大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月09日 | 万葉の花

<554> 万葉の花 (78) わらび (和良妣)= ワラビ (蕨)

        蕨摘む 人も長閑な 日の高さ

   石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも              巻 八 (1418)  志貴皇子

 『万葉集』の巻八は春の雑歌から冬の相聞まで二百四十六首を集め、「志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首」と題するこの1418番の歌を巻頭に置いて四季の歌を展開している。この歌は巻頭に据えられるほど著名な歌であるが、集中にわらびの見える歌はこの一首のみである。

  和良妣(わらび)が羊歯植物のワラビ(蕨)であることは、『本草和名』(深江輔仁・918年)に「蕨菜・和良比」とあり、『倭名類聚鈔』(源順・930年)に「野菜類・蕨・和良比」とあることでわかる。この歌は一目瞭然で、ワラビの芽吹きの見られる春がやって来た報春の歓びを歌い上げたものである。

 志貴皇子は天智天皇の第七皇子で、光仁天皇の父に当たり、のちに春日宮天皇と追尊され、奈良市矢田原町の陵墓は田原西陵と称せられ、田原天皇とも呼ばれている。『万葉集』には六首の短歌が見られ、集中に歌数は少ないものながら、この歌をはじめ、著名な歌ばかりで、万葉を代表する歌人として名高い。これらのことを考慮に、この歌のわらびについて考察してみたいと思う。

 私は野生の花を観察しながら大和の山野を隈なく歩いているが、皇子の歌のように、水のほとばしる垂水(たるみ)、つまり、滝の上、即ち、滝の傍に生えるワラビ(蕨)というものを未だ一度も見たことがない。ということで、この歌はワラビ(蕨)が自生する自然の実景を詠んだものではないのではないかと、いつしか思うようになった。で、資料等を読み返してみると、垂水は吹田市垂水の地名で、石激(いはばしる)は垂水の枕詞とする説にも行き当たった。

  地名というのは考えに及ばなかったが、そういう見方も出て来るという次第で、歌もいろいろと解釈されるものだと教えられた。しかし、地名だとすれば、「上」という言葉が気になるし、地名では歌の趣が損なわれてしまうことになる。ここはやはり地名ではなく、滝の実景と見るべきだが、私の観察では、垂水の滝とワラビの取り合わせに今一つしっくり来ないものが感じられる。この歌の情景からはワラビでなく、フキノトウ(蕗の薹)あたりが自然で最もふさわしいような気がする。

  ワラビというのは、羊歯植物ではあるが、ゼンマイと異なり、日当たりのよいどちらかと言えば山地や原野に見られ、一般的に言って、滝の傍など湿気の多いところには見られず、大和で言えば、若草山や曽爾高原のように、一日中陽が射す草原のようなところにいち早く生え出し、毎春、ワラビ採りを楽しむ人たちの姿が見られるといった特性を持つ植物である。

                           

 で、これらを総合して思うに、この歌は皇子が自然の滝の上(傍)の実景を詠んだのではなく、自邸の庭に人工の小滝をつくり、その滝上の風景を詠んだもので、その歌を宴会か何かのとき披露したのではないかということに考えが巡る。所謂、これは純然たる自然の風景ではなく、自庭の風景の中の一コマと考えるのが妥当ではないかと思われたりするわけである。このワラビの疑問に気づいている研究者もいて、ワラビではなく、ゼンマイの類だとする説も見られるが、ゼンマイとワラビを見間違うことはなかろうし、これは中国の古典をひもとくところ、衒学的で、私には滝を自邸の庭の人工の小滝と見るのが当を得ているように思われる。言わば、この歌は四季を彩る自然を詠んだものとして鑑賞されているが、純然たる自然の風景ではなく、自邸の風景と私には受け取れるのである。

 歌の内容からして言えば、皇子が滝の上(傍)に生え出しているワラビを偶然に目撃したということではこの歌は成り立たず、このワラビは毎年春になるとそこに見られるものでなくてはならない。で、この歌は、おそらく滝の上(傍)に生え出す純然たる自生のワラビを写生したものではなく、自邸の庭に造られた小滝の風景に見られるものではないかということが思われる次第である。つまり、自邸の庭の小滝の上(傍)にワラビを植えていたのではないかと想像されるわけである。

 しかし、そういう疑義があるにしてもこの歌は春の到来を告げる気分の明るくなる歌で、名歌の誉れを譲るものではないが、植生における自然の形というものにこだわりのある者には、少々気になる歌だということになる。 写真はワラビ(左)と小滝の傍に花を咲かせるフキ。ワラビは藁火から来ていると一説にあるが、フキノトウも燃える藁火が連想出来る。この辺りにも皇子の歌を解く鍵があるかも知れない。