大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月26日 | 写詩・写歌・写俳

<571> ネ ク タ イ

        ネクタイの一つ一つに来し方の思ひ出があるうすうすながら

 春を迎えて妻が冬物の仕舞い支度をするに当たってネクタイを整理すると言って出して来た。数えてみると三十本あった。新婚旅行に出発するときにしていたものをはじめ、薄々ながらその年代を覚えている。ほとんどがプレゼントしてもらったもので、自分で買ったものは二、三本しかない。よくまあ残して置いたものと思う。普通の会社勤めであれば、こんなものでは済まなかったはずであるが、外に出かけて飛び回るのが常の仕事で、現役時代はほとんどネクタイをしなかった。ネクタイをしたのは、年齢がいってデスクワークに移ってからで、その期間は短く、ネクタイに対する執着のようなものは退職するに当たってもあまりなかった。

                                    

 これまでの印象として、よくつけたと言えるネクタイは、黒い喪服用のものではなかったか。そんな風にも思えるほどネクタイはしなかったように思われる。それでも、三十本あるのは、その時々に、「新しいネクタイが一本もないでは」ということで、誕生日か何かの記念にプレゼントしてもらったような気がする。だから、四、五本を除いてはほとんどが新品同様である。しかし、妙にそのネクタイと当時の自分が重なって来るから不思議である。右の写真はネクタイを年代順に並べたものであるが、当時と重なるところがある。右端のネクタイは新婚旅行につけて出かけたもので、妻帯の気分新鮮なときの印象がある。大切にしなくてはという気があって、以後ほとんどつけず、今に至っている。

 次のネクタイは、仕事の仲間に結婚祝いにもらったもので、結びやすさがあって、よく使った一つで、今は先端が擦り切れている。次は妻の母から何かの祝いにプレゼントされたもので、ピエール・カルダンである。しかし、このネクタイもする機会があまりなく、三、四回ほどしかつけていない印象がある。後の二本は最近、と言っても三年ほど前に妻が買ってくれたもので、今もネクタイをする機会がないので、この二本も数えるほどしか使っていない。ということで、ネクタイにはあまり縁がないのであるが、この三十本を見ていると、薄々ながらも自分の通り過ぎて来たそれぞれの時代が思い出される次第である。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月25日 | 祭り

<570> 縁日に思う

                                                          似ているようで違う   どこか違う 

                                              みんな違う   いのちの存在 

                                              しかし  この世は

                                              この違う   一つ一つの存在が 

                                              みんなでつくる   一つの世界だ

                              

  縁日の人出の中にいると、何かホッしていられる。何故だろうか。それは集まって来る人々がそれぞれに上下隔てなく、自由な気分で迎えられる雰囲気にあるからではなかろうか。媚を売るようなこともなく、気兼ねをするようなこともない、とにかく、みんな思い思いにその場を楽しんでいる、そんな感じがいいからであろう。この土、日には法隆寺の会式があったが、これから四月に向かうと各社寺で縁日が見られるので出かけてみたいと思っている。写真はイメージ。正月三が日の人出(大神神社の参道で)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月24日 | 写詩・写歌・写俳

<569> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (5)

       [碑文]       菜の花の 中に城あり 郡山                        森川許六

 許六は、明暦二年(一六五六年)から正徳五年(一七一五年)、つまり、江戸時代前期から中期、庶民文化が花開いたころ活躍した俳人である。近江国彦根藩士であったが、和歌、俳句、絵画など多才に及び、芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人であった。許六の名はその多才を六芸に秀でた者として芭蕉が命名したと伝えられる。

