第1回に引き続き、阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ
」の2回目です。
1937(昭和12)年に起きた第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていませんでした。このブログでは、『上海での第百一師団(2007-08-28)』、『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(2009-01-29)』において、第二次上海事変の戦線に送り込まれた日本軍兵士たちがどのような体験をしたのか、秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)
」の記述に基づいて言及しました。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
・・・
ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」

101師団の加納連隊長は、同師団101連隊の連隊長で、9月11日に上海戦で戦死しています。(p208、ウィキ)日時からいって、大場鎮攻略に向けた激戦の中での戦死でしょう。
第3師団では、名古屋6連隊連隊長は戦死、岐阜68連隊と豊橋18連隊の連隊長は負傷しました。それに対して静岡34連隊の田上八郎連隊長に対しては、ほかの3人の連隊長が戦死傷しているのに、負傷もしていないのは、安全な後方で指揮を執っていて兵士に犠牲を強いていのではないか、といった無知な非難が上がり、連隊長の留守宅に投石する者も現れるようになりました。p212
田上連隊長の夫人が自殺する事件が起きたのは、このような状況があったからなのですね。
話は戻ります。
第2次上海事変が起きたのは、蒋介石が「日本軍と闘って日本を上海から追い落とす」という明確な意思を持っていたからです。それでは蒋介石は、どのような見通しのもとに対日戦を決意したのでしょうか。
ドイツに指導された強固な縦深陣地を、上海市を取り囲むように築き、同じくドイツ製の最新兵器で武装した精鋭部隊を配置しての戦闘開始でした。少なくとも上海で守備に就く日本海軍特別陸戦隊を殲滅する目標は有していました。その目標は達せられませんでしたが。
しかしもし、日本の特別陸戦隊を殲滅したとして、それで日本に勝利すると考えていたのでしょうか。日本がそれでおさまるはずはありません。当然に陸軍の大部隊を派遣し、上海を舞台とした大戦争が始まります。蒋介石はそこでも、重武装したトーチカ陣地で守りぬき、日本軍を撤退させうると考えていたのでしょうか。
普通の常識的な軍隊であれば、兵員の1/3が消耗するほどの激戦を闘えば、そこで戦闘を中止していたかもしれません。しかし日本軍はそのような行動を取りませんでした。いかに犠牲が大きくても前進し、目標を制圧するまで戦いを止めませんでした。
一部の説では、蒋介石は最初から日本軍を中国大陸奥地に誘い込んで長期戦に持ち込む考えであったと言われています。
しかし、蒋介石が上海戦に投入したのは、ドイツ製の武器で武装し訓練を積んだ最精鋭部隊です。その最精鋭部隊が、上海戦の結果として消滅してしまいました。最初から囮作戦を企図したのであれば、最精鋭部隊を消滅させるような配置は行わないでしょう。あくまで、上海において日本を屈服させる意図だったと思われます。
また、盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀だったのかどうか、という点について。
盧溝橋事件直後、中国軍の現地司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。もし盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀であったなら、宋哲元もその内実を知っているはずで、そうであれば安易に日本との停戦協定締結には進まなかったはずです。その点から、盧溝橋事件そのものは日本軍の陰謀でも蒋介石の陰謀でもなく、偶発的なものだったと思われます。中国共産党軍の陰謀の可能性はありますが。
ただし、蒋介石が、盧溝橋事件を好機と捉えて対日開戦を決意したのは確かでしょう。一方、「日本軍を殲滅する」という観点では、蒋介石軍の準備が十分整う前の開戦であり、目的を達成できない理由となりました。
次にドイツ軍事顧問団は、なぜ蒋介石に日中戦をそそのかしたのでしょうか。日中戦が始まったとして、自分が応援する蒋介石軍にどのような勝算を持っていたのでしょうか。その点はこの本を読んでも不明のままです。
さらに上海戦前、日本はどのような戦略を有していたのでしょうか。
孫氏の兵法に従うのであれば、「敵を知り己を知る」ことが重要です。蒋介石が上海の周辺に強固なトーチカ陣地を構築していること、その陣地及び蒋介石軍は、ドイツの指導とドイツからの輸入兵器によって強力な戦闘力を保持するに至ったことを、日本軍は知っていたのか知らなかったのか。阿羅健一著書によると、ドイツの指導及び陣地の構築を、日本軍はうすうすは感づいていたものの、その実力が非常に高いレベルに到達していたことには何ら気づいていなかったようです。
