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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

コードブレイカー(1)

2025-03-27 17:33:09 | 歴史・社会
ジェイソン・ファゴン著「コードブレイカー――エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史」

この本の主役は、エリザベス・スミス・フリードマン(1892-1980)と、その夫のウィリアム・フリードマンです。
第2次大戦の開始当時から、アメリカは、交戦国であるドイツの外交暗号(エニグマ)を解読し、日本の外交暗号(パープル)を解読していました。一方、ドイツも日本も、アメリカの暗号を解読できておらず、また自分たちの暗号がアメリカに解読されていることに気づきませんでした。
アメリカにおける、エニグマの解読とパープルの解読に最も貢献したのが、2人の個人、エルザベス・スミス・フリードマンとウィリアム・フリードマンであった、というのです。その詳細が今回の書籍に克明に記されています。

このカップルは、夫と妻の二人一組で、言うなれば家族経営の暗号解読局として機能するようになっていきました。コンピュータが存在しない時代、二人は鉛筆と紙、そして自分の頭を頼りにしていました。
エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破しました。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作製の手法を一変させました。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいます。
夫の方のウィリアム・フリードマンは、インテリジェンス史研究家から尊敬を集めるようになりました。国家安全保障庁(NSA)の父としても広く知られています。
一方、妻のエリザベスの知名度は、優れた才能を持ち多大な貢献をしたにもかかわらず格段に低いです。エリザベスが行った仕事が暗号解読に関するものであり、守秘義務を負って公表することができなかったこと、そしてFBIのJ・エドガー・フーバーが、エリザベスの貢献を横取りしてFBIの成果に見せかけてしまったためです。

1976年、エリザベスはNSAから派遣されたインタビュアー、ヴァージニア・ヴァラキのインタビューを受けました。エリザベスが84歳のときです。これが、エリザベスの業績が公に広く知られるきっかけになったようです。

エリザベスの保守的な父親は、エリザベスの大学進学に反対していました。エリザベスは学費は自分で払うと宣言して大学に進学しました。
1915年当時の教育を受けたアメリカ人女性ができる仕事といえば、せいぜい高校や小中学校で教えるくらいのものでした。女は、教師をして、子どもを産み、退職して、人生を終えるものでした。しかしエリザベスは、リスクを伴うものに情熱がかき立てられます。
一度は郡立高校の校長代理として赴任しますが退職し、両親の家にも長居できず、荷物をまとめてシカゴ行きの列車に乗り込みました。頭を使うことが必要な仕事を求めましたが、シカゴの職業紹介所職員からはそのような仕事の口はありませんとの答が返ってきました。
シカゴのニューベリー図書館に所蔵された、シェイクスピアのファースト・フォリオという稀覯本に彼女は関心を抱いていました。この図書館に出かけたことが、フェイビアンに出会うきっかけでした。
フェイビアンは大金持ちの事業家で、リバーバンクに研究所を開設していました。その研究所では、多くのテーマの研究が行われており、ミセス・ギャラップが、シェイクスピアの戯曲の作者はじつは哲学者のフランシス・ベーコンであり、その証拠のメッセージが戯曲の中に埋め込まれている、という仮説で研究を進めていました。ミセス・ギャラップは若いエネルギーと鋭い目をもった助手を求めていました。23歳のエリザベス・スミスはその助手の仕事に就きました。
ギャラップ夫人によると、ニューベリー図書館が所蔵するシェイクスピアのファースト・フォリオの文字の形の中に、秘められたメッセージが埋め込まれており、ギャラップ夫人はその秘密をすでに解き明かしているといいます。エリザベスの仕事は、ギャラップ夫人の手法を用いて既存の研究結果を再現することです。

