長に抜擢されました。PKOの政策立案を担う養殖を日本人が率いるのは初めてだそうです。部下は80人。ソマリアやコンゴ(旧ザイール)など、無政府状態と化した紛争地で市民を守る「21世紀型のPKO」を模索し、部隊の質や装備を全面的に見直すという大役です。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主党がインド洋給油活動を黙認?!

2009-07-24 20:30:21 | 歴史・社会
民主が海賊対策に海自容認、外交で現実路線
7月23日3時3分配信 読売新聞
「民主党は22日、衆院選政権公約(マニフェスト)の基となる2009年の政策集をまとめた。
 政権獲得を視野に入れ、海賊対策のため自衛隊派遣を容認することを盛り込んだ。インド洋での海上自衛隊による給油活動の中止を明記せず、対米関係への配慮を強めるなど外交分野で現実路線を打ち出した。将来の消費税の税率引き上げにも含みを残したほか、給与所得控除に適用制限を設けるなどとしている。民主党は政策集の内容を絞り込み、月内に政権公約を発表する。
    ・・・
 新テロ対策特別措置法に基づく海自の給油活動について、昨年の政策集では延長反対を明記したが、鳩山氏が当面は継続する考えを示したことから今回は項目から外した。政権獲得後の柔軟な政治判断に余地を残す狙いがあるとみられる。」

2007年秋から約1年間が在任期間であった福田政権において、最初の数ヶ月は、民主党が反対するテロ特措法(インド洋無料給油所)を成立させるために費やされました。

それ以前は、日本がインド洋上の給油で米軍やパキスタン軍に協力していることなど、パキスタン大統領ですら知らなかったと思われるくらい、知られていませんでした。アフガニスタンの反米勢力も同様に知りませんでした。
それが、2007年の民主党の反対により、日本がインド洋無料給油所で米軍に加担しており、今後もそれを続けようとしていることが全世界に知れ渡ってしまいました。

それ以前は、アフガニスタンにおいて日本が種々の平和維持活動や復興活動を行うに際し、武装勢力からも「米軍に加担していない日本なら活動に協力する」という目で見られていたのに対し、日本によるインド洋上の給油活動が世界に知られてしまい、NGOにしろJICAにしろ、中村医師によるペシャワール会にしろ、危険が増大して活動を縮小せざるを得ない状況に追い込まれています。

それから1年半、政権奪取が近づいてきたと思ったら、民主党はあのときの主張を無かったことにして、インド洋無料給油所の継続を黙認するというのですね。
そんなことなら、あのときに“絶対反対”など唱えず、賛成しておけば良かったのです。そうであれば、アフガニスタンの反米勢力を含めて、世界の大半の人が日本のインド洋給油に気付かず、アフガニスタンにおける日本の復興支援活動が円滑に継続できたというものです。

まあ、2007年当時は、私もインド洋上給油には反対の姿勢であり(こちら)、「インド洋給油継続が日米同盟の踏み絵なら、その踏み絵を踏んでおけば」との意見になったのは2008年9月になってからではありますが(こちら)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊島問題を考える

2009-07-22 21:52:52 | 歴史・社会
「地方自治体は暴力に対して弱く、暴力がちらつくと、不当な要求にも屈してしまう」という点について、以前「行政と暴力」として記事にしました。
行政が暴力に屈した事例として、豊島産廃問題を挙げ、この事件で住民側代理人となった中坊公平氏の著書中坊公平・私の事件簿 (集英社新書)から拾ってみました。
「1975年12月、豊島(てしま)総合観光開発は香川県の豊島で有害産業廃棄物処理事業を行いたいと香川県知事に許可申請した。これに対し住民は建設差止請求訴訟を提起したので、豊島総合観光開発は「ミミズによる土壌改良剤化のための処理」のみを行うと申請内容を変更した。許可権者の香川県は、行政としては許可せざるを得ないとして、住民に対しこれを受け入れるよう強く要請し、住民も受け入れた。
豊島総合観光開発は78年4月から「ミミズ・・・」業務を開始したが83年には事実上廃業し、シュレッダーダストなどを搬入して野焼きを行うようになった。これについて香川県は同社を指導監督するどころか、逆に同社を廃棄物処理法違反で起訴した高松地検に対して、同社の主張を認める説明を行っていた。
90年11月、兵庫県警は豊島総合観光開発を廃棄物処理法違反の容疑で摘発。当初、シュレッダーダストは廃棄物ではないと説明していた香川県も廃棄物であることを認めるようになった。同社は、50万トンを超す大量の廃棄物を放置したまま実質上倒産した。
周辺から有害物質が検出されたが、香川県は周辺環境への重大な影響はないと発表した。
そこで住民は弁護士に公害調停の申請を依頼した。93年11月住民438名は、公害等調整委員会に対し、廃棄物の撤去と損害賠償を請求する調停を申請した。公害調停は6年半に及んだが、2000年6月6日、①県が行政責任を認め住民に謝罪する、②産廃を豊島の西約5キロの位置にある直島に運搬し処理する旨の調停が成立した。」

