弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

武田善憲「ロシアの論理」

2010-11-30 23:27:28 | 歴史・社会
特許庁は30日に産業構造審議会(経済産業相の諮問会議)の特許制度小委員会を開き、来年の通常国会への提出を目指す特許法改正に向けた基本方針について、有識者委員からおおむね了承を得たとのことですが、産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会のサイトにはまだ情報が上がっていないようです。

今日はその話ではなく、ロシアについてです。
ロシアの論理―復活した大国は何を目指すか (中公新書)
武田 善憲
中央公論新社

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今年8月発行の本です。
先日のメドヴェージェフ・ロシア大統領の北方領土訪問の衝撃があったことから、タイムリーな本になりました。
著者の武田善憲氏は、現役の外務官僚で、1973年生まれ、本の後付では「外務省軍縮不拡散・科学部軍備管理軍縮課課長補佐」とあります。
ロシアを専門とする外務官僚として、ロシアを分析することを専門としているようです。専門家として知り得た事実のうち、外交秘密に属しない部分をピックアップして新書にしたのでしょう。

プーチンが大統領になった当初は、そのこわもての容姿とKGB出身という経歴やチェチェン戦争を主導したという事実から、ロシアは恐い国になるのではないかとの先入観を抱いていました。また、エネルギー価格の高騰で一時は成長著しかったものの、経済危機後は成長も鈍化しているのではないかと勝手に想像していました。
しかしこの本を読んでみると、たしかにエネルギー価格高騰を追い風にしてはいるのですが、プーチンが大統領であった8年間に、ロシアという国はすっかり変貌し、豊かで成長力に富み、世界情勢に影響を与える大国になっているようでした。
それは、プーチンの風貌と経歴から想像されるような恐怖国家ではありません。

この本では、ロシアが進もうとしている道を見出し、その背後に存在するゲームのルールを読み解くという方法を使っています。著者が描き出すロシアのゲームのルールとはどんなものでしょうか。ここでは箇条書きでピックアップしてみます。

○ ロシア政治に関与するアクターに課せられた不文律は、政治的野心を抱かず、ただ実務的に職務をこなすということである。
○ 外交では、米国一極主義を排し、自らの対外政策を「多極主義」というゲームのルールに従い、中国及びインドとの協力の強化や、これまでロシアとの利害関係が薄いと見られていた地域への積極的なアプローチを行い、国際社会での存在感を高めている。
○ 経済分野では「正しく納税せよ」という基本ルールに従いながら、国家権力側の意図を読み取りながら経済活動を進めることが求められる。「納税し、合法的にビジネスを行い、政治的野心を持たなければ自由に活動して構わない」
○ エネルギー分野、特に化石燃料資源は「戦略的分野」として特別な扱いを受け、「資源は国家のもの」というルールが機能する。
○ ロシア国家の一体性、国民性の統合を目指す上での軸となるゲームのルールは、「優先的国家プロジェクト」と宗教(ロシア正教)である。

プーチン大統領(当時)は、憲法が定めた制度が大統領としての行動原理であること、ルールや手続きに沿った統治を心がけ、そして実践していることを繰り返しアピールする大統領でした。
ロシア憲法は大統領の三選を禁じています。2期目末期の大統領後継問題において、プーチンは憲法改正という荒療治を行わず、大統領職をメドヴェージェフに移譲しました。そして、ロシア国民との関係において「発言にぶれのない、首尾一貫したリーダー」というイメージを植え付けます。
プーチンは「国民との対話」で優れた能力を発揮しました。2~3時間にわたり、あらゆる政治課題についてカンニングペーパーを見ることなく答え続けることができます。G8の首脳の中でこのレベルのパフォーマンスをできるのはプーチン一人であった、としています。

プーチン大統領時代は、プーチンが一人だけで最終決定を行っており、メドヴェージェフ大統領時代は2人だけで最終決定を行っています。そして二人ともきわめて口の堅い男たちなので、側近を通じてロシアの政策決定過程を分析することは不可能となりました。

外交においてロシアは多極主義を目指しています。
イラク戦争に際しては、ロシアは安保理においてアメリカのやり方に対峙したわけですが、その後のイラク戦争の推移の結果、ロシアは賭に勝ったことになります。勝利の報酬は、国際政治におけるロシアの地位の向上でした。
プーチンの二期目において、プーチンは成長著しいロシアの強いリーダーとして行く先々で厚遇されました。
グルジアとの武力衝突では、日本の新聞紙上ではロシアを非難する論調ではありましたが、現時点で状況はロシアにとって決して不利ではなく、最近の展開を見る限り、時間はここでもロシアに味方しているといいます。

サハリン2
ソ連政府による国際入札の結果、1994年にロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事の三者がロシア政府と協定を締結しました。出資比率は英蘭シェルが55%、三井物産25%、三菱商事20%です。ところが2006年9月、ロシア政府は環境アセスメントの不備を指摘し、突然開発の中止命令を発出しました。2007年4月、ロシア・天然資源省はサハリンエナジーの環境是正計画を承認。ロシアガスプロムがサハリンエナジーの株式の50%+1株を取得し、英蘭シェルが55%から27.5%-1株に、三井物産25%から12.5%、三菱商事20%から10%に減少となりました。
著者の武田氏はさまざまな人にサハリン2についてヒアリングしましたが、聞けば聞くほど何が真実だったのかわからなくなるということです。
『そこで本書では結果だけに注目してあえて単純化し、「外国企業が100%の権益を占める」というプロジェクトをロシアから消し、新しいゲームのルールを確立するための一件だったと整理することにする。』「ロシア領内にある限りはロシア企業が最低でも50%+1株を獲得するべきである」というルールです。

さて、本書を通じて「ロシアと日本外交」についての指針が欲しかったのですが、残念ながらそのような観点での論述がありません。やはり現職の外務官僚として、その点は刊行物で公開することのできない領域だったのでしょうか。