ウィリアム・フリードマンは若い遺伝学者であり、リバーバンクのフリードマンの研究所に住み着いて研究をしていました。ギャラップ夫人の仕事も手伝っていました。
ギャラップ夫人の仕事、すなわちシェイクスピアの戯曲のなかにベーコンが仕組んだメッセージを解き明かそうとする仕事は、暗号解読と同様のスキルを必要とします。そのため、エリザベスとウィリアムは、この仕事を通じて暗号解読に必要なスキルを自然と身につけていきました。

第一次大戦の直前、通信手段として無線が用いられるようになりました。無線だと敵味方関係なく受信できるので、通信文の暗号化が必須になります。ところがアメリカには暗号解読家が数人しかおらず、そのうちの二人がエリザベスとウィリアムでした。
戦争省(現在の国防総省)は、モーボーン大佐をリバーバンクに派遣しました。モーボーンは暗号解読の実務経験がありました。モーボーンは、エリザベスとウィリアムのなかに才能の輝きを見て取りました。実際に敵国の暗号文の解読を依頼したところ、見事に解読に成功しました。その後、第一次大戦アメリカ参戦後の八カ月間、ウィリアムとエリザベスをはじめとするリバーバンクのチームが、アメリカ政府のあらゆる機関の暗号解読を行いました。暗号解読は、紙と鉛筆と二人の頭脳と、そして二人の連係プレイによってなし遂げられました。
エリザベスとウィリアムは、ストレート・アルファベット、ダイレクト・アルファベット、逆アルファベット、多アルファベット、混合アルファベットなど、数種類の換字式サイファを識別し、解読できるようになりました。書籍サイファを、その本自体が手許になくても解読できる一般的なテクニックを開発しました。二人は「柔軟な思考」「直感力」と表現しました。二人にとって直感とは、努力の末に獲得した体内コンパスのようなものでした。
その過程で得られた暗号解読に関する新たな知見は、リバーバンクから出版され、今日これらは現代暗号学の礎石と評価されています。
戦時中のある日、イギリス陸軍が開発した小型の手動式暗号機で暗号化された通信文の解読を試みました。イギリスは、この装置は解読不可能と結論づけていましたが、アメリカ側が念のために二人に解読を依頼してみたのです。二人は、絶妙の連係プレイでこの暗号を解読してしまいました。

ウィリアムはユダヤ人であり、ユダヤ教徒以外との結婚は家族全員が反対します。エリザベスはクエーカー教徒の一家でした。その障害を乗り越え、1917年、二人は結婚しました。フェイビアンの研究所にある風車が、二人の新居でした。

ウィリアムは陸軍への入隊を希望し、フェイビアンはなかなか許可しませんでしたが、戦争が終わったら戻ってくるという条件で陸軍入隊許可を与えました。そしてエリザベスを残して、フランスの戦地に赴任しました。
戦争が終結しました。
二人はリバーバンクから決別しようとしますが、フェイビアンの妨害でうまくいきません。やっとのことで逃げだし、ワシントンに向かいました。

第一次大戦後、各国の暗号の世界では、暗号文を作成する機械の必要に迫られていました。高速で、使いやすく、格段に高い安全性が確保されているという機械です。フリードマン夫妻は、ワシントンに到着するやこうした事態に放り込まれ、1921年、二人は政府機関での勤務を開始しました。

アメリカの政府部内で暗号解読を行う部局は3つ、職員は合計で50名以下でした。規模が最大なのは元陸軍中尉のハーバート・ヤードレーが率いる暗号局、その他は海軍と陸軍所属でした。その陸軍の暗号部門でフリードマン夫妻は勤務を始めました。
ウィリアムは、2機の暗号作成機械で生成した暗号の解読に成功しました。この時点では、紙と鉛筆とひらめきだけで機械を破ることがまだ可能でした。ただし、徹底した注意力と集中力を働かせる必要がありました。
ウィリアムは、当時市場で販売されていたエニグマ(ドイツ製の暗号機)の解析にも取り組んだことがありました。このときは本気で解読しようとはしていませんでした。

