弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「吉田調書」と福島第2原発への退避

2014-05-26 22:16:53 | サイエンス・パソコン
2011年3月15日、福島第一原発にはそれまで600人を超える人々が作業に従事していましたが、その日、大部分の人たちが第一原発から撤退して第二原発に移動し、第一原発には69人が残るのみとなりました。
このときのいきさつについて、私は角田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」で、吉田昌郎氏の証言として読み知っています。
《「はじめに」より》
「福島第一原発所長として、最前線で指揮を執った吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、事故から1年3ヶ月が経過したときだった。」
「病を押して都合2回、4時間半にわたって私のインタビューに答えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活でぼろぼろになっていた脳の血管から出血を起こし、ふたたび入院と手術を余儀なくされた。
吉田氏をはじめ、私は多くの現場の人間にインタビューを繰り返した。証言をしてくれた東電や協力企業、自衛隊、政治家、科学者、地元の人々など、関係者の数は、いつの間にか90名を超えていた。」

伊沢郁夫氏、平野勝昭氏は、原子炉1・2号機を操作する中央制御室の当直長を交代で勤める役割でした。

3月15日に日が変わった頃、2号機が危機的状況に陥っていました。ベントのために弁を開いていたのですが、3号機の爆発の影響か電気回路が不調となって弁が閉じ、ふたたび開くことはありませんでした。そのためベントができず、格納容器の圧力が異常上昇していました。
吉田所長はこの日、2回にわたって第1原発からの要員の撤退を指示しています。
1回目は午前4時頃でした。格納容器爆発という最悪の事態に備えて、協力会社の人たちに帰ってもらうこととしました。
その後吉田所長は席に戻り、しばらく経った時、不意に席から立ち上がったかと思うと、そのまま机のそばにあぐらをかくように座り込みました。ゆっくりと頭を垂れ目をつむって微動だにしません。
(もう、終わりだ)
周囲の人たちにはそのことが分かりました。

『しかし、この時、吉田は頭を垂れながら、あることを考えていた。
「私はあの時、自分と一緒に“死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」
吉田は、その場面をこう回想した。
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡座をかいて机に背中を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとうはもう、それこそ神様、仏様に任せるしかねぇっていうのがあってね」』
『「・・・極論すれば、私自身はもう、どんな状態になっても、ここを離れられないと思ってますからね。その私と一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべたわけです。」
・・・こいつなら一緒に死んでくれる。こいつも死んでくれるだろう、と、それぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。』
吉田氏はそのあと、ごろんと横になりました。社員が声をかけて起こしたのは、30分ぐらいたってからでした。

3月15日午前6時過ぎ。大きな衝撃音がした後、1・2号機中央制御室に詰めていた平野氏らが計器の数値を順次読み取ったところ、2号機サプチャン(サプレッション・チャンバー)の圧力が「ゼロ」になっているのを発見しました。格納容器とつながるサプレッション・チャンバーの圧力がゼロということは、「穴があいた」可能性があります。実際、このときに最も多くの放射性物質が放出し、飯舘村をはじめとする広い地域に放射能をもたらす原因となりました。

伊沢氏は免震重要棟に詰め、中央制御室の平野氏からの電話連絡を取り次いでいました。伊沢氏が「2号機のサプチャン圧力ゼロ」を大声で取り次いだ後、吉田所長の指示が飛びました。
「各班は、最少人数を残して退避!」大きな声でした。
「(残るべき)必要な人間は班長が指名すること」
吉田所長のこの指令で、免震重要棟は一種の混乱状態に陥りました。伊沢氏や吉田一弘氏は、若い人たちには“出なさい”と言っていました。一方で年を取って技術を持った人間は残らなきゃ行けないと思っていましたが、けっこう避難していったそうです。
およそ600人が退避して、免震需要棟に残ったのは[69人」でした。

門田著書では、このときの模様を詳細に再現しています。その記述の中で退避先については一様に2F(福島第2原発)であって、それ以外の退避先は登場しません。

朝日新聞の「政府事故調の「吉田調書」入手」第1弾は5月20日朝刊、「所長命令に違反、原発撤退 福島第一、所員の9割」でした。詳しくはこちらの記事。
朝日新聞デジタル 5月20日(火)3時0分配信
『東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。』
『午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」
待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。』
『吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。
その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。
吉田氏は政府事故調の聴取でこう語っている。
「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。福島第一の近辺で、所内にかかわらず、線量が低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに着いた後、連絡をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」
第一原発にとどまったのは吉田氏ら69人。第二原発から所員が戻り始めたのは同日昼ごろだ。』

さらに、新聞の第2面には以下のように記されています。
『吉田調書に基づく当時の再現は、東電の公式見解が都合の悪い事実に触れていないことを示している。
朝日新聞が入手した東電の内部資料には「6:42 構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう(所長)」と記載がある。吉田調書と同じ内容だ。』

「吉田調書」の記述は、「門田著書」の記述とずいぶん異なります。
「誰が残り誰が退避するか」という混乱についてはどちらも共通します。一方で、「どこへ退避するか」について両者で大きな隔たりがあります。
門田著書では、吉田所長の発言の中に避難先についての指示は出てきません。一方、伊沢氏をはじめとして残った人たちの発言では、退避先はいずれも2F(福島第2原発)です。
そもそも、第1原発構内で線量の低いエリアなど存在したのでしょうか。第1原発構内で最も線量が低かったのは免震重要棟の中だったはずです。吉田所長による退避命令は、「重要免震棟からの退避」です。そう考えると、免震重要棟からの退避先として福島第2原発が選ばれたことは理にかなっており、さほど非難されるべきとも思えません。

実際、午前9時前後から構内の線量が急上昇し、11930マイクロシーベルトの最高値を記録したわけですから、このとき、第1原発構内の免震重要棟以外の場所で600人が待機していたら、やばかったんじゃないでしょうか。
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3月11日の1号機中央制御室の状況

