2011年3月15日、福島第一原発にはそれまで600人を超える人々が作業に従事していましたが、その日、大部分の人たちが第一原発から撤退して第二原発に移動し、第一原発には69人が残るのみとなりました。
このときのいきさつについて、私は角田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
」で、吉田昌郎氏の証言として読み知っています。
《「はじめに」より》
「福島第一原発所長として、最前線で指揮を執った吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、事故から1年3ヶ月が経過したときだった。」
「病を押して都合2回、4時間半にわたって私のインタビューに答えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活でぼろぼろになっていた脳の血管から出血を起こし、ふたたび入院と手術を余儀なくされた。
吉田氏をはじめ、私は多くの現場の人間にインタビューを繰り返した。証言をしてくれた東電や協力企業、自衛隊、政治家、科学者、地元の人々など、関係者の数は、いつの間にか90名を超えていた。」
伊沢郁夫氏、平野勝昭氏は、原子炉1・2号機を操作する中央制御室の当直長を交代で勤める役割でした。
3月15日に日が変わった頃、2号機が危機的状況に陥っていました。ベントのために弁を開いていたのですが、3号機の爆発の影響か電気回路が不調となって弁が閉じ、ふたたび開くことはありませんでした。そのためベントができず、格納容器の圧力が異常上昇していました。
吉田所長はこの日、2回にわたって第1原発からの要員の撤退を指示しています。
1回目は午前4時頃でした。格納容器爆発という最悪の事態に備えて、協力会社の人たちに帰ってもらうこととしました。
その後吉田所長は席に戻り、しばらく経った時、不意に席から立ち上がったかと思うと、そのまま机のそばにあぐらをかくように座り込みました。ゆっくりと頭を垂れ目をつむって微動だにしません。
(もう、終わりだ)
周囲の人たちにはそのことが分かりました。
『しかし、この時、吉田は頭を垂れながら、あることを考えていた。
「私はあの時、自分と一緒に“死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」
吉田は、その場面をこう回想した。
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡座をかいて机に背中を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとうはもう、それこそ神様、仏様に任せるしかねぇっていうのがあってね」』
『「・・・極論すれば、私自身はもう、どんな状態になっても、ここを離れられないと思ってますからね。その私と一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべたわけです。」
・・・こいつなら一緒に死んでくれる。こいつも死んでくれるだろう、と、それぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。』
吉田氏はそのあと、ごろんと横になりました。社員が声をかけて起こしたのは、30分ぐらいたってからでした。
3月15日午前6時過ぎ。大きな衝撃音がした後、1・2号機中央制御室に詰めていた平野氏らが計器の数値を順次読み取ったところ、2号機サプチャン(サプレッション・チャンバー)の圧力が「ゼロ」になっているのを発見しました。格納容器とつながるサプレッション・チャンバーの圧力がゼロということは、「穴があいた」可能性があります。実際、このときに最も多くの放射性物質が放出し、飯舘村をはじめとする広い地域に放射能をもたらす原因となりました。
伊沢氏は免震重要棟に詰め、中央制御室の平野氏からの電話連絡を取り次いでいました。伊沢氏が「2号機のサプチャン圧力ゼロ」を大声で取り次いだ後、吉田所長の指示が飛びました。
「各班は、最少人数を残して退避!」大きな声でした。
「(残るべき)必要な人間は班長が指名すること」
吉田所長のこの指令で、免震重要棟は一種の混乱状態に陥りました。伊沢氏や吉田一弘氏は、若い人たちには“出なさい”と言っていました。一方で年を取って技術を持った人間は残らなきゃ行けないと思っていましたが、けっこう避難していったそうです。
およそ600人が退避して、免震需要棟に残ったのは[69人」でした。
門田著書では、このときの模様を詳細に再現しています。その記述の中で退避先については一様に2F(福島第2原発)であって、それ以外の退避先は登場しません。
朝日新聞の「政府事故調の「吉田調書」入手」第1弾は5月20日朝刊、「所長命令に違反、原発撤退 福島第一、所員の9割」でした。詳しくはこちらの記事。
朝日新聞デジタル 5月20日(火)3時0分配信
『東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。』
『午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」
待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。』
『吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。
その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。
吉田氏は政府事故調の聴取でこう語っている。
「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。福島第一の近辺で、所内にかかわらず、線量が低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに着いた後、連絡をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」
第一原発にとどまったのは吉田氏ら69人。第二原発から所員が戻り始めたのは同日昼ごろだ。』
さらに、新聞の第2面には以下のように記されています。
『吉田調書に基づく当時の再現は、東電の公式見解が都合の悪い事実に触れていないことを示している。
朝日新聞が入手した東電の内部資料には「6:42 構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう(所長)」と記載がある。吉田調書と同じ内容だ。』
「吉田調書」の記述は、「門田著書」の記述とずいぶん異なります。
「誰が残り誰が退避するか」という混乱についてはどちらも共通します。一方で、「どこへ退避するか」について両者で大きな隔たりがあります。
門田著書では、吉田所長の発言の中に避難先についての指示は出てきません。一方、伊沢氏をはじめとして残った人たちの発言では、退避先はいずれも2F(福島第2原発)です。
そもそも、第1原発構内で線量の低いエリアなど存在したのでしょうか。第1原発構内で最も線量が低かったのは免震重要棟の中だったはずです。吉田所長による退避命令は、「重要免震棟からの退避」です。そう考えると、免震重要棟からの退避先として福島第2原発が選ばれたことは理にかなっており、さほど非難されるべきとも思えません。
