弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ドレスデン

2010-07-29 21:37:32 | Weblog
ゴールデンウィークの旅行では、ベルリンから鉄道でドレスデンへ移動しました。

ドレスデン中央駅から旧市街までは、トラムで移動します。その道すがらは、ドイツの地方都市なのですが、やはり旧西ドイツ地域のような豊かさが感じられない街並みです。
そして旧市街に到着すると、そこは中世がそのまま出現したような別世界なのでした。
 
エルベ川対岸からアウグストゥス橋とドレスデン旧市街

 
ブリュールのテラスから 旧宮廷教会と遠景にゼンパーオペラ

 
フラウエン教会

ドレスデンというと、第二次大戦中における連合軍の空襲で徹底的に破壊されたことで有名です。その空襲の状況については、今回の旅行に際して読んだ「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)で詳しく知りました。この本の紹介もいずれしたいです。
すぐ上の写真にあるフラウエン教会(聖母教会)、空襲で破壊されて完全な瓦礫の山と化し、そのままの姿で放置されていました。上の書籍には、瓦礫の山のすぐ近くで羊の群れが草を食べている写真が掲載されいてます。ネットではWikipediaで下の写真が見つかりました。再建が開始されたのは1990年代です。
聖母教会の廃墟、1991年

第二次大戦時の空襲直後のドレスデン市街を撮した写真として、市庁舎の塔の上から撮影した写真を上記の書籍で見ました。今回検索したところ、ウィキ英語サイトで見つけることができました。下の写真です。
Deutsche Fotothek‎/Blick vom Rathausturm

私はぜひ、その写真と同じ視角からドレスデンを眺めてみたいと思っていました。そのためには、市庁舎の塔に登らなければなりません。

市庁舎は旧市街の南にあります。南側の入り口から入ると、そこは市庁舎として機能しています。だから「旧市庁舎」ではありません。しかし塔への登り口が見つかりません。建物をぐるっと回ると、東側にも入り口があります(左下写真)。そこから中へ入ると、奥にホールがありました。丸天井です(中央下写真)。この丸天井の真上が塔に違いないと思われるのですが、残念ながら2階までしか上がることができませんでした。外から見る時計塔は右下写真です。時計塔がこれだけ黒いということは、空襲をまともに受けたそのままなのでしょう。
   
正面                 内部のホール                 時計塔

市庁舎のすぐ西に聖十字架教会があります。教会には、空襲を受けた直後の写真が掲示されていました。右下写真です。左下の現在の姿と見比べてください。聖十字架教会の外形と市庁舎の時計塔が倒壊せずに残っていたことがわかります。
  
アルトマルクト広場から聖十字架教会     聖十字架教会 空襲直後

今回私達が宿泊したのは、旧市街の真ん中、ドレスデン城と空中回廊で結ばれているケンピンスキーホテルです。このホテルの建物、ドレスデンがザクセン王国の首都で、アウグスト強王が統治していた時代、王の寵妃であったコーゼル伯爵夫人の居城であったタッシェンベルク宮殿でした。この建物も第二次大戦の空襲で破壊され、ホテルとして再建されたのはごく最近です。
ホテルの部屋のテレビで、破壊された直後のホテルの建物の映像が流されていました。右下写真です。
 
左がケンピンスキーホテル、右がドレスデン城    ケンピンスキーホテル空襲直後の姿

以上、ドレスデンと空襲との関連を中心にまとめてみました。
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ベルリン~ペルガモン博物館

2010-07-27 22:42:59 | Weblog
ベルリンの中では東に位置するところに、ペルガモン博物館があります。ドイツ統一前は東ベルリンの中でした。
この春のゴールデンウィークの旅行で訪問しました。
最近なにかと忙しくてブログネタ執筆の時間がとれないので、別のサイトに書いた旅行記を引っ張ってきてお茶を濁すことにします。

この博物館、ヘレニズム期(紀元前2世紀)の「ゼウスの大祭壇」、エーゲ海の古代都市ミレトゥスにあった「ミレトゥスの市場門」、バビロニアの「イシュタール門」などが代表的収蔵品です。この中の「ゼウスの大祭壇」と「イシュタール門」を紹介します。

《ゼウスの大祭壇》
小アジアのペルガモン(現・トルコのベルガマ)で建造された大祭壇が博物館内に再構築されています。1864年、カール・フーマンらが発見し、ドイツに持ち帰ったものだそうです。
1864年というと、年表によるとドイツはプロシャ王国、それもビスマルクが執政の時代です。トルコ帝国がどんどん領土を失っている時期でもあります。この時期にドイツ人がベルガモンの遺跡を発掘し、出土品をごっそりドイツに運び込んだと言うことでしょうか。
 
 ゼウスの大祭壇前景

展示室は当時のスケールで大祭壇の前景を再現し、そこに発掘品を嵌め込むようにして展示しています(上の写真)。大祭壇の裏面側相当部の発掘品については、壁に展示しています(下の写真)。

  
 ゼウスの大祭壇 裏面

上の裏面壁画にはストーリーがあるようです。左上写真はアテナ(ギリシャ神話の女神)、右上写真はヘレネ(ギリシャ神話中の女性)がそれぞれ敵をやっつけている場面です。ギリシャ神話の神々と巨人族との戦い(ギガントマキア)を表わしたものだそうです。

前景・裏側といっても、全体がわからないとイメージできません。下の模型を見ると良くわかります。
  
ゼウスの大祭壇の模型  前景                     裏面側

《イシュタール門》
バビロニアの古都バビロンの中央北入口の門を飾っていた装飾が博物館内に再構築されています。青い地の彩釉煉瓦でおおわれた壁面には牡牛やシリシュ(獣の体に鳥のような足、蛇のような首をもった、創造上の動物)を表わしています。バビロンの遺跡がなぜベルリンにあるのか、その点についてはよくわかりませんでした。
 
