前々報、前報に引き続き、岡山城訪問記をアップします。

天守閣(南から)
4月19日は三原駅の近くに宿泊し、20日に新幹線で三原から岡山に移動しました。まずは岡山駅の観光案内所に立ち寄り、お城の情報を入手しました。駅から岡山城までは路面電車で移動します。いただいたパンフレットに、岡山城入場料を400円から320円に割り引く割引券が付いていました。ラッキーです。

案内図

復元ジオラマ 上が北
路面電車を城下で降車し、東に向かって歩きます。下写真のように、左を①旭川が流れ、②月見橋がかかっています。川の左側は③後楽園ですが、今回はパスしました。

①旭川にかかる②月見橋 左は③後楽園

④天守閣(北西から)
上の案内図で「現在地」と書かれている辺りから④天守閣が見えます(上写真)。その先の⑤廊下門(下写真)から城内に入ります。

⑤廊下門
案内図で、⑤廊下門の右側(東側)が「本段」、左側(西側)が「中の段」と呼ばれています。⑤廊下門は、中の段の表書院と本段御殿を結ぶ渡り廊下となっており、門扉もついて櫓門です。
⑤廊下門の西には⑥月見櫓が建っています。

⑥月見櫓(南東から)
現存する岡山城の建物は月見櫓と西丸西手櫓だけであり、月見櫓は第四代城主の池田忠雄の城普請のもので、1620年代に建てられたと判断されています。城郭防御の隅櫓として、城外側には戦闘装置を設けていますが、2階の城内側の東面と西面は、雨戸立てで開け広げた造作であり、日常の生活仕様となっています。
⑦不明門(あかずのもん)(下写真)は、 中の段から本段に上る正門です。明治時代に廃城令によって取り壊されましたが、1966年に天守とともに再建されました。

⑦不明門
⑦不明門の横を南に下ると、「下の段」です。下の段から中の段⑨南面の石垣を見たのが下の写真です。

⑨南面の石垣 右端は⑧鉄門跡
鉄門(くろがねもん)くろがねは鉄のことで、木の部分を鉄板でおおったいかめしい門だったためこの名になったといいます。下の段の南側から中の段の表書院(藩政の場)へ通じる櫓門でした。

⑦不明門

左:⑧鉄門跡 右:⑦不明門
⑦不明門から本段に入ると、④天守閣がそびえています(下写真)。空襲で焼失した天守は、1966年に鉄筋コンクリート造りで再建されました。望楼型の天守に塩蔵と呼ばれる櫓が付属しています。宇喜多秀家が建てた天守は外壁の下見板張りが黒漆塗りだったことから烏城(うじょう)と称され、また金箔瓦を用いていたので金烏城とも呼ばれました。

④天守閣(南から)
天守閣に入場し、まずは100名城スタンプをゲットします。最上階の展望台に上り、四周を見渡しました(下写真)。

④天守閣から③後楽園方向
元来た⑤廊下門から出て、④天守閣を再度見上げます(下写真)。

④天守閣(北西から)
中の段の北側の石垣に沿って西に向かうと、⑥月見櫓が見えます(下写真)。

⑥月見櫓(北東から)
こうして岡山城訪問が終わりました。路面電車の城下停留所までの途中でカフェに入り、昼食をとりました。
《岡山城来歴》
宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれました。岡山城の近くの石山城に、宇喜多秀家の父親の直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸(岡山城)を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となります。これに相応した城とするため1590年 - 1597年の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えました。
関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となりました。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城しました。秀秋は2年後の1602年に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶しました。
備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられ、忠継の死後、弟・忠雄が淡路より31万5千石で入封しました。忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされます。
1632年忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入封しました。以後幕末まで、岡山城は光政系池田氏の居城となりました。

天守閣(南から)
4月19日は三原駅の近くに宿泊し、20日に新幹線で三原から岡山に移動しました。まずは岡山駅の観光案内所に立ち寄り、お城の情報を入手しました。駅から岡山城までは路面電車で移動します。いただいたパンフレットに、岡山城入場料を400円から320円に割り引く割引券が付いていました。ラッキーです。

案内図

復元ジオラマ 上が北
路面電車を城下で降車し、東に向かって歩きます。下写真のように、左を①旭川が流れ、②月見橋がかかっています。川の左側は③後楽園ですが、今回はパスしました。

①旭川にかかる②月見橋 左は③後楽園

④天守閣(北西から)
上の案内図で「現在地」と書かれている辺りから④天守閣が見えます(上写真)。その先の⑤廊下門(下写真)から城内に入ります。

⑤廊下門
案内図で、⑤廊下門の右側(東側)が「本段」、左側(西側)が「中の段」と呼ばれています。⑤廊下門は、中の段の表書院と本段御殿を結ぶ渡り廊下となっており、門扉もついて櫓門です。
⑤廊下門の西には⑥月見櫓が建っています。

⑥月見櫓(南東から)
現存する岡山城の建物は月見櫓と西丸西手櫓だけであり、月見櫓は第四代城主の池田忠雄の城普請のもので、1620年代に建てられたと判断されています。城郭防御の隅櫓として、城外側には戦闘装置を設けていますが、2階の城内側の東面と西面は、雨戸立てで開け広げた造作であり、日常の生活仕様となっています。
⑦不明門(あかずのもん)(下写真)は、 中の段から本段に上る正門です。明治時代に廃城令によって取り壊されましたが、1966年に天守とともに再建されました。

⑦不明門
⑦不明門の横を南に下ると、「下の段」です。下の段から中の段⑨南面の石垣を見たのが下の写真です。

⑨南面の石垣 右端は⑧鉄門跡
鉄門(くろがねもん)くろがねは鉄のことで、木の部分を鉄板でおおったいかめしい門だったためこの名になったといいます。下の段の南側から中の段の表書院(藩政の場)へ通じる櫓門でした。

⑦不明門

左:⑧鉄門跡 右:⑦不明門
⑦不明門から本段に入ると、④天守閣がそびえています(下写真)。空襲で焼失した天守は、1966年に鉄筋コンクリート造りで再建されました。望楼型の天守に塩蔵と呼ばれる櫓が付属しています。宇喜多秀家が建てた天守は外壁の下見板張りが黒漆塗りだったことから烏城(うじょう)と称され、また金箔瓦を用いていたので金烏城とも呼ばれました。

④天守閣(南から)
天守閣に入場し、まずは100名城スタンプをゲットします。最上階の展望台に上り、四周を見渡しました(下写真)。

④天守閣から③後楽園方向
元来た⑤廊下門から出て、④天守閣を再度見上げます(下写真)。

④天守閣(北西から)
中の段の北側の石垣に沿って西に向かうと、⑥月見櫓が見えます(下写真)。

⑥月見櫓(北東から)
こうして岡山城訪問が終わりました。路面電車の城下停留所までの途中でカフェに入り、昼食をとりました。
《岡山城来歴》
宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれました。岡山城の近くの石山城に、宇喜多秀家の父親の直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸(岡山城)を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となります。これに相応した城とするため1590年 - 1597年の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えました。
関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となりました。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城しました。秀秋は2年後の1602年に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶しました。
備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられ、忠継の死後、弟・忠雄が淡路より31万5千石で入封しました。忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされます。
1632年忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入封しました。以後幕末まで、岡山城は光政系池田氏の居城となりました。
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