 郡山は福島県の郡山ではなく、大和の郡山で、城は郡山城のことである。郡山城は戦国武将の筒井順慶や秀吉の弟羽柴秀長などの居城として転変し、一時は大和、紀伊、和泉を治める百万石の中心にあった。その後、秀吉の時代が終わり、徳川の世になって城主が水野、松平、本多、柳沢と目まぐるしく変わり、城郭も整備されて行ったが、安政五年(一八五八年)二ノ丸から出火する大火によってほとんどの建物が焼け落ち、その後、修復されることなく、明治維新の廃藩置県の際、全国で城の取り壊しが行なわれた際、郡山城もその一つとして建物部分が売却され、石垣を残すだけになった。その後、大手門などが復元され、現在のような城址の姿にある。

 許六がこの句を得たときは城郭の整備がなされ、天守閣も存在し、城は平城ながら、少し高い丘にあるため、ビルなどなかった当時においてはどこからでも天守閣を仰ぎ見られたことが想像出来る。菜の花は菜種(なたね)とも呼ばれ、主に種油を採るために植えられていた。種油は灯火用として生活に欠かせないもので、電燈が普及するまで各地に需要があり、その生産のため一面に植えられ、春には黄色い絨毯を敷き詰めたような彩りを見せたのである。

                

 この句はこうした当時の暮らしの状況下に生れたものと言える。一面に広がる大和平野の菜の花畑の風景は電燈が十分に普及されるようになる戦後まで続いたようで、ほかにも、例えば、高浜虚子の『斑鳩物語』では、法隆寺の夢殿に近い大黒屋という宿屋の二階から眺めた菜の花畑の広がりが描かれ、斑鳩の里が菜の花で被われていたことを物語っている。虚子がこの短編小説を書いたのは明治四十年のことで、これは大和平野の中央北西よりに当たる地域の風景である。

 明治から大正時代にかけて活躍した歌人服部躬治には「一すぢの小道の末は畑に入り菜の花一里當麻寺にまで」という歌があり、これは當麻の里、つまり、大和平野の中央南西よりに当たる地域の風景で、この歌でも菜の花が一面に咲いているのが覗える。また、俳人小松好子には「菜の花に大和三山よき高さ」という句がある。これは大和平野の南部の眺めであり、これらのことを総合して見ると、江戸時代から昭和時代前期のころまで、大和平野は菜の花で被い尽されていたことになる。

 許六の句は菜の花を手前にして菜の花に囲まれながら天守閣を望む位置での作句とみられ、これは好子の目線に等しいと言ってよかろう。許六は絵に造詣が深く、芭蕉は許六に句作を伝授する代わりに許六から絵を習ったとも伝えられているほどで、この句は許六の得意とする絵画的な手法が発揮された句と言ってよい。 

  句碑は大手門を入った正面の一角、城址会館の前庭に建てられている。俳人山口誓子の筆によるもので、近くには、「大和また新たなる國田を鋤けば」という誓子の句碑も見られる。写真左は一面に咲く菜の花畑(明日香村で)。中央は許六の句碑(郡山城址で)。右は『斑鳩物語』の舞台になった法起寺の塔を背景に咲く菜の花(斑鳩の里で)。  菜の花や 子らにぎやかに 過ぎ行けり

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月23日 | 万葉の花

<568> 万葉の花 (81) さくら (佐久良、佐具良、佐宿木、作楽、櫻) = サクラ (桜)

        ぱっと咲き ぱっと散りゆく さくらかな

      あしひきの山の間照らす桜花この春雨に散りゆかむかも                  巻 十 (1864)   詠人未詳

    見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも                   巻 十 (1872)   詠人未詳

    春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく             巻 十 (1887)   詠人未詳

        あしひきの山桜戸を開き置きて吾が待つ君を誰か留むる                巻十一 (2617)   詠人未詳

        桜花咲きかも散ると見るまでに誰かもここに見えて散り行く              巻十二(3129) 柿本人麻呂歌集

    龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ吾が帰るとに                  巻二十 (4395)  大伴家持

 集中にサクラ(桜)を詠んだと見える歌は反歌を含む短歌三十二首、長歌十一首、旋頭歌一首の計四十四首にのぼる。ハギの百四十二首やコウゾの百三十九首、ウメの百十九首には遠く及ばないが、植物中ススキの四十五首に次いで十二番目に多い登場数を誇り、当時から関心の持たれていた樹木である。