北方領土問題と日本外交でも書いたように、日本の官邸と外務省による対ロシア外交は瀕死の状態にあるように見えます。そんな中、本書の著者である武田善憲氏が力を発揮することは可能なのでしょうか。現在の役職を見る限り、対ロシア外交の第一線にいらっしゃるわけではなさそうです。
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東京の街中に残る川の痕跡

2010-11-28 10:11:48 | 杉並世田谷散歩
日経新聞11月18日夕刊「らいふプラス」の欄に
「街探検、川の跡 見~つけた/ネットで古地図と現在比較」
という記事が載っています。

『普段、何気なく歩いている近所の遊歩道。そこが実は、かつて川だった、と聞くと驚く人が多いのではないだろうか。都市化に伴い、日本全国の多くの地域で、小さな河川は暗きょ化され、道路や遊歩道に生まれ変わっている。だが、注意深く歩くと、川だった時代の痕跡があちこちに見つかる。インターネットも活用しながら、身近な場所で、懐かしい過去の風景に思いをはせる。こんな趣味が静かに広がっている。』

何を隠そう、私も隠れ川跡フェチなのです。
杉並・世田谷の道々を散歩で回って、「ここは昔のどぶ川の跡ではないか」という怪しい路地が見つかるとわくわくし、その路地に分け入っていきます。
どのような場所が川跡かというと、
○ ものすごく狭い路地だが、くねくねとどこまでも続いている
○ 両側が段になって高くなっているところが多く、いかにもその路地が昔どぶ川だった風情である
○ 道路と交差する箇所に自転車止めの柵があり、「遊歩道」と書かれていることが多い
などの特徴を備えているところです。

杉並・世田谷は、戦前から終戦直後にかけては畑だったところが多く、畑の真ん中をくねくねと流れていた川が、その後の宅地化の時代にもそのまま川として残り、最後にどぶ川に蓋をされて暗渠化した、ということでしょう。暗渠になった後もそこは空間のままで残り、今では遊歩道と名前を変えて路地として残っているのです。

杉並の善福寺川北岸にある川跡を一つ紹介しましょう。
このグー地図を開いてみてください。
地図の真ん中あたりに、南北にくねくねと鎖線が走っています。この鎖線は、成田東一丁目と松ノ木一丁目との境界を示す線なのですが、同時に私が紹介しようとする川跡路地の位置をも示しています。この線に沿って歩くと、人がすれ違うのがやっとという狭くてじめじめした路地に入り込み、そしてその路地が延々とどこまでも続くのです。南の和田堀公園から北上した場合、五日市街道と交叉したあたりまで続き、そこで消滅しています。

ネットで検索したら、この川跡、善福寺川 リバーサイド Blog松ノ木支流という名称で紹介されていました。

日経新聞記事では、川跡の探し方をいくつか紹介しています。その一つは、過去の航空写真を見ると、川は黒い筋のように写っているので見つけることができるというものです。グー地図が便利だとしています。それでは上のグー地図をもう一回見てみましょう。この地図に「昭和22」「昭和38」というボタンがありますが、このボタンを押すと、その当時に撮影された航空写真に切り替わります。今回紹介した路地はとても細い川の跡なので、さすがにグー地図でも川として認識することは困難なようです。

ところで、村上春樹著「ねじまき鳥クリニクル」に路地が登場します。主人公の家のブロック塀の向こうにある路地で、長さは300m、主人公の僕が笠原メイに出会い、古い井戸を見つけたあの路地です。今は入り口も出口もありませんが、昔はあったとのことです。私はこの路地も、川跡であるに違いないと踏んでいるのですがどうでしょうか。
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伊豆大島上空から東京湾の夜景を見た

2010-11-25 22:13:39 | Weblog
11月11日は日帰りの大分出張に出かけました。往復飛行機です。
往きは、すでに最後尾の通路側座席しか空いておらず、そこに座りました。乗った飛行機は胴体尾部の両側にエンジンが付いており、最後尾の座席はエンジン音でうるさいのです。たまたまノイズキャンセリングヘッドホン付きの再生機を持っていたので、それを活用して乗りきりました。
一方帰りは、たまたま“クラスJ”という座席を予約しており、最前列の左窓側の席が取れたのです。たった千円しか違わないのに、エコノミーとビジネスほどの差が感じられます。
出発は18時45分でした。天気は快晴です。離陸からしばらくは本を読んでいたのですが、ふと窓から外を眺めると、眼下には見事な夜景が広がっています。時刻からいって瀬戸内海の付近だと思われますが、見える街並みは本州側か四国側かがわかりません。機内誌の巻末に日本地図が載っているので、それと引き比べながら見ていました。
するとそこにキャビンアテンダント(CA)さんがやってきて、「今、瀬戸大橋が見えています」と教えてくれました。指さす左手の方向を見ると、それらしき影が見えます。「そうすると、下に見える街並みは高松ですか?」と聞き返すと、そのとおりということでした。

そこからは、移りゆく眼下の夜景に釘付けになり、羽田空港に着陸するまでずっと景色を追い続けました。私が座った左側の座席からは、ちょうど太平洋ベルト地帯の街々が見え続ける位置であり、雲一つない上空からその全体をつぶさに見ることができたのでした。

今回の幸運は、
①大分発羽田行きの夜の便に乗った。
②雲一つない快晴で、さらにはるか遠くまで見渡せるほど空気が澄み切っていた。
③前列で左窓側の席であり、主翼にも邪魔されずに景色が見えた。
④クラスJの最前列であり、窓側の席にもかかわらずCAさんから景色について教えてもらうことができた。
という4点に支えられています。
ただし残念なことにカメラを持参していませんでした。
私の網膜に刻まれた映像は、時々刻々と消滅していきます。

今後、①~④に加えてカメラを所持しているという幸運に恵まれるような気がしません。そこでここでは、映像ではなく言葉で、私が見た景色を残しておこうと試みることにします。