それまで日本軍は3倍の中国軍を相手に戦えるといわれていたようです。確かに、満州の匪賊相手の戦いではその通りでした。そのつもりで油断して日本陸軍を上陸させてみたら、上海の中国軍はすっかり精鋭部隊に変わっており、日本に勝る火力を手に、かつてなかった陣地を築いて待ち受けていました。日本軍は思いもしなかった重大な損害を受けました。1万人以上の戦死者と4万人以上の戦死傷者です。このあと日中戦争が9年間続きますが、このように甚大な犠牲を払った戦闘はこのときの上海だけのようです。
簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらなかったのです。
上海戦は最後、11月5日に日本の第10軍が杭州湾に上陸することによって大きく動きました。それまで闘ってきた日本の上海派遣軍は、大場鎮を攻め落としたものの、まだその先の強力なトーチカ群に拠る中国軍と対峙していました。ところがその中国軍は、杭州湾への日本軍上陸を知って一気に崩れたのです。中国軍は潰走しました。退却の途中にはヒンデンブルクラインと呼ばれた上海よりも強力な陣地があり、ここで日本軍を迎え撃つはずでした。しかし中国軍は、この陣地に止まることもなく敗走したのです。
杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将は、独断で南京攻略に進撃しようとします。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまいます。
このことがその後の、南京大虐殺、泥沼の日中戦争の端緒となりました。
こうして第二次上海事変をふり返ってみて、真珠湾攻撃との類似性にはたと気づきました。
《第二次上海事変》
①日本軍は、蒋介石軍がドイツの援助で強くなっていることに気づかず、油断しており、一撃で中国軍を圧倒できると思い込んでいた。
②蒋介石は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、日本に戦闘を仕掛けた。
③日本軍は被った多大な犠牲に逆上し、“暴支膺懲”のかけ声の下に中国奥地まで攻め入り、泥沼の日中戦争に突入していった。
《真珠湾攻撃》
①アメリカは、日本海軍が強くなっていることに気づかず、油断しており、たとえ日本軍が攻めてきても一撃で撃退できると思い込んでいた。
②日本は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、真珠湾攻撃を仕掛けた。
③米国民は真珠湾攻撃に逆上し、“Remember Pearl Harbor”を合い言葉に激烈な太平洋戦争に突入していった。
歴史とはこのようにして繰り返していくのでしょうか。
1937(昭和12)年に起きた第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていませんでした。このブログでは、『上海での第百一師団(2007-08-28)』、『加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)(2009-01-29)』において、第二次上海事変の戦線に送り込まれた日本軍兵士たちがどのような体験をしたのか、秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
・・・
ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」

101師団の加納連隊長は、同師団101連隊の連隊長で、9月11日に上海戦で戦死しています。(p208、ウィキ)日時からいって、大場鎮攻略に向けた激戦の中での戦死でしょう。
第3師団では、名古屋6連隊連隊長は戦死、岐阜68連隊と豊橋18連隊の連隊長は負傷しました。それに対して静岡34連隊の田上八郎連隊長に対しては、ほかの3人の連隊長が戦死傷しているのに、負傷もしていないのは、安全な後方で指揮を執っていて兵士に犠牲を強いていのではないか、といった無知な非難が上がり、連隊長の留守宅に投石する者も現れるようになりました。p212
田上連隊長の夫人が自殺する事件が起きたのは、このような状況があったからなのですね。
話は戻ります。
第2次上海事変が起きたのは、蒋介石が「日本軍と闘って日本を上海から追い落とす」という明確な意思を持っていたからです。それでは蒋介石は、どのような見通しのもとに対日戦を決意したのでしょうか。
ドイツに指導された強固な縦深陣地を、上海市を取り囲むように築き、同じくドイツ製の最新兵器で武装した精鋭部隊を配置しての戦闘開始でした。少なくとも上海で守備に就く日本海軍特別陸戦隊を殲滅する目標は有していました。その目標は達せられませんでしたが。
しかしもし、日本の特別陸戦隊を殲滅したとして、それで日本に勝利すると考えていたのでしょうか。日本がそれでおさまるはずはありません。当然に陸軍の大部隊を派遣し、上海を舞台とした大戦争が始まります。蒋介石はそこでも、重武装したトーチカ陣地で守りぬき、日本軍を撤退させうると考えていたのでしょうか。
