弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

レコードプレーヤー(2)

2014-10-23 21:19:48 | 趣味・読書
レコードプレーヤー(その1)で書いたように、我が家でレコードプレーヤーが稼働しました。ターンテーブルにはテクニクスSL-1200を用い、トーンアームにはグレースのG-940、そしてカートリッジはフィデリティリサーチのFR-1 MK2(ムービングコイル)です。このカートリッジのため、フォノイコライザーもMM/MC両用のオーディオテクニカAT-PEQ3に買い換えました。

トーンアームはオイルダンプであり、オイルはとっくの昔に抜けているので、粘度100,000cStのシリコーンオイルを購入して注入しました。
オイルダンプ用のオイルについて参考にさせていただいた趣味YOUYOUのmini4312さんから、グレースのトーンアームに関する貴重な情報をいただきました。
カートリッジ背面の配線ピンは、ヘッドシェルのピンとの間をワイヤーで接続します。そして、ヘッドシェルをトーンアーム先端に取り付けると、ヘッドシェルの端部に突出したピンがトーンアームの電極と接触して接続がなされます。
ヘッドシェルのピンには4本のワイヤーが接続されており、緑、赤、青、白の4色となっています。この4色を、カートリッジ背面の配線ピンの色と合うように取り付ければOKです。
ところが、mini4312さんに紹介いただいたあぺとぺ た~さんのブログによると、グレースのトーンアームは左右のコネクターがその他メーカーのトーンアームと比較して逆接続になっているというのです。
私はそんなことには気づかず、カートリッジ(FR-1 MK2)を普通のとおりにヘッドシェルに接続して使っていました。
そこでさっそく、オーケストラ曲のレコードをかけて聴いてみました。確かに、コントラバスが左から聞こえます。左右が逆に接続されていることが確かめられました。

下の写真は、グレースのヘッドシェルです。右の写真で、緑・赤の配線が右側に、青・白の配線が左側に接続されています。これが他のヘッドシェルですと、緑・赤が左に、青・白が右に接続されているのです。
  
現在使っているカートリッジ(FR-1 MK2)とヘッドシェルとの配線を、上のグレースの写真に見えるとおりに接続しなおしました。
その結果として、現在は無事にコントラバスが右から聞こえるようになりました。
上の写真のグレースのヘッドシェルは、私が入手したときにはFR-1 MK2が接続されていました。しかしなぜかスピーカーから音が出なかったので、予備のヘッドシェルに付け替えたのです。
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和田堀給水所(2)

2014-10-19 18:41:47 | 杉並世田谷散歩
京王線の代田橋と明大前の間で、南側の車窓から和田堀給水所を見ることができます。この和田堀給水所が建て替え工事に入っていることについて、本年1月に記事にしました。その時点では、まだ現地を見ても給水プールに変化は見られなかったのですが、それから10ヶ月が経過し、だいぶ土木工事が進捗してきたようです。10月19日に現地に出かけて写真を撮ってきたので、ここで経過を報告しておきます。

和田堀給水所には地上タンクが2つあります。円筒形のタンクと、方形のタンクです。現時点で、円筒形のタンクについてはまだ工事の形跡はありません。
一方、方形のタンクについては、その四方が土手で囲まれているのですが、その土手の一部が撤去されてコンクリート製の壁が露出しています。今回はその状況について、本年1月時点での写真と対比して説明します。

《正面の門から》
 
2014.10.19.

《正面の門から》
  
2014.10.19.                       2014.1.12.

《北東の角から》
  
2014.10.19.                       2014.1.12.

《南西の角から》
 
2014.10.19.                       
 
2014.1.19.
遠景に東京都庁舎が見えます。
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ピアノ発表会2014秋

2014-10-17 00:01:43 | 趣味・読書
秋のピアノ発表会が終わりました。
第14回フィガロ音楽院発表会が、こちらの日程で順次開催されています。私は、10月13日(18時~)に東部フレンドホールで弾いてきました。
東部フレンドホールは2回目です。最初は去年の秋でした。そのときの様子は、「ピアノ発表会2013秋」でご覧ください。

弾いた曲は、夏の発表会と同じ、下の2曲です。
○ シューマン 子どもの情景より 「トロイメライ」
○ ベートーベン ピアノソナタ「月光」第1楽章

10月13日(18時~)といえば、台風19号が心配されたまさにそのときです。東部フレンドホールは、都営新宿線の瑞江駅そばです。杉並の我が家から行くと、荒川を超えます。帰りの新宿線が荒川を超えられずにストップすると、私は足止めになってしまいます。そんな覚悟も秘め、会場へ向かいました。

