2013年に発行された中村哲さんの著書「
天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」から、中村さんがアフガニスタンで行ってきた事業についてピックアップします。
まずは簡単な年表です。
1973年 九州大学医学部卒業
1984~90年 パキスタンのペシャワール・ミッション病院で勤務。赴任をきっかけにペシャワール会が発足
1991年~ アフガニスタンにダラエヌール診療所はじめ、3診療所を開設
2000年~ アフガニスタンが大干魃に襲われ、井戸掘り事業を始める
2003年 用水路建設を開始(マルワリード用水路)
2005年 2診療所撤退
2007年 用水路第1期工事13kmが開通、さらにガンベリ砂漠を目指すことに
2008年3月 治安の悪化を肌で感じ、日本人ワーカー全員の帰国を決定
8月 伊藤和也氏が誘拐・殺害され、日本人全員が帰国
2010年 モスクとマラドサを建設
ガンベリ砂漠まで用水路が開通
豪雨による大洪水
JICAとの共同事業となる
2013年 カシコート=マルワリード連続堰が大方の基礎を終えた
書籍の記述はここまでです。2019年、中村さんは武装勢力に銃撃され死去されました。
昆虫少年だった中村さんは、1978年、ヒンズークシュ遠征隊に参加しました。アフガニスタンの大部分が、ヒンズークシュ山脈にすっぽり包まれています。
『その後の数々の出会いの連続が、自分をこの山に呼び戻したと言ってもよい。』
1983年頃、たまたま日本を訪れたパキスタンのペシャワール・ミッション病院の院長が、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)に医師派遣を要請しました。JOCSから中村氏に声がかかり、「あそこなら、一度働いてみたかった」と名乗り出て赴任が決まりました。中村氏の赴任をきっかけに発足したのがペシャワール会です。
ペシャワールに下見に行った際、ドイツ人医師からハンセン病治療に協力して欲しいと懇請を受けました。中村氏は赴任するとすぐ、「ハンセン病棟担当」を申し出ました。
ペシャワール(パキスタン)もアフガニスタン東部も、住んでいるのはパシュトゥン人であり、中村氏の病院にはアフガニスタンの患者も訪れます。アフガニスタンは当時、ソ連軍が侵攻して激烈な内戦の中にありました。
ハンセン病が多いところは同時に他の感染症の多発地帯です。中村さんたちは、内戦が下火になった暁には診療所をアフガン山村に建設し、一般診療を行いながらハンセン病も診療を行うことを決めました。まずは、アフガン住民の青年たちの中から20名の人材を集め、2年間の「診療員」養成をはじめました。
1991年になって内戦が下火になると、アフガニスタンのクナール川に近いダラエヌール渓谷に診療所を開設しました。
2000年、中央アジア全体が未曾有の干魃にさらされました。アフガニスタンの被害が最も激烈で、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあるとされました。
『この状態の中で、死にかけた幼児を抱いた母親が診療所にくる姿が目立って増えた。・・・生きてたどり着いても、外来で列をなして待つ間にわが子が胸の中で死亡、途方に暮れる母親の姿は珍しくなかった。』(84ページ)
こうして2000年7月、「もう病気治療どころではない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の確保に乗り出しました。
本格的な「井戸掘り事業」がナンガラハル州全体の渇水地帯に展開されるようになりました。
昔から井戸はありますが、渇水で地下水の水位が下がっていました。掘り進むと途中に巨礫の層があります。削岩機で巨岩に穴を開け、爆薬を詰めて粉砕する方法が奏功しました。
『日本人青年たちは地元の若い職員数十名を率いて、翌2001年までには660カ所となり、・・・最終的に2006年までに約1600ヶ所に達し、数十ヶ村の人々が離村を避け得るという大きな仕事に発展していった。』
だが、飲料水があるだけでは生活できません。
2001年、9・11が発生しました。
テロ特措法成立前の2001年10月、中村さんは国会で話をすることを求められました。干魃の実態を伝え、食糧配給計画をアピールするには千載一遇の機会と考え、快諾しました。国会では「NGOなどを守るために、自衛隊を派遣する」という議論が行われました。中村さんは、「よって自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題であります。」と発言しました。
ペシャワール会で「緊急食糧支援」を訴えると、最終的には6億円が集まりました。
ペシャワール側で小麦粉などを買い付け、空爆前に送りつけたいところでしたが、10月7日、ジャララバードが空襲されました。この中で、志願した職員が食料の輸送に当たりました。
中村さんは、食糧配給の訴えに寄せられた基金6億円を投じて、農業復興に全力を尽くす方針を固めました。
第一弾として、クナール川のジャリババからナンガラハル州シェイワ郡まで13キロメートルの用水路建設(最終的にはガンベリ砂漠まで約25キロメートルに延長)を決めました。
リーダーが医師の中村氏、そして実行部隊は現地の農民たちです。用水路建設の専門家は皆無です。
コンクリートを用いた現代技術を採用するのではなく、現地の農民たちが補修することのできる、昔ながらの工法を採用しました。特に、日本において、江戸時代に建設されて現代まで生き残っている施設を参考にしました。