イシュタール門

イシュタール門と行列通りの位置関係については、右下の模型で確認してください。
  
行列通り                  古代バビロニアのイシュタール門と行列通りの模型

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小川和久著「普天間問題」

2010-07-25 18:53:26 | 歴史・社会
この1冊ですべてがわかる 普天間問題
小川 和久
ビジネス社

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この本は2010年4月1日に発行されたものです。
普天間問題について、この15年間に政府部内および米国との関係で起きていた事象を、その内情に迫って描写しています。小川氏が嘘を書くとは思えないので、内情をはじめて知ったとの印象を受けました。

沖縄県北部で「女児拉致・強姦事件」が発生したのが1995年9月です。その年の11月、日米両政府は日米安全保障協議委員会(SCC、通称「2+2」)のもとにSACOを設置し、沖縄にある米軍基地の整理・統合・縮小などについて検討することにしました。この過程で、日本側は普天間飛行場の返還を要求しますが、アメリカ側に拒否されてしまいました。
この直後、1996年3月、小川氏は独自の調査の結果、米国に再度要求すれば普天間返還は実現する、との感触を得ます。4月2日、東京で2週間後に予定された橋本龍太郎総理大臣とクリントン大統領の日米首脳会談に向けて自民党政務調査会の会合が開かれ、首相への提出メモを作成するための意見集約が行われました。招かれた小川氏は「普天間返還は可能」と自説を述べます。責任者の山崎拓・政調会長はしばし考え込んだ後、「総理に伝える」と確約しました。
世界 2010年 02月号 [雑誌]」によると、96年4月の橋本クリントン首脳会談において、普天間返還は当初議題に上がっておらず、橋本首相が会談の成り行きから突然話題に切り出したとあります。そこから普天間返還が動き出したのだと。96年4月12日、沖縄県大田知事に橋本首相から電話を受け取り「普天間を返させることになった」と告げられたとあります。『大田知事にとっては「青天の霹靂』だった。』
小川著書によると、『首脳会談直前の4月12日には、「日本経済新聞」が朝刊1面トップで「普天間基地全面返還に合意」とスクープ記事を放ちました。この時点で返還合意を知らされていた官僚は、外務省北米局審議官の他には外務省北米局長と防衛相防衛局長の二人だけだったはずです。』とあります。「世界」では橋本氏の言葉として「(一部報道が先行したため)代替施設の場所などについて例えば防衛庁が在日米軍のトップと連繋をとるとかいう余裕がなかった。」「いくつかの案を持って帰ってきてくれた人があった。しかし数日の差で、そういうものを整頓する時間を失ってしまった」とあります。先行した一部報道が、日経新聞でしょうか。この新聞報道があったため移設先選びを難しくした、と橋本氏は考えているようです。日経新聞も余計なことをしたものです。

その後、96年6月までに、小川氏は普天間飛行場の移設構想をまとめ上げました。その案とは、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建設し、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジアのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという構想でした。
自民党総務会長だった塩川正十郎氏に構想を話したところ、賛同した上でその日のうちに小川氏を梶山静六官房長官のもとに連れていきました。しかし梶山氏は小川氏の話を聞こうともしませんでした。

3年後の1999年に小川氏の構想を沖縄県北部の自治体首長たちの賛同を得ることになりますが、実現にはいたりませんでした。
自民党のある有力政治家は、「北部の首長たちは小川さんの構想に心酔しているが、それを進めると自分たちの立場がなくなると、官僚が抵抗したんです」と、小川氏の案で進めなかった理由を説明しました。しかし別の防衛官僚によると、そもそも“官僚の抵抗”など存在せず、この有力政治家が、普天間の利害がからむ別の政治家から頼まれて、それ以上、沖縄側と接触しないように小川氏にストップをかけ、事実を曲げて説明していたのです。

2005年6月、小川氏は当時の守屋武昌防衛次官と話し合います。普天間の「嘉手納統合案」を撤回してもらうためです。話し合いの結果、守屋氏は持論である嘉手納統合案を撤回すると約束しました。このとき守屋氏は、小川氏が返還合意以来この問題に関わっていたことをはじめて知った様子でした。
守屋氏はこのあと、積極的に陸上案を主張しますが、辺野古の普天間代替施設はズルズルと海側に引っ張られていき、現在のV字型滑走路案となっていきました。
『この背景には、埋め立てにからんで巨額のビジネスにありつくことができる業者の関与があった、というのが沖縄における定説です。有力な国会議員に対し、多額の政治献金が渡った結果だとされています。飛行場を海上に引きずり出し、少しでも埋め立て面積を増やそうとする動きは、最近まで続きました。』

小川和久氏がこのように普天間返還・移設問題に深く関わってきたとは。この本を読むまでは知りませんでした。

ここで対比のため、中央公論10年1月号「地元利権に振り回される普天間、日米同盟~守屋武昌・元防衛次官、沖縄問題の真相を語る」を読み返してみます。
「嘉手納統合案」について、守屋氏は「沖縄によって嘉手納に誘い込まれた」と表現しています。当時の大田知事・吉元副知事の革新系コンビという内政上の事情などを踏まえれば嘉手納統合案しかなかった、と守屋氏はいいます。
そして、米国の反対によって嘉手納統合案が潰れたということです。
97年頃、辺野古の沿岸水域にメガフロートまたはQIP(桟橋)を建設する案が政府から出され、それに対して地元の人たち、特に県が埋め立てを主張すると言うことがありました。
小泉内閣になり、防衛庁はシュワブ陸上案を提案します。当初は米国も陸上案に懐疑的でしたが、05年10月当時の大野功統防衛庁長官が頑張り抜いて米国と合意したのです。
しかし、地元は辺野古水域での埋め立て案を主張します。米国との合意後に防衛庁長官となった額賀志郎氏は、「住宅地の上を飛ばないようにするため、滑走路を2本作る。浅瀬の方に200mほど寄せることになり、埋め立て面積はその分増えることになる」と決断しました。06年4月に防衛庁長官と名護市長、宜野座市長が「基本合意書」に署名、5月には防衛庁と沖縄県が同じ内容の「基本確認書」に署名します。
しかし、沖縄はこれで交渉を終わらせません。「もっと浅瀬に施設を出してくれ」と新たな協議の必要性を言い始めます。このような沖縄県の行動を守屋氏は「前の合意を覆す、二枚舌ともいえる交渉を主張し、普天間移設問題の先延ばしを図っているようにしか私には見えない。」と述べます。