1曲目、シューマンのトロイメライは、今回我ながら上手に弾くことができました。
しかし、2曲目のベートーベン「月光」第1楽章は途中で止まってしまいました。若干の空白時間の後、少し戻ったところから弾き直し、今度は何とか無事に最後まで辿り着きました。

トロイメライは弾き始めてから2年になります。月光はまる1年です。
さて、これからの1年間、どんな曲に挑戦するか、次回のレッスン日に先生と相談することになります。
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レコードプレーヤー

2014-10-13 21:34:45 | 趣味・読書
我が家にも昔はレコードプレーヤーがありました。しかし、1995年頃、雑音が出るようになり、それ以来使わなくなりました。
義母の家で長い間預かっているレコードプレーヤーがあるのですが、預けたご本人が亡くなり、引き取り手がいなくなりました。そこで、我が家で引き取って使ってみることになりました。しかし、どんな装置なのか何も情報がありません。

我が家に宅配便が届きました。レコードプレーヤーは購入時の段ボールに収納されています。それ以外に、レコードを満載した段ボールも多数届きました。
プレーヤーは分解されてきれいに梱包されていましたが、使用説明書がありません。搬送用のビスが2カ所あったので、それは外しました。そして電源を入れてみましたが、ターンテーブルが回りません。「故障かな」と心配しながらいじっていたら、ターンテーブル回転軸を両側から押さえているプラスチックに気づき、それを外してみたところ、無事に回り始めました。

ところで、このプレーヤー、附属しているべきトーンアームが箱の中に見当たりません。トーンアームを新たに購入するとなると計画が狂います。しかし、どこかにあるに違いない。そこで、レコードが収納された段ボール箱の一つを見定め、「これだろう」と開けてみました。すると、予測通り、そこにはトーンアームの箱が入っていたのです。
トーンアームについては使用説明書が同梱されていたので、何とか組み立ててみました。
できあがったのが以下のシステムです。
プレーヤー本体はテクニクスのSL-1200でした。こちらのサイトによると、「テクニクスが,1972年に発売したプレーヤーシステム。現在まで続くSL-1200シリーズのスタートがこの 初代SL-1200でした。」とあります。
 
プレーヤーシステム SL-1200(テクニクス)

トーンアームはグレースのG-940です。こちらは、箱の中に購入伝票が入っており、50年12月14日の日付があります。このトーンアーム、説明書には「ワンポイント・サポート・オイルダンプ・アーム」とあります。オイルダンプ?、これについてはあとで説明します。
 
トーンアーム G-940(グレース)

カートリッジは、FR-1 MK2と記されたものが同梱されていました(左下写真)。
  
カートリッジ FR-1 MK2(フィデリティリサーチ)       AT9V(オーディオテクニカ)
さて、「オイルダンプ」はさておき、取りあえずプレーヤーをアンプに繋ぎ、レコードに針を落としてみました。ところが、スピーカーはうんともすんとも言いません。さて、面倒なことになりました。今回つないだアンプはAVレシーバーであり、フォノ入力がありません。そのため、フォノイコライザーを事前に購入していました。このため、カートリッジ→アーム→フォノイコライザー→アンプのすべての接続が今回初めてです。従って、どこの接続に問題があるのか、絞り込みが大変です。
幸い、私自身が1988年頃に購入したカートリッジを保管していました。右上写真のAT9V(オーディオテクニカ)です。そこで、カートリッジをこれに交換し、再度トライしてみました。するとどうでしょう。見事にスピーカーが鳴り出しました。これで、問題がカートリッジ、あるいはカートリッジとアームの接続にあると絞り込まれました。
今回の探ボール箱の中に、ヘッドシェルも一つ入っていました。そこで、FR-1 MK2を予備のヘッドシェルに付けなおしてみました。すると今回は、ごく小さな音がスピーカーから聞こえてきます。ハッと気づきました。FR-1 MK2はMM(ムービングマグネット)ではなく、MC(ムービングコイル)なのではないか。調べてみると、こちらのサイトにありました。確かにこのカートリッジはMCです。
今回、フォノイコライザーとして以下のものを準備していました。
audio-technica フォノイコライザー AT-PEQ3
クリエーター情報なし
オーディオテクニカ
MCには対応せず、MM専用です。私としては、MCを使うことを想定していませんでした。しかし、今回入手したカートリッジがMCであることが判明しました。せっかくいい装置を導入したのに、肝心のカートリッジが私の低価格品ではバランスが取れません。やむを得ません。MCにも対応するフォノイコライザーを購入することにしました。
audio-technica フォノイコライザー AT-PEQ20
クリエーター情報なし
オーディオテクニカ
そして到着したのが以下の製品です。押しボタントグルスイッチにより、MCとMMを切り替えます。

フォノイコライザー AT-PEQ20(オーディオテクニカ)