高松の街の灯が後方に消えてしばらくすると、淡路島が見えてきました。淡路島の北側半分程度の輪郭が、街路灯の明かりから明らかです。そして淡路島北端の先には、神戸の海岸がくっきりと見えます。CAさんが「神戸空港が見えます」と教えてくれました。海に張り出している3つの出島のうち、左側の先端が神戸空港であることを後から確認しました。神戸市街の夜景後方には黒い山塊が浮かんでいます。六甲山でしょう。

神戸を過ぎると、眼下には大阪の夜景が大きく広がります。その中心にひときわ明るく見える地域は、梅田界隈と思っていましたが、後から地図で確認すると難波のあたりのようでした。淀川の黒い影、難波・梅田から北へ走る北大阪急行のラインを確認することができます。大阪市街と生駒山地との間には近畿自動車道が明るく見えています。

伊勢湾に入りました。伊勢湾西岸の街並み、北岸の名古屋市街全体を見渡すことができます。中部国際空港は自分で見つけることができました。知多半島西岸沖合の人工島が光り輝いています。しかし上空から見ると、滑走路の部分は暗く、明かりはほとんど見えないのですね。滑走路進入灯の光が薄ぼんやりと走るのを見て“ここが滑走路か”と確認できました。

駿河湾に入ると、駿河湾全体の輪郭が一望できます。そして伊豆半島の上空を過ぎました。ここはもう太平洋の上の筈ですが、真下に街路が見えてきました。地図と照合すると伊豆大島以外に考えられません。
そしてこの伊豆大島上空から北方を眺めると、相模湾、三浦半島、房総半島の西側を見渡すことができ、三浦半島と房総半島のさらに先には東京湾の輪郭を確認できます。ここから見ると、東京湾は三浦半島と房総半島によって守られた内海であることが実感として湧きます。また、「東京湾ってこんなに小さかったの」という印象です。東京湾北端は遙か彼方なのに、空気が澄んでいて輪郭が明確に見えるためでしょう。

CAさんに「さっき大島上空を通りましたか」と聞いてみたら、「通りました。滑走路は見えましたか」と逆に聞かれました。さすがCAさんは常に滑走路に目が行くのですね。

飛行機は、房総半島先に達したところで針路を北に変えます。目の下には、房総半島西岸の街々が次々と流れていきます。まずは館山市街と館山湾が過ぎていきました。
富津岬、その北の東電発電所と新日鐵研究所が所在する埋め立て地、そして新日鐵君津製鐵所です。飛行機はここで針路を北西に変えて羽田空港へ向かいますが、君津製鐵所はずっと視界の中にありました。高度はだいぶ下がっています。真下にはJR君津駅のホームが過ぎていきます。

君津製鐵所が視界から消えると東京湾です。南の空に半月がかかり、その真下の水面に月明かりが反射しているのも確認できました。
そのまま飛行機は羽田空港の滑走路に滑り込み、こうして今回の旅が終わったのでした。
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弁理士試験合格率の推移

2010-11-23 20:51:25 | 弁理士
平成22年度弁理士試験合格発表で書いたように、今年の弁理士試験では口述試験の合格率が低下したことが特徴でした。
平成22年度弁理士試験統計平成22年度弁理士試験最終合格者統計が公表になったので、口述試験の合格状況がどのようになっているのか、解析してみました。ここでは論文試験の合格率もチェックし、過去4年間の推移を見ることとしました。
下記で「一般」とあるのは、その年に短答式試験を受けた上で論文試験を受けた人を指します。

《論文試験》
試験年度   19年度       20年度        21年度       22年度
一般    588/2638=22.3% 600/2085=28.8% 188/1420=13.2% 142/899=15.8%
短答免除                        751/2017=37.2% 679/2266=30.0%
合計    588/2638=22.3% 600/2085=28.8% 939/3437=27.3% 822/3165=26.6%

まず論文試験について見ると、「一般」の論文試験合格率は21年度以降明らかに低下しているようです。短答免除者が論文試験を受けるようになって、やはり論文試験の合格ボーダーを上げたのか、それとも実力者が短答免除に回ってしまい、「一般」の受験生レベルが低くなったのか、その辺はわかりません。

《口述試験》
試験年度   19年度       20年度      21年度      22年度
一般    540/588=91.8% 525/600=87.5% 144/188=76.6%  98/142=69.0%
短答免除                       587/751=78.2% 456/679=67.2%
筆記免除  67/71 =94.4%   43/48 =89.6%   77/80 =96.2%  181/227=79.7%
合計    613/659=93.0% 574/648=89.6% 808/1019=79.3% 735/1048=70.1%

こうして口述試験の合格率を年度別に比較してみると、一般、短答免除、筆記免除のいずれも、特に22年度において合格率が明らかにかつ大幅に低下しています。
論文試験の合格率と対比してみると、受験生のレベルが落ちたと考えるのは難しく、やはり口述試験の合否ボーダーが厳しくなった、と見るべきかと思います。口述試験の合否のハードルをなぜこんなに高くしたのか、理解に苦しむところです。
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「バーナンキは正しかったか?」

2010-11-21 13:23:35 | 歴史・社会
バーナンキは正しかったか? FRBの真相
デイビッド・ウェッセル
朝日新聞出版

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新聞で書評を見たのはもう何ヶ月も前です。単行本なので例によって図書館で借りることにしたのですが、予約待ちが何人もあり、やっと順番が回ってきました。
やっと読み終わったのですが、それが返却日の前日でした。読み返してブログ記事を書く暇がありません。予約が多いので、貸し出しの延長ができないのです。

取り敢えず忘れないように覚えているところをメモしておきます。

サブプライムローン問題とリーマンショックを頂点とする今回の米国初世界金融危機を、この本は「グレートパニック」と呼びます。そのグレートパニックを大恐慌に進展させないために、FRBを中心とする米国の中枢部は何をやったのか、そのストーリーを、バーナンキFRB議長を中心に据えて描いたのがこの本です。相当綿密に取材をしたと見えて、その時々に中枢メンバーがどのように考え、どのように行動したのかが克明に描かれています。

