弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(2)

2012-11-28 21:26:11 | 歴史・社会
第1回に引き続き、阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ」の2回目です。

1937(昭和12)年に起きた第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていませんでした。このブログでは、『上海での第百一師団(2007-08-28)』、『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(2009-01-29)』において、第二次上海事変の戦線に送り込まれた日本軍兵士たちがどのような体験をしたのか、秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)」の記述に基づいて言及しました。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
 なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
 『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
 日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
 ・・・
 ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」



101師団の加納連隊長は、同師団101連隊の連隊長で、9月11日に上海戦で戦死しています。(p208、ウィキ)日時からいって、大場鎮攻略に向けた激戦の中での戦死でしょう。
第3師団では、名古屋6連隊連隊長は戦死、岐阜68連隊と豊橋18連隊の連隊長は負傷しました。それに対して静岡34連隊の田上八郎連隊長に対しては、ほかの3人の連隊長が戦死傷しているのに、負傷もしていないのは、安全な後方で指揮を執っていて兵士に犠牲を強いていのではないか、といった無知な非難が上がり、連隊長の留守宅に投石する者も現れるようになりました。p212
田上連隊長の夫人が自殺する事件が起きたのは、このような状況があったからなのですね。


話は戻ります。
第2次上海事変が起きたのは、蒋介石が「日本軍と闘って日本を上海から追い落とす」という明確な意思を持っていたからです。それでは蒋介石は、どのような見通しのもとに対日戦を決意したのでしょうか。
ドイツに指導された強固な縦深陣地を、上海市を取り囲むように築き、同じくドイツ製の最新兵器で武装した精鋭部隊を配置しての戦闘開始でした。少なくとも上海で守備に就く日本海軍特別陸戦隊を殲滅する目標は有していました。その目標は達せられませんでしたが。
しかしもし、日本の特別陸戦隊を殲滅したとして、それで日本に勝利すると考えていたのでしょうか。日本がそれでおさまるはずはありません。当然に陸軍の大部隊を派遣し、上海を舞台とした大戦争が始まります。蒋介石はそこでも、重武装したトーチカ陣地で守りぬき、日本軍を撤退させうると考えていたのでしょうか。
普通の常識的な軍隊であれば、兵員の1/3が消耗するほどの激戦を闘えば、そこで戦闘を中止していたかもしれません。しかし日本軍はそのような行動を取りませんでした。いかに犠牲が大きくても前進し、目標を制圧するまで戦いを止めませんでした。

一部の説では、蒋介石は最初から日本軍を中国大陸奥地に誘い込んで長期戦に持ち込む考えであったと言われています。
しかし、蒋介石が上海戦に投入したのは、ドイツ製の武器で武装し訓練を積んだ最精鋭部隊です。その最精鋭部隊が、上海戦の結果として消滅してしまいました。最初から囮作戦を企図したのであれば、最精鋭部隊を消滅させるような配置は行わないでしょう。あくまで、上海において日本を屈服させる意図だったと思われます。

また、盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀だったのかどうか、という点について。
盧溝橋事件直後、中国軍の現地司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。もし盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀であったなら、宋哲元もその内実を知っているはずで、そうであれば安易に日本との停戦協定締結には進まなかったはずです。その点から、盧溝橋事件そのものは日本軍の陰謀でも蒋介石の陰謀でもなく、偶発的なものだったと思われます。中国共産党軍の陰謀の可能性はありますが。
ただし、蒋介石が、盧溝橋事件を好機と捉えて対日開戦を決意したのは確かでしょう。一方、「日本軍を殲滅する」という観点では、蒋介石軍の準備が十分整う前の開戦であり、目的を達成できない理由となりました。

次にドイツ軍事顧問団は、なぜ蒋介石に日中戦をそそのかしたのでしょうか。日中戦が始まったとして、自分が応援する蒋介石軍にどのような勝算を持っていたのでしょうか。その点はこの本を読んでも不明のままです。

さらに上海戦前、日本はどのような戦略を有していたのでしょうか。
孫氏の兵法に従うのであれば、「敵を知り己を知る」ことが重要です。蒋介石が上海の周辺に強固なトーチカ陣地を構築していること、その陣地及び蒋介石軍は、ドイツの指導とドイツからの輸入兵器によって強力な戦闘力を保持するに至ったことを、日本軍は知っていたのか知らなかったのか。阿羅健一著書によると、ドイツの指導及び陣地の構築を、日本軍はうすうすは感づいていたものの、その実力が非常に高いレベルに到達していたことには何ら気づいていなかったようです。
それまで日本軍は3倍の中国軍を相手に戦えるといわれていたようです。確かに、満州の匪賊相手の戦いではその通りでした。そのつもりで油断して日本陸軍を上陸させてみたら、上海の中国軍はすっかり精鋭部隊に変わっており、日本に勝る火力を手に、かつてなかった陣地を築いて待ち受けていました。日本軍は思いもしなかった重大な損害を受けました。1万人以上の戦死者と4万人以上の戦死傷者です。このあと日中戦争が9年間続きますが、このように甚大な犠牲を払った戦闘はこのときの上海だけのようです。

簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらなかったのです。
上海戦は最後、11月5日に日本の第10軍が杭州湾に上陸することによって大きく動きました。それまで闘ってきた日本の上海派遣軍は、大場鎮を攻め落としたものの、まだその先の強力なトーチカ群に拠る中国軍と対峙していました。ところがその中国軍は、杭州湾への日本軍上陸を知って一気に崩れたのです。中国軍は潰走しました。退却の途中にはヒンデンブルクラインと呼ばれた上海よりも強力な陣地があり、ここで日本軍を迎え撃つはずでした。しかし中国軍は、この陣地に止まることもなく敗走したのです。

杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将は、独断で南京攻略に進撃しようとします。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまいます。
このことがその後の、南京大虐殺、泥沼の日中戦争の端緒となりました。

こうして第二次上海事変をふり返ってみて、真珠湾攻撃との類似性にはたと気づきました。
《第二次上海事変》
①日本軍は、蒋介石軍がドイツの援助で強くなっていることに気づかず、油断しており、一撃で中国軍を圧倒できると思い込んでいた。
②蒋介石は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、日本に戦闘を仕掛けた。
③日本軍は被った多大な犠牲に逆上し、“暴支膺懲”のかけ声の下に中国奥地まで攻め入り、泥沼の日中戦争に突入していった。
《真珠湾攻撃》
①アメリカは、日本海軍が強くなっていることに気づかず、油断しており、たとえ日本軍が攻めてきても一撃で撃退できると思い込んでいた。
②日本は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、真珠湾攻撃を仕掛けた。
③米国民は真珠湾攻撃に逆上し、“Remember Pearl Harbor”を合い言葉に激烈な太平洋戦争に突入していった。