これにより、FR-1 MK2が使えるようになりました。

最後は懸案の「オイルダンプ」です。私自身、オイルダンプという言葉に聞き覚えがあります。小学校高学年の頃、1960年頃ですね、トーンアームの方式としてオイルダンプがあり、高級品に選ばれているということでした。全体形状に特徴がありました。こちらの写真のように、根本が太くなる形状であったことをいまだに覚えています。しかしその後、オイルダンプアームにお目にかかったことはありません。てっきり、絶滅したと思っていました。まさかそのオイルダンプアームを入手することになるとは。
私が入手したオイルダンプアームもグレース、そして大昔の上記写真もグレースということは、グレースはオイルダンプアームと因縁が深いのですね。

普通のトーンアームは、ベアリングの軸受で支持されています。アームは、上下方向、左右方向には自由に動きますが、アーム軸回りには回りません。これでカートリッジのたおれを防止できます。
一方、今回使用しているアームは、「ワンポイントサポート」とあるように、アームはやじろべいのように支持されています。サポートポイントの回りに、上下方向、左右方向に加え、アーム軸回りにも回転自由です。しかしこれでは、レコードに針を置いた後にもアームは軸回りにゆらゆら揺れてしまいます。そこで登場するのがオイルダンプです。高粘性のオイルを封入することにより、揺れを制動するようなのです。オイルダンプの目的は他にもあるようですが、取りあえず私としては、軸回りの揺れを防止することは必須です。

私が入手したアームは、段ボール箱の中にアームが垂直方向に収納されていました。この状態で30年以上経過しているはずですので、もしオイルが入っていたとしても抜け出ているはずです。梱包にオイルの跡がありませんでしたから、梱包する前にオイルを抜いていたのでしょう。この辺の事情については、ご本人が亡くなっているので確かめようがありませんが、現時点でオイルが入っていないことは確かです。
ネット検索したところ、趣味YOUYOUさんのサイトが見つかりました。同じG-940をヤフオクで入手され、オイルを入れて使っておられます。「シリコンオイルは100,000cstを使いました。」とあります。アマゾンで検索したらすぐに見つかりました。また、高粘性なので注射器がないと入れづらい、ということで、注射器も検索しました。
AZ シリコーンオイル 粘度100,000cSt 20ml( シリコンオイル・潤滑油)
クリエーター情報なし
株式会社エーゼット
AZ注入型計量容器 2.5ml MJ101
クリエーター情報なし
AZ(エーゼット)
これらを購入し、準備万端です。
  
キャップを外したところ                     外したキャップ

 
注射器でオイル注入                       完成
オイルは、確かに水飴のように高粘性です。蓋を外して容器を傾け、口の近くまでオイルを導き、注射器でオイルを0.5ccほど吸入し、それをアームの注ぎ口から注入しました。
 
オイル                             2.5cc注射器

オイル注入前と後のアームの振動状況を動画に撮りました。針をレコードに置くのではなく、アームをアームリフターに支持させた状態です。従って、振動状況は針を置いた場合より強調されているはずです。オイル注入前はアーム軸回りの回転振動(ヘッドの左右への振れ)がなかなか減衰しないのに対し、オイル注入後は数回の振動で減衰していることがわかります。取りあえず、オイルダンプしないとアーム軸回り回転振動が発生すること、オイルダンプして振動が減衰することが実際に確認できました。
オイル注入前の動画 オイル注入後の動画

こうして、我が家にやってきたレコードプレーヤーが稼働を開始しました。
我が家で20年以上眠っていたレコードを取り出し、順番にプレーヤーにかけています。久しぶりに部屋の中を音楽のサウンドで満たす幸せに浸っています。
もっとも、我が家の再生装置は、スピーカーにしてもBOSE 101MMを天井から吊したものでして、今回入手したレコードプレーヤーが実力を発揮しているかどうかは不明です。
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肥薩線一周ぐるりんきっぷの旅

2014-10-11 22:02:07 | 趣味・読書
22日(月)朝、まずはホテルからの桜島遠望です。残念ながら天気はあまり良くありません。
 
桜島


《肥薩線一周ぐるりんきっぷの旅》
本日は、鹿児島中央駅を起点としてJR九州の観光列車を乗り継ぎ、一周して帰ってくる日帰りの旅です。

今回は以下の列車を利用し、時計回りに回ってきました。
○ 鹿児島中央9:25-11:08吉松 はやとの風2号
○ 吉松11:49-13:05人吉 しんべい2号
○ 人吉14:38-16:30新八代 SL人吉
○ 新八代-鹿児島中央 新幹線

このルートの回り方として、逆に反時計回りに回ることもできます。そちらの方が一般的なようです。当初、我々も反時計回りを計画したのですが、予約開始の数日後に予約しようとしたところ、最後の「はやとの風」で予約ができないことがわかりました。時計回りならば何とか予約可能ということで、今回は上のようなルートになったのです。
予約できたといっても、総勢8人のうち座席指定が買えたのは6人、残り2人は座席が確保できていませんでした。

