大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月12日 | 写詩・写歌・写俳

<557> 大和の歌碑・句碑 ・詩碑 (3)

      [碑文]          春がすみいよゝ濃くなるまひる間の何も見えねば大和と思へ                                 前川佐美雄

 この歌は難しい言葉もなく、一読してわかる平明な歌のように見えるが、大和という土地柄に重ねて鑑賞してみると、この歌ほど深みを増す歌はないように思われて来る。歌碑に因み、このことについて少し触れてみたいと思う。

 佐美雄は明治三十六年(一九〇三年)、南葛城郡忍海(おしみ)村(現葛城市)の林業を家業とする家の長男として生まれ育ち、東京の大学に進学して佐佐木信綱に師事、信綱が主宰する竹柏会の「心の花」に入会し、短歌の道を目指すようになった。

 大学卒業後も東京に活躍の場を求めていたが、父が倒れたため急遽帰郷し、父の死後、奈良に住まいし、短歌結社日本歌人を立ち上げ、昭和四十五年(一九七〇年)に神奈川県茅ケ崎市に転居するまで大和在住の歌人として活躍、この歌をはじめ大和における多くの歌を遺した。 

                     

 この歌は、三輪山をはじめ、大和三山や点在する古墳群、或いは宮跡などが見渡せる葛城山の麓の生家における生活圏の眺望から生れたものであろう。子供のころから目に焼きついている風景であったはずである。春になると霞がかかって視界を被い、その風景は何も見えないほどの状態になる。この歌はこの状態を詠んだものと思われるが、単に実景を歌にしたものではなく、大和という歴史を誇る土地柄というものが意識の基にあったことが察せられる。

 それは、「何も見えねば」という四句目の断りの言葉と「大和と思へ」という納得を求める結句にうかがえるところで、歌を単なる実景にとどめず、精神的深みの実相、つまりは、歌をその意において象徴へと導いているからである。言わば、大和というのは国が出来、最初に都の展開した地であるが、京都や東京と遷されて行くのちの都と違って、史実の肝腎なところはほとんど土の下に埋もれ、何も見えない状態にあって、そこのところをこの歌は春霞をもって呼び起こし、この大和という地を暗示するがごとくに読み取れるからである。

 史実はその土の下から発掘される出土品によるところの、所謂、考古学的世界において推察され展開するわけで、何も見えず、わからないところが真実としてある。一面において、その風景には諦観が言えるけれども、これこそが大和であるという神的な土地柄を思わせるところで、この大地に隠れて存在するその真実において推理や考察がなされ、思いも巡ることになるわけである。佐美雄は浪漫派と評されて来た歌人であるが、この浪漫は何も見えないこの大和の真実の姿によって育まれたものではなかったかとも思える。

 歌は第二歌集『大和』(昭和十五年)に所収され、「春霞いよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」と見える。大和の霞は万葉の昔からよく知られ、『万葉集』には「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」(柿本人麻呂歌集)と詠まれるなど巻十には霞を詠んだ歌七首が巻頭より連なっているほどである。

 歌碑は佐美雄の郷里とは大和平野を隔て、東に対面する三輪山の神々のさ庭に当たる一角の桜井市檜原の檜原神社境内に建てられている。境内からは二上山が正面に見え、この歌にぴったりなところと言ってよいように思われる。

 大和の春霞は今もよく見られるが、最近はスギ花粉とかPM2.5を含む黄砂とか、人体に影響を及ぼす厄介な存在として認識され、昔のような牧歌的な眺めには遠く、何かすっきりしないところがあるのは否めない。 写真左は春霞に霞む大和平野。中央は大和三山の一つ畝傍山。右の二枚は檜原神社境内に建てられている「春霞―――」の歌碑。  春霞 大和は遥か なる国ぞ