エリザベスは海軍の要請で勤務を始めましたが、5ヶ月勤務後に妊娠のために職を離れました。
1925年、エリザベスは沿岸警備隊の訪問を受けました。禁酒法の時代、沿岸警備隊のチャールズ・ルートは、海岸を経由して酒を密輸する船を捕まえる任を負っていました。エリザベスは、期間限定で在宅勤務なら、ということで受けます。
沿岸警備隊は財務省所管でした。財務省は法執行機関を沿岸警備隊を含めて六つ、抱えており、財務省捜査官はTメンと呼ばれていました。アル・カポネの逮捕、リンドバーグの愛児誘拐事件の犯人逮捕は、いずれもTメンによるものでした。

エリザベスは、沿岸警備隊が傍受した犯罪組織間の暗号通信文を次々に解読していきました。エリザベスは暗号通信文の解読のみならず、広範で包括的なシステムの構築に取りかかりました。エリザベスは、財務省でただひとりの上級暗号解析管、すなわち暗号解読法を知っている唯一の人間だったため、財務省内の各法執行機関に所属するTメンたちを結びつける役割を果たし始めました。
沿岸警備隊では、エリザベス一人が暗号解読を担い、3年間で酒密輸にかかわる通信文を12000通解読しました。限界を覚えたエリザベスは、暗号解読班の設置を提案しました。提案が認められ、下級暗号解読者3名と速記者2名、それにオフィスが与えられました。アメリカ史上唯一の女性が率いる暗号解読班となりました。3人の新人が暗号解読のスキルを身につけました。1932年にF・D・ルーズベルトが大統領に就任したときには、エリザベス率いるチームは、アメリカにおける掛け値なしに最高の無線インテリジェンス組織に成長していました。ここで獲得したスキルに基づき、エリザベスはのちに、ナチ・スパイの極秘ネットワークを打ち破る立役者となります。
ニューオーリンズでの刑事裁判でエリザベスが証人として公開の裁判所で証言することとなり、エリザベスは一躍時の人となりました。

このころウィリアムは、その後10年にわたって、陸軍で日本の外交暗号の解読に携わることになりました。1930年にウィリアムは陸軍の新たな暗号解読班を立ち上げ、これがのちに国家安全保障庁の中核をなすことになります。
ウィリアムはこの組織で、日本の外交暗号解読を目指すとともに、自分たちでも暗号作成機を創り出しました。
1930年ころから日本が使い始めた機械は、Angooki Taipu Aと呼ばれ、アメリカでは「レッド」のニックネームで呼ばれていました。1938年、日本はレッドを大幅に改良した高度な暗号機 Angooki Taipu Bに置き換えました。アメリカでは「パープル」と名付けました。
またウィリアムのチームは、M-134、さらに改良したSIGABAと呼ばれる暗号機を創出しました。アメリカ陸軍と海軍は第二次世界大戦中、1万台以上のシガバをあらゆる戦域に設置しました。ドイツ、イタリア、日本のいずれも、最後まで解読できませんでした。
ウィリアムの仕事は極秘であり、家に帰っても同業者である妻にすら話すことができません。ウィリアムは夜に帰宅するとほとんど何もしゃべらない生活となりました。ウィリアムの神経が病んでいきます。