予約は電話で行ったのですが、切符の受け取りはJR九州の駅でないとできません。前日、鹿児島中央駅で切符を受け取りました。そのとき、はやとの風の残り2名の座席が取れないか、確認したのですが、やはりだめでした。
当日の朝、再度みどりの窓口で確認したところ、何と座席指定券が取れたのです。

《はやとの風》
 
全員の座席指定が取れ、安心して電車に乗り込みました。
電車は2両編成です。自由席車両にも座れない人はいないようです。これなら、自由席乗車券のまま乗っても座席には事欠かなかったでしょう。
  
我々の車両                          別の車両

また、各車両の中央には、左右に展望席があります(左下写真)。ここは自由席で、我々グループが座りたいと思うときにはいつでも座ることができました。
  
車両中央の展望席                      車窓から桜島

鹿児島中央駅から走り出してすぐ、車窓からは桜島を望むことができました(右上写真)。
 
運転席                       

電車は、いくつかの駅で5~7分の間停車し、乗客は電車を降りて駅舎観光を楽しみます。最初は嘉例川駅です。10:20に着いて7分間停車しました。
嘉例川駅は1903年(明治36年)1月15日に営業を開始し、駅舎は開業当初からの木造建築ということです。築109年ですか。
  
嘉例川駅

次は大隅横川駅です。駅舎は開業時からのもので、鹿児島県では嘉例川駅のものと並び最古だとのこと。ホーム上の柱には、機銃掃射で打ち抜かれた弾痕が残っています(下写真)。この弾痕の大きさだと、何mm弾でしょうか。12.5mm程度でしょうか。
  
機銃掃射の跡(大隅横川駅)

高木敏子著「ガラスのうさぎ (フォア文庫)」では、主人公の母親は自宅での空襲で帰らぬ人となり、父親は駅舎に避難しているときに機銃掃射の銃弾に斃れました。
ここ大隅横川駅への空襲については、記録を見つけました。
「バラバラバラッ――。1945年7月30日。国民学校5年生だった下甑町(しもこしきまち)善治さん(76)は、米軍機の機銃掃射を浴びる大隅横川(おおすみよこがわ)駅を、防空壕(ごう)から見ていた。」
「駅の裏手の家々は焼け、友達が何かの破片で頬をえぐられた。のちに聞いた話では、駅舎の屋根はハチの巣と化し、中から夏空がはっきり見えたという。」
周辺の皆さんは防空壕に逃げ、機銃掃射の犠牲になった方はおられなかったようです。

はやとの風に乗っての1時間半、ずっと同じ車掌さんとCAさん(と呼ぶのでしょうか)のお世話になりました。下のお二人です。ありがとうございました。
  
車掌さん                     CAさん

はやとの風は吉松に到着しました。ここで40分ほど待って、次はしんべい2号に乗車します。

《いさぶろう・しんべい》
“しんべい”と“いさぶろう”が走っている区間(吉松-人吉)は、山間を走る区間であり、標高を稼ぐためにスイッチバックやループ区間を持っていることが特徴のようです。スイッチバックは2カ所あります。
 
最初のスイッチバックは真幸(まさき)駅です。下の地図が真幸駅付近の地図、上の写真が真幸駅に停車したしんべい2号です。真幸駅は、その名前から、入場券などで人気があるそうです。また、ホームの中程に「幸せの鐘」が置かれています。真幸駅は、このルートで唯一宮崎県内でした。

客車内の様子は、先ほど乗ったはやとの風と同様、木でデザインされています。
 
客車内

2つ目のスイッチバックは大畑(おこば)駅です。

上の地図にあるように、鹿児島から北上するとまずループの頂上に出ます。ループが交差するあたりから、大畑駅を見ることができます。下の写真です。
 
スイッチバック

この光景を見るために一時停車し、その後電車は走り出します。ループを回りながら下っていくのですが、ループの全体を見ることはできません。
ここは、スイッチバックが2カ所あります。スイッチバックのたびに運転手さんはブレーキハンドルを手に持って先頭から後端まで移動します。下の写真、左は最初のスイッチバックで社内を移動する運転手さんです。残念なことにブレーキハンドルが見えなくなる瞬間でした。右の写真は、大畑駅に停車し、車掌さんと一緒にホームを移動する運転手さんです。
  
スイッチバックで運転手さんが移動

蒸気機関車の時代、人吉から上ってきた蒸気機関車は給水の必要がありました。大畑駅は、そのためにつくられた駅ということです。スイッチバックを併せ持ったのは勾配途中に平坦な場所を設け、そこに停車場を建設するためだったとのことです。
  