取り敢えず、小川和久氏の主張と守屋武昌氏の主張を対比してみました。長くなったのでこの辺で区切ります。
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マイケル・グリーン氏の発言

2010-07-22 21:16:22 | 歴史・社会
7月20日の日経朝刊「経済教室」で「同盟再構築~米国からの視点~下」と題してマイケル・グリーン氏(米戦略国際問題研究所~上級顧問・日本部長)が論評しています。
私自身が(ひょっとしてこうなっているのではないか)と懸念していたことが語られているので、念のためここにメモしておきます。この発言が正しいかどうかは今後の検証ですが、実態を表しているような気がします。

「米政府は、鳩山政権がとった一連の行動に衝撃を受けた。それは、アジアにおける米国の戦略を困難なものにし、同時に同盟国としての日本の信頼性を深く傷つけた。」

《東アジア共同体(EAC)構想》
オバマ政権内部のアジア通は、EACが目新しいアイデアではなく、さほど重大視すべきでないとわきまえていた。しかしアジアの友好国数カ国の首脳がホワイトハウスを訪れて鳩山構想に懸念を表明するにいたって、オバマ政権は心配し始める。中国と北朝鮮がやや強硬姿勢を強めているときに、日本の新政権は同盟の信頼性を弱めるつもりかと案じたのである。

《普天間基地移設問題》
2009年10月に最初の環境影響評価が完了し、仲井真弘多沖縄県知事と主要閣僚が計画推進に支持を表明した際、米政府は官邸がこの機をとらえ、重大事に発展しかねないこの問題をうまく処理するものと考えた。だが鳩山前首相は、最も事情に通じた専門家が「実現不能」と助言したにもかかわらず、県外移設を約束してパンドラの箱を開けてしまう。こうして自ら政治的危機を招いた末に、ついに7ヶ月後にはその助言の正しさを認めることになった。

《民主党の過剰な反官僚姿勢》
日本で起きたのは、官邸が政策立案の経験に乏しい評論家から過大な影響を受け、官僚を蚊帳の外に置くという事態だった。官僚は政策実行のための省庁間のすりあわせや米国との調整を行うこともできず、大局的な戦略的構想を練るべき閣僚級の人間が、課長補佐クラスのこまかい仕事をやることになった。

《小沢一郎前幹事長の影響》
小沢氏は安全保障政策、税金、金融規制などの問題に干渉する力を持ち、実際にもその影響力をたびたび行使した。ただしそれは国家の利益のためではなく、間近に迫った参院選で優位を確保するという、目先の戦術的目標のためだった。
---------以上---------

普天間問題については、なぜ鳩山政権があのような迷走を繰り返すことになったのか、その検証を行おうとしてまだ手が着いていません。今後の課題です。

鳩山政権と官僚との関係についてのグリーン氏の指摘は、私が懸念していた状況になっているとの指摘でした。すべての省庁が同じ状況であったわけではないでしょうが、少なくない省庁において行政が機能不全に陥っていたのでしょう。現在も続いているのでしょうが。
この点に関して、[田原総一朗のニッポン大改革]での田原氏と長谷川幸洋氏の対談長谷川幸洋・東京新聞論説委員 インタビュー vol.1「民主党政権は国民をなめていた」に、関連する面白い話が載っていました。
--------
長谷川:(管総理)が12月30日に基本計画をまとめ6月に成長戦略を出しましたけど、あの成長戦略の中身を見ると、あれは政府が、内閣が作った文章というよりは、経済産業省のお勉強ペーパーですよ。
田原:あれを見て、作った経済産業省の課長に言ったんです。「これね経済産業省のペーパーとしてはいいけど、農業問題、厚生労働問題、なんにも入ってないと。つまり縦割の一番悪い例だ」と。
田原:実はね、この経産省の幹部に、「なんでこんなもの作ったんだ」と僕は聞いたんですよ。そしたら、ほんとうはね、自民党時代こういうものを作るときには、経産省の局長だか課長クラスが財務省とも話をし、外務省とも話をし、当然農水省とも話をしてやったんだと。(民主党になって)脱官僚依存となっているから、まず大臣に言わなきゃいけない。ところが、経産大臣に言っても「ああそうか」と何にも反応がない。だから「内閣を刺激をするために我々は作ったんだ」と。それを(管総理が)丸のみしちゃったわけね。
--------
民主党政権は、政治主導で霞が関の縦割り行政を排除しようとの趣旨でしたが、実態は、政治主導の主役たるべき政務三役がむしろ弊害となり、縦割りがより一層ひどくなっている、というお粗末でした。
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「田中上奏文」とは何か