2014-05-25 15:05:32 | サイエンス・パソコン
5月23日朝日新聞『吉田氏、非常冷却で誤対応 震災当日、福島第一 「私の反省点。思い込みがあった」』における記事
『吉田氏の聴取を記録した「吉田調書」によると、中央制御室の運転員が11日夕にICの機能低下に気付き、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。
だが、吉田氏はICの仕組みを理解していなかったため、「水の補給」が機能低下のサインと認識できず、ICが機能している間に行う「原子炉への注水準備の継続」という指示しか出さなかった。』
に関し、昨日のこのブログ記事「「吉田調書」と1号機ICの経過」で私は以下のように記しました。
『ここでいう「冷却水」は、圧力容器内とICとの間を循環しているはずの水ではなく、IC内部に貯蔵して圧力容器からの蒸気を冷却するための冷却水を意味します。この冷却水を補給するための、軽油で動くポンプが備えられていたということですね。』
どうも、この推測が間違っていたようなので、以下に説明します。

私は現在、門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」を読み返しています。
この本は、吉田昌郎氏をはじめとして90名を超える当事者にインタビューした結果に基づいています。

この中に、1・2号機当直長だった伊沢郁夫氏、非番当直長だった平野勝昭氏も登場します。平野氏は、地震後に現場に向かい、午後5時前後に1・2号機中央制御室に辿り着きました。
著書の中で、11日午後から夕刻にかけての1号機の様子が以下のように語られています。
伊沢氏「1号機では、イソコン(IC、非常用復水器)が今どういう状況になっているのかもわかりません。(原子炉の)推移も圧力も何も見られない状態です。」
『平野には、とにかく「水を入れなくてはならない」ということだけはわかった。冷やすための電源がない--それが、すべて使えないとなれば、電源を必要としない消火用のポンプを流用して、水を「入れる」しかない。』
平野氏「そのためには、消化ポンプで(原子炉に)水を入れるラインづくりをしなくちゃいけない。私が最初に思い浮かんだのは、“給水系”から消化ポンプで水を入れるラインです。それで、とりあえず、まず給水系のバルブを開けないと、水を入れられないという話をしたんです。」
すでに午後4時55分、最初の部隊が普通の作業着で原子炉に向かいましたが、原子炉建屋の扉の前の段階で線量計が振り切れてしまい、入れませんでした。二度目は午後5時19分、平野氏を含めて現場に向かいました。消化ポンプ室に辿り着き、燃料で作動するエンジンポンプの動作を確認しました。セルモーターの電源はポンプ横にある小型バッテリーです。
午後6時半過ぎ、今度は、実際に原子炉にポンプから水を入れるためのラインをつくりに5人が入りました。手で開けなければならないバルブは5カ所ほどありました。この時はもうタイベックスに全面マスクです。このあと、午後11時以降は線量が高くなり、原子炉建屋に入ることができませんでしたから、この時点で「水流を確保するライン」を彼らが造っていたことは、のちに最も重要な意味を持ちます。
---以上が著書の内容です。---

1・2号機中央制御室では、午後5時以降、免震重要棟の吉田所長からの指示によるのではなく、燃料で作動する消火ポンプを用いて1号機の圧力容器内に水を供給する準備を着々と進めていたのです。
一方でIC(非常用復水器)については、門田著書では伊沢氏の「1号機では、イソコン(IC、非常用復水器)が今どういう状況になっているのかもわかりません。」との言葉を伝えるのみです。18:25にICのバルブを「閉」操作した点は現れてきません。
そうすると、「吉田調書」にある『中央制御室の運転員が11日夕にICの機能低下に気付き、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。』との記述は、ICの「空だき」を心配してICのバルブ「閉」操作をした18:25よりも以前、午後5時以降に消化ポンプの作動確認を行うと共にポンプから原子炉までの水のルート確保のために5カ所のバルブを手動で開いていった作業のことを指しているように思われます。

そして、11年12月18日の『NHKスペシャル「メルトダウン~福島第一原発 あのとき何が」』で再現された映像によると以下のとおりです。
3月11日18時25分、「IC(イソコン)からの蒸気発生が停止した」との報告です。このときの中央制御室でのやりとりが番組で再現されていました。
当直副長が当直長に「どうします」と判断を促します。当直長は「止めよう」と答え、副長が大声で「イソコン停止」と命じました。
当直長は、イソコン停止を命じた直後、電話の受話器を取って「イソコン停止」と報告していました。これは免震重要棟への連絡と思われます。

もしも「吉田調書」にあるように、「中央制御室の運転員が11日夕に、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。」という連絡を吉田氏が記憶しているのだとしたら、1・2号機中央制御室での状況と合わせ考え、以下のように推定できます。

11日午後5時以降、1・2号機当直長の伊沢氏は「1号機では、イソコン(IC、非常用復水器)が今どういう状況になっているのかもわかりません」との認識のもと、とにかく「水を入れなくてはならない」ということは間違いがなく、軽油で動く消化ポンプを使い、ポンプから原子炉までの水ルート確保のためにバルブを手動で「開」とする作業を着々と進めました。この点について免震重要棟に連絡していないとは思えません。そしてこの連絡を、吉田氏が記憶していたとする理解が正しいように思います。

NHKスペシャルによると、18時25分、「IC(イソコン)からの蒸気発生が停止した」との報告を受け、当直長は副長と相談した上で「イソコン停止」と命じました。蒸気発生停止を「空だき」と判断したためでしょう。実際にはIC内に冷却水は十分に遺っており、原子炉から高温蒸気がICに供給されていないために蒸気が発生していないのでした。
当直長は電話で「イソコン停止」と報告し、これが免震重要棟に伝わったはずですが、吉田氏はこの報告については記憶していないようです。
「燃料で動くポンプを用いる」話と、「ICの空だきを恐れて停止させた」話とは、関連はありますが直接同じ話ではありません。