大畑(おこば)駅                  球磨2号

大畑駅の駅舎には、名刺がたくさん貼ってあります(左上写真)。名刺を貼ると出世する、と言われているそうです。私も名刺入れを探しましたが、たまたま名刺が切れていました。これは出世できそうもありません。
 
いさぶろう・しんべい(右)と九州横断特急(左)のツーショット

しんべい2号は人吉駅に到着しました。ここからSL人吉号に乗り換えますが、1時間半待ちです。人吉の町に出て昼飯をとることにしました。
ここはもう熊本県です。
自衛隊の熊本地方協力本部では、迷彩くまもんが出迎えてくれました(左下写真)。駅の売店は、くまもんづくしです(右下写真)。
  
迷彩くまもん                     駅売店(くまもんづくし)

人吉温泉物産館に入って昼食としました。おしぼりももちろんくまもんです(右下写真)。
  
人吉温泉物産館                     くまもんおしぼり

 
人吉駅
人吉駅の駅前には、お城をかたどったからくり時計が立っています。昼食時間を調整し、2時に駅前に帰ってきました。2時になると、音楽とともに四方のお城の窓が開き、殿様やそのほかの人たちが元気に活動していました。
  

  

《SL人吉》
人吉から新八代までは蒸気機関車に引かれたSL人吉です。機関車のトップには「58654」のマークがあります。ウィキペディアの国鉄8620形蒸気機関車58654号機に説明がありました。1922年(大正11年)日立製作所笠戸工場製(製造番号 62)で、1975年(昭和50年)に廃車され、人吉鉄道記念館に展示されていました。廃車までに走行した距離は300万km余りでした。1987年に蒸気機関車を復活させることとなり、この58654号機が選ばれました。ボイラーは使えなくなっていたので新日本製鐵が新製したそうです。
2005年に故障し、修復不可能と判断されましたが、奇跡的にも日立製作所に製造時の図面があることが判明し、約4億円を投じて蒸気機関車や客車等を修復して現在に至るようです。
 

  
運転席                        列車の後尾(白石駅にて)

 

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鹿児島市~西郷遺跡巡り

2014-10-08 19:54:02 | 趣味・読書
《21日(日)指宿→鹿児島(城山)》
指宿の宿からレンタカーで走り、まずはJR日本最南端の駅「西大山駅」から開聞岳を眺めましたが、残念ながらもやの彼方にうっすらとした見えませんでした。
 
JR日本最南端の駅「西大山駅」北緯31度11分

昼食はそうめん流しです。
唐船峡そうめん流し鱒乃屋という店でした。私は、そうめん流しといったら、傾斜し竹割り樋を流れ落ちる途中ですくい取る方法しか知りませんでした。「歩留りはどのくらいなんだろう」とつぶやいたところ、「回転式だ」と聞いてびっくりしてしまいました。
 
ドーナツ状の水路に常に水が流れており、そこにそうめんを入れ、反時計回りに回転しているそうめんを箸ですくい取る、という方法です。私は左利きですが、手のひらを裏返して箸ですくい取りました。左利き用の逆回転台もあるようです。

今夜の宿舎は鹿児島市内城山観光ホテルです。早い時間に到着し、各自が自由に行動することとなりました。私は一人で、城山周辺の西郷遺跡を回ることにしました。しかしすごい雨です。ホテルでもらった案内図に従ってまわります。

《鹿児島 西郷遺跡》
ホテルから最初の遺跡である西郷洞窟に向かいます。雨にけむる道路もなかなか絵になります。
 
城山観光ホテルから西郷洞窟へ向かう

石仏十三体
 
『弘法大師の徳を慕う鹿児島市内の観音講の人々が、四国88カ所巡礼になぞらえ、大師の尊像88体を建立しました。城山には、昭和3年につくられた88体の石仏のうち、13体が安置されています。』
安置された像の数は13を超えています。一段高い台に安置された像が13体あったので、これが大師尊像でしょう。この写真も幽玄郷です。

曲がりくねった車道の途中、道ばたに洞窟はありました。このあたり一帯は、岩崎谷と呼ばれているようです。
《西郷洞窟》
 

  
西南戦争 最後の司令部
『1877年(明治10)9月24日 死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。』(説明文)
柵があったので洞窟の深さは確認できませんでしたが、せいぜい深さ1m程度のようでした。この洞窟に何人が過ごしていたのでしょうか。

さらに曲がりくねった車道を下り、平地に達したその先に、西郷隆盛終焉の地はありました。
西郷隆盛終焉の地「晋どん、もうここらでよか」
 
『2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を打ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏して拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877年(明治10)9月24日のことです。』(説明文)