大きな川から取水する用水路において、取水口が非常にやっかいなのですね。通常に取水できるだけでなく、大洪水が起こっても破壊されない取水口であることが必要です。日本で江戸時代から現代まで生き残っている用水路、特に福岡県朝倉市に現存する山田堰という取水口が参考になりました。
用水路については蛇籠工が採用されました。水路壁の蛇籠工は、現地で施工する立場から見ると、技術的にはるかに易しく、維持補修も容易です。これと柳枝工を組み合わせれば、さらに強靱となります。
日本側では、ペシャワール会が血のにじむような努力で、年間3億円の募金を集め続けました。
こうして2005年4月、第1の標的の用水路が開通し、480町歩の灌水が開始されました。たちまち人家が無人の荒野に建ち並びはじめ、20年以上消えていた村々と緑の田畑が忽然と姿を現しました。2007年4月、第1期工事13キロメートルが開通するまで、1200町歩を超える広大な田園が復活しました。
アフガン農村の特質は、それぞれの部族が独立割拠しながらも、「イスラム」と共通の不文律を戴いて秩序を形成しています。各村自治体の長老が金曜日に地域の中心にある「大モスク」に礼拝で集まり、多くのもめごとがここで解決されます。「大モスク」は普通、マドラサという伝統的な教育設備を備え、地域の教育の中心でもあります。
ところが、砂漠化していた場所に建設予定地はありますが、誰も手を出しません。当時、「マドラサはタリバンの温床」との認識が在り、建設すれば攻撃を受けるかも知れないと皆恐れていました。
そこで中村さんは、州の教育大臣、全国組織の州境委員会も加わり、モスクとマドラサの建設に踏み切りました。
2008年3月、中村さんは種々の情報から治安の悪化を肌で感じ、日本人ワーカー全員の帰国を決定しました。しかし、撤退を進める途中の8月、伊藤和也氏が誘拐・殺害されるといういたましい事件が発生し、このあと日本人ワーカーが全員、帰国することになりました。現地には中村氏のみが残りました。
用水路工事の作業員は常時400名で、チームは育っていました。それまでに完成した用水路がしばしば鉄砲水や洪水にさらされ、改修を余儀なくされたものの、その強さが実証され、職員・作業員たちは自信を深めました。工法も次第に洗練されました。
第1期工事で建設した用水路のさらに先に、ガンベリ砂漠があります。中村さんは、このガンベリ砂漠まで用水路を延ばし、砂漠を農地化する計画に進みました。
用水路はクナール川に沿って建設され、その途中では大きな谷を横断します。集中豪雨になれば信じられない水量の鉄砲水が谷を下り、砂漠に注ぎます。用水路は一撃で破壊されるでしょう。中村さんは、大きな貯水池を設け、鉄砲水を貯水池で受けて用水路に流す方針を採りました。谷にダムを建設して貯水池とします。盛土量は、ダンプカーで推定約2万台分になりました。
2009年8月、全線が開通し、用水路の終端まで水が到達しました。
マルワリード用水路は、一日送水量40万トン、灌漑面積3120ヘクタールとなりました。総工費14億円は、全てペシャワール会に寄せられた会費と募金によって賄われました。
2010年7月、現地は長期間の豪雨に見舞われました。
Q2貯水池には大量の水が谷を下り、池に注ぎ込んでいます。中村さんは現場に立ち尽くしましたがなす術がありません。しかし、ダムは崩れませんでした。
2010年3月、JICAカブール事務所の新任所長、花里信彦氏から視察の申し入れを受けました。そして、これ以降、周辺地域の取水設備の整備が矢継ぎ早に「共同事業」として実施されることになりました。共同事業は、年々安定灌漑地を増やし、計16500町歩の耕地復活を目指し、65万人の農民の生活安定を保障すべく、一大穀倉地帯が復活しつつあります。
『2013年3月、10年にわたる試行錯誤と努力の集大成と呼ぶべき「カシコート=マリワールド連続堰」が大方の基礎を終えた。これによって、両岸併せて約5000町歩以上の安定灌漑が約束された。2013年夏、数度にわたって、2010年を更に上回る洪水がクナール河とカブール河本川沿いに押し寄せたが、どの取水口も被害を免れた。「洪水にも渇水にも強い堰」は、多くの人々を救った。時を同じくして、作業地全域で爆発的に水稲栽培が拡大した。みな、途切れぬ水が来ることを信じたからだ。PMSの導入した取水システムによって、安定灌漑が地域の人々に確実な収穫を約束したのだ。
山田堰と出会って10年、2000年来描いてきた夢は、今現実化しつつある。』
中村さんが、パキスタン・ペシャワールの病院に赴任したのも、ハンセン病に取り組むことにしたのも、パキスタンの隣国アフガニスタンの山中に診療所を設けたのも、また、最終的にアフガニスタンの灌漑事業に邁進したのも、最初から計画したことではなく、それぞれの時点での人との出会い、現場でのニーズに発したものでした。
また、アフガニスタンの大干魃に起因する大飢饉から人々を救うための灌漑事業です、当該国が貧乏であれば、国際協力で資金を調達するのが普通でしょう。それが中村さんの場合、2010年までは私的な募金組織であるペシャワール会への寄付のみを基にした事業であったということに驚嘆します。
一介の医師に過ぎない中村さんが、自分の活動に向けての個人の寄付のみを頼りに、専門外の外国の灌漑事業に心血を注いだ、という物語でした。
中村さんは凶弾に倒れましたが、このような人が現代の日本にいらしたことを誇りに思い、忘れることなく記憶に留めておきたいと思います。