歴史とはこのようにして繰り返していくのでしょうか。
コメント (6)
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審査基準専門委員会「シフト補正禁止の審査基準」

2012-11-25 23:13:34 | 知的財産権
特許の補正要件のひとつである「シフト補正禁止」について、私のブログ記事「特許法改正・みんなの党柿澤未途議員の国会質疑」に対してTBさんからコメントをいただきました。そのコメントにより、産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会 審査基準専門委員会でシフト補正禁止についての審査基準が審議されていることを知りました。

上記審査基準専門委員会の第8回(平成24年11月12日)が開催されています。
配付資料の中の資料6と資料8をチェックしてみました。この日は、「発明の単一性の要件」と「シフト補正」の2つのテーマで議論されています。そのうち、「シフト補正」についての部分のみをピックアップしました。

資料6 発明の単一性の要件、発明の特別な技術的特徴を変更する補正の審査・審査基準に対するユーザーの意見・要望<PDF 141KB>
『2.ユーザーから寄せられた意見・要望
発明の単一性の要件及びシフト補正に関する審査、審査基準についてユーザーから寄せられた主な意見、要望を以下に示す。
・・・
(2)シフト補正の判断について
審査された補正前の独立請求項からの減縮補正はシフト補正とするべきではない。
・補正前の特許請求の範囲の最初に記載された発明が特別な技術的特徴(STF)を有しない場合であっても、それに従属する発明に特別な技術的特徴(STF)となり得る発明特定事項がある場合に、当該特別な技術的特徴(STF)を含むように補正したときは、シフト補正とするべきではない。
・シフト補正は、明らかに異なる発明にシフトしたときのみ適用するべきである。』

上記のとおり、シフト補正に関する意見・要望の最初に、「審査された補正前の独立請求項からの減縮補正はシフト補正とするべきではない。」があがっています。これこそ、2007年1月にシフト補正に関する審査基準案が発表された際、私がパブリックコメントで要望した事項の1番目です(審査基準案に意見提出2007-01-23)。また、TBさんから紹介されたように、日本弁理士会電子フォーラムのTOP > 弁理士会からのお知らせ > 答申書・報告書 > 実務系(特実意商) > 11/04/14 答申書「発明の単一性違反と補正の制限についての調査及び研究」にも同様の要望が記述されています。

これら要望を受けて、今回の委員会ではどのような議論がされているのでしょうか。

資料8 「発明の単一性の要件」、「発明の特別な技術的特徴を変更する補正」の審査基準の点検ポイント<PDF 185KB>
『1.補正前の特許請求の範囲に最初に記載された発明に特別な技術的特徴が無い場合の審査対象について【論点3】
(1)審査基準見直しの必要性
現行の審査基準によれば、補正がシフト補正に該当するか否かは、補正前の特許請求の範囲の新規性・進歩性等の特許要件の審査が行われたすべての発明と補正後の特許請求の範囲のすべての発明が発明の単一性の要件を満たすかどうかによって判断される。
したがって、補正前の特許請求の範囲の最初に記載された発明に特別な技術的特徴がない場合は、補正の前後で単一性の要件を満たすとはいえないが、一定の条件を満足する発明については、例外的にシフト補正に関する要件を問わずに審査対象としている。この取扱いについて、多くのユーザーが、補正の制限が厳しすぎるとの不満を感じている。
(2)審査基準見直しの方向性
発明の単一性の要件と同様に、補正前の特許請求の範囲の最初に記載された発明が特別な技術的特徴(STF)を有するか否かにかかわらず、補正前の特許請求の範囲の最初に記載された発明またはそれに従属する発明に最初に発見された特別な技術的特徴(STF)と同一の又は対応する特別な技術的特徴(STF)を有する補正後の発明は、審査対象とし、シフト補正を問わないこととしてはどうか。』

上記資料を眺めたのですが、要望「審査された補正前の独立請求項からの減縮補正はシフト補正とするべきではない。」に対する対応が全く記述されていません。完全に無視されています。
一体どうなっているのでしょうか。

そして「議事要旨」です。同じく「シフト補正」に関する部分のみを抽出します。
『平成24年11月12日(月曜日)午前、産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会第8回審査基準専門委員会(座長:中山信弘 明治大学教授・弁護士・東京大学名誉教授)が開催された。
1. 審議内容
配布資料に沿った事務局からの説明に続き、討論を行った。
(1)発明の単一性の要件」、「発明の特別な技術的特徴を変更する補正(以下、「シフト補正」)」の審査基準について
委員からの主な意見・要望は以下のとおり。(シフト補正に関する内容のみを抽出)
○シフト補正の制度自体をなくすことから検討するべきではないか。それができない場合には、シフト補正の禁止が導入される前の審査基準に戻すべきである。

○単一性・シフト補正はいずれも手続的な要件であり、ユーザーの要望と審査実務上の負担とのバランスをとることが重要である。審査実務上の負担の面から運用ができないという事情が無ければ、柔軟にユーザーの要望に応えることが好ましい。
○欧州の制度と調和させることはよいことだが、請求項の書き方等の制度が異なるため、単一性・シフト補正の基準だけ全く同じにすることが必ずしも良いとはいえないのではないか。

2. 今後の予定
今回の議論を踏まえて、「発明の単一性の要件」、「発明の特別な技術的特徴を変更する補正」に関して、事務局で審査基準案の検討を進める。次回は、検討の進捗状況に応じて開催する予定。』

委員からの発言の半分以上は「発明の単一性の要件」に関するものであり、「シフト補正」の議論は少なかったようです。「シフト補正」のみを抽出したら上記しか残りませんでした。それも、3つのうちの後半2つは実体的な内容ではありませんので、結局シフト補正の実体についての議論は「○シフト補正の制度自体をなくすことから検討するべきではないか。それができない場合には、シフト補正の禁止が導入される前の審査基準に戻すべきである。」のみということになってしまいました。もちろん、要望「審査された補正前の独立請求項からの減縮補正はシフト補正とするべきではない。」に対する言及もありません。