さて、以上のように推論していくと、今回の朝日新聞スクープで明らかになった、「吉田調書」における
『吉田氏の聴取を記録した「吉田調書」によると、中央制御室の運転員が11日夕にICの機能低下に気付き、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。
だが、吉田氏はICの仕組みを理解していなかったため、「水の補給」が機能低下のサインと認識できず、ICが機能している間に行う「原子炉への注水準備の継続」という指示しか出さなかった。』
との記述については、さほど新しい重要な事項とまでは言えないようです。
吉田氏の思い違いも含まれているようです。
むしろ決定的に重要なのは、中央制御室からの「イソコン停止」という報告が、吉田所長に伝わらなかったことです。

なお、「イソコン停止」の18時25分時点では、原子炉はまだ高圧のままです。これでは消化ポンプを作動しても内圧が高すぎて原子炉内に水を供給できません。バッテリーで作動する逃がし安全弁を作動させて内圧を下げてやる必要があります。

吉田氏は亡くなりましたが、1・2号機の当時の当直長、副長、非番の当直長からはまだ証言を聞くことができますし、門田氏のインタビューには答えています。もしも、11日夕刻の1・2号機中央制御室と免震重要棟のそれぞれで把握していた事実、両者間の連絡に不明点が残っているのであれば、これら当事者にヒアリングを行って明確にしていくべきでしょう。
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「吉田調書」と1号機ICの経過

2014-05-24 13:13:51 | サイエンス・パソコン
『東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。』として、朝日新聞は現時点で非公開の「吉田調書」を、5月20日から朝刊1面で連続特集しています。

5月23日の記事は以下の内容です。
吉田氏、非常冷却で誤対応 震災当日、福島第一 「私の反省点。思い込みがあった」
2014年5月23日05時00分
『 東京電力福島第一原発の吉田昌郎(まさお)所長が東日本大震災が起きた2011年3月11日、電源喪失時に原子炉を冷やす1号機の非常用復水器(IC)の仕組みをよく理解していなかったため、異変を伝える現場の指摘を受け止められず、誤った対応をしていたことが分かった。吉田氏は政府事故調査・検証委員会の聴取で「ここは私の反省点になる。思い込みがあった」と述べていた。1号機は冷却に失敗し、同日中にメルトダウン(炉心溶融)した。』
『吉田氏の聴取を記録した「吉田調書」によると、中央制御室の運転員が11日夕にICの機能低下に気付き、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。
だが、吉田氏はICの仕組みを理解していなかったため、「水の補給」が機能低下のサインと認識できず、ICが機能している間に行う「原子炉への注水準備の継続」という指示しか出さなかった。』

この中で、『中央制御室の運転員が11日夕にICの機能低下に気付き、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。』については、私にとって初耳であるように思います。

11日当日の1号機ICの動作経過について、私は11年8月18日の記事「1号機の非常用復水器稼働状況」で以下のように記しました。

『6月18日東電報告書(福島第一原子力発電所 被災直後の対応状況について(PDF 661KB))には、わかっている時系列として以下のように記述されています。
14:52 非常用復水器(IC)自動起動
15:03頃 ICによる原子炉圧力制御を行うため、手動停止。その後、ICによる原子炉圧力制御開始。
15:37 全交流電源喪失
18:18 ICの戻り配管隔離弁(MO-3A)、供給配管隔離弁(MO-2A)の開操作実施、蒸気発生を確認。
18:25 ICの戻り配管隔離弁(MO-3A)閉操作。
21:30 ICの戻り配管隔離弁(MO-3A)開操作実施、蒸気発生を確認。』

この中で、18:25の「IC弁閉操作」21:30の「IC弁開操作」について、上記ブログ記事では11年8月17日のNHKニュースから以下のように抜粋しています。
『11日午後6時半ごろからおよそ3時間にわたって運転が止まっていたことが分かっています。この理由について、東京電力の関係者が政府の事故調査・検証委員会の調査に対し、「復水器が起動していれば発生するはずの蒸気が確認できなかったため、1号機の運転員が復水器の中の水がなくなっていわゆる『空だき』になっていると疑い、装置が壊れるのを防ごうと運転を停止した」と証言していることが分かりました。安全上重要なこの情報は、当時、免震重要棟で指揮をとっていた福島第一原発の吉田昌郎所長ら幹部には伝わらず、非常用復水器が動いているという前提で対策が取られていたことも分かり、吉田所長は「重要情報の把握漏れは大きな失敗だった」という認識を示しているということです。』

この11年8月の記事から、以下のように推測できます。
「18:18、1号機運転員はICの弁が閉であることに気づき、開操作し、蒸気発生を確認した。ところが18:25、蒸気が発生していないことに気づき、『空だき』を心配してIC運転を停止した。再度ICの弁開操作を行ったのはそれから3時間後の21:30である。」
この推測と、今回の吉田調書の『中央制御室の運転員が11日夕にICの機能低下に気付き、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。』を重ね合わせると、さらに以下のように推測できます。
「18:25、1号機運転員は蒸気が発生していないことに気づき、ICにたまっている冷却水が枯渇ていると推測、『空だき』を心配した。運転員は、冷却水不足を疑って吉田氏のいる緊急時対策室へ伝え、軽油で動くポンプで水を補給するよう促した。また相前後してIC運転を停止した。」
なお、ここでいう「冷却水」は、圧力容器内とICとの間を循環しているはずの水ではなく、IC内部に貯蔵して圧力容器からの蒸気を冷却するための冷却水を意味します。この冷却水を補給するための、軽油で動くポンプが備えられていたということですね。

ps 5/25 上記私の推測は間違っていたようです。5月25日の記事をご覧ください。

従来、11日18時~20時のICの挙動について、1号機運転員は免震重要棟で指揮を執る吉田所長に報告していなかったとの理解でした。しかしそうではなく、「ICの空だきが心配だ」という旨を報告していたのですね。
しかし、この情報は、政府事故調の中間報告でも取り上げられていないように記憶しています。その理由はよく分かりません。この時刻の前後は、1号機の運命の分かれ道だったのですから、政府事故調は、「吉田調書」を受けて細かいやりとりを含めて明瞭に再現して欲しかったです。