実際、午前9時前後から構内の線量が急上昇し、11930マイクロシーベルトの最高値を記録したわけですから、このとき、第1原発構内の免震重要棟以外の場所で600人が待機していたら、やばかったんじゃないでしょうか。
このときのいきさつについて、私は角田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
《「はじめに」より》
「福島第一原発所長として、最前線で指揮を執った吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、事故から1年3ヶ月が経過したときだった。」
「病を押して都合2回、4時間半にわたって私のインタビューに答えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活でぼろぼろになっていた脳の血管から出血を起こし、ふたたび入院と手術を余儀なくされた。
吉田氏をはじめ、私は多くの現場の人間にインタビューを繰り返した。証言をしてくれた東電や協力企業、自衛隊、政治家、科学者、地元の人々など、関係者の数は、いつの間にか90名を超えていた。」
伊沢郁夫氏、平野勝昭氏は、原子炉1・2号機を操作する中央制御室の当直長を交代で勤める役割でした。
3月15日に日が変わった頃、2号機が危機的状況に陥っていました。ベントのために弁を開いていたのですが、3号機の爆発の影響か電気回路が不調となって弁が閉じ、ふたたび開くことはありませんでした。そのためベントができず、格納容器の圧力が異常上昇していました。
吉田所長はこの日、2回にわたって第1原発からの要員の撤退を指示しています。
1回目は午前4時頃でした。格納容器爆発という最悪の事態に備えて、協力会社の人たちに帰ってもらうこととしました。
その後吉田所長は席に戻り、しばらく経った時、不意に席から立ち上がったかと思うと、そのまま机のそばにあぐらをかくように座り込みました。ゆっくりと頭を垂れ目をつむって微動だにしません。
(もう、終わりだ)
周囲の人たちにはそのことが分かりました。
『しかし、この時、吉田は頭を垂れながら、あることを考えていた。
「私はあの時、自分と一緒に“死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」
吉田は、その場面をこう回想した。
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡座をかいて机に背中を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとうはもう、それこそ神様、仏様に任せるしかねぇっていうのがあってね」』
『「・・・極論すれば、私自身はもう、どんな状態になっても、ここを離れられないと思ってますからね。その私と一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべたわけです。」
・・・こいつなら一緒に死んでくれる。こいつも死んでくれるだろう、と、それぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。』
吉田氏はそのあと、ごろんと横になりました。社員が声をかけて起こしたのは、30分ぐらいたってからでした。
3月15日午前6時過ぎ。大きな衝撃音がした後、1・2号機中央制御室に詰めていた平野氏らが計器の数値を順次読み取ったところ、2号機サプチャン(サプレッション・チャンバー)の圧力が「ゼロ」になっているのを発見しました。格納容器とつながるサプレッション・チャンバーの圧力がゼロということは、「穴があいた」可能性があります。実際、このときに最も多くの放射性物質が放出し、飯舘村をはじめとする広い地域に放射能をもたらす原因となりました。
伊沢氏は免震重要棟に詰め、中央制御室の平野氏からの電話連絡を取り次いでいました。伊沢氏が「2号機のサプチャン圧力ゼロ」を大声で取り次いだ後、吉田所長の指示が飛びました。
「各班は、最少人数を残して退避!」大きな声でした。
「(残るべき)必要な人間は班長が指名すること」
吉田所長のこの指令で、免震重要棟は一種の混乱状態に陥りました。伊沢氏や吉田一弘氏は、若い人たちには“出なさい”と言っていました。一方で年を取って技術を持った人間は残らなきゃ行けないと思っていましたが、けっこう避難していったそうです。
およそ600人が退避して、免震需要棟に残ったのは[69人」でした。
門田著書では、このときの模様を詳細に再現しています。その記述の中で退避先については一様に2F(福島第2原発)であって、それ以外の退避先は登場しません。
朝日新聞の「政府事故調の「吉田調書」入手」第1弾は5月20日朝刊、「所長命令に違反、原発撤退 福島第一、所員の9割」でした。詳しくはこちらの記事。
朝日新聞デジタル 5月20日(火)3時0分配信
『東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。』
『午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」
待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。』
『吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。
その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。
吉田氏は政府事故調の聴取でこう語っている。
「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。福島第一の近辺で、所内にかかわらず、線量が低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに着いた後、連絡をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」
第一原発にとどまったのは吉田氏ら69人。第二原発から所員が戻り始めたのは同日昼ごろだ。』
さらに、新聞の第2面には以下のように記されています。
『吉田調書に基づく当時の再現は、東電の公式見解が都合の悪い事実に触れていないことを示している。
朝日新聞が入手した東電の内部資料には「6:42 構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう(所長)」と記載がある。吉田調書と同じ内容だ。』
「吉田調書」の記述は、「門田著書」の記述とずいぶん異なります。
「誰が残り誰が退避するか」という混乱についてはどちらも共通します。一方で、「どこへ退避するか」について両者で大きな隔たりがあります。
門田著書では、吉田所長の発言の中に避難先についての指示は出てきません。一方、伊沢氏をはじめとして残った人たちの発言では、退避先はいずれも2F(福島第2原発)です。
そもそも、第1原発構内で線量の低いエリアなど存在したのでしょうか。第1原発構内で最も線量が低かったのは免震重要棟の中だったはずです。吉田所長による退避命令は、「重要免震棟からの退避」です。そう考えると、免震重要棟からの退避先として福島第2原発が選ばれたことは理にかなっており、さほど非難されるべきとも思えません。
実際、午前9時前後から構内の線量が急上昇し、11930マイクロシーベルトの最高値を記録したわけですから、このとき、第1原発構内の免震重要棟以外の場所で600人が待機していたら、やばかったんじゃないでしょうか。