そもそも、現行法の範囲内で、シフト補正禁止をどこまで緩和できるのでしょうか。
特許法17条の2第4項
「補正前に受けた拒絶理由通知において特許をすることができないものか否かについての判断が示された発明と、その補正後の特許請求の範囲に記載される事項により特定される発明とが、第三十七条の発明の単一性の要件を満たす一群の発明に該当するものとなるようにしなければならない。」
特許法37条と特施規25条の8
37条の発明の単一性の要件を満たすためには、「二以上の発明が同一の又は対応する特別な技術的特徴を有している」ことが必要であり、「特別な技術的特徴」とは「発明の先行技術に対する貢献を明示する技術的特徴をいう」

請求項1に特別な技術的特徴(STF)が存在しない場合、請求項1を減縮補正しようとしても、もともとSTFがないのですから、補正後の発明を「同一の又は対応する特別な技術的特徴を有している」状態にすることは不可能です。

今回委員会の資料8でも「補正前の特許請求の範囲の最初に記載された発明に特別な技術的特徴がない場合は、補正の前後で単一性の要件を満たすとはいえないが、一定の条件を満足する発明については、例外的にシフト補正に関する要件を問わずに審査対象としている。」と記述しています。現状の審査基準でさえ、「例外的に」認めているのです。要望「審査された補正前の独立請求項からの減縮補正はシフト補正とするべきではない。」に対応するとなると、さらに例外を増やすことになります。

このような法律をそのままにして、運用でどこまで緩和できるのか、ということです。
とりあえずは審査基準専門委員会の議論を注目しましょう。
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安倍さんの政策は?維新の会の政策は?

2012-11-24 23:33:45 | 歴史・社会
どうも、新聞やネットニュースを見ているだけでは、安倍さんの発言や維新の会の政策が分からなくなってきました。

《日銀についての安倍発言》
「日銀の独立性」という場合、「目標設定の独立」と「手段の独立」の2つの概念に分けることができ、現在の先進国におけるスタンダードは「中央銀行は、手段の独立は有しているが目標設定の独立は有していない。インフレ目標については政府が(中央銀行と共同で)目標を立て、中央銀行は独自に手段を考えてその目標を達成する」であるはずです。
日銀が国債を取得する手段として、「買いオペ」と「直接引受」とが別々に存在します。
以上の前提のもと、自民党の安倍総裁がどのように発言したのか、そして発言はぶれているのか、という点が良くわかりません。
長谷川幸洋氏の『「建設国債の日銀引き受け」発言は本当にあったのか?安倍自民党総裁vs白川日銀総裁の「金融政策論争」はメディアが仕組んだけんかだ』によると、
『安倍総裁は買いオペのつもりで発言したのに、それを報じた記事が直接引き受けと解釈してしまった。日銀の白川総裁は「安倍氏の発言は知らない」とした上で、「日銀による直接引き受けはやってはならない」と発言した。マスコミは、「日銀の白川総裁が安倍発言を批判した」と報道した。』というのが実態だといいます。

安倍総裁が当初の発言で「手段の独立も剥奪する」という趣旨で発言したのかどうか、不明です。
最近の安倍発言は明確に「私は手段の独立は保つ趣旨だ」と発言しています。当初からそのような意図だったのか、それともマスコミに批判された結果として発言を変化させたのか、その点が不明です。
私ですら、「日銀の独立とは手段のみの独立を意味する」と知っているのですから、安倍総裁がそれを知らずに当初「手段の独立も持つべきでない」と発言したとは到底信じられません。

安倍総裁の発言は、このようにしてマスコミにねじ曲げられた上で国民に届いているのかもしれません。恐ろしいことです。

「国防軍」についても同様です。安倍氏がどのような意図で自民党の政権公約に入れたのかが定かでありませんが、マスコミの恰好の餌食にされやすいことだけは確かです。

《維新の会の政策》
最近、古賀茂明氏も維新の会の状況について発言していないこともあり、太陽の党と合流した後の維新の会の進む方向がよく見えません。
みんなの党の江田憲司幹事長のブログ『橋下さん、既得権益との闘いに負けないでください・・・みんなへの合流要請』によると、
『太陽と維新との政策合意では、「脱原発」もなければ、「歳入庁」「公務員制度改革」もありません。我々が「闘う成長戦略」と位置付けている「規制改革」もありません。合意で我々が「攻めの開国」と称したTPPへの参加もニュアンスが後退しているように思えます。
これらは、すべて「既得権益」と闘う必要のあるものばかりです。それが「太陽」との合流で組み伏せられてしまったのか?』
とあります。
もしそのとおりだとしたら、維新の会は石原新党と合流したことによって大事なものを失ってしまったように思います。これはとても残念なことです。

ps
勝間和代さんのブログ記事『次の政権に望むこと~金融政策、特に日銀法改正と、実効性あるインフレターゲットの設定』で紹介されている記事『安倍自民総裁:政府・日銀で政策総動員、インフレ目標2-3%-講演 – Bloomberg』によると、
『11月15日(ブルームバーグ): 自民党の安倍晋三総裁は15日、衆院選後に政権を奪還すれば、政府・日銀で2-3%のインフレ目標を設定し、デフレ脱却のためにあらゆる政策を総動員して取り組む考えを示した。公共投資を増やした景気刺激型の予算を編成する方針も明らかにした。
・・・
政府と日銀の連携の在り方については「一番いいのはインフレ目標を持つことだ。2%がいいのか3%がいいのかは専門家に議論して判断してもらいたい」と指摘。この達成のために「無制限に緩和をしていくことで初めて市場は反応していく」とも語った。

具体的な金融緩和政策手段については「われわれの政府になれば日銀に任せる」と述べた。「いまは野党党首なので例えばということでお話しする」とした上で、日銀の政策金利について「ゼロにするかマイナスにするぐらいのことをして、貸し出し圧力を強めてもらわなければならない」と語った。』
とあります。15日の段階で安倍氏の発言は極めて健全であったことが明らかですね。

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自民党安倍総裁の金融政策

2012-11-23 10:29:17 | 歴史・社会
新聞は「安倍相場」と呼んでいます。野党である自民党の安倍総裁が「金融緩和」と叫んだだけでドル円は82円越え、円安が進んでいます。日経平均も9400円に届こうかというすさまじさです。財務省が行う為替介入は、膨大な額の税金を投入して実行し、その効果もあっという間に消滅してしまうのですが、今回は1円もお金を使わずに円安と株高が実現しているわけですから、びっくりです。
これに対し、新聞でもネットのエコノミスト発言でも、安倍総裁の金融緩和政策は極端すぎると批判が相次いでいます。しかし、為替相場と株式相場を通じて、市場が安倍発言を好感していることが明らかなわけです。安倍総裁も市場の後押しを受けて自信を深めています。