「敬天愛人」トンネル
 
西郷隆盛が最も好んで使った言葉「敬天愛人」(意味は天を敬い、人を愛す)の文字が、JR日豊本線の城山トンネル鹿児島駅側入口に刻まれています。これとは逆に鹿児島中央駅側入口には大久保利通の政治信条「為政清明」 (意味は政治をするには潔白で隠し事があってはいけない)の文字が刻まれているのだそうです。

《私学校跡》
隆盛終焉の地から国道10号線に出ると、そこが私学校跡です。敷地内は、現在は鹿児島医療センターになっているようです。国道に面した石垣と、私学校の門のみが当時を忍ばせるようです。
 

  
私学校については、ずいぶん前に司馬遼太郎著「翔ぶがごとく」を読んだ記憶がかすかに残っている程度です。ホテルの説明書きでは「政界を退いた西郷隆盛と共に帰郷した薩摩藩士たちを指導統率するために、明治7年、鶴丸城の馬小屋跡に私学校が創設されました。」とあります。私学校生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった、ということで歴史上は有名であるようです。

石垣の上に「明治十年戦役弾痕」とあります。石垣の、どの穴が弾痕でどの穴が天然の穴なのか区別がつきません。ホテルの説明書きでは「私学校の石垣には西南戦争で政府軍が浴びせた銃砲弾の弾痕が今もなお残っています。」とあります。
 
石垣に残る銃弾の跡

私学校跡からさら国道10号とお堀の間を進むと、鶴丸城の大手門(楼門)に至ります。大手門から中に入ると、現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館が建っています。
  
鶴丸城跡入口            黎明館

さらに進むと西郷隆盛像です。
  
西郷隆盛銅像

これで、西郷遺跡巡りは終了しました。中央公園を経て、鹿児島市役所方面に歩いていると、前方に銅像が見えてきました。小松帯刀像です。
 
小松帯刀(こまつたてわき)像
「この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。時に小松33歳、慶応3年(1867)10月13日であった。」(説明文)

鹿児島市役所の本館に至りました。立派で趣のある建物です。
 
鹿児島市役所本館

戻る                            続く
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内之浦宇宙空間観測所訪問

2014-10-06 22:37:57 | サイエンス・パソコン
9月19~23日、家族で鹿児島に旅行してきました。
19日(金)羽田から鹿児島へ飛行機で移動、レンタカーを借りてダグリ岬(志布志)へ
20日(土)ダグリ岬遊園地→内之浦宇宙空間観測所→根占→フェリー→指宿
21日(日)流しそうめん→鹿児島(城山)→西郷遺跡(城山周辺)
22日(月)鹿児島中央→はやとの風→吉松→しんべい→人吉→SL人吉→新八代→新幹線→鹿児島中央
23日(火)鹿児島→羽田

まずは、20日(土)に訪問した内之浦宇宙空間観測所です。

内之浦の市街を経て観測所に近づくと、突然道ばたにアンテナが現れます。説明によると、昭和41年(136MHz)、44年(400MHz)に設置され、62年度まで人工衛星の軌道決定に活躍したアンテナということです。国産初の人工衛星「おおすみ」の電波を最初に受信しました。
人工衛星追跡用自動追尾アンテナ
  
左:400MHz  右:136MHz            136MHz自動追尾アンテナ

人工衛星「おおすみ」の像も建っています。

おおすみ
人工衛星は銀色の円錐台の部分だけで、黒い球形部分は切り離されずについてきた最終段ロケットです。

アンテナのすぐ横に、コンクリート製の古い洞窟が開いています。
 
『米軍オリンピック作戦(志布志湾上陸)に備えた内之浦砲台跡
この洞窟は、昭和19年第二次世界大戦のときに米軍の志布志湾上陸を阻止するために造られた砲台跡です。
「この陣地の大砲は、もともと佐賀関町に本部のあった豊予要塞砲を取り外してきたものである。」「砲台構築を目的とした有明作業隊が来たのが昭和19年9月」「そしてこの作業隊は海蔵から高崎へかけての砲台陣地と志布志湾に浮かぶ2つの島に10センチ加農砲2問と12センチ砲2門を据えつける砲兵洞窟陣地を完成させると、20年3月中旬、・・・次の築城場所である佐多の伊座敷へ移動していくことになった。」』(説明板)