私はリーマンブラザーズが破産した後、それは当時のポールソン米国財務長官の大失敗ではないかと思っていました。彼がリーマンを救済しなかったせいで、世界金融危機が到来してしまったではないかと。
しかしこの本を読んでいくと、もちろんポールソンの判断と行動が最適だったとは言えませんが、しかし状況が読めない中、短時間での判断を迫られ、そんな中での判断のブレを非難するのは酷かもしれない、と現在は思い直しています。

《アジアが開く前に》
今回の一連の金融危機で、決断を下さなければならない瞬間の多くが日曜の夜でした。その日曜の夜(米国時間)、翌月曜の市場がアジアで開くまでに決着をつけないと世界の金融が大ダメージを受ける、という瞬間が数多くありました。
○ 2008年3月の日曜:ベアスターンズ救済 FRB自身が監督権限を持つわけではない投資銀行であるベアスターンズの救済のため、FRBはJPモルガン・チェースに300億ドルを融資しました。
○ 2008年8月の日曜:ファニーメイとフレディーマックという2社の住宅金融大手を政府の管理下に置きました。
○ 2008年9月14日(日):リーマンショックの日です。買収先を探す必死の努力も空しくリーマンが倒産するのをバーナンキとポールソンは容認しました。
○ さらに2008年9月下旬の日曜:ワコビアを支援する決定をします。

《リーマン倒産》
2008年3月にベアスターンズを救済した後、ポールソンもバーナンキも批判されました。ポールソンはリーマン倒産直前、「私はミスター救済と呼ばれているんだ。もう救済はできない」と発言しています。バーナンキらも財務長官の反対を無視してまでリーマン救済に資金を投じる気はありませんでした。
リーマン倒産直前の木曜の夜、ポールソンの側近2名が先走って、リーマンに納税者のカネは使わないというポールソンの言葉をマスコミに伝えました。当時のニューヨーク連銀総裁のガイトナーに言わせれば、金融危機の最中に公然と限界ラインを示すのは狂気の沙汰です。ポールソンは、常々はったりを利かせた発言をするクセがあり、それがこのときはネガティブに働いてしまったのです。
最後の週末、リーマンをイギリスのバークレイズ銀行が買収する方向で話が進んでいました。ところが日曜の朝、バークレイズによる買収が頓挫します。残る手はFRBの資金でリーマンを買い取ることしかありませんでしたが、高官たちの間ではだれも言い出しませんでした。9月14日日曜、リーマンは倒産書類にサインしました。
9月14日という1日のうちに状況が激変していく中、「FRBがリーマンを救済しよう」というアイデアを誰も言い出さなかったことが、その後の経済危機を招来したと言えますが、この判断についてかれらを責めることは酷であるように思います。

この本では、米国FRBの成り立ち、バーナンキの人となり、そして今回の“グレートパニック”の詳細な顛末について語っています。

《FRBの成り立ち》
1907年に米国で金融危機が発生したのですが、そのときにはFRBが存在していませんでした。J・ピアモント・モルガンという一人の民間人(といっても銀行家ですが)の力によって危機が収斂したのだそうです。
その反省から連邦準備法が成立しましたが、米国は中央集権を嫌うのか、不思議な組織です。財務長官を議長とする理事会と、最高12箇所の連邦準備銀行(地区連銀)からなります。日本の日本銀行のような、“ひとつのアメリカ中央銀行”というのは存在していないのです。
1930年頃の大恐慌は、金融システムが崩壊する中で政府が傍観していたために発生したようです。現在のバーナンキFRB議長は、経済学教授のときに大恐慌を研究しました。そのため、今回の金融危機ではバーナンキ議長は“できることは何でもやる”というスタンスで取り組んできたのです。

そのFRBについてこの本には『アメリカ大統領はミサイル攻撃には本物の砲弾で即座に対応できるが、金融パニックには、議会の事前承認がないかぎり、本物のおカネで即座に対応することができない。だがバーナンキはそうすることができ、実際にそうしたのだ』と記されています。

(ここから後は、文庫本が発行されたときに購入し読み直して記録することとします)

こうしてあの金融パニックの渦中にあった米国高官たちの行動を追ってみると、もちろん齟齬は多々あったものの、適材が適所に配置され、各人が全力を尽くしている様子を読み取ることができます。
ふり返って日本はどうなのだろうかと考えると、ちょっと憂鬱になります。
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法人税減税が風前の灯?

2010-11-18 20:05:42 | 歴史・社会
日本の産業空洞化を防ぐため、法人税率の引き上げが急務であると、新聞ではいわれています。そして管直人政権も法人税率の引き下げを実施すると言ってきたはずでした。ところが、 長谷川幸洋「ニュースの深層」『サラリーマンの所得を引き上げる「法人税減税」が財務省に潰される~菅政権の目玉政策がまた消えた!』を読んでみると、どうも財務省の画策により、法人税率の引き下げはほとんど骨抜きにされているようです。

『菅直人政権が経済対策の目玉に掲げていた法人税5%引き下げが風前の灯になりつつある。
財務省が法人関連税制の枠内で「税収中立」を唱えて、法人税の単独引き下げを頑として認めず、恩恵を受けるはずの経済界さえもが「課税ベースの拡大を言うなら、引き下げなくても結構」(米倉弘昌日本経団連会長)と言い出したからだ。』
『菅直人内閣は「新成長戦略実現に向けた3段構えの経済対策」を9月10日に閣議決定している。その中で法人税引き下げについて、次のように記していた。
「法人実効税率の引き下げについては、日本に立地する企業の競争力強化と外資系企業の立地促進のため、課税ベースの拡大等による財源確保と併せ、23年度予算編成・税制改正作業の中で検討して結論を得る」
典型的な官僚の文章だが、この段階ですでに「『課税ベースの拡大等』が法人税引き下げの財源ですよ」と釘を刺されていたのだ。繰り返すが、これは閣議決定の文書だ。したがって当然、法人税引き下げの旗振り役になっている経済産業省も了解している。』