2010-07-20 21:06:03 | 歴史・社会
「田中上奏文」というのを聞いたことがあるでしょうか。

田中義一氏が日本の内閣総理大臣だったのは、1927年から1929年までの間です。この間のトピックスといえば、張作霖爆殺事件が1929年にありました。
張作霖爆殺事件については日本の陸軍が関与していたのではとの疑惑が持たれ、田中総理は昭和天皇に対して真相究明を約束していました。ところが田中総理はのらりくらりとしていたので、天皇は業を煮やして田中総理を叱責します。それが原因で田中総理は総理の職を辞し、さらにほどなくして亡くなりました。死因について、天皇から叱責されたことを気に病んだため、とされているようです。
昭和天皇は天皇で田中義一氏の死に責任を感じ、「これからは内閣を叱責することはしない」と決心してしまいます。これがため、以後内閣が戦争への道を転げていく決定をするたびに、天皇は待ったをかけることなく、日本は戦争へと突き進んでいくのでした。

1927年6月、田中義一首相は東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などを集めて「東方会議」を開催しました。中国は中国国民党と中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していました。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。そして満蒙(満州と内蒙古東部のこと)における権益は中国内地と切り離して、同地域の平和のために日本が責任をもって支配下に置くなどが決定された(対支政策綱領)とのことです(ウィキ)。

この東方会議の後に出現したのが「田中上奏文」です。
1927年7月25日に田中義一首相が昭和天皇に上奏したとされる怪文書であり、東方会議の内容を報告したものとなっています。
この文書は、広く世界に流布し、最近まで「田中上奏文は、日本が行おうとした世界侵略の計画書であり、その後に日本による侵略戦争はすべてこの計画に沿って行われた」と信じられていたようです。
しかし、私はほとんどその存在を知りませんでした。日本人で田中上奏文について詳しく知っている人はおそらく僅かでしょう。

以下の本が出版されていることを知りました。単行本なので、例によって図書館で借りて読んでみました。
日中歴史認識―「田中上奏文」をめぐる相剋 1927‐2010
服部 龍二
東京大学出版会

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「田中上奏文」は、中国語で2万6千字、邦訳で3万4千字の長文です。その中で有名なのは以下のくだりです。

「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先ず支那を征服せざるべからず。(中略)之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦(また)我が日本帝国の存立上必要事たるなり。」

田中上奏文が流布されだしたあと、満州事変が起こり、支那事変が起こり、太平洋戦争が起こるわけです。従って、後から「田中上奏文」の上記くだりを読んだ人は、もしこの文章の作者が日本政府以外であると聞かされれば「よくもまあ未来を正確に予測したものだ」と感心するでしょうし、この文章の作者が日本政府当局者であると言われれば「満州事変から太平洋戦争に至る日本の歩みは、田中首相時代に国策として天皇に報告されていたのか」と信じても不思議ではありません。

「田中上奏文」は、東方会議の直後から、中国語で書かれたものが中国において流布され始めます。
日本政府は、その内容に誤りが多いことから「偽書」と断定し、中国の国民政府に対しても「流布を取り締まるよう」申し入れます。当初は国民政府も偽書であることを認め、取り締まりに乗り出したこともありました。
しかし日本が満州事変を起こした後、事態は一変します。何しろ、「田中上奏文」に書いてあるとおりのことが実際に起こったのですから。

満州事変の後、国際連盟において中国は「田中上奏文」を引用して日本を攻めます。これに対して日本の松岡洋右主席代表は「偽書である」として反論するのですが、中国は以下のように再反論します。
「偽書であるかはともかく、『田中上奏文』に記された政策は、満蒙の支配や華北と東アジアにおける覇権の追求を説くものであり、数十年来に日本が進めてきた現実の政策そのものである」
満州事変勃発後ですから、聞いた人はこの中国の再反論に納得してしまうでしょう。

「田中上奏文」は日本を攻撃する材料としてより積極的に使われるようになりました。それは中国国内のみならず、アメリカでも、ソ連でも流布されていきます。
アメリカでは、国務省関係者は、田中上奏文の内容からしてこれが偽書である可能性が強いと認定していました。しかし太平洋戦争が勃発すると、米陸軍は戦争プロパガンダ映画を製作するに際しては、その中にこの田中上奏文を取り入れています。

「田中上奏文」は戦後の東京裁判にも影響を及ぼしました。東京裁判の国際検事局は当初、田中上奏文が本物と認識していたようです。それがために、A級戦犯の容疑として「共同謀議」が前面に押し出されたわけです。
鳩山一郎氏が公職追放になったのも、この「田中上奏文」が原因ではないかといわれています。
しかし、調べるうちに「田中上奏文」が偽書である疑いが濃厚になったせいでしょう、東京裁判では結局田中上奏文の扱いはうやむやのままに終わりました。

もし「田中上奏文」が本物であったのなら、昭和天皇も満州事変-支那事変-太平洋戦争という一連の戦争計画を1927年の段階で少なくとも黙認していたことになりますから、昭和天皇の戦争責任は免れません。
また、東方会議には吉田茂氏も奉天総領事として出席しているので、東方会議の内容が田中上奏文のとおりであるとしたら、吉田茂氏は少なくとも公職追放、下手をすればA級戦犯にもなっていたはずです。

第二次大戦の戦前・戦中から戦後にかけて、「田中上奏文」はヒトラーの「わが闘争」の日本版として喧伝されました。中国はごく最近まで、「田中上奏文は本物である」が通説となっていたほどです。

これほど歴史上重要であった文書について、私もほとんど知りませんでしたか、日本人一般がほとんど知らない状況であろうと思います。
服部龍二氏は、「田中上奏文」についてきちんとした研究書を残しておくべきと考えたのでしょう、上記図書を執筆したのでした。

さらに著書名に「日中歴史認識」とあるのには意味があります。
2006年から2010年にかけて、「日中歴史共同研究」がなされました。その日本側執筆者に服部龍二氏が参画し、報告書の第1部第3章「日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動」の日本側執筆者となり、田中上奏文の扱いについて執筆しているのです。
この共同研究において、「田中上奏文」がどのように議論され、現代の中国がどのような見解を有するに至っているか、という点がこの本の中で述べられています。
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管政権はもはや死に体か