香川県の豊島に50万トンもの廃棄物が不法に投棄され続けた背景には、業者の暴力に屈した行政の弱腰があったようです。

まず、こちらの資料(pdf)に掲載された記事「●不法投棄の原点 豊島問題を考える 農事組合法人てしまむら 石井亨」を参照して、どのような実態があったのかを見ていきます。

1975年12月に産廃業者(M)が有害産業廃棄物処理事業を行いたいと香川県知事に許可申請したのに対し、この業者は問題が多く信用できないとして島民が反対運動を起こし、県としてもこの業者に許可を出すことを見送ると表明します。

記事から抜粋「今度はMの直訴が始まります。Mは何をしたか。布団を抱えて県庁へ現れまして、その日から県庁の廊下で寝泊まりを始めます。登庁してくる知事をつかまえて、すがりついて、「許可をくれ」と言って泣きつくわけです。この状態を受けて、香川県は180度考え方を変えてしまいました。どんなに大勢の人が反対したとしても、一処分業者が廃棄物処理業を営んで生活していく権利、事業者の生存権が侵かされてはいけない。だから香川県としてはMに許可を出すという方向に変わったわけです。
そして昭和52年になって、当時の香川県知事は、自分で豊島に行って豊島の住民を直接説得すると言い出します。
「ミミズの養殖に限って認めるという許可がおりて、実際にミミズ養殖業と言われる行為が始まりますが、状況が激変するのは昭和58年です。」
「昭和58(1983)年、Mは中古のカーフェリーを自分で買ってきて、これを改造して廃棄物専用船をつくりました。自動車が乗り込む車両甲板に直接ごみを積んで運び出したわけです。そうすると、1回運ぶと数百トンとか1000トンという単位になってしまった。」
「あまりにも状況が異常なものですから、香川県に公開質問状を出しました。現場でやっているのは一体何なのですか。半年かかって、やっと県から回答が来ました。現場でやっているのはミミズの養殖ですと。もう一つは金属回収の事業をやっているのであって、あれは廃棄物の処分ではないという回答でした。
それで納得できないということで、県の職員に来てもらって住民説明会を開きました。住民からは、Mがやっている行為は違法だ、許可外だ、だからあの事業をやめさせてくれという声が随分と上がるのですが、住民説明会に来た香川県からは、Mさんは香川県下でも非常によくやってくれる業者です、彼がやっている行為は合法であり、安全であるという説明が行われます。」
「1990年11月16日に兵庫県警がやってきて、この事業者を検挙します。」

今般、高松にて学んでいる娘が、廃棄物対策豊島住民会議が発行している資料を入手してくれました。
<
その資料の中に、「供述調書」のコピーが入っています。平成3(1991)年2月11日、兵庫県飾磨警察署の取り調べに対し、当時の香川県職員が任意に供述した内容です。昭和58(1983)年当時、環境保護部環境自然保護課の係長をしていた人です。

