弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

赤毛のアンの家

2016-07-30 11:06:08 | 趣味・読書
先日、ナイアガラの滝でご紹介したように、この6月にカナダを旅行してきました。
今回のカナダ東海岸旅行の一つの目的が、プリンスエドワード島の赤毛のアンの家を訪れることでした。
旅程としては、まずトロントに滞在してナイアガラの滝を観光し、トロントからモントリオールは特急(鉄道)、そしてモントリオールからハリファックスまで夜行寝台(オーシャン号)を利用します。ハリファックスで一泊し、翌朝、飛行機でプリンスエドワード島のシャーロットタウンに至るものです。

まず、ハリファックスからシャーロットタウンへの飛行機について記します。
飛行機を見てびっくりしました。下の写真にあるような、小さな双発のプロペラ機だったのです。
 

私の席は前から2番目でした。操縦席と客席の間は開放でよく見えます(左下写真)。後ろを振り返ると、左右に1列ずつで、合計20人程度の定員でしょうか(右下写真)。
  
客席から操縦席                         座席から後方を見る

上の地図で解るように、ハリファックスのあるノヴァ・スコシア州は、カナダの大陸から張り出した半島にあります。その北にプリンスエドワード島があります。ハリファックス空港を離陸したときは雨が降っていましたが、半島と島を隔てる海まで出ると、雲が切れて島が見えてきました。飛行機は真っ直ぐに空港へ向かっているようです。
操縦席前の窓から、空港の滑走路が見えてきました(左下写真)。そして滑走路へ無事に着陸です。扉を開けて前へ倒すと、扉がそのままタラップの階段となります(右下写真)。
  
着陸態勢~滑走路が見える                    スチュワードが扉兼タラップを開ける

今回、プリンスエドワード島ではシャーロットタウンのホテルに宿泊し、レンタカーを借りて、島内をレンタカーで移動します。
まず、プリンスエドワード島について説明しましょう。
ガイドブックには以下のように紹介されています。
『ルーシー・モード・モンゴメリ(1874~1942年)の小説「赤毛のアン Anne of Green Gables」の舞台であるプリンス・エドワード島は、セント・ローレンス湾に浮かぶ面積約5660m2(四国の3分の1)ほどの小さな島。アンが暮らすアヴォンリー村のモデルとなったキャベンディッシュ周辺には物語で描写された場所がいくつも存在する。』
島の南にあるシャーロットタウンについては、『島内観光の拠点となる町。赤毛のアンやモンゴメリに関連したスポットをめぐるツアーもここから出発する。』と紹介されています。

島の北にあるキャベンディッシュに、グリーンゲイブルス(赤毛のアンの家)を中心とした観光施設があります。
説明板
 
①案内所 ②ギフトショップ ③納屋 ④穀物倉 ⑤まき小屋 ⑥グリーンゲイブルス ⑦お化けの森 ⑧Balsam Hollow trail

グリーンゲイブルス(アンの家)です(下写真)。
この家は、ガイドブックによると、赤毛のアンの『物語の中で、孤児院から引き取られたアンが、少女時代を過ごした「グリーンゲイブルス(緑の切妻屋根)のモデルとなった家。白と緑の木造家屋は、物語そのままの姿だ。実際はモンゴメリの祖父のいとこに当たるマクルーニ兄妹が、モンゴメリと同い年の養女マートルと暮らしていた。ここからほど近い祖父母の家に住んでいたモンゴメリは、この家を取り囲む森や林など自然環境に強い親しみを抱き、たびたび訪れてはマートルと遊んでいたという。』とあります。
 

ダイニングルーム(多分)
 

マシューの部屋
 

2階のアンの部屋(左下写真)には、マシューが買ってくれたパフスリーブのドレスがかかっています。壊れた石盤も置かれているということでしたが、わかりませんでした。
アンの部屋                         裁縫室
  

マリラの部屋
 
マリラの部屋には、めがね、黒いショール、紫水晶のブローチが飾られているといいます。全体写真に加え、部分写真を2枚アップしました。左下写真の机の上に見えるのが紫水晶のブローチでしょうか。
  

グリーンゲイブルス
 

グリーンゲイブルスの正面(お化けの小径へ)
 

グリーンゲイブルスから東方向の森に入り、お化けの小径を進み、さらに道路を横断するとその先は草原です。草原から本屋へ行く途中に、モンゴメリの住居跡があります(下写真)。祖父母の家で育ったモンゴメリは、祖母が亡くなる36歳まではこの家で暮らしていました。現在は医師の土台と当時の井戸だけが残っています。
 