2010-07-17 20:56:29 | 歴史・社会
16日に歯医者に行ったおり、待合室で週刊誌を読む機会がありました。週刊新潮と週刊文春がおいてあり、どちらだったか忘れてしまったのですが・・・。
参院選挙で民主党が惨敗した後、管直人首相の様子がおかしいです。毎日官邸に出てくる時間は遅くなるし、夕食も腹心の人としか食べないようです。選挙結果が相当に答えているようですね。本人は続投を宣言していますが、これでは首相としての執務を全うすることができないのではないでしょうか。
安倍政権の末期を思い出します。
参院選挙戦についても、小沢前幹事長は、本当に選挙情報を後任に引き継がなかったようです。その結果、選挙資金についても各候補に“均等に”ばらまくことになったということで、要するに危ない選挙区に重点的に精力を傾けるという選挙戦が全くできていなかったということです。
小沢氏は何を考えていたのでしょう。自分が実権を握っての選挙でなかったら、自分の党が敗北しても構わない、というスタンスだったのでしょうか。もしこれが本当だとしたら、こんな人には絶対に政権は渡したくないです。

そして一方では、民主党政権の目玉だった国家戦略局からとうとう撤退するのですか。
国家戦略室の機能、大幅縮小へ=首相への助言機関に特化―政府
7月15日19時31分配信 時事通信
『政府は15日、重要政策に関する各省間の調整機能を担ってきた国家戦略室の役割を見直し、首相に対する助言機関へ変更する検討を始めたことを明らかにした。政策の決定プロセスにおける同室の機能は大幅に縮小することになる。菅直人首相が指示したもので、政府として近く結論をまとめる。
機能の見直しは、仙谷由人官房長官と平岡秀夫内閣府副大臣が同日の記者会見で語った。
仙谷官房長官は、同室が担当してきた「税財政の骨格」や社会保障と税の共通番号制度などを含む政府内の調整作業のほか、地球温暖化や雇用問題の政策テーマについては「やらなくてもいいようにする」と述べた。そうなれば、重要政策の取りまとめ作業は官房長官を中心に関係閣僚が担うことなる。』

官僚の縦割り行政を是正するためには、政治が主導して省庁横断の政策を立案していかなければなりません。そのような改革は必須なのであって、民主党政権はそれを“国家戦略局”で実現するという触れこみでした。
霞が関に対して力を持つためには根拠の法律が必要なのに、鳩山政権はそれを半年ほども先送りし、やっと法案ができて閣議決定したと思ったらその法案は官僚によって骨抜き法案とされており、それもその後廃案になりました(国家戦略局はどうなっているか)。そしてとうとう「国家戦略局」構想から撤退ですか。
これでは、「脱官僚依存」から完全に撤退して、管政権は霞が関に白旗を掲げたようなものです。
こんなことなら、経済財政諮問会議を用いて政治主導をめざした自民党政権の方がよっぽどましでした。今からでも遅くはありません。経済財政諮問会議の法律は生きているのでしょうから、こちらを復活させたらいかがでしょうか。

やる気を失ったかのような管総理の最近の様子、小沢一郎氏の選挙での振る舞い、国家戦略局を止めにしたという発表などを見聞して、“これはもう管政権は死に体か”との感想を持つに至りました。

そうしたところ、高橋洋一氏の論説に触れました。

「国家戦略局断念」で露呈した菅政権内での「権力交代」~参院選で惨敗直後の安倍政権とそっくり(高橋洋一「ニュースの深層」)
『国家戦略室を縮小するということは、官邸内で仙谷由人官房長官の権限を拡大することになる。一方、本来国家戦略室が行うとされていた予算の基本方針などは財務省が行うこととなる。
そもそも荒井聡国家戦略相や平岡秀夫国家戦略室長は菅グループの腹心である。彼らを予算編成から外すというのは、菅政権において、菅直人総理は裸状態になったのだ。
これは、財務省がすでに菅直人総理を見切り、仙谷由人官房長官をサポートし、同氏を実質的な権力者にしたてつつあることを意味している。もはや菅総理は死に体であり、菅政権が仙谷管理内閣に移行しているのだ。』

9月の民主党代表選で小沢一郎氏がどのような出方をするのかわかりませんが、どちらにころんでも国民にとっていい話はなさそうです。
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ブランデンブルク門~今と昔

2010-07-15 21:30:30 | Weblog
今年5月のゴールデンウィーク、私は妻と二人でベルリン~ドレスデン~プラハを回ってきました。
最初の訪問地であるベルリンは、たまたまドレスデンへ行くための経由地ということで、半日ほど滞在したのみですが、ホテルの近くということで、ブランデンブルク門とペルガモン博物館を中心に見て回りました。

ブランデンブルク門は、ベルリンを東西に走る大通りであるウンターデンリンデンをまたぐように設けられた門です。下の写真で見るように飾り気のない門です。プロイセン王国の凱旋門として18世紀末に立てられました。この門がなぜ有名かというと、東西ベルリンがベルリンの壁で分かたれていたとき、このブランデンブルク門がまさにその壁の位置だったからです。
下の「ブランデンブルク門(現在)」という写真が、今回撮ってきた写真であり、ブランデンブルク門を東から見ています。
そしてその下の「ブランデンブルク門(ベルリンの壁があった頃)」は、1987年、まだ東西ドイツが分離していた頃、東ベルリン側からブランデンブルク門を撮った写真です。