その供述調書の内容です。
昭和58(1983)年初め頃、当時香川県環境保健部環境自然保護課の係長だったこの人は、産廃業者のM氏から相談を受けます。この相談に対し、「M氏の一方的なことばをうのみにして、「有償で買い受けたのであり、資源か再利用が確実にできるのであればシュレッダーダストとは廃棄物に該当しない」と回答します。
この係長は、M氏の相談に対してはあまり深入りをしない方がよいとの気持ちが多分にありました。調書「昭和51(1976)年の終わりか昭和52年の初めごろ、M氏が現在の処分地において有害廃棄物の処分の申請をしていたのですが、県がこれを受理していないから、県としては地元住民の反対があったので許可をしなかったことからM氏が立腹し、当時の自然保護課長のネクタイをつかんで振り回す等の暴行をした、更には・・傷害事件を起こしている等のことを聞いており、私のM氏に対する気持ちは、気の短い乱暴な男で気げんをそこなえば何をするかわからない人との印象が非常に強かったのです。
このことから私は、M氏の相談に対しても強いことが言えず、どちらかと言えばM氏の都合の良い回答をしているのであります。・・まず相談を受けた際に詳しい内容を聞き指導すべきところはハッキリといっておれば良かったとの反省もしております。」
「私がこの時(昭和60(1985)年)に売り上げ台帳等を確認しておればM氏が金属の回収と称してシュレッダーダストを不法に処分していることが確認され、それによって行政処分等の適正な措置ができたと思うのですが、実際にはそのようなことは考えてもみなかったのです。」
「公民館において会合を持ち、その場で“M氏が行っているシュレッダーダストについては廃棄物ではなく有価物で金属を回収しているものである”等の説明をしていますが、これは私がM氏の説明を受けてうのみにした内容を言ったまでのことで、M氏が行っているのは金属回収と称して廃棄物を不法に処分しているとでも言えば私自身どうされるかと思えば絶体にそのようなことは言えず、このように説明したのです。」
「このようなことから私はもちろん自然保護課内においてはM氏が乱暴者でありかつ智恵が働き、口が達者な三びょうしそろった人物であるこのことがしばしば話題になる人で、香川県内の廃棄物処理業者でも一筋縄ではいかない人であることから、私は、どうしてもこのM氏に対しては強い指導ができなかったのです。
またM氏の理くつもそれなりに理由がとおっており、この理くつを通されれば私つまり県としても、M氏の言うとおりに信用するしかなく、結果的にはだまされているのです。
今から思えば、M氏に対し弱腰な行政指導をすることなく、強く適正な指導を行って、この度のような大事になる前に行政処分等の適正な措置を行っていればよかったとの反省もしているのであります。

以上の資料から、香川県庁の一係長が暴力に怯え、暴力に屈したことはわかります。
しかし13年の間、合計で50万トンもの廃棄物が不法投棄されるに至ったのは、一係長のみの責任ではありません。県知事を含め、県庁全体が組織ぐるみで見て見ぬふりをした結果です。
係長の供述調書には「私つまり県としても」との供述があります。担当の係長が判断をしたら、それは県の判断になるということで、以後県庁はその判断を守るべく一丸となるのでしょうか。
何で県庁が知事を含めてこのような対応を取ったのか、その点については、結局判らずじまいでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半藤一利「ソ連が満洲に侵攻した夏」

2009-07-20 16:22:06 | 歴史・社会
藤原ていさんの「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」は、昭和20年の夏、藤原さん自身が満洲の新京から脱出する様子を描いたドキュメントでした。
あのときに満洲で起こった事象の全体を描いた本としては、以下の本があります。
ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)
半藤 一利
文藝春秋

このアイテムの詳細を見る

今回、昭和20(1945)年8月10日前後に新京で何が起こったのか、上記半藤さんの本で再確認してみました。
ソ連軍がソ満国境を越えて突如満洲になだれ込んだのは、8月9日の午前1時前です。
新京(長春)には関東軍総司令部があります。新京在住の居留日本人は約14万人といいます。
関東軍総司令部が新京在住居留民の後送を決めたのは、8月10日の正午少し前です。軍官の要人会議で決められたはじめの輸送順序は、民・官・軍の家族の順だったそうです。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められました。
しかし、第一列車が出発したのは遅れに遅れて11日の午前1時40分であり、さらに軍人家族が真っ先に列車に乗りました。軍人家族には、10日午後5時に広場に集合、の非常指令が早く伝えられています。
そして会議で決まった避難順序がいつの間にか逆になるにつれ、こんどは軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立ちます。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追い払われるようになります。
こうして11日の正午頃までに18列車が新京駅を離れました。避難できたものは新京在住約14万人のうちの3万8千人。内訳は軍関係家族が2万3百人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6千7百人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民です。
「11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入りホームにあふれ、怒号、叫び声そして泣き声が入り交じって異様な熱気にあたり一帯が包まれた。これらは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の有線に対する不満と怨みの声をあげたのである。」
「幸いに列車で新京をあとに国境を越えることができた人たちのその後を待ち受けていたのは、苦難な平壌での生活で、多くの家族が結局は飢えや伝染病で死んだ。しかし、そんな不運をのちに知ることがあっても、しばらくはだれも信じようとはしなかった。」