世の中では、安倍総裁がなんだか突然に金融緩和を主張し始めたように受け取られていますが、私には意外感がありません。ずいぶん前から、安倍晋三氏が金融政策については最近の発言のような意見を持っていることを知っていたからです。
いつごろだったか忘れてしまったのですが、BSフジのプライムニュースに安倍氏が登場し、そこでの発言が、「金融緩和によってデフレ脱却と円高阻止を図るべき」という意見だったからです。番組を見たとき私は、「安倍さんは高橋洋一理論を取り入れたんだ」と思いました。
今回探した結果、以下の放送が見つかりました。私が見たのがこの番組だったのかどうかやや自信がないのですが・・・。
BSフジ プライムニュース 2011年10月18日
【テーマ】『安倍晋三元首相に問う 野田政権の内政と外交』
【ゲスト】安倍晋三 元内閣総理大臣
『安倍晋三元首相に問う 復興増税をどう考える?
安倍元首相「世界中で、災害の復興の為に増税をしたという国はないんですよ。・・・・・・・今回の震災については長期の国債を出して、むしろデフレから脱却するためにそれを活用する。つまり日本銀行に直受け、これはいろいろな議論があることなのですが、市場で日本銀行に全部買いオペレーションで買ってもらう。そうなれば新たなマネーを日銀が供給しますから、デフレ下であって円高ですからこの状況であればこれは使えるんだろうと私は思います」
安倍晋三元首相に問う 復興債の日銀引受け
安倍元首相「私も最初、自民党の山本幸三さんが強く主張していました、何となくこれは胡散くさいのではないかと、しかも日本銀行が買うというのは都合が良すぎるじゃないですか。そう思ってきたんですが、それはやはり国債の金利の上昇、あるいは円の暴落につながるのではないかと思ってきたのですが、ただ、必ずしもファクトがそうではないんです。・・・・・現在、議員連盟を作って、これは法案化して。基本的にはこうした政策手段については日本銀行が独自に決めなければいけないんですが、財政法5条の中に額を決めてその額の範囲内では国債を買えるということになっていますから、こういう緊急の時は、ある程度政府と日銀が政策アコードを結んで、やっていくことも大切ではないかと思います」 』

私は今年4月に『高橋洋一著「この経済政策が日本を殺す 日銀と財務省の罠」』を記事としてアップしました。以下の本です。
この経済政策が日本を殺す 日銀と財務省の罠 (扶桑社新書)
高橋洋一
扶桑社
高橋洋一氏のこの本をめくってみたら、安倍氏の昨年10月の上記発言の意味がよくわかりました。この本の「はじめに」において、震災復興財源をどうするかという発言があります。
「復興国債を新たに発行して、財政法5条ただし書きにある日銀直接引受を行えばいい。これについて、今でも政治家は財政法で禁止されているという。しかし、後で詳しく述べるが、実は日銀直接引受は毎年行われている。・・・
3月23日の衆議院財政金融委員会で、山本幸三衆議院議員は、この点を野田財務相、白川方明日銀総裁に質した。」
そして、現時点で安倍自民党総裁が掲げている金融政策も、この本の中で高橋氏が主張している政策とほとんど一致しています。
「変動相場制のもとでは、財政出動は効かない。日銀による金融緩和が必要である」(マンデル=フレミング理論)(44ページ)
『金融政策はわかりにくい。たしかに、金融政策によって実質金利が下がり投資が盛んになるには、6ヶ月以上時間が必要だ。わかるころには6ヶ月前に実施された金融政策なんて忘れてしまうだろう。
しかし、今の円高株安デフレでは、金融政策の効果はわかりやすい。というのは、為替相場は、金融政策の変更にすぐに反応し、それが株式市場にも伝わるからだ。』(51ページ)

ところで、今回の安倍相場と同じような状況はほんの半年前にもありました。日銀の白川総裁が「インフレのゴールを1%とする」と発言し、10兆円の追加緩和を発表しただけで、ドル円は83円まで円安となり、日経平均は1万円を超えました。私はこの現象を「白川相場」と呼ぶことにします。(日銀の10兆円金融緩和で為替レートは?民間事故調報告書・日銀と円安の進行
ただし白川相場は長続きせず、1ヶ月後にはしぼんでしまいました。

マスコミやエコノミストは、現在の安倍相場を批判するのであれば、半年前の白川相場が実は何だったのか、そしてその後も継続して追加緩和を行っているのに、なぜ市場は反応しなくなったのか、ということをきちっと検証してほしいです。
私が今の時点で疑っているのは、日銀は10兆円、さらに10兆円と追加緩和を重ねてきたことになっていますが、実態としてのマネーサプライは増えていないのではないか、ということです。一時的に増えても、短期国債しか購入していないからすぐに減ってしまうとか・・・。
高橋氏の上記著書によると、「もし1ドル=100円程度にしたければ、FRBのバランスシートが一定との前提の下で、日銀は30~40兆円の量的緩和を行えばいいことが分かる。」(52ページ)とあります。日銀がこの半年で行ってきた量的緩和が、実質的にどの程度のものであったのか、ということです。

ps 2013.2.23. アベノミクスで脚光浴びるリフレ派、日銀総裁人事で影響力も(bloomberg 2013/2/22 11:51)2ページでBSフジ プライムニュース 2011年10月18日を紹介しています。

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阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」

2012-11-21 21:37:01 | 歴史・社会
日華事変(日中戦争)の発端は盧溝橋事件ということになっています。1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれました。それから両軍の戦闘がエスカレートし、同年年末には南京攻略、そして次の年の初めに近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」と宣言して日中戦争は泥沼の長期戦に入っていきました。
盧溝橋事件当時、北京では現地軍同士の停戦協定が結ばれ、収束に向かったのですが、実は蒋介石は、この機会に現地日本軍と全面的に戦う決心をしていたのです。決戦地は、北京ではなく上海です。上海の郊外には、蒋介石がドイツの指導で鉄壁のトーチカ陣地を何重にも構築済みであり、その準備のもと、上海に駐屯する日本海軍陸戦隊に対して、ドイツ製の優秀な兵器で武装した蒋介石軍が戦闘を仕掛けたのです(同年8月12日)(第二次上海事変)。
第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていません。
日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ
阿羅健一
小学館