グリーンゲイブルス郵便局 モンゴメリが暮らした祖父母の家の郵便局を再現した建物だといいます(下写真)。内部は博物館になっているとのことですが、このときはオープンしていなかったようです。
 

6号線に沿って戻ると、十字路に共同墓地があります(左下写真)。この共同墓地にモンゴメリの墓があるのです(右下写真)。モンゴメリは1942年にトロントで死去しました。生前より「グリーンゲイブルス」の見えるこの場所で永眠することを望んでいたといいます。
  
                                 モンゴメリの墓
こうしてキャベンディッシュ付近の観光地を巡りました。次はクルマで海岸沿いを走り、グリーンゲイブルス博物館へ向かいました。この家は、モンゴメリの叔母さんの家で、現在もキャンベル家の人たちが暮らしているということです。

グリーンゲイブルス博物館
  
                                 輝く湖水 Lake of Shining Waters

ここからまた車を走らせて、ケンジントン駅舎跡へ向かいました。

ケンジントン駅舎跡(下写真)は、1905年に建てられた旧駅舎で、モンゴメリも利用していたといいます。1989年に鉄道が廃線になり、現在は一部がバーとなっています。
 
 

こうして、プリンスエドワード島における赤毛のアンゆかりの地巡りが終わりました。

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米と英の特別な関係

2016-07-21 20:23:05 | 歴史・社会
イラク戦争について、イギリスが行った検証が話題になっています。例えば、・・・
イラク戦争を検証し続けるイギリスと、一顧だにしない日本?その「外交力」の致命的な差
2016年07月21日(木) 笠原敏彦
『7年の歳月をかけ、参戦を決めたブレア首相ら当時の政府高官ら約150人を聴取、政府文書への完全なアクセス権を与えられ15万件の証拠を調べ上げた。そして、「軍事行動は最後の手段ではなかった」「法的根拠を十分に満たしたというにはほど遠い」などとブレア氏を厳しく批判している。』
『世界はイラク戦争の「落とし子」と言える過激派組織「イスラム国(IS)」のテロの脅威にさらされている。多大な犠牲を払ったイラク戦争とは「一体何のための戦争だったのか」。国民の多くが自問し続けてきたのである。』

『報告書は、ブレア首相が開戦8ヵ月前の2002年7月、「何があっても行動を共にする」とブッシュ大統領に伝えていた書簡を機密解除させ、公表した。すでに参戦を決意しているかのような物言いだ。
ブレア首相はなぜ、そこまでしてアメリカを支えようとしたのか。』

『英米関係を特徴づけるものに「2つのアングロサクソン国家」と「特別な関係」という2つの言葉がある。
「特別な関係」という言葉は、ウィンストン・チャーチルが1946年に行った「鉄のカーテン」演説で初めて使われた。東西冷戦が幕を開け、イギリス単独では共産主義の脅威から欧州を守れなくなった時代だ。この言葉には、アメリカを欧州防衛に関与させ、英米の「特別な関係」で欧州と自由主義世界の平和と繁栄を支えようという思惑が込められている。』
『筆者が気になるのは、検証報告書が「利益と判断が異なるとき、無条件の(対米)支援は必要ない」と提言している点だ。』(以上)

私は、「米と英の特別な関係」というと、思い出すことがあります。
第二次大戦前から直後にかけての日本の外交官・外務大臣であった幣原喜重郎氏が、「外交五十年」という自伝を出しています。私は2008年にこのブログで、『幣原喜重郎「外交五十年」』として記事にしました。その中に記述したことです。
『幣原氏が1919年に駐米大使としてワシントンに着いた頃、カリフォルニア州で排日土地法が問題になり、とうとう州議会で可決してしまいます。この頃のアメリカにおける日本からの移民に対する差別待遇が、日本人のアメリカ嫌いを形成する大きな要因となりました。その意味では後に日米戦争の起因のひとつです。