新京から列車に乗れた段階で、政府関係者家族である藤原さんはまだ幸運な方であり、列車に乗れなかった一般日本人が大量にいたということですね。
また、「流れる星は生きている」では、藤原さんのご主人が役所に非常呼び出しされたのが9日の夜中とありますが、半藤著書と整合するためには、10日の夜中と考えるべきでしょうか。そしてその夜のうちに新京駅に到着し、11日の午前10時になって藤原さん達を乗せた列車が出発したと。
半藤著書で、11日午前1時40分から11日正午までに出発した18列車のうち、最後の方の列車に乗れたのでしょう。

半藤著書には、藤原さん達家族の姿とオーバーラップする忘れ得ぬ悲劇が掲載されています。
黒河というと、新京より遙か北、ソ満国境にある都市です。その黒河から、兵隊として徒歩での待避行動を行った日本兵が見た事実です。
『「黒河を出てから4、5日後になって、ふと気付くと、日本人一家が必死になって歩いていた。われわれ兵士の隊列と前になったり、後になったりしながら、数日間も遠方で、あるいは間近にその姿を見せていた。会話を交える余裕は双方になかったので、まなざしで頑張れと挨拶するだけだった。」
一家は、三十代後半ほどの母と、7、8歳と4、5歳の男の子二人、それに母の背には乳呑子、それと元使用人かと思われる中国人の老爺であったという。立ち止まったとき、背中の子供に乳をやり、男の子二人にも何やら食物を与えていた母の姿を望見したりした。
「彼女は、兵隊さん、一緒に連れて行ってとは一言も口にすることなく、数日の間、われわれと同じ道を辿っていた。だが、いつしか視野から消えてしまった。」
・・・
そして、この母子4人のその後はだれも知らない。いまたずねだすことも不可能なのである。』

母子が逃げ延びるためには、何百キロも歩かねばならないはずですから、おそらく生き延びることはできず、満洲の地に散ったのでしょう。
当時の日本軍は大きくは「国体の護持」を目的とし、小さくは「命令を遵守」することが絶対でした。満州在住日本人を保護するなど思いもつかなかったでしょう。それを居留民も知っていましたから、この母親は日本兵に助けを求めることをしなかったと思います。

半藤著によると、在満日本人のうち、ついに日本に帰れずに死亡した人の数は明確ではありませんが、約18万人としています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿の空に虹が・・・

2009-07-19 20:27:08 | Weblog
本日19日の午後6時40分頃、新宿南口の高島屋方面から駅に向かって歩いていたら、大勢の人たちが空に向かって携帯を向け写真を撮っています。ふり返ってみたら、空に虹が架かっていました。
私も他の人たち同様に、つい携帯を虹に向け、カシャッとやってしまいました。

下中央に見えるのが高島屋と東急ハンズが入ったビル、右の高いビルはNTTドコモ代々木ビルです。

(追加)そのときに撮った3枚の写真を合成してみました。たまたま虹の全体を見ることのできる絶好のロケーションに立っていたのが幸いでした。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トムラウシ山での大惨事

2009-07-18 21:19:38 | 歴史・社会
大雪山系遭難:前例ない10人死亡 夏の大雪山系で惨事 /北海道
7月18日11時0分配信 毎日新聞
「◇日程やガイドなど慎重に捜査--道警
 大雪山系のトムラウシ山と美瑛岳で10人が亡くなった山岳遭難事故は、夏山では前例のない惨事となった。過去の山岳遭難を巡っては、ガイドが業務上過失致死罪に問われて有罪になったケースもあり、道警はツアーの日程が過密でなかったか、ガイドのツアー客引率が適切だったか--など慎重に調べる。」

団体である程度の山に登る場合、大事なことは「リーダーがきちんと決まっているか」ということです。
「天候の急変をどう捉えるか」「進むか退くか」この決断に、リーダーが責任と権限を有していることが大事です。リーダーが決めたら、メンバーはその決断に従わなくてはなりません。
リーダーがきちんと決まっていなかったり、メンバーがリーダーの決定に従わないようだと、惨事は起こりえます。

私も社会人になってから、北アルプス界隈の登山を何回か企画し、初心者を連れて登った経験があるので、このあたりの事情についてはとても気になります。

今回の事故について、報道を注視しているのですが、詳しい状況は全くわからないというのが実情です。
旅行社が企画し、全国から集まった客を連れてのツアー登山ですから、いろいろと難しい事情があり得ます。