1987年当時、私はシリコンウェーハ会社の技術者をしていました。当時我が社をご指導いただいていた東北大の角野先生からお誘い戴き、東ドイツで開かれた学会に出席しました。東ドイツの東の端に近い田舎で、1週間にわたって国際会議が開かれたのですが、そのおりに東ベルリンを訪問しました。このときに撮ったのが下の写真です。
門のすぐ向こうに白い壁が見えます。それが「ベルリンの壁」です。ベルリンの壁とカメラを構えた位置との間は無人地帯になっています。若し私がこの領域に入って壁に向かって走ったら、あっという間に取り押さえられるか、下手をすれば射殺されていたはずです。
ということで、「ベルリンの壁を東側から見た」というのは私の自慢の一つなのでした。
 
ブランデンブルク門(現在)

 
ブランデンブルク門(ベルリンの壁があった頃)

ところで、今回の訪問で宿泊したホテルは、昔の東ベルリン市内に位置するWestin Grand Hotelというホテルでした。その玄関を出たすぐのところに、ベルリンの壁の一断片が置いてあった(下写真)ので、記念写真を撮りました。

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90歳でiPadを使えるか

2010-07-13 21:52:30 | サイエンス・パソコン
先日も報告したように、「iPadならパソコンに無縁だったお年寄りにも使えるのではないか」との考えからiPadを購入しました。私の90歳になる母親にプレゼントするためです。
しかし、本人がiPadの操作を受け付けるかどうかは、トライしてみないとわかりません。
まずは、最低限必要な操作方法について、手書きですがマニュアルを作りました。こんな感じです(pdf)。
iPadの機能のうち、使ってもらうのは、本体内のコンテンツとしては「写真」「ビデオ」の二つ。マニュアルには、本体のオン-オフ、ホーム画面への戻り方、充電方法、ビデオの見方、写真の見方などについて説明を書きました。
インターネットもひ孫の写真や動画を格納したプライベートサイトのみです。まず「インターネット」の概念からです。本体内に格納されたビデオと、インターネットで閲覧するビデオの違いを理解してもらうのは至難です。最終的には理解してもらわなくてもいいのですが。取り敢えず、マニュアルの2ページに「iPad-Safari(ブラウザ)-インターネット」の概念図を書いてみました。

そして母親が、iPadに初お目見えです。「これは何?」との質問に対しては「まずはやってみるから、その次は自分で触ってみて」と言って先へ進みます。
電源オン・オフの方法、iPad本体内に格納したビデオの見方、次のビデオへの進み方、などを、時間をかけて実際にやってもらいました。
なかなか「うん、わかった」というところには行きませんが、取り敢えず「私には無理」と投げ出すことはなく、試行錯誤しながら「何とか今日はビデオの操作だけは覚えた」ということで、無難な滑り出しでした。
 
 ホーム画面を操作                  写真の一覧を操作

インターネットについては、その家の上の階に設置された無線LANに接続したのですが、電波が弱く、また転送速度が遅かったので、どうもインターネット上のビデオの再生には苦労しました。取り敢えず母親の理解もインターネットまでは及んでいないので、本日はこれで良しとしました。

初日としては無難な滑り出しで、拒否反応も示されず、これで親しんでくれるとありがたいです。「この類の機械を私が操作するのは絶対に無理」という意識でいた人です。本当にiPadが出現して世界が変わるかもしれません。使うことによって頭の体操になるでしょうし、ひ孫の成長を楽しみにしてもらえればありがたいことです。

もう一人、85歳になる家内の母親にもiPodを準備しています。まだその本体は本人のもとに届いていないのですが、先日家内が当方のiPadを持参して触ってもらいました。こちらは最初からものすごく積極的で、よろこんでもらえました。自分用のiPadが到着することを心待ちにしています。携帯でメールもするしニンテンドーDSも使いこなすおばあちゃんですから、心配はしていなかったのですが。

さらに私はもう1台のiPadを購入しました。88歳になる私の叔父にプレゼントするのです。35年ほど前にゼンザブロニカを安く譲ってもらったあの叔父さんです。こちらについては、6月25日にアップルストアに注文したものが7月1日には到着しました。1週間ですよ。発送拠点も、前回のように中国深せんではなく、日本国内でした。国内在庫状況がちょっとの間にずいぶん改善されているようです。7月11日に設定がてら届けました。無線LANの接続がうまく行かなかったのですが、その後連絡があり、無線LANルーターのバグ問題を解決した結果インターネットにも接続したようです。
写真が趣味の叔父さんなので、取り敢えずは写真をiPadに転送しました。こちらについても、私がiTunesの使い方に慣れないので結構苦労しました。

こうして私の周辺では、85~90歳のお年寄りに3台ものiPadが配られたのでした。
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サッカー日本代表~チームはこうして甦った

2010-07-11 10:08:31 | サッカー
7月10日、NHKスペシャルサッカー日本代表~チームはこうして甦(よみがえ)ったを観ました。

5月までの段階では日本代表はとても弱そうだったのに、本大会でなぜあれだけの力を発揮できたのか、という観点で、日本代表を追いかけたドキュメンタリーです。

選手の証言によると、最終合宿が始まる頃、やはり選手間の会話は少ないしムードは悪かったようです。

その状況を変化させる最初の端緒が、選手だけでのミーティングだったとのことです。このミーティング、川口選手が発案したそうですね。川口を代表に招集するという岡田監督の采配が当たったといえます。
このミーティングは時間の経過とともに議論が白熱し、選手たちは本音を語るようになりました。特に年配の選手が思いを語ることで、若い選手が刺激を受けたようです。
ある選手(誰だったか忘れた)の感想として、代表の各選手は所属チームではエースであり、それぞれがプライドを持っているが、そのプライドを捨てることができた、と言っていました。
こうして最終合宿を経て、選手たちは団結し、ひとりひとりが戦う気持ちを高揚させたということです。