11年12月18日の『NHKスペシャル「メルトダウン~福島第一原発 あのとき何が」』でも、このときのいきさつが再現されていました。
3月11日18時25分、「IC(イソコン)からの蒸気発生が停止した」との報告です。このときの中央制御室でのやりとりが番組で再現されていました。
この部屋で一番偉いのが「当直長」、その下の人をここでは「次席」と呼びましょう。次席が当直長に「どうします」と判断を促します。当直長は「止めよう」と答え、次席が大声で「イソコン停止」と命じました。
当直長は、イソコン停止を命じた直後、電話の受話器を取って「イソコン停止」と報告していました。これは免震重要棟への連絡と思われます。しかし、政府事故調報告書でも、「吉田調書」でも、「1号機当直長からイソコン停止の報告を受けた」との記述はないようです。

いずれにしろ、事故から3年、政府事故調の中間報告から2年半が経過し、記憶は薄れる一方です。ここで、12年1月8日のブログ記事「原発事故政府事故調中間報告~1号機の初期状況」を再掲載することとします。

--------再掲載---------
昨年12月26日に公表された東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の「2011.12.26 中間報告」から、津波来襲直後において1号機でどのような経過をたどったと評価されているのか、追いかけてみます。

概要」の4ページでは以下のように総括しています。
『4 福島第一原発における事故後の対応に関する問題点
(1)1 号機のIC の作動状態の誤認 【Ⅳ章3(1)、Ⅶ章4(1)】
1 号機については、津波到達後間もなくして全電源を喪失し、フェイルセーフ機能によって、非常用復水器(IC)の隔離弁が全閉又はそれに近い状態になり、IC は機能不全に陥ったと考えられる。しかし、当初、IC は正常に作動しているものと誤認され、適切な現場対処(その指示を含む。)が行われなかった。その後、当直は、制御盤の状態表示灯の一部復活等を契機に、IC が正常に作動していないのではないかとの疑いを持ってIC を停止した。このこと自体は誤った判断とはいえないが、発電所対策本部への報告・相談が不十分であった。他方、発電所対策本部及び本店対策本部は、当直からの報告・相談以外にも、IC が機能不全に陥ったことに気付く機会がしばしばあったのに、これに気付かず、IC が正常に作動しているという認識を変えなかった。
かかる経緯を見る限り、当直のみならず、発電所対策本部ひいては本店対策本部に至るまで、IC の機能等が十分理解されていたとは思われず、このような現状は、原子力事業者として極めて不適切であった。
IC が機能不全に陥ったことから、1 号機の冷却には一刻も早い代替注水が必須となり、加えて注水を可能とするための減圧操作等が必要となった。IC の作動状況の誤認は、代替注水や格納容器ベントの実施までに時間を要し、炉心冷却の遅れを生んだ大きな要因となったと考えられる。』

次に、「Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処」から、長くなりますが関連する記述を抜粋してみます。
--抜粋開始---------------------------
同日(3月11日)15時37分から同日15時42分にかけての頃、1号機から6号機は、6号機の空冷式DG(6Bを除き、全ての交流電源を失った。
この頃、発電所対策本部は、各中央制御室から、各号機が次々に全交流電源を喪失し、1 号機、2号機及び4号機の直流電源も全て喪失したとの報告を受け、かかる想像を絶する事態に、皆、言葉を失った。
また、本店対策本部は、テレビ会議システムを通じて、それらの情報を随時把握していった。
吉田所長は、これまで考えられてきたあらゆるシビアアクシデントを遥かに超える事態が発生したことが分かり、咄嗟に何をしていいのか思いつかなかったが、まずもって法令上定められた手続きをしようと考え、同日15 時42 分頃、官庁等に対し、原子力災害対策特別措置法(以下「原災法」という。)第10 条第1 項の規定に基づく特定事象(全交流電源喪失)が発生した旨通報した21。(91ページ)

発電所対策本部は、各号機のプラント状態について、発電班を通じて、中央制御室の固定電話とホットラインという限られた連絡手段によって報告を受けて把握するよりほかになかった。また、本店対策本部は、テレビ会議システムを通じて、発電所対策本部のメインテーブルで発話された情報を聞き取ることによって、各号機のプラント状態を把握することになった。(91ページ)

3 月11 日16 時36 分頃の時点では、1、2 号機について、いずれも原子炉水位が確認できず、また、1 号機のIC 及び2 号機のRCIC の作動状態も確認できなかったため、注水状況が不明であった。
吉田所長は、全電源喪失に伴いフェイルセーフ機能が作動したのではないかということには思い至らず、発電所対策本部や本店対策本部の誰からもかかる指摘がなかったため、1 号機のIC 及び2 号機のRCIC が作動していることを期待しつつも、当直からの報告を聞いて、IC やRCIC による冷却・注水がなされているとは断定できないと考えた。そこで、吉田所長は、最悪の事態を想定して、原災法第15 条第1 項の規定に基づく特定事象(非常用炉心冷却装置注水不能)が発生したとして、同日16 時45 分頃、官庁等に、その旨報告した。(96ページ)

その後、1 号機の原子炉水位は、原子炉水位計(広帯域)によれば低下傾向にあり、広帯域-150cm を示したのを最後に、3 月11 日16 時56 分頃ダウンスケールして、再度、1 号機の原子炉水位が確認できなくなり、同日17 時7 分頃、当直は、発電所対策本部に、その旨報告した。発電所対策本部及び本店対策本部が、それまでのIC の作動状態についていかなる認識を有していたとしても、少なくともこの時点で、IC の「冷やす」機能が十分ではなく、代替注水の実施作業に着手する必要があることを容易に認識し得たはずであった。
しかし、発電所対策本部及び本店対策本部は、想像を超える事態に直面し、1号機から6 号機までのプラント状態に関する情報が入り乱れる中で、1 号機の原子炉水位の低下という情報からIC の作動状態を推測するという発想を持ち合わせていなかった。(97ページ)