幣原氏が大使館参事官としてワシントンにいた頃、1912年にパナマ運河が開通し、アメリカはイギリス船を含め外国船に通行税をかけることにしました。イギリスは米英間の条約違反であると抗議します。しかし米国議会はこの法案を可決してしまいます。
当時の在米イギリス大使はブライス氏です。ある日、幣原氏はブライス氏を訪ねます。幣原氏はパナマ運河問題についてブライス氏に「抗議を続けられるでしょう」と訊くと、「いいえ、もう抗議は一切しません」との答えです。幣原氏が突っ込むと、ブライス氏は昂然として、「どんな場合でも、イギリスはアメリカと戦争をしないという国是になっている。抗議を続ければそれは結局戦争にまで発展するほかない。戦争をする腹がなくて、抗議を続けても意味がない。」と答えます。
逆にブライス氏がカリフォルニアの排日問題に転じます。幣原氏が「抗議を続けます」と答えるとブライス氏は、「一体あなたはアメリカと戦争する覚悟があるのですか。もし覚悟があるなら、それは大変な間違いです。これだけの問題でアメリカと戦争をして、日本の存亡興廃をかけるような問題じゃないでしょう。」とし、こう付け加えます。「アメリカ人の歴史を見ると、外国に対して相当不正と思われるような行為をおかした例はあります。しかしその不正は、外国からの抗議とか請求とかによらず、アメリカ人自身の発意でそれを矯正しております。これはアメリカの歴史が証明するところです。われわれは黙ってその時期の来るのを待つべきです。加州の問題についても、あなた方が私と同じような立場をとられることを、私はあなたに忠告します。」

アメリカの排日問題が、日本人のアメリカ嫌いを助長し、対米開戦にまで到達してしまったのですが、日本にイギリスの智恵があったらと惜しまれるところです。
またブライス氏が予測したとおり、1931年頃、アメリカは排日法を撤廃する気運になりました。ところがその後まもなく満州事変が勃発して日本の評判が再び険悪となったので、排日立法撤廃の発案は立ち消えになってしまいました。
この点からも、「満州事変がなければ、太平洋戦争には至らなかったのでは」という繋がりを感じます。』(以上)

1910年代にはすでに存在していた「米と英の特別な関係」ですが、イラク戦争を契機として、この関係は解消してしまうのでしょうか。
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南シナ海ハーグ裁定と満州事変のリットン報告書

2016-07-17 10:03:07 | 歴史・社会
前報で、南シナ海ハーグ裁定と日本の安全保障について記事にしました。
習近平中国は、南シナ海全域を中国の「核心的利益」であるとして、一歩も引きません。

ところで、中国の「核心的利益」と聞くと、満州事変時における日本の「特殊権益」を思い起こします。
さらに、ハーグ裁定を中国が「紙くず」と称した点については、満州事変に対するリットン報告書を日本が否認したことに似ています。このあと日本は、結局国際連盟を脱退し、第二次大戦に転がり落ちていったわけですが、中国はどうなるでしょうか。

2009年1月、私は加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」について紹介しました。
『満州事変前後の国際情勢を語る際に、「日本が有していた満蒙における特殊権益」という言い方がよくされます。
加藤氏の著書では、「特殊権益(日本の特殊な権利、日本の特殊な利益)」というものが、決して二国間あるいは国際的に認知されたものではなく、日本単独の独りよがりであったことを本の中で明かしていきます。
しかし当時の国民は、陸軍による宣伝活動が功を奏し、「日本は満蒙に特殊権益を有しているのだ」と信じて疑わなくなります。そのような日本の権益を侵害する張作霖、張学良、中国人民はけしからん連中である、ということになります。

《満州事変後のリットン調査団から国際連盟脱退まで》
満州事変後、国際連盟はいわゆる「リットン調査団」を派遣します。
団長であるイギリスのリットン伯爵自身は、紛れもなく中国に同情的でありましたが、リットン報告書は日本に好意的に書かれたものでした。アメリカ代表は「日本側は報告書の調子に満足するだろう」と述べていますし、日本の専門家のメンバーも「内容は全体的には日本に対して非常に好意的である」と評価します。
しかし日本はこの報告書に満足しません。主に、日本の特殊権益が認められなかったところが大きかったようです。
当時の外相である内田康哉は、満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であり、はやくから満州国独立・満州国承認論を論じていました。32年6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決されます。
国際連盟で、日本代表の松岡洋右は妥結に向け努力しますが、それを内田外相が葬ってしまいます。内田は国際連盟を脱退せずに済ます自信があったようです。
しかし国際連盟は、リットン報告書をベースとした和協案よりも厳しい内容の勧告案を採択します。

国際連盟脱退は、意外な展開に基づきます。
連盟規約16条では制裁について規定していますが、それは、15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えたときにだけ適用されると解釈されます。
関東軍は、「熱河作戦」を計画し、斉藤内閣はこれを諒承します。天皇も参謀総長の上奏に許可を与えます。この時点でまだ国連の勧告は決まっていません。しかし2月8日、連名の手続が勧告案へ移行したことが伝えられます。斉藤首相と天皇は、熱河作戦が「新しい戦争」と解釈される恐れがあると気付き、うろたえます。
熱河作戦は撤回できない。16条適用もあるうるかも知れない。ならば速やかに(連盟を)脱退すべきだとの方針を内閣は取りました。
こうして、日本は国際連盟から脱退しました。決して、松岡洋右の単独プレーではなかったのです。』