ナチスドイツがボーランドに侵攻し、第2次大戦が勃発しました。
大西洋を隔てたアメリカは安全なように思われましたが、もしナチが南米を支配したら、アメリカも安全ではなくなります。
ヒトラーは、南米に工作員を送り込みました。携帯式無線機をもった新人工作員が、Uボートで海岸にたどり着いたり、飛行機から落下傘で降下したりして目的地に潜り込みました。
エリザベス・フリードマンが1940年から1945年にかけて行っていたことについては、厳重な機密指定がされ、エリザベスの死後にようやく封を解かれました。
エリザベスのチームは、財務省から依頼された暗号を解読するうちに、未登録の無線局から発信された謎めいた暗号文の存在に気づきました。暗号を解読すると、平文はドイツ語であり、位置測定からすると発信元はメキシコ、南米、アメリカにある未確認の無線局のようです。まもなく、これらの無線局はナチのスパイが設置したものだとわかりました。
エリザベスと彼女のチームは、紙と鉛筆を用いて直感と経験をもとに、この暗号を解読していくのです。著書では、その過程が詳細に示されています。
エリザベスの基本的な解読スタイルは、紙と鉛筆で試行錯誤を繰り返し、推論を立ててそれを試します。エリザベスはこれまでの25年間、何万通もの通信文を手掛ける中で、ありとあらゆる種類の暗号を解いてきたので、近道の見つけ方、つまりは文中でのパターンの見分け方を心得ていたからです。エリザベスは一種の人間コンピュータでした。

1940年、ドイツのエニグマ機で作成された暗号文に始めて遭遇したとき、エリザベスはたいして怖じ気づきはしませんでした。
エニグマ機で暗号を作成するに際し、マシンのロータの開始位置を頻繁に変更することが必要です。しかしある無線局では、送信者がまちがって同じ開始位置を使ってすべての通信文を送っていました。そのため、数多くの暗号文を縦に重ねることで、暗号を解く鍵を見つけたのです。そしてチームは、暗号の特徴がエニグマ機に似ていることに気づきました。保有していた古いエニグマの商用機で解析を始めました。そして、見たこともないエニグマ機にある3枚のロータすべての配線をなんとか解明して見せました。

ウィリアムが率いる陸軍暗号解読班では、日本の外交暗号機パープルが生成する暗号文の解読に努めていました。
『1940年9月のある日、ウィリアム・フリードマン率いる陸軍暗号解読班がいる窓のない丸天井の部屋で、所属する2人の女性暗号解読者のうちの1人、ジュネビーブ・グローチャンが自分のデスクの前に立ち、なにかを発見したかも知れません、と男たちに話しかけた。
・・・
このときグローチャンは、これまで誰も見つけられなかった2つのパターンが見えてきた、と感じていた。』
男たちはデスクのまわりに集まってきます。
『「これだ!」とローレットが叫ぶ。「これだよ! 探していたものをジーンが見つけてくれた!」』
男たちはこの発見に興奮して笑いながら飛び跳ねていましたが、ウィリアム1人はほとんど悲しげに見えました。このときすでに、ウィリアムは精神的に病んでいたのです。

グローチャンの発見から5日後、1通の通信文が始めて完全に解読されました。
『今日、暗号史の研究者は、苦難の末に成功をものにしたという点では、パープルの突破は、アラン・チューリングのひらめきによりドイツの暗号エニグマを打ち破った功績と同等の価値があるととらえている。』
ウィリアムたちは、日本の通信文を読み解くためのパープル模造機の作製に取りかかり、完成させました。
パープル暗号を解読した解読文のうちで最高機密扱いされるものをマジックと呼ぶようになりました。日本が真珠湾攻撃を敢行したとき、在米日本大使が米大統領に手渡すべき最後通牒を、その前の日の晩にルーズベルト大統領がマジックとして入手し読んでいたことは有名です。日本は戦争終結に至るまで、パープル暗号が敵方に解読されていることに全く気づきませんでした。

以下次号
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姫路城の瓦屋根の漆喰

2025-03-16 10:33:44 | 趣味・読書
姫路城訪問 2025-03-14で紹介したように、姫路城を訪問してきました。
姫路城は白鷺城と呼ばれ、白壁だけではなく、瓦屋根も白い漆喰で塗り固められています。下写真がそれです。