この時点においてもまだ、当直の中で、フェイルセーフ機能によってIC の隔離弁が全閉又はそれに近い状態となって、少なくともほぼ機能喪失に陥っている可能性があると明確に認識していた者はいなかった。
② 1 号機の運転操作をする当直は、誰一人として、3 月11 日に地震が発生するまで、IC を実際に作動させた経験がなかった。当直の中には、先輩当直から、IC が正常に作動した場合、1 号機R/B 西側壁面にある二つ並んだ排気口(通称「豚の鼻」)から、復水器タンク内の冷却水が熱交換によって熱せられて気化した蒸気が水平に勢いよく噴き出し、その際、静電気が発生して雷のような青光りを発し、「ゴー」という轟音を鳴り響かせるなどと伝え聞いている者もいた。
しかし、1号機が全電源を喪失した後、同日18 時18 分頃までの間、当直は、このような蒸気の発生や作動音によりIC の作動状態を確認することを思いつかず、実際に、1 号機R/B 山側に行って排気口を目視するなどして蒸気発生の有無、程度を確認することもなかった。(104ページ)

3 月11 日21 時30 分頃、発電所対策本部は、当直から、IC の戻り配管隔離弁(MO-3A)を開操作したことの報告を受けた。しかし、この時も、発電所対策本部及び本店対策本部にいた者は、吉田所長を含め、この報告が、それまでIC の戻り配管隔離弁(MO-3A)が閉状態であったことを意味することに問題意識を持つことなく、なおもIC が正常に作動中であると認識しており、当直に対して同弁を閉操作したことがあるのかどうかなどを尋ねることはしなかった。
この頃、本店対策本部も、発電所対策本部と同様に、同日18 時25 分頃に当直がIC の戻り配管隔離弁(MO-3A)を閉操作したことを把握しないまま、ICが正常に作動中であると認識していた。(110ページ)

保安検査官の対応原子力安全・保安院(以下「保安院」という。)によれば、3 月11 日14 時46分頃に東北地方太平洋沖地震発生後、同月12 日未明までの間、保安検査官は、免震重要棟2 階にいたが、緊急時対策室横の会議室に留まり、同室において、発電所対策本部から提供されるプラントデータを受け取り、携帯電話又は衛星電話を用いて、その内容をオフサイトセンターやERC に報告するのみであった。しかし、保安検査官は、IC の作動状態について、発電所対策本部及び本店対策本部と同様の情報を容易に入手できる立場にあり、単に発電所対策本部から提供される情報を受け取ることに終始するだけではなく、IC の作動状態について、発電所対策本部に問い質すなどして、より正確な状況把握に努め、場合によっては必要な指導又は助言をすることもできたはずであった。実際には、保安検査官が、発電所対策本部に対し、必要な指導・助言をした形跡は全く見当たらず、当時、保安検査官が免震重要棟にいたことによって事故対処に何らかの寄与がなされたという状況は全く見受けられなかった。(110ページ)

非常時に冷却機能を果たすIC が、電源喪失した場合、フェイルセーフ機能が作動して配管上の四つの隔離弁が閉となる機構になっていることは、ICという重要な設備機器の構造・機能に関する基本的知識である。
当委員会によるヒアリングの際、東京電力関係者の多くが、「IC があるのは1 号機だけで、特殊である。」などとして、IC の特殊性を縷々述べるものの、当委員会が、「電源が失われて必要な操作ができなくなると、原子炉格納容器の隔離機能が働いて隔離弁が閉じるのか、又は開いたままなのか。」と尋ねると、皆一様に、「隔離弁は閉じると思う。」と述べた。つまり、1号機やIC の特殊性以前に、「閉じ込める」機能の基本的知識を持ち合わせていれば、破断検出回路やフェイルセーフ機能の詳細を知らなかったとしても、電源喪失時にIC の隔離弁が閉じている可能性があることを容易に認識し得たと考えられる。
そうすると、発電所対策本部においても、本店対策本部においても、1 号機について、3 月11 日15 時37 分頃に全交流電源喪失に至り、その頃、直流電源も全て失われたことを認識している以上、少なくとも、この時点で、ICの四つの隔離弁が閉となり、IC は機能していないという問題意識を抱く契機が十分にあったと認められる。
しかし、実際には、発電所対策本部及び本店対策本部の誰一人として、かかる疑問を抱いて指摘した者はおらず、更には、原子炉減圧、代替注水に向けて必要な準備に動いた形跡も見当たらず、かえって、同日21 時頃になってもなお、IC が作動中であると誤信していた。(115ページ)

発電所対策本部及び本店対策本部は、これらの情報を正しく評価していれば、明らかにIC が正常に作動していないことを認識し得たはずである。ICが適切に作動していれば、少なくとも約6 時間、すなわち同日21 時30 分前後までは冷却機能が果たされているはずであるから、同日16 時台から同日17 時台にかけてのこれらの兆候からIC が正常に機能しておらず、その冷却機能に期待できないことに容易に気付くことができるのではないかと思われる。ところが、これらの兆候を認識しながら、なおもIC による注水に期待し、直ちに原子炉の減圧や代替注水に向けた準備に取り掛からなかったことについては、適切に状況判断ができていたとは思えない。(116ページ)

発電所対策本部及び本店対策本部に期待された役割
① 東京電力自身が定めた「福島第一原子力発電所のアクシデントマネジメント整備報告書」は、「より複雑な事象に対しては、事故状況の把握やどのアクシデントマネジメント策を選択するか判断するに当たっての技術評価の重要度が高く、また、様々な情報が必要となる。このため、支援組織においてこれら技術評価等を実施し、意思決定を支援することとしている。」と記載している。
発電所対策本部(発電班、復旧班等の一部の機能班が支援組織を構成)には、当時、1 号機から6 号機までの状況を含む多くの情報が入り、これらへの対応を迫られていたものの、支援組織に求められる役割を考えると、このような厳しい状況にあったことを理由として、1 号機のIC の作動状態という最も基本的かつ重要な情報について誤認識していたことをやむを得ないと容認することは許されないであろう。
まず、非常事態下において、複数の情報が錯綜するのは当然のことであって、その時々の状況を踏まえ、何が重要な情報かについて適切に評価・選択することになる(119ページ)