今回、攻撃を任された3人、本田、大久保、松井は、湯浅健二氏が「ボールがないところでの無駄走りが少ない」といって常に批判していた3人です。このような気持ちのメンバーが2人入ると、それがチームの他のメンバーに伝染するので皆走らなくなる、ということでした。そのようなメンバーを2人どころか3人も入れたのです。
ところが本番が始まってみたらどうでしょう。3人とも、今までになく走り続けたようです。このような気持ちの変化の源泉がどこにあったのか、興味深いテーマです。

走り続けるといえば、大会直前までの日本代表は、監督の方針が「90分間走り続ける」ということで、とにかく走り続けるのですがそれも70分まで、そこで力尽きていました。ところが今回、私もカメルーン戦、オランダ戦、パラグアイ戦を見ましたが、決して70分で力尽きているようには見えませんでした。パラグアイ戦は120分間です。
なぜここまで走り続けられたのか。
気持ちの変化だけで走り続けられるものなのか。そこも興味があります。
この点については、後で述べる高地トレーニングが奏功したのかどうか、という観点もあります。少なくとも、高地トレーニングを除いたら、日韓ワールドカップのときに韓国チームが行ったような心肺機能強化訓練はしていなかったと思います。

“本田が進化した”というテーマも取り上げられました。
今までの本田圭佑は、「自分は自分の持ち味を発揮することがチームのためになる」というスタンスでした。映像は、ドリブル突破を試みようとして失敗する本田の姿を流していました。それが本大会になって、チームの他のメンバーを生かすことによってチーム全体の力を発揮させる方向に変化したということのようでした。
カメルーン戦で得点した後、本田が控え選手の環に飛び込んでいった、という光景についても、日本選手団と本田それぞれの進化として捉えていました。

高地トレーニングについて、番組では三重大准教授の杉田正明氏がチームに帯同したことを紹介していました。最初の検診で肝臓の貯蔵Feが不足している選手が何人かおり、これでは高地順応が難しいということでサプリメントを処方したそうです。
岡田監督が求めた高地適応力 低地でも低酸素マスクを着けろ!スポニチ[ 2010年07月07日]にはより詳しい記事が載っていました。
5月10日にW杯メンバーを発表した後、酸素濃度を低くできる低酸素マスクセット(7万~8万円)を用意して全選手に配布し、一定時間のマスク着用を義務づけたそうです。標高1800メートルの高地スイス・ザースフェー合宿(5月26日~6月4日)が始まる前から高地トレーニングをはじめていたのですね。ベースキャンプ地ジョージは低地だったため、マスク使用は南アフリカ入り後も継続されました。
5月21日の国内合宿開始から三重大准教授の杉田正明氏が全日程に同行。選手は毎朝の検尿や脈拍数の計測で、3段階に分けて疲労度を把握されました。岡田監督は「杉田先生が示す指標では、肉体的疲労と内臓の疲労が両方ある。内臓疲労は後からくる。今までは肉体が戻れば練習していたけど、もう少し我慢する必要があると教わった」と説明。1次リーグ初戦カメルーン戦を3日後に控えた11日を異例の完全オフにするなど、データを参考にして臨機応変に練習量を調整しました。

日本の1次リーグ3試合の総走行距離は出場32チーム中2位(331・45キロ)を記録しました。「70分しか走れない」と思われていた日本代表がすごい変化を遂げたものです。これが、今回の直前高地順化トレーニングのお陰なのか、さらに「気持ちの変化」が加わったためなのか、興味深いテーマです。

今回の日本代表における大会直前の準備、前回のドイツW杯の反省が生きているといえるようです。
ドイツ大会では、中田英がチームを引っ張るものと期待されました。しかし、雑誌「ゲーテ」の記事に書いたように、中田による指導はチームをまとめるどころか、チームに亀裂を生む要因にさえなったようです。
「中田と代表メンバーとの亀裂は徐々に広がり断層にまでなっていた。
この代表において中田は周囲から浮いた存在だった。
激しく叫び、選手に呼応することを求める中田の激しさを見て「痛い人」と呼んだ者もいる。」
これに対し今回は、年齢上位の選手が率先してチームをまとめる努力をしたようです。川口、闘莉王などでしょうか。中澤も前回大会で辛い思いをしているので、今回は一皮むけていたかと思います。ドイツ大会の反省の結果と思われます。

前回大会では、先発組と控え組との間の亀裂が大きかったようです。特に控えに回った小野伸二の態度が良くなかったようです。
それに対して今回は、先発組と控え組との間の融和に努力がされたようです。新聞報道を見る限り、控えに回った中村俊輔などが、腐ることなく先発組に情報を伝授していたとのことです。得点した直後に本田圭佑が控え組に飛び込んだ光景もその文脈で語られるのでしょう。

日本代表は全力で戦ったかにも書いたように、ドイツW杯で日本選手は90分間全力で走りきらなかったと評価されています。確かに試合の後半に日本選手の足が止まっていましたが、それが酷暑のせいだけではなかった、というのです。
それが今回は、観戦していても日本選手の足が止まっているようには見えませんでしたし、データでも走行距離で全チーム中2位ということです。
前回と今回のこの差はどこから来るのか、ぜひ解明してほしいところです。心理的要因、直前トレーニングの効果などによるのでしょうが。

私は高校時代にサッカー部に所属していまして、たまたま部員数が少なかったので2年生のときの全国大会東京都予選ではレギュラー選手でした。私がレギュラーになるぐらいだから弱小チームです。ところが、全国大会予選ではどういうわけかとんとんと勝ち進み、とうとう準決勝までコマを進めてしまったのです。準決勝では城北高校に負けましたが。
あのときは自分でも不思議でした。私よりも上手な一年生選手から「ボンゴレさん、いいプレーしていますね。自信がついたようですね。」と誉められたりしました。
何かの拍子で、チームに弾みがつくことがあるんだ、と実感した憶えがあります。今回の日本代表に、私は当時の我が高校チームがダブって見えるのでした。