屋根瓦の白漆喰塗り

屋根の色が変わっていく? 世界遺産 姫路城の屋根修理のヒミツによると、
姫路城の屋根は、いぶし瓦を使い、筒状の丸瓦と平たい平瓦を組み合わせる本瓦葺きという工法で葺かれています。姫路城の場合は、さらに瓦と瓦の継ぎ目である目地に漆喰を施し耐久性を高めています。これは池田輝政が築城したときと同じ手法です。
漆喰は施工後、経年により汚れやカビで黒く変色していきます。竣工後から5年ほどで以前のようなグレーの屋根になるといわれています。

平成の大修理の前、「白鷺城」と呼ばれていた姫路城の屋根はグレーでした。それが、大修理のあと、瓦に施した漆喰が真っ白なので、姫路城の屋根は白く輝いており、大修理前とは違う、「白過ぎ城」だ、との声が上がったそうです。上のサイトの写真、屋根も真っ白ですね。
しかし今回われわれが訪問した姫路城の屋根は、全体のイメージとしては白ではなくグレーでした。

⑰西の丸から見た⑬天守閣
上の写真、それから冒頭の屋根瓦部分の写真でわかるように、屋根のうちで雨が当たる部分はグレー、雨が直接当たらない部分は白、ということでツートーンになっています。結果として全体としては「白過ぎない城」に戻ったようです。経年変化は早かったですね。
NHKの新プロジェクトXで、姫路城平成の大修理における屋根瓦の白漆喰塗りの物語が放映されました。
番組の記憶をたどると・・・
平成の大修理で、屋根の漆喰塗りの工事はX社が受注しました。ところが、X社は姫路城の屋根の漆喰塗りに特有の技術を保有していなかったのです。
普段から姫路城の修理を行っており、屋根の漆喰塗り技術を保有している会社がありました。Y社です。Y社のBさんがその技術を保有していました。
X社のAさんは、左官の高度の技術を有する職人でした。X社が工事を受注したので、Aさんが中心になって施工することになったのですが、左官のプロとはいえ、姫路城の屋根独特の技術はわかりません。
窮地に立ったX社のAさんは、技術を保有しているY社のBさんに教えを請いに行きます。本来であれば、受注をのがしたY社が、競争相手のX社に技術を開示する義理はありません。それはAさんも分かっています。しかしAさんは腰を低くしてBさんに接触しました。
そこでY社のBさんは、X社のAさんに技術を開示することを決断するのです。
一番上の屋根の写真でわかるように、瓦に塗った漆喰の縁の部分が5mmほど盛り上がっています。この盛り上がりを造ることが、一番大切なコツであり、左官のプロであっても一朝一夕ではこの技術が習得できません。AさんをはじめとするX社の職人たちは、Bさんに教わりながらコツを習得しました。
こうして、姫路城の屋根瓦の漆喰塗りは、無事に完成できたのです。

この話、美談ではありますが、そもそも、なぜ技術を保有しているY社が受注しなかったのか、という点が問題です。
ここからは想像ですが、一般競争入札でX社はY社よりも安値で応札し、結果として機械的にX社に発注してしまったのではないか。
発注元が、
 姫路城の屋根瓦の漆喰塗りには特別な技術が必要
 特別な技術を保有しているのはY社
という点を把握していれば、見積額の高低ではなく全体の必要性からY社に発注すべきだったのです。この想像が正しいのであれば、今回のトラブルは発注元の凡ミスです。もしX社のAさんが高い技術を有しながら腰を低くしてBさんに教えを請う勇気を持っていなかったら、もしBさんが意気に感じて競争相手に技術を開示することをしなかったら、姫路城の屋根の漆喰塗りは失敗していたことでしょう。
技術移転にX社からY社に費用が支払われたかどうかは番組ではわかりませんでした。もし技術移転料が支払われており、結果としてX社は赤字で工事を完了したとしたら、X社の営業の凡ミスです。工事には高度な技術が必要なことを理解せず、安値で応札してしまったのが原因だからです。