「オリンピック作戦」ですか。突然ですね。
昭和45年8月にもし終戦を迎えていなかったら、連合軍(米軍)は日本本土上陸作戦を敢行するところでした。最初は九州、続いて関東です。九州上陸作戦を米軍は「オリンピック作戦」と読んでいましたが、これは終戦後にわかることです。
この話になると、堀栄三著「大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)」を思い出します(こちらの記事)。
堀氏は日本帝国陸軍の情報参謀で、ルソンの山下奉文司令官の情報参謀を経て、昭和20年に大本営に転属になりました。大本営で堀氏らは、米軍の九州上陸作戦(米国名オリンピック作戦)を
「米軍の九州への使用可能兵力は15個師団、上陸の最重点指向地点は志布志湾、時期は10月末から11月初旬の頃」
と予測し、これが実にピタリだったようです。関東への第二次上陸作戦についてもピタリと当てます。
終戦後、堀氏は連合軍総司令部(GHQ)から呼び出しを受けました。行ってみると、「日本はなぜ米軍のオリンピック作戦をこれだけ正確に予測できたか。米国の暗号が解読されていたのではないか」という疑問に対する尋問だったのです。
ここ内之浦は、その志布志湾の一部なのでした。
洞窟の説明書きによれば、この砲台は、堀氏が大本営で米軍志布志湾上陸を予測する以前から着工されていたようです。

《内之浦宇宙空間観測所》
 
内之浦宇宙空間観測所施設配置図

観測所入り口で入場の受付を済ませ、レンタカーでそのまま場内に入りました。
 
34mφパラボラアンテナ

門衛所から入ると、まず糸川英夫博士の像と人工衛星「おおすみ」打ち上げ記念碑です。やはり、内之浦にとっての最大のメモリアルは、糸川英夫博士と「おおすみ」なのでしょうね。糸川博士は、朝日新聞が掲載した記事が原因でバッシングを受け、東大を退官しました。おおすみの打ち上げ成功は糸川博士の退官後のこととなりました(糸川英夫氏生誕100年と朝日新聞)。
なお、内之浦に立つ糸川博士の銅像(下写真)も、博士の生誕百年を記念して平成24年に建立されたようです。
  
糸川英夫博士の像         人工衛星「おおすみ」打ち上げ記念碑

さらに進むとKSセンターです。コンクリート製の大きな構築物があります。どうもこれがランチャードームのようです。
 
KSセンター(観測ロケット打ち上げ場)ランチャードーム

一度門衛所まで戻り、別の道を進んでM(ミュー)センターへ行きます。
《M(みゅー)センター》
ここは、小惑星探査機「はやぶさ」を打ち上げたM-V(ミューファイブ)の打ち上げ場でした。そして現在は、イプシロンロケットの打ち上げ場になっています。
 
左:ロケット組み立て室  右:発射装置

 
左:ロケット組み立て室 右:衛星整備室 奥に発射装置

 
発射装置

ロケットは、各段ごとにロケット組み立て室で組み立てられるのでしょうか。衛星本体は衛星整備室で整備されるのでしょうね。そして個々に組み立て室から整備塔に運ばれ、この整備塔で全体が組み立てられる、という段取りだと思われます。
上の写真で、高い鉄骨構造物(やや古ぼけている)が整備塔、ちょっとだけ見える赤い構造物がランチャー、右端のコンクリート構造物が発射台と思われます。整備塔で組み上がったロケットはランチャーにあずけられ、そのランチャーが整備塔側からコンクリート発射台側にくるっと回転し、コンクリート発射台の上にロケットが載置されるのでしょう。

「はやぶさ」を載せたM-Vも、イプシロンの1号機も、同じこの整備塔で整備されて大空へ飛び立っていったのでしょう。

 
M-V-1(ミュー・ファイブ・1)模型

内之浦宇宙空間観測所の滞在時間は、30分程度でした。
午前中はダグリ遊園地で孫たちを遊ばせ、途中の道の駅でゆっくり昼食をとりました。そしてこのあと、根占からの最終フェリー30分前に根占につこうとすると、内之浦の滞在時間が30分しかとれないことがわかったのです。
雨も降ってきました。それもあって、内之浦の見学はそれこそ駆け足で、屋外の施設を写真に撮るだけに終わりました。

続く
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朝日新聞の慰安婦誤報問題

2014-10-04 10:52:08 | 歴史・社会
慰安婦問題 「国際社会から正当な評価を受けることを求めていく」首相
2014.10.3 産経新聞
『衆院予算委員会が3日午前始まり、安倍晋三首相と全閣僚が出席した。安倍首相は朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道について「誤報で多くの人々が傷つき、悲しみ、苦しみ、怒りを覚えたのは事実だ。日本のイメージは大きく傷ついた」との見解を示した。
また、「政府としては客観的な事実に基づく正しい歴史認識が形成され、日本の取り組みに対して国際社会から正当な評価を受けることを求めていく」と強調した上で、「これまで以上に戦略的な対外発信を強化していかなければならない」と決意を語った。』