1 号機について言えば、津波到達直後、プラントパラメータがほとんど計測できない状況の中で、唯一、「冷やす」機能を果たすことが期待されたICの作動状態に関する情報は、冷温停止に向けた対処を検討する上で基本となる最重要情報であった。かかる情報を見落とせば、対応が後手に回ることは自明であり、取り返しのつかない誤った対応につながるおそれすらあったのである。(120ページ)

加えて、本店対策本部においても、基本的には発電所対策本部に対応する機能班が存在し、それぞれの担当班が、テレビ会議システムを通じ、役割に応じた重要情報を把握し、事故対処に追われる発電所対策本部よりも更に現場から一歩引いた立場で、比較的冷静な視点で同情報を評価し、発電所対策本部を支援することが期待されていた。そうであれば、本店対策本部においても、時宜にかなった支援を十分に行うため、IC の作動状態に関する情報の把握に努め、同情報が入れば、これを聞き流すことなくIC の作動状態を評価し、同情報が入らなければ情報を収集すべく、発電所対策本部に適切な助言を行うことは十分可能であったと考えられる。
③ しかし、発電所対策本部及び本店対策本部は、このような重要情報の取捨選択や評価を適切に行ってIC の作動状態を判断していたとは思われない。この点、吉田所長は、「これまで考えたことのなかった事態に遭遇し、次から次に入ってくる情報に追われ、それまで順次入ってきた情報の中から、関連する重要情報を総合的に判断する余裕がなくなっていた。」旨供述する。それまで、SPDS によって各号機のプラント状態に関する情報を即時入手できることを前提とした訓練、教育しか受けていない者が、極めて過酷な自然災害によって同時多発的に複数号機で全電源が喪失するといった事態に直面し、SPDS が機能しない中で、錯綜する情報から各号機のプラント制御にとって必要な情報を適切に取捨選択して評価することは非常に困難であったと思われる。また、当時、重要情報の取捨選択や評価に適切でない点があったとしても、現実に対応した関係者の熱意・努力に欠けるところがあったという趣旨ではない。ただ、各人が全力で事故対応に当たりながらも、事後的にみるとこのような問題点が発見されるのであり、その点については問題点として指摘する必要があると考える。
結局、極めて過酷な自然災害によって同時多発的に複数号機で全電源が喪失するような事態を想定し、これに対処する上で必要な訓練、教育が十分なされていなかったと言うほかない。そのため、発電所対策本部及び本店対策本部において、重要な情報を正しく把握・評価できず、その結果、IC の作動状態に関する適切な判断をなし得なかったと考えられ、かかる訓練、教育が極めて重要であることを示していると考える。(121ページ)
--抜粋終わり---------------------------

3月11日に福島第一原発で操業に当たっていた当事者たちにとって、それまで準備された設備や事故時の操業指針、受けてきた訓練の実情に照らせば、ほとんどは「やむを得ない事態だった」とも言えます。一方ではもちろん、「訓練を受けていないとはいえ、専門知識を有しているのだから、あのとき何でこのことに気付けなかったのか」という反省はあります。本人たちも痛恨の気持ちでいることでしょう。

なお、1号機に関するざっとしたレビューについては、昨年12月18日の当ブログ記事「1号機非常用復水器の構造を幹部は知らなかった」およびその記事でリンクされてる各記事をご参照ください。
--------再掲載終わり---------
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山下文男著「昭和東北大凶作」

2014-05-19 19:08:02 | 歴史・社会
昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童
クリエーター情報なし
無明舎出版

アマゾンでは中古品しか扱っておらず、新刊書としては無明舎出版から直接取り寄せるルートがあるのみでした。そこで私は出版社から直接購入しました。2001年1月発行なのに、手元に届いた本は初版本でした。よっぽど売れていないのですね。

この本は、昭和5(1930)年から昭和9(1933)年にかけて毎年東北地方を襲った冷害とそれによる凶作が、東北の人々にどのような辛苦をもたらしたのかを克明に綴った本です。
この、昭和東北大凶作がもたらした、地域の人たちの苦しみのうち、娘身売りに着目します。
先日(5月1日)このブログで、「昭和初期の遊郭とそこで働く人々」として記事にしました。その中で、『それでは、昭和初期から終戦までの時期、日本の遊郭と娼妓とはどのような実態だったのでしょうか。その点について記述したサイト、書籍を探してもほとんど見つかりません。唯一見つかったのが、山下文男著「昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)でした。』と紹介したのがこの本です。
以下、昭和初期に遊郭に売られていった女性たちの実態を、昭和東北大凶作の観点から追っていきます。

《やませ(山背)》
『青森・岩手・秋田・山形など、東北地方も北の方では、初夏から夏にかけて吹いてくる北東の風を「やませ(山背)」と呼んでいる。三陸沖に張り出してくるオホーツク海からの寒気団による風である。やませ(風)は、夏でも暖房を必要とするような長雨をともなった冷たい風で、この風が吹き出すと、直接吹きつける三陸(陸奥、陸中、陸前)側が異常な低温に覆われる・・・、やませ(風)の強くて長い年は、冷気のために作物、とりわけ稲の生長が妨げられて(冷害)不作や凶作の年が多く、地域によっては「餓死風」などとも呼ばれ、大変、恐れられている。』

《昭和6(1931)年 凶作の追い打ち》
昭和5年に続いて昭和6年も凶作に見舞われました。同じ東北といっても、被害の状況は地域ごとに異なっていたようです。最も被害が大きかった地域の人々が、もちろん最も大きな苦労を背負いました。
『帝国農会の青笹参事の調査によると、青森県下で最も被害の著しいのは、東津軽、上北、下北、三戸の四郡で、霧を含んだやませ(風)と呼ばれる北東風を直接うける沿岸地帯である。これらの一帯は、谷の奥までやませ(風)に吹きつけられ、米はほとんど皆無作である。』(河北新報1931.11.27)