ところで、姫路城の屋根瓦にはなぜ漆喰を塗り込めているのでしょうか。
ネットで以下の記事を見つけました。
瓦職人の目線で検証: 姫路城の漆喰~その①
瓦職人の目線で検証 その② 姫路城の屋根しっくい
『姫路城のシックイ工法は、首里城(沖縄県)と熊本城以外の日本の他の地域の城郭や仏閣では例がない。
水はけの悪いシックイは、”本瓦葺き”の特徴と 本平瓦と丸瓦の優位性を抹殺している。
時を同じくして世界文化遺産となった木造建築の”法隆寺”を想い合わせると、その差は歴然。』
この記事の意見からすると、「姫路城屋根瓦の漆喰塗りはやめた方が良い」ということのようです。
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姫路城訪問

2025-03-14 19:20:16 | 趣味・読書
3月9日、姫路城を訪問しました。
前日に姫路市内のホテルに入り、9日朝から姫路城に向かいました。往きは体力の温存のため、姫路駅前からバスでお城に向かいました。


⑬天守閣 ③菱の門から


全体案内図

拡大案内図

城内に入るには、南端の内堀にかかる①桜門橋を渡り、大手門から入ります。

①桜門橋と大手門 ⑬天守閣を遠望


①桜門橋と水堀


①桜門橋と大手門

大手門から先は広い②三の丸広場が広がります。②三の丸広場の先の丘の上に、⑬天守閣が聳えています。上の全体案内図(明治時代初期)によると、③三の丸広場には多くの建物が密集しています。今はそのすべての建物がなくなり、広場になっています。

②三の丸広場と⑬天守閣

望遠で⑬天守閣を眺めます(下写真)。②三の丸広場の先に、②三の丸広場より一段高い曲輪(⑮お菊井戸がある上山里曲輪)を支える石垣がそびえています。上山里曲輪は、周囲の石垣の上の全周が白い土塀で囲まれ、左端の櫓はリの一渡櫓です。
上山里曲輪の奥のさらに一段高い曲輪(⑭備前丸)を支える石垣がそびえ、そしてその奥に、石垣の上に⑬天守閣が聳えています。右が大天守、左手前が西小天守、左奥が乾小天守です。

②三の丸広場から⑬天守閣 

入城するための③菱の門に近づくと、左は小高い台地が石垣で囲まれた⑰西の丸です。⑰西の丸はその全周が土塀や多門櫓で囲まれています。下写真は、⑰西の丸の南東端にそびえる⑳カの櫓です。

⑳カの櫓


③菱の門(城外から)
③菱の門から城内に入ります。

③菱の門(城内から)
③菱の門の城内側には水をたたえた④三国堀です。④三国堀の先の石垣の上は二の丸です。二の丸の先のさらに高い石垣の上に、⑬天守閣を望むことができます。

④三国堀と⑬天守閣
こから見る⑬天守閣、左から乾小天守、西小天守、そして大天守です。

⑬天守閣 ③菱の門から

さて、ここからは⑬天守閣に至るルートをたどります。

⑤いの門(③菱の門側から)


⑤いの門(城内側から)


⑥ろの門


⑦はの門へ向かう


⑧にの門


⑨ほの門 天守曲輪への西側からの進入路に位置します。石垣を切り通して通路とした部分を仕切る現存する門で、埋門(うずみもん)の形式です。


⑩姥が石
羽柴秀吉が姫路城築城の際に石垣の石集めに苦労していた時、貧しい老婆がその話しを聞きつけ、せめてこれをと石臼を差出し秀吉を喜ばせたとの伝説があります。この噂が町中に広まり、多くの石が集まったそうです。今も上写真のように、乾小天守北側の石垣に残っています。


⑪水二門


⑫水の三門(天守閣側から)