習近平中国のいう「核心的利益」も、日本の「特殊権益」と同様、言っている方の独りよがりである点が似ています。しかし中国は、絶対に後に引くことはないでしょう。
中国には、国際海洋法条約から脱退する手があります。日本が国際連盟から脱退したように。

ところで、国際海洋法条約と国際連盟、どちらも米国が加入していなかったという点でも、共通点があるのですね。恐ろしく符合点が多いです。

中国と世界平和との関係、今よりもっと悪い方向に進むのではないかと懸念されます。
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南シナ海ハーグ裁定と日本の安全保障

2016-07-16 11:27:34 | 歴史・社会
南シナ海領有権、「中国に歴史的権利なし」 国際仲裁裁判所
AFPBB News 7月13日(水)10時10分配信
『南シナ海の領有権をめぐってフィリピンが中国を提訴した裁判で、オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所は12日、中国には同海域の島々に対する「歴史的権利」を主張する法的根拠はないとする裁定を下した。
 同裁判所は、中国が南シナ海での領有権を主張するために独自に設定している境界である「九段線」の内側の海域について「中国が歴史的権利を主張する法的根拠はないと結論付けた」と述べ、「中国はフィリピンの主権を犯している」とした。
 13年に中国を提訴したフィリピンは仲裁裁判所の裁定を歓迎した。一方で中国外務省は同日「裁定は無効で何の拘束力もない。中国はこれを受け入れないし、認めない」と真っ向から拒絶した。さらに「第三者によるいかなる手段の紛争解決も受け入れない」とし、領有権問題に関する長年の姿勢を繰り返した。』

習近平中国は、南シナ海全体の実効支配を手放そうとしません。
私は以前から、中国にとっての南シナ海の重要性は、南シナ海を中国のミサイル潜水艦の活動場所にするためではないか、と推定していました。南シナ海の岩や暗礁を埋め立てて軍事基地にし、ミサイル潜水艦の基地を設ければ、基地から南シナ海の深い部分まで敵に知られずに潜水艦を派遣することができるからです。
その場合、安全保障上のリスクが生じるのは、決して南シナ海に面する国や米国のみではなく、日本にも重大な安全保障上のリスクが生じるのです。

昨2015年7月18日、安全保障関連法案において、以下のように記事にしました。
《普通の国であれば当然に行使できる集団的自衛権》
『現代世界において、それぞれの国は集団的自衛権を保持し、健全な普通の国家であれば、国と地域の平和と安全を確保するために必要であれば当然に集団的自衛権を行使し得るものと考えます。
日本を取り巻く情勢を見ると、同盟国であるアメリカは、オバマ大統領が「世界の警察官であることをやめた!」と宣言し、実際に軍事費は大幅に削減されつつあります。
一方で中国は、周辺地域で覇権を握ろうとする思惑が露わであり、南シナ海でも東シナ海でも膨張の機会を虎視眈々と狙っている状況です。南シナ海が中国の制海権下におかれ、中国のミサイル潜水艦が南シナ海の底を遊弋するようになれば、横須賀に司令部を置く米国第7艦隊はハワイまで撤退することになるでしょう(飯柴智亮著「2020年日本から米軍はいなくなる」)。
このような状況下で、日本と周辺地域の平和を守るために必要なのは「抑止力」と「対話」であると考えられます。米国による抑止力が減退している状況下で、日本は何をなすべきなのか、その点を考えると、集団的自衛権をどのように取り扱うのか、真剣に討議すべき時期だと思われます。普通の国であれば集団的自衛権を保持して平和を守ることは当然に認められているのですから。』

飯柴智亮著「2020年日本から米軍はいなくなる」には、横須賀を母港とする米国の第7艦隊について以下のように描かれています。
横須賀の米第7艦隊は絶対に必要。
現在、中国は800~900のミサイル発射台を持ち、そのうちの100~150が在日米軍向けと予測される。第7艦隊の攻撃型原潜にはトマホークが200発搭載されている。ターゲットリストには中国の司令部とミサイル発射台100~150の情報すべてが入っている。中国が横須賀に向けてミサイルを発射する前に、アメリカの原潜からのミサイルですべて潰される。だから、横須賀の第7艦隊はまだ大丈夫。
中国海軍が潜水艦発射型弾道ミサイルJL-2のような長距離高性能ミサイルを200発、実戦配備するまでだが。
横須賀を攻撃できるようになるのは2035年頃だろう。そのときは、フィリピンのスービック基地に横須賀と同様の施設を造って、フィリピンと横須賀に第7艦隊を分散させる。さらに危険だと判断すればその後方にあるハワイを使う。』