秋田県では
『平年作より1割5分5厘減収に止まった。・・しかしそれは全県的に見てのことで、収穫皆無地は、全県で1300町歩と算され、その他、7割以上の減収地1800町歩・・・
凶作のため、村々の花、年頃の娘さんたちは、悲しきなりわいに売られていく。もちろん、これまでも、生活のために紡績女工などとして娘たちを都会に送り出してきたが、かくも食われなくなっては、やはり前借金の高い娼妓ということになる。・・などでは、今、女工として、娼妓として出て行ったために、娘さんたちがあらましいなくなったとさえいわれている。』(東京日日1931.11.30)

《昭和7(1932)年 悲惨、娘身売りと欠食児童》
『秋田県の女子青年団連合会が娘たちの離村状況とその原因を調査したところ、昭和6年の末現在、秋田市を除く9郡における13歳以上25歳未満の女子の離村数は9473人であるが、その内訳を見ると、
▽子守女中が4272人(4割5分)、▽女工が2682人(2割8分)、▽醜業婦が1383人(1割5分)、▽その他、とされている。醜業婦とは、戦前、主として体を売る仕事に身を沈める女性たちをさして、官公庁などで使っていた言葉である。』
『なお、1383人の醜業婦について見ると「最初から親も承知、自分もそのつもりで出たのが1062人であるが、女中や子守のつもりで出たのに、親はもちろん、本人も知らない間に、いつか誰かの手によって、魔の淵に突き落とされた者が160人、女工のつもりだった者が103人を数えており」県当局も驚いて適切な対策を模索している』(大阪朝日1932.6.15)

『最近、東京・吉原の遊郭で、年期明けの娼妓のうち、さらに1年か2年の短期契約をやって稼ぐ者が目立って増えているというので、何が原因かを調べてみたら、その大部分は、年期が明けて田舎に帰っても食うことができない、それよりはまだ遊郭にいた方がましだということらしい。
・・・
娘を売るのが罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持できないのである。前借もこれに応じて、この頃はガタ落ち、娼妓では年期明けまで最高2000円どまり、平均の1050円、それも、ごく美人でなければならないという。前借金の少ないのは400円ぐらいである。酌婦はさらに低く、250円が精一杯というところらしい。・・・
娼妓は満18歳にならないと許可されない。しかし、それまで待つことができない。ところが、地方では満16歳から酌婦になれる。そこで、金は少ないが16歳になるのを待ちかねて、まず酌婦に売って肥料代などの借金の利払いをし、次いで18歳になってから娼妓にして、まとまった前借で負債の整理をするということらしい。』(東京日日1932.6.17)

《昭和9(1934)年 ああ、昭和東北大凶作》
『7月も中旬になったところで、成長期の稲には最悪の、雨をともなった冷たい北東の風が吹きだした。・・・
やませ(風)だ!
やませ(風)は来る日も来る日も吹き続けて、際限もなく冷たい雨を運んでくる。・・・稲の生育上、最も重要なる7・8月の両月、及び9月上旬に至る間、低温、多雨、寡照の悲観すべき気象状況を継続した』(岩手県凶作史)
『凶作を決定的にし、だめを押すように襲ってきたのが室戸台風であった。
こうして昭和9(1934)年は、明治38(1905)年以来の全国的な大凶作の年になった。』

『横手駅(秋田県)発午後3時41分上野駅直行は身売り列車だ。銘仙(の着物)に白足袋、斑な白粉が一見してすぐそれと分かる。「離村女性」が歳末が近づくに伴い毎日のように身売り列車で運ばれ、駅の改札子をおどろかしている--昨年迄は3日に一度か5日に一度程度の離村女性だったが、最近は毎日の様に、しかも数名ずつの集団的の出稼ぎが改札子の目を瞠らせるほどである。大部分が女工であるが、桂庵(奉公人の口入れ屋)に伴われて売笑街へ向かう可憐な女性が約10%を占めようという観測である。』(秋田魁新報1934.12.16)
『過去1年間に出稼ぎした東北6県の婦女子の数は、芸者2196名、娼妓4521名、酌婦5952名、女中及び子守19244名、女工17260名、その他5729名、合計58173名』(東京日日1934.11.9)

『もっとも、これらの娘たちが最終的にすべて不幸になったわけではない。年期を勤め終えて無事に帰郷し、幸せな家庭を持つことのできた女性たちも少なくなかった。反面、悪質な周旋屋や雇い主に騙されて借金ばかりがかさみ、背負いきれないほどの重荷を背負わされて、いつまでたっても苦界から抜け出せない気の毒な女性たちも一人や二人ではなかった。』

以上が、昭和6-9年における日本の遊郭と東北地方の少女たちとの関連です。
当時はまだ日中戦争前であり、従軍慰安婦は大々的には集められていなかったと思われます。そのため、「昭和東北大凶作」には、娼妓として国内の遊郭に売られていく話はあるものの、慰安婦として戦地に連れて行かれる話は出てきません。
しかし、日中戦争勃発が昭和12(1937)年ですから、ほんの数年先のことです。慰安婦問題を考察する上で、「昭和東北大凶作」の記述は参考になるはずです。
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改正特許法等が成立?