数々の路地と門をたどり、⑬天守閣にたどりつきました

⑬天守閣内部


天守閣内の階段


天守閣内の武具掛け

こうして⑬天守閣内部訪問を終えました。
下2枚の写真は、⑬天守閣の南側、⑭備前丸から⑬天守閣を望んでいます。

⑬天守閣 左手前西小天守 左奥乾小天守 右大天守


⑭備前丸から⑬天守閣 左に西小天守 中央に大天守 右下に備前門入口
上の写真の右下の部分に備前門があります。この備前門を経由して、城を下ります。

下写真の穴の先には、腹切丸という狭い曲輪があるようです。いつの頃からか腹切丸と呼ばれていますが、切腹が行われていた場所ではないそうです。

腹切丸

上山里曲輪に至ります。
⑬天守閣から②三の丸広場方面を眺めたのが下写真です。写真の上半分が②三の丸広場、下半分が②三の丸広場よりも一段高い上山里曲輪で、⑮お菊井戸が見えます。上山里曲輪は石垣の上に土塀が築かれ、写真の右端にはりの一渡櫓が見えます。

奥が②三の丸広場 手前中央にお菊井戸 右にりの一渡櫓 

上山里曲輪にあるお菊井戸には、「播州皿屋敷」の標識があります。

⑮お菊井戸
私は、「番町皿屋敷」なら聞いたことがあります。全国に「皿屋敷」伝説があるらしく、「番町」も「播州」もその系統のようです。10枚そろいの大切な皿の1枚を、お菊という女性が割ったと濡れ衣を着せられ、井戸に投身して(投げ込まれて)死去し、以後井戸で夜な夜な「いちまーい、にまーい... 」と皿を数える情景が周知となっている怪談話の総称です。その点では両方とも同じストーリーのようです。ここ姫路城の「播州」の方は、室町時代、細川家のお家騒動を背景としているそうです。


⑯ぬの門(城内側から)
ぬノ門の扉、柱、冠木などはすべて鉄板で覆われています。また、櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっていますが、この形の櫓門はかつて金沢城、彦根城、津山城、伊予松山城にもありましたが、現存例では日本でここだけ、という貴重なものだそうです。

こうして、元来た③菱の門に戻ってきました。ここから、⑰西の丸に向かいます。下の2枚の写真は、⑬天守閣から⑰西の丸方向を見た写真です。
 奥が⑰西の丸 左に⑳カの櫓 右に⑱ワの櫓

⑬天守閣から 手前中央に③菱の門

奥が⑰西の丸 中央左にルの櫓 右奥にヌの櫓 右手前に⑲化粧櫓

⑬天守閣から 手前下方に⑤いの門、⑥ろの門
⑰西の丸は、②三の丸広場からは石垣が構築された一段高い曲輪になっています。そして⑰西の丸の周囲は、石垣の上に多くの櫓、櫓の間をつなぐ土塀や多門櫓で囲まれています。
下写真は③菱の門の横から⑰西の丸に登っていく坂道です。ここにはかつて西の丸への門がありました。下写真の中央には正方形の礎石が残っています。

⑰西の丸  南門跡


⑰西の丸から見た⑬天守閣

⑰西の丸の周囲の、⑱ワの櫓(下写真)から⑲化粧櫓までの間は、内部に通路を有する多門櫓となっており、百間廊下と呼ばれています。

⑱ワの櫓


百間廊下内部

百間廊下の西側は、はるか下に水堀があります。水堀の先は好古園でしょうか。水堀と好古園の間は途切れることなく土塀が健在です。

百間廊下から西方を見る

男山千姫天満宮は、姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。城内から遙拝できるよう、東向きに造営されています。
千姫天満宮の方向を撮ったのですが、どこにも社殿を見つけることができません。