この度、上記書籍を読みました。
第一次大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約によって軍隊の大幅縮小を余儀なくされました。ドイツの軍人は中国の蒋介石と結び、ドイツ人軍人が軍事顧問団となって蒋介石軍を指導するとともに大量のドイツ製兵器を中国に輸入し、一方で中国からは、戦略物資であるタングステンがドイツに向けて輸出されました。
この軍事援助と戦略物資貿易は、中国とドイツの双方に利益をもたらすものでした。第一次大戦終了から日華事変勃発にいたるまで、当時のドイツは、日本と同盟を組むよりも、蒋介石中国とより強く結びついていたのです。日独防共協定を締結した後もです。

蒋介石は、ドイツ軍事顧問団の指導を受け、ドイツ製の優秀な兵器を大量に配備し、ドイツ式の訓練を受けた軍隊を育成しました。蒋介石はこのように強化した軍隊で、自ら対日戦を開始して戦うつもりになっていたのです。
戦場は上海です。
上海の周辺には、鉄筋コンクリート製のトーチカが多数作られました。ドイツの指導で作られた中国軍トーチカは、ドイツ製の機関銃が据えられ、兵士はドイツ製の小銃とチェコ製の軽機関銃で武装しています。盧溝橋事件勃発直前、ドイツ軍事顧問団の指導のもと、中国は対日戦に向け、最新式の陣地を構築し、ほぼ万全の準備を整え、日本との開戦を待っていたのです。

盧溝橋事件勃発直後、事件が発生した北京では、中国軍の司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。宋哲元は事後的に「蒋介石は対日戦を決意している」と聞かされ、北京の中国軍は撤退をやめて日本軍と対峙することとなりました。

上海市で日本人居留民の安全を守っていたのは、海軍特別陸戦隊です。
上海市の周囲に中国軍の強固な陣地が構築完了していたのは上述の通りです。7月7日の盧溝橋事件発生後、7月下旬になると蒋介石は上海市近くに軍隊を増強し、戦闘準備を着々と進めていました。そして8月9日、上海特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が上海の路上で射殺される事件が発生しました。この射殺事件は、日本から見れば偶発的事件ですが、中国は対日戦を決意していますから謝罪などするつもりはありません。先制攻撃で日本の陸戦隊を攻め、壊滅させるつもりでいます。
8月14日、上海での全面戦闘が開始されました。

今回読んだ著書にいくつもの地図が掲載されているのですが、距離感がわかりません。そこで、google地図をベースに、第2次上海事変の戦地となった地域を地図にしてみました。

地図の右上が揚子江、右下部分のオレンジで囲った当たりが上海市街地です。日本人居住区と書いたあたりに日本人が生活していました。蘇州河をはさんで南側は共同租界であり、日本人以外の外国人が住んでいたようです。陸戦隊本部と記載した位置に日本海軍の陸戦隊本部が置かれていました。この地点よりも南側が、主な市街地であろうと思われます。
上海事変開戦時、中国軍は江湾鎮や大場鎮を中心として、上海市街を北と西から包囲し、日本軍を殲滅しようと身構えていました。

上海での日本軍危機に対応し、日本政府は陸軍部隊を上海に派遣することを決めました。しかし陸軍が上海に到着するまでには1週間かかります。
中国軍は、日本の陸軍部隊が上陸してくる前に、特別陸戦隊を殲滅することを目標としていました。中国軍は陸戦隊の10倍の戦力と、ドイツ軍事顧問団に指導され、ドイツ製の兵器で武装した最強部隊で特別陸戦隊に襲いかかったのです。
しかし10倍ほどの精鋭を相手に、特別陸戦隊はなんとか戦い抜きました。
『「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」
後日、こう蒋介石は悔やんだ。
23日未明、日本側が待ち望んだ陸軍部隊が呉淞(ウースン)鉄道桟橋に上陸しはじめた。』
『特別陸戦隊は大損害を出しながらも、中国軍とドイツ顧問団の望みに反して、邦人と租界の日本側の拠点を、それこそ文字通り死守したのだ。』

第2次上海事変において、海軍特別陸戦隊が闘った緒戦に引き続き、日本は陸軍を投入して中国軍に対抗しました。その日本陸軍は大苦戦に陥り、激戦となりました。
私はてっきり、このような大激戦は上海市の市街戦として闘われたと思い込んでいました。しかし今回、上記著書を読むと、日本陸軍が戦ったのは市街戦ではなく、広大なクリーク地帯に事前に準備された強固なトーチカ陣地軍を殲滅しようとする野戦だったのです。
上の地図で見ると、上海市街は右下のわずかな部分です。陸戦隊本部よりも下のオレンジ色の領域でしょうか。
それに対し、日本陸軍が戦った相手の強固なトーチカ陣地は、北は劉河鎮から嘉定、南翔までを結ぶ線を西端とする広い地域にびっしりと構築されていたのです。南北30km、東西30kmに及ぶ地域です。日本陸軍はこの全域を制圧しようとして戦闘を継続しました。この地域で、前進する日本軍に対して、トーチカの機関銃銃座から射すくまれ、また歩兵が持つチェコ製軽機関銃に銃撃されました。このような戦場において日本軍が一歩一歩前進し、3ヶ月を経過して日本軍の勝利に終わります。しかしそれを可能にしたのは、日本軍がどのように多大な戦死傷者を出そうがそれを顧みず、肉弾戦を闘ったお陰です。

例えば第3師団は、8月23日に呉淞鉄道桟橋から強行上陸し、ただちに戦闘が開始されました。中国軍はドイツ軍事顧問団の指導を受け、あたかも第1次大戦の陣地戦のように強烈な戦いを仕掛けてきます。それでも日本軍は一歩一歩前進し、宝山城を落としたのが9月6日です。第3師団が西進して楊行鎮を制圧したのが9月12日、その後南下に転じ、呉淞(ウースン)クリークを越えて江湾鎮や大場鎮の敵陣地に挑むこととなります。別のルートを戦いながら南下してきた第11師団、そして補充兵中心の第101師団もいっしょです。大場鎮への攻撃は13日に開始されましたが、中国軍は堅固なトーチカを拠点として豊富な火力で日本軍に立ち向かい、たちまちにして日本軍の攻撃は頓挫しました。多大な犠牲の下に大場鎮を制圧したのは、9月23日でした。

以下第2回
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10月17日・箱根

2012-11-19 00:42:48 | Weblog
この1週間、1日を除いて素晴らしく良い天気です。除いた1日というのは17日土曜です。この日だけ、どういうわけ大雨で、風も吹き荒れました。
なぜこんな話をするのかというと、わが家は17日に箱根に出かけたのです。箱根の紅葉を見ようということで、16日(金曜)の午後に出発し、箱根で一泊して翌17日に紅葉を愛でる、つもりでした。そして出発の5日ほど前に週間天気予報を確認したら、何ということでしょう、1週間のうちで17日だけ、雨マークがついているのです。
まあ、1週間先のことだから、天気のサイクルもちょっとは予想から狂うであろう、と甘く見ていたのですが、今回に限り、週間天気予報は極めて精度良く、予報どおりの天気となったのでした。

しかし折角ですから、箱根の紅葉を見てきた証拠写真を挙げておきます。
芦ノ湖の湖尻、海賊船をバックに雨に濡れる紅葉です。


湖尻からロープウェイに乗り、大涌谷を経由して早雲山まで行きました。雨なのでロープウェイ乗り場すぐ近くの紅葉を1枚だけ写真に撮り、もと来たロープウェイに乗って湖尻まで帰りました。

風が強く、ロープウェイが運休になったら山の上に取り残されてしまいます。ひやひやしながらの帰途でした。

さて、午後は御殿場のアウトレットに出かけました。
アウトレットでは、折からの冷たい雨風の中、広い敷地内を歩き回ることになりました。

雨の東名を走って家に帰り着きました。夕食はデリバリーに頼もう、ということで3箇所ほど電話したのですが、どこも「注文から2時間待ちです」という状況でした。風雨が激しく、どこのご家庭でも外食を諦めてデリバリーに注文が殺到したのでしょうか。
しょうがないので、計画を変更して外食です。寒い雨が降る中、駅前まで出かけました。最初の1軒は行列、2軒目は本日貸し切り、3軒目でやっと夕食にありつけたのでした。
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石原慎太郎氏の“パッション”とは-高橋洋一氏の予見

2012-11-17 22:12:10 | 歴史・社会
高橋洋一氏が10月29日に記事にした『石原新党の旗揚げで「平時モード」は終わった。政治家が本能のままに動き出すこれからの政局では常識が通じないことが起きるかもしれない』を今読み返すとすごいです。
『10月25日、石原慎太郎東京都知事が辞職を表明し、石原新党結成を表明した。石原新党はさっそく維新の会との連携協議へ話が進んでいる。橋下徹日本維新の会代表は「報道されるほどの違いはない。政策の大きな方向性は同じ」と語っている。』
『筆者を含めて第三者的な解説をする人は当事者の政治家のパッションをあまり理解していないのかもしれない。なにしろ、政治家は自分なら事態を変えられるという、ある意味で「狂気の人」の集まりなのだ。だから、客観情勢を分析して、こうなるという第三者には予想外の事態になる。
筆者はかつてそうした経験をしたことがある。小泉総理の郵政解散だ。その当時、解散すれば自民党は大敗するという分析ばかりだった。そのときの、自民党の選挙公約は、郵政を変えれば日本が変わるというものだった。とてもロジカルとは言いがたい。しかし、それを公言できるのが「政治家」なのだ。
石原氏の話も、細部では事実誤認もあるが、全体として年老いたとはいえ必死さが伝わるものだった。そして、自分で流れを変えるという、どこかドン・キホーテのようなところもあった。本当にドン・キホーテなのか、実際に流れを変えるのかは後になってみなければわからない。
例えば、今衆議院が違憲状態になっているが、年内解散・総選挙は、仮の「ゼロ増5減」の選挙制度改正法が国会で通っても、現実の選挙区区割り作業を考えると、絶望的だと普通の人なら思う。しかし、石原新党の余波で、都知事選の12月16日投開票にあわせて、衆議院選挙の目もでてきたというから、政治の世界はこわい。』

確かに、石原慎太郎氏が都知事を辞任したことから、12月16日の都知事選が決まり、それに吸い寄せられるように野田総理が11月16日に衆議院を解散し、都知事選との同日選挙が決まりました。
さらに今日の時点で、太陽の党が解党して維新の会に合流し、石原慎太郎氏は維新の会の代表におさまってしまいました。
太陽の党は、たちあがれ日本に石原慎太郎氏が合流してできた政党です。もともとのたちあがれ日本の政策が、維新の会の政策と合うはずがありません。この数日間の間に一体何があったのかわかりませんが、とにかくたちあがれ日本は何が何だかわからないうちに蹴散らされ、橋下徹氏と石原慎太郎氏の頭の中にだけ存在する何かが結実していくかのようです。
それがうまく行くのか一時のあだ花に終わってしまうのかは結果を見ないとわかりません。

民主党と自民党を裏で操る財務省は、第三極が大同団結するスキを与えずに総選挙を敢行しようと目論んだのでしょうが、石原慎太郎氏や橋下徹氏の“パッション”は、財務省などの思惑を超え、急速に政局を展開させるパワーを発揮するのかもしれません。
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東電OL・再審無罪確定

2012-11-15 23:16:29 | 歴史・社会
東電OL殺人事件で、無期懲役が確定していたマイナリさんが、再審で無罪となりました。この1年間の動きについて、以下のニュースがコンパクトに語っています。
東電女性社員殺害:最新DNA鑑定 「第三者」痕跡次々と
毎日新聞 2012年10月29日 13時23分(最終更新 10月29日 13時47分)
『05年から始まった東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で、検察はマイナリさんが有罪との姿勢を維持した。殺害現場の部屋のトイレにあった避妊具にマイナリさんの体液が残っていた▽部屋のカギを持っていたのはマイナリさんだけ-などと認定して有罪とした確定判決に揺らぎはないと考えたためだ。だが、再審請求審以降、次々と示された最新のDNA型鑑定は「第三者」の存在を示唆。最後は自ら拳を下ろす選択しか残っていなかった。
検察を動揺させた最初の鑑定結果は昨年7月。被害者の体内に残された体液と現場に落ちていた体毛の型が「第三者」と一致した。マイナリさんが現場で性的関係を持った後に殺害したとする確定判決に深いひびが入った。
それでも検察は「現場の外で付着した(第三者の)体毛が室内に持ち込まれた可能性がある」などと主張。同9月以降、追加鑑定を順次実施した。
しかし、被害者の体表に付着した微物を中心に行われた追加鑑定は複数のDNA型が混在して特定できないか、第三者という結果ばかり。高裁は今年6月、再審開始を宣言。マイナリさんは即日釈放され、この時点で再審公判の無罪はほぼ確実視された。
検察は証拠の再検討を迫られた。捜査段階で試料となる付着物が見つからず鑑定されていなかった被害者の爪について複数の専門家に相談したところ「現在の技術ならやる価値はある」と助言された。その結果、明らかになったのは、やはり第三者の痕跡だった。
爪の鑑定結果を受けた10月の幹部会議。誰からも有罪維持の意見は出なかった。検察首脳は「もう、じたばたするな」と無罪主張への転換を指示した。【島田信幸】』

殺人事件があったのは1997年です。上記ニュースを聞いて、2つのことを感じます。
○ 被害者のご遺体に付着していたごく微量の遺留物が、よくもこれまで15年間も保管されていたものだ。
○ 科学技術が進歩してこれら微量の遺留物からもDNA鑑定が可能になっているにもかかわらず、検察はその存在を明かさず、命じられるまで鑑定を行おうとしなかった。実にけしからん。

さて、この事件の再審が今年7月に報じられて以来、私は
東電OL殺人事件 (新潮文庫)
佐野眞一
新潮社
を読み返して見ました。この本は、事件の一審判決(無罪)が言い渡される直前までについて事件を追いかけたルポルタージュです。
読み直して改めて思うのは、一審の時点で明らかになった諸事実に基づけば、やはりマイナリさんは無罪が妥当だということです。逆転有罪を言い渡した高等裁判所と、その判決を維持した最高裁判所、そして再審請求をなかなか認めようとしなかった裁判所、再審段階まで証拠を出し渋った検察に、反省と謝罪すべき点が見られるでしょう。

二審が有罪とした主な証拠はというと、主に下の2点です。
○現場の便器の中に捨てられていた避妊具中の体液DNAが被告のDNAと一致した。
○現場の部屋の鍵を被告が所持しており、被告でなければ部屋に入れなかった。
それに対する被告の反論は、次の通りです。
○被告が被害者との行為の後に便所に捨てたのは、事件の1週間前だ。
○事件当日、部屋の鍵は開いていた。
主張は真っ向から対立し、どちらが真実か不明です。

佐野眞一氏の上記書籍を読み返すと、いろいろな点に気づきます。
○ 被害者が、犯人と思われる男性と犯行現場の部屋に入るところを、スギタという人物に目撃されています(午後11時45分頃)。そのスギタは、法廷で次のように証言しているのです。
二人は女の人が少し先に立ってアパートに入っていきました。』p263
男性が被告であって、被告が部屋の鍵を開けたのだとしたら、男性が先に立って入っていくはずです。目撃証言にあるように女性が先に立って入ったのだとしたら、部屋の鍵が開いていることを女性が知った上で、その部屋に入った可能性が高いということです。

○ 一審の公判において、被害者の体内から男性体液が検出されたことが明らかになったのは、実に公判が第17回まで進んだときでした。証人に立った科捜研職員に対する弁護側の反対尋問で明らかになったのです。傍聴している佐野氏には、DNA鑑定まで行われたのかは明らかでありませんでした。p303
佐野氏は、“その体液は被害者の遺体とともに灰になってしまった”と述べましたが、実は15年間にわたって保管されていたのですね。
荼毘にふさずに保管していたことはお手柄ですが、保管していることを明らかにせず、またDNA鑑定技術が進歩したのに率先して鑑定を行わなかった検察は糾弾されるべきです。

○ 公判では、部屋から発見された陰毛は合計16本であり、遺体のそばからはそのうちの4本が見つかったことがわかっています。鑑定については、血液型とミトコンドリアDNA型のみが鑑定されていました。
今回、DNA鑑定で第三者犯行が明らかになった決め手の陰毛もこの中に含まれていたはずです。

○ 事件の翌日朝、犯行のあった部屋の窓の下には、使用済みと思われる複数の避妊具が落ちていたとの証言がありました。つまり、事件と関係している可能性がある避妊具は、上記便器内に捨てられたもの以外にも複数存在していたのです。p316,p474

○ そもそも被告のアリバイに無理があります。被告は当時、JR海浜幕張駅近くのインド料理店に勤めていました。もし被告が今回の犯行を行おうとしたら、仕事が定時で終了した後、大急ぎで着替えて駅に向かい、電車に飛び乗り、乗り換えて渋谷駅に着いたら一目散に犯行現場に到着し、被害者を見つけた上で犯行に及ぶ必要があります。行きずりの街娼相手の犯行が、これほど計画的になされるというのはあまりにも不自然です。また動機もありません。

こうして振り返ってみると、1審判決当時の情報のみであっても無罪が妥当です。なぜ高裁と最高裁は有罪と判断したのでしょうか。
無罪判決が出たとき、本来であれば勾留が解かれてネパールへ強制退去のはずでした。ところが検察は、被告がネパールに向けて出国することを恐れ、勾留の継続を裁判所に要請し、高裁と最高裁はそれを認めたのです。裁判所は、“無罪判決が出たが、それでもなお有罪を疑うに足りる相当の理由があるとき”は勾留を認められます。それを認めたことが重しとなり、控訴審有罪に傾いてしまったのではないか、と疑われています。

ところで、著者の佐野眞一氏は、今回の橋下徹vs週刊朝日事件ですっかり信用を失ってしまいました。
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中国共産党政治局常務委員の勢力図は?

2012-11-13 00:11:55 | 歴史・社会
8日から、第18回中国共産党大会が始まっています。習近平が党総書記を引き継ぎ、李克強が首相に就任することは決まりのようです。
10月23日に「中国共産党の権力闘争と日中関係」で書いたように、宮崎正弘著「中国権力闘争 共産党三大派閥のいま」によれば、中国中央は、3つの派閥が熾烈な権力闘争を行っていると言います。
「太子党」:親が中国の高官だった
「団派」:共青団(共産主義青年団)の出身
「上海派」:江沢民の一派
中国共産党を牛耳っているのは、政治局常務委員会の9人の常務委員です。11月に共産党大会を控え、この9人の中に自派の委員をどれだけ送り込むことができるか、それが当面の権力闘争です。胡錦涛は政治局常務委員会の定員を9人から7人に減らす画策もしています。自派の比率を増やすためです。
しかし、共産党大会は始まっているのに、中央政治局の常務委員に誰が就くのか、そもそも常務委員は現状の9人から7人に減るのか、というあたりは新聞を読んでいても伝わってきません。