どういう意味でしょうか。
課税ベースの拡大とは、《企業レベル》では、企業の減価償却や貸倒引当金、繰越欠損金など課税対象から控除できるものを廃止したり縮減することで実現し、《産業レベル》では、研究開発や設備投資減税のような租税特別措置の見直し・縮減によっても実現します。
そして、閣議決定が注意深く「課税ベースの拡大等」とわざわざ「等」の一文字を加えた背景には、減価償却の見直しといった企業レベルの議論だけでなく「必要とあらば、産業レベルの租特見直しにも踏み込みますよ」と念を押す意味合いがあるのだといいます。

結局、「課税ベースの拡大等による財源確保」の範囲内でしか法人税の引き下げを行わないということなのですね。これは財務省の画策であり、そして経産省も裏で財務省と手を握っているということです。

『財務省は経産省ととっくに握っているものの、経済界がうるさいので「そんなに言うならナフサ免税をやめて、一部課税しますよ」と脅している。数ある租特の中でも、ナフサ免税は減収額が3兆7000億円ともっとも大きい。
経済界はとたんにびっくりして「それなら法人税引き下げはいらない」とすっかり及び腰になってしまった。こうなると、せいぜい設備投資と研究開発、多少の雇用促進減税が実現すれば、手打ちという運びになる公算が大きい。
もともと経産省ですら「5%はのりしろ分を含めた数字。たとえ2%程度でも引き下げが実現すれば御の字」と踏んでいた。大風呂敷を広げた数字なのだ。1%も実現できないとしても、経産省からみれば、いわば「織り込み済みの敗北」である。』

一見、「法人税を引き下げる」と銘打ってはいるものの、実態は「ある条件を満たした場合に行う」という制約条件が噛まされており、そのことには当の官僚以外には読み取れないようになっているという、典型的な「官僚のレトリック」にやられてしまったというわけですか。
民主党政権が「政治主導」「脱官僚依存」を実のあるものにするためには、官僚のレトリックを熟知しかつ官僚側に立たない改革派の人材を、官邸に取り込むことが必須ですが、現政権はその対応を怠っているのですね。ひょっとすると、首相と官邸も、官僚に騙された振りをしているだけで、とうの昔に官僚の軍門に下っているのかもしれません。

この国はいったいどこに向かっていくのでしょうか。
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平成22年度弁理士試験合格発表

2010-11-16 22:23:43 | 弁理士
平成22年度弁理士試験の最終合格者発表が11月9日にありました。756名の方が合格されました。合格した皆様、おめでとうございます。

昨21年度の受験統計の解析()にならって、今回も内容の解析を試みます。

特許庁の平成22年度弁理士試験統計からは以下の数値を読み取ることができます。カッコ内の数値は昨年のデータです。また「一般」とは、今年短答試験に合格して論文試験を受験した人の意味です。

短答合格者数    899(1420)
論文必須受験者数 3093(3336)
  内選択免除者 2268(2273)
論文選択受験者数 897(1164)
論文合格者数    822(944)
口述受験者数    
  一般        142(188)
  短答免除     679(751)
  必須免除     227(80)
  合計        1048(1019)
最終合格者数    756(813)

以上の数値を元に、解析を試みます。
まず、
論文受験者数合計=論文必須受験の選択免除者数+論文選択受験者数
  =2268+897=3165(3437)
次に、今年短答合格した全員の899名が論文受験したと仮定します。そうすると、
論文受験者数
  一般        899(1420)
  短答免除 3165-899=2266(2017)

ここまで準備をした上で、各種合格率の数値を算出します。

論文試験合格率
  一般        142/899*100=15.8%(13%)
  短答免除    679/2266*100=30.0%(37%)
  合計        822/3165*100=26.0%(27.5%)

口述試験合格率  756/1048*100=72.1%(79.8%)


以上から、論文試験合格率を「一般」(今年短答受験)と「短答免除」で比較すると、「短答免除」は「一般」に対して合格率が約2倍弱であることがわかります。去年は3倍弱でしたから、それに比較すると差は小さくなりましたが、やはり論文試験に合格する上で短答免除者が圧倒的に有利である状況に変わりはありません。
論文試験の合否ボーダーラインの難易度の変化については、よくわかりませんが、論文試験合格率について今年と去年を対比してみると、ほとんど変化していないと考えてよろしいでしょうか。
去年もそうだったのですが、論文受験者の中に短答免除者が加わったにもかかわらず、論文試験の合否ボーダーは短答免除者が生まれる前と同じになっているようです。そうとすると、短答免除者にとっては合格しやすくなっているわけで、論文試験合格者数が去年から急増している理由はそれで説明できます。

そのかわり、口述試験の合格率が落ちています。
    口述試験合格率
20年度 88.6%
21年度 79.8%
22年度 72.1%

口述試験の合否難易度に変化があったか否か、という点については、特許庁から「平成22年度弁理士試験最終合格者統計」が公表になったら、そのデータに基づいて再度解析してみたいと思います。
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荒井裕樹弁護士が金融グローバルプレーヤーに転身

2010-11-14 13:31:10 | 弁理士
2006年時点、東京永和法律事務所の升永英俊弁護士が、青色ダイオードの中村裁判を始め、職務発明の大物事件を一手に手がけていること、アルゼvsサミーの特許権侵害事件で70億円を超える賠償判決を勝ち取っていることは知っていました。

その升永弁護士の元で、荒井裕樹弁護士が活躍していることを知ったのは、2006年12月にTBS番組「情熱大陸」で放映された番組で、ここでは「情熱大陸・荒井弁護士」として記事にしました。
番組を通じて感じられる、荒井弁護士の凄いところは、自分の顧客を争いごとで勝たせるため、顧客の話を聞いた上で、通常人では考えつかないような法律構成を創出し、あるいは相手方のロジックの弱点を見抜いてそこを切り崩していく論理を展開する能力に長けていることでしょうか。
とにかく、勝訴という実績により、荒井弁護士が裁判官を説得するたぐいまれな成果をあげていることは間違いありません。
番組では、「弁護士となって3年目(だったかな?)に年収1億円」が注目点となっていました。
荒井弁護士は毎日深夜まで頑張っています。番組は、そんなに頑張って楽しいですか、と振ります。