安倍首相のこの姿勢、この発言は、世界の中で日本をより一層貶めていく可能性があります。危険な兆候です。

米国で慰安婦問題が吹き荒れたのは2007年、第一次安倍内閣の時です。
当時恒例となっていた、ホンダ議員による慰安婦決議案が下院に提出されたときです。日本の態度としては無視して静観することが正しい態度でした。ところが、同年3月1日に安倍首相が「日本軍による女性の組織的な強制連行の証拠はない」という発言が出たとたんに、ニューヨークタイムズを始め、アメリカのマスコミがこの発言にこぞって激しい非難を浴びせました(2007-04-15記事)。
その後、一時は沈静化に向かって以下のですが、日本の超党派国会議員らが、米紙に全面広告を出したことが火に油を注ぎました(2007-06-21記事)。同年7月31日に決議案は可決しました。
その後、韓国が慰安婦問題で大攻勢に打って出たのは2011年12月でした(2011-12-23記事)。

上記2007年から現在まで、吉田清治氏の証言(吉田証言)は話題になってこなかったと記憶しています。2007年当時、すでに吉田証言は誤りである、ということが大方の共通認識となっていたからでしょう。従って、吉田証言の誤りを朝日新聞が認めようが認めまいが、世界における慰安婦問題の認識にはほとんど影響を及ぼさないものと思われます。

一方で、日本国内の論調は全く異なります。
朝日新聞が世界に向かって吉田証言報道が誤報であることをアナウンスすれば、日本の立場が良くなるような認識が優勢です。そしてその延長上で、上記衆院予算委員会での安倍総理の発言があったものと思われます。
この発言は、2007年の安倍総理の発言(日本軍による女性の組織的な強制連行の証拠はない)が世界で大顰蹙を買ったと同じ悪影響を呼び起こす可能性があります。

私は今回、雑誌「現代」2007年9月号の東郷和彦『従軍慰安婦決議は「日本玉砕」の序章か 情報戦における決定的な敗北、そして孤立化-だが解決策はある』を読み直しました。東郷氏は下院慰安婦決議と同時期、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校で、長谷川毅教授とともに「日本を中心とするアジアの歴史問題」についてのセミナーを開催しました。誰かが慰安婦問題についてペーパーを書き、発表する必要があることが明らかであり、東郷氏がそのペーパーを書くことになりました。そのセミナーでの対話内容です。
『慰安婦セッションが終わってコーヒー・ブレイクになってから、議論に参加したひとりが私を脇に呼んで、こう言った。
「トーゴーさん、あなたは、我々の反応に納得できないかもしれない。しかし、いまのアメリカ社会における、性(ジェンダー)の問題は、過去十年、二十年前とはまったく違った問題になっている。女性の尊厳と権利を踏みにじることについては、過去の出来事であれ、現在の出来事であれ、少しでもこれを正当化しようとしたら、文字通り社会から総反撃を受けることになる。少し前までは、外国に駐留する米軍兵士が、現地の売春宿に行くことをとがめることはなかったのに、いまは、司令官がきつくこれを禁止する時代になっている。
要するに、慰安婦の問題を考えるとき、多くのアメリカ人は、いま現在、自分の娘がそういう立場に立たされたらどうかということを本能的に考える。ましてや、それが、少しでも『甘言によって』つまり『だまされて』連れて来られ、そのあと、実際に拒否することができない状況下に強いられていたというのであれば、こちらはもう聞く耳もたずに、ひどい話だということになる。あなたが言われるように、そういう甘言でもって強制された人は全員ではなかったかもしれないし、軍の本旨としてはそういう事態を抑制したかったとしても、それが徹底して厳密に抑止できなかった以上、結果責任はまぬがれないということになる。
自分は、これは非歴史的(ahistorical)すなわち、六十年前の視点でものを見ているのではなく、現在の視点でものを見た議論といってもよいと思っている。『それはひどいではないか』と言っても、それが現在のアメリカをはじめとする世界の圧倒的な大勢である。あなたが、安部総理や河野談話の立場を説明し、それを守ろうとすることには、それなりの敬意を払うが、日本全体が、いま私が述べたアメリカ社会の現状を知ったうえで、議論しているのだろうか」』
この同じ内容が、東郷和彦著「歴史と外交」にも掲載されていました(2009-04-14記事参照)。

私は、慰安婦問題について世界に発信していくに際しては、上記のような態度が必須であろうと考えます。
「吉田証言が誤報であることを世界に発信すれば、日本の立場が良くなる」などの甘い考えは捨てるべきです。それでは、事態は悪くなるばかりです。
2007年6月14日の意見広告に対して東郷氏に寄せられた意見
『広告の中には、正しいことも書いてある。しかし、一番大事な「日本は反省している」ということがほとんど書かれていない。この広告を見て、自分は意見を変えた。やはり決議案は成立させたほうがよいと思う』(2007年「現代」)
という方向に世界が動いていくことになるでしょう。
コメント (5)
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