 サクラが最初に見えるのは、『古事記』の第十七代履中天皇の条に「若櫻宮」とあり、『日本書紀』にはこの「若櫻宮」の由来について、天皇の盃に花びらが舞い来たって、この花びらが何処から来たか、臣下に調べさせたところサクラの木であったことから、これにいたく感激して自らの宮をこのように命名したという。

  一説によると、サクラのサクは、咲くから来ているもので、ラは美称と言われ、『古事記』の神話に登場する木之花咲耶姫(このはなさくやひめ・木花佐久夜毘売・木花開耶姫)に因んで命名されたとされる。このようにその名は神話に基づくとされ、同じバラ科の樹木ながらサクラは国産で、中国から渡来したウメとは趣を異にするところが見られ、万葉歌にもそれが微妙に現われている。

  では、『万葉集』に登場するサクラを見てゆくことにしよう。サクラにはいろんな種類があるが、大和に自生して見られるものは、主にヤマザクラで、次にケヤマザクラ(カスミザクラ)をあげることが出来る。だが、ケヤマザクラは山の高所に分布し、里の近くでは見られない。エドヒガンやオオシマザクラはよく知られるサクラであるが、大和に自生はないか、あっても極めて珍しい(『奈良県樹木分布誌』参照)と言える。また、昨今人気があって全国的に花見の対象になっているソメイヨシノは江戸時代末に登場したサクラで、園芸種の多いサトザクラの仲間も時代が下ってからのものであるから、これらを総合してみると、『万葉集』に登場を見るサクラはヤマザクラであると言え、これが定説になっている。

                                      

  大和のヤマザクラと言えば、天下の名勝吉野山があり、時代が下る『古今和歌集』には「みよし野の山べにさける」と出て来るが、『万葉集』に吉野のサクラは全く登場しない。登場を見るのは、1887番の旋頭歌や4395番の家持の歌などに言えるごとく、佐紀山、龍田山、天香具山、阿保山(未詳)、春日の三笠山、高円の野辺、紀州の糸鹿山などのサクラである。ウメは貴族の庭に植えられたものが圧倒的で、宴席で詠まれた歌が目を引くのに対し、サクラは植えられたものが詠まれた歌はわずかに四首で、その違いが指摘出来る。

  「梅は咲いたか 桜はまだかいな」ではないが、ウメからサクラに時節の移りゆく歌は二首。万葉のウメには雪がつきものであるが、サクラの歌に雪の登場はなく、その代わり、1864番の歌のように春雨が抱き合わせになっている特徴がある。サクラは2612番の歌以外すべてが花に関わる視覚によって詠まれた歌で、1872番の歌のように花の盛りを詠んだものも多いが、3129番の人麻呂歌集の歌や4395番の家持の歌のように、散りゆく花に寄せた歌も十五首に及ぶ。

  このように、サクラの花はパッと咲く姿がよく、また、パッと散りゆく潔さもあって、脚光を浴びることになるが、既に『万葉集』にその一面がうかがえる。国学者の本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、その花を称賛したことはよく知られ、この花の誉れによってサクラは菊とともに国花として認められるに至った。また、散り際のよさに美徳が重ねられ、「みごと散りましょう 国のため」と戦時軍政下の精神の高揚に利用されたこともあった。

  これらの歌に加え、咲き始めの花の歌が一首。また、1887番の歌のように、夜に月あかりを得て花に対した歌が一首あり、これは夜桜の形と言えようか。吉野山のサクラは一首も詠まれていないことは前に触れたが、全山サクラというような光景は、後世、人の手によってなされたもので、自然に生えるサクラ、即ち、ヤマザクラにはそういう姿はなく、「桜花 木(こ)の闇(くれ)ごもり」(巻六・1047・田辺福麻呂歌集)というように、普段ほかの木に紛れ、目立たないが、樹冠一杯にパッと咲く花にその存在を顕現するところがある。