2014-05-11 15:08:08 | 知的財産権
過去、特許法改正がこれほど話題にならなかったことがあったでしょうか。
本年度の特許法等の改正については、3月11日に特許庁のニュースリリースで、「「特許法等の一部を改正する法律案」が閣議決定されました」とアナウンスされたきりで、その後の国会審議の進捗は聞こえてきませんでした。

おかしいと思って検索したら、4月2日に参議院、4月25日に衆議院本会議で可決しており、すでに成立しているではないですか。

参議院・議案審議情報
特許法等の一部を改正する法律案(186回)
提出日 平成26年3月13日
参議院本会議経過
議決日 平成26年4月2日
議決 可決
衆議院本会議経過
議決日 平成26年4月25日
議決 可決


3月の特許庁のニュースリリースでは、改正法案について以下のように説明されています。
『 法案について
1.法改正の趣旨
「日本再興戦略」及び「知的財産政策に関する基本方針」(いずれも平成25年6月閣議決定)を踏まえ、我が国は、今後10年間で、世界最高の「知的財産立国」を目指します。この実現に向け、知的財産の更なる創造・保護・活用に資する制度的・人的基盤を早急に整備するための措置を講じます。
2.法案の概要
(1)特許法の改正
①救済措置の拡充
国際的な法制度に倣い、出願人に災害等のやむを得ない事由が生じた場合に手続期間の延長を可能とする等の措置を講じます(実用新案法、意匠法、商標法及 び国際出願法にも同様の措置を講じます)。
②「特許異議の申立て制度」の創設
特許権の早期安定化を可能とすべく、「特許異議の申立て制度」を創設します。
(2)意匠法の改正
「意匠の国際登録に関するハーグ協定のジュネーブ改正協定」(加入を検討中)に基づき、複数国に対して意匠を一括出願するための規定を整備し、出願人のコスト低減を図ります。
(3)商標法の改正
①保護対象の拡充
他国では既に広く保護対象となっている色彩や音といった商標を我が国における保護対象に追加します。
②地域団体商標の登録主体の拡充
商工会、商工会議所及びNPO法人を商標法の地域団体商標制度(※)の登録主体に追加し、地域ブランドの更なる普及・展開を図ります。
※地域団体商標制度とは、商標の登録要件を緩和し、「地域名+商品名」等からなる商標の登録をより容易なものとする制度。(現行法上、登録主体は事業協同組合等に限定。)
(4)弁理士法の改正
「知的財産に関する専門家」としての弁理士の使命を弁理士法上に明確に位置づけるとともに、出願以前のアイデア段階での相談業務ができる旨の明確化等を行います。
(5)その他
国際的な法制度に基づき特許の国際出願をする場合の他国の特許当局等に対する手数料について、我が国の特許庁に対する手数料と一括で納付するための規定の整備を行います(国際出願法の改正)。』

特許を扱う実務家にとっては、『「特許異議の申立て制度」の創設(復活)』が大きいでしょう。
詳細については、特許庁の新旧対照条文で明らかです。
ざっと異議申し立て制度の条文をチェックしたところでは、以前廃止になった異議申し立て制度がほとんどそのままの形で復活している印象を受けました。

なお、改正前において、無効審判請求は「何人も」請求可能でしたが、今回改正で、「利害関係人に限り」と明示で限定されることとなりました(特123条2項)。無効審判において、現在は同一特許について別人が起こした審判では一事不再理効が効きません。そのため、実質同一の会社が、自然人を請求人に立ててとっかえひっかえの審判を起こすことが可能であり問題だと考えていたのですが、今回改正で利害関係人に限定されることとなったので、その心配は消えました。
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昭和初期の遊郭とそこで働く人々

2014-05-01 20:02:10 | 歴史・社会
熱風の日本史 第32回「どん底」の人々の救済 (大正)2014/4/6付 日本経済新聞 朝刊

『近世までの遊郭の娼婦は「性奴隷」に等しいもので、海外から「人身売買」との批判を恐れた明治政府は、1872(明治5)年に娼妓解放令を発した。遊郭は「貸座敷」となり、そこで娼婦が「自由意思」で営業する建前となる。
しかし、貧しい農家などから売られてきた女性たちは、前借金でがんじがらめにされており、廃業を申し出ようとすれば遊郭側から激しい暴行を受けた。警察は遊郭と癒着しており、見て見ぬふりだった。
・・・・・
娼婦の「開放」は58(昭和33)年4月1日の売春防止法完全施行を待たなければならなかった。数々の歴史資料、証言から、過酷な境遇にいた娼婦たちが望んで遊郭で働いていたという事例はほとんどない。』

ここでは、明治初期に成立した「娼婦解放令」、それにもかかわらず大正時代に遊郭の実態はどんなものだったのか、そして戦後の売春防止法施行で時代が変わったことが記されています。
しかし、昭和初期から終戦までの遊郭の実態については、上記日経記事には何ら記載がありません。法制度は変わっていないのですから、大正時代と同様に、売られてきた女性たちは前借金に縛り付けられ、自由意思を剥奪されて娼婦の仕事を強要されていたのだろうと推測されます。そうであれば、昭和初期から終戦までについても、遊郭の女性たちは「性奴隷」と呼ばれるほかはない生活を強要されていたことになります。

また、明治5年に「娼婦解放令」が成立している以上、たとえ前借金があったとしても、本人の自由意思を無視して遊郭で働かせることは、違法であった可能性が高いです。「売春防止法の施行以前、公娼制度は合法であった」という議論がありますが、これはあくまで本人の自由意思が尊重される限りの話です。上記日経記事でも、「数々の歴史資料、証言から、過酷な境遇にいた娼婦たちが望んで遊郭で働いていたという事例はほとんどない。」ということですから、本人たちの自由意思は全く顧みられていませんでした。

さてそれでは、昭和初期から終戦までの時期、日本の遊郭と娼妓とはどのような実態だったのでしょうか。その点について記述したサイト、書籍を探してもほとんど見つかりません。唯一見つかったのが、山下文男著「昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)でした。アマゾンでは中古品しか扱っておらず、新刊書としては無明舎出版から直接取り寄せるルートがあるのみでした。そこで私は出版社から直接購入し、現在読んでいるところです。

昭和初期における日本での遊郭と娼妓との実態は、同時期における戦地での慰安所と慰安婦の実態につながっていくことになります。

昭和初期における日本での娼妓の実態についてなぜこれほどに沈黙が守られているのか。私はとても不思議に思いました。ひょっとすると、娼妓として苦しい思いをされた方々がご存命であるため、慮って沈黙が守られているのかもしれない、と想像するに至りました。
これと対比すると、慰安婦として苦しい思いをされた韓国の方々については、むしろご存命中のうちにきちんと補償をすべきであるという声が大きく唱えられています。
日本と韓国のこの大きな差については、驚かざるを得ません。
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