私は2006年の上記記事の中で、『一つ危惧するといえば、民事訴訟は結局AさんからBさんにお金を移動するか否か、という争いであって、それ自体新たな価値を創出するものではありません。唯一、「新たな判例規範を創出する」という喜びがあるのみです。このような仕事に嫌気が差して、もっともっと社会派に転ずる、ということはあるかもしれません。』という感想を述べたのでした。

2007年4月には「荒井裕樹「プロの論理力」」を記事にしました。

その後、2008年6月です。突然升永英俊弁護士が、東京永和法律事務所を解散し、ご自身はTMI総合法律事務所にシニアパートナーとして合流したのです。それでは荒井弁護士はどうしたのか。それからしばらく、荒井弁護士の消息を知ることができませんでした。

このたび突然、『荒井裕樹の「破壊から始める日本再興」 』というネット記事が登場しました。
『2008年6月、年俸4億円超という訴訟弁護士の仕事を捨てて米国に留学。直後にリーマンショックが起きる世界的な金融・経済危機の震源地で、金融工学の本質を学ぶ。2010年5月ニューヨーク大学スターン経営大学院でMBA(経営修士号)を取得し、ブックフィールドキャピタル共同最高経営責任者に就任。』
『投資家を目指すのは、株主の立場で日本企業の経営に関わり、変革を迫るためだ。遠くない将来に、日本の基幹産業を活性化し、再び高度成長させたいと考えている。』

荒井弁護士は、民事訴訟の弁護士から、金融のプレーヤーに転進していたのでした。2008年6月に米国に留学したということは、升永弁護士が自身の法律事務所をたたんだ期日と一致しています。これは偶然とは思えません。荒井弁護士が退職したことを契機として、升永弁護士は事務所を閉じたのでしょうか。

荒井弁護士は一体何を考えているのか。第1回の記事『自分がバフェットになって、この国を変える~年俸4億円超の弁護士から投資家へ転身した“志士”の決意』から拾ってみます。
『私は2000年10月に訴訟弁護士になって以来、数多くの訴訟を手がけた。
・・・(中村修二氏の職務発明の対価を求めた裁判、UFJホールディングスと三菱東京フィナンシャル・グループの信託部門の統合交渉差し止めを求めた裁判、味の素の人工甘味料にかかわる職務発明の対価を巡る訴訟、日本の特許侵害訴訟史上で最高額の賠償金支払命令を勝ち取った訴訟について紹介。)
・・・
しかし弁護士になって7年半が過ぎた2008年6月、私はある決断に基づいて行動を起こした。所属する弁護士事務所を辞め、米ニューヨークのマンハッタンにあるビジネススクール、ニューヨーク大学スターン経営大学院に留学したのである。この時、31歳だった。
なぜこのような決断を下したのか。1つには、弁護士という仕事に対して限界を感じたことがあった。裁判所の判決に納得できないケースが相次いだ影響もあったが、「弁護士という職業では世界という舞台で戦うことはできない」と悟ったことが大きかった。
弁護士として生きてきた自分がこれから世界で戦えるフィールドはどこか。考え抜いた末に選んだのが、金融の世界だった。
経済のグローバル化に伴って、マネーが国境を越えて行き交う金融市場。そこでグローバルプレーヤーとして活躍している日本人はまだいない。それどころか、この国は投資マネーに翻弄され続けている。
「それならば、自分が最初のグローバルプレーヤーになって、日本を今の窮状から救い出してやる」。こう決意した。』

そうだったのですか。

私が2006年時点で感じた予感が、ある意味当たっていたような気がします。荒井弁護士の才能は、民事訴訟の弁護士の枠に収まりきれなかったのでしょう。
ただし私は、『一つ危惧するといえば、民事訴訟は結局AさんからBさんにお金を移動するか否か、という争いであって、それ自体新たな価値を創出するものではありません。唯一、「新たな判例規範を創出する」という喜びがあるのみです。このような仕事に嫌気が差して、もっともっと社会派に転ずる、ということはあるかもしれません。』と予測しましたが、社会派に転じたのではなく、金融マンに転じてしまったのですね。

確かに、「情熱大陸」や「プロの論理力」で垣間見た荒井氏は、社会派というよりも金融プレーヤーが似合っているような気もします。
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島津製作所~創業記念資料館

2010-11-11 22:16:50 | Weblog
10月9~11日の連休には家族で京都を訪問しました。
宿は鴨川の西側、丸太町橋近くです。その宿の近くに島津創業記念資料館があるということで、最後の日に訪問しました。
島津製作所は1875年創業なのですね。1975年に創業100年を記念して、創業者である初代と二代目島津源蔵の遺徳を偲び開設したのがこの資料館だそうです。この地は島津製作所の創業の地でもあるようです。
   
左上写真が資料館です。後のレンガ色のビルではありません。手前の木造家屋がそれです。ウィキには「創業初期に島津の住居・研究所として使われていた建物を保存・公開している。南棟・北棟ともに国の登録有形文化財(1999年12月登録)である。」とあります。右上写真は入館のしおりで、そこに描かれた家屋が創建当時の状況を表しているのでしょう。
外観は古い木造家屋ですが、玄関から中に入ると、コンクリート製の堅固な構造になっています。おそらくコンクリート製の中味を作った外側に、木造家屋の外側をかぶせてあるのでしょう。