さて、本日は参院選挙投票日です。これから投票に行ってきます。
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HAYABUSA -BACK TO THE EARTH

2010-07-09 19:15:44 | サイエンス・パソコン
娘が「HAYABUSA -BACK TO THE EARTH- DVD-VIDEO版」を貸してくれました。上坂監督のサイン入りですよ(右下写真)。はやぶさの絵がかわいいですね。
 

このビデオ、アマゾンでは見つかりませんでした。HAYABUSA -BACK TO THE EARTH- ホームページHAYABUSA -BACK TO THE EARTH- Blu-ray版 / DVD-VIDEO版に案内があります。また、YouTube予告編も見ることができるようです。

はやぶさの出発からイトカワタッチダウンを経て地球帰還までを描いたコンピュータグラフィックス映画で、本編43分の他、メイキング映像22分が収納されています。

映画が完成したのは2009年で、まだイオンエンジンが致命的ダメージを受けたこともそれを起死回生のアイデアで乗りきったことも知られていなかったかもしれません。少なくともシナリオ段階はそれよりもずっと前です。
映像では、はやぶさとカプセルの地球再突入の様子が登場します。想像で描いたのでしょうが、はやぶさとカプセルの光点の位置関係を除いたらその後の現実の姿とよく合っていました。ウーメラ砂漠に着地したカプセルの姿など、そっくりでした。
JAXAからは当初、はやぶさが流れ星になる映像は入れてくれるな、との指示だったそうです。オーストラリアからまだ着地許可が下りていない頃で、オーストラリア国民を刺激したくない、という配慮があったそうです。しかし昨年11月に川口PMを交えて試写をする際に、映像を差し替えてはやぶさも流れ星になる映像を流しました。それを見た川口PMの「いいんじゃないの」という一言でOKが出ました。その頃にはオーストラリアの理解を得ていたからだそうです。

CGはリアルに仕上がっています。1回目のイトカワ着地直前の不安定な姿勢制御、2回目の着地時におけるサンプル採取管の変形の様子など、CGを見てはじめてリアルに体感できました。地球帰還を目指す満身創痍のはやぶさについては、太陽電池パドルの一方の辺が汚れており、1回目着地後の意図せぬ15分間の接地状況を物語っています(想像でしょうが)。
はやぶさがM-Vロケットで打ち上げられ、1年後に地球スウィングバイを行う前後までの軌道については、静止画で見せられても全然ピンと来ません。今回、地球-イトカワ-はやぶさの軌跡を動画によって追跡することができ、やっと動きが実感できました。
地球スウィングバイについても、はやぶさが通過すべき軌道の許容限界として、軌道上に連続して四角枠が並べられ、はやぶさはその枠を順次通過していきます。限られた狭い回廊を正確に辿っていくはやぶさの様子が再現されていました。

私はやはり理系なので、以下のようなポイントではやぶさが脳裏に刻まれています(去年11月よりも前の段階)。
・タッチダウン後に人事不省に陥ったときも、自らの特性として“スピン安定モード”で姿勢を保持するに至った。
・2個のリアクションホイールとすべての化学エンジン姿勢制御を失った後、イオンエンジンを用いての姿勢制御システムを作り上げた。
・リチウムイオン電池が過放電で機能不全に陥ったが、知恵を絞って機能を回復し、サンプルをカプセルに収納することができた。

映像ではそれらの事象については語られず、それはもちろんこの映画の趣旨に基づいているのですからそれでいいのですが、ちょっと寂しかったです。

それではここで、「はやぶさと私」の軌跡を記しておきましょう。

2006-03-09 「はやぶさ」は生きていた! タッチダウン後に人事不省に陥っていた満身創痍のはやぶさと、通信が再開できた。
2006-06-04 はやぶさとイトカワ 科学雑誌「サイエンス」特集と、Space Pioneer Award を受賞した様子
2006-09-08 はやぶさの近況 イトカワの観測結果から、小惑星が日焼けすることが分かった
2006-12-03 はやぶさの近況
2007-01-30 はやぶさ着々と帰還準備 リチウムイオン電池の復旧、サンプルをカプセルに収納成功
2007-04-05 いよいよ4月中旬に「はやぶさ」地球へ帰還開始! イオンエンジンによる姿勢制御システムを完成し、地球に向けての長旅が始まる直前
2007-06-03 「はやぶさ」の大いなる挑戦!! NHK教育テレビが、ハンカチ王子の影響で科学技術映像祭の入選作品放映を2度も延期
2007-11-25 日本の人工衛星たち 地球へ帰還中のはやぶさと「はやぶさ物語」
2007-12-18 東京大学「異星の踏査」展
2008-04-20 宇宙研と糸川英夫
2009-02-05 「はやぶさ」イオンエンジン再点火
2009-11-12 はやぶさ! がんばれ!! 4台のイオンエンジンすべてが不調に
2009-11-23 立ち直った!はやぶさ 「そのなこともあろうかと」事前に用意していた回路を用い、イオンエンジンが復活した
2010-01-14 「はやぶさ」地球引力圏突入が確実に
2010-02-26 「はやぶさ」いよいよ月軌道の内側へ
2010-03-11 「はやぶさ」最後の正念場が近づく
2010-03-25 「はやぶさ」が目指している軌道
2010-05-10 「はやぶさ」の近況
2010-06-06 「はやぶさ」針路をオーストラリアへ
2010-06-10 「はやぶさ」軌道修正を無事完了
2010-06-13 はやぶさとカプセルの大気圏再突入を確認
2010-06-14 「はやぶさ」帰還から1日
2010-06-16 もしもはやぶさがカプセル回収に成功していなかったら
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