  なお、四十四首中の三首に「此の花」とあるが、詞書に桜を詠むとあることやサクラを詠んだ長歌の反歌に見られ、明らかにサクラを詠んだと言えるところから、これら歌も数の中に入れた。集中には単に「はな」を詠んだ歌が七十三首認められ、中にはサクラを意識して詠まれた歌もあると思われるが、はっきりしないので数に入れていない。 写真はいずれもヤマザクラ。左は自然分布して自生するもの(吉野郡上北山村)で、万葉時代にはこのような姿ではなかったか。右は吉野山の中千本辺りで、植栽されたもので、万葉当時にこの風景は当てはめられない。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月22日 | 植物

<567> イヌノフグリへのエール

        いまここに あるべき花の あるゆゑは すなはち無事の ゆゑなる証

 今年もあなた方に会えてほっとしている。あなた方をこの池の石垣に見たのは三年前だった。歩いていて何げなく足許を見ていたら、石垣から生え出して小さな花を咲かせていた。あなた方は外来の仲間に棲み処を追われ、いつの間にか道端や草むらから姿を消していた。それが偶然にも三年前の春、この石垣で出会った。

 あのときは、こんなところにエスケープしていたのかと、少しいじらしいような気持ちになり、無事でよかったと思った。あなた方は二年草で、二年が生涯であり、その間に芽吹き、成長し、花を咲かせ、実をつける。その実の中の種によって次の世代にバトンタッチして行くように出来ている。つまり、、二年経つと、何処にあってもあなた方は根こそぎ枯れて一生を終える。言わば、あなた方はそういう一生のシステムによっている植物である。そして、年が巡り、春になると、落としておいた種からまた芽が出て、あなた方は新しい命を育み、ずっとこの命の循環をもって生き継いでゆく。あなた方はそういうシステムによっている植物である。

 極めて小さいものながら、盃のような形をした淡い瑠璃色の花は大切な機能を持った存在である。二年草のあなた方には、花を咲かせることがまず一番の仕事であるということが出来る。私が、今年も見られてほっとしているのは、昨年の夏、外来のアメリカオニアザミが池の周りに生え出し、抜き取るのに合わせて、石垣の草も取り払われ、あなた方の姿を見なくなっていたからである。

                                         

 しかし、あなた方は二年草の特質で、種はすでに石垣の隙間の土の中に取り入れられ、除草が行なわれたときには出番を待つ状態にあった。故に、いつもの年と変わりなく、春になって生え出すことが出来た。これは石垣が堅牢なお陰であるが、このお陰に与かっている限り、あなた方にはそこを棲み処にしていつまでも無事を保っていられるのではないかと思う。

 この池の石垣にあなた方を見かけて三年になるわけであるが、この間に世間ではいろいろな出来事があり、その都度考えさせられて来た。あなた方は窮地に追い込まれながらも懸命に生き継ぎ、こうして居場所を得て、今に至っている。あなた方のように細々ながらも生き継いでいる命があるかと思えば、東日本大震災の津波に飲み込まれて一瞬のうちに命を断たれた陸前高田の松原のような立場にある木々も見て取れる。

 これは運命というよりほかなく、津波の光景は無惨で、なくなってしまった松原には無念が纏うところであるが、翻ってあなた方を思うに、どんなに小さくても命といのは尊く、花はその命を繋いでゆくものであるから、どんなにあっても大切であることが言えて来る。外来に追われ、時の情勢に翻弄されながらも、耐え忍んで生き継いで花を咲かせているあなた方のその小さな花に出会うと、惜しみないエールを送りたい気持ちになる。

 写真は左が池の石垣から生え出し花を咲かせる在来のイヌノフグリ。右はいたるところに見られる外来のオオイヌノフグリ。なお、イヌノフグリは最近激減し、今や大和では希少種にあげられるほど簡単には出会えない花になっている。