18人のメンバーで「ガイド」が3人ついていたということですが、この「ガイド」の実態が不明確です。札幌在住者が一人、後の二人は本州在住のようですから、この山系の専門家ではなさそうです。
又、「ガイド」といっても、旅行社の添乗員に毛が生えた程度の技量なのか、それとも「プロの登山ガイド」と呼べるようなベテランだったのか、わかりません。
報道では「リーダー」「リーダー格のガイド」という言葉が出てきません。誰かをリーダーと決めていたのかいなかったのか。3人のガイドが同列の単なる引率者であったら、「あの人の決定には従おう」という共通認識は、客の間に生まれていなかったでしょう。ガイド達も、客の「空気」でずるずると行動した可能性があります。

客の中に声が大きくて強引な人がいたら、引率者はその声に引きずられる危険が大きくなります。

ヨーロッパアルプスであれば、職業ガイドの地位が確立しています。世界ではじめて制覇された八千メートル級の山はヒマラヤのアンナプルナです。この山を制覇したフランス隊を構成していたのは、著名な山岳ガイドであるモーリス・エルゾーグ、ガストン・レビファ、リオネル・テレイなどでした。

日本にも山岳ガイドは存在します。30年以上前、日本の職業ガイド団体が主催する冬山教室に参加したことがあります。そのときの印象では、日本では山岳ガイドが職業として成立するか、きわめて危うい状況でした。
いずれにしろ、今回ツアーを引率した「ガイド」が、プロを自任する「ガイド」だったのか、それとも単なる添乗員だったのかは不明なままです。

旅行社の社長の記者会見映像では、記者の誰かが「行動マニュアルは無かったのか」と質問したらしい応答がありました。
登山でのリーダーの決断について、「マニュアルに準じて決定」などできるはずがありません。経験・知識と責任感と決断力で、状況に応じて決心するだけです。
ここでも「マニュアルがなければ糾弾」というスタイルが報道陣にあるのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原てい「流れる星は生きている」(3)

2009-07-16 21:16:03 | 歴史・社会
前回まで2回にわたって、藤原てい著「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」の内容を追ってきました。

出産からたった1ヶ月、逃亡の最初は4キロを歩くのさえやっとだった藤原ていさんが、0歳児を含む3人の子供を抱え、夫からも引き離されながら、こうして帰還を果たすことができました。
極限に置かれた母親がこんなにも強くなれるのか、驚くばかりです。

死の瀬戸際にいた咲子ちゃんが生き延びたのか、本文には書かれていませんでしたが、文庫本のあとがき(昭和51年)には「当時、生まれて間もなかった娘も、30歳になった」とあり、ほっとしました。
生死も知れなかった藤原さんのご主人は、藤原さんが引き上げてから約3ヶ月遅れて、北満州の延吉という場所から引き上げてきました。後に作家の新田次郎になる人です。
捕虜時代のことについて新田氏はめったに話をせず、彼のおびただしい作品の中にはその片鱗さえも書き込まれませんでした。
次男の正彦ちゃんは、後に数学者となり、「国家の品格」を世に出しました。

この本「流れる星は生きている」はどのようないきさつで生まれたのでしょうか。
文庫本のあとがきにはこう記されています。
「引き揚げてきてから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合わせのような日々だったけれども、その頃、3人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだったけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、また、苦しみのどん底に落ちた時、お前たちのお母さんは、このような苦難の中を、歯を食いしばって生き抜いたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持ちで書き続けた。
しかし、それは遺書にはならなかった。私が生きる力を得たからである。それがこの本になった。」

Wikipediaには「帰国後、遺書のつもりでその体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』は戦後空前のベストセラーとなった。一部創作も含まれている。」と紹介されています。
しかし今回読んだ文庫本には、小説であるとは記されていません。一部が創作であるとも記されていません。1949年出版当時は小説としましたが、文庫本出版時の1976年には、藤原さんにとって真実の思い出として理解されていたのでしょう。

ここまで来ると、どうしても初版出版時(1949年)のいきさつを知りたくなります。そこで買ってしまいました。初版本です。
流れる星は生きている (1949年)
藤原 てい
日比谷出版社