千姫天満宮
千姫は、徳川家康の孫、秀忠とお江の方の娘で、7歳で豊臣秀頼に輿入れしました。大坂の陣では大阪城から脱出し、秀頼と淀君の助命を嘆願しましたが聞き入れられませんでした。その後秀頼と淀君は大阪城で自害してしまいます。大坂の陣の後、千姫は本多忠刻と再婚して桑名城に入り、本多家が播磨姫路に移封になった際に姫路城に移りました。
本多忠刻は、本多平八郎忠勝の孫で、忠刻も平八郎と呼ばれているので直系の嫡男なのですね。本多平八郎忠勝については、このブログの大多喜城訪問 2025-01-22でも話題にしました。

⑱ワの櫓に始まり、⑲化粧櫓に至るまでの百間廊下をたどり、外に出ます。

手前に⑲化粧櫓 ⑬天守閣を遠望
この⑲化粧櫓は、千姫が忠刻に嫁いできた時に与えられた10万石の化粧料、今でいう持参金の一部で 造ったもので、千姫が信心していた男山天満宮を拝むときの休息の場所、化粧の間であったと いわれているそうです。

こうして、姫路城の探索を終わりました。
ここまで見てきてわかるように、姫路城というのは、有名な天守閣のみならず、石垣の上に構築された多くの曲輪、曲輪のまわりの櫓や土塀、多門櫓が、数多く残っています。このようなお城訪問は初めての経験でした。

《姫路城の来歴》
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張されました。さらに関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へと拡張されました。
江戸時代には、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置され、大名が頻繁に交替して城主になっています。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や、親藩の松平氏が配属され、明治に至りました。
1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際に兵舎の増築のため本城と向屋敷、東屋敷等の撤去が行われました。また1882年(明治15年)には失火で備前丸が焼失しました。
太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れました。

姫路城は、白壁だけではなく、瓦屋根も白い漆喰で塗り固められています。下写真がそれです。

屋根瓦の白漆喰塗り
NHKの新プロジェクトXで、姫路城平成の大修理における屋根瓦の白漆喰塗りの物語が放映されました。
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100名城・続100名城のまとめページ(最初の50城)

2025-03-01 16:03:52 | 趣味・読書
日本100名城・続100名城の訪問記について、まとめページを作りました。
 《最初の50城》

3月9日、姫路城訪問 2025-03-14


2月15日、水戸城を訪問


2月2日 和歌山城訪問


2月1日、大阪城訪問


2025年1月18日、千葉県の大多喜城を訪問


1月2日、奈良の大和郡山城を訪問


1月1に京都の二条城を訪問


2024年12月9日、甲府城を訪問


12月8日武田氏館、要害山城を訪問


11月30日に茨城県の笠間城を訪問


11月18日、米原の鎌刃城を訪問


1月17日に近江の八幡山城を訪問


11月9日、浜松城を訪問


11月3日、群馬県高崎市にある箕輪城を訪問


10月26日、八王子城を訪問


10月21日、名古屋城を訪問


10月20日美濃金山城を訪問


小牧山城訪問


10月20日 犬山城を訪問


10月13日、八王子市にある滝山城を訪問


9月29日、静岡県三島市にある山中城を訪問


根城


九戸城


9月22日盛岡城


9月16日、静岡県沼津市にある興国寺城を訪問


松代城


小諸城


上田城


8月17日 龍岡城五稜郭
龍岡城

7月20日、埼玉県寄居にある鉢形城を訪問


7月15日には彦根城を訪問


7月14日観音寺城を訪問


7月14日安土城訪問


6月29日(土)、掛川城を訪問


志苔館


五稜郭


6月9日(日)、滋賀県長浜市の小谷城(おだにじょう)


5月25日杉山城


5月25日菅谷館跡


5月5日、小机城を訪問


5月3日、埼玉県の行田にある忍城を訪問


4月30日諏訪の高島城を訪問


4月29日に松本城


4月20日(土)静岡の駿府城を訪問


本佐倉城を訪問


佐倉城を訪問


2月24日、124番品川台場を訪問


2月17日に川越城を訪問


2月11日、初回として小田原城を訪問



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