弁理士の日々

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宇宙研と糸川英夫

2008-04-20 21:40:21 | サイエンス・パソコン
宇宙航空研究開発機構(JAXA)のホームページで、日本の宇宙開発の歴史~宇宙研物語~が掲載されています。

「宇宙研」とは何でしょうか。
日本のロケット開発、宇宙開発は、終戦後まもなくからしばらくの間、糸川英夫氏という個人の個性に牽引されて進歩してきました。糸川氏が主導して、外国の力を全く借りず、ペンシルロケット → カッパーロケット → ラムダロケットと開発を進め、日本最初の人工衛星「おおすみ」を成功させるに至る舞台となったのが、その「宇宙研」です。

最近、この糸川英夫氏と宇宙研にまつわる話を2冊の本を通して知ることができました。

はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 (幻冬舎新書)
吉田 武
幻冬舎

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昭和のロケット屋さん―ロケットまつり@ロフトプラスワン (Talking Loftシリーズ)
林 紀幸,垣見 恒男,松浦 晋也,笹本 祐一,あさり よしとお
エクスナレッジ

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はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 は、糸川英夫が主導したロケット開発の物語が全体の三分の一、ポスト糸川時代の宇宙研の話が四分の一、残りが探査機はやぶさの物語、といった配分で、話が進みます。
昭和のロケット屋さんは、東大宇宙研の技官として宇宙研が打ち上げたロケットのほとんどに携わったという林紀幸氏と、メーカー側でペンシル、カッパを含むロケットの設計に携わった垣見恒男氏を招いた対談を本にしたものです。お二人ともすでに現役を退き、50年前のペンシルロケットのはじめから、最近までの宇宙研の裏話を腹蔵なく話されています。

糸川英夫氏は、航空機の専門家として、戦時中は中島飛行機で戦闘機の設計を行い、名機といわれる陸軍の「隼」戦闘機を設計した人です。隼は加藤隼戦闘隊で有名ですね。
戦後、日本は航空機開発を一切禁止され、失意の糸川氏はしばらく音響の研究などを行っています。その研究で米国を訪れた際、米国でのロケット開発の状況を知り、「ロケットなら日本も世界で競争できる」と確信します。
日本に帰った糸川氏は、東大生産研で強力に仲間を集め、1954年にロケット開発を始めます。これが「宇宙研」の始まりです。
東大生産研とは、戦時中に技術者を増員する目的で開設された「東大第二工学部」の後身で、千葉にありました。本郷だと教授同士が足を引っ張り合うのが常でしたが、生産研にはそれがありませんでした。資金も潤沢です。このような組織が存在したことが、日本の宇宙開発には幸いしました。

糸川氏は産業界にも声をかけますが、液体ロケット技術を持っていた三菱重工は興味を示さず、戦時中から固体ロケット技術を持っていた中島飛行機が分社化してできた「冨士精密」が名乗りを上げます。そして、固体ロケット燃料技術を持っている日本油脂も全面的に協力します。ここから、「宇宙研のロケットは固体燃料ロケット」との流れができました。

1958年は「国際地球観測年」でした。各国のロケットで協力して高層を観測するという企てに対し、日本は糸川氏らのカッパロケットで対応します。カッパロケットは高度60kmを実現しました。結局、米ソの他は英国と日本のみが参加できたのでした。

糸川氏は、1967年に宇宙研の教授を退官します。朝日新聞のつまらないやっかみ記事が原因でした。しかし宇宙研の進歩は続き、ロケットはカッパからラムダに進歩し、1970年には日本発の人工衛星「おおすみ」打ち上げに成功します。日本は世界4番目の衛星自立打ち上げ国になりました。中国が打ち上げる直前です。
ロケットはラムダからミューに進歩します。ミューロケットの最後を飾って惑星間探査機「はやぶさ」が打ち上げられ、はやぶさは見事に小惑星「いとかわ」の観測と軟着陸-再離陸を実現したのでした。

昭和のロケット屋さんで林氏と垣見氏は、糸川氏がどんな人だったのか、糸川氏と垣見氏がどのように意地の張り合いをしていたか、詳しく語り合います。
日本のロケット開発が、何の予備知識もない状況から、少人数の人たちの情熱と努力と、若干無謀な実験の積み重ねでここまで到達できたのだということがよくわかりました。
コメント (1)
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