このアイテムの詳細を見る

コレクター本として9千円台のものが並んでいる中に、たまたま3千円の中古本がアマゾンに掲載されたので、すかさず購入してみました。

巻頭で、作家の大佛次郎氏が序を書いています。

著者のあとがきを読んでみましょう。
藤原さんは、どうかして自分の経験した記録を子供たちに残したいと思い、まずは記憶を辿りながら克明な日記を綴りました。次に、健康を恢復してくるとともに「創作を書く」ということを思いつきます。600枚の小説を書き上げますが、何か寒々とした他人のことのような気がしてなりません。
そして3回目、自分と子供たち3人の名前を実名にして他の人物は全部仮名の人物、自分の団体にいた人、他の団体で見た人の個性、聞いた話等、モデルを豊富にとって、自分を常に中心としてあの悲惨な生活の記録をたどりました。
「どうやら書き上げて読み返して見たが、まだ私達の惨めな体験とはほど遠いもののような気がしてならない。これを読んで38度線を同じく越えてきた人達は、そんな生やさしいものではなかったのにと云われるに違いない。そしてもっと真実をなぜ書かなかったのだと云うに違いない。」
「そして最後にもう一言云いたいことは、この小説のモデル探しはやめて戴きたいことである。これは一篇の小説であるから、私と三人の子供の名前以外は全部小説の中だけの人間と思って戴きたい。あの北朝鮮の山の中の町にいた私を知っている人達に逢ったら、しみじみと今は遠い過去の苦しみを語り合い、明日の道を誤らないようにしたいと思うのである。
  昭和23年12月        著者」

初版本のこれら「序」「あとがき」などは非常に興味深いものであるので、html文書にしました。


藤原さんの著書を通じて、感じたことがあります。
1945年当時、北朝鮮に住む現地の人たちも困窮していたはずです。また、今までの支配者だった日本人を憎く思っていたことでしょう。
しかし、途方に暮れる藤原さんたち母子に接する朝鮮の人たちは、いずれもとても親切な人たちでした。意地悪をすることなく、必要なときは食物を分け与えてくれました。「あなたに食べ物を上げると、私が村八分にされてしまう。今から食べ物を捨てるから、それを拾っていってください。」と言ってくれた農家の主婦もいました。
それに対し、意地悪で自分勝手だったのは同胞の日本人たちです。
日本人として寂しい限りではありますが、このような事実があったことを、しっかりと覚えておくことにしましょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原てい「流れる星は生きている」(2)

2009-07-14 21:08:33 | 歴史・社会
前回に続き、藤原てい「流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)」を紹介します。

藤原さん達日本人団体(新京気象台勤務者の家族)は、命令によって北朝鮮・宣川のあばら屋で集団生活しています。女性、子供、老人ばかりです。
藤原さんのご主人は抑留されたまま、生きているかどうかすらわかりません。

昭和21年5月15日、「日本人解放」とうニュースを受けます。と同時に、冬中続けられた一日一人あたり米二合の無料配給が停止されました。「解放」とはいうものの、すぐに日本に帰れるあてはありません。そしてここに滞在する限り、毎日の食費を自分の財布から出さなければならなくなりました。
夜が明けると日本人は町に溢れ出て、血眼で仕事を探し求めていました。藤原さん達4人家族が最低生活をするには一日20円はどうしてもかかります。
幼児を連れた女性はなかなか内職が見つかりません。藤原さんは咲子ちゃんを背負って職探ししますが、ことごとく断られました。そして最初は街頭でのたばこ売りからはじめ、次に石けんの行商を始めます。収入は少なく、家族はとうもろこしをドロドロの粥にして命をつなぎました。
売り歩く石けんを買う元手もなくなると、最後は子どもを連れて物乞いに歩きました。

8月1日、藤原さん達の団体は南へ向けて脱出することを決めます。
宣川から新幕までは汽車で行けます。そこから90キロ、山の中を歩いて、最後は38度線を徒歩で突破して南側の開城に到達するというものです。そのルートで何が起こるのか、本当に脱出できるのか、すべては流れてくる噂にもとづいての判断です。
藤原さん達の団は18名、しっかりした男性は一人きりで、あとは女性と子供、乳幼児ばかりです。
汽車は平壌で止まり、そこで3日間足止めされました。3日目、有蓋貨車に乗せられて新幕に出発します。雨の中、貨車に立ちづめで数時間走り、夜の新幕に到着します。