普通の常識的な軍隊であれば、兵員の1/3が消耗するほどの激戦を闘えば、そこで戦闘を中止していたかもしれません。しかし日本軍はそのような行動を取りませんでした。いかに犠牲が大きくても前進し、目標を制圧するまで戦いを止めませんでした。
一部の説では、蒋介石は最初から日本軍を中国大陸奥地に誘い込んで長期戦に持ち込む考えであったと言われています。
しかし、蒋介石が上海戦に投入したのは、ドイツ製の武器で武装し訓練を積んだ最精鋭部隊です。その最精鋭部隊が、上海戦の結果として消滅してしまいました。最初から囮作戦を企図したのであれば、最精鋭部隊を消滅させるような配置は行わないでしょう。あくまで、上海において日本を屈服させる意図だったと思われます。
また、盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀だったのかどうか、という点について。
盧溝橋事件直後、中国軍の現地司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。もし盧溝橋事件そのものが蒋介石の陰謀であったなら、宋哲元もその内実を知っているはずで、そうであれば安易に日本との停戦協定締結には進まなかったはずです。その点から、盧溝橋事件そのものは日本軍の陰謀でも蒋介石の陰謀でもなく、偶発的なものだったと思われます。中国共産党軍の陰謀の可能性はありますが。
ただし、蒋介石が、盧溝橋事件を好機と捉えて対日開戦を決意したのは確かでしょう。一方、「日本軍を殲滅する」という観点では、蒋介石軍の準備が十分整う前の開戦であり、目的を達成できない理由となりました。
次にドイツ軍事顧問団は、なぜ蒋介石に日中戦をそそのかしたのでしょうか。日中戦が始まったとして、自分が応援する蒋介石軍にどのような勝算を持っていたのでしょうか。その点はこの本を読んでも不明のままです。
さらに上海戦前、日本はどのような戦略を有していたのでしょうか。
孫氏の兵法に従うのであれば、「敵を知り己を知る」ことが重要です。蒋介石が上海の周辺に強固なトーチカ陣地を構築していること、その陣地及び蒋介石軍は、ドイツの指導とドイツからの輸入兵器によって強力な戦闘力を保持するに至ったことを、日本軍は知っていたのか知らなかったのか。阿羅健一著書によると、ドイツの指導及び陣地の構築を、日本軍はうすうすは感づいていたものの、その実力が非常に高いレベルに到達していたことには何ら気づいていなかったようです。
それまで日本軍は3倍の中国軍を相手に戦えるといわれていたようです。確かに、満州の匪賊相手の戦いではその通りでした。そのつもりで油断して日本陸軍を上陸させてみたら、上海の中国軍はすっかり精鋭部隊に変わっており、日本に勝る火力を手に、かつてなかった陣地を築いて待ち受けていました。日本軍は思いもしなかった重大な損害を受けました。1万人以上の戦死者と4万人以上の戦死傷者です。このあと日中戦争が9年間続きますが、このように甚大な犠牲を払った戦闘はこのときの上海だけのようです。
簡単に済むと思っていた上海戦でこのような苦戦を強いられたことは、日本を逆上させました。戦闘は上海で終わらなかったのです。
上海戦は最後、11月5日に日本の第10軍が杭州湾に上陸することによって大きく動きました。それまで闘ってきた日本の上海派遣軍は、大場鎮を攻め落としたものの、まだその先の強力なトーチカ群に拠る中国軍と対峙していました。ところがその中国軍は、杭州湾への日本軍上陸を知って一気に崩れたのです。中国軍は潰走しました。退却の途中にはヒンデンブルクラインと呼ばれた上海よりも強力な陣地があり、ここで日本軍を迎え撃つはずでした。しかし中国軍は、この陣地に止まることもなく敗走したのです。
杭州湾に上陸した第10軍司令官の柳川平助中将は、独断で南京攻略に進撃しようとします。その上の中支那方面軍司令官の松井石根大将ももともとは南京攻略論者でしたから、柳川中将に引きずられていきます。参謀本部は当初南京攻略に反対でしたが、結局は現地軍の意向に引きずられ、南京攻略を許可してしまいます。
このことがその後の、南京大虐殺、泥沼の日中戦争の端緒となりました。
こうして第二次上海事変をふり返ってみて、真珠湾攻撃との類似性にはたと気づきました。
《第二次上海事変》
①日本軍は、蒋介石軍がドイツの援助で強くなっていることに気づかず、油断しており、一撃で中国軍を圧倒できると思い込んでいた。
②蒋介石は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、日本に戦闘を仕掛けた。
③日本軍は被った多大な犠牲に逆上し、“暴支膺懲”のかけ声の下に中国奥地まで攻め入り、泥沼の日中戦争に突入していった。
《真珠湾攻撃》
①アメリカは、日本海軍が強くなっていることに気づかず、油断しており、たとえ日本軍が攻めてきても一撃で撃退できると思い込んでいた。
②日本は、戦争をどのように終結させるかの目算を持たないまま、真珠湾攻撃を仕掛けた。
③米国民は真珠湾攻撃に逆上し、“Remember Pearl Harbor”を合い言葉に激烈な太平洋戦争に突入していった。
歴史とはこのようにして繰り返していくのでしょうか。