陸上に設けられた現在の中国のミサイルは、少なくとも横須賀の第7艦隊母港をターゲットとするものについては、それが発射される前に、米国原潜から発射されるミサイルによって無力化されるというのです。しかし、中国がミサイル潜水艦を十分に配備したら話は別です。アメリカは中国のミサイル潜水艦を無力化できないので、中国がその気になれば横須賀は破壊されるでしょう。フィリピンもだめですね。そうなると、米第7艦隊はハワイまで撤退します。

こう考えると、南シナ海を中国が支配して暗礁を埋め立てて軍事基地にするということは、日本の安全保障に重大な影響を及ぼします。
また中国にとっても、南シナ海を中国潜水艦の安全な内海にできれば、まずは第7艦隊を横須賀から追い出すことができますし、さらにハワイや米本土をミサイル潜水艦の射程に入れることも可能になります。
従って、中国は、ハーグの仲裁裁判所の裁定程度では、「はいわかりました」と南シナ海から撤退することはないはずです。中国がいう「核心的利益」の中には、ミサイル潜水艦を南シナ海で自由に運用する利益が大きな部分を占めると思われます。

以上のような考え方、以前はあまり報道で接することがありませんでしたが、ハーグ裁定以降はだいぶ言われるようになったようです。
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南スーダン内戦と自衛隊PKO

2016-07-10 10:43:06 | 歴史・社会
南スーダンの首都ジュバで、大統領派と副大統領派それぞれの兵士間に戦闘が発生し、150人が死亡する内戦状態となりました。
南スーダンのジュバには自衛隊が派遣されているはずです。しかし、テレビニュースでは自衛隊について一言もしゃべりません。そこでネットニュースを確認しました。

衝突で兵士150人死亡=独立5周年、内戦再燃の恐れ―南スーダン
時事通信 7月10日(日)5時52分配信
『南スーダンは9日、独立から5年を迎えた。
前日には首都ジュバでキール大統領派とマシャール副大統領派の兵士が衝突し、副大統領報道官によると少なくとも150人が死亡。ジュバの緊張は高まっており、内戦再燃の恐れも出ている。
同報道官は、キール大統領とかつて反政府勢力指導者だった副大統領の「双方の警護部隊全てが交戦した。死者は増える見通しだ」と語った。戦闘は大統領と副大統領が大統領府で会談している際に発生。小火器から重火器にエスカレートし、複数の場所で迫撃砲の音が響いた。
両派による戦闘は4月の暫定政府発足後初めて。大統領と副大統領は「不運な出来事」と述べた。ジュバは9日は厳戒態勢が敷かれ、外出する市民はまばら。各国政府は南スーダンからの退避勧告を出した。』

自衛隊の件は記事になっていません。別の記事を調べました。

<南スーダン>建国5年、経済疲弊…急務の和平定着
毎日新聞 7月10日(日)8時30分配信
『・・・南スーダンの内戦で、陸上自衛隊の施設部隊が参加する国連の平和維持活動(PKO)は大幅な軌道修正を余儀なくされてきた。日本の安全保障関連法で可能となった「駆け付け警護」が自衛隊員に適用される初の現場となる可能性もあるが和平の行方は未知数だ。
・・・派遣されているのは陸自第7師団(北海道千歳市)など10次隊約350人。正面ゲート前の道路整備や避難民キャンプの外壁造りなどを行う。
日本政府は国造りの支援で12年1月から陸自施設部隊を派遣したが、南スーダンは独立から2年半で内戦に突入。・・・国連は市民保護をPKOの最重要任務に変更。・・・』

日本は、自衛隊を海外にPKO派遣するに際し、「安全な場所だから」ということで派遣にOKを出しています。南スーダンの場合もそうです。その場所が安全ではなく危険になりました。もし、現時点で初めて南スーダンPKO派遣の話が持ち上がったとしたら、日本政府は絶対に派遣にOKを出さないはずです。であれば、すでに派遣されている場所が安全から危険に変化した場合、どうしたらいいのでしょうか。