横殴りの雨です。日本人たちは、目に見えない危険に追われるように、小走りで移動を開始します。藤原さんは〈早く逃げないと殺される〉と思い込んでいました。赤土の泥道を夜中に歩く中、正彦ちゃんは両方の靴をなくしていました。藤原さんも裸足です。
昼も歩き続けます。
集団はばらばらになり、咲子ちゃんを背負った藤原さんは遅れます。休憩していた集団に近づくとその集団は移動を開始し、正広ちゃんと正彦ちゃんだけが取り残されていました。正彦ちゃんは、裸の下半身が紫色になり、このままでは凍死です。近くに民家を見つけ、助けを求めました。民家の老婦人が沸かしてあったお湯を使わせてくれたので、正彦ちゃんの身体中を摩擦し、やっと生気を取り戻しました。

そこからは近くの民家で牛車を頼むことにします。1台千円。10人ほどを集めて1台を頼みました。
翌8月5日は晴れです。午後3時頃、第1目標の新渓郊外に到着し、牛車に金を払います。
夜、また牛車を雇い、夜を徹して先に進みます。お金が足りないので、子供たちは牛車に乗せますが藤原さんは裸足で歩き続けました。次の日の昼頃、市辺里に到着します。咲子ちゃんに飲ませる乳が出ません。
市辺里を出た夜はものすごい夕立です。何とか農家の牛小屋に泊めてもらいます。
同じように何日も、いくつもの山を越え、子供を一人ずつ小脇に抱え胸まで浸かって急流を渡り、裸足で歩き続けます。ときどき大豆をかじって飢えを癒します。
8月10日、前方に白いものが見えます。それこそ、38度線の木戸でした。駐屯するソ連兵たちが遮断棒を上げ、藤原さんたちを通します。
38度線を通過しても、目的の開城まではもうひとつ山を越さなければなりません。藤原さん家族はばらばらになり、山を越して開城の市外にたどり着き、そこで彼女は咲子ちゃんを背負ったまま意識を失います。

次に意識を回復したとき、藤原さんはトラックの荷台でした。米軍に助けられたのです。正広、正彦の兄弟も乗っていました。こうして8月11日の朝、家族4人は最悪の事態を脱して生き延びました。

藤原さんと正彦ちゃんは、裸足で歩き続けたため、足の裏が完全に破れて多数の小石がめり込んでいました。人間は、極限状態ではここまで頑張れるのか、それも4歳の幼児が。
その後、開城から議政府を経由し、8月26日、貨車で釜山に到着します。

帰国する船にはすぐに乗れました。船は博多に到着します。しかし博多に到着したまま、上陸の順番待ちでずっと船倉に缶詰になったままでした。子供たちは全身おできだらけで、寝ているときにかさぶたが取れると「ぎゃッ」と声をあげ、そのたびに周囲から「うるさいぞ!なぜ子供を泣かすんだ!」と罵声が飛ぶのです。また着の身着のままですから「臭い」と文句をいわれます。
やっと上陸できたのは9月12日でした。
せっかく日本にたどり着いたというのに、この対応は何でしょうか。乳幼児を連れた母子や病人を先に上陸させるという智恵が、上陸事務を掌る役人には働かなかったようです。もっともそんな対応をしても、結局は要領の良い人だけが優先して上陸したかも知れませんが。

博多から故郷の諏訪まで、列車での移動です。咲子ちゃんは衰弱し、診た医師は、もう1日生き延びるとは考えられない、といいました。
列車は上諏訪に到着します。「引揚者休憩所」に入ると、鏡がありました。鏡を見るのは一年ぶりです。
「そこには私の幽霊が立っていた。灰色のぼうぼうの髪をして、青黒く土色に煙った顔に頬骨が飛び出して、目はずっと奥の方に引っ込んで、あやしい光を帯びて私をじっと見つめている。色の褪せきった1枚のシャツ、その下にはいている半ズボンの膝小僧のあたりが破れてぶらぶら何かぶら下がっている。そのあたりから、水ぶくれに腫れ上がった鑞のように白い足が二本にゅっと出てそれでも下駄だけははいている。背中には死んだような子を背負い、両脇にはがくりと前に倒れそうな子供の手を引いて・・・。」

藤原さんの兄、妹、両親が駅に駆けつけます。藤原さんは背中の咲子ちゃんを下ろし「この子を早く病院へ」というと、「もういいんだ、もういいんだ」と心の中で繰り返し、そのまま深い処へ沈んでいきました。
(終わり)

以下次号
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする