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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

私の履歴書~辰野勇氏(2)

2024-12-31 12:14:20 | 歴史・社会
第1報は、第1話から第9話まで、辰野勇氏の少年時代から先鋭の登山家として活躍する時代が描かれていました。
この第2報は、第10話から第19話まで、辰野氏がモンベルを創業して発展させ、カヤックの世界にも深く入っていく時代を描いていきます。

辰野勇 私の履歴書(10)独立創業メンバー(中央が筆者)
丸正産業では、製品企画がすべてうまくいったわけではありません。登山の経験を生かし、自分たちのほしいものが作れる会社を立ち上げようと考え始めました。
1975年に丸正産業を退職、大阪市の雑居ビルの一室で株式会社モンベルを創業しました。大阪あなほり会の真崎文明氏と増尾幸子氏が創業メンバーに加わりました。

辰野勇 私の履歴書(11)新素材初のヒット商品
スーパーマーケットの商品企画を行う企業に勤める友人から、新規企画のショッピングバッグの製造を依頼されました。商社時代の人脈や経験を生かして、生地調達、縫製工場手配を行い、製造したバッグは予想を超える売れ行きでした。そのおかげで初年度1億6千万円の売り上げを達成しました。この利益を使って登山用品の開発を始めることとなります。
丸正産業時代の上司、麻植(おえ)正弘さんからの情報、米デュポン社開発のダクロンホロフィルⅡという化学繊維は、軽くて暖かく、濡れてもすぐ乾く、寝袋の中綿としては画期的な素材でした。帝人がコンピュータのリボンテープ用に開発した極薄高密度素材を表地に使用しました。大阪市内の登山用品店では扱ってくれませんでしたが、東京の問屋で性能を説明すると、一挙に2千個の注文をもらいました。この寝袋は登山業界に大きな反響を巻き起こしました。
次に雨具の開発を進めました。素材にはデュポン社の合成ゴム、ハイパロンを選びました。76年に製品化し、長く売れ続けるモンベルの代表的商品となりました。零細企業のモンベルに対し、デュポン社はダクロンホロフィルⅡの寝袋使用に関する独占使用権を与えてくれました。

辰野勇 私の履歴書(12)カヤック社員旅行
1974年、丸正産業の上司、麻植正弘さんに誘われ、カヤックを始めました。初心者の段階で出場した大会で優勝してしまい、すっかりカヤックにはまりました。
アイガー北壁登攀者の高田光弘さんなどもカヤックを始めていました。高田さんから組み立て式カヤックを譲ってもらい、あちこちの川に出かけるようになります。
モンベルの社員にもカヤックを勧め、77年、はじめての社員旅行は琵琶湖に浮かぶ竹生島へのカヤックツーリングでした。ところが、帰路で三角波が立ちはじめ、2人乗り1艇が転覆してしまい、這い上がることができません。遊覧船が近づいてきて、全員引き上げてもらいました。
78年には黒部ダムに組み立て式ボートを持ち込みました。

辰野勇 私の履歴書(13)海外進出西ドイツのシュースタ
当時、日本の登山市場の規模が500億円の頃、30年後にその20%、100億円まで業績を伸ばせる可能性を検討し、海外に販路を広げることとしました。創業3年の78年夏、西ドイツのケルンで開かれた国際的なスポーツ用品の展示会を視察し、その後、ミュンヘンの老舗登山用品店「シュースタ」を訊ねました。応対してくれた初老の紳士は、ケレン・スペーカー、ヒマラヤの8千メートル峰にも登頂した登山家でした。辰野氏がアイガー北壁を登ったことを告げると、商品を検討してもらえることとなりました。その年のクリスマスイブに、注文書が送られてきました。

辰野勇 私の履歴書(14)パタゴニアヨセミテの岸壁
1980年、ドイツの登山用品店シュースタ(前掲)のパーティー会場で、米国のアウトドア衣料メーカー、パタゴニアの創業者、イボン・シュイナード氏と出会いました。ヨセミテ大岩壁を初登攀した著名な登山家でもあります。意気投合し、彼から日本の代理店をやってみないかと尋ねられました。
辰野氏が米国で彼を訪ねると、カヤックでの波乗り、ワイオミング州の岩壁での新ルート開拓、ヨセミテの岩場など、良き山仲間としての交流が深まりました。
パタゴニアの製品の日本での販売を手伝い始めます。パタゴニア製品として、ポリエステルのフリース「シンチラ」が支持を集め、一気にビジネスが拡大しました。しかし辰野氏の中に釈然としない気持ちが芽生えました。モンベル本来のアイデンティティーが失われるという不安です。
パタゴニア副社長のクリス・マックデービッドさんに、日本での販売を自分たちでやるように申し出ました。そして、パタゴニアの日本法人設立と責任者の採用面接を手伝い、互いに遺恨のない爽やかな別れとなりました。

辰野勇 私の履歴書(15)黒部峡谷初下降下の廊下の大滝をカヤックで下った
1987年、黒部川を源流から河口までカヤックで下る挑戦を始めました。渓谷の上部、「上の廊下」の初下降に挑むため、ヘリに7艇のカヤックと装備をつり下げ、河原に降り立ちました。モンベル社員の有志を中心に7人のメンバーがカヤックを漕ぎ出しました。滝の連続に行く手を阻まれ、黒部ダムの湖畔に上陸してこの年の挑戦は終わりました。
黒部ダムの下流「下の廊下」と呼ばれる渓谷の河口は2年がかりになりました。
流れは速く、転覆する艇が相次ぎました。継続を諦めた2艇を樹林帯に縛り付け、翌朝、残りの5艇で川下りを再開しましたが、落差4,5メートルの滝が連続します。この年はここで引き上げることとし、小高い岩盤にハーケンを打ち込んで5艇のカヤックを縛り付け、下山しました。
翌89年、現地に行くと、縛り付けておいた艇はすべて雪に押しつぶされていました。樹林帯に縛り付けた2艇が無事だったので、それを使うこととしました。渓谷には落差15メートルの滝があります。観察するうちに「下れるかも」と思い始めました。別の仲間はやめることとしました。辰野氏は迷った末、「いける!」と思った瞬間、迷いなく漕ぎだしました。滝壺に5メートルほど潜り、浮上したらパドルが3つに折れていました。
S字峡では返し波につかまり転覆しましたが、なんとか窮地を脱しました。そして、この年のゴール仙人谷ダムまで漕ぎ下ることができました。
その翌年、仙人ダム下から仲間と一緒に漕ぎ下り、全員で日本海に到達しました。

辰野勇 私の履歴書(16)冒険大賞画像
この回は読めませんでした。

辰野勇 私の履歴書(17)直営店最初の直営店
現在モンベルは全国に127点の直営店を展開しています。
1991年、JR西日本から、新設する商業施設に出店を要請されました。
それまで、モンベルは消費者に直接販売することはしていません。しかしそれでは、実績のない製品を店頭に置いてもらえません。直営店を出すしかないと考えている矢先でした。
もうひとつの問題は値引き販売です。市場では希望小売価格から30%近くの値引きが常態的でした。しかしメーカー直売店では値引きをするわけにはいきません。そこで辰野氏は、メーカー希望小売価格を一気に3割ほど引き下げる決断をしました。ほとんどの販売先が取引を継続してくれました。しかし「値引き」を唯一の販売手段にしてきた大型ディスカウントチェーン店は、その優位性が無くなって取引から撤退しました。

辰野勇 私の履歴書(18)海外の川下りグランドキャニオンのコロラド川
1982年、米国のヨセミテ渓谷を流れるトゥオルミー川を、辰野氏は3人の友人と下りました。パタゴニア創業者のイボン・シュイナード氏、ノースフェイスの創業者ダグラス・トンプキンス氏、それにロイヤル・ロビンス氏です。トンプキンス氏はアイガー北壁の米国人初登攀者で、ノースフェイス(The North Face)の名はこれに由来します。ロビンス氏はヨセミテの岩壁ルートを開き、自らの名をブランドにして立ち上げた人です。いずれも米国を代表するアウトドア企業の創業者であり、クライミング界のレジェンドでもあります。
米国のグランドキャニオンを流れるコロラド川の364キロを3週間かけて下りました。
ネパールのトリスリ川やマルシャンディ川を数日かけて下りました。カナダのユーコン川は、障害を持った仲間達と一緒に1週間かけて下りました。
90年代から2000年代はこんな川や海をカヤックの旅で満喫しました。

辰野勇 私の履歴書(19)モンベルクラブカタログや会報誌
1986年、「モンベルクラブ」を立ち上げ、年間1500円の会費をいただくこととしました。会報の発刊にもいたりました。
05年、創業30年当時、モンベルクラブの会員数はおよそ8万人でした。16年後の21年には100万人を突破し、現在120万人に近づきつつあります。

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私の履歴書~辰野勇氏(1)

2024-12-30 16:05:52 | 趣味・読書
11月の日経新聞私の履歴書は、アウトドア用品ブランドのモンベル創業者 辰野勇さんでした。非常におもしろい連載でした。以下に何回かに分け、そのエッセンスを記録として残しておきたいと思います。
辰野勇(モンベル創業者)
私は、モンベルという登山用品ブランドの名前は知っていましたが、モンベルの商品を何も所有しておらず、どんな会社かも知らず、その創業者である辰野勇さんのお名前も存じ上げませんでした。私の履歴書に登場するからには特別の業績を挙げた方なのだろう、と注目して読み進めました。
辰野勇(モンベル創業者) 私の履歴書(1)冒険と経営最近の筆者
『この9月、5年ぶりにスイスの山々を巡ってきた。前半はアイガーの麓にあるグリンデルワルト、後半はマッターホルンの麓のツェルマットに滞在。ヘリに乗ってマッターホルン山頂付近を飛行するなど、旧知の友人や地元の人たちから濃厚な歓迎を受けた。これらの村は私にとって第二の故郷のような場所だ。
55年前の1969年、21歳の私は岳友の中谷三次と2人でアイガー北壁に挑み、1泊のビバークで登り切った。アイガー北壁は高低差が1800mある岩壁岸壁だ。日本人では65年に高田光政さんが登っているが、同行の登山家が墜死されており、無事完遂して生還した日本人としては初だった。また、当時としては最短時間、私は最年少での登攀記録だった。』
アイガーから下山後、2人でツェルマットに出向いてマッターホルン北壁も登りました。
今年7月で77歳になりました。私が今年7月で76歳ですから、ちょうど1歳年上になります。
私の履歴書を読み進めると、辰野勇さんという方は、興味がさまざまな方面に向かい、興味を持ったことについては徹底して追求されています。
『冒険と経営をどのようにしてきたいか。1カ月間、私の居場所探しの旅にお付き合い願いたい。』

辰野勇 私の履歴書(2)ひ弱な子実家の店前
1947年7月、大阪府堺市で生まれました。
父親は、戦後中国から帰国してすし屋を開業していました。
小学校時代はひ弱な子供でした。
私が1948年生まれなので、辰野さんは私の1年上です。そのため、辰野さんの子供時代、少年時代の経験が、私の経験と重なっています。

辰野勇 私の履歴書(3)金剛山中学時代
大阪と奈良の府県境にある金剛山(1125m)には、中学に入ってから頻繁に登るようになりました。剣道を習い始め、体力もついてきました。
山が自分の居場所と知った中学時代は毎週のように金剛山に出かけました。
私は中学の時に山岳部に所属していたので、中学時代の山の経験が辰野さんと重なります。

辰野勇 私の履歴書(4)白い蜘蛛現代国語
高校は大阪府岸和田市にある府立泉小学校に進みました。現代国語一の教科書にオーストリアの登山家、ハインリッヒ・ハラー著のアイガー北壁初登攀記「白い蜘蛛」が載っていました。ハラー率いるオーストリアの登山隊らは、あわや遭難という窮地を脱して北壁の初登攀に成功します。辰野さんは、いつか日本人ではじめてアイガー北壁を登りたいと考えました。
『「何かほしいと思えば、まず一報踏み出して歩き出す。そして歩きながら考える。」私にはそんな性癖がある。』
体力をつけ、岩登りの技術を習得するために六甲山系の芦屋ロックガーデンに通い出しました。ザイルは、町のスポーツ用品店でもらった麻のロープに亜麻仁油を付けてしごいて柔らかくしました。ハーネス(安全ベルト)、ハーケン、カラビナも自作です。『組織の上下関係が苦手だった私は既存の山岳会には所属せず、岩登りの技術は独学で習得していった。』
私が、学校の図書室にあった「白い蜘蛛」を読んだのが中学生の時です(ブログ記事アイガー北壁 2018-07-24)。この本を読み返したいのですが、古本の値段が高く、近所の図書館にも置いていないので、まだ読み返せていません。

辰野勇 私の履歴書(5)山の仕事西穂高岳からの眺め
高校2年の夏、はじめて単独で北アルプスを縦走しました。前穂高岳から奥穂高岳に登り、さらに西穂高岳に行く途中、ジャンダルムで道に迷い、強引に下っていくと、そこは岳沢とは反対の岐阜県側の河原でした。
高校3年の冬、父親には「信州大学の下見に行く」と言って、友人と雪の西穂高岳を登りました。
戻って父親に「信州大の受験はダメだった。就職するよ」と伝えると「好きにすればいい」との返事でした。その後、知り合いの紹介で名古屋市のスポーツ用品店玉澤スポーツに住み込みで働くことが決まりました。

辰野勇 私の履歴書(6)登山熱屏風岩を登攀
高校卒業後、住み込み店員として玉澤スポーツに就職しました。休日には三重県鈴鹿山系の御在所岳の藤内壁に出かけ、様々な登攀技術を習得しました。社長から岩登りを自重するように注意を受け、就職7ヶ月後に退職することに決めました。
高校時代の恩師の紹介で、大阪駅近くの登山用品店「白馬堂」に勤め始めました。
笠が岳の錫杖岩に厳冬期、1人で挑む計画を立てましたが、友人の中村幸男氏から「1人で登るのは無茶だ。死ぬぞ」と脅され、たまたま彼の義兄の中谷三次氏が1人で前穂高岳北尾根の末端にある屏風岩に登る計画を立てており、一緒に登れと進められました。中谷氏は辰野氏より10歳年上です。
厳しい冬期の屏風岩登攀中、安価なアクリル製の手袋が災いして左手の中指と薬指が凍傷にかかって感覚を失ってしまいました。なんとか登り切って下山を果たし、上高地の木村殖(しげる)さんの小屋に駆け込み、凍傷の指を、塩を入れたぬるま湯でほぐしてもらいました。松本市の病院で診察を受けると、応急処置が良かったおかげで指は切断しなくていいと告げられました。「屏風岩冬期登攀、初下降」の記録です。

辰野勇 私の履歴書(7)アイガー北壁北壁登攀中の筆者

下の写真は、2018年にスイスアルプスを訪問した際、アイガー山麓のクライネシャイデックから見たアイガー北壁です。


下のTシャツは、そのときに私が購入したもので、アイガー北壁と代表的な登攀ルートが記されています。
 
上のTシャツの図には、4つのルートが記されています。出発時点で左から2番目であり、その後ジグザグに登り、途中最も左のコースを取って山頂に至るルートが、ノーマルルートです。頂上の下、"Spinne"と書かれた雪田は、日本語で「白い蜘蛛」と呼ばれている困難箇所です。

私のブログ記事アイガー北壁 2018-07-24では、高田光政氏によるアイガー北壁の日本人初登攀と、そのときの同僚である渡辺恒明氏の遭難死について記載しています。
辰野氏は、中谷三次氏とアイガー北壁登攀に出かけました。辰野氏らは、その高田光政氏からも貴重な話を聞くことができました。
1969年、シベリア鉄道経由で旅立ちました。7月21日、標高差1800mの大岩壁に挑みました。
困難な割れ目と呼ばれる岩壁帯を登り切り、ヒンターシュトイサートラバースを突破、その後、第1雪田(2 EISEFELD)、第2雪田(1 EISEFELD)を超え、死のビバーク("Bugeleisen"近く)と呼ばれる狭い岩棚につき、ビバークしました。
翌朝、登り続けることを決意し、ランペ(Rampe)から先は中谷氏にリード(先頭)を譲りました。「神々のトラバース(Gotterouergang ?)」を超え、白い蜘蛛(Spinne)の雪壁にさしかかったとき、中谷氏を岩雪崩が襲いました。落石がザイルを直撃し、切断される直前でした。「頂上への割れ目(aussteigsrisse ?)を抜けて最後の氷壁を登り切ったら頂上でした。
こうして、日本人としては2組目、それもパートナーを遭難で失うことなく、アイガー北壁登攀に成功しました。

辰野勇 私の履歴書(8)登山教室大阪あなほり会
辰野氏と中谷氏は、アイガー北壁登攀に成功した同じ年に、マッターホルン北壁登攀に成功しました。アルプス3大北壁最後のグランドジョラス北壁にも挑みましたが、こちらは風雪の嵐で退却となりました。
アイガー北壁の日本人第2登と史上最年少の記録を成果として、21歳の辰野氏のヨーロッパ山行が終わり、これが辰野氏の将来を決定づける「原点」となりました。
辰野氏は、仲間と大阪あなほり会を結成しました。また、基本技術は登山学校で習得してから会に入る、というヨーロッパでの考えに共感し、日本でも登山学校を立ち上げたいと考えました。勤務していた白馬堂の友田彦士社長に日本初のロッククライミングスクール開校を提案しました。講師は、辰野氏、三谷氏、それに高田光政氏を加えた、アイガー北壁を登った3人です。公募時、当時高校生で後に一緒にモンベルを創業する真崎文明氏が申し込んできました。
10月、高校時代の同級生、喜代子さんと結婚しました。その直後、白馬堂を退職することになりました。
新たな就職先として、繊維に強い中堅の総合商社に転職することとなりました。

辰野勇 私の履歴書(9)商社へ画像
1970年、丸正産業に入り、繊維部産業資材課に配属されました。いわゆる商社的仕事が主ですが、社員が企画した事業を新規開拓することも許されました。辰野氏は夢中になって登山用具の開発に没頭しました。その過程で織物の糸の特性を学び、水を含まず軽量で強靱な合成繊維に興味を持ちました。
住友ゴムに、ポリエステルのフィルムにアルミを蒸着した登山用の緊急保温シートを提案し、採用され、特許も申請し、後に丸正産業の社長賞を受賞しました。
神戸市でテントの縫製をしていた友光幸二さんが考案した画期的なテントの商品化も提案しました。
商社で勤務する中、山に行く機会は少なくなりました。その後、山中間が相次いで遭難死することになりました。徐々に山への思いが薄らいでいきました。

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中曽根康弘氏の憲法改正論

2024-12-19 21:32:14 | 歴史・社会
日経新聞 私の履歴書、12月はジェラルド・カーティス氏です。
12月17日の第16回は、中曽根康弘氏に関する思い出の記事です。
ジェラルド・カーティス 私の履歴書(16)中曽根康弘氏
米コロンビア大学名誉教授 2024年12月17日
『私が1966年に再来日して出会い、旧大分2区を舞台に「代議士の誕生」を書くきっかけを作ってくれた中曽根康弘氏は、その後も会いに行くと時間を割いてくれた。
出会いから16年後の82年には首相となり、5年にわたりその座にとどまった。
その間、国内では国鉄や電電公社の民営化を進める一方、日米同盟の重要性を唱えてロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を築くなど外交にも力を入れた。』
『強く印象に残るのが憲法改正をめぐる考え方の変化だ。2013年2月のインタビュー時にこう発言した。
「憲法の改正はだんだん遠ざかる。一般の人たちはそれほど憲法の独自性とか、誕生の秘密性とか、そういう問題はわれわれの時代には非常に強かったが、時間がたってみたら、そのような意識は殆どなくなって、中身が良いか悪いか(が大事になり)そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている。」
日本は歴史上、外のものを多く輸入、消化し、自分のものとしてきた。憲法も誕生の過程はともかく、時を経て日本国民に受け入れられたのだから全面改正の必要はなく、不都合な部分に手を入れればいい。そういう思いなのだと私は受けとめた。』

日本国憲法とその改正の方向性についての考え方、カーティス氏がインタビューで聞き出した中曽根氏の考え方は、まさに私の考える方向と一致していました。

以下に、私の以前のブログ記事を再掲載します。
憲法記念日によせて 2017-05-03
『確かに、現行憲法は、日本が連合国の施政権下にある時期に、連合軍総司令部に示された英語草案をほとんど直訳してできあがったものです。その意味では確かに異常です。
マッカーサー総司令部から示された草案ですが、私は、「米国から強要された」とは思っていません。たまたま連合軍総司令部(GHQ-SCAP)の民政局に勤務していた少数の者たちが、(自国では認められなかった)自分の理想を日本国に実現したいとの希求の元、短時間で執筆したものと理解しています。
日本国民はこの新憲法を受け入れました。そして現在に至るまで、日本国民は現行憲法におおよそ満足しているものと、私は観ています。
マッカーサーが新憲法制定を急いだ理由、そして当時の吉田総理がそれを受け入れた理由は、早く憲法改正を行わないと、当時の極東委員会から「天皇制廃止」を言い出されかねない、という事情があったからだと、確か吉田茂本人が述べていたと記憶しています。
「自国の憲法は、国が完全に独立しているときに、国民の総意で決定すべき」というのは確かにその通りです。一方、現行憲法がその原則から外れるといっても、「だから全部ダメ」とは思いません。
必要に応じて、憲法の一部を改正することはされるべきです。一部改正のチャンスが生まれるのであれば、そして、現行憲法の制定過程がどうしても気持ち悪いのであれば、一部改正のチャンスに、憲法の残りの部分について信認投票を行ってもよろしいでしょう。』
カーティス氏が聞き出した中曽根氏の意見が、私の意見の方法と一致しているのを知って意を強くしました。

一方、同じブログ記事の中に、2017年当時に同じ中曽根氏が発言した内容が記されています。
『憲法記念日を前にして自民党の会(新憲法制定議員同盟)
同じ会合で、議連の会長・中曽根元総理は、「明治憲法は薩長同盟という藩閥政治の力の所産であり、現行憲法はマッカーサーの超法規的力が働いたことを考えれば、憲法改正はその内容にもまして、国民参加のもとに国民自らの手で国民総意に基づく初めての憲法をつくり上げるという作業だろうと自覚する。」と述べていました。』

これは・・・、2013年にカーティス氏のインタビューで中曽根氏が述べた意見と異なっています。いったいどちらが本音なのでしょうか。
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甲府城訪問

2024-12-12 21:53:20 | 趣味・読書
12月9日、甲府城を訪問しました。前日の武田氏館・要害山城に続く、甲府周辺の城3つ目です。

②稲荷櫓


甲府城案内図
宿泊していたホテルから歩いてすぐのところに、甲府城の出入り口があります(上の案内図の右下)。
①稲荷曲輪から、②稲荷櫓を見ることができます。

②稲荷櫓

②稲荷曲輪の右横を通って、坂道を下りました。あじさい広場から見上げると、②稲荷櫓は高い石垣の上にそびえ立って見えます(下写真)。

②稲荷櫓

さて、ここから石垣に沿って城の外側を歩くことにしました。

③石垣(数寄屋曲輪)
③石垣は、数寄屋曲輪を見上げる石垣です。


④石垣(鍛冶曲輪)
④石垣は南東から鍛冶曲輪を、⑤石垣は南西から鍛冶曲輪を、それぞれ見上げる石垣です。


⑤石垣(鍛冶曲輪)
いずれにしろ、甲府城東側の石垣の見事さにはびっくりしました。石垣の上に白壁が形成されていることもアクセントになっています。

甲府城の外側東側をぐるっと半周し、南の⑥遊亀橋に至りました。下の写真、遠方に見える石の塔は、⑧本丸の西端にある謝恩碑(後述)です。

⑥遊亀橋

⑥遊亀橋から城を見上げると、石垣の先に⑦天守曲輪、さらにその先の石垣の上に⑧本丸を望むことができます(下写真)。

石垣


石垣(日本庭園から⑦天守曲輪の石垣を望む)

⑦天守曲輪から上の⑧本丸に向かって、鉄門(くろがねもん)が聳えています。

⑨鉄門


⑨鉄門

⑨鉄門から⑧本丸にいたって右側に、⑩謝恩碑が高く聳えています。ウィキによると、『この記念碑は明治40年の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設された。』『碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋の筆による。』『1923年(大正12年)に発生した関東大震災において、甲府市は震度6の揺れが発生し、甲府城も城壁の一部が崩れるといった被害を受けたが、謝恩碑には全く被害が無く、碑身が揺らぐこともなかったという。』とあります。

⑩謝恩碑

⑧本丸の東端に⑪天守台があります。

⑪天守台


⑪天守台


⑪天守台

⑪天守台から見た⑧本丸です。

⑧本丸


⑪天守台から東方向(広場)

⑪天守台と⑧本丸からは、四囲の山々を望むことができます。

     白河内岳     広河内岳       農鳥岳        間ノ岳

南アルプス
間ノ岳の右に日本第2の高さを誇る北岳がありますが、手前の山に隠れています。

       鳳凰山      仙丈岳              甲斐駒ヶ岳

南アルプス
東横インの真上が仙丈岳、その左が鳳凰山です。鳳凰山(鳳凰三山)には過去に登ったことがあります。

  赤石岳                              農鳥岳

南アルプス


富士山

       農鳥岳    間ノ岳        鳳凰山 仙丈岳   甲斐駒ヶ岳

南アルプス


⑫二の丸 武徳殿


⑬内松陰門


⑬内松陰門


⑭稲荷曲輪門


⑮四阿

甲府駅南口の広場には、下写真のような石組みが展示されています。甲府城の発掘調査によって発見された甲府城の一部、ということです。

甲府城の石垣の石積み

こうして、甲府城を一巡しました。

《甲府城の来歴》
甲府市にある甲府城ということで、武田信玄がつくったお城かと勘違いするのですが、そうではありません。武田氏が滅亡した後、徳川家康が1583年に家臣の平岩親吉に命じて甲府城の築城を企図したと言われています。甲府城の築城は豊臣大名時代に本格化しています(豊臣秀勝、加藤光泰)。その後、浅野長政・幸長時代に完成したようです。
江戸時代、柳沢吉保が城主となってさらに城と城下町の整備を行っています。
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武田氏館・要害山城訪問

2024-12-10 22:49:48 | 趣味・読書
12月8-9日で甲府に一泊旅行し、武田氏館、要害山城、甲府城を訪問しました。まずは武田氏館と要害山城です。

甲州といえば武田信玄、その信玄像が甲府駅南口に建っています。

信玄像

《武田氏館》
武田氏館は、甲府駅から北方向にあり、路線バス(北口2番乗り場から30分に1本)で移動します。

武田氏館跡案内図
上の案内図は、館の輪郭に現在の構築物を記載しています。武田氏館は主に主郭と西曲輪で構成され、主郭の部分には現在武田神社が建っています。西曲輪は更地になっていて、こちらのみが「城跡」らしい景色です。
バスを降りると、①橋を渡って主郭の②武田神社に至ります。下は①橋から西方の③堀を見た写真です。

③武田氏館外堀


②武田神社
スタンプは武田神社の宝物館にある、ということで、ゲットしてきました。後から、神社の授与所にもスタンプがあることに気づきました。
武田神社と武田氏館との関係がよくわかりません。城郭としての遺跡がどこに存在するのか、それを説明する案内図も見当たらず、武田氏館を説明するちらしも見つかりません。

④武田神社能舞台

とりあえず神社正面から西方向に歩いて行くと、まず④能舞台が見え、さらに進むと石垣の痕跡などが見えてきました。そこが、主郭から西曲輪へ抜ける⑤ルートでした。

主郭から西曲輪へ⑤
主郭と西曲輪の間には空堀があり、主郭と西曲輪は⑥土橋でつながっています。

主郭と西曲輪をつなぐ⑥土橋


西曲輪


西曲輪


⑦西曲輪北虎口
西曲輪の北の端に⑦枡形虎口の跡が残っています(上写真)。北虎口を出たところから先は平地になっており、現在は発掘調査が続けられているようです。平地の先は、山並みになっています。要害山城が設けられた山、要害山があるはずです。工事の人に、どの山が要害山か聞いてみました。内容については、この記事の最後の要害山城についての記述の中で述べることにします。

⑧西曲輪南虎口(中から)
西虎口を北から南に戻ります。南端には⑧枡形虎口の跡が残っています。

⑧西曲輪南虎口(外から)