自衛隊という軍隊を派遣する以上、国連も世界も、「危険な場所でも活動できるからこそ軍隊を派遣する」と理解します。ですから、その場所が今の南スーダン程度に危険になったからといって、軍隊がその場所から逃げ出すことなど考えられません。日本にとってのジレンマです。また派遣当初、日本は「土木工事のために自衛隊を派遣」したはずです。しかし、南スーダンの情勢変化で、国連はPKOの目的を「市民保護」に変えました。市民保護のためなら、派遣された自衛隊は市民に襲いかかる軍隊と戦闘しなければなりません。
日本は独自の判断で、「そのような戦闘には参加しない」と行動できるのでしょうか。PKO派遣自衛隊の指揮権は誰が持っているか。日本の総理大臣ではありません。PKOの指揮官です。日本が独自でできることは、撤退判断のみといいます。いやだったら逃げ出すことだけはできる、ということです。多分派遣された自衛隊は逃げ出さないでしょうから、PKO司令官の命令があれば市民保護のために戦わざるを得ません。

私は、南スーダンに自衛隊を派遣するという当初の計画が間違っていたと思います。
「ジュバ付近は安全だから」ということで土木建設部隊を派遣するのであれば、民間人を派遣した方がよろしいでしょう。民間人であれば、その場所が危険になったと思えば即座に撤退させることが可能です。実際、自衛隊が派遣された当時の南スーダンには、民間人が援助目的で多数派遣されていました。2011年当時、J-Wave瀬谷ルミ子さんにおいて、南スーダンPKOに対する瀬谷ルミ子さんの意見を紹介しました。瀬谷さんが事務局長を務める日本紛争予防センター(JCCP)は南スーダンに現地事務所を開設し日本人代表(日野愛子さん)が活動していました。JCCPのみならず、JICAが大々的に活動を行っていました。テレビ東京の番組(「地球VOCE」10月7日14日放送分)で見ることができました。職業訓練所を開設し、日本人指導員が大勢で活動していました。活動内容はJICA 南スーダンで見ることができます。
もちろん、今回のバングラデシュのような悲惨な事件は起こりえますが、だからといってPKOの対象となっていないバングラデシュに自衛隊を派遣する話にはならないでしょう。自衛隊であっても、武器を携行していないときにあのような事件に巻き込まれたら、今回の犠牲者と同じ運命をたどると思われます。

2012年2月23日の朝日新聞朝刊に基づく私のブログ記事を紹介します。
『「昨年(2011)7月に独立した南スーダンの国造りは始まったばかりだ。インフラが貧弱で、生活を支えるのは家畜だけといったちほうも少なくない。国連平和維持活動(PKO)にあたる陸上自衛隊の主力部隊が首都ジュバで活動を開始したが、地方にこそ支援が必要との声も聞こえる。」
「派遣隊員は拳銃や自動小銃、機関銃を携行するが、現行の基準では武器の使用は隊員の身を守るためなどに限られる。政府内ではジュバ以外での活動も検討されたが、武器使用基準が緩和されていない中、治安が不安定な地域で活動することは、不測の事態に対応できなくなる恐れがあるとして見送られた経緯がある。」(朝日記事)
このブログでは、自衛隊の南スーダン派遣について「J-Wave瀬谷ルミ子さん」、「自衛隊施設部隊が南スーダンPKO派遣」、「南スーダンでのJCCP活動」で話題にしてきました。
そもそも、去年(2011)の夏に国連から南スーダンへのPKO派遣を打診され、派遣することが決まりました。
瀬谷さんが防衛省の人たちと接した印象では、日本も防衛省も、日本がどういう目的・スタンスで陸自施設部隊をPKO派遣するか、はっきりしていなかったようです。
瀬谷さんの発言:
「派遣するしないの前に、日本が南スーダンにどういう目的で自衛隊を派遣するのかというところが大事なんじゃないかと思っています。今、国連のPKOで部隊を派遣している国って、ほとんど全部途上国なんです。先進国は派遣していない。途上国というのは、国連PKOに部隊を派遣することで国連から給与、謝金も入ってくるのと、国としての実績もできるからということなんですけど。じゃあ日本がその中に混じって今、自衛隊を派遣するというのは、日本として世界にどういうかかわり方をしていきたいと思っているからか、というのを、あまり議論されていないのと、おそらく防衛省の中でもはっきりしていないなあ、というのが、実際に話をしていて感じます。」
陸自PKO派遣でまず問題となるのが武器使用基準です。今回も武器使用基準は緩和しないとのことです。そうすると、安全な場所でしか活動できません。南スーダンの首都ジュバは治安が安定しているから、そこで活動するようです。そうとしたら、なぜ自衛隊でなければならないのか、わからなくなります。結局、武器使用基準があるから危険な場所には出て行けず、自衛隊でなくても活動可能な場所で活動することになります。』