12日、「第18回中国共産党大会がいよいよ開幕! 習近平&李克強とともに選ばれる中央政治局常務委員「最後の7人目」にみる胡錦濤と江沢民の"仁義なき戦い"」2012年11月12日(月) 近藤 大介がアップされました。
『習・李コンビとともに中央政治局常務委員に選ばれるメンバーが、14日の発表まであと数日となっても、いまだにはっきりしない。
私は7月の時点で、ある信頼のおける中国人から、次期常務委員の顔ぶれについて、次のように聞いた。
1. 習近平 総書記、国家主席、中央軍事委員会主席
2. 王岐山 全人代常務委員長(国会議長)
3. 李克強 首相
4. 劉延東 政協主席
5. 李源潮 紀律委書記
6. 劉雲山 精神指導委主任(文化担当)
7. 張徳江 政法委書記(公安担当)
8. 俞正声 国家副主席
9. 張高麗 副総理

ところが、9月に北京で会うと、彼は「あれから大きく変わった」と言って、次のように語った。
1. 習近平 総書記、国家主席、中央軍事委員会主席
2. 張徳江 全人代常務委員長 
3. 李克強 首相
4. 俞正声 政協主席
5. 李源潮 紀律委書記
6. 王岐山 副首相
7. 汪洋  副首相

何が変わったかと言えば、まず9人が7人に減った。』

9月に得た上記情報以降、新しい動きは正確には伝わってきていません。

『以下のところまでは確実だろう。すなわち、やはり「トップ9」ではなく「トップ7」だということ。また、習近平、李克強、王岐山、李源朝、張徳江の5人は当確だということである。加えて、俞正声も当確に近いのではないか。すると残りは一人。張高麗か汪洋かということになる。
ここは非常に大事なところだ。張高麗は広東省で32年間も勤務した「江沢民派の広東省の番人」であり、汪洋は現職の広東省党委書記(広東省トップ)で「胡錦濤派の広東省の番人」である。
この「最後の7人目」にどちらが入るかは、唯一のGDP5兆元省であり、香港にも隣接した広東省の利権を江沢民が取るか胡錦濤が取るかという分岐点となるのである。だから両派とも絶対に譲れないところなのである。
いずれにしても、14日にはすべてが明らかになる---。』

近藤氏の記述には、常務委員候補者がどの派閥に属するのかが記載されていません。そこで、「中国権力闘争 共産党三大派閥のいま」を読み解き、各候補者がどの派閥に属するのかを検証してみます。
         派閥           今までの役職
1. 習近平 太子党(上海派寄り)     副主席
2. 張徳江 上海派              薄煕来失脚後の重慶市党書記
3. 李克強 団派               副首相
4. 俞正声 上海派(太子党兼)      上海市党書記
5. 李源潮 太子党?団派?        政治局員、中央組織部長
6. 王岐山 太子党              副首相
7. 汪洋  団派               広東省書記
7'.張高麗 上海派                 

結局、よくわかりません。しかし、7人目が 汪洋か張高麗かで、団派と上海派の勢力図が大きく入れ代わることに間違いはありません。

ps 11/13 13:30 「東洋経済オンライン 2012/11/13 11:30 西村 豪太 」は以下のように伝えています。
『北京発の情報によれば、10月下旬に開かれた会議で決定した常務委員会のメンバー7人は以下のとおりだ。
習氏のほか、首相になる李克強・第一副首相、王岐山・副首相、張高麗・天津市党書記、張徳江・副首相、兪正声・上海市党書記、劉雲山・党中央宣伝部長。
李氏のほかは、胡氏より江氏と近いとされる面々ばかりだ。総書記に次ぐ党内序列2位の全国人民代表大会委員長には、王氏が就任するとみられている。
胡氏側近で現職の常務委員である李克強氏はかろうじて残り、序列3位の首相になる見通しだ。だが、同じ共青団出身者として注目されていた李源潮・党中央組織部長、汪洋・広東省党書記は選に漏れた。次期指導部に胡氏の影響力を残すのは、難しい情勢だ。』

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古賀茂明氏が読み解く永田町の「解散風」

2012-11-12 00:06:40 | 歴史・社会
「古賀茂明と日本再生を考えるメールマガジン Vol.042」が配信されました。
今回は、
■永田町と霞が関で急速に強まる解散風の正体
――自分たちの都合を優先する財務省――
■巧みに官僚主導に持ち込まれる原子力規制委員会
■大学認可問題で田中眞紀子文科相が躓いた理由
■関西電力が節電の数値目標を示さない訳
■みんなと維新と石原新党で法案を出したらどうか
というテーマで論じられており、いずれもおもしろい内容でした。

このうち、
■永田町と霞が関で急速に強まる解散風の正体
――自分たちの都合を優先する財務省――
について紹介します。

今週(11月5日からの週)に入って、永田町と霞が関で急速に解散風が強まっているのだそうです。特に水曜日あたりからは、財務省筋から解散が決まったという情報が流れているといいます。

霞が関が最も恐れているのは、石原新党と維新の会、みんなの党との連携です。これらの第三極が万一安倍自民党と組んだ場合、公務員改革、国家戦略局設置などの政治主導改革が実施される可能性が高くなります。
安倍政権時代、渡辺大臣は安倍総理の下で、公務員制度改革を大幅に進めました。ただし恐らくはそれが原因で霞が関から反発を受け、マスコミの人気も急落して1年で政権を投げ出す原因にもなったと思われます。
今回、そのときの安倍と渡辺が再度結びつき、これに橋下、石原が加わったら、破壊力は桁違いに大きくなります。

そこで、財務省幹部は、安倍総裁とその周辺に、選挙後の第三極との連携を止めて自公民路線をとるように必死に説得しているというのです。その時のセールストークは、「自公民路線を採ると約束してくれれば、野田総理の年内解散を取って来ます」という殺し文句ではないかと。

一方、財務省は、八方塞がりの野田総理に対しては、「これ以上解散を延ばすと、嘘つきのレッテルを貼られ、選挙に不利です。負けてもとりあえず、自公民路線で与党に残ったほうが得です。早期解散と引き換えに、選挙後の自公民連立を取りましょう」と持ちかければよい。
財務省はマスコミにも、「財務省は年末解散を念頭に置いた業務体制にはいっています。これは極秘ですが」との情報を流すことにより、野田総理が年内に解散するという確証を財務省は得た、という風に理解させるのです。

『解散という、政治の世界で最重要なイベントを財務省が仕切るだけでなく、さらに選挙後の政権の枠組みまで財務省が決めていく。「究極の官僚主導の政治」が行われるということなのか。
まさか、こんなことがことの真相だということはないと思いたいのだが、本当かもしれないと思えてくるのが、恐ろしい。』(古賀茂明氏)

こうして古賀茂明氏に語られると、私にも財務省の陰謀が本当に行われているように思えてきます。
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