私自身は島津製の測定器などを使用した記憶がないのですが、島津製作所の名前はよく知っています。
田中耕一さんのノーベル賞受賞が報じられた直後、記者会見に当たって田中さんの後に旧島津藩の丸十字の紋所が掲げられていました。それを見て“薩摩揚げを作る会社か”と勘違いした人もいるそうです。
私はそのような勘違いはしなかったものの、てっきり創業者の島津さんは薩摩の島津家の縁続きと思っていました。
しかし説明書きによると、島津製作所の創業者である初代島津源蔵は島津家と血縁がありません。江戸時代、薩摩の島津義弘が京都の伏見から帰国の途上に播州姫路の領地に立ち寄った際、そこに住んでいた井上惣兵衛尉茂一が領地の検分などの世話をしました。それに対する褒美として“島津”の姓と“丸十字の家紋”をもらったのだそうです。

創業者の島津源蔵は京都のこの地で仏具製造業を営んでいたそうです。源蔵は近くに開設された工業試験場に通って理化学の知識を深め、明治8年(1875)に教育用理化学器械の製造業へ転進しました。下の写真にある展示品についても、教育用機器が多くを占めています。
初代の長男である二代目島津源蔵も発明工夫の才能を発揮し、さらに医療用X線装置、蓄電池などの新分野を切り開きました。展示品の中に“GSバッテリー”と紹介されたものがありましたが、GSバッテリー(現在は湯浅電池と合併)は島津源蔵の創業だったのですね。
 
 
  
避雷針模型            説明用無線電信機       1781年製作日本最古の顕微鏡

 
教育用組み立てラジオ              円柱に写っているのは?

 
                       島津マネキン

島津には“標本部”という部署があり、そこで国産第一号のマネキンが製造されました。1925年頃、人体模型製造技術を応用して国産化したそうです。1931年には二代目源蔵の次男である良蔵が東京美術学校彫刻科(現・東京芸大)を卒業して入社し、マネキン製作に加わったそうです。
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北方領土問題と日本外交

2010-11-09 22:18:18 | 歴史・社会
メドヴェージェフ・ロシア大統領の国後島訪問は、戦後のソ連・ロシアの最高指導者としてははじめてということで、衝撃をもって受けとられています。まずは最初のニュースをメモしておきます。

露大統領が国後訪問 実効支配強化、鮮明に
産経新聞 11月2日(火)7時56分配信
『ロシアのメドベージェフ大統領は1日、旧ソ連・ロシアの国家指導者として初めて、日本の北方領土を訪問した。大統領は国後(くなしり)島でインフラ(社会基盤)の整備状況を視察し、今後も政府の積極的な資金投下を続ける考えを表明。北方領土交渉を棚上げし、実効支配を強化するとの意思を鮮烈に示した。沖縄・尖閣諸島近海での中国漁船衝突事件に続き、日本の外交姿勢が根本的に問われる事態だ。
インタファクス通信などによると、大統領は訪問先のベトナムから空路、極東ユジノサハリンスク経由で国後島に入った。同島の中心地の古釜布(ユジノクリリスク)近郊にある地熱発電所や水産加工場、建設中の港湾施設などを視察。「ここの生活はロシア中央部と同様に良くなる。資金を投入することが大事だ」と述べ、1991年のソ連崩壊後に進んだ人口流出を食い止めるべく発展を加速させる決意を示した。
北方領土訪問の計画は9月末、中国漁船衝突事件で日中関係が悪化していた最中に浮上した。尖閣をめぐって日中関係が悪化しているすきを突き、圧力を強め出方を探っている形だ。
大統領は今月中旬、横浜で開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)に出席するために訪日する予定で、そこでの日露双方の出方が注視される。
北方領土をめぐり、ロシア側は現在、「いかなる真剣な交渉も行われていない」(外交筋)との認識でいる。他方、千島列島(クリール諸島)と北方四島では2007~15年の「社会経済発展計画」(計画投資額179億ルーブル=約468億円)に基づく大規模なインフラ整備が進む。領土問題をめぐる日露関係の構図は根本的に変化しつつある。』

近隣の大国との外交で、日本は弱り目に祟り目ですね。
尖閣問題のさなか、メドヴェージェフ大統領が中国から北方領土への訪問を薦められたとの新聞報道を見ましたが、それが現実のものとなってしまったのですね。
戦後のソ連・ロシア指導者のだれも実行しなかった行動に、なぜメドヴェージェフ大統領は踏み切ったのでしょうか。

鈴木宗男騒動の結果、日本の対ロ外交においては鈴木宗男氏、東郷和彦氏、佐藤優氏の3名を失いました。それ以前、この3名はロシア中枢部にがっちりと人脈を形成していたと思われるのですが。その後の日本の対ロ外交はどう建て直されたのか、あるいは壊滅したままなのか、その点が気になります。
確かに鈴木宗男氏は、唯一の外交族議員として横暴が過ぎました。NGO、常在戦場鈴木宗男氏と大西健丞氏などにも書いたとおりです。しかし、鈴木氏は結局、話題になったムネオハウスや国後ディーゼル汚職では無罪でした。鈴木氏らを失脚させたことのデメリットの方が大きかったと言えるでしょう。
東京地検特捜部及び結託した外務省は、鈴木宗男氏を血祭りに上げる前哨戦として、佐藤優氏を逮捕し(させ)、東郷和彦氏を失脚させたのです。