伊勢崎賢治氏の発言についてネット検索し、以下の記事を見つけたので貼り付けておきます。
安保法制をめぐる国会論戦、ここがおかしい
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ナイアガラの滝

2016-07-04 20:21:59 | 趣味・読書
この6月、家族でカナダ東海岸を訪問する旅に出かけました。旅のエピソードをいくつか紹介します。

まずはナイアガラの滝です。われわれはトロントに滞在し、ナイアガラの旅1日観光のバスツアーに参加しました。ツアーバスは、トロントからナイアガラ川河口までのルートはオンタリオ湖の湖畔をたどり、ナイアガラ川河口のナイアガラ・オン・ザ・レイクを経て、そこからはナイアガラ川に沿ってナイアガラの滝まで走ります。
ウェルカムセンターでバスを降りると、カナダ側の川岸は高い崖となっており、そこから川の向こう岸にナイアガラの滝を見ることができます。左にアメリカ滝、右にカナダ滝を一望にできます(下写真)。
 
左がアメリカ滝とブライダルベール滝、右がカナダ滝

 
アメリカ滝

 
カナダ滝

カナダ滝を撮した上の写真に船が2隻見えます。これが、滝のそばまで行くクルーズ船です。カナダ滝のすぐ近くにいる船は、天井部分が赤く見えますが、これは天井ではありません。展望席に陣取る人たちが来ている赤いビニールがっぱの色です。
われわれも乗船のための順番待ちに並びました。カッパを手渡されるので、下の写真のように、カッパを着て順番を待ちます。
 

クルーズ船で滝の真下まで接近し、下から見る滝の壮観は、やはりその流れに圧倒されます。静止画ではその迫力が出せないので、結局は動画撮影となりました。
下の動画は、アメリカ滝の前をほぼ通過し終わったあたりから撮影しています。

アメリカ滝

カナダ滝に近づいきました。

カナダ滝

カナダ滝を見終わり、再度アメリカ滝のそばを通過します(下の動画)。われわれはカナダ側の川岸から赤いカッパを着て乗船したのに対し、アメリカ側の川岸から出発する船があり、下の動画に出てきます。アメリカ側の船に乗船する客は、青いカッパを着ています。

アメリカ滝

アメリカ滝とカナダ滝には大きな違いがあります。アメリカ滝は、水が流れ落ちる下の部分に大きな岩石が堆積しており、滝壺がありません。それに対してカナダ滝は、逆に深い滝壺ができているらしいです。カナダ滝は100mの落差を障害なしに落下して滝壺に叩きつけるので、飛沫の雲が滝の上端を超えて高く上がっています。それに対してアメリカ滝は、飛沫が上がっているものの滝の上端までは至らない程度です。
ガイドさんによると、アメリカ人がこの状況に悔しがったそうです。もう何十年も前ですが、アメリカ滝の流れを一時的に中断し、滝の下部に堆積している巨大な岩石を取り除き、滝壺を人工的にこしらえようとしたそうです。その試みは結局失敗したらしいですが、いかにも負けず嫌いのアメリカ人らしいですね。

次に、カナダ滝のカナダ側にある、「テーブルロック」と呼ばれる展望箇所に移動しました。滝上流側の川岸のすぐ近くから、川と滝を眺めます。
下の動画は、上流側の川の流れと、カナダ滝へ落ちていく水流を捉えたものです。

カナダ滝へと流れ込むナイアガラ川

 
テーブルロックからカナダ滝


テーブルロックからカナダ滝とその向こうのアメリカ滝

下の写真、ナイアガラ川の下流が北の方向に向かっています。見えるのはアメリカ滝で、東から来た流れが滝となっています。カナダ滝は写真の右端より右側です。
 
テーブルロックからアメリカ滝

以上でナイアガラの滝の観光が終了しました。

さてここでは、ナイアガラの滝について今回仕入れた知識を書き残しておきます。

まず、五大湖とナイアガラ崖線の形成についてです。
ガイドさんのお話に加え、ウィキの五大湖ナイアガラ川ナイアガラの滝から得た知識が中心です。
ナイアガラの滝は、ナイアガラ川の途中にあります。ナイアガラ川は、エリー湖からオンタリオ湖へと流れる川です。上流のエリー湖と下流のオンタリオ湖の間には、ナイアガラ崖線と呼ばれる崖があります。崖の標高差は100m近く、高い丘陵側にエリー湖、低い平地側にオンタリオ湖が位置しています。
左下の写真は、オンタリオ湖の南岸湖畔を走るツアーバスから撮影したナイアガラ崖線です。オンタリオ湖南岸の湖畔と平行に、延々と続いています。また右下の写真は、エリー湖とオンタリオ湖を結ぶ運河の水門を撮影したものです。
  