⑧南虎口を出ると、そこは水を満たした⑨外堀です。⑧南虎口から⑨外堀を渡る⑩土橋を渡ります。⑩土橋から東方向を見たのが下写真です。③外堀の向こうに①橋が見えます。

⑨外堀

こうして、②武田神社前の①橋まで戻ってきました。何の案内図も見つからない中、行き当たりばったりで一周しました。
後から調べてみたら、いくつかの遺跡を見ないままでスルーしていました。⑪大手門、⑫主郭の北枡形虎口、などを見逃していました。⑬天守台が図面中に見られますが、この遺跡は現在は非公開のようです。

《要害山城》
武田氏館のさらに北方に位置する山城として、要害山城が続100名城の一つとしてカウントされています。今回、要害山城も訪問先として選んでいました。
甲府駅からの交通機関として、武田氏館へは30分に1本の路線バスが利用できます。しかし、要害山城は、その麓の積翠寺まで行くのにもタクシーを利用する必要がありそうです。また積翠寺から要害山城の最高地点まで行こうとすると標高差200m以上を登らなければなりません。
今回の旅行の直前、私は突然に背中の痛みを発しました。場所は、背中の骨盤上端の右側当たりです。前屈みで地面の物を拾う姿勢で特に痛みが走ります。筋肉の故障のようです。骨格筋ハンドブックで調べたところでは、腰方形筋の骨盤への付け根あたりがあやしいです。
そのような故障を抱えての旅行なので、要害山城については、スタンプだけをゲットして現地の山城には行かないこととしました。

要害山城スタンプ

要害山城のスタンプは、要害山城の近くに置いてあるのではなく、甲府駅南口前の藤村記念館(下写真)に置いてあるのです。

藤村(ふじむら)記念館
藤村記念館のすぐ近くに武田信虎像を見ることができます。

武田信虎像
銅像の説明によると、信虎は14歳で武田家の家督を継ぎ、乱国となっていた甲斐国を統一して戦国大名へと成長しました。武田氏館を築いたのも信虎であり、甲斐国の新たな府中である「甲府」を開きました。
今川義元を訪れた際、晴信(信玄)によって帰路を絶たれ、駿河国にとどまり隠居しました。
後継者となった信玄・勝頼が戦国大名として飛躍できたのは、甲斐国を一つにまとめ、甲府を開いて勢力基盤を整備した信虎の功績によるところが大きい、とのことです。

武田氏館の西曲輪の北虎口を出たところから、要害山を望むことができます。下の写真で、中央のやや手前側の山が要害山で、ここに要害山城が築かれていたようです。

要害山

要害山と躑躅が崎館(つつじがさきのやかた)跡
武田氏館は別名が躑躅が崎館(つつじがさきのやかた)でした。

《武田氏館と要害山城》
武田氏館(躑躅(つつじ)が崎館)は、武田信玄の父信虎が1519年に石和から本拠を移して築いた守護館です。以後、勝頼の新府城移転まで、親子三代、60有余年にわたって領国支配の中心として使用されました。
要害山城は、1520年に信虎が築いた山城です。武田氏館が居館と政庁を兼ねているのに対し、要害山城は緊急時に立てこもる詰の城としての役割を担っています。
1521年に今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退しています。この際、既に懐妊していた信虎の夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれています。

《食事》
甲府でのおいしい食事処について、甲府駅の観光案内所で情報を仕入れました。
昼食については、甲府駅北口にある小作でほうとうを食しました。私は茸ほうとう、妻は豚肉ほうとうを頼みました。二人とも「麺少なめ」としたのですが、それでも満腹になりました。

豚肉ほうとう


小作(甲府北口駅前店)

夕食については、甲府駅南口にある同じ小作に入りました。下写真のものを1品ずつ注文し、二人でシェアしたのですが、それでも多過ぎ、牡蠣フライの大部分はお持ち帰りすることにしました。

鳥もつ煮


山芋のふわふわ揚げ


おじやと牡蠣フライ

こうして、甲府の旅の1日目が終わりました。この日は城のホテル甲府に宿泊です。翌日は甲府城を訪問し、東京に帰る予定です。
以下次号
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