<558> 二 冊 の 本
花一つ にも写真には 時代の香 あのころのこと いまに思はる
時代とは 人の姿に 添ひてある たとへば二十 世紀のフォトス
最近、本棚の隅に置いてあった二冊の本を取り出して頁をめくることがあった。一冊は、昭和五十七年に出された『ふるさとの花暦・奈良』(前川緑著)で、大西邦彦の写真とともに大和路の各地に見られる四季の花百種を採り上げた随想である。もう一冊は、昭和三十九年刊行の『世界の写真家』(重森弘淹著)で、概ね二十世紀前半に活躍した二十九人を著名なモノクロ作品とともに紹介し、解説したものである。
花の方は、著者が歌人の前川佐美雄夫人で、佐美雄について調べているときこの本を思い出した次第である。夫人も歌人で、このような随想も得意としていた。一方、世界の写真家の方は、AKB48の一人が丸坊主になるというお騒がせがあり、インターネット配信によって世界の注目を浴びたことによってロバート・キャパの「ナチ協力者への報復」という作品を思い出したことによる。
二冊はともに写真をもって構成された本であるが、一冊は自然の花がテーマであり、他の一冊は報道写真を軸にした人間模様が語られている本で、この二冊は異質であるが、ともに頁をめくっているうち、何か言い知れない懐かしさのようなものが感じられて来た。これは異質であるけれども、二冊に示されている情緒的な内容というものが私にも共有されてあったからではないか。
つまり、それは異質なものであるものの、春に花を見せるショウジョウバカマも秋の花であるオミナエシも、デビッド・シーモアの「戦災孤児」もユージン・スミスの「ピッツバーグの労働者」もみな一様に懐かしさをともなって私の心に向かって来たのである。今や、デジタル技術の時代で、何もかもがボタン一つ、キー一つでことが進められてゆく。こういう時代だからだろう、このアナログ時代の二冊は、私に懐かしさを抱かせるのである。
技術が向上している現代の写真に比べると、二冊に登場する写真は印刷も拙く、粗野に見えるけれども、現代では撮り得ない精神性が随所に見られ、それも懐かしさに通じていることが思われるところであるが、加えて言えば、私たちには写真を見るとき、写真を言葉に置き換えて見ていることに気づく。これは私たちにとって実に大きいことで、写真における感動も言葉に置き換えて感動していることが言える。ゆえに、写真プラス言葉というのは重要なことであるということが出来る。写真は、右がショウジョウバカマ(『ふるさとの花暦・奈良』より)。左がデビッド・シーモアの作品(『世界の写真家』より)。