その東郷和彦氏が、以下のように気になる発言をしています。中身が濃い内容なので、こちらも全文引用となります。
<北方領土>「露のシグナル見逃す」 東郷元欧州局長が分析
毎日新聞 11月4日(木)2時30分配信
『ロシアのメドベージェフ大統領の北方領土訪問について、ロシア情勢に詳しい元外務省欧州局長(当時・欧亜局長)の東郷和彦・京都産業大学教授は毎日新聞のインタビューに「7月の択捉島での軍事演習や事実上の対日戦勝記念日制定などの延長線上にある」との見方を示した。3日に一時帰国した河野雅治駐ロシア大使は菅直人首相らに「12年の大統領選を見据えた国内向けの動き」との分析を伝えた模様だが、東郷氏は麻生、鳩山両政権の瑕疵(かし)が要因との見方を提示。現在の政府・外務省とは真っ向から対立する見方に立って警鐘を鳴らしている。【西田進一郎】
東郷氏は最近1年間の日露関係を考察し、(1)ラブロフ外相が7月に演説した際、アジア太平洋で協力関係を進めたい国として韓中印ASEAN(東南アジア諸国連合)などを挙げたが日本は含まれなかった(2)7月に択捉で軍事演習(3)9月に太平洋戦争勝利記念日制定--などを挙げ、「顕著に悪化した」と強調。この延長線上に訪問があると位置づけた。
最近の北方領土交渉を振り返って「06年の安倍晋三政権の成立以来、昨年5月のプーチン首相来日までは、ロシア側は『領土交渉を進めよう』というシグナルを繰り返し出してきた」と指摘。にもかかわらず、麻生太郎首相(当時)が「ロシアが北方領土を不法占拠している」と発言したことが日露関係悪化の発端との認識を示した。「大統領が『交渉を本当にやろうと真剣に思っているのなら、相手の国民世論を憤慨させるようなことはやめてくれ』と強烈なメッセージを送ったにもかかわらず、(麻生政権の後の)鳩山(由紀夫)前政権でも同じ趣旨の答弁書を出した」として、ロシアの態度硬化に拍車をかけたと断定。「ロシア側は日本は交渉する気がないと受け取った」と語り、その後の関係悪化につながったとの見方を示した。
東郷氏は「交渉で領土を取り返す以上、日本政府はロシア側のシグナルを外してはならなかったのに、『やる気がない』と彼らが受け取るメッセージを昨年出してしまい、(現在の菅政権に至っても)修復の兆しはない」と最近の歴代政権を批判した。』

もう一人の佐藤優氏は以下の発言です。
「筋読み」を完全に誤った外務省
2010/11/08(作家、元外務省主任分析官 佐藤優/SANKEI EXPRESS)
『3日、官邸に呼ばれた河野大使は、「大統領が国内向けに指導力を誇示する狙いがあったと説明したという」(11月4日付産経新聞)。この分析は完全に間違っている。
メドベージェフ大統領の指導力をロシア国民は信頼している。大統領選挙は、2012年3月だ。1年半先の選挙のために対日関係を悪化させるようなリスクがあっても国内向けのパフォーマンスをするなどという説明が合理性を欠くことは明白だ。
メドベージェフ大統領の国後島訪問は、北方領土の「脱日本化」という戦略に基づいて段階的に展開されている。
第1段階は、「対日戦勝記念日」を制定することで、スターリンが日ソ中立条約を違反したという歴史的事実を覆い隠すことだ。歴史認識を修正し、北方領土を「脱日本化」する意図を表明する。
第2段階の前段は、今回の大統領による国後島訪問で、北方領土の「脱日本化」に着手する。後段で、「脱日本化」の対象を、1956年日ソ共同宣言で、平和条約締結後の日本への引き渡しを約束した、歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島に拡大する。
第3段階で、戦後の現実を変更することはできないという議論を全面的に展開する。具体的には「1993年10月の東京宣言でロシアは日本と択捉(えとろふ)島、国後島、色丹島、歯舞群島の名をあげ4島の帰属に関する問題を解決し、平和条約をするという約束を確かにした。しかし、ロシアが日本に4島を返還するとは約束していない。そこでロシアが4島、日本が0島という形で4島の帰属に関する問題を解決し、平和条約しよう」と主張する。そして、日本の返還要求をはね除けて北方領土の「脱日本化」を完成する。
河野大使のように、メドベージェフ大統領の国後島訪問を「国内向けに指導力を誇示する狙いがあった」と認識しているようでは、ロシアによる北方領土の「脱日本化」工作を阻止することができない。「国内問題」と装って、領土問題解決に向けて、ロシアは自国に有利な状況をつくろうとしているのだ。』


もう一つ、気になる記事がありました。
伊藤博敏「ニュースの深層」2010.11.05「政府が北方四島への「渡航自粛」を求める間に進んだロシア化~メドベージェフ大統領の国後訪問は国家戦略なき外交が生んだ!
『政府は、1989年の「閣議了解」で、北方四島への渡航自粛を求めている。「実行支配を認めてしまうから」というのがその理由。しかし、「自粛」の間に、四島は大きく変わった。酷寒の島で、資源といえばサケ、タラ、昆布といった海産物だけで、文化はなく、娯楽もない、という「最果ての地」は、様変わりした。
地熱発電が電力を安定供給、温泉が掘られて保養所ができ、近代的な水産加工場が各地に建設され、家電量販店にはモノが溢れ、最新の携帯電話が普及、「釣に温泉」を求めて、観光客が次々に訪れるようになった。
インフラが整備され、産業が発展すれば、ビジネスチャンスを求めて、ロシアのみならず各国の企業が集まる。水産物を求めて中国や韓国のビジネスマンが、貿易交渉を行い、工場建設や機材納入にかかわろうとする。だが、日本だけは埒外だ。』
『1991年のソ連崩壊で四島からの人口流出が進んだ時、ロシアは社会資本整備を充実させ、島民を根付かせようとした。それがプーチン時代に実り、「クリル社会経済発展計画」につながった。2011年には国後、択捉の両島に飛行場が建設され、有視界飛行ではなく、計器での離着陸が可能になって、定期便が就航、ますます発展する。
日本政府は、その間、「自粛」を貫いて発展に関与する機会を失った。現地の様子は伝わらず、ロシアの支配だけが強くなり、蚊帳の外に置かれてしまった。』

やはり、2002年に鈴木氏、東郷氏、佐藤氏の3人が失脚して以来、日本の対ロ外交は機能しなくなっていたのでしょうか。


話は変わりますが、民主党政権の外交における姿勢について、11月7日日経朝刊の記事をメモしておきます。
『尖閣諸島沖での中国漁船の衝突事件をめぐり、政治家との調整に奔走した外務省幹部はこう漏らす。「日中関係が緊迫した時に首相官邸が日本の外交官を信用せず、中国外務省に相談したことに衝撃を受けた」』
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