ナイアガラの滝を作った高さ100mの崖線                運河の水門

1万年前のウィスコンシン氷河期、米国北部全体が氷河に覆われ、氷河が台地を削り、一方でその岩石を堆積しました。氷河が溶け始めると川が地形を作っていきました。五大湖とナイアガラ崖線(段丘)もこの時期に形成されたらしいです。
ナイアガラ崖線はケスタ地形を形成している、とあります。
ケスタについて調べると、「緩く傾斜し、交互に重なった硬軟の地層が差別侵食を受けた結果、非対称な丘陵が連続して形成された地形である。」とあります。ガイドさんの話と総合して理解すると、ナイアガラ崖線の丘側は硬い地層であり、崖線の低地側は柔らかい地層であり、氷河期に氷河による浸食で柔らかい側がより多くの浸食を受け、100mの落差が生じた、ということでしょうか。

1万年前に氷河期が終わると、五大湖の上の氷も溶け、5つの盆地に水が溜まって五大湖が形成されました。エリー湖が満水になると、低地に向かって流れ出し、その一つがナイアガラ川となり、オンタリオ湖へと流れを形成しました。膨大な水量の川です。
ナイアガラ川は、ナイアガラ崖線において当然のこととして滝が形成されました。崖線の標高差が100m、膨大な水量ですから、最初から巨大な滝が形成されることが約束されていました。原始ナイアガラの滝の誕生です。
そこから現在に至るまでの浸食により、1万年間で滝の位置は10km後退し、現在の位置に至ったといいます。1万年間に10km(1万m)ということは、1年に1m、百年で百mです。結構な速度です。ナイアガラの滝をヨーロッパ出身人が発見したのは何百年も前ですから、ということは、当時はナイアガラの滝が今の位置よりも何百mも下流にあったということでしょうか。
しかし実際はそうではないらしいです。
現在の浸食後退速度は、1年で3cmということです。毎年1mと3cmでは大きな違いです。一体何が起きたのでしょうか。
ウィキによると、「1950年代までは浸食により年間1mずつ上流へ移動し、浸食が続けばエリー湖に埋没してしまうため、カナダ滝の落下水量を馬蹄形全体に均等化する工事が60年代にかけて行われ、現在、浸食スピードは年間3cm程度に抑えられている」と書かれています。しかし、水量が1/30に減ったのならいざ知らず、この記載程度の工事で、年間速度が1mから3cmに減るとはとても思えません。水力発電のための取水で滝の水量が落ちたことも原因といわれていますが、それにしても発電の分水で水量が1/30に落ちたら、観光地としてのナイアガラの滝が成り立たないはずで、これも考えづらいです。

ナイアガラの滝付近におけるナイアガラ川の地形を考えると、滝の下流側は南から北に流れているのに対し、滝の上流側は東から西に流れています。滝の位置で流れが直角に変わっているのです。
ナイアガラ崖線の丘側が固い地盤であるといっても、その硬さにも段階があり、ナイアガラの滝の下流部分は比較的軟らかい地盤だったのではないでしょうか。そして、滝が浸食で10km後退して現在の位置に至ったとき、川の方向は南北方向から東西方向に転針します。そしてその上流側(東側)が固い地盤だったのではないでしょうか。即ち、現在の滝は、固い地盤の始まりの位置なのではないか、と推測しました。
1万年前に出現した滝が南へ向けて後退し、今から数百年~千年前、現在のアメリカ滝の位置に達しました。東へ後退するアメリカ滝が形成されましたが、アメリカ滝上流側(東側)の地盤が固いので、アメリカ滝は後退を止めました(1年に3cm)。一方で、現在のカナダ滝になるべき原カナダ滝は、当初はアメリカ滝のすぐそばにありましたが、その後も南へ後退を続け、現カナダ滝の位置まで到達しました。ここでカナダ滝も後退方向が東側に曲がり、地盤が固くなり、急に後退速度が低下しました。

以上のように考えると、辻褄があった説明ができます。いかがでしょうか。
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